イース トリビュート
より 森瀬繚「フェルガナ断章 〜翼を持った少女〜」
ゲーム×出版×Web 魅惑のトライアングルに、綺羅星の如き豪華執筆陣。ここから、ノベライズの“新たな地平”がはじまるーー。
遠き日の追憶
翼が欲しかった。鳥のように力強く風を摑み、どこまでも飛んでいける翼が。
もう二度と、大事な人たちから置いていかれないように。
【現在】 エレナ・ストダート 一七歳
よく手入れされた短剣を何本か見繕い、腰下に手早く巻きつけた二本の剣帯に挿していく。念のため、ブーツの左右にも一本ずつ。
少し考えて、森の中に分け入って獣を狩る時ならばともかく、服装は普段のままで良いだろうと判断したエレナは、白い腰布に素足を通した。
イルバーンズの遺跡に行くには、へたに森の中を突っ切っていくよりも砂利と砂で舗装された街道を使う方が早いし、遺跡の中は石畳が敷かれている。
厚手の木綿とはいえ、腰布は防具としては少々心許ないけれど、彼女の〈能力〉のことを考えると、動きやすさの方をむしろ重視すべきだった。だから、荷物になりそうな細剣も、今日は置いていくことにする。
四肢を衣服や防具で覆い尽くさず、外気に触れておきたかったのだ。その方が、風の流れを直接感じることができるから。
ロムン帝国の属領、フェルガナ地方。
エウロペ亜大陸の北部、グリア地方とガルマン地方の間に位置し、東西を海と山脈に囲まれたこの土地は、エウロぺ亜大陸でもこのあたりの鉱脈にしか見出されない、ラバール鉱と呼ばれる良質の鉄鉱石を産出することで知られている。
最大の鉱山であるティグレーの採石場からほど近い、ヤール川のほとりにあるレドモントという町は、この地方の交易の中心地になっている。
採掘されたラバール鉱は、このレドモントからグルノバという別の町へと運び出され、そこで鉄製品やインゴットに加工されて交易商人たちに買い取られる。
老人たちの記憶にも残らぬ遠い昔から、ラバール鉱脈の存在は決して交通の便が良いとは言えないこの地に富と安定をもたらしてきた。
そのレドモントの町に住む彼女―エレナ・ストダートには、自分もまたその恩恵によって生かされてきたのだという自覚がある。
親を亡くした幼い兄妹を町長のエドガー自らが預かり、我が子同然の扱いで育ててくれるような慈善は、鉱山が稼動している限りは安心して暮らすことができるという、心の余裕のようなものがあってこそだろう。
エレナは、自分の生まれた村を知らない。
五歳だった頃、疫病で全滅したのだという話を聞かされているのだけれど、その頃のことを思い出そうとするといつも、記憶に靄がかかったように曖昧になってしまう。
ただ、住人たちの中に、彼女と兄・チェスターのような金髪の人間がいないという事実は、自分が本当は〈よそ者〉で、苦楽を共にするはずだった家族、両親に置いていかれてしまったのだという負い目のような感情を、彼女に常に意識させた。
チェスターが町外れの小さな家に移ってささやかながらも一家を構えた時、正式に養女になって欲しいというエドガーの申し出を断り、兄について行くことにしたのも、家事についてはからっきしな兄の面倒をみなければという使命感以上に、ひとりきりになってしまうことへの恐怖があったように思う。
今から二年前、十五歳になったエレナは狩猟者の仕事を選んだ。
午前中、星刻教会でシスター・ネルのお手伝いや、教会で預かっている鉱夫の子供たちの面倒を見たりし終えると、彼女は身軽な装備で山や森に入って鳥や獣を狩り、野生の果実や食用になる山菜や木の葉、若芽を採集する。
町で飼われているピッカードたちは、お祭りのような特別日や、獣たちが姿を消す冬に備えた大事な食料だ。日常的に消費される食肉は、山野で確保されている。
そして、元気な男たちの大半が鉱山で働いているレドモントの町では、そうした狩猟や採集の役割を女性が担うことは特に珍しいことでもなかった。
何よりも、少年達にまざって子供の頃からレドモント周辺の山野で遊んでいたエレナには知識も土地勘もあったし、狩人としての力量も群を抜いていた。
新任のピエール神父からは「若い女性が、そんな危ないことを!」とよく小言を言われたけれど、彼女がイルバーンズ遺跡周辺を案内し、そのあたりに生えている薬草のことを細かに教えてあげてからはそれもなくなった。学者肌のあの人らしいと思う。
そんな毎日が、これからもずっと続いていくのだと思っていた。
一年前、このフェルガナ地方を異変が襲うまでは。
かつてない異常気象。凶作と、それによって引き起こされた物価の高騰。
それだけならばまだ良いが、鳥や獣たちのみならず、植物までもが凶暴化し街道を行き交う人を襲うようになった。
最近では物語の中にしか出てこないような魔物までもが出現し、寡占を狙うごくひとにぎりの者たちを除いて、交易商人の足も遠のいてしまった。
人々の心に薄暗い雲のような不安な空気が垂れ込める中、そうした状況を憂えていたエレナの兄、チェスターは置手紙を残して姿を消した。今から半年前のことである。
その兄をイルバーンズの遺跡で見かけたのだと教えてくれたピエール神父が、改めて遺跡に出向いたまま戻ってこないという知らせは、エレナの心を騒がせた。
二つの出来事が、無関係とは思えなかったのだ。
逸る心をつとめて抑えて出立の準備を整えながら、エレナはアドル・クリスティン―幼馴染のドギの友人であるという赤毛の青年のことを考えた。
ティグレーの採石場で事故に遭ったエドガー町長を救い出し、そして今は彼女に先行してイルバーンズの遺跡に向かっている、彼のことを。
お世辞にも筋肉がついているとは言いがたい、ほっそりとした体つき。彼女よりもいくつか年上のはずだが、童顔―というよりも可愛らしい顔立ちはそれを感じさせなかった。
『なよっとした外見に騙されるなよ、こいつは物凄い剣士なんだぜ』
『なよっとしたはないだろう、ドギ』
『見ろよこの細腕。筋肉なんか全然ついてないだろう? だけど、こいつに剣を持たせたらそりゃあもう、凄まじいんだ。俺はこいつを相手にガチでやりあうぐらいなら、熊と真正面から殴りあう方を選ぶね』
『やめろってば、くすぐったいよ』
「でかい男になるため旅に出る」と言って、八年前にレドモントの町を飛び出したドギが、友人の剣士―本人はちょっと恥ずかしそうに「冒険家」と名乗っていた―を連れてひょっこり戻ってきたのは、まだつい数日前のことだ。
でも、あれから色々なことがありすぎて、もうずっと昔からアドルのことを知っていたような気がしている。エレナとドギ、そしてチェスターがいつも一緒だった昔のことを思い出させる、そんな懐かしさを感じていた。
『赤毛の剣士アドル・クリスティンといやあ、西の方じゃちょっとした有名人なんだぜ』
ドギが手放しで他人を褒めるのは、昔も今も変わらない。気難しい兄を含むレドモントの子供たちが皆、ドギを兄貴分として慕ったのは、そういう大らかさに惹かれてのことだ。
だけど、イルバーンズの遺跡に向かおうとして野犬の群れに囲まれた彼女を救ってくれた時、そして船着場で物思いに耽っていた彼女をわざわざ街まで送り届けてくれた時、二度にわたって実際に目の当たりにしたアドルの剣技は、確かに見事なものだった。
ベルハルト師や兄のような正統の剣術ではなく、型のない自然体から繰り出される剣の動きは千変万化。優れた動体視力で敵の動作を見切り、巧みに死角に入り込んで予期せぬ斬撃を見舞う。彼女が知るどんな剣術にも似ていない、それはアドル・クリスティンが数多の実戦の中で摑み取り、磨き上げた彼だけの流法なのだろう。
宿酒場でマーゴ女将の振る舞う土地の名物料理に舌鼓を打ちながら、二人がこれまでに旅してきた場所―西のエステリア、そしてセルセタの樹海のことを、アドルは子供のように瞳をキラキラと輝かせて熱心に話して聞かせてくれた。あの夜は本当に楽しくて、ともすれば暗くなりがちだった町全体が明るくなったようだった。
それにしても、だ。
―別に、わざわざ護衛してくれなくても、自分で何とかしたのにな。
思い出すと、ちょっと口元が緩んでしまう。街道は魔物だらけで危ないから、というのが彼の言い分だったけれど、魔物が横行するその街道を彼女がどうやって身一つで通り抜けてきたのだと思っているのだろう。ひょっとすると彼の目に映っている自分は、か弱い乙女か何かなのかも知れない。
レドモントの街の人たちは、幼い頃から彼女のことをよく知っている。アドルのような反応はひどく新鮮で、だからつい嬉しくなってエスコートを任せてしまった。
久しく忘れていた、誰かに守られるという感覚。それは、エレナがまだ『みそっかす』と呼ばれていた幼い頃の記憶を呼び覚ますものだった。
兄がいて、ドギもいたずっと昔のこと―金髪を男の子のように短く切りそろえ、女物の服を嫌っていつも兄のお下がりを着た、負けん気の強い少女だった頃のことを。