ストーンコールド
第五回 Crazy Little Thing Called Love 2
江波光則 Illustration/中央東口
この学校をコロンバイン高校にしてやろう。そう、決めていた。
二
逃がし屋から連絡が入った。
桐雄、という男だ。声の感じではそれなりの歳という気はする。それでも、老いてはいないようだった。
真波がすぐ傍で、裸のまま、コンビニで買い置きして冷蔵庫にあった弁当を温めもせず食べている。うちには電子レンジがない。硬くて冷たい米が好きなのだと、そんな事を言っていた。気にしなかった。
俺たちは四六時中セックスに明け暮れていた。
俺がかつて持っていたやり方も思い出せた。
真波はどんどんと開発されていき、不感症が聞いて呆れる有様になってきていた。一度、余りに声が大きかったのか、壁を思い切り隣室から叩かれた。俺たちは馬鹿にするように笑い合って、おかまい無しに行為を繰り返した。
それが演技なのかどうかは、分からない。
演技じゃないとしても、俺が出させている声なのか、真波が俺を遣って自慰行為をしているだけなのかの区別も付かない。それをはっきりさせたい、と思う程度には、のめり込んでいた。何だかんだ言ったって、溜まるモノは溜まる。
そうしていない、一日の僅かな時間に、俺の携帯が鳴った。
「逃がしてくれる、って聞いてますけど」
「ま、有り体に言えば、そうだな」
苦笑したのが分かった。桐雄というこの男の留守電に、親父の名前と共に、逃がして欲しいと吹き込んでおいた。向こうからかかってくるとは、思わなかった。こちらからかけても、いつも留守電だった。電源が入っていない。
「一日に一回だけ電源を入れる事にしてる。そうじゃないと最近の携帯電話なんてのは居場所を常に報せてるみたいな代物だからな」
「そういう事ですか」
「逃げたいって、何処に?」
「何処に、というより、一〇年、身を潜めていたいと思ってますけど」
「長すぎるな」
「やっぱりそうですか」
「普通に生きていくのにだって一〇年は長い。逃げて、身を潜めながらの一〇年はもっと長い」
「でしょうね。そこまで手配して貰ったら、幾らかかります?」
「数千万までは行かないかな。手筈と場所と、口止め料。そういうのを一〇年。ホテルに一〇年住み続ける、と思えばコストは分かるだろ、何せ、お前はあいつの息子だからな」
「親父の事、やっぱり知ってるんですか」
「あれはあれでお得意様の一人だったよ。最後まで、自分が逃げる、って選択肢は取らなかったのが意外だった」
親父は多分、死ぬ訳でもないのなら、逃げる必要もないと思ったんだろう。
数年、刑務所に入っていればいい。無一文でもどうにだってしてやろう、そういう覚悟があっただろうし、計算も終えていたんだろう。逃げてしまえば、そこで終わりだ。二度と浮かび上がれない。
損切り、という奴だ。
損失を受け入れて、計上する。それが出来ない奴ほど破綻する。
俺は、逃げる。逃げなければ、死ぬ。殺されてしまう。それこそ合法的に、紛う事なき社会正義の名の下で首を吊らなきゃならなくなる。
「一〇年間、逃げる方法、何かありませんか?」
「そうだな。まずぱっと思いつく限りじゃ、戸籍を変える。キレイな戸籍が手に入るかどうかは分からんし、運次第だ。お前、幾つだ?」
「一七。もうじき、八」
「ガキの戸籍はもっとめんどくさいし、高い。……まあ二、三年もすりゃ年齢なんて見た目じゃ分からなくもなるだろうが」
「整形もした方がいいですか」
「そこまでしなくてもいい。太ったり瘦せたり、髪型を変えたり。そんなんでも充分だし、お前の歳なら放っておいても見た目なんかすぐ変わる」
「戸籍を買って、何処か遠くに逃げる?」
「それなら、生活費は普通に働いて稼げばいいし、まず一〇年なら余計なドジ踏まなきゃ、いけると思うぜ、俺は」
「それをお願いしてもいいですか?」
「約束は出来ない。キレイな戸籍なんてそうそう見つからない時の方が多い。何でもいいんなら、そこらのホームレスでもいいんだがな。その辺は、俺も他を当たるしかないし、絶対に紹介できる、とは言い切れない」
「他の方法は?」
「ただ遠くに逃げる。隠れ潜める場所だって知らない訳じゃないが、一〇年は長すぎだ。それとも、そんな金、まだ持ってるのか?」
「三〇〇万に足りないぐらいの金しかありません」
「それじゃ一年ってところだな」
三〇〇万、と口にした瞬間、真波がちょっとだけ反応した。そんな額をまだ俺が持っているとは思わなかったのかも知れない。真波は、自分の家から少しだけ金を持ち出していたし、俺も小銭なら持っていた。
この数日間を過ごすのに、大した金など遣っていない。
そして俺は、もう少しばかり多く持っている。とは言ってもプラス一〇〇万ちょっとだ。こちらの財布の中味をあけすけに言うほど、俺も馬鹿じゃない。
「……で、いつ、逃げたい?」
「そうですね。早い方が」
「こっちの準備が整うまで待てるか? 一ヶ月はかからない」
「それなら、待ちます」
「予算は?」
「出来れば、二〇〇万以内で」
「大抵のモノは買える額だな」
「ちょっとした中古車って値段でお願いしますよ」
真波に、そんな金を渡した事がある。両親を歪めるのに充分な額。数万円程度だったら、真波の親は叱りつけ、怒鳴り散らし、突き返したかも知れない。その桁の金額を、借金苦の人間に渡したら人格など一撃で砕けてしまう。
親父なら、砕けない。
俺だって多分、砕けたりしない。それがはした金だと知っている。
真波の両親は違った。光輝も、そうだった。光輝に至っては五〇万などという金で命さえ失うはめになった。
「中古車なんて一〇万円からでも買える。中にはタダで持ってけって奴までいる」
「その辺のやりとりは学習してませんしね。何なら、同行したいぐらいですよ」
「覚えられても、こっちの稼ぎにならない。学費出すってんなら別だがな」
「そこまで余裕はありませんよ」
「ま、いい。当たるだけ当たってみる。こっちも商売だ」
繫ぎは、出来た。
通話が切れる。
真波は、食べ終えた弁当のゴミを、大きなビニール袋に放り込んでいた。この部屋にはゴミ箱すらなかった。
「……俺には、まだ何百万って程度の金なら、ある」
そう言ってみた。真波は手を洗っている。
「それがどうかした?」
「意外だろ?」
「そのぐらいはあってもおかしくなかったし、雪路」
「あると思っていたか?」
「拳銃、買ったんでしょ?」
「……そう言う訳じゃないが、まあとにかく、ある」
「何が言いたいの?」
「持ち逃げ出来るぞ、なんなら俺を殺して」
「なるほど」
手を洗い終えて、真波は薄汚れた、雑巾みたいになった布で水気を拭いた。余計に汚くなってしまうような布だった。
「それでどうなるの?」
「数百万ありゃ何かは変わるだろ」
「私の親に持って行ったら、満面の笑みだろうと思うよ」
「……お前んちの親、借金幾らあるんだ?」
「わかんない。自己破産も出来ないし、踏み倒しも出来ないのは確か」
「何でまた」
「雇用主に借りてるから。働いていれば返済も出来て、生活できるだけのお金も入ってくるって訳。利息が幾らかも知らないけど、多分、一生働いてもそんな感じだと思う」
「俺の親父は、よくそういう、人の遣い方をしていたもんだ」
「知ってる。巧い事考えるなって感心するくらい。……だから数百万だろうと大して面白い事にはならないと思う。馴れた仕事、離れないだろうし。数億とか数千万とかなら、また違う事考えると思うけど、きっと数百万じゃ贅沢して終わり」
数億や、数千万。
多分、一生、そんなまとまった金を手にしたりは、しない。その方がいい。そんな金があったら、真波の両親はそれこそ破滅する。おかしな事をする。生活水準なんてものはどんなに低くたって、巧く回せているのならそれでいいのだ。
数百万。それが妥当で、丁度いい。自分で払っている意識もない、月々の返済を圧縮しようなんて思うより、くだらない、次は一時の楽しみに遣ってしまうだろう。
それを真波に期待してしまう。
一度は、実際にそういう金を真波は持って行ったのだ。強要しないまでも、いつかまたひょっとして、という期待を持ってしまっているに違いなかった。
「真波、お前、親の事どう思ってる?」
「好きか嫌いかで言うなら、多分、好き」
「それなのにここにいるのか?」
「嫌いになりそうだったから、ちょっと家出してみたって感じ」
「好きになる要素が何処にあるんだよ。育てて貰った恩、ってだけか?」
「楽しい時期だってあったんだよね。それだけ覚えてる。他は、思い出さないようにしてる。楽しいったって、普通の事だけどさ。小さい時に遊園地行ったりとか、そんなん」
俺は、親父が嫌いだと思った事は一度もなかった。
反抗期すらなかったように思う。
そんな意識を抱けなかった。家庭的な面、というモノを親父が持ち合わせていたら、俺の世界は家庭内だけに収まって、反抗していたかも知れない。親父は、恐ろしく広い世界を俺に見せて、連れて歩いた。圧倒されて、自分が小さなモノだとしか思えなくて、反抗なんてする資格がない、とだけ思っていた。
そういう姿も、お袋は面白くなかったのかも知れない。
親父が、規格外で、俺もそうなろうとしている。自分だけが、お袋だけが取り残されて、自分でもくだらないと思う浪費でしかストレスを発散できない。宝石。服。芸能人や有名人の友達。エステ。海外旅行。愛人。どれもこれも、自分一人じゃ手に入っていないという劣等感に一度気付いてしまったら、俺以上にお袋は、自分がみじめでちっぽけなモノに思えただろう。
「数百万とかそんなの持って行ったら、多分、絶対に嫌いになる」
「お前が持ち逃げして、自分のために遣うってのはどうだ?」
「欲しいモノがないって言わなかったっけ、前に」
「お前が処女だった頃か」
「雪路に買って貰った時だね」
あの頃の俺にも、明確に欲しいと思えるモノなんてなかった。金というモノがどれだけの力をどう発揮するのかを、見たかっただけだ。状況と相手によってそれは幾らでも変化する。そしてただコストを削ればいい、というモノでもない。
今の俺には、金がない。金じゃ買えないモノを欲しがっている。
「……ここに俺といる、ってのはお前の欲しいモノじゃないのか?」
「へえ。そんな事言い出すと思わなかった」
「ロマンを感じたんなら、言い方が悪かった」
「だよね。しばらく家出するなら丁度いいなって思ってるだけだよ。多分、うちの親、捜索願出さないと思うし」
「金を持って帰ってくるかも知れないしな」
「間違いなく期待してる。ちょっと最近、困ってる風だったし」
世間の常識からしてもクソみたいな両親に成り下がっている。それでも真波は、そういう両親を嫌いになりそうだったから、という理由で家を出た。光輝が死んだ、殺されたニュースに俺を絡めて。
本当に、俺が殺したかどうかなんて、どうでも良かったんだろう。
俺の親父が捕まって、俺が貧乏になって、そういう俺になら真波は訪ねて来る事が出来た。俺が金持ちのままだったら、家出先になんて選んでいない。その辺の、色ボケしたおっさんや女とやりたいだけの奴なんて、幾らだって探せる。
真波は裸のまま、ベッドに転がって、満たされた腹をさすっている。なるべく俺は避妊していた。真波も、そうそう、経口避妊薬は持っていないだろうし、吞んでいるのも見たことがない。
妊娠した所で知った事か、と割り切るのには抵抗があった。
それが何に起因する心理的な抵抗なのかは、分からなかった。
俺の股間が反応している。俺も、裸のままだった。真波が、溜息混じりに笑った。
「……もうちょっと待って。食べたばっかだし、吐きそう」
「吐かれても困るし、我慢出来ないほどでもないな」
性欲なのか愛情なのか、よく、分からない。真波を連れて逃げる事は、出来ない。俺一人だって逃げられるかどうか分からない。金が、どれだけかかるのか。もし金が間に合ったとしても、一人と二人とじゃコストだけじゃなくリスクだって増えるだろう。
ここに思うさま吐き捨てていく。
そうとだけ決めていた。
真波はそれでいいと言っている。だから、考えはそれだけに留めておいた。
青いBMW。ツーシーター。
運転席に座っているのは、ごつい男だった。こんな繊細でしゃれた車よりもRV車にでも乗っているのが似合う、いい歳の男だった。歳は、外見で判断した。見た目は実年齢よりも、若く見られそうだ。それでも幾つか、と言われれば、四〇近いと俺は見ていた。
結局、同行させて貰っていた。
学費を払う予定はなかったけれど、桐雄というこの男は、面白半分に俺を同行させ、逃走の手段を確保する所を見せてやろう、という気分になった様子だった。
「……いつもは女房と乗ってんだけどな、この車」
夫婦の逃がし屋。そう、聞いていた。
「奥さんはどうしたんですか?」
「火山みたいになってて手が付けられない。仕事どころじゃねえ」
「夫婦喧嘩か何かですか」
「息子がよ。薬物依存でおかしくなっちまって、後頭部を自分で裂いた」
「お子さんですか」
「お前みたいに出来が良くなくてな。クスリなんかに走ったから、俺と女房で叩きのめした。入院ったって逮捕みてえなもんだな」
「自分の子供を叩きのめして入院させた挙げ句、逮捕ですか」
「それしかない。俺も女房も、そう思ったよ。自分の頭、包丁で抉っちまうくらいだ。どうしようもねえよ。それにしたって、放って置きすぎた俺らに責任があるんだけどな」
「……奥さんはそれで怒っている?」
「バカ息子でも大事にしてるからな、一応。何もしてやれなかったって悔やんでる。んで、うちのバカ息子に薬物なんか教えた奴を血眼になって探してる。だから、今は逃がし屋ったって、俺一人でやってるよ」
「……桐雄さんは、その薬物を売ったって奴を探さないんですか?」
「仕事しなきゃ生きていけねえしな。まあ女房も相当なモンだしよ。しばらく、任せておこうと思ってる」
「見つけたら、どうします?」
「殺すね」
あっさりと、そう言った。俺が同級生を殺す、というよりライトな物言いに思えた。そういう世界で生きているんだろう。死んだり、死なせたり。殺したり、殺されたり。そういう世界もある。そこではそれなりの金が回る。とは言え、博打に近い。時給で割るなんて考えたら、大した儲けもない。
親父はそういう世界の事だって、俺に教えてくれていた。
遣うために、利用するためにそういう連中がいる、と言っていた。
「……うちは放置しすぎたって感じするけど、お前は付きっきりで教育された、って感じがするな」
「そんな所ですよ」
「そういう奴が、俺に頼んで一〇年間、逃げたいような事をしでかす訳か」
「損得抜きでやりたい事があったら、やってみろ、と言われてましたから」
「何で一〇年よ?」
「親父が釈放されるまで数年。それから再起するのに数年。一〇年したら、俺が何をしてどう生きてようと、助けてやる。そう言ってました」
「……親の鑑って奴だな、そりゃ。うちも見習いたいぐらいだよ」
「そういうモンですか」
「刑務所入っててよ。息子に平気で『一〇年待ってろ』なんて約束するんだから、相当なモンだ。俺にはそんな度胸ねえな。一〇年後なんて生きてるかどうかも分からない。精々、少しばかり、金を遺してやれるって程度だ。ましてや女房が今やってんのも、仇討ちみたいなモンで、息子を助けてやるってんじゃない」
俺が死んだとして、親父は仇討ちなんかするだろうか。
しない気がする。溜息を一つ吐いて、仕方がないか、と諦める気がする。俺が生きているのなら何とでもするし、どんな事だってするだろう。それは俺の命に対する投資で、返ってくる事を期待できる。死んでしまったのなら、自分の感情、納得の話でしかない。
今の俺のように、損得抜きで、という感覚にはならないと思う。
そういう場所は、とうに通り過ぎてしまっている。うちの親父はそんな人間で、俺だってもう死んでいるのなら、無駄な事はやめろよ、と幽霊にでもなって言うだろう。
そんな事より、親父がまた成功して、再起して、金持ちに戻る。
その方がずっと嬉しかった。
また違う女を見つけて子供を作り、今度は俺みたいにならないようにすればいい。
そうして貰った方が、俺はきっと嬉しいだろうし、納得する。
「……少しばかり当たってみたが、戸籍の線は諦めた方がいいな」
「無かったんですか」
「こういうのは時期とか運の要素が大きい。……まあ、戸籍を変えるだけで済む話なら、俺の仕事なんて殆ど必要ないって話になる」
「じゃあ、他にどう逃げたらいいですか」
「一〇年ってのがな。そこまで明確に区切られると、どうしたもんかなって思う。戸籍も変えられないなら、あれもこれも遣えない、って話だ。外国にでも逃がすかなって考えてる。結構、キツいぞ、そういう国」
「ごちゃついてる国に逃がす、って話ですか」
「そういう国なら管理も適当だしな。アメリカとかイギリスとか、そういう国は期待するな。……アメリカはあれで広すぎて、何とでもなるんだが、金がない、となるとキツい。ロシアでもいいけどな。西の方になると国境すら曖昧だしよ」
「寒くない方が、出来ればいいですけど」
「暑いのも相当なモンだぞ。中近東辺りは宗教絡みがうるさくて面倒だしな」
「知ってます。色々、連れて行って貰ってますから」
「いいね、金持ちは。うちも家族旅行ぐらい、年に一度はしておくんだったな。そうしたら、あのバカ息子もクスリなんかやらなかったかも知れない。……ま、そんなしてても、やってただろうけどな」
「クスリは、俺はやってませんね」
「やりゃ出来ただろうにな、幾らでも」
「意味も分かりませんし、価値も感じませんでしたよ」
「覚える事が山ほどあって、それに熱中してたんだろ、お前。脳みそ、クスリで溶かしてるヒマなんかなかっただろうしな」
その通りだった。
俺には、覚える事が、覚えたいと思う事が山ほどあった。強制された訳じゃなく、それらを覚えて勉強する事は何のストレスも感じなかった。楽しいとさえ思っていた。そんな俺に薬物など、風邪薬くらいのモノしか必要じゃなかった。
「……ま、うちのバカ息子見ただけでも、あんなモンやるこたねえよ」
「多分この先もやりませんよ」
「仮に中毒になってたとしても、お前の親父はもっとスマートに助けるだろうな」
「一〇年後ならそう出来てるでしょうね」
「そんな言葉一つを息子に信用させる。そういう親ってな、俺には眩しく感じるね」
親父を、信用しない。頼りにならない。
それはあり得なかった。俺は、親父よりも凄いと、尊敬できると、そう思える大人なんて他に見たことがなかった。息子の俺にそう思われる親、というのは、世間ではそんなに希有なのだろうか、とも思う。反抗期さえ忘れさせる親。
真波の親は、多分、反抗する気にもならない親なんだろう。
あいつは反抗期よりも先にきっと、親を許す、という境地に至っていた。俺に買われた時にはそうなっていた。そうでなかったら、処女性を金で切り飛ばすなんて事はしなかっただろう。そして今、俺の家に居座ったりもしていない。
何人かの人物を、桐雄は回った。
戸籍がないかの確認だった様子で、そこで交わされる交渉は、俺にとっていい刺激になった。相場は、まだ分からない。例えば、俺は一八になるまで待てば、結婚も出来る。遠い外国の、顔も知らない女と結婚して、その籍に入るという事も可能で、それは金を払えばやれる方法の一つだった。
その口も中々、ない。俺の籍に入りたい、という外国人の女なら余るほどにいた。
若者の、好きに遣える戸籍もない。この歳でホームレスというのもそうそう、いない。秘密裏に殺して死体を始末し、その人物に成り代わる、なんて方法も提案された。それでも良かった。ただ、金がかなりかかる。
巧くやれば一〇〇万円に収まる。
そんな感覚があった。俺の商人としての眼がそう見抜いていた。
戸籍を売る。一〇〇万円以下で。そんな人間もいるのだ。
「勉強になったか?」
桐雄が運転しながら、そう訊いてくる。楽しそうだった。他人のあがく様を楽しむ部分は、かなり大きくて濃いように思えた。つまり、ここが押し所でもある。桐雄はこうやって、面白いからという理由で、俺から金も取らずにこういう現場に引き回している。
桐雄を面白がらせれば、コストを削れそうな気がした。
「金だけが、方法じゃない。そのぐらいは分かってるっぽいな」
「他に切れるカードがちょっと浮かばないなってのはありますね」
例えば、処女性。
真波が切り飛ばした代物。時と場合によってはそんなモノは、一円にだってなりはしない。だが時と場合を巧く選べば、かなりの金にする事だって出来る。
「……スカンクって売人がいる。スカンク・バッツ。黒人の、ドラッグディーラーだ」
「……そうですか」
祥一にその名前を聞かされたのを思いだしている。親父のアドレス帳にも、その名前と連絡先は記載されていた。
「それが、何か?」
「うちのバカ息子を薬物中毒にした張本人だ」
「奥さんが探している相手ですか」
「お前の親父も、そいつから薬物を受け取って回していた。自分じゃ一ミリグラムも摂取しなかっただろうけどな。ただ、お前の親父は、一時期でもそのスカンクって野郎に繫がりがあった。俺にも、女房にも、それはない」
「……俺に、探せって話ですか」
「見つけ出して誘き寄せでもしたら、女房はお前の逃走費用をタダにしてやれって言いかねない。お前は、そういう手段も持ってる。そういう取引なら、俺もかなりの部分、譲歩してやったっていい」
「損得抜き、ですか」
「損得抜きだな」
そういう局面に、桐雄はいる。俺と同じように。
俺に、そんな取引を持ちかけている。俺が心許なく思っている貯金を遣わずに済む方法を提示してくれている。そんな話をしたくて、こうして、車で連れ回してくれているのかも知れなかった。
俺が、クラスの連中を殺したいと思っているように、桐雄とその嫁は、スカンクという薬物の売人を殺したいと思っている。そんな感情を抱くには、少し、歳を取りすぎているような気もした。
俺ぐらいの歳で丁度いい。
このぐらいで一度経験しておかないと、後々、命取りになる。
そういう予感はあった。そして予感など、計算など関係無しに、俺はあの教室を血の海にまみれさせたい。コロンバイン高校のヒット率はかなり低かった。派手だが、そんなに殺せてはいない。その数字を塗り替える。村一つを殲滅させた奴だって、日本にはかつていたのだ。やってやれない事はない。
津山事件。あれもコンプレックスの発露だ。二時間ほどで同じ村の住人、三〇人を殺したという。理由は村中に侮られていたからだ。コロンバインの事件と、根は同じという気はする。俺は、自分の動機がコンプレックスなのかどうかを考えている。
俺から、左目を奪った事に対する、真っ当な請求書。
それはコンプレックスではないと思う。やられたから、やり返す。悔しいからじゃなく、納得がいかない。イーブンにしておきたい。バランス感覚というモノに近かったし、同時にそれはコンプレックスからの反発、という意味にもなるかも知れない。
人を殺そうと、そう思っている。しかも、大量に。歴史に刻まれるほどの人数を。
そういう行為が何を起点に行われるのかを考えておくのは悪くなかった。どのみち、やるにしても準備はまだ、整っていない。考える時間は幾らだってある。
「一〇年、逃げ切る。やっぱり戸籍があった方が楽だな」
「それは手配して貰えませんか?」
「やりたくても、ないものは、ない」
「例えばですけど」
俺は思った事を口にする。そういう事が可能なのかまで考えて。確かめるように。
「俺の同級生を一人、殺す、死体を始末して失跡した事にする。そうしたら、俺はそいつとして生きていけませんか?」
「やれなくはないが、親元にいるんじゃ肝心の戸籍を移せない。移せなくはないんだろうが、面倒だ。一人暮らしの奴ならそれでもいいと思う」
「その辺の手間をお願いしたら、幾らかかります?」
「結構な額になる。その上、弱みを握られる」
段取った人間には、俺が、殺した相手になりすましている事が分かってしまう。
別の問題もある。殺した相手の両親が失跡したと届け出れば、警察は相変わらず俺を追いかける形になる。
難しいものだった。ただ逃げるだけならこんなに面倒でもないんだろう。
親父が約束した一〇年。その期間を逃げ切るのは楽な話じゃない。
真波。
ふと思った。このまま家出をしたという形で、戸籍を俺にくれないだろうか。金を支払ったって、いい。殺す事もない。一〇年間、大病を患わずにいられるかどうか程度だ。俺が女を名乗る違和感も、女だと開き直ってしまえば裸にされて確かめたりもしないだろう。
ただ、真波がどうなるのかと考えると、その気分でもない。
いっそ殺す方が、まだ納得出来る。戸籍を移す。その後、殺す。
真波は殺されたいなんて思っていないだろう。俺だって殺したくない。
もう少しだけ、金があれば。あと二倍、あれば。親父がきれいに一〇〇〇万円ぐらいくれていたら。そういう歯ぎしりするような金の運用が、人をおかしな事にさせてしまう。だからもう、考えないようにした。
「……違う手段もあるんだが、そっちはそっちで問題がある」
「どんな手段です?」
「日本国内の離島に、逃がす。警官が一人しかいねえような島だ」
「それに何の問題があるんですか」
「入ったら二度と出られない。そういう島だ。観光ならともかく、島民になったら、出られない。そういう、逃げ込める場所はある」
「そこでなら働いて食っていけそうですけどね」
「働かなくても食っていける。一〇年で出られる島じゃない代わりに、一生そこでのんびり暮らす事だって出来る」
「……何なんですか、その島」
「本当にどうだっていい島だ。ただ、住人が暮らしているという形にしておかないと、海域の問題が発生するから、だから国が人を定期的に送り込んでいる。借金持ちや犯罪者、そんなもんで溢れかえっている。産業はあるが、基本的には島民が全員、生活保護して貰ってるようなもんだから、何もしなくたって生きていける。代わりに、出られない」
「親父なら、助け出してくれると思います」
「その親父さんの力でもかなり厳しい」
ただ逃げ延びる、生き延びるというなら、その島でもいい。
俺は一〇年後の親父を待たなきゃならない。そういう縛りの上では厄介だった。
「お前が犯罪者だという事も承知で、その島で暮らすならという事で国も手を出さない。仮に島を出たとしたら、お前は犯罪者に逆戻りだ。それは俺にしてみりゃ『逃がしてやった』って感じはしない」
混乱した海外。広い国土を持つ、国の片隅。あるいは日本国内のそんな島。
俺に提示されている選択肢。
どれを選んだっていい。一〇年を生きていられるなら、それでいい。
考えてみるしかなかった。何にせよ答えはあるのだから、どれを選ぶかという話だった。偽装した戸籍も、まだ可能性はある。
俺のボロアパートの前まで、送ってもらった。
「じゃあな。何か決めたら連絡しろ。こっちも何かあったら連絡する」
「分かりました」
そう答えると、青いBMWは走り去っていってしまう。
一〇年、生きていろ。
親父のその言葉は簡単に口にした割には、酷く重い一言だったように俺は思えていた。