ストーンコールド
第一回 Bohemian Rhapsody 1
江波光則 Illustration/中央東口
この学校をコロンバイン高校にしてやろう。そう、決めていた。
一
左目が、利かなくなった。
潰された。
治らないと思って欲しいと、医師に言われた。治るかも知れないが殆ど奇跡の類だ。自己治癒能力の振り幅が測れないというだけの話だ。俺の眼球には直径六ミリの、プラスチックの球体が食い込んでいた。目玉に六ミリの針を突き立てられたのと同じで、そして針のように鋭くもない。押し潰しながら強引に入り込んでいる。
ガスガンの初速は法定通りの強さだろう。
体に当たっても、皮膚が弾けるか、血豆になる程度で、筋肉を貫くほどじゃない。
それでも、目玉に当てられたのでは、ひとたまりもなかった。
隻眼になった、という言い方を自分にしてみたら、少しだけ気が紛れる。目を一つ潰された、とまた言い換えると、苛立ってくる。
見えている世界は何も変わらなかった。確かに遠近感が摑めない。それでも、ゆっくりと確かめるようにすればそれほどの苦労はなかった。
数人がかりで一斉にガスガンを、俺の体目掛けて撃ってきた。
一人ぐらい、目玉に当たって失明する、という可能性を考慮しなかったのかと笑えてくる。あいつらは俺が左目から流す血と閉じた瞼を見て、動揺し、逃げ去った。やってはならない事をしてしまった、と漸く気付いたらしかった。
俺は、あいつらみたいにおもちゃなんかじゃなく、実銃を飽きるほど撃った事がある。親父に連れて行って貰った海外での事だ。シューティングレンジの実銃は鎖に縛り付けられている上に弱装弾で、構えて撃つ、というより『ここでこうしろ』と強制されている気がした。引き金を引いているだけ、という不満足があった。
親父も、そう思ったみたいだった。
どこぞで知り合った現地のおかしな業者の案内で山に連れて行かれ、そこで色んな銃を好き勝手に撃ちまくったりもした。拳銃だけじゃなく、ライフルやショットガンもだ。
大分馴れた頃に、現地のその男達は、一人のしょぼくれたおっさんを連れてきた。
まさか、と思った。
幾らなんだってコイツを撃っていいなんて言い出さないだろうな、と怯えた。親父はそれでも撃ちそうだったけれど、俺はとてもそんな事はしたくなかった。
流石に、違った。
おっさんはドラム缶を被せられて走り去っていった。
それを指さして、現地の男達は撃て、撃て、とはやし立てる。実際に自分で撃ってみせたりもした。弾丸はドラム缶を貫通したりしなかった。ドラム缶は、二本の足を覗かせて懸命に走り回って動き続けている。丸い、金属の筒だ。よっぽど正面から強烈に命中しなければ撥ねて逸れてしまう。
それを見て親父は安心したのか、撃ち始めた。
俺にも、撃てと言った。なんて親だ、とは思わなかった。俺だって面白がって撃ちまくった。中々、当たらない。動いている的とは言えドラム缶ほどの大きさでもまるで当たらない。どんどん距離は遠くなっていく。遠くなるほど、無理だ。
終点までジグザグに走り抜けた所で、現地の男達が俺と親父に発砲を止めさせた。
おっさんがドラム缶を蹴って転がしながら、また戻ってくる。
「もう一度やるか?」
と、男達は親父に訊いた様子だった。そして金をせびる。何枚かの札を親父が渡すと、半分ほどをおっさんに渡した。
「こいつは何度でも走る」
そう言って笑ったようだった。親父が、だってよ、と俺に言って来た。やっぱり笑っていた。どうしようもない親父だった。
またドラム缶を被ったおっさんが走り始める。親父が近距離にいるうちにとガンガン発砲し始める。俺は、おっさんの足を見ていた。あそこを撃てばいいんじゃないか? と思っていた。親父はドラム缶しか狙っていない。
足元を狙って撃った。当たらなかった。
親父が俺を怒鳴りつけて、俺から銃を取り上げた。
「……足を狙う奴があるか、馬鹿」
理不尽な怒られ方をした、とそう思った。現地の男達も肩を竦めている。俺は何で怒られたのかが分からなかった。
人間を撃つ。
その楽しみ方にはルールがある。
要するにドラム缶一つを隔てるというルールだ。勿論、偶然、当てる気はなかったのに足に当たるかも知れない。ドラム缶を貫通するかも知れない。停止したりしたら、ドラム缶を撃ち抜く可能性は高くなる。だからおっさんは間の抜けた姿のままジグザグに動き続けている。そして、万が一、貫通したり足に当たったとしても仕方ないと諦めている。
これは、仕事なのだ。
そして金を親父は払っている。おっさんだって無理矢理、やらされている訳じゃない。金だって受け取っていた。そういう仕事をせざるを得ない環境にいるのかも知れないけれど、少なくとも奴隷みたいに強制されている訳じゃない。
「仕事をして貰う人間には敬意を払え」
ホテルに戻ってから親父は、俺にそんな説教をした。
「こちらが金を払う、払ったんだから言う事に従え、文句を言うな、そういう上から目線は絶対に、するな。難しい言い方かも知れないが、下請けだ、あれは。上にいるからといって無茶をしたら全部台無しになる」
それから、笑った。
「それに、こちらが少し敬意を払うだけで喜んでくれるなんてのは気分がいい」
そして俺の頭を撫でた。俺はまだ一〇歳くらいのガキだった。
「雪路」
呼びかけて、頭を撫で続ける。
「お前には、金を持っている人間が、それをみんなにどう回してやるかを覚えて貰わなきゃならない。俺の会社を継ぐ人間になるんだ、お前は。くれてやるんじゃない。ボランティアなんて税金対策でやればいい。こちらの払った額で喜んでくれたらいい。こちらにとっては、はした金程度で、他人の命を左右出来るなら、尚のこといい」
それが親父の経営哲学のようだった。
数年を経た今、親父の言っていた事が理解できている。
親父は国内で、はした金で人を遣う仕事を繰り返して大金を稼いでいた。それがどう考えても、割に合わない給与だとしても文句は言われなかった。不況にあえぐ中で親父は、使い潰すように人を雇い、そしてはした金で命を左右し続けていた。
どう考えたってこの仕事で数千円なんて、と思っている人間が、その数千円のために全てを擲ってでも仕事をした。
数千円は一〇回繰り返せば数万円になり、一〇〇回で数十万円となる。一年で、漸く、一〇〇万円といった額。その程度の額でも、今まさに必要としている人間が居て、それをしなければ生きていけないという人間が親父に使われるのを俺はずっと見てきていた。
やってられるかと投げ出すか、仕方ないなと流されるか、というギリギリの額。
どちらにしたって親父にとっては、はした金だ。高々、千円札が二、三枚、増えるか減るかという、どうでもいいような話。親父の着けていた金無垢の腕時計はそいつらの一〇〇人分の年収にも匹敵しただろうし、所持していたクルーザーは更に桁が違う。
そういう、親父だった。
俺はそういう親父の息子だった。
だから今こうして、左目を失うハメになっている。
親父の会社はモノの見事に破綻した。親父は、別に金のまわし方を間違ったりしなかった。ただ不運な事故に遭遇したというだけだ。それは親父が、金で取り繕えるレベルのモノじゃなく、取り繕えなかった傷口は親父の会社を叩き潰し、そして親父を刑務所に送り、ついでに俺をいじめられっ子なんて境遇に落としていた。
いつかはそういう事が起きると親父も予測していた。
そういう事が起きた時の備えも充分だった。
その予測を遥かに超える死者が出ただけだ。それはマスコミを沸かせ、インターネットの野次馬どもを高揚させるに充分な出来事で、俺の親父は人間じゃないみたいに扱われてしまっていた。
親父が人間じゃないのなら、息子の俺だって人間扱いはされない。
周囲にいた友達だと思っていた連中も掌を返した。
俺が、家族のモメ事に追われてたった一日だけ学校を休んだその隙に、全ては決められていたようだった。俺の顔写真までネットに晒されていた。俺には関係がない、なんて思わなかった。俺は親父に教わったとおりに、適度に金を遣い、周囲の人間を喜ばせてほくそ笑んでいたのだから仕方ない。
どのぐらい遣えば人は喜ぶのか。
何をどの程度で感謝するのか。
利用されている、なんて思わなかった。俺は『金』というモノが些細な額、こちらにとっては屁でもないという額で、他人を狂乱させる事を理解しただけだ。
そしてそれは、あっという間にひっくり返る脆弱な支配だとも分かった。
金を要求された。ただの恐喝だった。だから突っぱねた。
突っぱねたら、俺に対する虐待が始まった。幾らやられても俺は、金なんて一円もやらなかった。それが割に合うとは思わなかった。
そしてガスガンの的にされるというハメに陥った。
金も貰えないのに、そうされた。
あの外国で見たおっさんだって、納得する額でそれをやっていたのに、俺には誰も『いじめられてくれた報酬』なんて払ってくれなかった。みんなで金を出し合って俺にそれをくれて『鬱憤晴らしと社会正義を気取りたいから、この額で虐められてくれないか』と言って来ていたら、少しは考えたかも知れない。
あの会社のドラ息子が行っていた悪行三昧、なんて見出しもゴシップ誌に躍った。
いくつかは間違っていた。訂正しろと言うのも面倒臭かった。それに俺は確かに、風俗で童貞を捨てた。よく調べたモノだと感心さえした。
感情のやり取りがコストに見合わない、と判断したから、そうした。
値段が付けられないモノのやり取りはさっぱり分からなかったし、高々、好奇心と性欲を満たすためだけに苦労するのもあほらしかった。金ならあったし、その金でどうにでも出来るのだから、俺は女を知るのにそういう施設を利用させて貰った。
それも数回の事だ。
そのぐらいで好奇心は満たされた。それ以上は性欲だけで、そんなモノは自分でどうにか出来た。どうしても我慢ならない、という時にだけ金を遣った。
同級生に売春している女がいる、というので金を遣った事もある。その時の事は、強烈に覚えていた。何しろ、高かった。相場を知っている俺から言わせたら、冗談じゃない、という額で、だからこそ俺は払った。
どうせ払えないだろう、という適当な額を言ったような気がしたから、本当に払ってねじ伏せてやった。高い金の割に何もしないし、貧相な体の女だった。
というか、処女だった。
流石の俺も少しばかり動揺したし、何かの罠にはめられたのかとさえ思った。
真波という名前のそいつは、単に『売春している』という噂を立てられまくっているだけの、言ったらいじめられている女だった。やらせろ、幾らだ、と嫌がらせのように言われるので馬鹿みたいな値段を口にしていただけだった。
それが何で、俺がその額を出す、と言ったからってのこのこホテルについてきたのか、分からなかった。興味があったから訊いた。訊きながら、俺の知っている行為は全てやった。その度に金を積んでもやった。
ちょっとした中古車ぐらいの値段。真波に、俺はそういう額を払ってやって、好き放題にしてみた。どこで音を上げるかと思ったけれど、真波は逃げなかった。ただ金をしっかりと要求し、そして俺も音を上げたりしなかった。意地になっていた。
「どうせそのうち、やられちゃうしね」
真波は、そう言った。
「だったらお金を本当に払ってくれるあんたでいい」
「俺は、踏み倒したり、誤魔化したりなんてしない」
「うん。だからまあ、一番マシなのかなって。うち貧乏だし」
自嘲するように真波は笑っていた。
「それに雪路なら、いいかって。上品な生活して来たっぽいしね。優男の貴族、って外見だからそんなに記憶も汚れない」
「俺が太ってて醜かったら断ったか?」
「さあ。金額が増えただけかも」
平然と、そんな事を真波は口にした。自分に値段を付けて、納得させていた。俺がちっちゃな頃から叩き込まれていた意識。真波のそれは、その欠片みたいなモノだった。俺は性欲よりも好奇心を満たす代償としてその金を支払った。
真波の画像を撮影し、動画を収めた。それも合意の上でやった。
今日、初めて経験する性体験というモノを、真波は全て金に換えて受け入れた。
「何に遣う?」
金の遣い途を俺は訊いた。俺は、この一度、そして尚かつ貞操というモノをどこまで真波が切り飛ばすのかにしか興味がなかった。ムダに贅沢をしてまた頼られても、もう何の興味もないし、払ったとしてもそこらの売春婦に遣う額しか払わない。
だから、真波が何処までも俺の要求を、このタイミングで受け入れる、というのは、正しい判断だった。本能でそれを見極めていたのかも知れない。
「お父さんとお母さんにあげる。借金、あるから」
「……お前は一銭も遣わないつもりか?」
「欲しいモノもないし、別に」
そう言っていた。
真波が退学したのは、それから数日後の事だった。俺にも、誰にも、何の予告もなくいなくなった。親の借金が少し減ろうが、宝くじに当たって余るほどに金を唸らせようが、真波はいじめられっ子には違いなく、学校というモノに嫌気がさしていたんだろう。
そんな事件も、週刊誌では俺が強姦して金をやって、学校を辞めさせて黙らせた、みたいに書かれていた。それはちょっと納得がいかなかった。
要するに、金なんてのはみんな欲しがる割には、そういうモノなのだ、と俺は理解した。義憤に駆られたみたいな顔をして俺を虐待する癖に金を要求する。だから俺は、そんな理由の分からない金なんか一銭も払わなかった。
俺は、正義なんてものがあると思っていないし、悪という分かりやすい物があるとも思っていない。それよりも対価が問題だと、そう思っている。
左目を潰された。
ドラム缶を被って走っていたら足を撃たれたようなモノで、俺はそうされても仕方ないなと思えるような報酬を受け取ってはいない。
そういう奴もいる、と親父は俺に教えてくれていた。
いるのだ。他人から金や物を奪っておきながらこちらが正しいという顔で何も支払わないどころか、もっと多くを奪おうとする連中が。正義だの悪だのはそういう連中が自分を正当化するための言葉でしかないとそう教わった。
法律ですら、お互いの納得というものを無意味にする。むしろ法律がそうしてしまう事だってある。親父の払っていた額を喜んで受け取っておきながら、もっと貰えていた筈だと主張する馬鹿どもは後を絶たなかった。
俺にはもう、他人を操れるような金は残されていなかった。親父の財産はどんどん馬鹿どもにはぎ取られて分け与えられていって、残ったモノもお袋が狡猾に立ち回って自分のモノにして、俺は放り出された。
そして一人きりで、学校では虐められ続け、遂には左目まで失った。
納得がいかない。
そう思った。
「払い戻させろ」
親父はいつもそう言った。何度でもそう教えた。
「世の中には借り逃げして借金を踏み倒し、払うべき金も支払わずに何かを強奪する人間が居る。人を信用するなんてばかげた真似はするな。常に損得でモノを見ろ。余裕がある時でも油断をするな、雪路」
そう繰り返し、そして付け加える。
「でもひょっとしたら、損得抜きでやりたい、と思う事があるかも知れない。そういう時は試しにやってみろ。お前がそれで犯罪者になろうと、俺はお前を守って見せる。そういう経験をしてみるのも悪い事じゃない」
俺を守ってくれる筈の親父は、刑務所にいる。
親父の代わりに守ってくれたかも知れない金は、お袋が持って行った。俺はお袋からの、雀の涙ほどの、どうにか生きていけるような仕送りで一人暮らしをしている。それも、悪くはなかった。おかしな事に惨めさなんてモノはまるっきり感じなかった。
金持ちのドラ息子が最底辺まで落ちた。
そう見下されているのは分かっていた。他人事みたいに思っていた。こういう事もあるんだな、とは思った。
それでも目玉の件は納得できない。
体だけなら仕方ないなと思ったかも知れない。治る傷ならば、一時的な負債であって損失ではない。俺は俺の資産を決定的な形で奪われたのだから、然るべき報酬を受け取るべきだし、それをしないというなら強制的にでも払い戻させなきゃならない。
六畳間の安アパート。いつだって湿っていて薄暗くて西日が差し込んでくる。
そんな中で、俺は片目を失って、眼帯の上から痛みより痒みの方が目立つ左目を搔いている。
目の前に、テーブルがある。粗大ゴミ置き場にあったモノを拾ってきたテーブルだ。
その上に、黒い鉄の塊が置いてある。
使い方は知っていた。親父に連れて行って貰っていた海外旅行で、分解清掃の仕方まで教えて貰っていて、俺はそれに慣れ親しんでいた。
四五口径のベレッタ。
銃口にはサプレッサーまで付いている。クーガーという銃だ。コンペンセイターとライトマウントが施されたその銃は、俺が知っている物よりも些か攻撃的に見えた。
弾倉の太い、ごついグリップは、俺の手にしっかりと収まる。手は、大きかった。そして手首は強く鍛え上げられていた。毎年、数度連れて行かれていた海外旅行で、毎度、数百発は銃を撃っていたのだ。自然と鍛え上げられている。
人を殴ったって良かった。
それでもそれなりの払い戻しにはなるだろう。ただ、左目とは釣り合わない。
ベレッタ・クーガーを手に取る。スライドを引く。弾は入れていない。引き金を引くとハンマーが落ちる。その音を、薄暗い六畳間の中で響かせている。
損得抜きでやりたい事をやってみる。
その機会があるとしたら今だった。目玉を一つ無くしてからでないと、俺にはそんな感情は生まれなかった。いつだって俺は、冷静に損得勘定をしてきた。そういう自分ではもういられないと、刑務所に入った親父に伝えたかった。
あいつらを、撃ち殺そう。撃ち殺してみよう。
そう考えながら、俺は、俺にこの銃をくれた人の事を思い出していた。
「……悔しそうじゃないし、怒っている風でもないし、泣いている訳でもないな」
そう、評価された。
暗い、夜だった。
俺はガスガンに拠る乱射で全身を痛め、左目から血を流して倒れていた。その俺を見下ろしている男も、傷だらけで、そして全身から血を流していた。足跡が血の色で点々と続いているような有様で、それなのに、そんな傷には目もくれず、ずっと左手で、右手首を押さえている。
ファイアマンズコートを着ていた。黒い革で出来たコートで、バックルで前を留める、そんなコートだ。消防士の着ているアレだ。
「いじめ、って言うにしちゃやりすぎだな」
「親父がやりすぎたもんで」
「納得してる訳か、お前は」
「してない。タダで強奪された、って感覚は、あるよ」
「……ガキにしちゃ随分、醒めてるように見える。凍ってんな、お前」
「おっさんも傷まみれでどうした、いじめられたのか?」
「そんな所だな。周囲は全部、敵ばっかりになっちまった」
そう言って、俺を見下ろせる位置で壁に背中を預けた。血が、どんどん下に流れていく。男の足元はあっという間に血溜まりが出来ていた。
「おっさん、死にそうだぞ」
「死ぬな。腹の中にも喰らってる。病院に行けばそこで殺される」
「何、しでかしたんだよ、おっさん」
「別に。娘がいてな。俺はもう離婚して、娘なんか数年に一回会うか会わないかって感じだったが、それでも、娘だ。それを壊されたんじゃ腹も立つ」
「いじめの復讐に親が出たのか?」
「そんな単純な事じゃないが、まあ説明するのも面倒だ。何せ、死にそうなもんでな」
「ふーん。……なんて言うかコストに合わない事してそうだな、おっさん」
「コストなんて考えて生きられるほど器用じゃなくてな。ま、これでもそれなりに考えちゃいたんだが、娘の事が絡むとどうしようもない」
「損得勘定、抜きってやつか」
「そんな所だ。……お前の親父は何をした?」
親父の、罪状。
要するに他人を働かせすぎた。都合良く、低賃金で。数枚の札びらでドラム缶を被って駆け回らせて、それを笑って撃ちまくった。それでも足は狙わない。相手だって承知してやっていた、ありがたがってさえいた癖に、世の中が騒ぎ始めると便乗して掌を返す。
それを教えてやった。
「……あれか。俺は直接絡んじゃいないが、よく知ってるよ」
「何者だよ、おっさん」
「元、刑事だな」
「刑事にゃ見えない格好だな」
「辞めたもんでね。俺は表向き、両手の指じゃ足りないくらいの数、罪を被っている犯罪人だ。何処にも逃げられないし、逃げる気もない」
「娘さんは、どうなった?」
「助けられなかった。こうしてくたばる、あいつの為に死ぬ。それでどうにか、詫びを入れるぐらいしか出来なかったな」
男はまた、右手首を摑んだ。そこが大きく腫れ上がっているのが見えた。
全身至る所から血を流しているというのに、その傷だけを男は気にしていた。
「……手首が痛いのか、おっさん」
「モノの見事に砕かれた。相手は格闘家だ。こっちだって警察だったからそれなりに自信はあったんだが、本職は違うな。しかも世界を狙えたって器の奴だ。ヘタにこっちが動ける分だけ、裏の裏まで読んでくる。この手首の傷さえなけりゃ、もっと思い切って死ねた」
「どんな風に?」
「もう銃が撃てない。せめて暴れ回って撃ちまくって突っ込みたかったよ」
「刑事を辞めたのに銃、持ってんのか、おっさん」
「現職だったうちに密輸して手に入れたもんでね」
「腐ってんな、警察も」
「信用しない方がいい。利用しろ」
「それなら、いつだってそうしてるよ、俺は」
「そんな感じがするな。老成するにも速すぎるってのに、老いたぐらいになってる。俺より年上なんじゃないかってさえ思うよ」
「まだ一七だよ、俺は。もうじき、八だ」
「いじめられっ子の一七歳か」
「そう言われると惨めだな」
「侮辱する気はない。ただ、娘も似たような歳だったからな。俺がどうやらくたばるらしいって時に、そんなガキを目にした。何かの巡り合わせは感じるよ。老成した、もう伸びしろのなくなった一七のガキに、面白い事をしてやれるかも知れない」
巡り合わせ。
いいようにも、悪いようにも転がる。
親父が破滅したのだって巡り合わせだ。
金を湯水のように注ぎ込んだって修復不可能な悪い巡り合わせだって生きていれば巡ってきて、そしてそういう時にどうしたらいいのか、分からない。ただこの男の言っている、好き放題撃ちまくって暴れ回って死ぬ、というのは魅力的な言葉にも思えた。
そういう感情に任せただけの事はするなと散々教えられてきたのだ。
倒れている俺に、男は黒い、鉄の塊を放り投げてきた。
銃だ、と思った。それを俺は起き上がり、拾い上げる。
一目でベレッタだと理解した。クーガー。四五口径。サプレッサー付きの極上品。
「……やるよ、お前に」
「これでイジメてた連中を撃てってか」
「どうでもいいよ。好きに使え。どのみち俺はもう銃なんか撃てない。重くて、邪魔くさかったからここに捨てただけだ。誰が拾おうと知った事じゃない」
男はそう言って、呻いた。全身の傷に漸く気がついた、みたいな顔をしている。銃を投げ捨てる事で正常な感覚が戻ってきたみたいに見えた。
「……虐められているガキに銃をくれてやる。俺がやりたかった事はそんなもんだ。出来れば、俺は娘にそいつを手渡してやりたかったぐらいだ」
「俺はあんたの娘さんの、代理か」
「これから死ぬってんだよ、俺は。そのぐらい甘えさせてくれ」
「ま、銃は嫌いじゃないし、貰うよ」
弾倉を引き抜いて中身を確認する。薬室に装塡されていた一発を抜いて、弾倉に戻す。スライドを引いて一度引き金を引く。それから、弾倉を戻した。安全装置のノッチを降ろす。
「手慣れてるな」
「さんざ、海外で撃たせて貰ったもんでね」
「ドラ息子だしな」
「金持ちの景色も貧乏人の景色も知ってるよ、俺は」
「何か、違うか?」
「何も変わらない。お袋からの仕送りがなくなって働いて自活するようになりゃ、俺は少しは違う景色が見れるかも知れないけどな」
「そういう所が凍ってるんだよ、お前は。ガキの癖しやがって」
男は壁に寄り添うようにしながら動いている。歩き始めている。
血が、止めどもない。
それでも男は動き続けていた。
「……そいつを持って、さっさとここから離れろ。見たところ、動く分には支障がなさそうだしな、お前は。もうじきここにゃ厄介なのが押し寄せてくる。俺と一緒に死にたくはないだろう?」
「それこそ、コストに合わないな」
「だったら、さっさと行け」
俺はクーガーを手にしたまま立ち上がる。手にぶら下げて移動するのも憚られたから、サプレッサーをねじ回して外してから、ジーンズの後ろに突っ込んだ。サプレッサーは上着の内側にあるポケットに収める。上着はクーガーも隠してくれていた。
男がよろめきながら、ゆっくりと俺から離れていく。
壁がなかったらもう立っている事も、歩く事も出来ない、という有様。
それを見ている俺は、左目から血を流し、全身に血豆を刻まれた、哀れないじめられっ子だった。
「……おっさん、名前は?」
「将道。お前は?」
「雪路」
「演歌歌手みたいな名前だな」
「よく言われるけど、親父は演歌なんて聴かなかった」
「あれは日本のブルースだからな。金持ちに受け入れられたら演歌なんかじゃない」
「知らないけどよ。おっさん、ホントに死ぬのか?」
「死ぬな。もう一発ぐらい賭けられない訳じゃないが、多分無理だ」
「分かったよ。じゃあな、おっさん。銃、ありがとうよ」
「精々、いじめてた連中をびびらせろよ。金がなくなったお前に、俺は暴力をくれてやった。哀れないじめられっ子のお前にな。それだけでも何かした気分で死ねるよ」
俺は、何かをしようとはその時、明確に考えていなかった。
これから死ぬという、将道という男の、勝手な言い分に付き合ってやったというだけだった。俺も、将道もボロボロだ。将道はそのまま、ボロボロのまま朽ち果てていく。死ぬ。俺にはまだ何かの可能性がある。俺は目玉を一つ、潰されたというそれだけの事でしかなくて、別に死んだりはしない。
そういう俺の手の中に、大口径の銃がある。
これから死ぬっていう、訳の分からない怪我をした、事情も摑めない何かを背負った男が捨てていった銃だった。
金じゃなくて、暴力。
相手を納得させてかすめ取るんじゃなくて、ただ力ずくで何かを奪い取る。
大口径の拳銃は、そうするだけのモノを秘めている。
親父が教えてくれなかった事を、将道は教えてくれて、そして俺に投げ渡して、自分は夜の闇へと消えていく。いつまでも、壁に体を擦りつけるような音が耳に残っている。その音から逃げたくて、俺は背中を向けた。
小走りでも全身が痛んだ。
水疱瘡にでもかかったみたいに、全身に血豆が膨れあがっていて、痛みを走らせる。
この、胸の中の、もやもやとした気持ち。
コスト度外視の感情。それが何なのか、俺には言葉に出来なかった。これまでずっと言葉にならなかった。ただ、何なのだろうと正体が摑めずに首を傾げていた。分かったところでそれをどう処理したらいいのか浮かばなかったから後回しにしていたのかも知れない。
金を失った俺には、金で解決する事を叩き込まれていた俺には代案がなかった。
今は、ある。
あの男が俺に、金に代わるモノを与えてくれていた。
暴力そのもの。拳銃なんてそうでしかない。
それが手の中にあって初めて、俺は自分の中にある感情が『怒り』なのだと、今更ながらに気付いていた。