星海大戦

第一部 序章 相克の星海

元長柾木 Illustration/moz

元長柾木が放つ、渾身のスペースオペラ!10年代の文学シーンをリードする「星海社SF」ムーブメントの幕開けを、“たった今”あなたは目撃する————。

序章 相克の星海

1

人類社会全体が一つの紀年法によって統一される瞬間は、地球という一天体の地表のみで人が生をいとなんでいたあいだにはついにおとずれなかった。

人が生まれ育った場所からほとんど移動することもなく一生を終えていた時代においてはもちろんのこと、鉄道が大陸を横断し、航空機が大洋をまたぎ、通信網が張りめぐらされ、マスメディアが画一的なイメージを大衆に伝え、ネットワークが個人を人類社会全体と連結して人と情報と資本が国家の枠を超えて地球上をゆきかい、単一の経済的有機体が地球を覆いつくして文化や言語を平準化してもなお、紀年法の統一はなされなかった。

大宗教において重要事件の起こったとされる年を元年とする、キリスト紀元や仏滅紀元やヒジュラ暦。世俗の王朝の開始や王の即位を紀元とする方法。また、フランス革命暦や世界暦といった、より局所的な試み。

人類史上多くの紀年法が編みだされたが、それらの多くの幕開きに際しては流血が色濃くまとわりついており、またときには異なる紀年法を用いる者同士のせめぎあいが歴史に陰惨いんさんな花を添えもした。紀年法とは、世界全体を力でもってみずからの奉ずる観念に染めあげようとする、またはそれを既成事実化しようとする、ほとんど人間の根源的な心性に根ざしたくわだてだった。

星海暦Star Sea Eraは、人類がそんな相剋そうこくの連なりの果てに史上はじめて採用した統一紀年法である。

星海暦は西暦二〇六五年を元年とするが、その年に制定されたものではない。

これは珍しいことではない。だいたいにおいて新しい紀年法とは、先行する観念が記念すべき出来事を事後的に発見することによって、歴史をさかのぼって定められるものである。たとえばキリスト紀元が提案されたのはイエスの生誕から五〇〇年ほどがってからのことだったし、仏滅紀元の使用は釈迦入滅にゅうめつから二〇〇〇年をはるかに超えた後世のことである。星海暦においてもそれは例外ではなかった。

西暦二二五二年、人類全体に対する地球外人口の割合が五〇パーセントを超えた。そのことは人類が地球上のみを生活圏とする時代が終了したことを示す客観的な事実であり、それを契機に紀元が改められることとなった以降の人類は紀年法のはてしない相剋の歴史から解放されるだろうという祈念のもとに。そしてそれなりに説得的な複数の案のなかから最終的に選ばれたのが、一八七年前の西暦二〇六五年というメルクマールだったのである。

西暦二〇六五年には、人類の地球外世界Star Seaへの進出史において重要な節目となるいくつかの出来事があった。その年の二月に世界銀行信託統治軍WBTFがテラフォーミング用のナノマシンを火星へ放出し、四月には企業家であり宇宙冒険家であるレイモンド・ルーデスが太陽系外縁の小惑星セドナへ単独で到達、そして年が改まる数日前にルパート・ブランチャードが論文「量子重力の因果形成理論」を発表したのである。

WBTFは直接的には世界銀行の後身として、対途上国業務に関しては国際通貨基金IMFからも組織・人員を譲り受けて、二〇一六年に設立された。世界銀行およびIMFとの主たる違いは、その名称に示されているように固有の軍事力をもつことと、途上国に技術的・経済的支援を行うに際して対象国の政治体制に容喙ようかいしなかったことである。

WBTFは、徹底して冷淡な組織だった。当該国において独裁者が君臨し、政府高官による汚職が横行し、人道上の問題が発生していても、すべて放置した。所属する職員が個人としてどのような感情をいだいていたかはともかく、組織としては政治的・社会的・人道的問題に関してすずしい顔で無視を決めこんだ。

非民主的で強圧的な政府であっても容認しというよりどのような統治体制をとっているかはいっさい意にかいさず、ただほとんど機械的に支援を行った。それに際して採用された統治の技巧は、軍隊を駐留させて支配者層・被支配者層双方ににらみをかせるということのみだった。

WBTFの散文的な方針を支えていた思想は、多少の(ときには深刻な)非効率があったとしても致命的な破局を迎えるよりははるかにましである、というものだった。

権力の座から引きずり下ろされた旧支配者層と先進国によって正統性を認められた新支配者層の争いが泥沼の民族紛争へと発展したり、民主化の結果選挙によって選ばれた指導者がそれ以前の独裁者を超える暴政を引き起こしたり、といったことを何よりも恐れた。そういった破局を防ぐために採用されたのが、現地の問題への徹底した不干渉ふかんしょうという基本原則だった。

WBTFが歩んだのは軍事力と経済力という力による統治の道であり、批判の声は当然大きかったが、しかしそれまでの開発援助を上回る成果を挙げたのは動かしがたい事実だった。

WBTFが特異だったのは、冷徹であっても私心はなかったことである。人間が運営する組織としては奇跡的なことに、彼らが支配欲求にもとづいて行動して判断を誤ることは、ほとんどなかったといっていい。ただしそれは高潔な人格によるものではなく、実際のところ人種的偏見に根ざしていたともいわれる。すなわち、劣った人種を支配したところで、対等な者を屈服させたいという支配欲求が満たされるものではない、ということだった。実際、WBTFの初代総裁である「不感症の功利主義者」エリク・ノルドシュトルムは非公式に言い放ったものである。「家畜をえさせるのは飼育者の神聖な義務である」と。

しかし個々人の内面はどうあれ、多くの途上国が紆余曲折うよきょくせつはありながらも、民主制や法の支配ルール・オブ・ローを導入しないままで高い水準の経済成長を遂げたのだった。

そのように二一世紀前半は途上国支援を主たる業務としていたWBTFだが、世紀後半に入るころには新たな業務を見つける必要に迫られた。単純に、多くの途上国が経済成長を果たした結果、支援対象国がなくなってしまったからである。

地球上から途上国が存在しなくなることは、彼らにとってゴールではなかった。二一世紀前半をつうじて巨大化し世界経済の第一のにない手にまでなったWBTFには、高い水準で世界経済を維持する責務があった。すくなくとも、彼らはそう自任していた。ノルドシュトルムの断言に象徴しょうちょうされる強烈なエリート意識が、彼らにそんな義務感をいだかせたのである。

経済を維持するためには、成長しつづけなければならない。成長するためには、たえまなく開発を行わなければならなかった。

そして見つけた新たな開発対象が、地球外世界宇宙だった。

宇宙を学術的な研究対象あるいは先端的な実験の場と見なしていた他の宇宙機関や観光地として開発していた私企業群と違い、WBTFは当初からそこを人類が近い将来移住すべき開拓地であると認識していた。彼らにとって宇宙は、人類社会全体の経済成長に寄与する大規模公共事業の舞台でしかなかった。そして公共事業として考えるならば、テラフォーミング地球外天体の環境を人類が居住可能なように改変するというプロジェクトは、彼らにとって申し分のない規模のものだった。

もちろん、これにはいくつもの困難があった。科学的・技術的な課題はもちろんのこと、数千年から数万年かかるプロジェクトを具体的な政策日程にのせること、人々を地球外移住へと導くインセンティブの形成、既存の天体環境をまるごと完全に破壊してしまうことに対する環境倫理的忌避感きひかんの打破などである。

それらの問題を解決したのが、この時期に急速な発達をみた強化医療とそれが引き起こした社会的変化である。

強化医療とは、治療や予防を目的とする通常の医療とは違い、生物工学やナノ技術によって肉体を「改造」し身体機能強化や長命化を図る医療の総称である。この技術によって、人間はそれまでより苛酷かこくな環境に適応できるようになった。つまり環境改変の目標水準が大幅に下がり、工期を数十年にまで一気に短縮することが可能になったのである。

また地球全体の経済成長による出生率低下・人口減少傾向に強化医療による長命化・死亡率低下が歯止めをかけるかたちになり、人口増加率がふたたびプラスに転じはじめ、地球外移住の小さな一動機をなした。

さらに、所与しょよの身体に手を加えることへの抵抗が小さくなったことにともなって、自然環境を根本的に改変することに対する忌避感も大幅に緩和かんわされた。

こういった技術的・社会的変化が重なったことにより、ついにWBTF総会において火星テラフォーミングの実行が承認された。それでも多くの反対意見があったが、金銭による買収工作にとどまらず委員の家族に対する恫喝どうかつ行為まであったとされる強引な決議でそれを押し切った。こうして二〇六五年、惑星環境をドラスティックに改造する無数のナノマシンが、火星大気に放出されたのだった。

レイモンド・ルーデスは、二〇二二年生まれの企業家であり冒険家である。

幼いころから夢想家であり、終生「遠くへ行きたい」という観念に取りかれた人物だった。幼少期、その性向は彼をラテン文学へと向かわせた。それはいわば、二〇〇〇年という時間的遠距離を隔てた過去に生きた人物によって書かれた、空想的遠距離への紀行文であり、彼の精神をとらえるに十分な熱量を備えていた。長じては当然のように文学部に入学しラテン文学研究をこころざしたが、しかし途中でその道を断念することになる。

新たな「遠く」への手がかりを見つけたからだった。当時は強化医療の勃興期ぼっこうきであり、彼はそこに可能性を見た。文学の力を借りずとも自分の力で遠くへ行ける、そう考えたのだった。彼は医学部に入学しなおし、卒業後数年間は医師として大学病院に勤務し、その後強化医療分野において起業した。

彼は、他人に好印象を与える資質を生来的に備えていた。浅黒い肌と精悍せいかんな肉体をもったスポーツマン然とした男だったが、威圧的ではなかった。多弁ではなかったものの、かすかな含羞がんしゅうを宿したその笑顔は、対面した相手の緊張を解き、ゆるしに似た感覚を心に芽生えさせ人を寛大にする効果があった。それは経営者としては得がたい資質であり、彼は短時日のうちにみずからの会社を成功に導いた。

その一方で彼は、みずからの身体に改造を施したうえで八〇〇〇メートル級の高峰に登攀とうはんし、また人工衛星打ち上げ用ロケットで静止軌道に到達するといった冒険行も行った。そして満を持して二〇六〇年、私費を投じて造りあげた航宙機にひとり乗り込み、太陽系外縁の小惑星セドナへと旅立ったのだった。

当時地球から八〇天文単位AU弱の距離にあったセドナへ、ルーデスは五年間におよぶ孤独な航宙の末に到着した。

これは、人類史上初のセドナへの到達だった。それどころか、有人飛行は太陽からの平均距離が五・二AUである木星圏までしか行われていない時代の出来事であり、土星(九・六AU)、天王星(一九・二AU)、海王星(三〇・一AU)等を飛ばしての快挙だった。

ただしこれは、技術的ブレイクスルーというより、個人的な蛮勇ばんゆうというべきものだった。ルーデスは長期間の航宙に耐えるべく費用と安全性を度外視した規格外の強化医療をみずからの肉体にほどこしていたし、そもそも帰路の燃料も食糧も搭載していない片道旅行だったのだ。端的にいって自殺行為であり、まともな組織が行えることではなかった。

セドナに到着してすぐに食糧は尽きたが、その後数週間は地球にメッセージを送っていた。それらはおおむね他愛もないもので、下品なジョークであったり自作のナンセンス詩であったりしたが、セドナの探査データを送信するようなことはいっさいしなかった。科学の進展に寄与するつもりなど、彼にはまったくなかったのだ。彼はただ、セドナという天体を、ひいては人類史の最前線フロントラインを、すくなくとも歴史の一瞬において独占するつもりだった。

セドナで、ルーデスはつねに酔っ払っていた。航宙機にアルコールは搭載していなかったが、脳神経に直接刺激を与えることによって酩酊めいていすることは可能だった。恐怖をまぎらせるためではなかった。彼の言によると、それは純粋な祝杯だった。

セドナに到着して二四日後、ルーデスは最後のメッセージを送信した。それは、「遠くへ」という一言だった。

セドナは近日点きんじつてん距離七六AU、遠日点えんじつてん距離九〇〇AU超、離心率〇・八五という極端な楕円だえん軌道をもつ小惑星だが、当時近日点到達を一〇年後に控えており、それ以降は太陽から遠ざかり六〇〇〇年近くをかけて遠日点へと向かう軌道上にあった。つまりセドナにいれば自動的に、生まれ育った太陽系中心部から「遠く」に行けるというわけだった。

なお、そのおよそ六〇年後にはじめて「まともな」、つまり決死の冒険行ではなく帰路を考慮こうりょに入れたセドナの有人探査がなされたが、ルーデスの遺体や彼の使用した航宙機は発見されなかった。このことから、ルーデスが本当にセドナに到達したのかいなかをめぐって懐疑的な向きも存在する。ただ、同時代において彼はすでに「冒険王」と呼ばれ、人々に畏怖いふを感じさせるトリックスターであり、後世には神話化されてフロンティア・スピリットの体現者、宇宙開発の守護天使と見なされるようになった。レイモンド・ルーデスは、地球から離れるという精神の象徴となったのだった。

ルパート・ブランチャードが発表した「量子重力の因果形成理論」はディラックの巨大数仮説を発展させたもので、そのなかの脚注でブランチャードは、真空に近い空間において条件つきでニュートンの三法則を無視する場が生成可能であることを示唆しさした。

厳格な条件ゆえに再現性が低かったことと、発表と前後してブランチャードが奇異な言動を繰り返すようになったこともあって、当初その論は広くは受け入れられなかった。

しかし彼がありきたりの擬似ぎじ科学者やカルト指導者と異なっていたのは、学説が世間に受け入れられないがために言動を先鋭化させていったのではなく、むしろその逆であったことだった。彼は、みずからの理論を信じてほしくなかったからこそ、あえて胡乱うろんな行動をとっていたようなのである。

研究費を横領して賭博とばくにつぎこみ、同僚の妻と密通に及んだあげくに別れを切り出されたときにはその事実を大学中に写真つきでばらまき、ぼろをまとったようないでたちで学会に出没し、「量子重力の因果形成理論」は擬似論文であり何らの真理も含まないパロディである、と同論文を投稿したのとは別の雑誌で表明することさえした。

その動機に関してはなぞに包まれているが、いくつかの書簡のなかで、彼がみずからの打ち出した理論の危険性におびえていたことがわかっている。

しかし彼の期待に反して、論文の価値自体が下がることはなかった。もろもろの行動によって、彼の社会的な生命は絶たれたが。

ノウアスフィアと名づけられたその場はのちに存在が実証され、一〇年あまりのうちに、これを船体の周囲に展開するシステムであるノウアスフィア機関を搭載した航宙船の試験運用が始まった。

従来の水準を格段に上回る加速性と、慣性を無視した高機動を実現したこの技術によって、宇宙空間の任意の二点間を直線的に結ぶような航行が可能になり、航行時間・航路距離が大幅に短縮されることになった。

これに先だってフロート型の軌道エレベータが建設され、航宙船のコスト面におけるネックの一つだった地球重力圏からの脱出が容易になったこともあって、宇宙航行が本格化を迎えたのである。

そういった事柄の根本を探っていくと、たしかに二〇六五年という年にいきつくのであり、たとえその時点における地球外定住者の総数が一〇〇〇に満たなかったとはいっても、星海暦元年の選定はまったくの恣意しいというわけでもなかった。

2

二一世紀後半以降の歴史は、人類の版図の地球外への拡大の歴史といえた。

火星のテラフォーミングが軌道に乗ったのを確認して、次々と他の天体も惑星工学的環境改変の対象となった。イオ、エウロパ、カリスト、ガニメデ、タイタン、トリトン、金星、水星といった天体にナノマシンが放出された。

天体環境はそれぞれに違ったが、技術的ノウハウが矢継ぎ早に蓄積されていったこともあって、場合によっては一〇年に満たない期間での地球化がなしとげられた。

さらにナノ技術の急速な発達は、経済的・技術的な理由により従来テラフォーミングに不適合であると考えられていた天体までをもその対象とした。ケレス、パラス、ヴェスタ、レア、イアペトゥス、ディオネ、テティス、エンケラドゥス、ティタニア、オベロン、ウンブリエル、アリエル、ミランダ、カロン、オルクス、イクシオン、ハウメア、クワオア、マケマケ、エリス等々。ただ地球の月だけは、倫理的というより審美的な理由によって当初からその対象外となっていた。

星海暦の時代にまったく紛争がなかったわけではないが、がいして平和な時代であり、大きな軍縮の時代でもあった。人類は紀年法のはてしない相剋の歴史から解放される星海暦制定の際の宣言は、まったくの空論でもなかったのである。

ただしこれは、この時代の人類が特別に理性的だったことを意味するものではない。WBTFの軍事力が抑止力よくしりょくとなってはたらいたということもあるし、地球よりも格段にデリケートな、テラフォーミングを施された天体環境を破壊するような暴力の行使が自殺行為であることは誰の目にも明らかだった。地球時代と同様に人類はそれ相応そうおうおろかだったが、自滅するほどではなかったということにすぎない。

平和な時代において、人口は殖えつづけた。とくに地球外において、それは顕著だった。西暦二二五二年、星海暦制定の年に地球外人口の人類全体に占める割合が過半となったわけだが、地球人口は過去二〇〇年のあいだに八五億から九五億へと、微増といってもさしつかえない程度にしか増加しなかったのに対して、地球外人口はほぼゼロから九五億にまで達したのである。

平和な拡大の時代をつうじて進んだのは、民主主義や人権といった考え方の相対的価値低下だった。

地球時代からあったその傾向は、この時代さらに進行した。WBTF主導による途上国支援の相次ぐ成功は、結果として人類社会全体における民主政体と非民主政体の勢力比をほとんど一対一の均衡きんこう状態にまで近づけた。人類の、すくなくとも富の面における発展のためには民主主義が必須ではないことが明白となった。

また開発が進み富が増大するにしたがって、必然的に人間が求めるものが「不幸の克服」から「幸福の維持」へと移行しはじめる。

不幸を克服しようとするとき人が求めるものは、不当に富を独占していると思われる人々に対する攻撃と独占された権利の社会全体への解放だった。しかしそれなりに人々が富裕化してしまうと、現状を維持すること、あるいは隣人より豊かで健康的な生活を送ることこそが人々の関心事となった。そしてそのとき期待されるのは、民主的な政体や人権のたぐいではなく、経済学的・工学的に富や健康を保障してくれる冷たく大きな統治者だった。たとえば、エリク・ノルドシュトルムのような。

もちろんこれには温度差があった。

大まかな傾向として、水星から木星圏までの比較的地球に近い「近惑星」では民主主義であるとか人権であるとかをとうとんだのに対して、土星圏以遠の「遠惑星」では結果としての幸福を重視した。前者が人間の自由を重んじる伝統的リベラルで、後者が技術至上主義的な性向であるともいえた。

これには、比較的地球に近い近惑星より、到達するのに多くの時間がかかり享受きょうじゅできる太陽エネルギーも小さい遠惑星の方が、それだけ苛酷な環境に耐えるために大幅な身体強化を行う必要があった、という背景がある。その結果、近惑星の住人が自由や権利といった観念を重視する旧来の価値観を引き継いだのに対して、遠惑星の住人は生命とそれを維持するための技術を、ひいては物質的な豊かさをより重視するという気質の違いが生まれたのだった。

星海暦制定からも、しばらくは安定成長の時代が続いた。

有人での恒星間航行まではまだなしえなかったが、星海暦二五〇年(西暦二三一四年)ころには、人類は太陽を中心とした一〇〇AU圏内の主だった天体ほぼすべてを居住地とするにいたり、無人探査まで含めるとそのはるか外側のオールトの雲の領域にまで到達した。

そんな平和な時代のさなか、星海暦三三七年、人類は史上はじめて地球外起源の生命体との接触を果たす。

最初は《仲間》、のちには《敵》、中立的にはネオテニュクスと呼ばれることになる存在との接触は宇宙探査の前線においてではなく、地球の近傍きんぼうにて起こった。

何の前ぶれもなく、地球の静止軌道上に、光学的に観測できない不可視領域が出現した。ノウアスフィア展開時の空間のゆがみに似たその領域内部から、一〇代前半の人類女性のように見える、端整たんせいな姿形をした地球外生命体たちが現れたのだった。個体差があり、またさまざまな人種的特徴が混淆こんこうしていたためはっきりとどの人種のようであると形容することはできなかったが、とにかくかれらは人類と酷似こくじしていた。

かれらは、きわめて友好的で歓待の精神にあふれた、話し相手として非常に心地の良い、異様なほど意思疎通そつうが容易な存在であり、人類と同じ言語を、それもそのときどきの対話相手が用いるのと同じ言語をつかって話した。

かれらが当時のヨーロッパ統合体・統合大統領ユルゲン・シリンクスフュルストに対して述べた、「対話を望むものはすべて『仲間』です」との言葉から、人類はかれらを《仲間カメラート》と呼ぶようになった。

《仲間》は謎の多い存在だった。人類はかれらにその出自をたずねたが、かれらはその問いに答えなかった。その手の質問がなされるたびに、「みずからがどこから来たか、何ものであるのか、そういった属性を抜きにして語りあうことこそが対話というものではないのですか?」などと答えた。

《仲間》が好んだのは、対話することに加えて、人類の芸術だった。かれらはとくに、西暦二〇世紀以前の古い時代のものを好んだ。その興味は、絵画、音楽、建築、詩、服飾、映画、彫刻、その他あらゆる分野に及んだ。

各国政府や企業はまず第一に科学的・技術的な情報を得ることをほっしたが、そういった試みはすべてやんわりとした拒絶にあった。《仲間》は、目に見えて有益なものは何ももたらさなかった。

幼い女性の風貌ふうぼうをもったかれらは本当に、対話と芸術を好むだけの存在だった。

そのことがしだいに明らかになってくると、《仲間》から実利的な情報を得ようとする試みはなされなくなってゆき、ただかれらと対話しこころよい時間をもつことがステータス化するようになっていった。

かれらは誰との対話もこばみはしなかったが、個体数が限られていたため(もっともその外見上の「個体」が人類と同じ意味で個体なのかどうかはわからなかった)、かれらとの対話は新しく設立された汎人類対話仲介機構PDIOを通したごく一部の人間にしか許されなかった。一般市民向けの枠も設けられはしたが、「対話」は基本的には政府高官や一部の富裕層のためのものとなった。

それでも数多くの人間が《仲間》と歓談の時をもち、またマスメディアにも多く登場し、そのほぼすべての場合において《仲間》は人類に好感を与えることに成功したのだった。

《仲間》はある種の有徳者として、人類社会のなかで急速に位置づけられていった。

蜜月みつげつは、そう長くは続かなかった。

破局の始まりは、偶発的なものだった。星海暦三四九年、《仲間》との会談の順番をめぐって、木星圏のガニメデ共和国の高級官僚のグループと土星圏のタイタンに本拠を置く強化医療企業体の幹部たちが小競こぜりあいを起こし、その際双方に死者が出た。

本来ならばガニメデとタイタンの政府間交渉で決着するはずの出来事だったが、両政府は譲らず交渉はこじれた。両政府は互いを非難しあい、国交を断絶し、軌道封鎖を行い、さらには通商破壊宣戦布告のないまま、事実上の開戦にまでいたった。

そこまで急速に、回復不可能なまでに事態が悪化したのには、人間的価値観を重視する近惑星と技術至上主義的な遠惑星という気質の違いがこのころには譲歩じょうほ困難なほどに拡大していたことに加えて、みずからの側に非があることを《仲間》の前で認めたくないとの意識が双方に働いたという悪い冗談じょうだんのような事情があった。《仲間》の存在は、実際的にはともかく観念的には、人間の精神を律する神のような超越的なものとして機能するようになっていたのである。

ガニメデとタイタンの武力衝突は、人類が宇宙に進出して以来はじめての、宇宙空間を舞台とした、主権国家同士の戦争となった。

戦線は急速に拡大した。当初はガニメデとタイタンの戦いだったのがすぐに木星圏と土星圏の間の戦いとなり、価値観の相違が後押しして、近惑星と遠惑星の戦い、つまりは太陽系全域を舞台として人類社会を二分する戦いへと発展していった。

当初は遺憾いかんの意を表明し仲介を買って出ようとしていた地球や火星など近惑星の大国は木星側につき、おのおのの規模がさほど大きくないがゆえに通常は国際的な紛争に干渉することを避ける天王星圏・海王星圏や太陽系外縁の国家群は土星側につき、それぞれ「近惑星防衛共同体」「遠惑星連絡機構」を形成した。

人口では近惑星が圧倒したが、科学技術においては遠惑星がまさっており、総合すると勢力は拮抗きっこう状態となった。国力比は、星海暦三四九年六月の時点の概算で五四対四六とされた。

太陽系全域を巻き込んだ戦争ではあったが、軍縮期であり双方とも大きな軍事力をもっていなかったため、緒戦においては戦いはさほど大規模なものではなかった。対密航船や対デブリ用の装備を使った戦闘で、せいぜい一〇のオーダーの犠牲者しか出なかった。

しかしそれも初期のうちのことにすぎず、双方とも、相手を打倒するために軍備・組織の構築に着手した。開戦当初は警察力程度しかもたなかった各国は、急速に戦時体制を調えていった。

そしてこの戦争のなかで、一つの奇貨が生まれた。

「グリーンホーン」と呼ばれる人々の誕生である。

戦闘用航宙船航宙艦の高機能化にともなってノウアスフィア展開能力も増大したが、その過程で強力なノウアスフィアが人間の精神に重大な悪影響を与えることが明らかになった。

一定以上の因果束密度をもつノウアスフィアに、通常の人間の精神は耐えられなかったのだ。強すぎるノウアスフィアの中では、人は自他の区別をなくし、幻覚にさいなまれ、見当識けんとうしきを喪失する。

これは深刻な問題だったが、少数ながら強いノウアスフィアへの耐性トレランスをもつ者もまた発見された。そういった者たちは最初はたんに耐性保有者と、のちにはグリーンホーンと呼ばれるようになった。

ノウアスフィアの展開能力は航宙艦の航行能力に直結するため、グリーンホーンの発掘は急務だった。耐性トレランスの強さの程度を表す数値である寛容階級トレランスクラスが高くさえあれば、軍人としての適性をほとんど無視して片端から前線に送りこまれた。いくら識見に富んでいようと、リーダーシップがあろうと、遅い艦にしか乗れないのでは意味がなかったのだ。

前線の高機能航宙艦の乗員はすべて、廚房ちゅうぼうスタッフであっても、耐性トレランスをもった者によって占められることとなった。

軍事教育とは無縁の者たちが多数前線に送りこまれることによって、軍隊における既存の階級制度が崩壊した。大量の若い士官が生まれ、二〇代の将官さえ数多く現れた。

建艦能力が長足の進歩を遂げ、グリーンホーンの動員能力も増して、結果あっというまに戦線は拡大し、戦闘は大規模化しそして戦争は泥沼と化した。主に木星公転軌道と土星公転軌道の間の空間で戦線は一進一退を繰り返し、戦略的要衝であるラグランジュ点の奪いあいがえんえんと続いた。

この戦争は物理的な闘争であると同時に、《仲間》に対する情報戦という側面もあった。そもそもの開戦のきっかけが《仲間》をめぐるトラブルであり、「どちらが最終的に《仲間》のちょうを得るか」が戦争目的の一つとなった。冗談のようではあったが、いつわりではなかった。両者とも、本気だった。ただ本気ではあったが、実際的な意味合いもあった。

《仲間》に、戦争を終わらせてもらうことを期待していたのである。

戦争が人類社会全体を巻きこむまでに拡大してしまった以上、そしてどちらかがどちらかを一方的に打倒するということは望めそうになかった以上、戦争を終わらせる調停機関として人類にとって唯一の他者である《仲間》に期待するしか方途がなくなっていたのだった。

だから両陣営とも、《仲間》に好印象を与えるためのプロパガンダに力を入れた。そのなかでマスメディアによる演出によって、多くのグリーンホーンが、人類史上初の宇宙戦争において覚醒したある種の異能力者として、一般社会で偶像視されるという現象も発生した。

しかし、《仲間》は戦争に介入しなかった。かれらはこの戦争に無関心・不干渉の態度を示し、公式・非公式の調停要請にも応じなかった。そもそも戦争が始まってからは、人類と会談をもつ頻度ひんど自体が急激に減少していた。

そんな《仲間》だったが、戦争開始一六年めの星海暦三六四年、旗幟きしを明らかにする。

人類社会全体に対する攻撃を開始したのである。人類に理解できる形式での宣戦布告はなかったが、攻撃開始前に《仲間》が発した最後のメッセージは、「私のために争わないでください」というものだった。

《仲間》は、近惑星・遠惑星の別なく、また前線であろうが後方であろうがまったく配慮はいりょせず、人類に襲いかかった。《仲間》は、神話・伝承のたぐいに登場する想像上の生物の形をとって戦った。《仲間》との戦いは、人類のもつすべての記憶の再現、叙事詩的闘争という様相を呈した。

最初戦いは、近惑星・遠惑星・《仲間》のどもえで行われたが、すぐに《仲間》が人類を圧倒しはじめたため、人類の両陣営は共闘することとなる。

しかし人類社会すべての力をもってしても、《仲間》と互角に戦うのは困難をきわめた。人類同士の戦争で急速に発展した軍事技術と発掘されたグリーンホーンを大量に投入したが、戦争の過程で多くの人間が死に、水星・金星・地球・火星は壊滅的打撃を受けた。

結局、ガニメデとタイタンの開戦から起算して、戦争は一七年間、星海暦三六六年まで続いた。

当時人類最高のグリーンホーンとされた一四歳の少女、レア宇宙軍中将《聖母》マリーヤ・ドミトリエヴナ・アントノヴァとその参謀長であるイアペトゥス征夷軍少将八尋やひろ一貴かずたか率いる艦隊の英雄的特攻により《仲間》主力部隊に大打撃を与え、何とか休戦に持ちこんだときには、人類人口は最盛期のおよそ六分の一の五八億にまで減少していた。

そして《仲間》は、人類と接触を絶った。荒廃こうはいした火星の衛星ダイモスにおいて休戦協定「バルニバービ協定」が結ばれた直後の、「あなたたちなんか知りません。勝手にやっていてください」という言葉が、《仲間》の人類に対する最後の公式のメッセージとなった。

3

協定により、太陽を中心とする球形の二AU圏内は協定球圏と呼ばれ《仲間》の統治するところとなり、人類は足を踏み入れることを禁じられた。人類発祥の地である地球を含め、水星・金星・火星などが《仲間》の統治下に置かれた。

一方、戦争が終わってすぐに人類が行ったことは、地球外生命体に対する《仲間》という呼称を改めることだった。これにはほとんど異議もなく、戦争終盤においてすでに一般に使用されていた《ファイント》という単語が公式に採用された。

しかし戦後、人類が共同歩調をとったのはこれが最初で最後となった。

終盤においては共闘したとはいえ、戦争をつうじて近惑星と遠惑星の対立は決定的となり、それぞれにまったく異なる二つの教訓を導きだした。

「人間を人間扱いしない、土星圏の技術至上主義的非倫理性がこのたびの戦禍をまねいた。人間が人間である価値を、もう一度見つめなおさなければならない」

木星圏を中心とする近惑星はそのように戦争を総括して、紀年法を星海暦から西暦に戻し、それを新たに「人類暦」と名づけた。

「木星圏の観念主義的傲慢こそが、惨劇の根源だった。恣意的な人間性などという観念に淫して、彼らは生命を軽視した。われわれは観念ではなく、宇宙からの恩寵おんちょうである生命そのものを重視せねばならない」

一方土星圏を中心とする遠惑星は、そう結論して星海暦を維持したままその名を「恩寵暦」と改めた。

こうして星海暦は三六六年で終わった。実質的に使用された期間でいえば一七八年間にすぎなかった。

戦争そのものについても、近惑星は「自由戦争」と、遠惑星は「恩寵戦争」と異なる命名を行った。もっともこれは政治的な正式名称であり、日常的にはただ「大戦」と称されることが多い。

近惑星と遠惑星、二つの思潮はそれぞれ木星主義ジュピテリズム土星主義サタニズムと呼ばれることとなり、さらに戦前にはなされなかった、天体間にわたる政治的統合が行われた。

木星の衛星上に存在する国家群は「主権ガリレオ連合」として、同様に土星の衛星上の国家群は「恩寵主義による土星圏専制包摂ほうせつ群体」として統合された。前者は木星ユニオンと、後者は土星クラスタと通称されるようになる。

大戦が終わっても、軍縮の時代に戻りはしなかった。

決定的に対立した木星ユニオン土星クラスタの二大勢力によって、以後太陽系の覇権は争われることとなった。人類はふたたび、複数の紀年法が相剋する世界に生きることになったのである。

ただ、緊張状態は続き武力衝突も絶えなかったとはいえ、技術革新と経済成長の面において停滞ていたいすることはなく、戦後六〇年ほどで人類人口は一〇〇億を超えるまでに回復した。この数字は協定球圏外のみのものであり、その部分だけでみれば人口はすでに大戦前以上の水準に達していた。

成長と緊張が両立する時代にあって、戦争状態はなかば儀式化していった。決まりきった規則にもとづいて定期的に行われる型どおりの戦闘と、その合間の緊張緩和。その繰り返し。大戦時のような、相手を殲滅せんめつせんばかりの激しい戦いはもはや行われず、弛緩しかんした戦争状態がえんえんと続いていた。

しかしこれは、対立を解消へと導く前ぶれなどではなかった。融和へと時代を向かわせるものではなく、むしろ二つの異なる世界の並立の常態化を意味していた。いかに弛緩して見えようがそこには歩み寄りの不可能な対立が厳然と存在しており、であるからには、それを解消するためには儀式などではなく本質的な闘争が必要とされているのだった。

そう、闘争が。

恩寵暦四三二年、人類暦二四九六年。人類社会の紀年法がふたたび統一されるまで、歴史はまだ時を必要としていた。