ストーンコールド
第四回 Crazy Little Thing Called Love 1
江波光則 Illustration/中央東口
この学校をコロンバイン高校にしてやろう。そう、決めていた。
一
警察が、鬱陶しいほどに目に付いた。
生徒の死体が、脳天を撃ち抜かれて校門に転がっていたんだから、当たり前だ。臨時休校になっていたというのに、生徒はいつまでも帰らないで学校にたむろしている。警官が取り囲むバリケードテープの中には、光輝の血痕が大きく残されていた。
聡美という女が泣きじゃくっているのが目に入る。他の女生徒が慰めている。
あいつに今ここで裸になれ、と言ってやらせるには相当なコストがかかる。そう思った。一年後なら、それほど高くない。一〇年後なら一山幾らだろう。そんな事を考えていた。金がまだ俺に唸っているというなら、彼氏が死んだ、殺された直後の女は幾らで股を開くのか試してみても良かった。
残念ながらそんな金は俺には残されちゃいないし、セックスがしたいというなら他に幾らでも安く済む場所を知っている。
新聞の一面記事になるのに充分な事件だった。
報道陣が生徒に話を訊いたり、警察と接触したり、生中継したりしている。野次馬が、警備をかいくぐってまで携帯を構えて写真を撮影しているのも見える。光輝は全国区の有名人になっていた。
一晩過ぎると、俺の心臓は冷えていく一方で、何ら動揺しなかった。
冷静に色んな事を確認していて、そうするほどに落ち着いた。
誰にも見られていない。深夜の校門前は人通りがなかった。銃声に反応したような動きもなかった。俺は公衆便所に駆け込むまで誰ともすれ違っていないし、便所にも誰もいなかった。
服は、洗ってから、生乾きのままビニールに、コンビニの弁当なんかと混ぜて今朝、捨てた。それはごく普通の可燃ゴミとして処分されるに相応しい、ただの貧乏ったらしい衣服でしかなかった。
俺を徹底的に調べれば、光輝の体液が検出されるのかも知れない。銃を撃った痕跡だって、見つかるだろう。しかし警察は、俺を特定して調べる理由がない。虐められていた、というのも理由にならない。虐めは丁度止まっていた。怨恨の線にしたって、凶器が異常すぎる。
四五口径の銃で撃たれているのだ。
そんな凶器と高校生は結びついたりしない。
銃の入手経路も、誰も分からないし、俺だってそもそも、入手しようと思ってした代物じゃない。偶然の結びつき。俺と、あの将道という男の巡り合わせは本当の偶然で、何の根拠も手がかりもありはしない。
そんな経路で手に入れた銃が、俺に結びつく訳がなかった。
何かに気付くとしたら、あの弾丸を売ってくれた南雲という男ぐらいか。あの北国の田舎にだって、この事件は充分な大きさを持って伝わって響いているに違いなかった。ただ、それを自分から言い出す訳がない。
そう遣ったのかな、と思って、それで終わりだ。
自分が困るだけなんだから、誰だってそうする。南雲はそれを込みで、ああいう代物を売っている男に違いなかった。
他にあるとすれば、祥一だ。
あの刑事はここに来ていなかった。管轄が違うのかも知れない。ずっと探していたが、姿も見えなかった。
あいつなら、俺に目を付けるかも知れない。それでも、それだけの事だ。
どうでもいい高校生一人が撃ち殺された事は、祥一にとって大切な事件とは思えない。
ヘタに俺を突けば、それこそ、あいつがわざわざ守ってやった連中に、今度は迷惑をかけるような話になる。俺だ、と思っていたとしても、高校生が一人死ぬぐらいなら、祥一は取り立てて何もしないと、そう踏んだ。
同級生らも、まさか俺が犯人だ、なんて思わないだろう。
昔の俺ならともかく、俺が今、貧困に喘いでいるのも知っているし、何より、わざわざ虐めが止まったという時にやる理由だって分からない。雅なんか、俺を忘れたみたいになっていた。俺がやったなんて想像もしていない。
俺も、本当なら雅を最初にこうしてやりたかった。
突発的な事故みたいなモノで、それにしては、俺は運にも恵まれていた。誰にも目撃されていない。場所が少し派手だったけれど、それも気にするような事じゃなかった。生徒の死体が校門前に転がっていたから、同級生がやった、なんて話にはならない。なる訳がない。撃ち殺されているのだ。
ここはアメリカじゃないし、この学校はコロンバインでもない。
コロンバイン高校。
有名な乱射事件。思春期をこじらせただけのようなドント・ライク・マンデーよりも俺はそっちの事件の方が好きだった。コンプレックスの塊が破裂したみたいな事件だ。文系の、ひ弱な、日本で言うならオタクとでも揶揄されるような男子生徒が、銃という力で体育会系の連中を撃ち殺した。自作の爆弾を破裂させた。
いじめられていた、奪われ続けていた二人が、債権を回収した。
他に方法はなかったのか、と誰だって言うだろう。
俺は、そんな事は言わない。損得抜きの開放感。それを銃という暴力がもたらしてくれる事を俺は実感として理解している。それは金よりもストレートで、そして頭が悪くて、その分だけ楽しかった。
一撃。
たったの一発。
一センチちょっとの鉛弾。あいつらは、俺の左目しか奪えなかった。ガス圧で発射される六ミリのプラスチックにはそんな力しかない。俺は脳天を撃ち砕いてやった。その圧倒的な力の差は、かつて金を唸るほどに使い続け浪費していた頃よりも背筋に快感が走る。
この学校をコロンバイン高校にしてやろう。
そう、決めていた。
月曜日が嫌いだとかヌカしてライフルで狙撃した女は、何を考えてそんな事を言ったのか。月曜日を嫌ってどうするのだ。月曜日にならなきゃ、あの女は誰も撃てなかったというのに。
しばらく休校になる、という報せは何度も聞いた。何度言ったって、誰も帰りはしない。もしくはいち早く帰って自宅のPCから想像に満ちた話を実体験として、一生徒としてインターネットに放出中かも知れなかった。
要するに、しばらくは日曜日だ。
俺はまたいずれやってくるであろう月曜日を楽しみにしている。
そして俺は、捕まる心算もなかった。二人殺したあたりから死刑が視野に入る。俺みたいな未成年でも最近は容赦がない。クラス一つを壊滅させたら、間違いなく絞首台に登るハメになるに違いなかった。
それでなくても、俺は間違いなく、俺にガスガンを撃っていた連中だけは殺す。
そこは譲れない線でもあった。左目の請求書は、あいつら全員に、均等に額を振り分けて回してやるつもりだった。
仮に、もし俺がここにこうして頭を割って死んで倒れていたら、誰も泣かない。
死体がある、というショックで泣く奴はいても、俺が死んだ事を悲しむ奴なんて、いやしない。俺は、悪なのだ。征伐されるべき悪だ。それは金を失い、親父が刑務所に入ったって、あるいは、だからこそ強く俺にのしかかってきた。正当性という言葉を口にし、俺の左目を奪った事すら開き直っていた。
だから誰かが俺を殺しても、殺された俺が悼まれる事はない。
殺してしまった誰かをみんな慰めるだろう。そうして良かったんだと口にする。でも、少しは軽蔑と距離を置くぐらいの事はしながら、そうとは気付かれないように味方だと囃し立てるんだろう。
俺は、そういう立場で、そういう存在になる事でしか見えない風景を見てきた。
それはいずれ、役に立つ。親父が再起した時に、役に立つ人間になれる。
それまで、俺は誰かに殺される心算もなかったし、国に処刑される心算だってない。
日本で銃なんかそうそう、手に入らない。俺の親父がどんなに金持ちで人脈が広かろうと面倒臭い。そして必ず、手に入れれば何処かに命綱を握られてしまう。あの事件はお前だろうと手繰られてしまう。
不意に、偶然に、予想もしなかった形で転がり込んできた銃にそんな心配はない。
一番厄介で面倒な所を飛び越してしまっている。
将道という男が俺にそうしたのは、意図的なモノなんだろうとも思う。その偶然、断ち切れた、繫がっていない糸、ミッシングリンク。そういう行為になると分かっていて俺に銃をくれた。元、刑事だという。だったら尚更、こんな入手方法がどれだけ捜査を困難にさせるか理解した上での事に決まっていた。
時間は充分にある。
もう一人、クラスの奴を撃ち殺すとする。誰だっていいが、全員殺せなくなった時のために俺をガスガンで撃った奴を優先したい。そしてそうなったら、俺にはもう時間の余裕がない。幾らなんだって不審がられる。だから、次にやる時は一気呵成に遂行しなくちゃならなかった。
そのタイミングは図れる。
俺に捜査の手など伸びてこない。参考程度に、事情聴取ぐらいはあるかも知れないけれど、それは他の奴でも同じ事だ。
それまでに逃げ延びる目処を付けておく。
そのために貯金の残りを、全て吐き出したって構わない。むしろこここそが、金の遣い時で、おれは数百万の金、というモノに不安さえ抱いていた。全盛期の親父の金。お袋が持っていってしまった金さえあったら、俺はもう少し安心していられる。
弾丸を追加で買おうか、とも思った。新幹線代と合わせてまた数万円かかってしまう。その代価で、充分な残弾という安心を買うべきかどうか、迷った。
逃がし屋の夫婦、というのには連絡が付かない。
そちらの算段も終わらせてからでないと、俺はあの学校を日本のコロンバイン高校にする心算はなかった。武器を揃え、殺す、というのは俺の考えるコストとしては、高い。その上で逃げ切るべきだった。
逃げ切れるだろうか、とも思う。
まだ未成年だ。顔写真の公開は容疑が確定した上で無ければおいそれとは出来ない筈だ。
だが俺は、親父の件で顔写真をバラ撒かれている。その俺が一人だけ生きている。金をお袋が持って行って貧乏暮らしだ、なんてのは斟酌されない。殺し屋を雇ったのだ、ぐらいの話を始めかねない。
それに、この眼だ。眼帯をしている少年、左目が不自由な俺、というのは、目立つ。逃げきるには、余計な手間とコストがかかりそうだった。
俺が持っているのは、僅かな現金。
それに四五口径の実銃が一挺。サプレッサー付き。弾丸は五〇に足りない程度。
何とも心許ない。銃器の類を手に入れるのにそれほどの苦労がないアメリカが羨ましい。
それこそコロンバインを真似して爆弾なんてどうかな、と考えながら、俺は帰路に就いた。殺し方なんか、なんだっていい。あんな奴らはどんなやり方だって全員殺せる。バットを振り回すだのといった方法なら難しいかも知れないけれど、四五口径の銃一挺があるなら充分すぎるくらいだった。
俺の住んでいる、粗末なボロアパート。
エアコンもない、饐えた臭いが入った時から消えない部屋。
六畳間で、狭いユニットバス。キッチン込みの間取り。そんなモノは辛いとも思わない。むしろ興味深い。薄い壁の向こうから、女のあえぎ声が聞こえてきたりする。外に出て時間を潰していると、やがて化粧の濃いおばさんがその部屋から出て来る。住人は、肉体労働で日銭を稼いでいるおっさんだ。
そんな中で生活する事を俺はまだ俯瞰していられる。
いつかこれが、水平の高さになり、目線と同じになり、自分の生活だと馴れてしまったら、俺は多分、親父の役には立たない。辛い事や惨めな事を認識しながら、どうとも思わない。そこが大切だった。馴れたから何も感じない、とは決定的に、違う。
それは光輝が拘った面子やプライドともまた、違う。
言葉に、出来ない。感覚的なモノで、直感的なモノだ。言葉にしたいとも思わない。俺は、俺が納得するかどうかだけを大切にしている。その結果が間違っていても、一〇年、その間違いを続けていても、親父はどうにかしてくれるだろう。
金よりも、銃よりも、俺は親父の存在を柱にしている。
親父が二度と出て来ない、死刑になる、というなら、気の持ちようはまた、違うモノになってしまっていたとも思う。
何処で、何を、どういう形で納得するのか。
俺に理解できなかったのは、真波の価値観だけだった。俺は男で、真波は、女。ただそれだけの事でしかない。そして童貞と処女の価値が違うなどというのも、俺が男だから勝手にそう思っているだけの事かも知れなかった。
真っ当な恋愛、というモノを俺は知らない。
知るつもりもない。
それがコストに換算出来るなんて思えない。それは今、俺が抱いているクラス全員への殺意と同じ、損得抜きの感情で、それを高々、行き着く先がセックスの満足度程度では俺はその面倒に納得出来ない。
そんな事を思った。
余計な思考だった。そんな事を考えていたって仕方ないのに、つい、考えた。
俺の、ボロアパートの部屋の前に、真波の小さい体が寄りかかっているのを見たから、そんなくだらない事を考えたりもした。
久しぶりにセックスをした。
そう思った。親父のごたごたがある前から、俺はそんなモノに興味を失っていた。金の無駄遣いだとしか思えなくなっていた。遠ざかっていたから、やり方を忘れたような気分になっていた。真波も、似たようなモノだ。俺がやりたいようにやるのに、ただついてくる。自分から、何かを仕掛けようなんてしていない。
「何をしに来た?」
最初にそう、訊いた。
「別に。あんたがどうしてんのかと思って」
「金なら、ない」
「知ってる。ニュースになったし。それにその、左目」
「これがどうかしたか?」
「イジメられてんでしょ、無茶やったから」
「あいつらも相当、無茶だと思うがな、目玉をガスガンで潰しやがった」
「面白い」
「何が?」
「雪路がそこまで落ちてんのに、顔が変わってないのが、面白い」
「眼帯してるぞ」
「そういうんじゃない。何処まで落ちたって雪路は貴族みたいな顔してる」
「貴族か」
「お金がなくたって、貴族だね、その顔は」
「そうか」
そこまで会話して部屋に連れ込んだ。そのまま服を脱がしながら、強姦するように倒し込んだ。抵抗したら、銃で脅す心算だった。
光輝を殺した銃だと言えば、ガスガンのおもちゃだなどと思わない。
そうやって俺は暴力で、女を屈服させられる。そうしたい、と思うほどに、自分で制御出来ない情欲が、真波を見た途端に溢れかえってきていた。
真波は抵抗もしなかった。ただ、反応もなかった。俺が知っている、思い出せるやり口で真波を追い込んだ所で、真波は声を堪える事が出来ていた。
貧相な体を、全力で追い込んでやった。
汗まみれだ。西日がきつい部屋にはエアコンもない。体液の爆ぜる音だけが響いている。些細な音に違いないのに、それはきっと、薄い壁の向こう、隣室に響いてしまっている。両隣は多分、どちらも留守だ。こんな時間に部屋でくつろげるような仕事はしていない。
「……誰か他のと、やったか?」
「試してみよう、とは思ったんだけどね」
「やってねえのか」
「別に、気持ちよくなかったんだよね、私。不感症なのかな」
「俺しか知らないんなら、俺のやり方が間違っている」
「これって子供造る作業でしょ」
「それがどうした」
「だったら別に、気持ちよくなくてもいいんじゃない?」
「子供は作りたくないけど気持ちいい事はしたい。そう思ってみんなやってる」
「雪路はさ、気持ちがいい訳?」
「男なんてばばあに触られたって気持ちいいように出来てる」
「そうなのか。じゃあ、まあ、良かったね」
自分の体を好き放題にされているというのに、真波は他人事だった。もう、金を俺は持っていない。持っていたとしても、真波に大金をくれてやろうとは思わない。貯金を切り崩すなんて馬鹿馬鹿しい限りだ。
俺は、真波を犯していた。レイプしていた。強奪だ。何の代価も払う心算は、なかった。それを真波は分かっていて、そして俺のしたいようにさせていた。
「……何しに、来たんだよ、お前」
「セックスが何なのか確かめに来た、って言ったら信じる?」
「信じない」
「そりゃそうか。私だってそんな事、確かめられるなんて思ってない」
「じゃあ、何だ?」
「私の知っている唯一の男が、何やってんのかなって思って来た、っていうのはロマンチックすぎるかな」
「馬鹿馬鹿しい事、この上ないな」
「じゃあ……」
「待て」
俺は邪魔されたくない瞬間に達していた。おかまい無しに、真波の中に放った。真波も、少し顔を顰めただけで咎めたりしなかった。ただ、俺が一度離れた後、自分の中から汚いモノを搔き出すように指を使っていたのが少しばかり気に障った。
俺は、収まっていなかった。
真波に口を遣わせる。ヘタクソすぎたから、二、三度こちらから動いてやった。それで勘を摑ませようとする。一度離して、ここを責めろという風に押し当ててやる。
「……俺に、ヤられに来たのか、お前」
「まあ、そうなってもいいかなとは思った。他に知らないし。もう一遍、試してみるには丁度いいし」
「前と比べて、どう思う?」
「前より、情熱的な感じはする」
「情熱的、ね」
「というより、私を壊そうとしてるみたいに見える」
「壊れるのか、お前は?」
「これが一切、効かないんでどうしたもんかなって思ってる」
「そりゃ傷付くな」
「噓つくな」
「ま、傷付く、なんて言い方をしたら、そりゃ噓だ」
そんな事で傷付いたりしない。そういうモノか、と納得する。ただ、俺は真波に金を払っていない。払う気もない。そして真波もそう割り切っている。その納得のされ方が気になった。真波が納得している事が、俺は気に入らない。
「……何をしに、来た?」
「しつこいね、意外と。光輝、殺されたでしょ、撃たれて」
「それがどうした」
「日本中の人が知ってるよ」
「お前の学校でも有名か」
「学校なんか行ってないよ。家で引きこもってる」
「親不孝モンだな」
「ネットで裸晒して売春でもしたらいいのかな」
「お前の親がそれで納得するなら、不幸、なのはお前だな」
「字、違うけどね、それ」
「そこを続けろ」
「……これみんな同じなのかな。雪路だけ?」
「知るか。まあただ、同じ事を他人にやったとして、そいつが嫉妬深かったら、俺の事を訊きだそうとするんだろうな」
「その程度か」
「中々、勘所いいよ、お前」
「つまんないな。私もそうなりたい」
「不感症じゃ仕方ねえな」
「雪路、自分が悪いって言った癖に」
そう言って、笑う。俺も笑った。久しぶりに俺は、他人と笑い合った。そんな気がした。こんな、いじめられていた女と。自分の処女性を金で切り飛ばした女と。俺が、何の気なしに面白半分で買ってやった女と、俺は笑い合っている。
汗まみれで垢まみれになって、肌を触れあわせている。
真波が何をしに来たのか、まるで分からない。考えないようにもしていた。
また、放った。顔にかけてやった。真波はかなり顔を顰めて、ちょっと退いていた。
「これさ、私、おしっこかけられてるのと同じじゃない?」
「他に出す所がない」
「腹の上とかそういうのじゃだめなの」
「いや、たまたまだ」
「お、文字通りだ」
「アホか」
「アホだよ、私は」
「俺だって似たようなもんだけどな」
真波は、顔をティッシュで拭っていた。いつまでも、こびりついたモノが取れない感覚に頰を引き攣らせている。それは、分かる。俺が、光輝の脳髄と血液を顔に浴びた時も、そんな感覚がした。きっちりと拭い取っている筈なのに、幻覚のような堅い、こびりつき続けている感触が消えない。
夜通し、絡み続けた。汗だくになり、体液まみれになって、俺は真波と交わり続け、真波も最後には微かな声を出した。その声を出させた事で、満足感と達成感を得られたようになって、俺はぐったりとして真波から離れる。真波もさすがに限界に来ていた。
アスリートか、俺らは、と自嘲がこみ上げてくる。
「……金、払わないぞ」
「それ、何度も答えたけど、いらない。そこまで言われると、払いたいのかって思う」
「払いたくない」
「だから、いらないって、お金なんか」
「じゃあ何でこんな事、してる」
「さあ。別に、お金取れるようなモンでもないと思うし。教えて貰った分、こっちが払わなきゃならないのかなって思い始めてるぐらい」
「……おかしいな、お前」
「雪路も充分に、おかしい」
「どうも、そうみたいだな。俺はこれが普通なんだけど」
「醒めてる。冷たい。凍ってる。そんな感じ」
「何度言われたか、覚えてない」
「ま、私もきっとそうなんだよ」
「処女膜に値段付けて売り飛ばす女だしな、お前」
「あんなもんで、あんなお金貰って良かったのかな、って今も思うよ」
「いいんだよ、余分に貰う分には、貰い得ってもんだ」
「返せって言われても困るしね」
「返せないだろ」
「うん。お父さんとお母さんが、借金の穴埋めにした」
「足りたのかよ」
「足りなかった。何か申し訳ないなって気分になったし学費のムダだったから、学校も辞めた。家でじっとしてる方がお金かからない」
「お前、その金、なんて説明して渡したんだよ」
「何も言わずに渡した。何も訊かなかったよ、向こうも。その癖、何も知らない癖に、ごめんな、ごめんな、って言って泣いて謝ってた」
「どう思った?」
「事情も知らないのに勝手に謝ってんなーって思った」
「お前も充分、凍ってるよ」
「不感症なんだよ、やっぱり私。セックスだけじゃなくて、心の方から」
「その割にゃ最後、声立ててたな」
「サービス」
「気付かなかった。騙された」
「でもひょっとしたら堪らなくて出た声かもよ」
「どっちだよ」
「教えない」
どっちだって良かった。真波が感じようと感じまいと、知った事か。
俺と同じ、凍った女。醒めきった感情で全てをコストで割り切って、リターンを計算して納得する女が、俺の隣にいる。息も絶え絶えになるまで、交わり続けた。その意味も、代償も求めなかった。それは、俺らみたいな人間にとっては極めて珍しい行為には違いなかった。
真波が金をくれと言ってくれれば良かった。
それに応えられる現金を俺が持っていたら良かった。
どちらも、ない。真波は金を欲しがらない。俺は、金を払わない。だったらこれは何なのだ、と思う。快楽のぶつけ合いか。それにしては疲れ切っている。スポーツ。アスリート競技。そんな言葉が似つかわしい。その癖に爽やかさなんて欠片も無く、部屋には、体臭が、元から饐えた室内の臭いと相まって、悪臭とさえ言えるほどの濃度に達していた。
俺は裸で立ち上がる。窓を開けた。排気ガスまみれの、生ぬるい外の空気ですら、俺には心地よい新鮮な空気に思えた。
振り返ると、ベッドには全裸の真波が死んだように横たわっている。
窓を開けた。誰かに外から見られるかも知れない。そんな事さえ気にしていない。
「……何か、ケモノって感じ」
「まともな人間のやるこっちゃないな」
「私、妊娠しちゃったかな」
「産みたきゃ、産め。俺は責任を取らないし、取れない」
「実は避妊薬、吞んできた」
「何だそりゃ」
「ここで、雪路がこういう事したら、そうなんだろうなって思って来た」
「……何が言いたいんだ、お前」
「こうして寝てると、よく分かるよ。ベッドの下に、箱みたいなモノがある」
「そうか」
俺は溜息を吐いた。熱を帯びた体を、開けた窓から入り込む夜風で、冷ましていく。俺自身は、俺の精神は他人に何度も言われたように熱を帯びていないのに、体は動いた分だけ、熱い。そして多分、そういう動きをする分だけ俺の心にも熱がある。
「……光輝、撃ち殺したの、雪路でしょ」
「そうだ」
「これからどうするの?」
「興味があるのか?」
真波は俺に顔を向け、視線を合わせてきた。瘦せた、貧相な体。それに俺は、思うさま、何の躊躇いもなく強引に性欲を叩き付けた。今からだってそう、出来る。あれほど放ったというのにまだ残弾が装塡されていく。
「ごめん、私がもう無理。さすがに疲れた。結構ヒリヒリしてるし」
「俺だってもうしばらく、ごめんだ。これは意志とは関係ない」
「ならいいけど」
「俺が光輝を殺した。それは認めるよ。そしてこれからも殺す」
「クラスみんなを?」
「出来れば、そうしたい」
「そんな事したら捕まって死刑だよ、間違いなく」
「そうならないように準備してる。やるのは、準備が出来てからだ」
「ふーん。……それまで、私、彼女ヅラしてここにいても、いい?」
「何でだよ?」
「私の最初の男ってのが、どういう末路を辿るのか見たいって言ったら、馬鹿にする?」
「するな。ロマンチックも大概にしろよ」
「何かもう、私、そんなんでいいなって気がしてる」
「……家に引きこもってろよ」
「それも、息が詰まってさ。じわじわ何かに崩されていくの、我慢ならない。どうせなら一気に殺して欲しいぐらい。そういう時に、光輝が撃ち殺されたってニュース、見た。絶対に雪路だと思ったし、そうじゃなくても、まあいいかなって」
「何がいいんだよ」
「もう一回ぐらいセックスしとくのもいい経験かなって」
「アホか」
「だからそうなんだって。頭悪いの、私」
「俺だってそうだって言ったの、思い出したよ」
「どっかに逃げるの?」
「そうする心算では、いる」
「私も連れて行って、って言ったら迷惑?」
「迷惑そのものだ」
「だろうね。ま、気が向いたらでいいよ。部屋の中に閉じこもって、両親に愛想笑いされるのもうんざりだしさ」
もう一度、体を売れ。
真波の両親は遠回しに、言葉にもせず、無言でそう圧力をかけているのかも知れなかった。俺が真波にくれてやった金は、その額は、俺の親父にとってははした金だ。腕時計の代金にすりゃなりはしない。そんな額で、真波の両親は見事に歪む。
自分の娘に体を売れと言いたくて、その癖、善人や真人間の顔も捨てきれなくて、何となく勝手に真波が、自分たちの与り知らない場所でそうしてくれる事を期待している。その下卑た顔は、きっと俺が撃ち殺した光輝とそっくりの顔なんだろう。
クソみたいな小銭でも、押すべき時にその額で押せば人間なんて容易く歪む。
俺はそれを嫌というほど知っていて、そして真波も幾らかは身に沁みて理解している。
一緒にいるには、いい相手なのかも知れなかった。
真波はよろよろと立ち上がって、風呂場に入る。排尿の音が遠慮無しに響く。それから、シャワーを遣う音が響いてきた。
俺は、しぱらく夜風に肌を当ててから、真波の居る風呂場に入り込んだ。