星海大戦
第二十回
元長柾木 Illustration/moz
元長柾木が放つ、渾身のスペースオペラ!10年代の文学シーンをリードする「星海社SF」ムーブメントの幕開けを、“たった今”あなたは目撃する————。
第4章(承前)
9
土星圏からおよそ7億3000万キロ隔てた木星圏にも、世界時にしたがって夜がおとずれていた。
木星軍連合航宙艦隊ガリレオ方面軍の司令部所在地である衛星パシファエにおいても、それは同様である。もっとも、テラフォーミングされておらず、衛星の内部を掘削して基地を構築しているため、居住区域以外では昼夜の別はさして意味をもたない。
パシファエは、木星の4大衛星よりはるか外側を周回する、直径60キロほどの逆行衛星である。土星との位置関係によっては、アナンケ、カルメ、シノーペといった、同様に木星から遠い軌道をとる衛星が艦隊駐留地となることもあるが、法的にはこのパシファエがガリレオ方面軍司令部の所在地であり、現在も同方面軍を構成する全艦隊はここを母港としている。
……クラウディオ・チェルヴォ大佐は、不愉快そうな表情で会議テーブルに肘を立てて頰杖をついていた。
遅い昼寝からたたき起こされたばかりなので、鈍い赤毛はあまり整えられていない。目もいかにも眠そうにとろんとしている。しかし彼が仏頂面なのは、かならずしも寝起きだからというわけではない。
彼は、そこにいる者をくつろがせるべく設計された空間にいた。
壁面の色は平淡なベージュだが、床は板張りで壁にも木製の付柱がつけられており、無機的な印象はない。天井は全面がスクリーンになっていて、そこに擬似的に奥行きを感じさせる環境映像が映しだされている。そして照明は淡く抑えられている。
いちばん目立つのは部屋の中央に植えつけられたガジュマルで、会議テーブルを貫くように立っている。空調によって対流している空気がわずかにその葉を揺らし、土の匂いを運んでいた。
ガリレオ方面軍総旗艦ブレイヴユリシーズに設けられた会議室である。
しかしその場所に集まった人々は、設計者の意図どおりにくつろいでいるようには見えなかった。
クラウディオの他に会議室にいるのは5人。
アマディス・ブローデル少将、リスト・カリャライネン准将、イェルーン・ヘルケンホフ准将、マクシミリアン・ルメルシェ准将、バラージュ・カーロイ大佐――過日の遭遇戦で、土星軍の九重有嗣中将率いる艦隊に壊滅的打撃を喫した、木星軍カリスト第3艦隊第2戦隊の生き残りの人々である。
同戦隊は6隻の航宙艦からなっていたが、戦隊司令ブローデル少将の旗艦とルメルシェ准将の艦を除いた4隻が、敵艦隊によって撃破されたのである。7倍の敵と相対するという異常な状況であったとはいえ、誇れることではなかった。
しかしクラウディオの不機嫌は、その敗北のためでもない。
もっと単純なことだった。
方面軍司令官に特別に話があると呼びだされたので勇躍して総旗艦までやって来たら、マクシミリアン・ルメルシェがいた――それが理由だった。
褐色の髪をもち、この時代にあっては珍しく眼鏡をかけた長身のルメルシェ准将は、クラウディオと向かいあう位置の席に着いている。
ふだんどおり取り澄ましているように見えるが、いくぶんか神経質になっている。すくなくとも、クラウディオの偏見に満ちた目にはそう映っていた。
クラウディオと同じ19歳でありながら准将の階級をもち、艦長の地位にあるこの男のことが、クラウディオは嫌いだった。何が、と具体的に挙げていけばきりがない。端的にいって、存在自体が気に食わないのだ。
室内には緊張感がただよっていた。先ほどから、誰も口を開いていない。
ルメルシェもしかつめらしい顔をしている。クラウディオはそのようすを見て、いちおう周囲に聞こえないように鼻を鳴らした。直属の上司であるのだが、そんなことは敬意を払う理由にはならない。
とはいえ、気に食わない相手のことを考えるのも面白くない。そう思って、この部屋でいちばん面白みのある存在であるガジュマルの葉でも数えようかとしたところで、扉が開いた。
木製の扉を押し開いて現れたのは、逆巻くような緋色の髪の男だった。
筋肉質の体格のいい、くっきりとした顔立ちのその男は、ガリレオ方面軍司令官であり、この総旗艦の主である。オズワルド・グリンステッド大将。皆、彼に呼びだされてこの会議室で待っていたのだった。
6人の男は、立ち上がって敬礼した。
グリンステッドは雑に答礼し、くだけた所作で上座に着いた。鷹揚ともいえるが、立場に釣りあわない子供っぽさのようにも見えた。
「そんなに神経質にならなくていい。軍法会議じゃないんだ」
グリンステッドは屈託のない笑顔を見せ、着席するよう手ぶりで示した。それに従って着席した一同を1度見まわしてから、クラウディオの方を向いて言った。
「まず、クラウディオ・チェルヴォ大佐。君の謹慎は解ける方向にもっていけそうだ。まだすこしかかるかもしれないが、あと1週間を超えることはない」
「話ってそれですか?」
クラウディオはグリンステッドに、気安い調子で聞いた。大将に対する態度としては無遠慮なものだったが、グリンステッドの方もとくに気にするようすはなかった。
「まあ、これも用件の1つだ」
先の遭遇戦においてクラウディオは、機関長という立場にありながら、艦長であるルメルシェの指示を無視した機関管制を行った。それもあって彼らは戦場を脱し生き残ることができたのだが、規律違反の責を問われて現在謹慎処分中なのだった。
「人文元帥閣下は不本意そうだったよ。例の亡命者の件もあって、人文総局では遵法精神の弛緩を問題視していたところだからな。しかし、規範意識が過度に創造性を制約するようになったら、それはそれで問題だ。だいたい、味方を全滅から救った英雄を冷遇するのは人の道から外れている」
「ローランは?」
クラウディオは尋ねたが、グリンステッドが怪訝そうな顔をしたので言いなおした。
「ローラン・パルマード中佐。副砲戦長の」
クラウディオと協力して規律違反を行ったパルマード中佐もまた、謹慎中だった。
「ああ、彼もだ」言ってから、グリンステッドは不満そうに唇を曲げた。「喜んでくれないんだな」
「どうして喜ぶんです? だって、もともと謹慎になる理由なんてないでしょう」
クラウディオは言いはなった。
ブローデル少将が嘆くように顔に手を当てた。
グリンステッドは一瞬驚いたようだったが、すぐに破顔した。今度は心から満足そうだった。
「そうか、そうだな。君の言うとおりだ。俺もそう思っていた」
じつのところ、クラウディオは喜んでいないわけではなかった。いきなりだったので表情に出すのが遅れただけだ。
だが喜びは、謹慎が解かれることに対してではない。グリンステッドが物わかりのよい人物だと感じたからだ。これまで、この司令官を遠くから眺めたことはあったが、対面するのははじめてだった。「偉い人」が物わかりがよいというのはとても珍しいことであり、喜ばしいことだった。何より、クラウディオと価値観を共有していそうなことがすばらしかった。
クラウディオ・チェルヴォとは、そのような単純な人間なのだった。
ふとルメルシェのようすをうかがうと、憮然としているように見えた。いや、憮然としていた。クラウディオはそう決めつけた。
――俺が認められるのが気に入らないんだ。
グリンステッドは話題を変えた。
「これは公式な聞き取りではなく、私的な相談と思ってほしいんだが――」
そう前置きして、先の遭遇戦について話しはじめた。
彼が問題にしたのは、敵のことだった。
味方の行動については細密な報告がすでに上がっており、中間的な総括も行われ、研究も進行中だ。しかし敵の行動、すなわち艦隊規模で巡回を行い遭遇戦を戦ったことに関しては、不明な部分が大きいのだった。幕僚本部でも議論はなされているものの、偶然であるのか意図的であるのかの判断もまだついていない。そのことについて実際に戦闘に参加した者の意見を聞きたい、というのが今回の呼集の趣旨であった。
あの戦いからすでに1ヵ月近くが経っているが、木星側の最高指揮官であったブローデルは、いまだ負の気配を身にまとっていた。あからさまに意気消沈を表に出すことはしないにせよ、本来対面する者を和やかな気分にする檸檬色の髪の物柔らかな貴公子は、今は陰りを帯びて痛切だった。
「あの状況で生き残ったことは、誇っていい。君たちでなければ、戦訓を持ち帰ることはできなかっただろう。君たちは、君たち自身が思う以上によくやった」
グリンステッドは言ったが、それでブローデルが慰められたようすはなかった。グリンステッドもあえてそれ以上秘蔵っ子の精神に介入するようなことはせず、みずからを賞賛するように言った。
「天才を起用した俺の先見の明もたいしたものだ」
その言葉に反応した者が2人いた。
マクシミリアン・ルメルシェとクラウディオ・チェルヴォである。前者は負の方向に、後者は正の方向に精神を刺激されたように見えた。
あからさまに気をよくしているクラウディオは放っておいて、グリンステッドは眼鏡の奥の瞳にごく微細な変化を見せたルメルシェの方に声をかけた。
「天才という言葉は嫌いか」
ルメルシェはすこし考えてから、言葉を選ぶように答えた。その態度はクラウディオとは対照的に丁寧であり、感情も抑制されていた。
「その言葉は、あまりに安易に思えます。人間の能力や性質について、何も表現していないのではないでしょうか」
「そうかもしれないな。しかし、これは俺の評価なんだ。――ルメルシェ准将、君はおかしいと思ったことはないか? この戦隊に、ひいては君の艦に問題児ばかりが集まっていることを」
「どういうことでしょうか」
ルメルシェの疑問にグリンステッドが答える前に、ブローデルが口を挟んだ。
「閣下、それは――」
「いや、いい、アマディス。今のうちに言っておく。こんな早い時期に明かすことになるとは想定外だったが、もはや隠してはいられない。それだけの余裕がないんだ。――ルメルシェ准将、第2戦隊は、とくにヴィレッジグリーンは、将来を見据えて編制した天才たちの部隊だ。今のこの弛緩した戦争状態が未来永劫続くなら、それはそれでよい。だがそうでなくなった場合には、つまり本気の戦争が始まった場合には、優秀なグリーンホーンが1人でも多く必要になる。ヴィレッジグリーンは、そのときに備えてブローデルに命じて編制させたんだ」
「え――」
グリンステッドの告白に、ルメルシェは啞然としていた。
「1ヵ所にまとめておいたのは、才能と才能が反応しあうことを期待したからだし、問題があった場合に処理がしやすいという理由もある。君の艦に問題児ばかりが集まったのは、天才を集めたことの裏面だ。往々にして、航宙艦乗りの才能と社会への適応性とは反比例するからな。次々起こる問題のもみ消しも異例の早さの昇進も、俺が手配したものだ」
ルメルシェは明らかにショックを受けているようだった。
それはそうだろう、とグリンステッドは思う。ルメルシェの人となりはおもにブローデルからの報告でしか知らないが、みずからの評価に政治的な意図がまぎれこむようなことを何よりも嫌う性格らしい。であるならば、この告白は彼にとって屈辱的なものだろう。
その点、才能が認められればよいだけの楽天家であるクラウディオとは明確に異なる。こちらの方は、才能ある者は優遇されるべき、と何の疑いもなく思っているような男だ。
「俺は君たちを特別扱いしてきたが、それはまさに君たちが特別であるからだ。そこに引け目を感じる必要はない」
「……お考えは了解しました」
動揺は抜けきっていないようだったが、それでも冷静といえる態度でルメルシェは言った。
「なぜこんな話をするのか。それは、できれば胸襟を開いてほしいからだ。大事な相談をするというのに、隠しごとはよくないからな。まあ、ブローデルのところの諸君はだいたい承知しているだろうが……」
2メートル近い長身の持ち主である第2戦隊副司令カリャライネン准将は黙してうなずき、この場の最年長者であり第2戦隊幕僚長と旗艦首席幕僚を兼ねるヘルケンホフ准将は生来の不景気な顔つきで言った。
「こんなところに配属されるほど私は素行が悪かったんだろうか、といつも疑問に思っているんですがね」
「自分の素行は自分ではわからんものさ」
「猛省します」
ヘルケンホフはため息をついた。
グリンステッドがヴィレッジグリーンの面々の方を見やると、真っ先にクラウディオが言った。
「信頼しますよ。人の能力を見抜ける人は、いい人だ」
クラウディオは上機嫌であるようだった。それに困ったような視線を向けてから、ヴィレッジグリーン首席幕僚兼航宙長バラージュ大佐が言う。
「何かの裏があるような気はしていました」
「おそらく、貴官にいちばん苦労をかけていると思う」
バラージュは言葉では返答せず、一礼をもってそれに代えた。
最後に、ルメルシェが言った。
「……司令官閣下のお話を拒むようなことはしません」
「ありがたい。まあ、構えないでくれ。命令じゃない。個人的な頼みごとだ。気に食わなかったら、内心で軽んじてくれればいい」
そして討議が始まった。先の遭遇戦における敵方の意図についてだ。
ブローデルは、あくまで推測であることを断ったうえで言った。
敵方はこれまで太陽系の安全保障の根幹をなしていた抑止という考えを捨て去ろうとしているのではないか、と。大戦時のような大きな被害が出ることを避けるために暗黙の了解として生みだされた、戦隊対戦隊での小規模な遭遇戦という戦いの形式と訣別しようとしているのではないか、と。
グリンステッドは、うなずいて言った。
「その判断は、おおむね正しいと俺も思う。いや、正しいという前提に立たねばならない。つねに最悪を想定しておかねばならないからな。――しかし、偉い人たちにはまた別の考えがあるようだ」
グリンステッドの言う偉い人というのは、木星軍の最高司令部である幕僚本部、文民組織である木星圏防衛部、さらには木星圏の最高意思決定機関である木星委員会までを含んだ表現だ。
「というと?」
ブローデルが聞き返した。このなかで最もグリンステッドとのつきあいの長い彼は、合いの手を入れるタイミングをわきまえている。
「相手の思惑につきあっていると、最終的には泥沼にはまりこむだけだ。無軌道な流血を無定見にくりかえす事態に陥るだけだ。――上では、そういった見解が大勢だ。挑発的な狂犬は無視しておけばそれでよい、というわけだ」
「……ことが宇宙空間だけの話なら、それもよいでしょう」
「そのとおりだ。戦いはただ戦いで独立して存在するわけではない。宇宙空間の延長には、俺たちの生きる空間がある。楽観視していると、いつか俺たちは土星主義者どもに吞みこまれる。そのことへの想像力がないんだ。危機感が欠如している。戦後60年あまりの凪のせいかもしれんし、《敵》の脅威がとりあえず去ったからだともいえる。いや、《敵》の記憶があまりにも強烈だったからこそ、戦いというものから目を背けているのかもしれんな」
「感覚的なことを言ってよろしいでしょうか」
ルメルシェがややためらいがちに発言を求めた。
「ああ、意見は何でも歓迎する」
「敵の意図ですが……最高統理部や恩寵会議の決定ではなく、もしかすると現場の指揮官の独断ではないかという印象をもっています。九重有嗣中将という、艦隊司令官です。論理的な推測ではなく、いわばノウアスフィアの手触りのようなものにすぎませんが、いかにも粗暴な精神を感じました」
「いくら土星圏が専制社会といっても、そんな暴走はありうるか?」ブローデルが疑問を呈した。「あるいは、いくら八尋の眷属とはいえ」
「いや、実際にノウアスフィアを感じた者の感覚は重要だ」グリンステッドは言った。「ブローデル、敵のノウアスフィアに関しては、おまえも感じただろう?」
「たしかに、あまり気分のよいものではありませんでしたが……」
「……それならそれで、もっとまずいことになるかもしれんな。ひどい惨事というものは往々にして、中央の統制の利かない現場の専行の産物だ。それが前例となって、暴走の連鎖を呼び起こす」
「八尋の眷属、か」
ヘルケンホフ准将が疲れたように言う。
「まったく、英雄の亡霊にいまだ脅威を感じねばならんとはな」グリンステッドは苦笑いする。「しかも、残念ながら受けて立つこちらの体制は貧弱なものだ。上は無理解だし、何より寄せ集めの軍隊に急な戦略の変更は難しい。せめて自国の艦隊だけでもと思って本国に水面下で打診したんだが、今のところ色よい返事はない」
木星軍は、連合の各国軍が母国に所属したまま共同で行動する連合軍である。連合航宙艦隊は17個艦隊からなるが、そのうちグリンステッドらの母国であるカリストに所属するのは5個艦隊である。グリンステッドが司令官を務めるガリレオ方面軍6個艦隊のなかでは、2個艦隊にすぎない。それすらも、満足に運用することができないのだ。カリストもまた連邦国家であり、さまざまな利害がからみあっているゆえだ。
「結局木星圏元帥の称号が必要か。――大規模艦隊戦時代が目の前にやってきているかもしれないのに、このありさまだ。やはり、1度や2度くらい痛い目に遭わないとわからんか。まったく、それまでに俺たちが全滅しなければいいがな」
グリンステッドは慨嘆した。
このときグリンステッドが発した大規模艦隊戦時代という無個性な言葉は、これ以降しばらく続く時代を表す用語として後世定着することになる。しかしもちろん、彼はそのことを知らない。
ふと、それまで退屈そうに話を聞いていたクラウディオが発言した。
「戦略だ何だという難しいことはわかりませんけど、軍隊を強くするためにするべきことはただ1つです。能力のある奴を――天才を高い地位につければいい」
クラウディオの言う天才が誰を指しているのかは、明らかだった。
それにグリンステッドが応じる前に、ルメルシェが口を開いた。
「情けで謹慎を解いてもらった間抜けが、寝言を言うな」
それはもしかすると、この会議が始まって以来いちばん過激な発言であったかもしれない。ブローデルやバラージュが慌ててルメルシェとクラウディオの方を見た。
クラウディオの表情がさっと変わった。顔は上気し、瞳は怒気に満ちた。
しかしクラウディオが激発する暇を、グリンステッドは与えなかった。
「そうだな、適材適所、それに尽きる。それ以外のことは、組織にとっては些事といっていい。チェルヴォ大佐、君には期待している」
クラウディオの怒りは瞬間的に消え去り、表情は喜び一色になった。
グリンステッドは続ける。
「まあしかし、君はもうすこしふるまい方を考えないといけない。政治士官というやつは、なかなか馬鹿にできんからな」
「……はい」
クラウディオの喜びは今度は不本意に変わったが、それでも素直にグリンステッドの言葉を受け入れた。
グリンステッドは、表情を改めて一同に言った。
「幕僚本部もカリストもあてにはできない。頼れるのは、貴重な生き残りである君たちだけだ。到来しうる悪い未来に備えて、艦隊密集戦術の研究に協力してほしい」
それからグリンステッドは、その内容を説明した。
簡単にいえば、先の遭遇戦で九重有嗣が用いた戦術の研究である。その可能性、限界を探り、いざというときに対処できるようにすること。それが研究の目的だった。
ひとしきり技術的な話を行い今後の予定について詰めた後、グリンステッドは余談的に言った。
「八尋の眷属といえば、イアペトゥスでクーデターが起こったらしいな」
「ええ、聞きました」ブローデルが応じる。「八尋家の当主に対する不満は、以前からあったようです」
「にわかには信じがたいことですが……」ルメルシェが言った。「しかも、軍部によるクーデターなど」
文民統制が徹底している木星圏では、そのようなことはありえない。入植初期はともかく、まともな政体が打ち立てられた23世紀以降は皆無だ。もちろん政争やテロは存在するが、軍部や警察による組織的なクーデターなど発生していない。
「そんなに信じられんか」クラウディオが退屈そうに言った。「欲しいものがあったら手に入れる。それがそんなに不思議か? まあ、紳士の俺はしないけどな」
「間抜けは黙っていろ」
またもめごとが起こりかけたのを、今度はブローデルが止めた。
彼は頭が痛かった。ただでさえ考えるべきこと、省察しなければならないことが多いのに、子供の相手ばかりしていられるか、という思いがあった。
檸檬色の髪の優男は、長く息をついた。
会合が終わった後、会議室にはグリンステッドとブローデルだけが残った。
「正直なところ、あの2人を同じ艦に置いておいていいものかどうか、かなり疑問をいだいています」ブローデルは深刻な面もちで言った。「たしかに先の戦いでの彼らの働きは決定的でしたが、あれは個々の独立した動きが結果的に連繫しただけです。積極的に評価してよいかといわれると、私には疑問です。それに、先ほども十分にご覧になったでしょうが、たがいのこととなると、時と場合をわきまえません。いちおう常識人に見えるルメルシェ准将も、チェルヴォ大佐相手では箍が外れます」
「とりあえずうまくいってるうちは、変えるべきじゃないさ」
グリンステッドは気楽に言った。
「うまくいっているとは思えないと言っているんです」
「うまくいっていないにもかかわらず偶然結果を残したのなら、それこそ天の配剤だ。なおのこと変えるべきじゃない。――それに、チェルヴォ大佐、あいつは面白い奴だ。俺は近くで見ていたいな」
あくまで朗らかに言うとグリンステッドは立ち上がり、心配するなというように手を振って会議室を出た。
1人取り残されたブローデルは、ふたたび長いため息をついてつぶやいた。
「そもそも、チェルヴォ大佐と気が合うあなたがおかしいんだ」
10
東雲繁華街から八紘宮外れの一式家旧邸まで、車で15分ほどかかった。
邸は、黒煙を上げていた。炎は上がっていないが、星明かりを遮っているので煙の存在はわかった。
きな臭くまた埃っぽいが、火薬の匂いはしない。爆発は、火薬によるものではないようだ。あの映像を見た印象では空、もしくは軌道から攻撃を受けたようだが、はっきりしたことはいえない。
奇妙な感じがした。
静かすぎるのだ。現在使用されていないとはいえ八侯家の所有になる邸で爆発が起こったというのに、野次馬のたぐいもいないし、消防や警察の姿もない。唐橋や彼が派遣した者たちも来ているはずだが、それも確認できない。
前庭を進み玄関前まで来たところで、彼らを待ちかまえている人物に気づいた。
そこだけは明かりがついていたので、その容姿が確認できる。地上軍の制服を着た細身の人物で、見知った姿だった。
「来ていただけると思っておりました、九重子爵」
凜然たる声の持ち主は、里見蓮生地上軍中尉だった。
何となく予想はしていた。メッセージとしてこの一式家旧邸を爆破したのなら、有嗣の来訪を予期してここで待ちかまえていても不思議はない。
しかし有嗣は、里見中尉などに用があるのではなかった。立ち止まることも応答することもなく、里見の存在をまったく無視してその脇を通り抜け、玄関扉に手をかけた。施錠されていたが警備システムは生きており、有嗣のもっている位階で開くことができた。
扉を開くと、煙と埃の匂いは濃くなった。
照明はついておらず、外からの明かりだけでは内部をうかがうことはできない。火災が起こっているようすはなく静かだが、ただ、妙な気配を感じた。まるで小動物が水でもすすっているかのような気配が、静寂のなかにまぎれこんでいるのだった。
牧野が明かりをつけると、邸内のようすがわかった。ホールへと続く短い廊下に破砕された建材がまばらに散らばっており、ホールの方にいくにつれ密度を増している。爆破されたのが書斎であるという有嗣の見立てに、状況は適合していた。
廊下を進みホールに出たところで、有嗣は息を吞んだ。
瓦礫の散乱するホールの中央に、十字架のようなものが立っている。
爆風で吹き飛ばされた鋼材のようだったが、それに黒いドレスを着た細い女が刺し貫かれていた。
玖子だった。
鋼材は背中から下腹部にかけて玖子の身体を貫通し、床に突き立っていた。見ようによっては、磔にされたようでもある。腹腔を貫いた鋼材は太く、そのため玖子の上半身と下半身は今にも分断されそうになっていた。床の赤い絨毯には赤い血溜まりができており、それは今も拡大しつづけている。
「玖子さま!」
牧野が慌てて玖子のもとに駆け寄った。早足の有視が続く。有嗣は歩む速度を変化させなかった。ライは歩みを止めた。
有視は玖子の身体に触れ、その状態を調べはじめた。もと神祇官である有視には、医療の心得がある。
「……生きておられます」有視がつぶやき、有嗣の方を振り返った。「しかし、これは……」
弟が何に気づいたのか、有嗣にはわかった。
「おまえの診たとおりだ」
先ほどの奇妙な気配は、血液の滴る音だけではない。それは、玖子が生きている気配だった。
玖子の身体の内部から、音がしている。主人の身体を修復し、あるいは生命活動を維持しようと奔走するナノマシンが発する微細な音だ。玖子から酔いを奪ったものの音だ。
身体をほぼ両断され脊椎と内臓を破壊されてもなお、玖子は生きていた。
「牧野、救急をお願いします」有視が言った。「一般ではなく、典薬寮を」
「はい」
牧野が応じる。
有嗣はゆっくりと、鋼材に貫かれた玖子に近づいた。
「玖子」
婚約者に名前を呼ばれた玖子は瞼を開いて、有嗣に視線を向けた。
「……この程度で死にはいたしません」
横隔膜も肺も破壊されているように見えたが、玖子の声は鈴の音のような透明さを失ってはいなかった。むしろそのか細さが、よりはかなげな美しさを生んでいるようでもあった。
「その言葉を信じよう。健康であるに越したことはない。――なぜこんなところにいた」
「そのように動くのが、自然と感じましたから」
「玖子さま、あまり話されない方が――」
有視が口を挟んだ。
「言いましたよ。この程度では死にはしないと」
玖子は有嗣の弟にわずかに笑みを見せた。そのとき、唇の端から血が流れた。
それからふたたび有嗣に向かって言う。
「わたくしは感じたままに――いえ、望まれたままにしか動けません。論理などはわかりません。有嗣さまや従兄さまのように、軍事や政治の世界に生きている方と違って」
政治のことは知らないが、軍事もかならずしも論理で動いているわけでない――有嗣はそう思ったが、口には出さなかった。ただ、あらためて確認した。玖子には、説明ということができないのだ。昔からそうだった。
「典薬寮の救急を呼びました」牧野が言った。「3分以内に着くとのことです。ただ、八紘宮内で部分的に渋滞が発生していると言っていました。ここに来るときには、そのようには見えなかったのですが……」
背後で、足音がした。
振り返ると、里見中尉の姿があった。
「これは――」里見は玖子のようすを目の当たりにして動揺しているようだった。「ここは、長く無人のはずでは……」
玖子は、わずかだけ里見の方に向けて眼球を動かして言った。
「あなたさまが、ここを爆破なさったのですか? でしたら、気になさる必要はありません。ここは久しく使われておりませんでした。ですから、巻きこまれたのはわたくしの都合であって、あなたさまと関わりあいのあることではありません」
里見は言葉を失っていた。
演技とは見えなかった。里見にとって、この事態は想定外なのだ。この長く使われていない邸に来訪者があるとは、まったく思っていなかったようだ。つまり、意図的に玖子を傷つけたのではない。
ふと有嗣は、自分の感情が混乱しているのに気づいた。
婚約者ではあるが、玖子個人に強い情愛をいだいていたわけではない。だから、玖子の現在の状態を悲しんだり、この事態を引き起こした里見らに憤ったりしていたのではない。
むしろ彼の感情を刺激していたのは、愚かしさ、だった。世界の愚かしさ、とでもいうべきものだった。
彼は愚かしさに怒りをいだき、そしておそらくは悲しみもいだいていた。
と、玖子の身体がバランスを崩した。
かろうじて玖子の身体を1つにつなぎとめていた組織が分断され、腹部から下がぐちゃりという音とともに絨毯の血溜まりの上に落ちた。
同時に、鋼材による支えを失って、上半身も重力にしたがってずり落ちた。だが、下半身のように床に落ちることはなかった。
異様な光景が現れた。
玖子の無理やり引きちぎられた腹部から擬足状の組織が何本も飛び出て床を摑み、上半身だけとなった玖子の身体を支えたのだ。まるで頭足動物のような姿で、玖子は立っていた。特徴的な隈がよりいっそう濃くなっていた。
「維持困難な部品は存在するだけ妨げですので、一時的に捨てさせていただきました」
玖子は言った。
「愚かな――!」
有嗣は感情のままを口にした。
激してはいなかったが厳しい口調であり、直接声をかけられたわけではない里見が一瞬すくみ上がったほどだった。
だがまるで恋人に優しい声をかけられたように、玖子は笑みを浮かべて答えた。
「はい」
まったく予想どおりだった。それがまた有嗣の感情を負の方向に刺激するのだった。
そのとき騒がしい音がして、幾人かの制服姿の人々がホールに入ってきた。牧野の呼んだ、典薬寮の救急班だった。
牧野が説明していたからか慣れているのか、彼らは玖子の状態にさして驚いたようすも見せず、黙々と処置を行った。鎮静剤を投与された玖子は意識を失い、分断された下半身とともに簡易培養槽に収容されて運び出された。
5分にも満たない、見事な手際だった。
それと入れかわりのように、気の抜けたような顔つきの男――唐橋が現れた。唐橋は床の大量の血溜まりを見て、事態を悟ったようだった。
「玖子は生きている」
有嗣は事実を端的に述べた。
唐橋はライと里見に怪しむような視線を送りながら、到着が遅れたことについて、事故渋滞に巻きこまれたのだと説明した。先に唐橋が派遣した者たちも同様らしい。叛乱部隊によって規制がなされているのではないか、と唐橋は推測を述べた。
しばらく沈黙していた里見だったが、意を決したように口を開いた。すでに動揺はなく、視線をまっすぐ有嗣に向け、はじめて対面したときのように確信的に言った。
「九重閣下、あなたはつねに行動で示す人でした。その端緒となったのが、かの一式騒動です。あなたは行動によって、現状への批判を示された。たとえ徒手空拳に近くとも、何かを欲するなら行動することができると示された。八尋の世子に、真正面から刃向かわれた。われわれもまた、同様でありたいと思っています。そのことを示すために、そして同じ理想をもっていることを示すために、一式騒動の起こった場所を、つまりはこの場所を爆破しました。あなたへのメッセージとして、号砲を上げたのです。あなたがわれわれを生みました。今度はわれわれがあなたを招く番です。――九重有嗣閣下、われわれの指導者となってください」
「俺の婚約者をあんな目に遭わせてもか?」
有嗣は冷厳に言った。
「申し訳なく思っております」里見はまったく怯まなかった。「あの方については、今後できるかぎりのことをさせていただきます。しかし、あえて申しあげます。閣下には、不可抗力と理解していただけると考えています。新しい歴史の流れのなかの、人の力では対処しえないことであると。閣下とは、痛みを共有しうるはずです。この地上にはびこる悪を、われわれと同じように感じとっているのですから。同じ相手を敵としているのですから。――われわれを導いてください。強大な《敵》を屠った一貴公のように」
里見は深く頭を下げた。
有嗣のなかでは、感情が渦巻いていた。
怒り、悲しみ、蔑み、嘆き、嫌悪。
どうしたらよいかわからなかった。このようなことは、いまだかつてなかった。
宇宙での戦いで、迷ったことはなかった。地上でも、ただ人々の世俗的な思惑が厭わしかっただけで、みずからの感情への対処に困惑しきったことなどなかった。
いや――
思いだした。
1度だけあった。まさに一式騒動のときだ。八尋貴詮に武器を向けたとき。
異様に静かだった。感情は渦巻いていたが、知覚は凪いでいた。
その静寂のなか、やけに大きく鳴る靴音が近づいてきていた。絨毯の上であるにもかかわらず、奇妙に存在感のある靴音だった。
アーダルシュ・ライが、背後から歩いてきていた。そして驚くほど近くから、ほとんど耳もとから声が聞こえた。
「――終わりにしなくては、なりますまい」
それで、急に明瞭になった。
見とおしがよくなった気がした。
感情は渦巻いたままだったが、思考がかき消されることはなかった。何をなすべきか、はっきりとわかっていた。
そう、終わりにしなければならない。自分自身の手で終わらせなければならない。簡単なことだった。
ふと有嗣は、弟との会話を思いだしていた。ひと月ほど前、巡回任務に発ったばかりのころに交わした会話だ。
1つの専行が無数の追随者を生み、最終的に破局へといたった例がいくつあるだろうか――そんなことを弟は言った。
「たしかに有視、おまえの言ったとおりになった」有嗣はつぶやいた。とくに有視に対して発した言葉ではなかった。自問だった。「そこに責任は感じていないし、責任などという概念自体軽蔑にあたいするが……しかし、人間とはかくも度しがたい存在なのか?」
玖子は傷つき、叛徒どもは玖子を傷つけた。一方は生命を毀損され、もう一方は手を汚した。誰も幸福になっていない。誰も得をしていない。
――愚か者に幸福になることは許されていないのか? 愚か者が愚か者として生をまっとうすることは許されていないのか?
有嗣はみずからに問いかけ、そして否定した。
――そんなことはない。断じてそんなことはない。
有嗣は懐から銃を取りだし、銃口を里見に向けた。
里見は動転したりはしなかった。有嗣の視線を真正面から受け止め、確固たる口調で言った。
「あなたは、歴史における同志を撃てるのか?」
有嗣は返答するかわりに、引き金にかけた指に力をこめた。弾丸に額を撃ち抜かれ、里見はその場にくずおれた。
そして有嗣は、その場にいるすべての者に聞こえるよう、決然と言った。
「この馬鹿げた騒動を終わらせる。半日でだ」
「……しかし、どうやって?」
唐橋が聞いた。彼はすでに、射殺された里見中尉には関心を払っていなかった。
唐橋の問いの意味は明らかだった。有嗣にはイアペトゥスの地上における公的な権限はないし、私兵すらもっていない。そのようなありさまで、どうやって叛乱を「終わらせる」のか。
対して、有嗣はきっぱりと言った。
「決まっている。俺の艦隊を使う」