ストーンコールド
第七回 Too Much Love Will Kill You 1
江波光則 Illustration/中央東口
この学校をコロンバイン高校にしてやろう。そう、決めていた。
一
月曜日が来る。
その報せが携帯に、担任から入った。休校明けがいつなのかを機械的に聞いて、俺は通話を切った。
真波は吐いている。
見るなと言ったのに、俺が寝ている隙に好奇心で覗いたらしい。水は相変わらず、流しっぱなしだ。いい加減にしないと水道局から問い合わせが来る。体液は出切ったが腐敗が始まっていて、雅の死体は青黒く、赤黒く膨らみ、おかしな事になっていた。
真波は生理が来た事もあって体調が悪く、何度も何度も吐いた。几帳面に、雅の死体に向かって吐いた。生理じゃなかったら妊娠したのかと思っただろう。
準備はそれなりに整っていた。
雅は、家出をしても不思議じゃない状況を自分から造っていた。このまま死体をどうにかしてしまえば消息不明の家出人になる。そして俺は、雅になる。この名前を借りて、一〇年間を生き延びていける。捜索願すら出したくなくなるような息子に成り果てている。
月曜日が来る。
その日に合わせて、俺は桐雄に連絡を取った。段取りは終わっている。ただ遠くに行けばいいだけだから、桐雄に逃がしてくれと頼む理由はなかった。俺が、自殺した。死んだ。そういう偽装が出来ないかと問い合わせた。
逃がし屋といったって、ただ運ぶだけじゃなく足跡を消す仕事もするんじゃないかと、そう思って訊いただけだ。
「やれるな」
あっさりと桐雄は、電話口でそう応えた。
「遺書でも遺せ。あとは同年代の死体でもありゃな。完全に黒こげにでもして、何となくお前なんじゃないかって感じにするんだが、昨今はDNA検査の精度、増してるし、余計な事しない方がいいかもな」
ここに雅の死体がある。
思ったが、言わなかった。それこそ余計な事でしかなかった。
「……つうか戸籍、手に入れたのか」
「完璧じゃないんで、抜けがあったら指摘して貰いたいって程度ですね」
「ほー。じゃあ俺はお前から儲け損なった訳か」
「違う事を頼むかも知れません」
「何だ? 死体処理とかそんなんじゃねえだろうな」
「まあ、決まったらまた電話します」
「どの程度の戸籍を手に入れたか、見せろよ。アドバイス料くらいは貰いたいね」
「幾らです? 五〇万とかでいいですか?」
「正直、貰いすぎだがくれるってんなら断る理由もない」
「払いますよ。だから完璧にしてください」
その額で恥辱を晒し、その上で殺された、哀れな奴もいる。そう、言いたくなった。雅があれほどまでに落ちている、落ちていくとは思わなかった。薬物依存ですらないのだ。ただ、高くなった生活水準、自分の目線、そういうモノに耐えられなくてあんな真似までして、その上で俺に撃ち殺された。
雅の戸籍も手に入れた。歳も同じ失踪人。五〇万を桐雄に払ったって、俺にはまだ余裕がある。
真波を見る。げっそりとしている。
「……だから見るなって言ったんだよ」
「好奇心に勝てなかった。反省してる」
「もう、吐かないか?」
「大分、馴れた。何回見ても気持ち悪いけど。……どうすんのアレ。臭いとか出始めてるんだけど?」
「どうすっかな。ちょっとずつバラして燃えるゴミに出すか」
「血液みたいなの、無くなっちゃってるし平気じゃないかな」
「時間かかるな。それも厄介だ」
月曜日は、来週だ。あと三日ぐらいしかない。逃がし屋の段取りもある。正直、面倒にはなってきていた。放置して逃げ去りたい。どうせクラスの連中も殺すんだから、ここに死体が一つあったって不思議じゃない。
ただ、雅は失跡した事にしたかった。そうじゃないとせっかく手に入れた諸々が無駄になってしまう。
電話をかけた。
繫がった。
「……死体を跡形もなく処理する方法、知りませんか?」
「いい加減にしろよ、俺を何だと思ってんだよ、お前を殺したいぐらいだよ」
祥一に怒鳴られた。当たり前だ。刑事にする質問ではない。
それでも他に訊く相手を知らない。桐雄にそれを訊くのは、殺人の証人を増やすという事でしかない。密告や通報なんてしないだろうけれど、それでもなるべく、知っている人間は少ない方がいいに決まっていた。
「……まあ死体となりゃスカンクだろうけどな」
何だかんだで祥一はそう、教えてもくれる。そうしないと厄介事が増える、と思ったのかも知れない。どうせなら自分に取ってスムーズに回した方がいい。
「薬物の売人ですか。何でまた」
「あいつは死体が好きなんだよ、理由なんか知らないけど」
「魔術師でしたか、その人」
「大鍋で煮込んでおかしな事にしてんじゃねえかな」
適当な話だった。スカンクだな、と推薦されても、俺は連絡が取れない。警察や、桐雄の女房が探し回ったって見つからない相手なのだ。どんな奴なのかは、少しだけ気になっていた。それは好奇心でしかなかった。
スカンク、と記された、親父のアドレス帳にある番号。
何度かけても留守電だった。
ちょっと試したくなった。
祥一に新しい事を教えて貰ってもいる。
「……死体があるんでどうにかしてください」
そう留守電に吹き込んでおいた。薬物など欲しくはなかった。雅みたいなのを見ていれば、尚更だ。大体、俺はハイにもローにもなりたくない。脳みそを壊す心算もない。酔っぱらう心算もない。おかしくなるのは、真波とのセックスだけで事足りている。
真波は、女としては、大していい体という訳でもない。
もっと上出来な風俗嬢は何人でもいる。風俗嬢なんてやっている割に、真波よりも瑞々しく健康的で豊満な女は、いる。勿論、高い。その金を払えない訳じゃない。そういう相手よりも俺は真波を選んでしまう。事足りてしまう。
貧相で、反応も鈍い女だ。
娯楽としての性交を与えてくれる女じゃない。
それなのに、真波だ。真波だった。他にいないと思えるほどに、俺は真波にのめり込んでいる。思うさま吐き出して吐き捨てて、まだ足りない。
俺は、雅の死体なんかじゃなく、真波をすり潰したいのかも知れなかった。
この手で、俺が。俺一人の手で。誰の手も借りず、挟ませず、一人で。
殺したいという独占欲。
他に渡したくないという、俺だけのモノだという支配欲。
損得抜き、とは思わなかった。俺は、得るべきモノを得られている。真波を貪り尽くす事は、他にない『得』を俺に感じさせていた。
それが、祥一の言うように『殺人』の反動なのか分からない。そうだとしたら、少し残念だな、と思う。それは動揺しているだけの事で、相手は真波でなくてもいいという事になる。目の前にいたから鬱屈した感情を吐き出しているだけで、誰でもいい。それを残念だと、そう思い始めている。
金をくれと、そう真波に言って欲しい。
俺の貯金を奪って逃げてくれたらいい。
そうすれば、その程度だったと、散々やらせて貰ったしなと、納得出来る。真波はそんな事は言わない。俺の貯金を狙ったりもしない。ただ俺と交わっている。何の代価も要求せずにそうしていて、そうしている真波を俺は無視できなくなっていく。
吐き捨てる事が出来なくなっていく。
それとも、これが、真波の復讐か何かなのか。
俺を溺れさせるだけ溺れさせて、不意にいなくなる。それは薬物にハメられた雅と同じ状態にまで、俺を落としてしまうかも知れない。
そんな不安が、どうしても過ぎる。
自分で自分を制御できない。
損得抜きなど殺人だけで充分だった。この上、何かを重ねられたら、俺は死さえ厭わなくなりそうだった。親父との約束。一〇年は生きていろ。それすら、どうでもいいと思えるような感覚。
まだ、ぎりぎりの所で俺は自分を制御している。
本当の、底の底では、真波に依存したりしていない。
それを確認するように真波を陵辱する。生理中でも構いはしなかった。そうやって残酷な、他人を踏みにじるような、相手の都合などお構い無しの発露が、俺に自分を保たせていた。
人が死んでいる。
風呂場には砕けた死体が転がっている。
その風呂場で平然とシャワーを浴びる。
その隣の部屋で真波を陵辱する。
人を二人殺している。
同級生を撃ち殺している。
考えるほどに眩暈がする。深い、暗い、闇の中に引きずり込まれていく。自分でかけた罠を自分で踏み抜くような間抜けな有様だった。振り払うように俺は射精する。何もかも構うものかと中に放つ。俺の人格が歪んでいく。元から歪んでいたものが、更に、酷く、ねじ曲がっていく。
「雪路」
名前を呼ばれる。煩わしい。
「今、生理中だから……」
「黙ってろ」
唇を吸って黙らせる。舌をねじ込んで喋れないようにする。雪路。俺の名を呼んで、真波が何かを言おうとする。何も、聞きたくない。何も喋って欲しくない。真波の声。真波の言葉。それら全てが俺の歪みを加速する。なりたくない自分になっていく。自分を制御する事が出来なくなってしまう。
真波から離れる。
引きずり込まれそうだった。
ベッドの下から銃を引きずり出す。四五口径の銃口を真波の額に押し当てる。
裸のまま、乱れたまま、肌を上気させたまま、真波は自分に突きつけられた銃口を見る。
「殺して」
そう、言われた。
その一言で俺は力を失いそうになる。
「殺して、早く。撃ち殺して。風呂場に転がってるあいつみたいに」
「殺したい。お前を俺の手の中で、握りつぶしたい」
「そうして。潰して」
「出来ない」
「何で?」
「分からない」
「私を捨てて逃げるんでしょ?」
「そうする心算だ」
「だったらいっそ、殺して。死体の処理が面倒だから、しないの?」
「違う」
「だったら、何?」
「言えない」
「言って」
「言えない、俺には」
「それでも、言って」
押すべき時に、真波は、俺を押した。
それで俺は容易く、押し流されてしまう。損得抜きの何かを、また一つ、余計なモノを、俺は自分から抱え込んでしまう。冷静さも計算高さも、あっという間に崩れ去る。どんな事でもしてしまう。コストなど無視して、どれだけでも、頭を下げて縋り付いて、俺はその一言を口にしてしまう。
「愛してる」
「私も」
そう応えてくれた瞬間、銃を放り投げる。
完全に、俺は落ちた。好き放題に陵辱し食らいつくし奪い尽くして、その結果、俺はその言葉を口にして、それを承認されて、それがたまらなく、嬉しかった。背筋を走り抜けた快感は、射精の比ではなかった。
離れられなくなった。
真波を連れて、逃げるしか、なくなった。
荷物で、厄介で、金がかかり、そして邪魔だ。
そういう真波を俺は、吐き捨てて逃げたりなんか出来なくなっていた。
抱き合う。しがみつくようにお互いに力を込める。腰の動きなど必要なかった。生理中の、血塗れの性器に苦労をさせる心算はない。俺が欲しているのは、肉体の快楽じゃなかった。愛してると口にし、私もだと応えてくれる。その快楽が、尋常じゃなかった。
好きなだけ他人に好意をぶつけて、それを容認される。
それは何よりも心地よかった。安心できた。それだけ、俺は弱くなっていた。
他人を好きになる。
異性を愛してしまう。
自分が、そうなってしまう事を、なってしまった後でもまだ、信じられなかった。それでも俺は、真波と抱き合う事に、射精も伴わないその幼いような交わり方に、人生で経験した最大の快楽を感じてしまっている。
俺は、認められたかった。
それは親父に対して持っていた感情だった。
親父が認めるような男になる。そう決めていた。その為にどんな事でも、した。試した。他人を金で踏みにじり、自分自身さえも握りつぶし、その上でまだ足りず、親父に認められるほどの人間だとは思えずに走り続けていたのに。
それなのに。
真波に私も愛していると、そう応えてもらえただけで、俺は全てを擲ってしまいそうになる。親父の事でさえ、どうでも良くなってしまう。
この女を失いたくない。
どれほどの金を支払い、何と引き替えにしてでも、失いたくない。
その為なら何だってする。どんな屈辱にも耐える。
それが錯誤であったとしても構わない。親父に怒鳴られるような間違いであったとしても、俺は真波を握りしめていたい。
俺の心に染みついた、ほんのひとかけらの、錆。
クロムメッキの施されていた、俺の心臓に入り込んだ錆。
その錆を俺は、愛おしいとさえ思っている。
このまま抱き合ったまま、死体の傍で暮らしたい。そうしたって構わないと、そう思っている。真波と抱き合うその時間、至福とさえ言えるその時間を雑音が、邪魔をする。俺の耳に届く、第三者からの介入。邪魔でしかない。雑音としか言いようがない。
その音が、俺をもう一度だけ、冷たく凍り付いた世界に引き戻す。
俺の心臓にクロムメッキをかけ直す。
携帯が、ずっと鳴り響いていた。
それは、俺の知っている番号からの着信だった。
スカンク・バッツ。
その番号からの着信を報せて、俺の携帯が鳴り響き続けている。
既に、深夜だった。
おかしなコントラストの黒人だった。
スカンク・バッツ。
探しても見つからず、その癖ひょいと顔を出す。そんな風に祥一は言っていた。
漆黒の肌に、深紅のスーツを纏っている。髪は黒人の割にストレートの白髪だった。黒くて、赤くて、そして白いコントラストに俺の足りない目玉がちかちかと疲労する。
俺の貧乏くさいアパートの前に、巨大なピックアップトラックが停まっている。
それはいかにも目立つ、どうしようもないほどに人目を引いてしまう車だった。まるで陸の上を走るマッコウクジラみたいな旧式のアメリカ車。こんなモノに乗っているというのに、スカンクは誰にも見つける事が出来ない。
死体とやらに興味がある、と言ってうちまでやってきた。
風呂場にある腐り始めている雅の死体を見るなり、顔を顰めた。
「こんなになる前に連絡が欲しかったもんだな」
「もうダメですか」
「廃車にするしかない。動かしただけでぐずぐずになるな、こりゃ」
どう見てもアフリカン・アメリカンなのに、流暢な、訛りもない日本語でそう話す。
それはちょっと、俺の常識を覆すぐらいには、異様だった。スタイルからして異様な上に、話し言葉まで受け入れられないモノがある。スカンク・バッツという黒人は、そういう人間だった。
「少しは遣えるのかなと思って、来たんだがな」
「処分をお願いできませんか」
「遣い途もない死体を引き取っても、な。車で言えば下取りどころか処分費用を貰わなきゃならん状態だな、こいつは」
「額に依っては、払えます」
「俺は死体を片付ける仕事をしている訳じゃない」
「聞いてますよ、薬物の売人なんですよね?」
「ちょいと今はおとなしくしてるがな。厄介なのが俺をつけ回してる」
「逃がし屋の女房ですか」
「そこまで知ってるなら話は、早いな。流石の俺も身を躱すのに必死だ。ちょっと油断したら食いつかれそうだ」
「それなのに、俺の留守電に反応したんですか」
「死体と聞いたら、な」
「死体の何がそんなに必要なのか分かりませんよ」
「パーツ取りだな。チョッパー精神に無駄な車体はない。とは言え、コイツは少しばかり傷みすぎだ。流用できる車体じゃない」
「金は、払います。何とか処分して貰えませんか?」
「金か。まあ、金は重要だな」
そう言って、スカンクは煙草を咥えて、火を点けた。既製品の売り物じゃなく、手巻きの極太の代物だった。ちょっと歪んでいる。それを吸い、そして灰を、きっちりと携帯灰皿の中に落とす。
香ばしい匂いがして、それは普通の煙草から感じる悪臭とは違っていた。
親父がたまに吸っていた、キューバ産の葉巻を彷彿とさせる。煙草の葉をワインに漬け込んだ代物らしい、と親父は聞きかじりのように言っていた。それは実際、聞きかじりで、小説で読んで知ったのだと笑っていた。
だけど、真波は露骨に顔を顰めている。
この匂いでも、ダメらしい。俺は親父を思い出せるから、受け入れられているのかも知れなかった。それにしたって、雅の腐敗臭よりはよっぽどいい筈だった。スカンクの手巻き煙草は、あの嫌な臭いを俺に忘れさせてくれる。
「……幾ら払ったら、これ、持って行って貰えます?」
「このまま水道で洗い続けていた方が、水道料金だけで済むぐらいの額なら。……骨は流れないし溶けないから、厄介かも知れんが」
「俺はこいつを、ここに、五〇万貸してやる、と言って呼び出しました」
「ほう。それで殺されたか。割に合わないな」
「割に合わない有様になってたんですよ、こいつは」
「それがどうした?」
「その額で、どうですか? それぐらいならすぐ払えます」
本当は一〇〇万だ。そこで誤魔化すぐらいには、俺も立ち回れる。渋ったら、その時こそ一〇〇万の出番だと、そう思っていた。
五〇万、一〇〇万という金は、交渉するのに充分な額だ。
俺の中ではそうなっている。充分というよりも、その範囲内に収めなければならない。かつての、金を無尽蔵とも言えるように遣っていた頃とは違う。
「幾ら貰ったところで、完全にサービスだからな」
スカンクは咥え煙草でそう言って、笑う。
「俺に利益は何も無い。単に金を貰って、死体を始末する」
「金は利益そのものだと思いますけど」
「俺にとっちゃあ、そうじゃない。金に不自由なんてしていないモンでな」
「金持ちですか」
「金の代わりになるモノを扱っている。それは、金なんてモノよりよっぽど自由に遣えて汎用性がある」
「俺には、分かりませんね」
「あいつの息子だからな」
「親父を、知ってるんですか」
「だから俺に連絡できたんだろ。違うのか?」
その通りだった。
親父は、何だってこんなおかしな男の事をアドレス帳に書き留めていたのか。薬物の売買に関わっていた事もあると桐雄は言っていた。それは、俺が見ていない、親父の一面だった。薬物を売買する、という現場を、俺は見せて貰っていない。
「……親父が薬物売買に手を染めていた、って感じしないんですけどね」
「お前の父親は、そんなリスキーで博打みたいな商売はやってなかった」
「じゃあ何で知ってるんです?」
「後ろめたい仕事に関わってりゃ、直接商談がなくたって人脈に加わっちまうもんなんだよ。そういう点じゃ、確かに金ってのは共通言語ではあるな」
「……あなたの日本語、流暢すぎますよ」
「語学は得意だ。この台詞を言うのも飽きてきてるぐらいだな」
得意すぎる。それだけを思った。多分この先、スカンクは死ぬまでその決まり文句のような言葉を、知らない人間に遭うたびに口にする事になるんだろう。
「あいつの事は知りませんか」
「風呂場を向いてるその親指は、何を俺に訊いているんだ、お前は? あんな膨れあがって腐り果てた死体なんぞ見せられても、知り合いかどうかも分からん」
「雅って名前の、俺の同級生ですよ」
「お前らの担任教師になった覚えはないな」
「薬物でハメられて、いい感じになってたから、ここに来てあのザマです」
「薬物なら全部、俺、と思われても困る。業者は山ほどいる」
「俺はあなたしか知りません」
「薬物にハマって滅んだ、というにしちゃ若すぎるな」
「短期間で追い込まれたみたいですよ」
祥一に聞いた、雅の哀れな一週間かそこらをスカンクに説明してやる。面白そうな顔で、スカンクはそれを聞いていた。
「ガキにやる手法じゃないな。それはお前の父親みたいなのにやる、やり方だ」
「金を山ほど持っている。すぐ手放す。そう、思われたからですよ」
「何でまた」
「俺が、捨てるみたいにして金をくれてやったからです。あいつにとっちゃ拾ったみたいな金で、無くなっても惜しくないって金をぽんと遣ったもんだから、まだまだある、と勘違いされた訳ですよ」
結果として俺は、俺が想像していた以上に雅を追い詰めてやっていた。
俺が想像していたのは、光輝程度の腐り方だった。雅のそれは、些か、深すぎる。それもあいつの運が悪かった、という話か。最悪の所で雅は浪費の快感に取り憑かれた。薬物でも、女でもない。浪費だ。遣い潰す事の快楽を雅は覚え込んでしまっていた。
「……死体の始末、引き受けてくれますか?」
「嫌だ、と断ってもいいのかな、それは?」
「銃があります」
「こんな安アパートで撃つ気か?」
「サプレッサー付きの四五口径。雅には二発、撃ち込みましたけど、誰も気にしてませんよ。だから、あなたも撃てる」
「撃ってどうする? 死体が二つに増えるってだけだ」
「足を撃ちます」
「それで?」
「あなたを殺したがってる夫婦を呼ぶ。それをやったら、タダで逃がしてくれるってくらい、あなたを探し回っています」
「その手があったな、そう言えば」
「息子を、雅みたいにされたんじゃ気持ちは分かりますよ」
「俺をそんなのと一緒にするな。俺がやっているのは崇高な実験だ。遣い潰すのが目的じゃない。もう少しで成功、と呼べるような代物になっていたんだが、少しばかり、ピュアに過ぎたな」
「ピュア、ってのは?」
「自分が違うモノに染まっていく。自分の中に違和感がある。それに耐えられない」
「だから後頭部を自分で割ったりもする訳ですか」
「だから親に叩きのめされて入院して、俺の魔法を解いたりもする」
「魔法、ね」
「俺の薬物は、魔法だ」
「そしてあなたは魔術師?」
「そう呼ばれれば嬉しいとは思っている」
銃は、ベッドの下にあるが、箱には入れていない。引き抜いて撃てば、スカンクを逃がしたりはしない。そこまでしなくてもいい、とは思っている。桐雄の手助けは殆どいらない、という所まで来ている。そして桐雄に、何か施そうとも思っていない。
スカンクを捕らえるのは単純な取引だ。
俺を、逃がして欲しい。それに一つ付け加えたい。
真波と一緒に逃げたい。その手筈に幾らかかるのか、分からない。単純に考えたって、一人が二人になるのは手間暇が倍以上かかるのは目に見えていた。俺の貯金が足りるという保証はない。
「……死体の始末なら、あなただ、と言われています。それを断られたら、俺は他にアテもありません。だったら取引に遣います」
「脅しているのか?」
「取引です。商談ですよ、これは」
「俺が大暴れしてお前を倒す、という可能性は?」
「そんな風には見えませんが」
スカンクからは暴力、というモノが一切感じ取れなかった。自分で殴る、なんて姿が想像できない。ひらりと身を躱し、そのまま消えていなくなってしまう。そんなイメージだけが、俺には見えていた。
「ま、確かに暴れるのは性に合わないしやる気もない。ボディバッグに死体を詰めて持ち帰るだけの話だ。金まで貰えるんなら、何も言う事はないし、お前も弾を無駄遣いする必要はない」
「じゃあ、お願いできますか」
「詰めるのはお前がやれ。あんなゴミを押しつけるんだ、そのぐらいはやって貰わなきゃ、困る」
そう言ってスカンクは身を翻す。
そのまま、あのピックアップトラックごと走り去る。そんな可能性は充分にあったのに、俺はそれを考えてもいなかった。スカンクは車に積んであったらしき、黒くて大きな、寝袋みたいなものを抱えて戻ってきた。
「……真波。お前も手伝うか?」
ベッドに腰掛けたままぼんやりしていた真波にそう言うと、我に返った、みたいにこちらを向いた。スカンクのカラーリングで眼をやられていた、みたいな顔。うん、なんて言って立ち上がり、こちらにやってきた。
服を脱いで全裸になって、俺と真波は、スカンクに貰った袋に、雅の残骸を押し込み始める。摑むと、肌が崩れ肉が取れる。殆ど骨みたいなモノしか残らない。まず、それを二人で詰め込んだ。
「……何か煮込みすぎた骨付き肉、って感じ」
「煮ちゃいないが、そんなようなもんだろ。食うか?」
「想像しただけでまた吐きそう」
そんな想像には吐き気を催す癖に、雅の残骸、凄まじい匂いと彩りで蠅の湧いた残骸を素手で摑めている。馴れ、というのはこういうモノだ。目線の高さや世界の広さ、そういうものが変わり、そして元に戻すには凄まじい苦労を伴い苦痛が産まれる。
風呂桶の底が、体液が溜まって流れていかず、黒々とこびりついている。
スカンクの寄越したバッグは、中に入れたモノは液体一滴、外に漏らしたりはしない。全てを放り込んでフタを閉じてしまえば、臭いすらシャットアウトしてしまった。微かに、悪臭が薄まった気分がする。それは、気のせいとして片付けていいだけの変化だった。
風呂場の入り口で、俺らが全裸でやっている作業を、スカンクは眺めながら手巻き煙草を吹かしている。いいご身分だな、とは思ったが、これを始末してくれるというのだから、見物するぐらいは許容したっていい。
「放置しすぎたな。ここを警察が覗いたら、死体がなくたって、あった、って分かる」
「どうにかなりませんか?」
「俺が本職なら、掃除道具もあるんだろうが、残念ながら死体処理業者じゃない。大体、そんな生ゴミを押しつけられて困ってるぐらいだ」
「もっと新鮮なら良かった?」
「それなら幾らでも遣い途があったな」
「例えば?」
「お前の左目を治してやる、とかな」
医師ですら諦めろと言った左目だ。角膜でも移植するのか。それとも、雅の目玉を外して付けるのか。ばかげた発想には違いなかった。ただ、俺の目玉を治してくれる、という考え方はしていなかっただけに気付かされた、という気分でもあった。
左目を奪われた。
それが俺の動機だった。金じゃ解決しないから、命で贖って貰う。単純な発想。例えば、今ここで目玉が再生したとしたら、俺は雅と光輝の二人を殺した事で、満足してしまえる可能性もある。
逃げる必要すらない。
ここでのほほんと暮らしていればいい。
俺みたいなガキが、サプレッサー付きの四五口径を持っている、なんて見せびらかしでもしなければ、誰も知りはしないのだ。雅の死体はスカンクが始末してくれる。失跡人という事で、終わりだ。
「……新鮮な死体があったら、俺の眼を治せる?」
「うちの地元じゃガキでも出来るような、簡単なやり方で、な」
「なるほど」
「何に納得している?」
「逃がし屋よりあなたの方に付いてもいいな、とは思ってますよ」
「取引する気で言った訳じゃないし、俺は俺に降りかかる火の粉ぐらい自分で払える。悪い魔術師を殺そうなんて勇者には、大変な苦労が伴うもんだ」
「怪物満載のダンジョンにでも住んでるんですか?」
「似たようなモノだ」
「死体なら、すぐ造りますよ、俺は」
「それで眼を治して欲しいって話か」
「金なら、幾ばくか払えます」
「そうしてくれるんなら、こいつはサービスで、タダで引き取ってやってもいい」
「タダ、ですか」
「お前の父親が嫌いだった言葉だな」
よく知っているモノだと感心した。親父が、一番嫌いなのが無料という言葉だった。何一つ信用していなかったし、本当にタダでやる、と言われても一円でもいいから払うか、見返りを与えろ、とよく言っていた。
タダに見せかけて油断させる。
本当は別から金を取る。
そうじゃない、本当にタダなんだ、と言われても、心理的な負担が残る。何となくその分だけ見通しを甘くしてしまう。商人としての視界を曇らせ、歪ませる。得な話、ですら自分で誘導し制御した上でなければ親父は信用しなかった。
だから俺は、無理に支払った。
いらない、と言われても金を削った。今の俺には、決して安くはない金額。五〇枚の、一万円札。この部屋にはそれが現金で置いてある。雅に見せてやらなければならない可能性も考えていたし、どちらにせよ現金はある程度は持っていなくちゃならないのだ。
それをスカンクに渡した。
タダ、という言葉が俺の脳内を駆け巡る。それほどまでに俺は、この金を失いたくない。そういう額を渡すから、俺は雅の死体をスカンクに預ける事が出来る。
面白そうにスカンクは受け取って、懐に入れた。
「……大したモンだな。商人の息子って感じはするな」
真波は俺を貴族と言った。
何もしなくても親父が金を稼ぎ、俺に遣わせてくれていた。だから貴族だったんだろう。貴族でありながら俺は、金の価値や遣い方を身につけ、貴族でなくなった今、商人に為り代わっている。そうならなければいけなかった。
「負い目、ってのを造りたくないんですよ」
「それが中々出来ないんだ、人間ってのは」
スカンクは不自然な膨らみ方をしているバッグを担ぎ上げた。殆ど、溶けかけていたからちゃんとした人間の形にならない。液体状にバッグの中を流れ、不自然に溜まり込んでしまう。
「死体が出来たら、連絡しろ」
「連絡が取れなかったら、逃がし屋に付きますよ、俺は」
「そう、遠くないうちにいつかは連絡が取れなくなる。俺もそうそう余裕じゃいられないモノでね。あの二人を敵に回すんだ、俺かあいつらか、どっちかは死ぬさ」
「早いうちにやりますよ」
「そう願いたいね。死体はある分にゃ困らない。日本は平和すぎるな。老いたり病人だったりだけじゃなく、健康体がずばんと命を奪われた、そういうのが本当に欲しいんだ」
そうしてやれる。
クラスメイトをもう一人ばかり殺せばいいだけの事だ。
全員を殺す、というよりまるで楽だった。
「サービスでいい事を教えてやる」
「何ですか」
スカンクが口にしたのは、何処に行ったって手に入るような洗剤の名前だった。
「ありゃ市販していいのかってぐらい強力だ。特に死体処理に最適でな。何リットルか使えば風呂場の痕跡も少しはマシになる」
「魔術師らしくないですね、そういうの」
「原始人に見せたら魔法だと思うだろうよ」
そう言ってスカンクは笑い、それでも気になるなら、風呂場を叩き壊して交換しろ、とも教えてくれた。建築時から設計に入っているような、上等なユニットバスじゃない。無理矢理、部屋の中に小屋を入れたような仮設みたいなユニットバスだ。それほど金もかからないし、壊したからこちらが金を出して交換する、などと言えば大家は喜んで承知するだろう。
スカンクがいなくなり、外のピックアップトラックは車体に似合わない静かなエンジン音で何処かへ走り去ってしまう。
俺は真波を振り返った。
シャワーを浴びて、体中にこびりついていた雅の体液を洗い落としている。それでもこの部屋には、雅の死体が振りまいていた悪臭が染みこんでいて、蠅が鬱陶しく飛び回っている。
真波は裸のままで、ベッドに座っている。
俺が見ているのが不思議だ、という顔で、首を傾げている。
「……次は、聡美を殺す」
「クラス全員じゃなくて?」
「目玉を治してくれる。そう言った」
「そんなの信じてるの?」
「試すぐらいは、丁度いい」
「それで、眼が治ったとしたら?」
「逃げなくていい」
ずっとここにいられる。
お前と。
それは、口にしなかった。出来なかった。がっちりと組まれた強固な壁が、頼りなく崩れ落ちるような錯覚さえ湧いた。俺だけが、逃げる。真波と、逃げる。どちらでも俺は良かった。ここに残る、という選択肢が、不意に真波の存在をあやふやなモノに変化させてしまう。
俺たちは、この部屋で、ここじゃなくてもいい、何処か別の場所でもいい。
逃げる必要もなく、堂々と、かつて人を殺したという過去だけを抱いて、一緒にいられるのだろうかと、そう思った。
立ち止まり、動く必要もなくなって、そうなったら俺は真波を失うような気がした。
「……眼が治るんなら、それはいい事だね」
「いい、事かな」
「逃げるにしたって目立つよ、片目じゃ」
まだ真波は逃げる事を考えている。
そうさせておいた。答えを確かめるのが怖くなって、俺はその話に触れなかった。風呂場をどうしたものか考える事で、自分を誤魔化していた。