イース トリビュート
より 芝村裕吏「最後の前」
ゲーム×出版×Web 魅惑のトライアングルに、綺羅星の如き豪華執筆陣。ここから、ノベライズの“新たな地平”がはじまるーー。
アドルは酷く揺れる船室の中、少年の日を思い出して椅子に座った足を前後に揺らしていた。行儀が悪いこと甚だしいが、この状況では誰も気にすることがない。それで、存分に足を揺らした。
思いを馳せればという意味で、ほんの少し昔なら威勢のいい少女が腰に手をやって、小さい子じゃないんだからやめなさいと言うだろう。その手には、おたまが握られていて、アドルはそれが妙に好きだった。
さらにもう少しだけ前なら、そう、厳格な祖父が言葉少なく怒っていたろう。
今はもう、怒られたことすら懐かしい。アドルは微笑んで足を揺らすのをやめる。船室の外は荒れ狂う嵐、自分はいつの間にか祖父の年齢を超えていた。数え六三、他人より掛けられる優しい言葉が「若いね」から、「年の割には若いですね」になり、今は「年齢の割にお元気ですね」になっている。
それを悲しむべきとは、アドルは思わない。年を取るのは冒険家として勝ち続けた結果だろう。勝った、勝った、勝ち続けた。
注意して口から出ぬようにしている言葉、「よいしょ」をのみ込み、アドルはゆっくり立ち上がる。低く腰を落とし、緩やかに歩く。視界が斜めなのは年のせいではない。船が傾いている。それどころか、独楽のように船尾が揺れている気がした。渦にのまれようとしているのか、船が前に進んでいない。足下にも水が押し寄せてきている。
傾いているせいでほとんど水平に伸びているように見える階段を上がる。感覚が違和感を増しているが、アドルはそれを無視する。セルセタの樹海を歩くのと同じ。目に頼れば失敗する。
壁に手をつき、手すりに捕まる。一六の頃、同じように揺れる船の中、手すりにしがみついていたことを思い出した。今は無闇にしがみついてはいない。少しだけ成長した気になっていい気になり、ついで苦笑する。いい気になるたび、色々な女に怒られたのではなかったか。
笑いをひっこめ、手すりを頼りに階段を上がりきる。
船室と甲板を遮る、重い樫で作ったドアが引きちぎられ、折れ曲がった基部だけがむなしく揺れていた。こいつはもう駄目だなとアドルは思った。船室に水が注ぎ込むと、次には水をかきださないといけなくなる。船員も乗客も必死に水をかきだす。荷物は捨てる。だが間に合わない。浮力が喪失するのが先か、船の竜骨が折れるのが先かという勝負になる。
まあ、それはいい。アドルは難破慣れしている。女とのつきあいに慣れることはついになさそうだったが、難破は別。一六からこっち、このメドー海では難破慣れしている自信がある。
思いを馳せればという意味で、ほんの少し昔、砂まみれの頰に優しく触れて微笑む少女がいたことを思い出す。それで微笑んだ。嵐が運ぶのは絶望だけじゃないことを、アドルはもう識っている。
吹き荒れる暴風、巨大なうねりをあげる暗い灰色の海。アドルは大粒の雨に打たれながら最後の五歩を落ちるように船尾の操船台にたどり着いた。船の傾きは一層鋭い。手すりにぶら下がりながら舵輪にしがみつく老人を見る。いや、向こうの方がいくつか若いんだっけ。
「どうだい船長」
「アドルさん。すみません。ロムンの都にお連れすることが難しくなりました」
随分控えめな表現だなと感じて、アドルは微笑んだ。雨風に打たれてひきつった笑いになってなければよいのだけれど。
「気にしないでいい。どんな船乗りでも回避不能な大嵐にあうことはある。エウロペとアフロカの間にある、このメドー海の宿命だ。僕も、何度も嵐にあった」
そう言ってなぐさめたが、船長の顔は晴れない。
「流されてしまいましたが、うちの風読みは確かな腕をもっていました」
「残念だ。彼に丸太を投げたかね」
「それはもう」
船から落ちた者めがけ、ロープを結びつけた良く乾いた丸太を投げ入れるのは、広く見られる風習だった。軽くて良く浮かぶ丸太は、おまじないとして船単位で買い求められるのが普通だった。暇な船員はこの丸太をせっせと削り、翼ある女神像にして航海の無事を祈る。
「荷物を全部捨てた方がいいな」
アドルは率先して腰の剣を剣帯や鞘ごと海に投げ入れた。
「伝説の剣だったでしょうに」
船長がそう言った。
「なに、またショートソードからはじめればいいのさ」
元から物に頓着したことはない。アドルは笑ってそう言った。
どっちみち船は沈むだろう。しかしいつ沈むかは重要な問題だ。何度も難破したからわかるのだが、渦の中にのみ込まれるか、のみ込まれないのかは生死にかかわる。
帆を畳んでやることもなくなった船員が荷物を投げ捨てているのが見える。家畜の悲鳴を聞いて悪いことをした気になった。余命幾ばくもない船は少し軽くなり、どうにか前に進み出した。
直後、風雨に交じり巨大な雷が落ちたような音がした。
竜骨が折れたなとアドルは思った。船はもう長くない。さっさと海に落ちて昔の恋人をかたどったような丸太を抱いたほうが生存率は高いのだが、それが出来ずに苦笑した。その丸太は若者を助けるためにあるべきだ。そんなことを言ったら古い友人ドギは何と言って僕をしかるだろうか。それとも背を叩いて、良くやったよお前はと言うだろうか。
嵐の後にはきまって良いお天気がやってくる。
空の青が深い。濡れた砂を枕にして、アドルはそう思った。背が痛い。
日差しは強く、季節が夏を迎えつつあることを思い出す。半ば白い髪の上で塩が勝手に結晶となりつつある。
海猫の鳴き声を聞きながら、生き残ったなあと、アドルはのんびり考えた。今度こそは死んだと思ったのだが冒険家最後のお楽しみ、死者の国はどんなところかを確かめるのは、もう少し後になりそうだ。
結局丸太を抱いたりはしなかったな。一人でも多く、助かってくれればいいのだが。
まったくもう、お人好しだね。そんなんじゃ早死にするんだから。
耳の奥でそう言う声を鮮やかに聞いた気がした。思いを馳せればほんの少し前のこと。面倒くさそうに寝返りを打ってアドルは思う。でも僕はもう六三だよ。君が今いくつかは、僕は数えたりはしない。そんなことをしたら、君はとても怒るだろうから。
冷え切った手足が日光で温まるそれまでは、ずっとこうしていよう。
アドルはそう思った。
初めての冒険でいきなり難破したことを思いだし、苦笑する。ああ、でも、あの時は肘をすりむいて傷口に潮がしみた。動けないことを焦って、このまま死ぬんじゃないかとずっと恐れおののいていた。
やっぱり、少しではあるが僕は成長してるな。アドルはそう思った。冒険の度に経験をどこかに置き忘れてきたと、良くからかわれ、本人としてもいたく気にしていたけれど。結果はほらこの通り。大丈夫。大丈夫。何年も生き延びてこられたじゃないか。
背中を打ったか、痛みに顔をしかめてそう考える。経験を置き忘れても冒険を通じて得た思い出は忘れたことがない。それが僕の、ちょっとした自慢。だからこう、痛くても微笑むべきだし、痛すぎて死んで、たとえ数日後に死体を発見されても、このお爺ちゃん、笑ってるねと言われたい。見栄でしかないが、良く難破して財産を失う冒険家には見栄しかない。
それはそれとして背中が痛い。打っただけではすまないかもしれない。日差しで目がくらむ。目をつぶる。日陰が欲しい。
ちょうどいい具合に日陰が降りてきて、我が意を得たりとアドルは微笑んだ。薄目を開ける。自分をのぞき込んでいる顔が見える。
「今度はどんな美女が僕を助けてくれるかと思っていたんだが」
アドルは微笑んで言った。小さな子供たちをつれた少年だった。この地方では珍しく、黒い巻き毛ではない、赤みのかかった髪をしている。
「にやにや笑って薄気味悪いじいさんだなと思ったけど、口まで悪かったか」
自分の顔を心配そうに見ていた少年は、不意に頰を赤らめて怒りを含んだ様子でそう言った。
元気そうでなにより、ああ、でもその怒った様子は昔会った女にも似てるな。
アドルはそう思って、それで少し笑って大丈夫、立てるさと自分に言い聞かせた。元は少女に対する少年の見栄だった。大丈夫、痛くないよ。このままじっとしていれば回復するからと言っては、涙目のフィーナだのエレナだのをなぐさめたものだった。
今では少女も少年もその時代もほんの少し昔になってしまったが、見栄だけは、第二の天性のようにアドルの中に生き続けている。この見栄が生きている限り、思い出はそんなに昔じゃない。
相手が美女でなくたって、可憐な少女でなくたって、人を前に無様な姿は見せたくない。噂には有翼人のような翼が生えている。噂が飛んで遠い知り合いに聞こえたら悲しい。
ゆっくり起きあがる。少年と子供たちが抱き合って下がる。視界がよろけている。大丈夫。
背中に刺さっていた木片を引き抜き捨てて、痛みに顔をしかめてアドルは笑って見せた。
「難破して、口が悪いと言われたのははじめてだ。坊や、悪いがここがどこか教えてくれないか」