星海大戦

第一部 転章 統治者たちと被治者たち

元長柾木 Illustration/moz

元長柾木が放つ、渾身のスペースオペラ!10年代の文学シーンをリードする「星海社SF」ムーブメントの幕開けを、“たった今”あなたは目撃する————。

転章 統治者たちと被治者たち

1

一七年ぶりに訪れたクルクシェートラの中心街の光景は、アーダルシュ・ライにとって、あらかじめ想像していたほどには懐かしいという感慨を引き起こすものではなかった。

通りは、人でごったがえしていた。

煉瓦れんが敷きの街路はたっぷりと幅員がとられているが、異邦人が歩いたならば、一〇秒に一度は道行く人と衝突してしまうだろう。そんな人出だった。しかし、その日とくにもよおごとがあるわけではない。ディオネ最大の都市の中心街としては、あくまで標準的な人込みである。

通りの両側には、擬コロニアル様式の白っぽい建物が立ちならんでいて、飲食店や服飾店、雑貨店といった店舗、ゲーム場やカジノのような娯楽施設、さらに銀行の支店や公共サービス機関の出張所などが入居している。少し離れた区画には学校や病院などもあり、基本的にこの界隈のみで、生活と娯楽に必要なものはおおむね手に入れることができる。そのように、街区が都市計画者によって設計されていた。

天には両側の建物によって区切られた薄紫の空が見えているが、このあたりは透明の天蓋てんがいに覆われているため、雨天でも地上にまで雨滴が届くことはない。

通りの中央にはニレ科の高木とベンチとが交互に配置されており、その間では色とりどりに彩色された屋台ワゴンが軽食や安価な服飾品のたぐいを売っている。

店舗の格式はまちまちだ。落ちついた雰囲気の宝飾店もあれば、客の出入りの激しいファストフード店もある。地球時代から続く手縫い靴の工房が店を構える一方で、その真向かいでは大量生産の衣料品が扱われていた。そこで扱われる商品の価格はさまざまで、街を行く人々の身なりも均一ではなかった。一言でいえば雑多であったが、しかしそれでも、目に入る街並みすべてに共通していることがあった。

清潔感がある、という点である。

建物や街路はメンテナンスがゆきとどいており、ごみ入れのたぐいもなるべく人々の目にとまらぬよう配置されていた。異物に心をわずらわせることなく買い物や街歩きが楽しめるように、空間設計がなされているのだ。

しかしそれでいてけっして人工的なよそよそしさを人々に感じさせるようなことはなく、むしろ色とりどりの欲望が街区でからみあって活気に満ちあふれていた。模造品めいたしらじらしさはあったが、それは人々からエネルギーを奪いとる要因とはなっていなかった。

代謝の激しい繁華街という性質上、商業施設の多くは一七年前からだいぶ変わってはいたが、基本的な雰囲気は昔のままだった。しかし、久しぶりのその雰囲気に接しても、さほどに懐古の情は湧きあがってこないのだった。

ライにはその原因が、すでにわかっていた。

街並みが何とはなしに航宙艦内部に似ているからだ。もちろん細部を見れば異なるところは多々あるが、全体としてかもしだす雰囲気はよく似ている。すくなくとも彼はそのように感じていた。

周囲の配色は多彩ではあったものの、それでも一定の統一はとれていて、個々のものから目を離して全体を感じとるならば、風景は柔らかい暖色として知覚された。その暖色が、航宙艦内部と似通っているように感じられるのだった。

戦争を遂行する装置である航宙艦と、日常の生活空間である街。いってみれば死と生をそれぞれ象徴するものが似ているというのは、おかしな話であるのかもしれない。しかし彼の見方では、それは必然だった。死と隣りあわせの戦場で航宙艦を一定の水準を保って運用するためには、乗員を恐怖という感情から遠ざける必要がある、そのため艦内部は精神の緊張を緩和させるよう環境設計がなされているそういった人間工学的な観点からの説明は正解だが、しかし本質ではない。

戦争とは平和な社会のうえに成立するものであり、そうである以上、戦場と生活空間が似通った雰囲気をもつのは当然であるのだ。基本的に、両者は同じものなのだから。それは、人類のこれまでの何千年にもわたる歴史における「戦争と平和」のあり方とは、明らかに様相を異にしている。そのような時代の変化は、もちろん歓迎すべき、すばらしいことだ。万人にとって。

ライは、内衛星出身者としては皮膚ひふの色素が薄い。タイタンやイアペトゥスの者とさして変わらないほどだ。

しかしその顔貌には出身地の特色が色濃く出ていて、武骨というほどではないが彫りは深く、眉は濃く直線的だ。瞳の色は蒼だが、これも内衛星の人間としてはさほど珍しくない。

ただ異郷での生活が長いことが、内衛星的な身体的特徴を所有しているにもかかわらず、彼を道行く人々から若干じゃっかん浮きあがらせていた。つい先日までの居住地である木星圏のガニメデで購入した衣服は、土星圏にあっては少しばかり柔弱に映る。この地の空気に溶けこむことを意図して巻きつけた頭飾ターバンも、いかにも間に合わせの観があって、違和をよけいに強調する結果となっていた。もっとも彼を周囲から浮きあがらせている主たるものは、そういった外見ではなく、全身から発散される疲れたような雰囲気かもしれない。まず精悍といっていい顔つきをしているにもかかわらず、どこか退嬰たいえいを感じさせるのだ。

とはいえそれらの特徴は、個性の範囲内といえる程度のものであり、周囲の人々は赤の他人である彼に興味をもつほど暇ではなかった。彼はぽつねんと、チャパティを売る店が一階に入居している建物の壁に背をもたせかけて立っていた。

彼は、一七年ぶりにこの地に帰ってきた。

三三年前、ディオネ最大の都市であるこのクルクシェートラに生まれ、少年期にいたるまでほぼこの街のみで生きてきた。しかし彼は、他の人々と同じような狭い範囲での平凡な人生を選択しなかった。

一六歳のとき、高等学校在学中に、みずからの意思で木星圏に亡命したのだ。彼はおとなしく慎重な性格の少年であり、それまで亡命を示唆するような言動をまったく見せていなかったため、周囲の人々にとってはまるで唐突な出来事に感じられた。誘拐ゆうかい拉致らちが疑われたほどだった。

ともかく彼の亡命は受け入れられ、ガニメデの大学で法学と政治学の教育を受けたのちに、政治士官として木星軍に出向した。

軍においては、堅実な勤務ぶりを発揮した。特別に才気煥発なところをみせるわけではなかったが、大きな失敗をすることもなかった。むしろそのことが評価されて、彼は順調に昇進を重ねた。

しかし彼は亡命してきたときと同様唐突に、木星委員会に辞表を提出した。理由を問われても一身上の都合としか述べず、その受理を確認しないままに木星圏を離れた。在職期間は一一年で、政治士官としての最終階級は人文少佐だった。

そして彼は、ふたたび故郷であるディオネの地を踏んだのだった。

それはたんなる帰郷ではない。再亡命である。いったん故国を捨てた、しかも政治士官とはいえ敵国軍属だった人間の再亡命はそれなりの困難をともなったが、最終的には申請は認められた。それから一週間も経っていない。

このクルクシェートラの中心街を訪れたのは、観光が目的なのではなかった。

彼は人を待っていた。

相手は、もうすぐ来るはずだった。アポイントメントはとっていないが、この時間にこの場所にいれば問題なく会えるはずだった。その相手は、昔から規則正しい生活を送る人物だった。

はたして、しばらくすると、通りの向こうの方から明るい青色をした車輛がゆっくりとやって来た。

清掃車ガベージトラックだ。

混雑した街路を、人々の間を縫うようにして低速で走行している。その運転技術は卓越していて、ふつうに歩いていても他人とぶつかりそうになる通りを、幅三メートル、奥行き五メートルほどの車輛が接触事故を起こすこともなく走行している。しかし事故の発生を防いでいるのは、運転技術のみではなかった。通行人の方も、あえて意図することもなく清掃車を回避し、車輛の通り道を作っているのだった。

その様子は、事情を知らない者が見たならば、まるで魔術のようだと感じるかもしれない。実際、それは人工的な魔術なのだった。

ここを歩いている者たちの多くは、走行している車輛をそれとは意識していない。視界には入っていても、存在を意識しないうちに回避行動をとる。彼らは、みずからの行動をほとんど自覚していない。心臓を動かすことを自覚しないように。これは清掃車の運転手の方でも同様で、ただ技術が卓越しているのみではない。夾雑物きょうざつぶつを意識せず回避するように、彼ら全員の神経系が配線されているのだ。

それが、魔術の正体だった。

その点においては、ライも同様だった。彼の神経系にも、他の人々と同じ処置がなされている。だから、本来ならば彼も清掃車の存在を意識することができない。にもかかわらず、彼ははっきりとその車輛を認識していた。

彼は、ちょっとした視線の動きや呼吸の調整によって、生理的なレベルで社会に構築された枠組みを抜け出ることができた。それは生まれつきできたことで、具体的なすべを他人に説明することはできない。ただ、何となく「こつ」のようなものがある、としか表現できない。もっともこの技術については、物心がついてからはごく一部を除いて他人には話していない。

その技術は、ある程度は他人に対しても影響を与えることが可能だ。

ライは頃合いを見計らって、その技術を行使した。具体的には、右手で頰を撫でた。

それだけだったが、それで十分だった。

人込みをかき分けて走行していた清掃車が、進路を変更した。ゆっくりと彼の前までやって来て停車すると、窓が開き、運転手が顔を見せた。

ベージュの制服に身を包んだその男は、ライと同じくらいの年恰好かっこうだった。しかしライとは対照的に色黒で、柔らかな縮れ毛も瞳の色も黒だった。放つ雰囲気も対照的で、疲れたような空気をまとっているライに対して、生命力を感じさせる男だった。ただそれは他人に圧迫感を与えるたぐいのものではなく、バランスよく発達した肉体の健康が生みだす活力だった。

「アーダルシュか?」

その男が口を開いた。小声に近い穏やかな口調だったが、この雑踏のなかでも耳に届く存在感があった。

語尾は疑問形だったが、男の表情には怪訝そうなところは表れていなかった。

「覚えていてくれて認識してくれて、嬉しいよ」

ライは笑みを作って言った。

「そんな風にひょっこり認識に入りこんでくるのは君くらいだからな」

その男はパンナラル・マスカーラ。ライの古い友人だった相手が今もそう感じてくれているのなら。対面するのは一七年ぶりだ。ライが知るかぎりでは、曾祖父そうそふの代からこの界隈で清掃業に携わっている。

「なぜこんなところに?」

マスカーラが聞いてきた。

それは当然の問いだった。一七年も前に突然亡命していった人間が、また突然目の前に現れたのだから。相手が警戒している様子はないが、そうされても不思議ふしぎではない。

ライは正直に返答した。

「再亡命した。出戻りだ。今の俺は、間違いなくディオネの人間だ」

それに対してマスカーラは疑う様子も見せず、屈託なく破顔した。

「そうか。久しぶりだな。いつこっちに?」

マスカーラが差しのべてきた手を、ライは握った。

「一七年ぶりになるかな。ディオネに着いてから、まだ一週間と経っていない。つい一昨日、位階化ハイアラーカイズの処置を受けたばかりだ。こんな立場だから、少しばかりきつめに。おかげで、認識の枠を出るのにちょっと苦労した」

「たしかに、昔ほどスムーズじゃなかった。だから、君だとは確信できなかった」

ディオネを含む内衛星の人々は、脳に「位階中枢」と呼ばれる独特の器官をもつ。直径五ミリほどの小さな器官だが、これによって人は、階級が異なる者と接触することを無意識に回避することができる。ただしこの器官の機能はあくまで階級の異なる者同士を意識させないことであり、思考にまで影響を及ぼすことはない。人々がこの混雑でもめったに衝突したりしないのも、清掃車が事故を起こさないのも、位階中枢の機能による。

内衛星においては、基本的にすべての者が生得的に位階中枢をもっている。何世代も前の祖先がみずからに対して施した遺伝子工学的処置の産物であり、それが適宜修正されながらも、現在にいたるまで受けつがれているのだ。内衛星の階級制度を支えている、一つの重要な要素である。

ただ外国からの移住者などは当然そのような器官をもっていないため、人工的な処置が必要になる。それが位階化ハイアラーカイズである。ライはディオネ生まれだが、木星圏に亡命した際に位階中枢の機能をいったん解除されているため、この処置を受ける必要があった。

土星圏の内衛星は、太陽系のなかでも最も階級分化が進んだ社会である。

階級の起源は、植民初期における分業体制である。コロニーの規模が小さいうちは、血族ごとに職業集団を形成し、血統によってその職業と独自の技術とを継承させた方が、教育をコロニー社会全体が引き受けるより効率的だった。

その後植民が進み社会が教育をにないうるほどに大規模になっても、職業集団は階級として温存された。経済的意味はなくなったとしても、倫理的な意義は残っていると判断されたからである。

自分と関わりのない世界とのコミュニケーションをあらかじめ断絶することによって、衝突は未然に防がれる。人々はみずからの所属する世界のなかで、平和に、幸福に生きることができる。階級によって、人は他者に寛容になれる。内衛星の人々は、そのように考えたのである。であるからこそ、みずからの遺伝子に工学的処置を加えることも積極的に受け入れたのだ。

いくら権威主義的な階級社会である土星圏であっても、生理的な身体改造を導入した階級制度をもっているのは、内衛星のみである。それゆえにこそ、内衛星の統治者ラージャたちは、この地こそが人類社会で最も幸福な場所である、と胸を張る。それはまったく根拠のないことではなく、犯罪発生率の低さ、人民幸福度、そして何より平均寿命といった統計的数字において太陽系随一であり、また人口増加率も高い。

もちろんそのような、人間の自律を無視した「幸福」な社会など、木星圏の者たちからすれば唾棄すべきものだ。だからこそライは、亡命した直後に位階中枢の解除処置を受けたのである。

「苦労しなかったか? 手続きには」

マスカーラは、ライが木星圏に亡命し、ふたたび故地に戻ってきたことについて、その理由や事情を追及するようなことはしなかった。

「面倒といえば面倒だったが、たいしたことはない。結局、土星こちらでは人間を数字としてしか把握しないから。人口が一人増えることは、それだけで善とするにあたいする。木星あちらだったらそうはいかない。それなりの理屈が必要になっただろうな」

そこでふと、ライは空を見上げた。そしてつぶやいた。

トヴァシュトリ号」

ディオネは内衛星最大とはいえ、直径一〇〇〇キロ強にすぎない。さほど厚くない大気層の向こうに、航宙船の群れをはっきりと見ることができた。宮殿のごとき装飾が施されたひときわ大きな白い船を中心に、その周囲を護衛するように暗色の船が何隻かとりかこんでいる。

白い巨船は、シャルマ家の所有する、統治者ラージャ専用船だった。

「そうか、恩寵会議か」

その船は、土星圏全体の意思決定を行う会議に出席するため、統治者ラージャを乗せてディオネを発したところなのだ。

「君の悪癖あくへきは変わらないな。そうやって、みずからの枠を越えようとするところは」マスカーラの口調と表情からはいくらか明るさが消え、そのぶん心配するようなものに置きかわっていた。「人は、この場所にいれば幸福だ」

「知っている」そうマスカーラに応じたのち、少し間を置いてからライは言った。「だからそれをより広めたいとは思わないか? 時間的にも、空間的にも」

マスカーラは、ライの顔をまじまじと見た。その表情からは、友人の将来を案じる感情の存在をはっきりと見てとることができた。その眼差しは、あくまで優しかった。ただ全体的な雰囲気としては情け深いのみではなく、鷹揚おうようとも茫洋ぼうようともいえるつかみどころのなさをも感じさせて、それが一定の奥深さをその男に与えていた。

アーダルシュ、君は少年のころにもそんなことを言ったな。たった一度だけだったが」

「そのために木星むこうで見聞を広めてきたんだ、パンナラル。それで、確信を得た。人は、《人なる神》を見いださねばならない」

ライもまたマスカーラの顔を見つめた。具体的なことは言わなかった。言わずとも伝わると思ったし、そうでなくとも再会してすぐに路上で話すことではなかった。

「幸福はおのれのうちにある。神にではなく」マスカーラは言った。「それより君は幸福か? 君が幸福でないように見えることが、私は悲しい」

「そう見えるか?」

「幸福は現在進行形で今ここにある。未来にではない。今ここにあるもの以外は、人を不幸にする余計な観念だよ。君はあちらで、木星主義者ジュピテリストふうの観念論を学んだのか?」そこでマスカーラは車輛に備えつけられた機器を確認した。「ああ、申し訳ない、まだ仕事が残ってるんだ。また会おう」

言葉どおりすまなそうに言うと、マスカーラは窓を上げて閉め、運転席下部のペダルを踏んだ。清掃車はゆっくりと走行を再開し、また魔術のように人込みをかき分けていった。

ライは清掃車の去るのを見送ってから、もう一度空を見上げた。統治者ラージャの船たちは、すでに遠ざかっていくつかの輝点にすぎなくなっていた。その輝点に向かって、彼はつぶやいた。

違う、パンナラル。永続する幸福だけが、真の幸福なんだ」

2

「恩寵主義による土星圏専制包摂ほうせつ群体」の構成政体は一〇〇近いが、最高意思決定機関である恩寵会議に代表を送りこむのはそのうち五箇国のみである。土星圏としての意思決定に参加しない他の国々は、実質的には自治区といっていい存在である。よって一般的には、土星圏の構成国は五箇国だとされる。

それらはすなわち、人口規模の大きい順に、タイタン氏族連合、内衛星統治者連盟、レア大公国、イアペトゥス王国、ミーミル組合ツンフトである。

このなかでは、タイタンの国力がすべての点において他を圧倒している。たとえばタイタンは二〇億を超える人口を擁するが、第二位の内衛星は二億ほど、五箇国中最小のミーミルのそれは五〇〇万にも満たない。

これは単純に、物理的な大きさにもとづく。土星圏においては、タイタンが群を抜いて巨大なのである。

天体が物理的に大きければ、可住面積が大きくなるのはもちろんだが、それより重要なのは質量である。もちろん密度によっても異なるが、天体が大きければ質量も大きくなり、それだけ重力も大きくなる。地球重力である一Gを超えないのであれば、重力が大きい方が小さいより人間にとって快適であるし、テラフォーミングも容易であり環境維持にかかるコストも小さい。実際、歴史上、テラフォーミングはおおむね天体の物理的規模が大きい順になされた。

そのような事情によりタイタンが土星圏全体の富の八割近くを占めており、必然的に土星の政治はタイタンを中心に動く。だから土星軍太陽系艦隊のうち土星周辺を担当する母星クロノス方面軍基地も、タイタン周回軌道上に置かれている。

第六艦隊が方面軍基地に帰還したその日のうちに、九重有嗣は烏羽玉うばたまを降りることができた。

戦捷を祝賀する儀式のたぐいはなかった。今回の戦いはあくまで、通常の巡回任務のなかで起こった想定しうる出来事の一つにすぎなかった。

動員した戦力も得た戦果も、ここ数十年のなかでも最大級のものだったが、形式的には特別なことなど何も起こっていないのだった。たまたま艦隊規模で巡回任務を行い、たまたま敵と遭遇してこれを撃滅した。それだけのことだった。

有嗣にとって、その扱いは不満ではなかった。そのように彼自身が根回ししたのだから当然だ。有嗣にはまだ、「特別なこと」を行う政治的な力はない。ならば、形式上の通常の枠内で、通常を超えることを行うしかなかった。

それに有嗣の感情の問題としても、今回のことで賞賛されようとは考えていない。記念すべき始まりではあっても、軍功などではけっしてない。すべては、これから始まるのだから。

有嗣は烏羽玉を降りると、基地内に与えられた執務室へと向かった。微小ではあるが重力があるため、かろうじて歩くことができる。

伴っているのは、有視一人だった。一個艦隊を率いる身としては、そしてイアペトゥスの子爵としては、異例なほど身軽といえた。副官も家令も連れていないし、戦隊司令以上にはつけられる警備要員の随行も拒否している。

暗殺のたぐいを、彼は恐れてはいない。しかしそれは、勇敢さのゆえではない。暗殺を恐れるほどの高みに自分はまだ昇っていない、と考えるためである。

と、軽い衝撃を受けた。何かがぶつかって、有嗣はバランスを崩した。

小さな人影が微小重力のなかを飛翔するように直進してきて、有嗣と衝突したのだった。

「わ、ごめんなさい」

ぶつかってきた相手は慌てた様子で言うが、微小重力に慣れていないのか、姿勢は一定していなかった。

危険は感じなかったため、とくに緊張することもなく、有嗣はその相手を観察した。

一〇代前半くらいの少女だった。当然軍服は着ていない。何となく全身から寸足らずな印象を発散していて、いかにも子供っぽく見える。黒くつやのある髪は短く刈っており、男の子に見えなくもない。今は慌てていて小さな丸顔を赤く染めてはいるが、眉目は直線的で、本質的には勝ち気な性格のように感じられる。顔立ちの彫りは深くない。有嗣と同じイアペトゥスか、あるいはタイタンの出身だろう。

ウェン!」

少し離れたところから、男の声がした。

そちらのほうを見ると、軍服を着用した男が、若干慌てたような様子でこちらに向かってきていた。その人物に見覚えがあるような気がしたが、定かではない。他人の顔を覚えるのは得意ではないのだ。階級章は、少将を示している。有嗣よりは年上に見える。三〇代前半といったところか。ともあれ、まだ有嗣の目の前でバランスをとることに四苦八苦している少女は、その少将の子女か何かなのだろう。

少将は左手で少女の後ろからえりを摑んで強引に直立させると、有嗣に対して右手で敬礼した。

木容推ムーロン・トゥイ少将です。妹が失礼をしました」

少女は少将の娘ではなく、妹だったようだ。そしてタイタンの出身なら、微小重力に慣れていなくても不思議ではない。さして興味はなかったが、そんな感想をもった。

有嗣は軽く答礼すると立ち去ろうとしたが、ふと思いついたことを口に出してみた。

木容ムーロン少将といったか。これは仕組まれた出会いか?」

妹を使って出会いを演出したのか、と問うたのだった。少将は一瞬怪訝そうな顔をしたが、すぐに有嗣の言葉の意図を解したらしく少し困ったような顔をした。

激しい反応を見せたのは、木容少将ではなくその妹のほうだった。幼い顔に怒気をあらわにして、兄に襟を摑まれたまま食いかかってきた。

「お兄ちゃんがそんなことするかっ!」

嚙みつかんばかりの勢いでなかなか迫力があったが、有嗣はとくに気圧けおされはしなかった。

「これは失礼した、ただの思いつきだ」

有嗣が言うと、木容少将は一礼し、妹を引きずるようにして去っていった。そのあいだも妹は罵声ばせいを発していたが、有嗣の意識からその少女のことはすぐに消え去った。もともとさして興味がなかったからだし、兄妹と入れ替わるようにして今度は有嗣のよく知った人物が目の前に現れたからだった。

八尋貴詮たかあきらの秘書官だった。

八尋家の当主であり実質的なイアペトゥスの最高権力者である八尋貴詮が、会議室の一つで有嗣を待ち受けていた。有視は有嗣の判断で席を外させた。

「太政大臣閣下じきじきに足をお運びいただくとは恐縮です」

八尋貴詮は四〇代後半の、洒脱な印象の男だった。周囲を萎縮させる狷介けんかいさをつねに放っている有嗣とは違って、権力者に必要な包容力を感じさせた。

「何、プロメテウスへの行きがけだ」

貴詮は何でもないように言った。つまり恩寵会議に向かうついでということだったが、それにしても一国の最高権力者がわざわざ訪問してくるというのは並大抵のことではない。ある程度用件は予測できていたが、有嗣は警戒した。とはいっても、警戒が役立つような話術を彼はもちあわせていなかったが。

たがいの健康状態や有嗣の婚約者についての世間話の後、貴詮は本題に入った。

「一個艦隊で一個戦隊をなぶり殺しか。たいへんなことをしでかしてくれたものだ」

「この運用の決定は私の独断ではありませんし、戦闘そのものも偶然の遭遇戦です。通例と変わるところはありません」

有嗣はまったくの真実を述べていた形式上は。

貴詮はため息をついた。

「口調にまるで誠意がない。少しはごまかそうとすることだ。そういった拙劣せつれつな人間味が、身を救うこともある。昔から変わっていないが、それを知ることだ」

「恐れ入ります」

ふたたび、貴詮のため息。

貴様の予定どおりなのだろう?」

慈父的な口調から一転して、切りこむように貴詮は言った。それまでの鷹揚さは消えてなくなり、権力者としての厳しさが表面に浮上していた。

もちろん、予定どおりだった。かといって、肯定する言葉を望んでいるとも思われない。相手も先刻承知のはずだからだ。こんなとき、有嗣は困惑してしまう。わかりきったことをわざわざ問う相手に、どのように返答すべきかわからない。

「返答は先ほどと同じになりますが?」

貴詮の反応は今度はため息ではなく、かすかないらだちだった。ただそのなかにも、何かしら憐れみめいたものが混入していたかもしれない。もちろん有嗣の錯覚である可能性が高いが。

貴詮は一歩詰め寄ってきた。

「率直な物言いしかできない貴様のために、私もあえて率直に話そう。今日は、多少の不利益を抱えこむことになっても、貴様が守るにあたいする人間かどうか、確かめに来たんだ」

「なるほど。で、私は利用するに足る人間でしょうか」

長い沈黙の後、貴詮は言った。

「それは、これから考える」

そして用は済んだとばかりに退室しようとした貴詮に、有嗣は声をかけた。

「ありがとうございます」

それは口をついて出た、率直な言葉だった。意外そうな顔をして、貴詮が振り返った。この会談ではじめて見せる表情だった。

有嗣は感謝の言葉に込められた想いを、やはり率直に述べた。

「どうも、自分が青二才であることを忘れそうになっていたところです」

それはかならずしも、貴詮にとっては満足のいく説明ではなかったようだ。それでも何かしら思うところがあったらしく、こう口にした。

戦場で何かあったか?」

「何もありません、戦場には。つまらない、殺伐とした、荒涼とした、不毛な死、それだけです」

最後のところで、有嗣は本音を語らなかった。それは自分の心の外に出すつもりのない想いだった。

「そうか」

それ以上追及せず、貴詮は去った。

有嗣は心中で確認した。自分は青二才なのだ。戦場でちょっとした邂逅かいこうがあったくらいで、青二才であることを忘れるわけにはいかないのだ。

青二才でありつづけること。それは、すべてをみずからの前に立ちはだかる敵として認識し、その敵どもと切り結びつづけるということだ。青二才であることをやめたら、そこで立ち止まってしまう。立ち止まったところに、勝利も武威もない。

青二才であることをやめては立ち止まってはならないのだ。

3

直径三〇キロほどの小惑星イダルゴは、天体としてみるならばさして特徴的ではない。テラフォーミングが可能なほど大きくはないが、人の定住が不可能なほど小さくもない。この程度の大きさの都市国家は、太陽系内にいくらでも存在する。

しかし一つ、イダルゴは他にはない大きな特徴をもつ。

イダルゴは離心率の大きい楕円形の公転軌道をとるが、その近日点は一・九六AUと、二AUを下回る。にもかかわらず、どのような理由によってか《敵》による破壊を免れた、太陽系内でただ一つの天体なのである。バルニバービ協定以後、幾度も二AU圏に入りこんでいるが、いまだイダルゴは健在である。

イダルゴの内部は大規模に掘削されて、そこには往古の地球上に存在したバロック様式の宮殿のような、時代錯誤的な施設が構築されている。この「宮殿」は、太陽系全体に大きな影響力をもつ企業であるカオスモーズ・デモニクスの本拠であり、その経営者であるカオスモーズ家の居館も兼ねている。

その宮殿の、不必要に天井の高い一室に、カオスモーズ家の現当主の姿があった。

部屋の壁面全体に巨大な戦争画が描かれており、その人物はゆっくりと歩きながらそれを鑑賞していた。イダルゴ全体が重力制御下にあるため、問題なく大理石の床を歩くことができる。

部屋の大空間と壁画の雄大さに比して、当主の姿はあまりに小さかった。

エレオノール・カオスモーズという名のその女性は、おそろしく華奢きゃしゃだった。身長も一五〇センチに満たず、子供のような体つきをしていた。目鼻立ちも小ぶりで、成長しきっていないような印象を与える。腰まで長さのある明るく透けるような金髪も、その容姿を子供っぽくみせるのに味方していた。

客観的には、その女性は一〇代前半の子供に見えた。

しかしその後ろに控えている、カオスモーズ家の使用人であるブランディーヌ・クザンは、彼女が見た目どおりの年齢でないことを知っていた。

「英雄候補がまた一人、いえ二人誕生したわね」

一〇代前半の子供そのものの声で言い、エレオノール・カオスモーズは使用人のほうを振り返った。両手を後ろで組み、上半身だけで振り返るその仕草しぐさもまた子供じみている。

「ねえ、英雄とは何か、知ってる?」

問いのかたちをとって言葉が発せられたが、当主の性格を知っているクザンは返答しなかった。多弁な彼の雇用主の問いは形式でしかなく、話しはじめるためのきっかけにすぎなかった。

クザンは企業であるカオスモーズ・デモニクスではなく、カオスモーズ家に雇用されている使用人である。まだ採用から三年ほどの線の細い青年にすぎないが、なぜか当主に気に入られてその話し相手を務めることが多い。

「英雄とは、作られた者のことよ。けっして、才能ある者のことじゃない。大戦が始まってからこれまでに生まれた、寛容階級トレランスクラス7相当のグリーンホーン、推定一六〇〇人。そのすべてが英雄となるわけじゃない。英雄は、作られてはじめて英雄になる。いえ、英雄になる権利を得る。そして『英雄』という『場』に身を置きつづけることによって、その英雄性を増進させる。歴史上、みんなそうだったし、とくにグリーンホーンなんて手合いはそう。あの頓狂とんきょうなマリーヤ・アントノヴァを思い出してみればわかるでしょ? あの子はたんに、一人のお調子者にすぎなかった。だけど、英雄というのはそういうもの。ちょっとした間違いで調子に乗りすぎちゃった人たちのこと。そうでないなら、酔狂にも調子に乗ることを自分に命じちゃった人たち。ほんとに、気の毒なこと。だけど、そんな英雄が歴史を動かすの」

クザンは心得ていた。彼女に話しかけるなら、このタイミングだった。

「歴史を動かすのは、エレオノールさまではないのですか?」

「わたし?」

エレオノールは微笑んだ。それはあどけない子供の笑みのようでもあり、底知れない邪気を秘めているようにも見えた。慣れてはいたが、それでもクザンは背筋に寒気が走るのを感じた。

「わたしは歴史を動かさない。わたしは、歴史を経営する

エレオノールの言葉は、あながち誇大妄想ではなかった。

あらゆる通信に使われる暗号システム。隣家の不倫から戦争までを報道し、間男もグリーンホーンも等しくスターに祭りあげるメディアネットワーク。木星圏のリアルタイム直接民主制を支える投票システム。無に価値を与え消費者を眩惑げんわくする商品広告。土星の内衛星の人々の位階中枢を侵入から守る生体電子防壁。航宙艦で使用される戦術神経リンク。家庭から中央政府までのさまざまなレベルで活用されるデータベース

それらすべてがカオスモーズの手になるのであり、そしてその他、情報の関わる分野でカオスモーズの扱わないものはない。カオスモーズが提供するサービスが存在しなければ、木星にせよ土星にせよ統治機構が成立しないだろう。すくなくとも、かなりの後退を強いられることになるに違いない。

もちろんそれらは現当主である彼女のみの功績ではないが、カオスモーズが太陽系宇宙の主たるプレイヤーであることは間違いないのだ。

エレオノールはふたたび壁面に相対し、戦争画を見上げた。

これは大戦期に、先代当主が地球から持ち出したものだ。絵画に限らず、地球時代の芸術品がここイダルゴには多く所蔵されている。

惰性だせいなのか本気なのか、どっちでもいいけれど、戦争ばっかりして馬鹿みたい」

「ですが、戦争のゆえに英雄が生まれます」

クザンはエレオノールの望む方向に話を誘導した。

「もちろん、そのとおり。馬鹿、大いに結構じゃない。きっと、英雄たちの未来の戦いはもっとスピーディに、ことによるともっとコミュニカティブになる。まるでノウアスフィアで直接殴りあうみたいな。さて、それがどんな歴史を生むのでしょうね。わたしの手を汚すつもりはさらさらないけれど、とっても楽しみ」

4

クラウディオ・チェルヴォは、円形広場に面したカフェのテラス席で砂糖を大量に放りこんだチャイをすすりながら、ぼんやりと風景を眺めていた。

広場をとりかこむのは、おおむね赤茶けた色彩の煉瓦造りの建物だ。どれも五階建てくらいの高さで、同じようなアーチ形窓が壁面に並んでいる。

街並みのなかで一箇所だけ他と趣向が異なるのは、丸いドームをもった教会建築だ。この中では複数の宗派の宗教儀式が行えるようになっている。教会は鐘楼しょうろうを備えており、その影がクラウディオのテーブルにまで届いている。

ただ、街並みといっても、ほぼ天体全体が基地施設となっているパシファエの内部空間である。巨大な官舎といったほうが正確かもしれない。

もともとが人が住むための場所ではないので、規模もさして大きくない。クラウディオの生まれ故郷のヒューゴ・ビルイェルと同程度だ。街並みも何とはなしに故郷に似ている気がするが、これはクラウディオが建築様式に詳しくないだけで、色合いくらいしか似ていないという可能性が高い。

「こんなところにいて怒られない?」

鐘楼の影に、人影が重なった。

モニカ・スカラブリーニが弱い逆光のなかで、こちらを見下ろすように両手を腰に当てて立っていた。身長は高くないが、妙に威圧感があった。

「俺なりに謹慎きんしんしてるんだ。別に、部屋でじっとしてろとも言われてないしな」

土星軍との戦いにどうにか生き残ってパシファエまで帰還したが、ヴィレッジグリーンは即座にドック入りして修理に入った。クラウディオは事情聴取を受けたのち、謹慎処分となったのだった。ただとりたてて監視の目があるわけではなかったため、こうやって外出してきているのだった。

ふうんと応えてから、モニカはとくに許可も求めずクラウディオと同じテーブルに着いた。今日は二人とも私服だった。

「何だか、不公平だね」

ギャルソンにカフェを注文してから、モニカはそんなことを言った。

「何が」

「ルメルシェ准将は、みんなから英雄扱いなのに」

「あー、そういえばあいつ、昇進は見送られたらしいな。ははん、まあ、そうだろうな、あんな操艦でふね壊したんじゃ」

「何言ってるの。あんただって英雄じゃない。それなのに

モニカは、クラウディオとルメルシェの評価の差に憤慨しているようだった。

「天才はつねに理解されないものなのさ」

クラウディオは冗談めかして言った。正直なところ、あまり話題にしたくないことだった。

「理解されようとすればいいじゃない」モニカの憤慨は、クラウディオに対しても向けられていた。「説明すればいいのに。ちゃんと説明しないから、余計立場が悪くなるんでしょ。いろいろまずいことはしたけど、でもあんたのおかげで生き残れたのは、部分的にはたしかなんだから。馬鹿だけど」

クラウディオは、ふんと鼻を鳴らしてから言った。

「だったらおまえ、聞くけどな、あの野郎がめられて何で俺が怒られるんだって、俺もちゃんと褒めてくれって、偉い人にお願いするのか? そんなみっともないことができるか」

「どうしてそんな言い方するの」

「性格だから。知ってるんじゃないのか?」

「そういえばそうだったって、今思い出した。それからついでに聞きたいんだけど、どういう筋道で考えたら、いつもの馬鹿騒ぎが許容範囲で、ちゃんとした説明がみっともないってことになるの?」

とくに考えたこともなかった。

考えてみる気にもなれなかった。

彼にとってははっきりと区別されていることだったが、かといって理由を言語化できることでもなかった。

だからモニカの問いには答えられなかった。

ただ一言、つぶやいた。

次は勝つ」

クラウディオのなかで渦巻いている想いは、ただそれだけだった。

人類暦二四九六年、恩寵暦四三二年七月。

九重有嗣、マクシミリアン・ルメルシェ、クラウディオ・チェルヴォ。このときの彼らは、まだみずからの果たすべき役割を見いだしてはいなかった。有嗣は武威を、ルメルシェは限界を、クラウディオは承認を求めていたが、それらはいずれも抽象にすぎず、いまだ太陽系社会、ひいては歴史において意味をもつものではなかった。

この段階では、彼らはまだ星海に浮かぶ孤独な恒星だった。