ストーンコールド
第三回 Bohemian Rhapsody 3
江波光則 Illustration/中央東口
この学校をコロンバイン高校にしてやろう。そう、決めていた。
三
プラスチックの板越しに見る親父は、元気そうだった。
「数年だよ、数年。そしたらまたシャバだ。そうなったんだから仕方ない」
そんな風に割り切っていた。相変わらず太っていたけれど、少し瘦せていたのは外見からでも分かったから、数年後にはすっきりした体になって出て来るのかも知れない。
その頃には、親父には何も残っていない。
いい歳だ。また一から積み直すというやり方に関して、何か哲学や方法論を持っているのか、というのも少し気になった。親父は俺に、金の回し方は教えてくれた。作り方も教えるつもりだったのかも知れないけれど、その前にこうなった。
数年待てば、親父と一緒に、俺はそういう仕事を教わるかも知れない。
何もせず待つ心算はなかった。
「左目、どうした? イジメられたか?」
「イジメられたな」
「どんな程度にやられた?」
「医者が言うには、このまま失明する可能性がかなり高い」
「ふーん。金、取れるな」
「向こうも分かってて、その上で払う気はないってよ」
「踏み倒しか」
「踏み倒しだな」
「そりゃ厄介なのに強奪されたもんだな」
そういう形でしか親父は、俺の左目が無くなった、奪われた事を言葉にしない。ひょっとしたら心配しているのかも知れないけれど、そう言われた方がこっちも落ち着く。親父の親心なんて、俺は求めていなかった。
「払い戻させたいと思ってるよ、俺は」
「そりゃそうだ。かといって、無い奴からは金は取れない。払わないと開き直っている奴から金を吐き出させるのは一苦労だ。俺だって賠償金なんか最低限しか払ってない。ま、全部、搔っ攫われちまったからな」
「俺のお袋もやるもんだよな」
「俺の嫁だけの事ァあるよ。別に怒っちゃいない」
「俺も尊敬してるよ」
お袋とはそれほど話さなかった。少し、距離を取られていたのも感じていた。俺と親父の関係性に入り込もうとはしなかった。親父が、まるで自分のコピーを造るように俺を育て上げようとするのに一切、口を挟まなかった。
お前が自分の息子だとは、とても思えない。
面と向かってそう言われたのは、別れの日の事だった。別に、もっと早く言って貰っても良かったのに、とだけ思ったし、何処かでそう思われているのも分かっていた。
気味が悪い。
あの人と同じモノになろうとしている。
その歳でそうなりかけていて、それが歪で、不愉快だ。
そう言われた。俺が何者なのかを、少しは言葉で表現して伝えてくれた。母親だ。ずっと近くで見てきた人間だ。それは真摯に受け止めるべき評価なのだろうと、そう思った。俺をそう罵倒する事で、お袋は資産を全て自分のモノにし、離婚して旧姓に戻る事を正当化しているみたいに見えた。
「生活は?」
「仕送りくらいはしてくれてるよ。それも、高校出るまでの期限付きだ」
「貧乏生活は辛いか?」
「別に」
「金持ちに憧れる奴ってのは、知らないモノを知りたがってるだけなのが多いからな。その点、お前は全部ペロッと味見してる。そりゃ上を見りゃまだまだいるが、ある程度は予想が付く、ぐらいの生活はしてただろうしな」
「残った目玉で色んなモノを冷静に見れてる。そんな気、するな」
「そう出来るように育てたからな。ちょっとやそっとの金じゃオタオタしねえ。雪路、お前はそういう風になってる。少しキッチリやりすぎたかも知れないけどな」
「何でまた?」
「左目潰されても冷静だとは、思わなかったよ」
「冷静じゃない。表に出さないようにしてるだけ」
「それでも充分なもんだよ」
「親父。俺はさ、怒っているよ。左目が失明する可能性が高い。奇跡的に治っても、視力はガタ落ちする。そしてあいつらは、然るべき代金も払おうとしない」
「……どのぐらい怒ってる?」
「損得抜きで」
その単語に親父は少しだけ、顔を反応させた。引き攣った、と言っていい反応だった。
それで伝わっているかどうか、自信がなかった。
見えない銃を右手に翳す。パントマイムのように、弾倉を引き抜く。
「俺はあいつらに代償を支払わせたい」
「俺の所為で、苦労かけるな」
「仕方ねえよ。俺もあいつらには随分、金持ちヅラして来たんだ」
「面白かっただろ」
「興味深かった。人間は、多分、状況次第で数万円で人も殺すと思う」
「億単位でも、状況次第じゃ殺さない時は、殺さないもんだ」
物騒な話をするので、立ち合いの係官みたいな人がこちらを睨んでいる。俺の手は、見えない弾倉から一つずつ、片手で、見えない弾丸を弾き飛ばしていた。指を所在なげに動かしている、という風にしか見えない筈だった。
親父にどう見られているかが問題だった。
見えない弾丸が一つ、プラスチックの壁を飛び越えて親父の前に転がっていく。それを親父は、指で摘むようにした。何もない空中で、親指と人差し指を擦り合わせている。そうとしか、見えない。
通じている。
「それでどうする? どうしたい、お前は?」
「親父は、そういう時に守ってくれるって言ってた気がしたから、会いに来た」
「やってやりたいが、俺は塀の中だ。そしてついでに、金もない」
「言いたかっただけだよ。相談ってほどの事でもない。愚痴かな、こういうのって」
「愚痴を聞いて貰うってだけでも、金がかかる世の中だ。俺はお前の親父だからタダで聞いてやってる」
「誰か、頼れる人、いない?」
「お前をイジメから救ってやれる奴か」
そういう言い方を親父はした。イジメられているから何とかしたい、という話にすり替えていた。それで係官の耳を誤魔化している。それでも、親父の手の中には、俺が放り投げた見えない弾丸がしっかりと残っている。
「金はまだあるのか?」
「貯金があるよ。少し減ったけど」
「あれを保険にして遣わなかったってのは、正解だな。ちゃんとした保険なんてのは入ってなかった。ありゃ貧乏人の不安に付け込んだ詐欺だ。まさかお前を貧乏人にしちまうとは、思ってなかったのは迂闊だったかな」
仮に保険に入っていたとしても、多分、お袋の口座に振り込まれてしまう。
入っていなくて、正解だ。お袋はその金を俺にくれたりはしないだろう。その代わり、俺は似たような額を保持していた。笑えるのは、実際に目玉を一つ、潰されたとしても、支払われる額がやはり数百万程度という偶然だった。
目玉一つで、数百万。割に合わない額だった。
「雪路、お前はいい選択をしたよ」
「運が良かった、って感じもする」
「いや。ああいうのを遣わずにいられる精神を持ってる。そう、なっちまってる。そこが一番肝心だ。金持ちの悩みは、子供にハングリー精神って奴をどう叩き込むかだからな。あの金を何かに遣って、仮にお前が一〇〇倍にして返してきても、俺はやっぱダメか、って思っただろうな」
遣うな、と言われた訳じゃない。
増やせ、と命じられたのでもない。
あれは俺の直感だった。自分の放蕩ぶりを数字にしてみせた親父の意表を突くにはどうしたらいいか。それだけの事だったように思う。飢える、というのは別に底辺に落ちなくたって経験できる。馴れてしまえば底辺だって水準になってしまう。
どれだけの高さを落ちるか。
落下の高度を経験するのがハングリー精神というモノだった。犬に、お預けを覚えさせるのではなく、犬が自分から覚えようとした。俺は自分から落下したのだ。他人と比較してどっちがより貧乏か、などという話ではない。一ヶ月間の屈辱と蔑みを、十数万の金で納得出来てしまう人間など俺は幾らだって知っている。
そして今の貧乏暮らしも、別に苦とは思っていない。
それでも本当の辛さは理解していないだろうとも自覚している。働いていない。仕送りで暮らしている。働き始め、金がなくなり、本当に目の前の小銭に不当な思いで頭を下げているうちに、俺はそれが当たり前になってしまうのかも知れない。
親父が使っていた連中と同じメンタリティ。
世界は幾らでも狭く出来る。小さく握りつぶせてしまう。片目を失い視野を狭め、遠近感を失う事も厭わずに、目玉一つを数百万で売り払う人間は多い。
「……もう一度だけ、言うが、俺は数年で出られる。そうしたらまた、再起する。そういう時に、お前が使い物になって傍にいてくれたらいいな、とは思っている。俺が二人いる。そんなのは、俺の夢みたいなもんだったからな」
「お袋はそれが気味が悪い、って言ってたよ」
「あいつは所詮、俺の金に群がってきた中で一番マシだった、って程度の女だ。だから資産を全部かすめ取ったりも出来る。俺の目は間違っちゃいなかった。当のお前が、どう感じているかの方が、俺は気になるね」
「もう一遍、違う人生でもやり直すか、もうちょい歳取らなきゃわかんないね」
「それも、そうか」
「今は債権回収の方法を教わりに来ている」
「そうだったな」
親父は手を開いた。弾丸は、落ちては来ない。そこには何も無い。元から、何も無かったのに、俺は落ちてくるのを期待していた。
「俺のアドレス帳をお前に預けた筈だ」
「警察に持って行かれたな」
「返して貰っただろ」
「まだだな」
「じゃあ、返して貰え。あんなモノはもう、何の役にも立たない。俺は刑が確定してここにいる。上告なんか面倒だし金のムダだったから、していない」
「そのアドレス帳の中に、俺をイジメから救ってくれる人がいる?」
「警察に言うなら、佐々木ってのに言え。多分、あいつが持ってる。返ってきてないって事はかすめ取られてる。役にも立たないってのに、そういうのをめざとく持って行く。そういう刑事だ、そいつは」
佐々木という男の所属を教えて貰った。
「使い方も、そいつに教えて貰え。そういう風に使える刑事だ」
その男に相談しても良かった。それは真っ当な話だ。イジメられています。目まで潰されました。暴行傷害事件です、と泣きつくのが正解だ。それじゃ俺の貸した金、投資した金は返ってこない。
そして親父だってそれを勧めたりはしない。
俺のやりたいことに利用しろ、とそっちを勧めてくる。そして俺は、それに従う。
「親父の出所祝いはしてやれないかも知れない」
「そんなモノは期待しちゃいない。何せ、無一文の前科持ちだからな」
「生きているかどうかも、怪しい」
「誰だってそうだ。俺だって塀の中で首を吊ったり殺されたりするかも知れない」
また、係官が反応した。そりゃそうだろう。
少し親父はそれを面白がっている、という気もした。
「出るのに、数年。それからまた数年かかるかな、俺が再起するのに」
「それまで生きてりゃいい?」
「そうだな。目玉どころか手足がなくなってもいいから、生き延びてろ。そうすりゃ、俺は直接、お前を救ってやれる。守ってやる事が出来る」
それをモチベーションにして再起する。
そう言っているようにも聞こえる。
親父は自分の分身を欲しがっていた。それはパートナーであり、唯一信用出来るという相手を欲していたのだと今になって思う。誰も信用するな、とは言ったが、信用出来る、という相手が居るのなら、それは悪い事じゃない。
親父は俺を好きだろうし、俺も親父の事は好きだった。
もう少し大きく強くなれれば、俺は逆に親父を助けて、守ってやる事だって出来る。
早くそうなれ、といつも親父は、俺に期待していたのだ。
だからそれに、俺は必死で応えようとしていた。
損得抜きでやりたい、という事が一つ、出来てしまった。これを抱え込んで黙っていたら、俺は多分、親父の横には並べない。不合理でハイリスクで、恐らく、何の数字としての見返りもない行為を俺はやろうとしている。
やっておくべきなのだ。
俺がどれだけ一人前になろうと、俺はここで爆発する経験を経なければ、その分だけ親父に後れを取り、そして足を引っ張る事になるような、そんな気がした。
面会を終えて、立ち上がる。
親父が係官に連れて行かれる。
「雪路」
最後に俺の名前を呼んだ。
「要するに、一〇年は生きてろって事だ。どんなに惨めでも悪くても、俺は責めやしねえよ」
「むしろ、褒められるように過ごす心算で居る」
親父は笑った。それだけでもう俺は、褒められた気になっていた。
四五口径弾が欲しい。
直接、刑事に、警察署内で言うのは躊躇われた。
佐々木という刑事は『ミスがありました』みたいな顔で、俺に親父のアドレス帳を渡して来た。使い方も教われ、と親父は言っていたが、そうする心算は今のところ、無かった。ただぺらぺらと開いて中を見回している。
PCにも携帯にも登録せず、手書きで書き留められた番号と名前の羅列。
それは親父の、表に出せない人脈には違いなかった。そしてそれを平然と隠し持っていた佐々木というのも、真っ当な刑事ではないというのが分かる。捜査に遣っていたのなら、このアドレス帳に書いてある連中は軒並みいなくなって使い物にはならない。そんなモノを、佐々木が持っていると知っていて、親父がこれを見ろと言う訳がなかった。
むしろ佐々木は、これを守っていたんじゃないかという可能性すらある。
個人的に抜き取り、保管し、このアドレス帳の中身を公にしなかった。
利用できる刑事。
イジメ相談に行ける、相談に乗ってくれる、という意味じゃない。
親父のような人間がそう評価する刑事が、佐々木だった。
「……何で捨てなかったんですか、これ?」
「押収物を勝手に捨てたりはしない」
佐々木の名前と電話番号もアドレス帳にはしっかりと記入してある。それだけで、佐々木が自ら破棄したっていいぐらいの代物だ。
それでも、俺が渡せと言えば、素直に返してくる。
「あんたに遣い方を訊け、って親父は言ってました」
「どう遣いたいんだよ」
「それはまだ、訊く気はありません」
「そうか。こっちもばたばたとして忙しいからな。面倒にならなきゃありがたい」
煙草を咥えて、火を点けた。
嗅ぎ馴れない煙草の匂いが俺の鼻孔を刺激する。親父は煙草を吸わなかった。酒も、それほど吞まなかった。葉巻をたまに吹かしていたのは覚えている。
ふと、俺にベレッタをくれた男の事を思い出す。
元、刑事だと言っていた。だからと言って佐々木が知っている人間とは限らない。同じ高校生だからと言って、よその学校にいる生徒の名前を知っているかと言ったら、それは無茶な話だ。
元刑事が、傷まみれで、手首を折られ、死のうとしていた。
それはそれなりに大きな事件なのかも知れないのに、報道は全く、されていない。それとも生き延びたのだろうか。あのまま誰かがとどめを刺しに来なくたって、夜明けまでには勝手に死んでしまうような有様にも思えた。
「……将道、って刑事の事、知ってますか?」
ぴくり、と佐々木の顔が引き攣った。ほんの僅か、微かに。それはよくよく観察しなければ分からないほどの変化だった。俺が注意して見ていたから、気付いた。俺は、物事を口にする時、相手の顔色というモノを必ず観察する。
親父に教わったことだ。
ポーカーフェイスをまず崩す。その為にみんな苦労する。崩されないように、過剰に真逆の演技をして三味線を弾く事だってある。表情や顔そのものの造形から得られる直感は当たっている事が多いし、致命的に間違う事だって多い。
それを見抜けるようになれ、と言っていた。
佐々木は今、間違いなく、動揺を隠し切れていなかった。
「名前だけなら幾らでもいるだろうよ。俺は刑事の名簿を丸暗記する趣味はない」
「そうですか」
「何で、そんな名前を口にする?」
「して欲しくなかったですか」
「お前の親父を逮捕したのは俺でもないし、将道なんて奴でもない」
「関わるな、と」
「流石に話が早いな。そういうこった。あいつのガキとは言え、よくそんなになれるな。どういう育てられ方してんだよ」
「一〇〇〇万円」
「何だと?」
「いきなり一〇〇〇万円、貰ったら、どうします?」
「キャバクラででけえ顔して、余ったら博打に突っ込んで全部溶かす」
「そういう使い方は想像しなかった」
「いきなり、ってのがな。そういうのはあっという間に使い切らなきゃ未練が残る。形が残るモノを買ってもダメだ。その後の人生がオカしくなる。今までやってなかった事をしても、ダメだな。そもそも額も中途半端だ」
不意に、真波を思い出した。
俺が金で買った、買う事になってしまった女。
あいつはその日その一回限りでしか得られない処女性というモノに高額な値札を付け、それを面白がって買う俺に適切に売り込んだ。そしてその金は丸ごと、親にくれてやって自主退学した。
あいつも、真波も、そう思っていたのかも知れない。
一円でも遣っちゃいけないという金。人生を歪める中途半端な大金。
「俺は、貯金して、一切手を付けませんでしたよ、そういう金に」
「そんなもん遣わなくても贅沢出来ただろ、お前は」
「それからは人並みの金しか貰えなかった」
「いきなりそうなっても、貯金には手を付けなかった?」
「そういう事です。そして、今でもまだ残っています、その金」
俺にはそれなりに金がある。そう伝えておく事は、間違ってない気がした。幾ら親父の名前を出したって、貧乏人だと思われればどうしようもない。俺に協力する事で金が発生する。そう認識させておく。
「……なるほどな。大体、どんなか分かってきたよ」
「俺には、まだ金がある。小銭みたいなもんですけど、それで動く人間なんて山ほどいるでしょうし、俺の頼みもその額を逸脱したりはしないと思います」
「やれやれだな。その歳でその台詞言って、説得力があるガキが、あいつの息子か。お前みたいに凍ってる奴があの会社継いでたら、また随分と色んなのが首くくったり死んだりしてたんだろうな」
他にあるというなら他に行けばいい。
やりたくないのなら、やらなくていい。
親父は不満を述べる連中にそう言っていた。不満と言ったって、どれも俺には言いがかりにしか聞こえなかった。例えば原価五〇円のモノを、一〇〇〇円で売る。それを詐欺だと喚き立てるような連中だった。
それは必要があってそうなった数字だ。
それでもみんな納得して買う。それを買う人間が居るから、様々な人間に差額は行き渡る。そういうモノを見もしないでただ原価との差額だけを暴き立てる馬鹿共ばかりがいて、そんな連中を親父は相手にもしていなかった。
「……左目なくして、粗末な服着て、垢じみてよ。それでもその金遣う時ァ、遣い時を見極めるってか。筋金入りだな、お前」
「雪路です」
「知ってるよ。俺は祥一だ。お前の事をそこらのガキだなんて思わない事にする」
「俺も祥一さんを刑事だなんて思わない事にしますよ」
「最初からそんな心算ねえだろ」
祥一は溜息を吐いた。咥え煙草のままで、吐く息は紫煙だった。
「ハイドラ、ってバケモン、知ってるか?」
「ゲームで見ました。頭がたくさんある蛇ですよね。切ってもすぐまた生えてくる」
「世の中、そんなもんでな。雪路、お前の親父は間違いなく頭の一つだった」
「切ってもまた生えてきますか」
「だから世の中には警察が必要だし、俺らも仕事にゃあぶれない」
生えてこなくなるようにはしない。傷口を焼かずに、放っておく。するとハイドラという蛇は、また斬られた頭を再生する。そんなバケモノだった。どこかの神話に出て来るという蛇だった。
「……将道は」
言いかけて、祥一は止めた。その話をしたくないと自分で言ったのに、つい、口に出してしまった、という後悔が見えた。俺も別に、詳しく聞こうとは思わなかった。ただ、一つだけ気にはなっていた。
「死んだんですか?」
それだけ言った。
祥一は煙草を一息、吸った。
「頭をブチ抜かれて死んだ。死体は海の底だろうな」
「そうですか」
「何で、あいつの事を知ってる?」
「教えたくありませんし、知らない方がいいと思います」
「お前がそう言うなら、訊かないままでいるよ」
俺は眺めていたアドレス帳を閉じて、机の上に置いた。
名前と番号だけしかない。どんな相手なのか見当も付かない。ただ、この手帳にわざわざ別に書いているのだから、どいつもこいつも真っ当な商談相手ではない筈だった。
「もう一遍、訊きます。何でコレ、捨てなかったんです?」
「わざわざ繫げてくれてんだ。持ってりゃ何かの役に立つかと思ってな」
「一つ一つは祥一さんもご存じの名前と番号ですか」
「まあこっちは警察だからな。天下の桜田門だ。分からなくたって調べられる。ああ、あいつか、なんてのばっかりだけどよ。それが一冊に収められてるって事は、繫がってた、って事でな。俺の立ち回り方も変わってくる」
「それを返せって言われて、返すんですか」
「一度見りゃ充分だ。人脈図ってだけだしよ。あとは誰にも見られないようにしときゃ、俺が他の奴より優位に立てる」
「仮に俺が、何かしでかして捕まったりして、これが別人の手に渡ったら?」
「そういうのは先に知ってた奴が勝つんだよ」
四五口径の、弾丸。
口に出しかけて、やっぱり止めた。ストレートにすぎる。胸襟を開いているように見せて、祥一は何も見せていない。誰も、信用しない。ましてや、俺は祥一に、一円の金も払っていない。何の役にも立っていない。
俺は金を持っている。
それ目当てで祥一が開放的になっているのとも、また違う。
「密輸業者が誰か、教えてください」
「何だと?」
「この中で、普通じゃ手に入らないモノを扱っている人です」
「何を買う気だよ」
「戦車でも買おうと思ってます」
「アホか。モノに依るって言ってんだよ。薬物ならコイツ、銃ならコイツ、女ならコレ、ってのが道分かれしてる」
「女なんかどこででも買えそうですけどね」
「特殊な性癖ってのを持ち合わせている厄介なのが、この世にゃ多いんだよ」
「祥一さんは普通ですか」
「俺はキャバクラ嬢口説くのが一番楽しいね」
口説く、というのが楽しいとは俺には思えなかった。その先にあるのはセックスでしかないのだから、風俗にでも行った方が早い。金を積めばいい。金を惜しんでやりたい事も出来ないのならストレスしかない。
その辺りの事は、俺には理解できない。
同級生や、同じ学校の先輩や後輩。そんなのでもいいが、恋愛というモノに俺は価値を見いだせない。でもそれが、俺が抱いている左目を潰された怒り、と同じだというなら、少しは分かる。
ただ、そんなに損得抜きの感情をあいつらは頻発させていて、よく平気だな、と思う。
アクセルだけを踏んでハンドルから手を離しているようなモノだ。やがて蛇行し、どこかへ突っ込んでいくに決まっている。慌ててもブレーキすらかけられない。アクセルをただ緩めるぐらいしか出来なくて、そんなのは遠からず破滅するに決まっていた。
「全部教えてください」
「一つずつか」
「面倒ですか」
「そりゃそうだ。当たり前だ。親父に訊けよ」
「なんでここまで教えてくれたんです? 俺の小銭目当てですか?」
違う、と思った。多分、祥一は親父に何か握られている。暴露されたくない事を、だ。そしてそれは、このアドレス帳に祥一の番号が収められている事からも分かる。遠回しに親父は祥一に圧力をかけている。
それは些細な圧力だ。祥一がその気になればどうにでも出来る。
ただ、面倒臭い。俺の面倒を見るぐらいで済むならいいか、という妥協を引き出す。殺すと言っているのではない。大金を請求しているのでもない。親父が俺に教えられない事を代わりに説明してやってくれ、というだけの頼み事。
そして祥一は妥協する。
親父はまだ充分、他人を操って利用出来ていた。金など遣わず。信用や信頼でもなく。そういうモノを持っているから、再起なんて簡単に口にも出来る。もう一度、蛇の頭になる自信が、確実なモノが親父の中には残っている。
煙草を揉み消して、祥一は椅子の背もたれに体重を預けた。
諦めた顔をしている。
「薬物が欲しいんなら、スカンク。暴力団に用事なら地域にも依るが、この辺りじゃ竜胆。銃の類が欲しいんなら南雲、女関係も趣味に依るけど、まあ手広くやってる網代木かね。戦車が欲しいんならモンゴルにでも行け。あそこならハリアーだって売ってる」
「モンゴルに裏から入ろうと思ったら?」
「だったら桐雄んとこの夫婦かね」
「夫婦?」
「逃がし屋やってる。まあ何人も犯罪者逃がされてよ、こっちも何度か痛い目見たって夫婦だよ」
「捕まえないんですか」
「それどころか守ってやってるぐらいだよ、そのアドレス帳」
何度か痛い目を見ているのに、逮捕しない。その理由は、親父が祥一にここまで喋らせているのと似たような理由なのかも知れない。ここに書き込まれているのは全員、恐らく、犯罪者だ。それなのに祥一は逮捕しない。他の誰にもさせない、という姿勢さえ取っている。その事が、ここに名前の書かれた全員に対しての支払いにもなっている。
持ちつ持たれつで、お互いがお互いのシッポを握って中立の和を保たせている。
逃がし屋に反応したのは、祥一の目を眩ませる為でもあった。俺が何処かに、秘密裏に逃げたがっている。それをまず考えさせる。冷静になって調べれば、そんな必要はない、と気付くだろうけれど、撒き餌を遣うのも損ではない。
それに必要と言えば、必要な情報でもあった。
気が済むまで全員を撃ち殺した、その後。
俺は逃げる心算でいた。親父が言うには一〇年。一〇年間を逃げ切ってみよう、とそう目安が出来た。永久に逃げ隠れしている訳じゃなくて一〇年だけだ。そう思えば、少しは気持ちも楽になる。
イジメられた末に、イジメていた連中を撃ち殺して逮捕。
そんなハメになるよりも、逃亡生活を一〇年続ける方が楽しそうだった。
祥一に聞いた名前と、その名前に対する用件、何を頼む時に誰に頼めばいいかを記憶して、俺は席を立った。取調室は開放的な造りになっていたけれど、先入観でもあるのか、どうにも息苦しい。
「……雪路。お前が何、おっぱじめる気か知らないけどよ。俺を悩ませるような真似、すんなよ。これでもこっちゃあ大分サービスしてやってんだ」
帰ろうとした俺に、祥一がそう呟いて、新しい煙草に火を点けた。
「いざってなりゃお前を遠慮なく捕まえる」
「その辺の天秤は巧くやれる自信ありますよ」
「だろうけどよ。本来、お前はそういう奴で、そのぐらい見極められるってのも理解してる。ただ所詮、ガキだからな。向こう見ずに何かしでかしそうな雰囲気ってのは漏れるし、こっちだって分かる。散々、そういうガキに引っ張り回された事だってあるんだ」
いい勘をしているな、とは思った。
祥一に迷惑をかけるとすれば、このアドレス帳の連中に迷惑をかける、という意味にもなるんだろう。そっちに関しては、心配がいらなかった。そんな心算はまるでない。真っ当に商談をして、真っ当にサービスを受ける。当たり前の事だ。
俺を虐めていた連中、あのクラスの馬鹿共が大口径の拳銃で八つ裂きにされる。
祥一に迷惑がかかりそうには、俺には思えなかった。
クラスの奴らは、潮が退くみたいに俺に近づかなくなった。
目を潰したのはやりすぎだ、という話になったみたいで、そうなると俺がいつ、訴え出るかも分からず、私はやってない俺じゃない、というように競い合って距離を取っていた。大変、有り難い話だった。
煩わしくない。
それだけでいい。こっちは目玉一つの上に金まで払っているのだ。
雅はどうか知らないが、光輝は金を早速、遣っていた。首回りにごついシルバーネックレスが巻き付いている。それが高い代物なのは知っていた。あの手のモノは全てデザイン料なので安いか高いかの価値観は人による。メキシコにでも行けば銀なんか馬鹿みたいに安い。
俺はレプリカでもいいとは思う。光輝は、思わない。というか『ホンモノ』という優越感が欲しいんだろう。それを手にした事がなくて、手にした事で他人より上に立てる、と思っているからだ。
幾らでも買える、という、いつかの俺の立場は、所詮デザインなのだからレプリカでもいいんじゃないか、という価値観を植え付けていた。
拾ったような金だ。祥一は、そういう金はさっさと溶かす、と言っていた。
形にした分だけ、光輝はそこに囚われる。
つまり見えている世界を広げてしまう。次に例えば、ブレスレットを買うとする。その時に、安物を買えなくなってしまう。無理をしてでも高いモノを買ってバランスを取ろうとしたりする。
組まなくてもいいローンを組み、背負わなくてもいい借金を背負う。
それを知っているから、祥一はひとときのあぶく銭として浪費すると言った。
雅は、目立った遣い方をしていない。あいつも浪費を選んだのか、それとも、俺みたいに貯金か。五〇万という些細な額は、貯金したところであいつの柱になり得るのだろうか。俺はレートが違っていたが、多分、置かれている立場は同じだ。
あれも出来る。
これも買える。
そう出来るのに、そうしない。それに耐える。そんな事を自分に課す事が出来たのは、俺の場合、親父が細かくつけていた書類の効果が大きい。俺がいかに浪費していたのかを事細かく見せられたのが効いた。
雅にはそんなモノはなさそうだった。
好きに遣える金を、この歳のガキにしては多めに拾った。
その誘惑に耐えられるとは、俺は微塵も思っていない。
俺はあの金で二人の人間、雅と光輝を納得させた。あの二人に、このクラス全体の、俺に対する直接的な悪意の発露を止めさせた。
次の出方を窺う。
俺が耐えきれなかったから、金を出した。そう思っている。確かに間違っちゃいないが、俺は時間が少しばかり欲しかっただけだ。あいつらは、金を使い切ったらもう一度俺に対して号令をかけるかも知れない。
その頃には俺の眼帯も見慣れたモノになってしまっていて、あいつらに歯止めをかけるほどの効果はないだろう。そうして俺を痛めつけて、金をせびる。間違いなく、そうする。金を遣う事の万能感は、人をおかしくさせる。
自分に、遣える金を遣う事を禁じさせた俺は、その苦しみを知っている。
必要のない贅沢ですら、馴れた頃には手放せない必須のモノとなっているのだ。他人からしたら何だそんなもの、我慢しろ、と言われるような事だ。そして卑しくなっていく。それこそ一円でも欲しくなってくる。数千円、辺りでもう大抵の事はする。
そのうち、また俺に対する虐待が始まるだろう事は分かっていた。
今度は金欲しさだ。社会正義も何も空虚な、ただの恐喝。そうする事に、雅も光輝も躊躇わなくなっているだろう。
全身のシルバーアクセサリーを同じブランドで揃えたい。
その程度の理由で、あいつらは人を幾らでも追い込めるようになってしまう。分不相応なアクセサリー一つで人生を変えてしまう。
俺は準備を進めていた。
逃がし屋は捕まらなかった。そちらは後回しでも良かったから、気にしなかった。一度、俺の親父が捕まっている事もあって番号が通じない可能性があるのも理解している。祥一が保護しているとは言え、祥一を信じ切って何もしないというのも甘い話だ。
南雲、という男には繫がった。
銃の類なら、という紹介だったから、四五口径弾をカートンで頼んだ。すぐに用意出来るが、取りに来い、と言われた。かなり遠い場所に南雲は住んでいる。俺は、休日を使ってそこに向かう事にしていたし、その段取りも整えた。
新幹線で向かわなければ一日じゃ済まない、という距離だった。
俺はまた少しだけ貯金を切り崩す。
新幹線代なんて物でさえ神経質になる。そういう感覚を、俺は金持ちの子供として産まれながら持っている。そう感じ取れるようになっていた。金の価値という物が、必ずしも額面通りじゃない事を分かっている。
誰かにとってはどうでもいいような一万円札が、違う誰かにとっては人を殺す動機にだってなり得るのだ。俺は、それを手触りだけでも理解している。本当に理解できるのは、これからなのかも知れない。それを少し、楽しみにさえしている。
田舎町だった。北国、と言っていい街だ。俺はその街を歩き回る必要はなかった。相手はもう駅に来ていて、駅の便所で受け渡しをやった。田舎町の駅だ。新幹線が止まると言ったってそう大きくはなく、公衆便所も寂れていて古ぼけていた。
ワンカートン五〇発。三万円。かなりボラれているのは分かっていたが、他に入手方法もない。原価で商売は出来ない。リスク込みなら尚のことだ。そのぐらいが妥当だとも俺は納得していた。
言っても高々、三万円だ。
五〇発もあればクラス全員を皆殺しにしても余る。それを三万円でいいというのだから、安いと思えるぐらいだ。この弾丸を秘密裏に輸入して保管し、供給する。その手間賃だって考えれば妥当だ。実弾ならどんな銃にでも入る、という訳じゃない。四五口径はそれなりに汎用性のある弾だったけれど、万能じゃない。多種多様な弾を用意しておかなければ、需要には応えられないのだ。
街に長く留まる心算はなかった。
駅前の、大して旨くもないラーメン屋で腹を満たし、そのままとんぼ返りをする心算だったけれど、思い直して、バスに乗り、山の麓で降りてそのまま、山中に分け入って行った。まだ麓が近いところでは、墓場なんかが並んでいて、それもなくなり人の手が入っていない奥まで、汗を流して歩いていく。
バッグから、ベレッタを取り出した。
弾が合わない、という可能性がある。そうしたら、まだ返品は利く。弾は同じ物だと見ただけで分かったから、その心配はなかった。事前に銃の名前も伝えてある。
二発、込めた。スライド操作で一発稼ぐ。
ベレッタ・クーガーの四五口径。それで九発の装弾数は満たされる。
ジェルの入った手袋を塡める。しばらくぶりだから、素手で撃つと衝撃がキツそうだった。この手の手袋なんかは、何処ででも買える。
思い切り発砲した。サプレッサーを外して、一度撃ってもみた。鳥が驚いて飛び立つ。山奥に銃声が反響して木霊したのに俺が驚いた。昔、海外で撃った時もそうだったのだけれど、あの時はもっと開けていたし、法的に問題がないというのが俺の警戒心を発揮させなかった。
今はこの物音に身を竦めている。
慌てて、サプレッサーをもう一度、装着して撃つ。的にしていた木の幹は、白く樹肌を炸裂させて弾けてしまっていた。
九発撃ちきると、スライドが開いたまま停止した。
弾倉を抜き取り、カートンからまた弾を取り出して、込める。それは撃たなかった。サプレッサーを外し弾倉も込めないまま、箱に戻してバッグに収める。ジェル入りの手袋も外してバッグに収めた。
気が済んだ。
俺は、このベレッタをちゃんと扱えている。
この場にドラム缶を被ったおっさんが現れたって、俺は楽しめる。移動する先々でドラム缶を撃ち鳴らしてびびらせてやれる。足など、狙わない。
弾だけならもっとある、と言われていた。
もう一度撃ちきっても良かったけれど、満足していた。
残り、四〇発と少し。
三〇人にも満たないクラスの連中を皆殺しにするのに充分だった。試し撃ちだって、今、気が済むまで終わらせている。
空薬莢を全部拾い集めた。
木の幹に食い込んでいる弾頭もナイフでほじくり出し、手に収め、しまい込む。
明後日の方向に跳んでいった弾頭については、探せないし、気にしたって仕方がない。銃を撃った、という形跡を無くすために、ナイフで木の幹を削り続け、日が暮れるまでそれはかかった。意外に、奥深くまで食い込んでいる。四五口径はポピュラーに浸透しているサイズにしては、対人対物どちらに関しても少しばかり大袈裟に過ぎる。
九ミリ弾辺りが丁度良かった。リコイルショックも少ない。
俺が貰った拳銃が四五口径だったから、遣っている。それだけだ。自分で選べるのなら、こんな大袈裟な銃など買ってはいない。
これで脳天のど真ん中にでも当てれば、頭の半分が破裂する。
その派手さは嫌いじゃなかった。
派手にあいつらの体を叩き壊してやりたい。
俺の左目は、傷口をちゃんと見ればそれなりに派手に壊されている。同じ事を、あいつらの手足や脳天でしてやりたかった。
新幹線に乗り、地元に帰る頃には、深夜になっていた。
家に帰ろうとして、ふと、道を変えた。
何となく、そういう気分になったのは、後ろに妙な気配を感じたからだった。それは武道の達人が持っているような気配を察する、なんてご大層なモノじゃなく、誰だって、当たり前の人間ならば感じ取れるほど露骨な『尾行』だった。
俺を偶然見かけて、まごまごしたまま、ついてくる。ただそれだけで、向こうも尾行なんて思っていないだろう。
どうしたものかと迷いながら、くっついてくる。
俺を追いかけている。
縋り付くような悲しささえ感じた。俺を頼りたい、という感情。
光輝だ。
俺とただ、距離を空けて、同じ道を歩いてくる。
俺は自分の家に帰る道ではなく大きく迂回する道を辿り、自分の通う校舎の前まで来た。校門のところで、ぴたりと足を止めて、バッグを降ろした。中に手を突っ込み、箱を開け、弾倉を摑みベレッタに装塡し、手袋を片手に塡めてグリップを握る。
そこで光輝が俺の前に立った。もう少し時間をくれれば、左手に手袋を塡めてサプレッサーだって装着できたものを。片手撃ちは自信がない。
光輝は疲れ切った顔をしている。
目の下にくまが浮かんでいる。それが街灯の明かりに照らされて、より強調されて俺の、一つだけになった網膜に浮かび上がっている。周囲に、他に、人の気配はない。車さえ通りかかる様子はなく、雑音は、一つもなかった。
「なあ、雪路。金、まだあるんだろ?」
「ねえよ」
「噓、つくなよ、あるんだろ? 明日、持って来いよ」
「もう払っただろ、お前には。どうしたんだ、あの金?」
「パチンコに突っ込んじまってよ」
「どんだけ入れたんだよ」
「一日、五万ずつ、とんとん抜かれたよ。あり得ねえだろ、あの店、どうかしてんよ」
どうかしているのはお前だ。
そう言いたかった。
俺の右手は、バッグの中にある。そんな事を光輝は気にしていない。
「毎日、五万。どんなに突っ込んでも、出やしない。ちょっとは出るけど、雀の涙だ」
「それが博打だよ。そんなもんで金、稼ごうなんてオカしいんじゃねえのか、お前」
「金、いるんだよ」
「そのネックレス、また買うのか?」
「女に、指輪買ってやるって約束しちまった」
「縁日でも待てよ。千円札一枚で買えるぜ」
「同じブランドのをやるって約束したんだよ」
「お前の女ってあれか、聡美か」
地味な女だった。それだけに、高いモノを買ってやるなんて約束されたら、喜ぶのかも知れない。本当は、縁日でプラスチックの宝石らしきものが入った指輪でも、聡美は喜んだんだろう。突然、金回りの良くなった彼氏におかしな期待をしてしまった。そして彼氏の光輝は、その期待に応えなきゃ面子が立たなくなった。
俺のやった、金。
たかだか五〇万程度の金。それが、男女関係なんてたやすくおかしくさせる。
光輝の金銭感覚を狂わせる。
たった一言、聡美に、自分の彼女に『金がなくなっちまった、ごめん』と言えば収まるモノを、そう出来なくさせてしまっている。
面子。
プライド。
自尊心。
どれもこれも金にもならない。コストをかけるだけ無駄な代物。そんなモノにこいつらは何もかもを賭けてしまう。パチンコで、目減りした金を補塡しようなんてばかげた事さえ考えてしまう。
「土下座、しろよ」
「何だと?」
「頭を下げて、這いつくばれよ。俺の靴を舐めろ。全裸になってここで踊り狂え。俺はそれを携帯のカメラに収める。そしてみんなに配ってやる。プリントアウトして掲示板に貼りだしてやるよ。それでいいってんなら、お前に五〇万、もう一度、やったっていい」
「……ふざけてんのか、この野郎」
「真面目に言ってるよ、俺は。これは商談だ。お前が納得するかどうかだ」
真波は納得した。
俺が撮影したあいつの痴態をどう遣おうとどこにバラまこうと好きにすればいい、とそう言っていたのを思い出す。そういう約束で俺は、真波が納得する、要求する金を支払ってやった。
「納得する訳ねえだろ、ふざけんなよ」
光輝のその言いぐさは勝手な我が儘にしか聞こえなかった。俺がつい、真顔で説教してやろうかとさえ思ったほどだ。
「じゃあ、働け。五〇〇〇円のバイトだって一〇〇回もすりゃ五〇万だ。一万円の日当を見つければ、半分で済む。俺に這いつくばる必要なんか、ない」
「……調子に乗ってんじゃねえぞ、また、みんなにイジメられてえのか」
「やだね。ありゃ、気分が悪い。俺の気持ちをおかしくさせる」
「もう一遍、そうしてやろうか? 幾らだって煽れるぞ、俺は」
「脅しか?」
「脅しだよ。金、持って来い。無いならお袋から貰え。お前のお袋、金持ってんだろ」
「五〇万くれ、なんて言ったらそこまで落ちたのかって笑われるぐらい持ってるな」
「じゃあ、そうしろよ。土下座して這いつくばるのは、お前だ」
「何で俺がそんな事を、しなきゃならない?」
「イジメられたくねえだろ? 辛いだろ?」
「辛いね」
「じゃあ……」
銃声が、その言葉を引きちぎった。もう、うんざりだった。金の遣い方も知らない、不意に拾った大金に舞い上がっている馬鹿の会話に付き合うのも飽きていた。お前は、光輝は、何も分かっていない。働いて対価として得た訳でもない、拾ったような金がどれだけ厄介な呪いを撒き散らすのかを何も知らない。だからパチンコなんてしょうもない博打に突っ込んで、残った金を全部、吸い上げられてしまう。そんな事をしなければ、聡美が喜ぶようなモノを買ってやれただろう。光輝は、それで金を使い切るのに我慢がならなかったのだ。
あと五万。あと一〇万。
そんなはした金で光輝は俺を脅す。約束を破る。商談を破棄する。
バッグの中でスライド装塡は終えていた。安全装置も外した。
その音を、光輝は気にしていなかった。何なのかさえ分かってなかった。
理解する前に、俺はバッグから出したベレッタを光輝に向けていた。それが銃だと認識させるよりも早く、俺は引き金を引き絞っている。銃口が跳ねた。分かっていたから、射出の瞬間まで手首に力を込めていた。
四五口径の弾丸。
四五ACP。俺が大枚と言える額で買った弾丸。光輝はそれ以上の額を、アホみたいに回るだけのパチンコの液晶画面を眺める代金として支払った。
片手撃ちでも外さない距離だった。
低い姿勢から撃ったから、光輝の顎から斜めに、弾丸は脳天に突き抜けた。火山が爆発するみたいに。弾痕よりも遥かに大きく、光輝の脳天は真上に炸裂して脳の中身を周囲にバラ撒いた。ふらりと力を失って、光輝が後ろに倒れていく。俺は、俺の全身に飛び散った、不快極まりない光輝の脳髄と血液を、顔の分だけでも拭おうとした。
吐き気がこみ上げてくる。
堪えた。
ここに俺のDNAを残す気はない。空薬莢もちゃんと拾った。
校門の前で、その学校の生徒が脳天を砕かれて死んでいる。その状況に、俺の犯行声明を加える心算はなかった。
血に濡れた、光輝のネックレスが見える。
鎖だけの、ヘッドもついていないネックレス。鎖そのものに彫刻が施されていて、太くて、ヘッドなどなくたって存在感がある。俺は左手にも手袋をして、それを外しポケットに入れた。回収できるモノは残さず回収する。使用済みの中古で汚れてしまっている代物は、五〇万のうちの、一〇万というところか。赤字はまだ九〇万残っていたが、光輝の脳天に四〇万ぐらいは払ったって良かった。
どうせ財布には金は残っていないだろうから、中身は見なかった。ポケットから引き抜いて放り投げておいた。物取りみたいに見せる。それにしちゃ派手すぎるが、何も分からないよりかはいい。納得させる材料さえあれば人はとりあえず納得する。
校門の真ん前に転がった射殺死体。酷く目立つ。
銃声が響いてかなり経つけれど、周囲は静かなままだった。
俺は、その現場に背中を向けた。走って逃げ出そうとも思わなかったし、激しい運動をしたら吐き気に耐えられなくなりそうだった。随分離れた所で公衆便所を見つけて、漸くそこに全てを吐き出して、そして跡形もなく流してしまえていた。
家に帰って、寝て、起きて、登校する。
その頃には世界は様変わりしている。
それを想像すると、俺は吐瀉物の味が残る口で微かに笑う。
全てを吐いてしまうと、何の後悔も残っていない。
俺の心は凍ったままだ。どんなモノにだって侵食される事はない。
俺の心臓は相変わらず凍り付いていて、そしてクロムメッキがかけられたように、決して錆びる事も、腐る事もなかった。