ストーンコールド
第二回 Bohemian Rhapsody 2
江波光則 Illustration/中央東口
この学校をコロンバイン高校にしてやろう。そう、決めていた。
二
俺が登校してきたのを見て、俺の目玉にガスガンの弾をぶちこんだ奴らがホッとしたのが分かった。眼帯なんかしているけれど、大した事はなかったんだろうという顔。つまり、支払いはしなくて良かったという安堵の表情だ。
俺は訴える事も出来る。
幾ら、親父が犯罪者として処罰されようが、どんな数の人間に恨まれていようが、息子の俺には関係ないし、そもそも親父本人の目玉をぶち抜いたって犯罪だ。この国じゃ何をやらかそうが人権だけは剝奪されない。
実際、そのぐらいの事は考えていた。
今はもう、考えていない。
俺には、銃がある。人を殺せる力がある。偶然手に入れた力。
それは、金があった時のように俺を安心させ、余裕さえ抱かせる。
いつだってこいつらを殺せる、と思えば、何をさせられようが気にならなかった。恒例の炭酸飲料のペットボトル一気吞みやら、顔面へのラクガキやら、何だって気にならなかった。
それが少し、不思議でもある。
人間というのは、何か芯になるもの、手段を持っていれば大概の事には耐えられるモノだな、と冷静にそう思った。それはおかしな錯覚や視野狭窄だって構いはしないのだ。例えば誰か、この人だけは友達だ、と勝手に信じていたり、ここじゃない何処かに行けば助かるんだとか、あとちょっとの我慢だ、とかそんなばかげた、見通しの甘い判断で命の自転車操業を続けていける。
それを失った人間から破滅していく。
周囲が少しずつそれを奪い取っていく。
そして俺の場合は、親父のやった事をみんなが知っていて、その一件が周囲に、俺を虐待する事に正当性を与え正義という名前のまやかしを遂行させる。法律すら踏み越えさせて、どこまでも暴走していく。
何ら対抗手段を持たなかった時の俺は、よく耐えられたモノだと感心さえしている。
俺の凍った心、老成した心は、自分さえ他人事と割り切っていた。
子供の頃から親父に叩き込まれた考え方。
誰も信用するな。損得だけで考えろ。その冷徹な計算の思考が俺を救っていた。自分に与えられるモノを『損益』と解釈させ、どこで取り戻したらいいのかな、なんてぼんやり考えさせていて、それが俺を恐慌に陥らせずにいた。
今は、違う。
俺の心は熱を帯び、与えられる恥辱や屈辱、暴力に敏感に反応する。
その上で耐えられる。
金があったのなら、誰か、それこそやくざみたいな連中を動かす事で、俺に敵対する相手など粉々に出来た。そういう手段を奪われた。お袋が、世間の連中が、俺からその力を奪い取り、俺はただ自分を客観視する事でしか対応出来なかった。
撃ち殺せる。
殺せないまでも体の一部を引きちぎれる。
銃口を突きつけてやったら、どんな顔をするだろうかと考える。ガスガンだと思うかも知れない。その判断を、引き金を一度引き、俺が全身に帯びた血豆など比べものにならない傷を負わせてやれば引きちぎってやれる。こいつらは誤りに気付いて腰を抜かすだろう。
アメリカによく現れる、ライフル魔みたいになりたくはなかった。
キレて発砲する。そんなのは、美しくない。
俺はタイミングを図り、そしてその後の事まで考えている。
こいつらを撃ち殺す。その、後だ。捕まったんじゃ割に合わない。殺して漸くイーブンだというのに、俺が逮捕されたのではまたマイナスに逆戻りだ。赤字決算を出すつもりなんて俺にはない。
しばらくの間、俺は黙っていじめられ続けていた。
実に冷静だった。
それぞれが俺に加えたモノを数値化して、差別化さえしていた。肝心の、俺の左目を奪い取ったのが具体的に誰の撃った弾か分からなかったから、それは均等に全員に分け与えた。好き放題にあいつらは、俺の店に並んだ商品を強奪していく。俺はそれを見守りながら、カウンターの下から銃を取り出す事が出来る。
比喩じゃなく、本物の拳銃を。
四五口径のベレッタ・クーガー。サプレッサーまで付いた極上品。
これを俺にくれた、あの将道という男が本当に死んだのかどうかは知らなかった。かなり注意してニュースを見たり新聞を読んだりしたけれど、それと思われる報道は何一つ無くて、そして一週間もすれば俺は気にしなくなっていた。
あの男は、俺みたいな惨めなガキに拳銃をくれてやって、俺みたいな哀れないじめられっ子に落ちたガキに選択肢みたいなモノを与えて、それを満足げにしていた。その後の事なんて、俺に取っては価値が無く、そしてあの将道という男も気にしなくていいと、そう言うに違いなかった。
女子生徒の連中が、俺を見ている。
男子生徒のやらかすばかげた曲に合わせて踊らされている、落ちた権力者を眺めていて、それは同性に対するよりも辛辣で、俺に突き刺さるに充分な鋭さを持っていた。あいつらに裸で股を開かせる金はもう、俺は持っていない。
代わりに、銃を持っている。
銃口を向ければ泣きながら裸になるかも知れない。
そうしない強情な女がいれば、手足に一発ぶち込んでやればいい。手足の千切れた女を犯す事だって、俺には出来る。優越感と蔑みを込めた女どもの視線なんて、あの拳銃一つが払拭してくれている。
やれる。そうする事が出来る。選ぶかどうかは俺の判断の中にある。
この選択肢を握っているうちは、どんな痛みも苦にならなかった。それが例えば、血塗れで死にかけた男が体を寄せる壁にしか過ぎないとしたって構わなかった。立っていられる。それだけで俺は満足していた。
一人きりじゃ立ってもいられないのか。
そう、自嘲しても見る。無理だ、と即座に自分に答えてやる。そんな意地を張るなんてコストのムダだ。利用できるモノは利用する。損得勘定で得だと思える方に、何の躊躇いもプライドも無く俺は舵を切る。
いつ舵を切るか、という問題だけだった。
俺は眼帯にもおかまい無しに、犬みたいにラクガキされた顔のマジックペンを洗い落としながらそう考えている。
油性とは言え、洗って擦れば落ちてしまう。
それを覚えられた。それを得だと思えばいい。知識と経験を利益に換算する。眼帯を外した方が洗いやすかった。まだ、傷口が開くと血と涙と、眼球の破片みたいなものが出て来る可能性があったから、外さなかった。
いきなり、ケツを後ろから蹴られた。蛇口に顔が当たりそうになる。
「何、勝手に化粧落としてんだよ、雪路テメー」
振り返ると、一人だけいた。ただ、少し離れた所に数人立っていて、笑いながらこちらを見ている。そいつらの人数を確認しながら、弾数を考えていた。それだけで面白い。俺の余裕が顔に出たのか、俺を蹴った男は少し戸惑って笑みを強ばらせている。
雅だ。
源氏名みたいな名前のクソガキだ。俺と同じ歳のクラスメイト。
俺の左目を奪ったのは、雅かも知れない。離れた所で笑っている連中の誰かかも知れない。分からないが、分からない分だけ全員に均等に負債を振り分けている。
「……さっさといなくなれよ、お前。学費払えてんのか、貧乏人が」
雅はそう喚いて今度はスネを蹴ってくる。痛い。当たり前だ。俺は鈍感じゃない。
この左目の痛みを驚くほど敏感に感じ取り、反応している。そして他の痛みにだって俺は敏感になっている。客観視するような冷たい視線はなくなり、俺は取り立ての方法を、その時期を模索している。
「目玉が両方潰れてりゃ良かったんだよ、お前みたいなのは」
「その割にゃビビって散ってったな、お前ら」
そう言い返すと雅は言葉に詰まる。そこで負い目やプレッシャーを感じてしまう。俺みたいなのは盲目になってもこちらが正しい、と言い聞かせていたのに、『逃げた』というあの行動を思い出すと台無しになってしまう。
腹を蹴られた。正面からだ。俺は息が詰まって蹲る。
「……雪路、お前、自分がどんな奴かまだ分かってないみてえだな」
「お前は知ってるのか? じゃあ教えてくれよ?」
「金持ちのドラ息子だ。お前、金で人、煽ってイジメを指示したりしてたよな? 女、ヤッちまって金で黙らせたりよ。お前の金がなくなりゃ、こんな目に遭うのは当然なんだよ、クソ野郎が」
金でイジメを指示した。
それは確かにやった。面白かった。金を払うと、みんな大概のことはする。そして俺は、虐められてる奴にも金を払ってやった。
「一ヶ月、耐えてみろ。そうしたらこれだけやる」
そう告げると、きょとんとしていた。何で自分がイジメなんかに遭うのか分かっていなかったという顔。それでもそいつは、いつの間にか、俺が払うという金額を頼りにして何もかもに耐えていたし、一ヶ月後に俺はそいつに金を払い、みんなにもイジメを止めさせ、別の奴にロックオンさせた。
金なんていらない、そんな事はしたくない。
そういう道徳がどの程度で割れるのか、崩れるのか、確認したかった。
大した額も遣わなかった。あいつらは一〇万円程度でも耐える。他に頼るアテがないから、そんな額でも耐えてしまうし、そして他人を好き勝手にいじり散らして金が発生するのなら、それこそはした金でみんなやった。
俺は、王様だった。
金を持っていれば、それをバラ撒いていれば何だって出来た。
親父がその気になれば、この私立校を買い取って理事長にすらなれたかも知れない。俺にはそこまでの金はなかったけれど、同級生をイカれた方向に進ませる程度の金は持っていて、そしてそれは、こいつらにとって別次元の桁を持った金だった。
夏休みにひたすらバイトをして一〇万円ちょっとの金を得て、どうにか女を誘ったり、という事に腐心しているような連中だ。俺がそれを出すというなら、夏休みの半分を肉体労働に費やすよりも素直に言う事を聞く。
そいつらが揃って反逆していた。
金まで払ってやったというのに、それがまるで悪い事をしたみたいにのうのうと口実にする。受け取って、遣いまくり、なくなれば俺にすがっていた癖に。それこそ俺の靴を舐めたら一万円やる、と言えば、こいつらはみんなやっただろう。
対価を払い、こいつらは納得して、喜んでいた筈なのに、そういう俺をこの学校から追放するのが正しいとこいつらは今、信じ込んでいる。
学費ぐらいは、お袋は払っていた。だから、俺は居ようと思えばこの高校に居続けられる。こいつらに追放の喜びを与えるのなら、その対価が欲しい。こいつらは、それを一向に払おうとはしなかった。
雅が俺を見下ろしている。
革命家か何かのような顔をしている。
暴君を捉えて処罰している奴というのは、こんな曲がった顔をしているんだろう。俺は、金の対価としてこいつらに何かをやって貰ったり、何かを納得して貰ったりしていただけなのに、俺は暴君であり狂王であり、魔王の様子だった。すり潰して粉々にしたって構わない、という存在らしかった。
「俺らは、お前に訴えられたってやるからな。むしろ丁度いい。大袈裟な話になったら、お前がどんだけの事をやってたかっておおっぴらに言えるからな。だから訴えたかったらそうしろよ。賠償金なんか、払えないって開き直ってりゃお前に一銭も払わなくていいってちゃんと知ってんだよ、こっちは」
蹲った俺に蹴りが飛ぶ。
まあ、それならそれで俺はいい。訴えるつもりも賠償金をせしめ取るつもりもない。そして俺がこうされているのが、俺が支払うべき対価だなんてばかげた事も考えていない。俺はこいつらに、金を払っていた。それなのに今こうして、痛めつけられている。
だから然るべき報酬を要求する権利は俺にある。
借金を踏み倒そうという連中から対価を巻き上げられる力。
それが対価と呼べるモノなのかどうかはもう考えなかった。
雅の体に、出来れば派手に脳天に、四五口径の弾丸を叩き込んで、破裂させる。それが俺の要求する、今、俺がやられている事の値段だった。俺の商談は正しいのだろうか。それを親父に訊いてみたかった。
笑われるかも知れない。
それでも良かった。
俺は損得を抜きにして、雅たちの脳天を砕きたいのだから、それでいい。
そして俺は、そういう行動の結果を、親父に頼らず、守って貰う事も出来ず、自分でどうにかしなきゃならなかった。
「……なあ、雅。俺もいい加減、うんざりしてんだよ、目玉までやられたしな」
「じゃあさっさと学校辞めちまえよ」
「そういう訳にもいかない。高校ぐらいは出ておきてえし、かといって転校してまで面倒見てくれるって母親でもねえしな。全部引き落としになってるから支払ってるの忘れてるみたいなもんだ。手続きさせたらぶん投げちまうよ」
雅はそこで顔を顰めた。
俺が何を言い出したのか、よく分からない、という疑問符が浮かび始めている。中途半端な馬鹿相手に交渉するのはラクでいい。少し含みを持たせてやればそれを考え出す。本物の馬鹿が一番厄介だ。何一つこちらの言葉が届かない馬鹿もいて、それが本当に厄介なのだと親父は言っていた。
「……金、やろうか? 俺の秘蔵の金だ。貯金だよ。そいつはお袋に持っていかれてない」
「散々、渋っていた癖に今頃かよ」
「だからもう俺はうんざりなんだよ、こういう扱いに。これを、止めさせろ。そうしたら、お前に金をやる」
「幾らだよ」
「一〇〇万円ってところか」
本当はもっとある。こいつらにとって現実的な額、というのが必要だった。あれを買って、これをして。そういう想像力が充分に及ぶ、そんな額。仮に一〇〇億円、なんて言われても却ってこいつらは動かない。
目先の金、というのは一番、人を動かしやすい。
毎月一〇〇〇円ずつを一年間、よりも、一度だけくれる一万円札を選んでしまう。
親父はそうやって人を動かしていた。それを俺も間近で見ていた。
「全員に配って頭下げたって、大した効果はない。お前にだけやる。そしてお前は、俺の安全を保障する。別に無視して、多少、嫌がらせするぐらいならいいんだ。こっちだって気にしないでいられる。あの人数で蹴り回されて、ガスガンで目玉潰されて、なんてのはもうごめんなんだよ」
「……お前さ、自分のやって来た事、分かってんのか? そんなんで俺が言ったって、みんな納得しやしねえよ」
「今なら出来るだろ」
「何でだよ」
「目玉を一つ、無くした。俺が何をしてきたかなんて、それ一つで何となく釣り合ってるだろ。お前らは大した怪我じゃなかったと思ってるだろうけどな、多分、俺はずっとこの眼帯をしてるんだよ。何なら、仮に治ったとしても着けていたっていい」
社会正義の落とし所。
目玉に弾が当たってこいつらは逃げ出した。
やりすぎた、と思ったのだ。俺が暢気に顔を出したから、やりすぎてない、と判断してまた再開している。手を引くにはいい口実の筈だった。
「……それで俺に金、くれんのかよ?」
「お前が仕切るって言うんなら、な。一〇〇万、吐き出したら俺には何も残っちゃいない。ここぞって時に遣おうと思ってたんだ。左目を無くして、追加で一〇〇万。俺はいい支払いをしていると思うけどな」
雅は考え始めている。
どうせ頷くに決まっていた。口約束だけでいい。借り逃げの算段までこいつは始めているだろう。無理だった、出来なかった、そっちは俺じゃない、そもそも知った事かと開き直る。
嫌というほど俺は覚えさせられた。
債権の回収に居合わせた事もある。言い訳を並べて土下座する大人達や、開き直っている連中を親父は俺に見せていた。教えてくれていた。
雅の顔は、もう一〇〇万円という額を何に遣うか考えている、そんな顔だった。
お袋は親父の金を持っていった。
俺に残されたモノは、金以外にだってある。親父はそういうモノを俺に残してくれていた。お袋は、目に見える『金』というものだけを自分のモノにして、それで良しとしてしまっている。
それはそれで、間違っていない。確実で、堅実で、いい見極めだった。親父の、嫁だ。俺のお袋はそれに相応しい判断をしていた。だから感心こそすれ、俺は恨みにも思っちゃいなかった。
誰も信用するなと言った親父は、同時に、俺に金を散々、好きに遣わせてもくれた。そうする事で何かを教えようとしてくれていた。ある時、俺に遣った額、というのを一覧表にして、紙に打ち込まれた冷徹な数字として差し出してきた。
恐ろしく細かく、ジュース一本を買った値段さえ計上されている。
自分でも驚くような数字がそこにあった。
「結構な家が、一軒、余裕で買えるな」
親父は冷静にそう言った。
「その額で買える、ネットか何かで高そうなモノを調べてみろ。お前が消費してきたモノで、どれだけのモノが手に入れられたかをしっかり考えろ。そして、出来れば、回収する方法まで考えてみろ」
親父の頭にはただ消費する、という発想はなく、そして俺にもそう教えた。
海外旅行やクルーザー趣味、そんなモノにまで親父は商売を絡めていた。娯楽や趣味ですら損失というモノを抑えようと奮戦していた。俺の教育、という一点についてだけは、短いスパンでの回収ではなく、俺自身の成長を待っていた様子だった。
そして親父は大金を俺にくれた。目玉がひっくり返るような額ではなかったけれど、一度にこれほどくれたのは初めてだ、という額。これを何に遣う? と言われた。これを遣って赤字を補塡してみろ、というような顔。
それを全額、貯金に回し、口座を別で持った。
運用せずに眠らせた。
「何故、貯金した?」
「保険」
「なるほど。それも一つの手だな」
親父は興味深そうにそう言った。俺が株でも買うのかと期待していたような顔だったけれど、そうしなかった事を認めるような顔にも見えた。
遣わない限り、その貯金額はそのまま資産となり保険となる。俺が親父に突きつけられた累積赤字をひっくり返すにはとても足りなかったから、そうした。そこで躍起になって返そうとはしなかった。
十数年間の俺の贅沢や浪費は、一度一度は大した事がなくたって、溜め込んでしまえば家さえ買える額となる。ぼんやりとそれは分かっていたし、親父にとっては屁でもない額なのも分かっていたから、気にしていなかった。
逆の事も思った。
学生生活であれだけ好き勝手をやった所で、土地付き一軒家程度の金しかかかっていない、という発想もあった。
親父が最後にくれた大金は、たったの数百万円に過ぎない。どんなに遣いたくても、その金に手を付けない、と決めていた。親父はそれから、試すように俺に対する金を絞り始めた。好き放題は出来なくなり、ストレスは溜まった。小遣いは、同世代の連中と変わらない額になっていたからますます苛立ったけれど耐えた。
やがて俺は、貰う僅かな小遣いすら遣わないようになった。
その分は普通に手元に持ち、蓄えて、使い時を見極める、というごく普通の運用を開始した。そう出来たのは、いざという時には隠した貯金がある、と思えたからだ。
お袋はそれを知らない。
勿論、お袋が搔っ攫っていった額に比べたら、俺の貯金なんて大した金額じゃない。お袋は、もう一度生まれ変わったって仕事もせずに贅沢出来る人生を送れるほどの金を持っていったのだから、見逃してくれたのかも知れない。
貯金の中から一〇〇万円を削り取られるのは、血を吐くように辛かった。
俺の今の生活は、その額だけで一年間を暮らせるような生活なのだ。
俺の一年間を差し出すのと同じだ。しかも、何も変わらない可能性の方が大きい。贅沢をせず、欲しいモノを欲しがらず、削れるだけ削って耐える、というのには随分馴れていたけれど、それはこの貯金の存在が大きかった。
俺が、イジメられているのから脱出するには多分、足りない。そう思ったから金を寄越せと言われても一円も払わなかった。ただ金を要求され、それに従うというのは商談でも何でもない。
払えば許してくれるだろう、という曖昧で脆弱な信用に過ぎない。
俺はそんなモノを信用したりは、しない。
雅との待ち合わせには、もう一人が来ていた。光輝だ。予想はしていた。多少、貰う金が減ったとしても共犯者は欲しいだろうし、増やしすぎれば取り分が減る。もう一人誘う、ぐらいだろうと読んでいた。
夜中に、コンビニの裏の駐車場で、俺は二人に封筒を手渡した。
二人は、初めて見る札束に目を白黒させて顔を見合わせている。そんな額が何だと言うのだ、と俺は笑いたくなった。ひっぱたかれたって痛くもない厚みの札束でしかない。俺は、下敷きになったら死ぬような札束や金塊を見てきている。
「二人でなきゃ、やれねえ。だから二〇〇万、なんじゃねえのか?」
「言うと思ったけどな。それしかねえよ」
「あります、って言うまでひっぱたいてやろうか?」
「ないものは、ない。ひっぱたかれて出すなら、もっと早く出してるよ。目玉、無くす前にな」
光輝はまだ未練がましそうだった。
五〇万に減った。雅も考え抜いただろう。欲しかったモノを幾つか諦めたかも知れない。
拾ったような、元々持っていなかった金で、買えたであろうモノ、出来たであろう事を諦める。それは何故か辛い。悔しい。それも俺は経験してきている。なかったものだとして諦めることができない。
それでも雅は共犯者を欲しがった。
「……そいつで満足しろよ。俺は、左目を無くしてる。訴え出てもいいなんて言うけどな、そんな大ごとになる前に、金が貰えたと思って満足しろよ。完璧に、俺を守れなんて言ってない。ただ積極的にやるなって言ってるだけだ。周囲にも、そう言え」
「……分かったよ」
目を奪う。他人の目玉を潰す。
それは手や足なんかよりもこいつらには衝撃を与えたみたいだった。
そしてそれは、周囲にも伝播していると思う。みんな引き際を考え始めている。そこに、この二人が後押ししてくれるだけでいい。俺はそれで、しばらく時間が稼げる。あんな事をずっと毎日繰り返されていたら、何の計画も無しにベレッタを持ち出してしまいそうだった。それで捕まったら、何の意味もない。
一〇〇万か、ともう一度考える。
仕方がないとはいえ、ただ平穏な時間を稼ぐために遣う額としては些か、高く付いた。
雅と光輝はさっさと駐車場を出て行き、すぐ目の前にあるカラオケボックスに男二人で入っていった。そこで金を分けるんだろう。薄い札束を更に半分にスライスして分け合って、ハイテンションになるんだろう。
俺は、これだけみじめな貧乏生活をしていながら、目の前に五〇万や一〇〇万という金を差し出されても多分、感動したりテンションが揚がったりはしない。それがどうかしたか? と訊き返すだろう。くれるというなら、貰う。何かをしろというのなら、それが見合った額なのかどうかをまず計算する。
あいつらの立場でなら、俺だって受け取る。
何かのきっかけ一つで止まってしまいそうな空気を、止める。それだけで入ってくる金としてはかなりいい仕事で、だからこそ俺は、払いすぎた事を悔やむ。
あいつらの社会正義と正当性を買い取ってやった。
そう思えば、少しは気も紛れた。
家に帰ってから、パイプベッドの下にしのばせてある箱の中からベレッタを取り出し、点検する。抜いてあった弾倉から、弾を取り出す。四五口径の弾丸が、八発。本当なら九発だが、一発は撃ってしまった様子だった。
八発だから、八人殺せる。
足りなかった。どうせならクラス中を殺せるだけの弾が欲しい。それに、試し撃ちもしていなかった。幾ら馴れているとは言え、海外でこの銃を撃ったかどうか覚えがないし、あったとしても個々に癖みたいなモノはある筈だった。
弾を調達しなきゃならない。
その為にも金はいる。
俺が保険として取っておいた金。それの何分の一かを吐き出して、俺は時間を買った。
四五口径弾は割とポピュラーな弾だけれど、日本国内で買えるものじゃない。猟銃なんかにも使用はされていないから、銃砲店にも並んでいない筈だった。弾丸だけとは言え売買は規制されている。
裏のルートから仕入れるしかなくて、それは親父が良く知っていた。
親父は自分の持っている殆どの手練を俺に見せてくれていて、そして俺は、可能な限り、それを覚えるようにしていた。親父の人脈は、刑務所に入り力を失った瞬間から全てが切れた、と考えて良かった。
金が回るから人の道は繫がる。
金がなくなったのに繫がっているなんて事は、あり得ない。
俺はまだ幾ばくかの金を持っていて、それを遣えば、道を細く繫げ直すぐらいは出来る筈だった。ただ、親父は銃を撃つのが好きではあっても、国内で違法所持をしたがる趣味はなかった。撃ちたいのならば、海外に行って撃っていい場所で撃てばいい。国内で無理して所持しようとする方が高く付くし、大体、リスクしかない。
親父が使っていた人間、親父の知り合い、何人か浮かぶが、弾丸を用意してくれそうなのはいない。誰かを経由したくなかった。その分、コストがかかる。そのコストを支払えるかどうか、自信がない。
ぶっつけ本番で八発。最大で八人。
それで納得するかどうか、という話だ。俺の左目を奪い取った連中だけでいいなら、八発でもいい。六人だったから、二発余る。それを保険に回してもいい。
安アパートの窓からは何も見えない。目の前には、大きなマンションの外壁が立ちはだかっていて、西から差す夕陽の鬱陶しい光だけが忍び込んでくる部屋だった。
窓を開け放つと、ベランダに板を立てかけてある。
弾を装塡し、スライドを引く。その板目掛けて銃口を向け、引き金を引く。サプレッサーの先端からガスの漏れる音が響いたが、弾が板に当たって割れる音の方がうるさかった。誰もこんな室内で銃を撃っているなんて思わない。サプレッサーで減音していなくても、銃声だなんて思わなかっただろう。
歩いていって、板を回収する。木目に沿って割れてしまっていた。
当たった場所は分かる。二メートルほどの距離で撃ったから、ほぼ狙い通りの場所に命中していた。大体、撃ち方も当て方も覚えている。この銃自体にも問題はない。俺は、遠くから狙撃するつもりはなかった。それこそ、五歩ぐらいの距離で鈍器で殴りつけるように遣うつもりだった。
保険が、残り一発になった。
やっぱり、弾数に不安がある。外す、という事もない訳じゃないし、必ず一発で死ぬとも限らない。せめてもう一〇発でもあれば、随分、違う。
銃から弾倉を抜き、薬室内の弾も抜く。サプレッサーも外す。箱に収めて、また隠した。そうしてしまうと、この部屋はテレビもエアコンも何もない、パイプベッドと拾ったテーブル、小さな冷蔵庫があるだけの、監獄みたいな部屋に戻ってしまった。
親父も似たような場所にいるのだろう。
会いに行ってみよう、と決めるのに、時間がかかった。
甘えるようで癪だったから、なるべく面会には行かないようにしていた。
それでも俺は『守ってやる』と言った親父の言葉を、そんな勢いで言ったような言葉をまだ、最後の保険として握りしめていた。