ストーンコールド
解説・虚淵玄
江波光則 Illustration/中央東口
この学校をコロンバイン高校にしてやろう。そう、決めていた。
解説
日本人って無宗教なのだろうか? いや私はそうは思わない。この国はとんでもなく妄信的な宗教国家といえよう。それも極めつけの淫祠邪教を崇拝している。
その神の名を「みんな」という。
「みんな」の言葉は誰もが信じる。逆らうことなど考えも及ばない。「だってみんなが言っている」と裏書きされた言説は常に絶対的正義である。そこに身を委ねているだけで簡単に安息と希望がもたらされる。
目の前に、すぐ隣にいる誰かを呼び止めて、腹を割って話してみれば、すぐ違和感に気付くはずだ。「みんな」とは貴方ではなく彼でもない。ならば誰もが信じて敬う「みんな」とは何処にいるのか?
「みんな」には顔がないので聖像がない。教義も禁忌も存在しない。だが何処にでもいる。辺りを見渡せば、日常のそこかしこに「みんな」という聖句が溢れている。その御名を目にせず、耳にしないまま過ごせる一日など有り得ない。
教義なき神に従うためには、ただその声に耳を澄ませているしかない。この祈りの姿勢は一般に「空気を読む」と言われている。そしてひとたび受け取った「みんな」の声に是非を問うことは許されない。「みんな」に逆らう不心得者には「孤独」という世にも恐ろしい天罰が下される。その一方で、不可解極まる「みんな」の声を誰よりもそつなく的確に聞き届けた者には、天上の悦楽と栄誉である「かっこいい」が与えられる。
現代の英雄には、かつてと違って新たに「賢しさ」というパラメーターが求められるようになった。どんな些細なミスも事前に回避する目端の利き方と周到さ。決して他人に不快感を与えない謙虚さと協調性。そしていざ修羅場となれば掠り傷ひとつ負うことなく、圧倒的なパワーの一撃で敵を瞬殺してのける超能力。それが時代の求める痛快さであるらしい。
英雄像というものは時代を映す鏡である。斯く在りたい、こう生きたいという願望を投影できるキャラクターほど人々に賞揚される。完全無欠にして無謬の賢しきヒーローたちからは、誰もが過ちを犯すことを病的に恐れる社会の風潮が、ありありと見て取れる。これもまた「みんな」の声だ。かの神からの祝福を賜るには、どこまでも孤独や屈辱とは無縁の「かっこいい」を保持し続けていなければならない。蛮勇も、激情も、もはやヒーローには必要ない。そのような人間臭さはいつ「みんな」によって嘲笑され、否定されるか知れたものではない。だから挫折や恥辱の前触れを芽のうちに摘み取ってしまえる「賢しさ」こそが何よりも重んじられる。
しかし、江波光則が描き出す群像は「賢しさ」とは程遠い。
例えば『ストーンコールド』の主人公、雪路。かつて親の権力故に「みんな」に祝福され、その失墜によって「みんな」に罰せられた彼は、だが自らを翻弄する「みんな」の力に一切の理解を示さない。ただ自らを中心とした因果関係だけを手がかりに、まるで物理法則の実験のように、すべての運命を解析し解釈し、己一人の意志だけで人生を切り拓いていこうとする。その決断、その選択は紛れもなく愚者のものだ。誰一人救うことも、救われることもなく、周囲に阿鼻叫喚の地獄をもたらしながら彼は破滅へと疾走する。
だがその孤独、その愚かしさがたまらなく眩しく、愛おしい。
誰だって胸の内には自由な魂を秘めている。日々のしかかる「みんな」の圧力に声なき悲鳴を上げている魂が。それが雪路の愚行に共感し、雪路の破滅に羨望する。そう、「みんな」がもたらす幸福と安息に疲れ果てているのは私だけではないだろう。そしてきっとあなただけでも、ない。
続く『スーサイドクラッチ』『バンディッツ』の連作にも、続々と愚者たちが登場し、とびっきりの愚行を繰り広げる。誰一人として「みんな」の御言葉に耳を傾けず、「みんな」の威光に平伏すこともない、不遜不敬の輩たちの百鬼夜行である。きっと賢しき「みんな」の使徒たちの目には、その行列はレミングの行進の如く見えるかもしれない。その滑稽さを嘲る者も、その自暴自棄に眉を顰める者もいるだろう。だが同様に、その儚くも眩しい生き様に勇気づけられる読者もまた、決して少なくないものと私は信じている。
ただの一度も世界を呪わなかった者に、世界を愛せるわけがない。