大日本サムライガール

第一巻 第五章 一刀両断

至道流星 Illustration/まごまご

「真正なる右翼は、日本に私ただ一人である!」 目的は政治の頂点、手段はアイドル——。至道流星の本気が迸る、“政治・経済・芸能”エンタテインメント、ここに開幕!!

「アステッド、っすかぁ。触りたくないところが出てきましたねぇ

話を聞き終えた由佳里は、腕を組んで眉をひそめた。

営業の合間に、汐留の喫茶店に由佳里を呼び出し、状況を説明していたのだ。蒼通はすぐ傍である。

「由佳里はどこまで知ってるんだ? 俺なんて正直、アステッドに関してはゴシップレベルの話しか知らないんだけど」

「それは私もです。まぁでも、アステッド関連のタレントが必ず番組やドラマに出演できるように、テレビ局各社と裏条約のようなものがあって、タレント出演枠を持っていることくらいは普通に聞きますよ。実際、アステッド系列にそっぽを向かれちゃ、テレビ局は番組なんて作れませんからね。プレッシャーを受けてるのは局の方なんじゃないですか。蒼通にしてみれば、そんなことは局の判断であって、こっちには関係ないですよ。取引する分には一般的な企業です」

由佳里はひまりプロダクション創業のキッカケになった言い出しっぺであり、何かと気にかけてくれている。それに、日毬の営業を仕掛けてくれていた。由佳里が動いているのは蒼通を絡めた大掛かりな仕事だから、まだ形にはなっていない。だから由佳里には現状を知っておいてもらう必要があった。

「ほとほと困ってるよ。日毬を譲り渡したくはないしかといって抵抗を続ければ、日毬を売り出していくことは不可能になってしまう。テレビに無視され続けては、タレントの成功なんてありえない」

「無視ならまだマシです。放置すれば、そのうちテレビは日毬ちゃんのことを叩き始めますよ」

由佳里の指摘に俺はうなずく。

「それは俺も理解してる。雑誌やネットに叩かれるだけならそれほど痛くないが、誇張された雑誌やネットの記事に影響を受けてテレビが動いたりすると、一気に手詰まりになっちまうよ。だが、その流れになりつつあることを、肌でチリチリと感じてるんだ。考えるとゾッとするがそういう世界だからな」

由佳里は顔をしかめる。

「むう。創業以来、初めてにして最大の危機ですね」

「まだ創業したばかりだけどな」

「アステッドに勝てる気がしない。アステッドは黒い噂が絶えませんが、暴力団関連なんでしょうか?」

「それも俺にはわからない。おそらく、経営陣の個人的な付き合いくらいはあるだろうが、会社としては違うというというスタンスだろう」

昔から、芸能界は暴力団の重要な資金源のひとつだった。そもそも、入場料を取って客に演劇や舞台を見せる興行は、伝統的なヤクザ者のビジネススタイルと言っていい。

人を集めて祭りや盛事を執り行うには、ヤクザ者の協力が必要不可欠だった。ヤクザ者に興行をしきらせ、一定の利益配分をすることで、その地域での興行の安全を保障したのだ。それに数百年前から、芸能人の興行には用心棒が必要であることにも古今東西で変わりがない。今ならボディーガードという呼び名が妥当だろう。

ラジオやテレビが普及し、芸能の大衆化が急速に進んだから、芸能の世界もごく普通の人の割合が大半をしめるようになり、ヤクザ者の影が薄れたことは確かだ。それでも、元来の業界の基本構造が一朝一夕で変わるわけもない。そもそも芸能界はヤクザ者が作った側面もあるのだから。

そんなことは、メディア関係者なら誰もが理解している。芸能界から暴力団を追放しようとする運動を警察庁・警視庁が主導して行っているが、そんなことを達成できようか。誰が暴力団関係者で、誰がクリーンかなど、芸能人やプロダクションに目印が付いているわけもないのだから、本人の脳みそを解剖して聞かないとわからない。その判断を、警察がするなんてことの方が恐ろしい。本人は相手のことをよく知りもしないのに、たまたま暴力団関係者と飲み会の席で同席して写真を撮られ、それで黒と判断されたら堪らない。

要するに、少なくとも現状では、芸能界にブラックな勢力が入り込むことは自然な状態なのである。そしてメディアは微妙なバランスのなか、見て見ぬフリをして、既存のビジネスモデルに影響が出ないようにしているだけなのだ。

俺は声をひそめる。

「いろいろ方策を考えてるんだがここだけの話にしてくれよ。一案として、上納金を納めることを考えてる。日毬の譲渡には応じられないけど、日毬が活動して得た売上の一割を無条件で差し出すとかさ。そうすれば納得してくれて、逆に仕事を紹介してくれたりするような仲になる可能性も、ありうるんじゃないかと思うんだよな。かなり希望的観測が入ってるけどさ」

「こうしてアステッド系列のプロダクションが、またひとつ産まれるわけですね。なんですかその企業舎弟しゃてい。織葉組長の誕生ですか。親分、私も舎弟にして下さい!」

冗談交じりの口調で言う由佳里に、俺はクギをさす。

「うっせ。こっちは真剣なんだよ。さかずきを交わすってわけじゃないんだから舎弟じゃない。宣伝に協力してくれたお礼に、広告費を払うみたいなものだ」

「用心棒代も広告費と言えなくもないですからね」

「経理上は、広告宣伝費に計上できる。経営指導料として扱ってもいい。その気になれば大丈夫だろう。問題は、アステッドがそれで納得してくれるのかどうかだ」

それから俺と由佳里は一時間ほど、今後の方策について話し合った。

由佳里は着々と日毬の仕事を準備してくれているようで、密かにさまざまな構想を進めているらしい。大掛かりだけに時間はかかるし、蒼通で動いているのは由佳里一人だから、実際に案件が決まるかどうかはわからない。しかし、これだけ力を入れて取り組んでくれる相手が蒼通にいるということは、間違いなく大きな柱である。

蒼通の後押しがある仕事が入ってくれば、日毬の今の知名度を踏み台にして、一気に上り詰めていくことができるはずだ。

やはり焦点は、それまでにアステッドとの悶着を解決できるかどうかだった。どうにかして、トラブルを終息させなくてはならない。

「最近、仕事が減っている気がするな。私の力不足なら、颯斗に謝りたいところだ」

いつものように事務所に出社してきた日毬は、俺と相対するなり殊勝に謝罪の言葉を口にした。

実際、仕事が急激に干上がったので、ここ数日は日毬と出かけることがない。それを日毬は自分のせいだと思い込んでいるのだ。

「日毬のせいじゃない。俺の力量が足りないだけだ。今が飛躍のチャンスなのに、ここ一番で日毬をプッシュできない自分の力のなさを情けなく思ってるよ」

「颯斗が謝る必要などないのだ。私にできることなど、一人で街頭演説するのが関の山だったのに颯斗が私を救い出してくれたのだからな。私にとって颯斗は、なくてはならない人なのだ」

自分の言葉に日毬はハッとしたようで、目を伏せる。

颯斗が必要なのはそのせ、政治活動のためにだぞ

自分に言い聞かせるように、上気しながら日毬は言った。

俺はプレッシャーを感じた。もともと日毬を売り出そうと提案したのは俺であって、オヤジに打ち勝ってやろうとする自分の目的にも添ったものだった。それがフタを開けてみれば、業界大手に吞み込まれる寸前で、日毬のプロデュースに暗雲がたちこめている。

もちろん今も営業努力を続けているし、アステッドとの関係さえ修復できれば、すぐにでも前の仕事に復帰できるはずだった。

なんとか逸れた軌道を修正して、日毬を安心させてやりたかった。

俺と由佳里が予想した通り、テレビで日毬バッシングが始まりつつあった。

ある討論エンタメ番組で、日毬の話題が面白可笑しく取り上げられた。それ自体は珍しくない。テレビでは日毬ネタはインパクトがあるので、各種番組で放送されていたからだ。

しかしこの番組では、人気ニュースの解説者を務めていたタレント経済評論家が、激しく日毬を非難した。

「神楽日毬。美少女ってだけで祭り上げられていただけで、あんな右翼、あっちゃいけないことです。ダメですよ、あんなの。そりゃぶっちゃけると、私も超可愛いと思ってますけどね。ええ、結婚したいです。お願いですから結婚してください!」

スタジオでは軽い笑いが巻き起こる。

「しかしですね、彼女のようなタレントがクローズアップされると、外国から誤解されちゃいますよ。アジアの人々の悲しみを忘れてはならないんです。いいですか、日本は二度と戦争しないし、戦争という自衛権なんて認めなくていいんです!」

タレント経済評論家は息巻いた。

だが自衛権と日毬は関係ないし、極右だから即戦争というわけでもないだろう。議論の焦点をすり替えて相手を非難するのは、学識者の間でも日常的に行われていることだ。

しばらく彼の日毬批判が続いたところで、司会者が冷静に質問する。

「もし外国が攻めてきたらどうするんですか?」

「我々は非戦を守り通せばいいんですよ。最後の最後まで非戦を貫いて、平和にじゅんじればいいんです。過去にそういう美しい民族がいたと知ってもらえれば十分じゃないですか。国防なんてね、経済活動を阻害するだけです。カッコ悪いものなんですよ」

冷静に聞けば日毬以上に行き過ぎている極左的な意見だ。こういうエンタメ番組を楽しむテレビ視聴者の考えを代弁しているような意見なのだろうか。わからない。司会者は困惑しているようだったが、彼は構わず続ける。

「最近じゃ、まったくテレビの話題にならなくなりましたからね。やっぱり底が浅いってことが、テレビに携わる人たちにはわかるんですよ。ああいう子ってのはね、どうせ目立ちたいから右翼を名乗ってただけで、社会のためになるようなことなんて何もしてないものなんです」

彼の批判は止まらなかった。

「アイドルとして成功するために必死で演技してるに違いないんです。そりゃあ最初見たときはインパクトあったし、なかなか面白かったですけどね、一時期メディアを占拠して、もう彼女も満足したでしょ」

日毬がバッシングされ始めたのも、すべては俺の力量不足が原因だ。タレントに非がないのに叩かれたとするなら、それはプロダクションの責任以外の何物でもない。

テレビがバッシング傾向になっているのを、まだ日毬は知らないだろう。普段、日毬はテレビなど見ない。たまに俺とここで一緒に、自分が登場した番組や特集を視聴するくらいだった。日毬に辛い思いをさせる前に、なんとかする方法はないものだろうか。

ある週刊誌からメールで連絡が入り、俺は取材に応じることにした。

取材対象は日毬ではなく、俺だ。「神楽日毬さんに対してテレビ局が豹変し始めたことについて、プロダクションの社長の方に話を聞いてみたい」という内容だったので、取材を受けることにしたのだった。

ひまりプロダクションの事務所にやってきた記者は、挨拶もそこそこに切り出してくる。

「ぼく、神楽さんのファンなんですよ。ああいう子には頑張ってもらいたい。でも、急にテレビがバッシングに転じましたよねー。業界でもいろんな憶測が流れてるんですが、思い当たるフシ、社長にあります?」

俺は肩をすくめて応じる。

「多少は。しかし、確実な証拠なんてありませんよ。だから適当なことをベラベラ喋るわけにもいかない。それは取材を受ける前に、メールでも伝えておいたことですが」

「わかってます。ですが、火のないところに煙は立たないものです。神楽日毬バッシングの発端はズバリアステッド、でしょ?」

記者は事前に、ある程度の情報を摑んでいるようだった。

俺はうなずく。

と、想像はしています。でも確証なんてないですよ」

「確証を取るのがこっちの仕事なんで、その辺は安心して下さい。大丈夫ですよ」

明るい口調で記者は言った。

しかし、記者の言葉を真に受けるわけにはいかない。もしかすると、記者の言う「確証を取る作業」は、俺に対するインタビューなのかもしれないからだ。墓穴を掘らないよう、慎重に話を進めなくてはならない。

アステッドと抱えたトラブルを、俺は憶測だと幾度も断りつつも、可能な限りオブラートに包んで伝えていった。

しかし、どういうわけか記者は、俺が伝える以上に、このトラブルのことに詳しかった。俺が記者の質問に答えると、その度ごとに、質問を発した当の記者自身が、もっと詳しい状況を自分で補足説明するという奇妙な取材だった。

俺に話を聞かなくても問題ないほど状況を知っているとしか思えない。すでに記事を書こうと思えば書けるはずだ。記事を成立させるためのパーツとして、俺に話を聞きに来ただけに違いない。

一通りの質疑応答が済んだところで、俺は訊いてみる。

「ずいぶんお詳しいようですがどこでそういうお話を聞きました?」

「制作プロダクションに友達が結構いましてね。先日、古馴染ふるなじみと吞んだときに聞いたんです」

もしかしたら『学校DAISUKI!』のプロデューサーが流したのだろうか。俺にあれこれと業界の裏話を語っていたし、噂好きそうなタイプだった。彼ならありうる。なんて狭い業界だろうか。

安心させるように記者が言う。

「神楽さんにとってマイナスの記事にはならないはずですよ」

「ええ。その確信があったから取材を受けました。彼女のファンの人たちに、少しでも状況を知ってもらう足しになればと」

この取材の翌週、週刊誌に記事が出た。

タイトルはこうだ。

『神楽日毬バッシングの真相! アステッドからの圧力か?』

だいたい正確なあらましが掲載されていた。アステッドが持ちかけてきた移籍話をひまりプロダクションが蹴ったこと。そこからメディアの流れが変わったのは、アステッドによる圧力だと業界関係者たちが考えていること

ほんの少しでいいから、バッシングが弱まるキッカケになればいい。

だが、週刊誌の記事程度では、大海の中の一滴にすぎないことも事実だ。

世の中に対する影響力は、テレビを一〇〇とすれば、新聞が三、雑誌が二、書籍が一、ネットは一である。そのくらい隔絶の違いがある。テレビは一〇〇〇万単位、雑誌はせいぜい一〇万単位だからだ。だから雑誌ではテレビのバッシングには対抗できない。

そして内容のレベルを下げれば下げるほど、多くの人に届くようになる。テレビはもっとも低レベルのメディアだ。とにかく難しいことは一切言わず、可能な限り簡略にする必要があるのである。

かつて、「街頭を制する者が大衆を制し、大衆を制するものが国家を制する」をモットーにしていたナチス宣伝省ゲッペルスは、ズバリこう言い残している。

「宣伝は、知的レベルの低い階層に合わせるよう心がけねばならない」

さらに、ヒトラーは豪語した。

「大衆の受容能力は極めて狭量であり、理解力は小さい代わりに忘却力は大きい。この事実からすれば、すべての効果的な宣伝は、要点をできるだけ簡略化し、それをスローガンのように繰り返しさえすればいい」

小難しい話をされるより、ドラマの話題やアイドルの醜聞や批判の方が大衆には受け入れられるに決まってる。テレビは目でパッと見て、感性だけに身を委ねることができるから、何も考えなくても理解できるメディアなのだ。

雑誌がいくら低俗な記事を書こうとも、どうしたってテレビよりレベルを落とすことはできない。一般的に、文章を読むこと自体が面倒で、ハードルが上がってしまうというのが現実なのだ。日本は識字率が高く、国民の知的水準は他国と比べればマシと言われるが、実際には新聞以外で長い長い文章を読む層は、せいぜい一〇〇〇万。現実問題として、一億人はテレビしか見ない。

それにキー局がわずか五チャンネルしかないのと比べて、文字を読む層は何千何万チャンネルと多種多様にばらけてしまう。ネットになると、さらに細分化される。なによりテレビは無料で、空気のように生活に溶け込んでいる。多くの人にとって、テレビは生活の基軸なのだ。

テレビの影響力と、その他のコンテンツの格差は、言葉で言い表すのもバカらしいほど次元違いのシロモノなのである。だからこそ、民主主義とは即ちテレビのことであり、日毬の政治的な成功には避けて通れない道でもあった。

そして日毬が短期間で飛躍するためには批判は必要不可欠なことだが、テレビが一斉に攻撃に転じてくると、そうも言っていられない。讃辞と批判が激しくぶつかり合ってこそプラスの効果を発揮するもので、批判一色だとマイナスにしかならない。

テレビを敵に回せば、社会で勝ち上がることは不可能なのである。アステッドとのトラブルを振り払う決定的な方法を、俺は模索しかねていた。

事務所にやって来た日毬は、いつもと違っていた。

口惜しさに打ち震えるように拳を握りしめている。

「おつかれさま、颯斗」

そう挨拶した日毬は、俺の顔を見るなり、耐えかねた結界が破られるように目に涙を溢れさせた。

日毬をソファに座らせ、肩に手を置いて優しく問いかける。

「日毬、どうしたんだ?」

今日、学校で、いつもの日本史教師と言い争いになったんだ。私はヤツの捏造ねつぞうを指摘して、完膚無きまでに叩きのめしてやったのにヤツは言うんだ。私がテレビでバカにされてるって」

日毬は腕で涙を拭う。

「最初は何を言っているのかわからなかったけどあとでクラスの友達に確認したら、事実だって

ああ。今は流れが悪くなってる」

俺は言葉をにごらせた。

「どうりで、同級生たちは余所余所よそよそしいなって思ってたんだ。私がグラビアやCMに出てることを羨ましがってた子たちまで、ここ数日は何も言ってこなくなってたから

声を震わせて日毬は続ける。

「みんなに聞いたら、色々教えてくれた。急いで学校から帰ってテレビを確認してみたんだ。そしたら私の話題が取り上げられててそれで。メチャクチャな言い分なのに、反論できないのが何より悔しい

「日毬。攻撃されている場面を初めて見れば、誰だって参ってしまうはずだ。だから今の日毬の気持ちは、痛いほどわかる。だけどな、こんなのは序の口だぞ。俺もメディアに関わって色々見てきたけど、本気でやられる時はこんなものじゃない。日本国中が一斉に非難の嵐を浴びせかけてくるような状況になる。これでも今は、まだまだ軽い方なんだよ」

「わかってるんだ。政治の頂点に立つのなら、幾らでもバッシングなんてあるはずなんだって。こんなの想定していたつもりだったし、幾らでも乗り越えてみせようって思ってた。で、でも私、こんなの初めてで怖いって、そう思った

「そうだろうな。初めての経験なんだから、尚更だ。それでもさ、本気で政治方面を目指すなら、もっと大変な事態になることも理解しておいた方がいい。だからなここで降りるってのも、アリだぞ」

俺の言葉に、日毬は視線を上げる。

えっ?」

「日毬と付き合ってみて、つくづく感じるよ。日毬の本当の姿は、普通の女の子だってな。最初に日毬が演説してる場面を見かけたときは、とんでもない気丈で勝ち気な子だなって思ったけど、実はぜんぜん違ってた。日毬は使命感で懸命に生きてるけど、そんなものは捨て去って普通に暮らした方が、幸せになれると俺は思う」

「日本の未来なんて、ほとんどの人はなるようになるって考えてるんだ。何も日毬ひとりが悩んで背負い込むようなことじゃない」

そう言うと、予想に反し、日毬の顔つきは引き締まった。

日毬は涙を拭き、真摯に俺を見据え、決然と首をふる。

ダメだ。降りる選択などありえない。私は私である以前に、日本大志会の総帥だ。それは私の生き方であって、人生のすべてなんだ。日本の未来は私の両肩にかかっていると自負している」

「どうしてそこまでこだわるんだ? 日毬はまだ一六歳で、女の子なんだぞ?」

「この程度のことで、自分の誓いを曲げたとするならば、私は一生逃げ続ける人生を送らなくてはならなくなるはずだ。私は日本という国家に魂を捧げている。そこまでの誓いを捧げたのに、たかだかこの程度のことで怯むなど

視線を落とし、つぶやくように日毬は続けてゆく。

「本当にバカなヤツだな私は。あの卑劣な日本史教師より、私の方がずっと愚か者だった。初めから答えなど決まっているのに、うじうじ悩むのは恥ずべきことだ

「日毬

「颯斗、このような恥ずかしい姿を見せてしまい、誠に申し訳ない。だけど安心してくれ。颯斗が一緒にいてくれるなら、颯斗さえ私の味方であり続けてくれれば、私はきっと乗り越えてみせるから

。しばらくバッシングの流れは続く可能性があるぞ。それでも、いいのか?」

「私はやり遂げてみせる。そのために私は生きているのだ」

「そうか。ならば、俺も頑張ってやらないとな」

俺は立ち上がり、机の上に置いていた週刊誌を取り上げた。先日、俺が取材に応じたばかりの記事が掲載されてあるものだ。

「日毬には、こうなった経緯を知っておいてもらう必要があるな。俺の勝手な推測も入っているけど、伝えておこう」

そう言いつつ、俺は記事を広げて手渡した。

受け取った日毬は、記事に視線を落として黙々と読み込んでいく。

読み終えた頃、ポツリと日毬が口にする。

「そうか例の移籍交渉の話が繫がってるのか

「あくまで憶測の範囲内だけど、まず間違いないんじゃないかとも思う。これまでの急激な日毬の話題の盛り上がりは、悪くない流れだった。それがここにきて急転したのには原因があるはずで、この記事の通りアステッドが何らかの手を打ったんだろうな」

「たかだか一プロダクションとの力関係でこうまで動かされるとは、メディアとはずいぶんいい加減なものなのだな」

「そりゃ人間が制作に関わってるものだ。ロボットがテレビ局を運営してるわけじゃないからな。どんな業界、どんな企業だって同じだろう。もちろん政治だって同じだぞ」

「私のために、これ以上颯斗に辛い思いをさせるのは忍びない。颯斗を苦しませる連中は、私が直接乗り込んで成敗してやる」

日毬が真剣そのものだったので、慌てて俺は口にする。

「いや、違うぞ。こんな状況に日毬を追いやったのはすべて俺の責任だ。タレントを守るのがプロダクションの一番の務めなんだからな」

「だが颯斗が私を追いやっているわけじゃない。向こうが勝手に因縁をつけてきて、一方的に嫌がらせをしているだけじゃないか。颯斗はいつも私を守ろうとしてくれる。私以上に辛いはずだ」

。この解決は任せてもらえないか。向こうと話し合ってみようと思ってることがあるんだ」

「どんなことだ? 聞かせてくれ」

そして俺は日毬に、売上の一割をアステッドに納めることで決着を図れないかという案を話して聞かせた。

日毬は眉をつり上げる。

「バカな! それじゃ颯斗がアステッドの子分ということになるじゃないか。私が主催する日本大志会が、自友党か民政党の傘下に入るようなものだ。アステッドの指示には従わざるをえないことにもなる。認められない」

「それでも解決法のひとつじゃないかと思うんだ。この状況を打開するのが最優先だろう。アステッドとは話し合わなくちゃならない」

「私の目標のために、颯斗が犠牲になるというのか? 颯斗は言っていたろう。父に打ち勝ってみせるような企業を創るんだと。アステッドの傘下になることが、そのための道だとでも言うのか? ありえないぞ」

俺は押し黙った。日毬の言う通りだったが、今の俺には力がないことも事実だ。雌伏しふくして時が巡ってくるのを待たなくてはならないこともある。

「颯斗、約束してもらうぞ。アステッドと話し合う時は、必ず私も同席する。絶対だ」

「それは決められる話も決まらなくなっちまうかもしれん」

俺は渋ったが、日毬はどうしても聞かない。

「颯斗を犠牲にして決める話など、私は認めない。私は颯斗と一緒に進みたいんだ。颯斗はもう、私の人生には必要な人なんだ」

日毬

「一人で決着を図ろうなんてしないでくれ。私も颯斗の力になりたい」

切々と日毬は訴えてきた。

その熱心な態度に押し切られ、俺は黙ってうなずいた。

アステッドプロの社長室で、俺と日毬は先の二人と向かい合っていた。

仙石社長が穏やかに口にする。

「良い話を持ってきてくれたようだな」

「お待ちしてましたよ。わざわざ神楽さんにご来社して頂けるとは。きっとまた交渉を持つことになると思っていました」

狩谷常務にも、先日の豹変した雰囲気はまるでなかった。

「私がお前たちと会うのは二度目だな。颯斗は三度目か。話をつけてしまいたいと思う」

日毬に続き、俺がキッパリと言う。

「単刀直入に申し上げたいと思います。神楽の移籍は検討外です。この答えは変わりません」

意外そうに、二人は顔を見合わせた。

すかさず俺は補足する。

「ですが代わりに、我々が業界に慣れるまでご指導して頂く間、一定の料金をお支払いするという案はどうでしょうか? ひまりプロダクションの売上の一割をお支払いするという形を考えています」

「私は反対したのだがな。颯斗がどうしてもお前たちと折り合いたいと言い張るんだ。私も颯斗にはわがままばかり言っているから、今回は颯斗の方針に沿うことにした」

そう言って、日毬は口元を引き結んだ。

ふむ」

仙石社長は相づちをうち、狩谷常務は腕を組む。

「うーん

しばらく考える風だった仙石社長は、俺と日毬を交互に見やって言う。

「だったら、こういう提案はどうだ? ひまりプロダクションは解散し、織葉社長と神楽さんが揃ってうちに移籍すればいい。今まで通り織葉社長には、神楽さんのマネージャーとして活動してもらおう」

「申し訳ありませんが、社員として御社に入社するつもりは毛頭ありません」

俺は即答した。蒼通からアステッドに転職するようなものだ。ありえない。

「社員というよりもフルコミッションだ。ほとんど自営業と変わらない。織葉社長がプロダクションを経営しているのと同じような形を整えることができるし、さらに神楽さんのPRにかかる費用はすべて会社で負担してやることができる。双方にとってメリットのある提案ではないかね?」

出費をアステッドが負担してくれるなら多少はメリットがあるのだろうが、完全歩合給でアステッドの手足となって働くこともありえない。俺は独力で立ち上がるために蒼通を辞めたのであって、どこかの組織に所属し直すなど選択外である。なにより、日毬の自由度も下がるだろう。

「私としては、プロダクションとしての仕事より、神楽の政治的な理想を優先させてやりたいと考えています。ひまりプロダクションは、ただの芸能事務所ではなく、もっと総合的に所属タレントの理想のために尽力するような立場でいたいのです。神楽の目指すところは、常々本人がメディアの前で主張しているように政治家としての大成であって、その目標のためにこそ我々が存在していると認識しています。ですから、御社に移籍する選択はありえません」

ならば、我々からひまりプロダクションへ人を派遣して、さまざまな指導に当たるというのはどうか。織葉社長も業界に慣れていないだろうから、メリットは大きいだろう。そうだ、まずはここの狩谷を派遣してもいい。業界歴が長いし、さまざまなメディアに顔が利く」

仙石社長はどうしても日毬を取り込みたいようだ。アステッドほどの業界大手が、ここまで日毬に期待を寄せるのは注目すべきことである。

たしかに日毬のような人材は、いくら望んでも得ることなどできないはずだ。どれほど金を注ぎ込んでタレントオーディションを繰り返しても日毬が応募するわけがないし、原宿で何人のスカウトを動かしても捕まえられるものではない。素の日毬の、特殊で特別な性質と行動は、存在するだけで瞠目どうもくされる類のものだった。これ以上ないくらいの逸材に化ける可能性を、彼らは感じているのだろう。

「申し訳ありませんが、それを受けることはできそうにありません」

「あれもできない、これもできない。織葉社長には、我々と話をするつもりははなっからないようだな」

鋭い口調で狩谷常務が口をはさんできた。

俺は切り返す。

「ですから、最初の私の提案ではどうですか? 経営を指導して下さる費用として、当面、売上の一〇%をお支払いしたいと考えているんです」

「金だけで解決をつけたいと言っているようなものだ。そもそも、我々は端金になど困っちゃいない」

狩谷常務は吐き捨てるように言った。

金で日毬をかっさらおうとしていたのはアステッドじゃないかという言葉を、俺はグッと吞み込んだ。ラチの明かない不毛な議論を繰り広げてもメリットはない。

だが、そんな思案を余所に、日毬がテーブルを叩き、俺の考えと同じようなことを言い放つ。

「もともと金をチラつかせて話を進めようとしたのはお前たちだろう! 自分たちの話を棚に上げ、平然と颯斗の言葉だけを追及するような相手のことを、どうして信じられるんだ? 自分たちの都合だけで世の中が回っていると思ったら大間違いだぞ」

正論なためか反論できないようで、狩谷常務はギリと唇をかんだ。

「どうか私の提案で、ほこを収めてもらうことはできないでしょうか。神楽に対するバッシングも止めてやって頂きたい。神楽の人生がかかっています。私個人としてできることなら、可能な限りのことをやらせてもらうつもりです。ですから、どうか

俺は頭を下げた。横で日毬がつぶやく声が聞こえる。

「颯斗

バッシング? そう言えば、神楽さんに対する世間の風向きは怪しくなっているようだ。しかし我々にはサッパリだな」

狩谷常務がわざとらしく肩をすくめた。

日毬は声を荒らげる。

「ふざけるな! おまえら以外で私たちに嫌がらせをする相手が、世界のどこにいると言うんだ!」

「人聞きの悪いことを言わないでもらいたい。どこに証拠があると言うんだ。もっとも、メディアが騒がしいことは、我々なら抑えてやることができるかもしれないが?」

「マッチポンプもここまで来ると滑稽だな。颯斗が頭を下げているのだぞ。おまえらに少しは人情の機微を解する心を期待したが、それは間違いだったようだ。いいか、私がお前たちの下でアイドルを続ける可能性などひとつもない。肝心のそのことを、よくよく心得ておくのだな」

「まだ自分たちの立場がわかっていないのか

狩谷常務が話し出そうとするのを、鋭く仙石社長が遮ってくる。

「もういい。帰ってもらえ」

そして仙石社長は日毬を睨みすえ、続ける。

「残念だが、君も必要ない。ここまで君が反発心を隠さないのなら、どだい上手くはいかないからな。しかし、今後もこの業界でやれるなどという妄想は抱かないことだ」

「どういう意味だ?」

「言葉通りの意味だよ。残念だ。君なら、かつてないアイドルとして成功を摑むことができただろうに、自らそのチャンスをフイにするとは。そこまで愚かだとは想定外だった」

「アイドルなど望んでいない。他人にチヤホヤされて何が楽しいんだ? 私は日本国家の支柱になるため、この命を削る所存である。そのためだけに私は、水着にさえなっているのだ。私個人がどれほどの厄難やくなんを味わおうとも、戦い続ける使命が私にはある。貴様たちとは志が違う」

日毬の話を仙石社長は鼻で笑う。

「ふん。国家のための戦いだかなんだか知らないが、世論からそっぽを向かれたらお終いだろう。我々とここまで敵対しておいて、このままメディアに出続けられるとは思わないことだな」

「私の政治への道を阻むとすれば、お前は日本国家の敵になる。その覚悟はあるのだな?」

「我々と戦うなど、騎馬で風車に突撃するドンキホーテのようなものだ。だが、後悔してももう遅い。予告しておこう。生き地獄を味わうことになるぞ」

売り言葉に買い言葉。しかし日毬も仙石社長も興奮し始め、お互いをののしる言葉は止まりそうにない。

日毬は胸を張り、尊大に口にする。

「受けて立つ。お前たちのような敵をはねのけることができずして、どうして日本国家の頂点に立つことなどできようか。おまえたちが颯斗を追い落とそうとするならば、私とて容赦はしない。私も予告しておくぞ。真の覚悟の偉大さを、お前は思い知ることになるだろう」

「実に威勢のいいことだ。しかし、無知というものは恐ろしい。自分で自分の身を滅ぼしたがっているのだからな」

「それは私の言葉だ。私を敵に回したことを、お前は激しく悔いるだろう。いいか、私は

さらに日毬が声を尖らせようとしたので、俺が割って入る。

「日毬、もうやめるんだ。ここは大人しく引き下がろう。交渉が決裂したということだけわかれば、それでいい」

俺が日毬の肩に手をやって説得すると、日毬の興奮はだいぶ収まってきたようだった。

「颯斗がそう言うのなら仕方あるまい

次に俺は目の前の二人を見やって口にする。

「仙石社長、狩谷常務。良いお話にならなかったのは残念です。うちは小さなプロダクションですが、できましたらどうか、温かく見守ってもらえればと思います」

「小僧。どの口がそれを言うんだ。平穏無事でいられると思ったら大間違いだぞ」

仙石社長に続き、狩谷常務も鋭く言う。

「ふん。とっとと失せろ!」

俺と日毬は黙って席を立ち、社長室を後にした。

狩谷常務が事務員に叫ぶのが聞こえる。

「塩、撒いとけ」

俺たちにわざと聞こえるように言ったのだろう。

交渉は完全に決裂だ。修復も不可能。改めて、これからの方向性を練り直さなくてはならない。

電車を降り、俺は日毬を家まで送った。

麴町から日毬の家まで、タクシーですぐだ。ここから事務所までも歩いて帰れる。

俺たちはタクシーを降り、日毬の家の前で向き合った。

真摯に俺は言う。

「日毬には辛い思いをさせちまって、すまないな。俺にもう少し力があれば、こんな風に好き勝手はさせないんだが

「颯斗が私に、どうして謝る必要なんてあるんだ? 颯斗には、とても感謝している。これからもずっと傍で私を支えていてほしい。颯斗が私の初めてで本当によかった」

日毬の言葉に、俺は少なからぬショックを受けた。

この状況になっても、日毬は以前と寸分違わず俺に感謝してくれていると言う。だがメディアの反日毬の動きは、たとえアステッドが仕掛けたものだとしても、すべて自分の至らなさによるものだ。以前アステッドの狩谷常務が指摘していたように、「調整するのがプロダクションの仕事」なのだから。

ここまで一途に相手を信じてくれる子など、他にいるのだろうか。改めて俺は、日毬のためになんとしてもこの状況を打開してやりたいと気持ちをかき立てられたのだった。

アステッドとの対立が確定しても、数日は何事もなく過ぎていった。

日毬のバッシングもあまり見かけなくなり、トラブルなどまるで何事もなかったかのような状況に安堵していた。不安は消えたわけではなかったが、かといって何かこちらからアグレッシブな手が打てるわけでもない。

そうこうするうちに一週間が過ぎた。

起き出して歯磨き洗顔を済ませ、テレビを中心にもう一度積極的に日毬をプッシュし直そうと考えながら、スーツに着替え終わった頃

朝っぱらから、携帯に由佳里から電話があった。

「おはよう。こんな早くからどうした?」

「先輩! 京スポ、見ました!?」

「いやスポーツ新聞なんてご無沙汰だな

蒼通時代は、新聞各紙の一面にはざっと目を通していたものだ。時間もないのでまともに内容を読むわけじゃないが、一面の見出しを見るだけでも世間の傾向が少しはわかる。それが広告を扱う俺たちの仕事の一環でもあり、その習慣を由佳里に最初に教え込んだのは俺だった。

だが俺は蒼通を辞めてから、いちいち朝刊のチェックをすることもなくなっていた。面倒だし、必要もない。広告業でもなければ、得るものは少ないからだ。

「なにサボってるんですか! ていうか、見て下さい、今すぐに! 先輩のことが載ってますよ!」

「俺のこと?」

予想外の答えに、俺は携帯を取り落とす寸前だった。

「そうですよ! 酷い記事なんですから!」

「わかった。すぐチェックする」

俺は携帯を切って部屋を飛び出した。

ネットをチェックするのでもいいが、世間が見るのは紙面の方だ。それにコンビニはうちの目の前である。

急ぎ足でコンビニへと駆け込み、京スポを取り上げ一面を広げてみた。目に飛び込んできたのは次のタイトルだ。

『東王印刷どら息子の浪費発覚!?』

ちなみに「!マーク」は見出し文字と同じ大きさで、「?マーク」は見出し文字の五分の一ほどの小ささである。

思わず俺はよろめきかけたが、なんとか気持ちを保ってレジへ行き、小銭を差し出して京スポを買い求めた。そして震える足つきで事務所へと引き上げたのだった。

事務所のソファに腰を下ろし、改めて新聞を広げた。

見出しに、サブタイトルが付いている。

「東王印刷を支配する創業一族が裏で芸能プロダクション経営! タレントに入れ込み数十億円を浪費の真相?」

間違いなく俺のことだ。しかし、数十億円とはどこから出てきた数字なのか?

記事を読み込んでいくと、それはもう酷い内容だった。

要約すると、「蒼通にコネで入社したバカ息子が、今度は女三昧の生活を送りたくて芸能プロダクションを始めた」というものだった。

前半は、多少の反論はあれど、大まかなところは合っている。だが後半の結論は、噓八百のシロモノだ。だいたい、芸能プロダクションをやれば女三昧の生活という結びつけ方が、いかにも安っぽい世間のイメージに迎合していてアホらしい。

そりゃ数多ある事務所を探せば、社長が所属タレントに手を出すところもあるだろう。仕事を取るために寝る女性タレントもいることは蒼通に在籍していた時に見聞きした。しかし、あくまで特異なケースだ。そんな事務所やタレントが長く続くわけもない。まったくバカバカしい。

「数十億円を浪費」というのも、業界筋を名乗る匿名の人物が、「かなりのお金が息子に流れたと思いますよ。数十億あっても不思議じゃありません」などと寝ぼけたコメントをしていただけだった。完全な憶測のコメントだが、そもそもコメントの具体性がないだけに、どこがどう間違っていると反論もしづらい曖昧なものだった。

この記事は、アステッドが攻撃の重点を俺に置いてきたということだ。ひまりプロダクションを業界から締め出す目的なのだろう。それに、日毬をバッシングするとしたら感情的な話ばかりになってしまうが、東王印刷という確固とした企業名が挙がると途轍とてつもないニュースに聞こえる。

俺は頭を抱えた。オヤジの怒りの形相を想像すると、俺の気持ちは暗く沈んだ。

オヤジは、俺が芸能プロダクションを始めたなんて知らない。水物商売を嫌悪しているオヤジが、芸能界などという怪しげな分野で俺が勝負しようとしていることを知ったなら、どれほど激怒するだろうか。

ある意味では記事通り、俺は本当にどら息子なのかもしれない

東証が開いてすぐ

東王印刷の株価がまたたく間に下落し、ストップ安に陥った。間違いなく、京スポの記事を受けての反応だ。

すぐに東王印刷の代表取締役社長が記者会見を開き、この模様がテレビで放送された。

「東王印刷には何の関係もない話です。京スポの記事は憶測による部分が多く、要領を得ません。一部で噂されているようなお金を流用された事実もなく、事業上の関わりがあったこともまったくありません」

社長は淡々と事実を説明していった。

ちなみにオヤジは代表取締役会長だ。社長は身内の人ではなく、古くからの社員だった。東王印刷が、印刷業から他の事業分野へと進出していくときに陣頭指揮を執った優秀な人物である。何度か三番町の実家にも来たことがあり、俺とも面識があった。

「当社監査役および監査法人にも、当社は経理上の問題が一切ないことを確認しています。また、当社の大株主であり現会長でもある織葉練氏からも事情を伺いましたが、長男が行っている事業には何の関与もしておらず、かつまた資金の提供もまったく行っていないことも確かです。そもそも織葉練氏は長男がどのような事業を行っているか、まったく知らないということです」

淡々と社長は説明を続けてゆく。

「京スポの記事は具体性に欠いており、このような反論をしなくてはならないことは誠に遺憾いかんであります。当社の株価にも影響を与えており、『風説の流布』に該当する可能性もあると判断し、弁護士とも慎重に対応を協議しているところです」

経営陣が一致団結して最速の対応をしたことで、東王印刷の経営については一定の安堵感が広がった。

しかし「会長である織葉練が、長男は何をやっているのか知らない」という文言があったために、織葉家に対する疑義が広がることは避けられなかった。ネットを中心に、家族の管理もできないような無能極まる創業一族は、東王印刷から手を引けなどという声が高まっていった。

社長の主張はまったくの事実だったし、オヤジに一点の落ち度もないと俺には思われた。だいたい俺はもう二六歳であって、家族に借金もしておらず、依存もせず、自分の力で生きているつもりだ。それなのに、親族に毎週のように俺の状況を知らせなくてはならないとしたら、煩わしくて何も進まない。どうしてオヤジが、息子が自分のお金で最近始めたばかりのプロダクションのことを知る義務があるというのだろうか。

それでも世間の、織葉家に対する疑いは残りそうだった。煩わしいことこの上ない。

夕刻、いつものように日毬は事務所へとやってきた。仕事もなくなっているから、日毬は事務所で芸能界について勉強して帰っていく日々に逆戻りしていた。

玄関で靴を揃えて上がってきた日毬は、俺の顔を見るなり言う。

「颯斗、おつかれさま。元気、なさそうだな?」

「そうだな。今日一日で、かなり消耗しちまったよ

俺は机に広げてあった京スポを取り上げ、日毬に手渡した。

日毬にはあまり心配をかけたくないが、隠しておくのはフェアじゃない。正確な状況は、日毬にも知っておいてもらう必要がある。

新聞を手にした日毬は声を上げる。

「矛先を颯斗にまで向けてきたのか!? おのれアステッド絶対にあってはならないことを今こそ私は、身体を張ってヤツらと戦わねばならない

突然、日毬は取って返し、靴を履こうとした。アステッドにでも乗り込むつもりかもしれない。

俺は慌てて日毬の手を取った。

「待つんだ日毬。常識的なヤツなら、この記事は憶測にすぎないってことを理解してくれる。東王印刷もきちっと反論しているし、致命的なことじゃない。ただの嫌がらせだ」

「だからこそだろう! 颯斗が嫌がらせを受けることは、私には死ぬよりも辛いことだ!」

日毬は憤然として言った。

まったく無関係なオヤジにまで累が及んでいることに俺は苦々しい思いを嚙みしめていたが、日毬も俺にまで累が及ぶことに、同じような気持ちを抱いているのだろう。とりわけ日毬は義理堅く、律義で真っ直ぐな性格だ。身が引き裂かれるような想いに違いない。

「俺のことを心配してくれるのは嬉しいよ。だけどな、これはやはり俺の問題だ。プロダクションを始めたのは事実だし、ほとんど絶縁に近い状態だとは言えど、俺が東王印刷の一族ということも事実だ。こういうレベルの嫌がらせに構っていたらキリがない」

だが、颯斗が責められるのは許せない」

「これは俺個人の問題だ。ひまりプロダクションが責められてるわけじゃない。だから、オヤジとの兼ね合いでうんざりはしているけれど、俺としてはまだ落ち着いていられる。大丈夫だ」

そうそう長く私は堪え忍べそうにないぞ。次に颯斗が攻撃されれば、私はきっと我慢できないだろう」

日毬は唇をかみしめた。

心配してくれるのは嬉しいが、日毬なら本当にアステッドに抗議に向かいかねない。日毬に状況を伝えるのは慎重にタイミングを計らねばならないと思った。

翌日の東西新聞の朝刊に、次のような記事が掲載された。

『東王印刷、織葉家は神のような存在。歯止め利かず』

東王印刷に対する世論の厳しさに迎合した記事だ。

内容は推して知るべし。

要するに、「東王印刷にとって織葉家は大株主で、長いこと代表取締役の地位にあり、極めて重要な存在だ」ということを、長々と、もっともらしく書いただけの記事だった。

そんなことは経済界に詳しい者なら誰でも知っていることで、今さら記事にして騒ぐ必要性などひとつもない。そして筆頭株主で、過半数の株を持っている人物なら、その会社にとって不動の存在であることは自然すぎることである。どこの会社だって同じわけで、創業陣が株式を売り払った一部の上場企業を除き、ほとんどすべての企業には神がいることになってしまう。神を企業の大株主と定義するなら、神は日本にも世界にもゴマンといることになる。

しかし東西新聞は影響力があるだけに、世間の騒ぎにお墨付きを与えたようなものだった。

俺は心底参った。俺個人を攻撃するならまだ理解できる。だが、オヤジまで巻き込んで攻撃を続けてくるのは筋違いだ。俺はオヤジが嫌いで仕方がないが、だからこそ、このような形で関係したくはなかった。わずかでも借りを作りたくないし、精神的な重荷を背負いたくもないし、家族の微妙な関係をさらに複雑怪奇なものにしたくはないからだ。

しかし、打つ手がなかった。

オヤジに電話でもして謝罪するべきだろうか。向こうは憤然としているはずだが、電話もかかってこない。

しかし事態を説明しないわけにもいかない。かといって電話だと誤解を生む可能性もある。

さんざん思い悩んだ末に、仕方なく俺は、実家へと出かけることにしたのだった。

すまん。迷惑をかけちまった」

スーツ姿の俺は、オヤジを前にして謝罪の言葉を口にした。

世界で一番謝りたくない相手に頭を下げなくてはいけないのは、本当に嫌なものである

オヤジは黙して、無表情で俺を見据えているだけだ。

「怒らないんだな?」

沈黙に耐えかね俺が訊くと、ようやっとオヤジは口を開く。

怒らないと思っているのか?」

「思っちゃいない」

「そうだ。俺は怒っている。俺がもっとも忌み嫌う水商売の、しかも昔からヤクザどもがやるような商売を始めやがって。怒らないわけがない」

いつもなら、「そんなの俺の自由だろ」と反論したはずで、俺の意見の方に正当性があると思う。しかし今は、そのせいでオヤジまで巻き込んでしまっている。黙ってオヤジの意見を受け入れるしかない。

「だがお前に対する以上に、これだけのことをしでかしてくれた相手に怒っている。メディアの連中が意味もなく火のないところに煙を立たせるわけがない。お前と敵対するヤツが仕掛けてきたんだろう。織葉家に対する侮辱ぶじょくに他ならない。話して聞かせろ」

オヤジは、バッシングが仕掛けられたものだということまでは察しているようだ。そこまでは、事業家として当然の理解だろう。

ありのままの状況を、俺はオヤジに話して聞かせた。こうなった以上、正確に伝える義務が俺にはある。

俺の説明を、オヤジは黙って聞いていた。

一通り聞き終えると、オヤジは素っ気なく言う。

「そのタレントを譲り渡せ。それで解決するんだろ?」

「それはできない」

なぜ?」

「俺が最初の事業を始めるキッカケになってくれた子だ。彼女の意志を、可能な限り尊重してやりたい。その子は、これからも俺とやりたいと言ってくれている」

恋愛関係にあるのか?」

予想外のオヤジの言葉に、俺は愕然とする。

「バカな。オヤジがそんなことを言うとは思わなかったぞ。俺が公私混同などしないことくらい、いちいち説明しなきゃわからないのか?」

オヤジは俺の能力をまったく買っていない。だが一方で、俺がメチャクチャなことをやるような、成金まがいの人間ではないことも知っているはずだ。

近年ははすな成金ばかりに脚光が集まるが、古くからの、本当の日本の富豪層は、質実剛健を美徳として慎ましく生きている。織葉家とてそれは例外ではない。幼いころから俺も富豪層に取り囲まれながら、謙虚に身を自制するすべを、有形無形の形で自然に覚えてきた。

芸能プロダクション経営と聞けば、一見、派手な生活を追い求めているように聞こえる。だがしかし、俺の考え方はひとつも変わっちゃいない。華やかな舞台を求めて業界に足を踏み入れたわけじゃなく、日毬との信頼関係のなかで、この業界に関わるのが自然な流れだったのだ。

しかしオヤジは訝しげに俺を見やってくる。

「本当に、そうか?」

「噓を並べてなんのメリットがあるんだ。与太話でオヤジを煙に巻けるなんざ思っちゃいないよ」

オヤジは席を立ち、机に置いてあった週刊誌を取り上げた。

それを、バサリとテーブルに投げやってくる。

週刊ネクスト明日発売の、週刊誌の早刷りだ。

オヤジが早々と未発売の雑誌を手にしているのは驚くにはあたらない。うちは昔から、大半のメディア媒体を世間より早く手に入れることができる。まだ発売されてもいない週刊誌や書籍が家にあるのは珍しい光景ではなかった。なぜなら日本の出版物の多くに、東王印刷が製本作業で関わっているからだ。好むと好まざるとにかかわらず、出版物を日本で一番最初に手にするのはオヤジなのだ。

もちろんそれがインサイダーに抵触したりすることもない。いかなる有名媒体をいち早く入手して隅から隅まで目を通そうとも、実のところ大した情報なぞ、端っからどこにも書いてないからだ。

「週刊ネクストがどうしたってんだ?」

「いいから見てみろ」

オヤジはアゴで週刊ネクストを指し示し、手に取るように促してきた。

表紙には、さまざまな見出しが掲載されている。左端に、「噂の東王印刷の長男、神楽日毬との熱愛発覚!?」の文字を見つけ、俺は身体が崩れ落ちそうな感覚に襲われた。

急いで俺は雑誌を取り上げ、ページをめくっていく。

記事は、まさにタイトル通りの酷いシロモノだった。言い訳するのもバカらしいほど、完全な捏造記事である。

「こんなものはデマだ

ポツリと俺は言った。

「だろうよ。それでもお前の落ち度であることに、寸分の違いもない」

オヤジの言葉が、俺の脇腹をボディーブローのように捕らえた。

いちおうオヤジは、俺が三面記事のような色恋沙汰のスキャンダルに身を落とすようなことはないと理解はしていたようだ。しかし、この記事を知っていたから、俺にあえて恋愛関係などとバカげたことを指摘してきたのだろう。

「うちの社員がこの原稿を俺まで持って来たから、昨日のうちにこの記事を知った。もちろんすぐに週刊ネクストの版元購論社こうろんしゃの社長に文句をつけた。しかしメディアからのバッシングに囲まれている以上、あまり強硬に言うわけにもいかない。会社としての問題ではなく、個人的な因縁にすぎないからだ。それに、購論社は大手だ。あまり強く出て、京版けいはん印刷に乗り換えられるわけにもいかん」

「東王印刷には影響ありそうか?」

肝心なことを俺は確認した。

「影響があるようなら、俺もこんなヤワな対応はしていない。お前の名前に被せられただけで、東王印刷自体は無関係なことだ」

「そうか

それなら多少は気が紛れる。可能な限り関わり合いになりたくないオヤジに、俺の負担を背負わせるようなことはゴメンだった。

「だが、お前個人として民事訴訟そしょうの準備くらいはしておくことだ。判決が出るころには、どうせ一般人は忘れ去ってることだがな」

そう言ってオヤジは鼻を鳴らし、他人事のように続ける。

「明日の発売後、芸能記者どもに囲まれるかもしれんぞ。いいか、うちの名前は極力出すな。もしも出さざるを得ない場合は、『東王印刷とは無関係』だと強調しろ。場合によっては、織葉家からは縁を切られていると言ってもいい」

「ふふ、事実だからな。とっくに絶縁されて無関係だと主張しよう。その方が、こっちも気分がスッキリする」

そうだな。マスコミの方はともかく、肝心の敵対相手の方はどうするつもりだ?」

「なるようになるだろ」

俺は感情的になっていた。

「ふん。なんなら、俺が某所に電話の一本でもしてやろうか? アステッドなぞ知らないが、それで解決するだろうよ。だが、相応の金を積む必要はあるがな。最低でも一億からの現生を用意しろ。お前にそれが出せるのか?」

オヤジが嘲笑しているように俺は感じた。俺はオヤジにさまざまな感情が渦巻いているせいだろう、どうしてもオヤジのやることなすことに向かっ腹が立つ。

「断る。たかだかこんな程度のことで、俺はオヤジを頼らない」

「だが、盛大に迷惑はかけてくれたわけだ。威勢だけは一人前だな」

感情が爆発しそうになるのを、俺は腹に力を込めて抑え込んだ。ここは俺が悪い。オヤジもそれがわかっているから、こういう言い回しをしてくるのだ。

これ以上の会話を交わしても、お互いに得るものはない。俺は席を立つ。

「これ、もらっていいか?」

そう訊きつつも、すでに俺は雑誌を手にしていた。

「いらん。持っていけ」

吐き捨てるようにオヤジは口にした。

別れの言葉はお互いに一言もなかった。雑誌を摑みあげた俺は、スタスタと部屋を後にした。

事務所へやってきた日毬に、俺はオヤジからもらったばかりの週刊誌を見せていた。

日毬は目を見開き、苦渋の表情で記事に視線を落としている。啞然とするのも無理はない。記事は極めて低俗なもので、日毬と俺が毎晩事務所で情事にふけっているようなことが書かれていたからだ。

俺のことが書かれているだけなら、日毬に見せるのはタイミングを計ろうと思っていた。日毬が激怒し、アステッドに単独で乗り込みかねないからだ。しかし、この記事の内容は、日毬を名指ししている。俺がいち早く伝えておかなくては、日毬は他の人間から笑われることで知ることとなり、大いに恥をかくだろう。だから、やむにやまれず見せることにしたのだった。

記事に目を通した日毬は驚きを隠さず、ポツリとつぶやく。

「信じられない。こんなことがあるんだ

「日毬は純粋だから理解したくないだろうが、世の中ってのはそういうものだ。アステッドは、ひまりプロダクションを叩きつぶすことに決めたってことだろうな」

そう説明し、俺は少し身を乗り出して続ける。

「だけど、このまま手をこまねいて押し切られるわけにもいかない。そこで考えたんだけどさ、近場の会議室を借りて、そこで記者たちを集めて説明するつもりだ」

「私ならいつでもいいぞ。どのような状況でも、演説の気構えはできている」

日毬は勇ましく応じたが、俺は首をふる。

「いや、日毬じゃなく、俺が受けようと思う」

颯斗が?」

「これは俺を狙い撃ってきた記事だ。それに、日毬をこういう色恋沙汰の表舞台には立たせたくない。このトラブルが終われば、日毬には再びアイドルとして活躍してもらうことになるからな。この矢面には俺が立たなくちゃならない」

「そんな颯斗はやりたくないだろう?」

「これは戦争なんだ。こっちがコソコソ逃げ回ってると、いつまでもこんな事態が続くことになる。向こうが攻撃を加えてきた以上、俺も武器を取って戦わなくちゃならない。事の経緯を可能な限り世間に伝えて、それで終結させるつもりさ。日毬の仕事も挽回してみせるぞ」

「颯斗

「大丈夫さ。きっと上手くやりきって、バッシングを収めてみせる」

俺は安心させようと、強い口調で言い切った。

すると日毬の顔つきが変わり、決意を込めたようにうなずく。

「わかった。私は私で、やれることをやろうと思う」

意外にも、日毬はすぐに同意してくれた。日毬なら自分が前面に立つと言い張ると思っていたから、素直に聞いてくれて俺は少しホッとした。

翌日、『週刊ネクスト』が発売されてすぐ、複数のメディアから取材申込があった。事務所に電話をかけてきた相手が多かったが、なかにはカメラマンを引き連れ、押しかけてきたテレビ局まであった。

良くも悪くも日毬は日本全国に一躍名を馳せた話題の美少女で、その子と事務所の社長である俺が恋愛関係にあるというニュースは、人の興味をかき立てる低俗なネタなのだ。

事務所にやってきた取材クルーや、電話やメールでコンタクトしてきたメディア関係者たちに、今日の一五時から近場の会議室で取材を受けると告げ、ひとまず事を収めたのだった。

一五時。

俺が会議室で待っていると、ぞろぞろと記者やカメラマンたちがやってきた。六〇人ほどが入れるレンタル会議室だ。事務所の傍のビルである。

俺はやってきた記者たちを席に座らせていき、各社が揃うまで待つように促した。こういう記者会見をやるときは、誰かメディアを取り仕切ってくれる事務員がいるとスムーズなのだが、ひまりプロダクションには俺ひとりしかいない。

「少し待って下さい。一五時キッカリに始めますから」

集まるメディア関係者に俺は告げた。

記者たちは俺の言葉に従って、素直に席に腰かけていく。

こういう集団行動に持ち込めば、抜け駆けして取材を強硬するようなメディアは、日本にはまずない。妙なところでルール順守というか礼儀正しくなるのである。日本メディアには、揃って大本営発表を待つという意識横並びが染みついているのだ。

しかしその反面、一度ターゲットを叩き始めると、日本メディアは横並びで一斉に叩き始める。その叩き方が、いかに粘着質で常軌じょうきを逸したレベルだとしても、同業者が一緒に叩いているのだから気にしない。全員が同じことをやったのだから、あとになって誰も責任を取らないし、罪の意識も感じない。日本メディアは、ターゲットの社会的誅殺が完了するまで、皆で手を取り合って仲良く叩き続けるという怖ろしさも有しているのだ。

時計を見やると、もうすぐ一五時。会場は四分の三ほどが埋まっている。

椅子に腰かけた俺は、記者たちを見回し話し始めた。

「時間ですね。では始めましょう。ご来場いただき、ありがとうございますというのも少しおかしいですが、まずは、わざわざこうして揃って下さったことにお礼申し上げます」

会場から笑いが漏れた。

同時に、テレビカメラが回り始め、カメラのフラッシュもチラホラとたかれた。

それにしても嫌なものだ。まさか自分がこうしてテレビの前で語る事態になるなんて、プロダクションを始めた当初は思っちゃいなかった。

そもそもプロダクション経営者は芸能人じゃない。こうしてカメラ前に立たなくてはいけないのは異例極まる状況なのである。

「皆さんは『週刊ネクスト』の記事をご覧になって取材を申し込んでこられたのだと思います。質疑応答は皆さんのご納得がいくまで受け付けますから、まずは私から弁明をさせて下さい。この記事についてはまったくのデマです。ここに至るまでの事の経緯からご説明しようと思います。うちの所属タレント、神楽日毬

ちょうどその時、会場の扉が激しく開かれた。

遅れてきたメディアかと思えばそこには、拡声器の相棒「拡さん」を握りしめた日毬が立っていた。口元を引き結び、何かを決意した表情だ。

何より驚くのは、異様なその立ち姿。巫女みこが着るような真っ白の、浴衣ゆかた風の単衣ひとえだった。いわゆる白装束しろしょうぞくというヤツだ。しかも、脇には木刀を差している。

突然、渦中のアイドルが乱入してきたことで、記者やカメラマンたちは驚きつつ、日毬に一斉に注目が集まった。

日毬は堂々とした姿で俺の側まで歩いてきた。

「ひ、日毬?」

啞然として俺が見上げると、日毬は手を差し出してくる。

「颯斗。迎えにきたぞ。行こう」

日毬は、有無を言わさず俺の手を摑みあげ、引っ張ってきた。

その瞬間、カメラのフラッシュが一斉にたかれた。俺と日毬が手を取り合うのは絵になるのかもしれない。

記者たちに鋭く視線を向けた日毬は、声を上げる。

「お前たちもだ。揃って付いてこい。遅れるな」

俺の手を引く日毬は会議室を出て、エレベータは使わず階段で階下へと向かった。後ろからは、我先にとマスコミの集団が付いてくる。総勢五〇人くらいだろうか。

突然の事態に混乱しつつ、俺は口を開く。

「日毬、どこへ行くんだ?」

「私にすべて任せてくれ。颯斗には決して迷惑をかけない」

日毬は凜と応じた。

ビルを出ると、大型バスが一台横付けされていた。

日毬は、後を付いてきたマスコミの集団を振り向き、口にする。

「乗れ。全員乗るまで待ってやるから、順番通りにだぞ」

そして俺の手を引いた日毬が最初に乗り込み、一番前の席へと着く。

日毬が運転手に声をかける。

「もう少し待ってくれ。私が合図したら出発して欲しい」

「わかりました」

運転手はすぐに答えた。

俺が日毬に訊く。

「な、なんなんだ?」

「バス会社にレンタルしたんだ。一台に全員乗りきれない場合はタクシーも使おうと思っていたが、なんとか大丈夫そうだな」

記者たちが全員乗り込んだのを確認し、日毬はうなずく。

想定外の成り行きに、記者たちは興味津々な様子だった。ほとんどの局はカメラを回し続けている。カメラに向けて喋っている記者もいた。ニュースの時間帯に合っていれば、生中継していてもおかしくはない。

「出発だ。もちろん、目的地はアステッド本社前だ」

日毬が運転手に声をかけると、バスはゆっくりと動き始めた。

いったい何を始めるつもりだ

すでに引き返すわけにもいかない。動転しつつ、隣に座る日毬に視線を向けた。

日毬は一途に、ただまっすぐ前を見やっているだけだった。

麴町のアステッド本社前にバスを横付けし、俺たちはぞろぞろと降り立った。

テレビカメラを担いだ異様な集団の登場に、周りのビジネスマンたちは困惑顔だった。だが、集団の中心にいるのが白装束を着込んだ日毬だとわかると、スーツ姿の野次馬たちが次々に集まり、アステッド本社前を取り巻く人の群れはいっそう大きくなっていった。

話はまたたく間に広まり、一目でも日毬を見ようと周辺のビルから仕事中の人々が飛び出してきて、辺りは騒然としてきた。

さらにはアステッドの社員らまで外に出てきて、日毬の姿を見て愕然とした。

俺から手を離した日毬は、声をかけてくる。

「颯斗、見ていてくれ。傍にいてくれるだけで安心する」

「日毬せめて何をやるかだけでも

「大丈夫だ。颯斗が心配する必要などまったくない。すべて、私に任せてほしい」

そう断言し、日毬はマスコミ記者や群衆の前に進み出て行く。

アステッド本社の入り口前、一段高くなっている石の階段手すりの突端に日毬は立った。そこからなら、背が低めの日毬でも群衆を見渡せる。そして日毬を中心に、五〇人ほどの記者やカメラマンたちと、その一〇倍以上の野次馬たちが取り巻いていた。数百人の群衆だ。

俺は最前列でマスコミの群れに交じり、事の成り行きに驚愕しながら日毬を見つめていた。こうなってしまっては、俺に何かできる状態ではない。

悠々と日毬は群衆を見回し、拡さんを持ち上げ語り始める。

「真正なる右翼は、日本に私ただ一人である。有権者諸君、私は日本の未来のために、魂のすべてを捧げる所存である。ここに誓う、私が日本を代表し、再び燦然と輝く国家の栄光を取り戻してみせることを。ここに宣する、私は日本国の首班となり、この国に太平の繁栄を華開かせるいしずえとならんことを」

日毬の演説は久しぶりだ。拡さんを通した日毬の声は、オフィス街一帯に響き渡った。

アステッド社内にいる仙石社長にも、このスピーチの声は届くだろう。ライブ中継もされているようだから、テレビで見ているかもしれない。

「私は自身の生き方に一点の曇りもない。私は常に自分を律し、あらゆる苦難を受け入れ、同胞諸君の未来に想いを馳せてきた。毎日二四時間、休息に身体を休める時も、床に伏す時も、いついかなるときも私こそが正義の体現者であろうと心がけてきた。もしも私自身の誓いを曲げるようなことがあれば、私は自ら進んで腹を切って詫びるだろう」

群衆は、瞠目して日毬の演説に聴き入っていた。

「私のあらゆる生活は国家と密に結びついている。日本の繁栄こそが私の命、私の人生、私の魂のすべてだ。自信を持って言える、私こそが日本なのだと! ゆえに奸計を用いて私を陥れようとするやからは、すなわち日本国家の崩壊を企む敵である」

そこで言葉を切り、厳しい顔つきで日毬は目の前の聴衆を眺め回した。人々は圧倒され、誰も言葉を発しない。

「この度、『週刊ネクスト』にて、私が日々色恋にふけっているという記事が掲載された。ここに集まるメディア諸君らも、その記事を見て集まってきたのだろう。痴れ者どもめ! 断言する、記事はまったくのデタラメであると」

日毬は胸を張り、朗々と声を張り上げる。

「第一に、私は処女である。結婚まで貞烈ていれつを守ることは、神楽家に生まれついた者として、もはや議論の余地がないほど自然なことだ。私はそう教育を受けてきたし、私の子供にも同じように伝えるだろう」

見守る群衆たちは瞠目し、舌を巻いているようだった。

一〇〇〇年だ。我が神楽家は一〇〇〇年にわたり、家訓を忠実に守り通してきた。かつて陛下より任命された仕事を黙々と守り、一族の繁栄を求めず、ただただ天下の安定を追求し、身を粉にして働いてきたのだ。日の本の礎とならんことを理想とし、獅子のごとく戦い、生涯のすべてを投げ出すことを日本人同胞すべてに誓って生きてきた。私の生き方には一族の日本の歴史がある。諸君らがいかに私たちに罵詈雑言ばりぞうごんを浴びせようとも、私の魂は変わらない」

周囲を取り巻く人々の群れはさらに増えているようだった。道路まで人がいっぱいだ。一〇〇〇人は優に超えているだろう。もちろんメディア各社が向けるテレビカメラの先には、数千万人の視聴者がいる!

おいおいおいおい、尋常ならざる事態だぞこれは

逸る気持ちはあるものの、どうすることもできない。俺にできることは、ただ呆然と日毬を見守ることだけだった。

しばらくの間、メディアの話題を日毬が独占することは間違いない。

「私は政治家としての道を歩むため、苦汁をのみ込み、人前で水着になることはあるだろう。だがしかし、婚姻前に特定の相手に対し、私が裸身を晒すことはない。いかに愛する人であってもだ。それを諸君らが尚も疑うのならば、病院での調査を受け入れ、この身が処女であると証明する用意がある。だがその時は覚悟せよ。メディアという存在がいかに低俗極まるものか、世間に証明するようなものだからだ」

群衆から、パラパラと拍手が湧き起こった。やがて拍手のさざ波は拡大していき、喝采となって辺りを包み込んだ。

日毬は拍手が終わるのを、拡さんをわずかに落として見守った。だが真剣な表情は変わらず、口元を引き結んでいる。

拍手が収まったころ、日毬は大きく息をはき出して続けてゆく。

「その上で言おう。私の大切なマネージャーが、ここ、アステッドプロによって恫喝を受けてきた。だが日本国家の守護神を自認する私が、低次元の恫喝に屈すると思ったら間違いだ。私は日本を背負っていると自負している。たとえこの身が朽ち果てようとも、死ぬその瞬間まで、私がこころざしを曲げることは決してない」

それから日毬は記者たちを前に、事細かに経緯を説明し始めた。

アステッドプロから移籍契約を持ちかけられたことや、提示された金額が一億円超であること。自分はアイドルとしての成功を望んでいるのではなく、アイドルはあくまで政治への最短ステップでしかないから、それを重視しないプロダクションへの移籍などありえないこと。加えて、現マネージャーが自分自身を奈落から引き上げてくれた恩人で、世界で一番大切な相手であり、そこから離れて活動するなど検討外であったこと。そして提案を蹴ると、アステッドプロ社長と激しい口論になり、「これからも芸能界で活動できると思ったら間違いだ」と恫喝されたこと。とたんに仕事が枯渇し、メディアによる叩きが始まっていったこと。仕事先やメディアに対し、アステッドプロが圧力をかけたことは確実であること

アステッドプロに対する以上に、日毬はメディア各社を激しく批判した。

ビジネス街での演説で、道路にまでわんさと溢れている人の群れは、もはや大変な数になってきていた。見渡す限りの人波だ。

振り返れば、かなりの数の警察官たちも集まってきている。群衆を取り巻いている警官は、パッと目に付くだけでも数十人いるようだ。もしかすると、アステッドプロが警察に連絡したのかもしれなかった。

日本では、警察の許諾きょだくを取らないデモなどは認められておらず、厳しい監視の対象に置かれる。しかも車が立ち往生して、お祭り騒ぎのような喧騒になっていることは、道路交通法違反で処罰されかねない状況だった。

そんな事態に構わず、日毬は演説を続けてゆく。

「ゆえに今回の記事も、ひまりプロダクションを叩く記事も、アステッドプロが背後にいる。『週刊ネクスト』の記事がすべて噓八百であるように、過去にマネージャーが叩かれた記事もまた噓八百である」

日毬は堂々と、胸を張って宣言する。

「真正なる右翼は、日本に私ただ一人である。繰り返す、私は日本を背負っている。メディア関係者は肝に銘じてもらいたい。私を陥れる行為に荷担することは、日本に対する破壊行為に他ならない。私は自らの信念に忠実に、命を懸けて、日本の敵たちと対峙するだろう」

そして日毬は脇に差していた木刀をサッと引き抜き、天へと掲げた。

「諸君、私について来い!」

突如、日毬は反転し、アステッドプロが入居するビルの表玄関をくぐって中へと入っていった。

玄関の両脇にいるアステッドプロの社員らは啞然としたままで、誰も日毬を止めることはしなかった。

いくら開かれた会社とは言え、ここまでのことをやってズケズケと入って行くと、不法侵入と言われても仕方がない。

それでも我先にと、テレビカメラを担いだメディア関係者らが日毬の後を追い、記者たちも慌ただしく続いた。やはりこの喧騒を生中継していたようで、記者たちはカメラに向けて忙しく喋っている。

俺も記者たちに遅れを取らないよう、急ぎ足でアステッドプロの玄関をくぐって入っていく。人波で揉みくちゃになっていたが、なんとかして日毬に追いつかなくてはならない。

もはや不法侵入を心配する者など一人もいなかった。こういうときこそ、日本メディアの横並び意識の本領が抜群に発揮される。赤信号、みんなで渡れば怖くないのだ。

俺たちの後にはさらに野次馬の群れや警官たちまで続いてきたようだ。もう喧騒が激しすぎて誰もが揉みくちゃになり、ほとんど騒乱に近い状態になっていた。

アステッドプロの社員たちは、もはやすべがないように立ちつくし、日毬に続く人の群れを見やっていた。アステッドプロのロビーには複数のテレビが並んでいたが、そのうちの大半にはここの騒動がリアルタイムで映し出されていた。日毬の演説も全国に放送されたのだろう。

日毬は手に木刀を握りしめ、群衆の先頭をずんずんと突き進んでいく。

俺は日毬に追いつこうとするも、前を行くカメラや記者たちの群れが邪魔すぎて、とても日毬に近づくことはできそうになかった。

日毬の足取りははっきりしている。先日、俺と一緒にやって来た社長室へと向かっているのだ。

社長室のドアの前。

すぐにドアを開けることをせず、日毬はこちらを振り向いた。カメラマンたちが熱心にカメラを向ける。記者たちもカメラに向かって大声で叫び、辺りの騒ぎは半端じゃなかった。

「日毬! 待ってくれ、日毬!」

俺は力いっぱい呼び掛けた。

幾人ものメディア関係者たちが間に入っているせいで、声は届かないかもしれない。だが日毬はわずかな人のすき間から、俺を見つけてくれたようだ。

日毬と視線が合った。日毬は微笑を浮かべ、小さくうなずいたように見えた。

次の瞬間、日毬は再び振り返り、ダンと激しく音を響かせて社長室のドアを押し開く。

日毬がずんずんと中に入って行った。狭い通路から、社長室にワッと人が吐き出されたような格好になり、続々と転げるようにして社長室に人が溢れ始める。やっとのことで俺も社長室に侵入すると、尊大に構える日毬と、コメカミをぴくつかせた仙石社長が相対していた。

社長室のテレビには、ここの中継が映し出されている。やはり仙石社長はテレビでチェックしていたのだ。

自分が今まさに立ち会っているシーンが全国に中継され、目の前のテレビモニターに同じ場面が映し出されているのは、なんだか奇妙な光景である。

日毬と仙石社長が対峙するのを、テレビカメラが取り囲んでいる。先ほどまで実況に熱が入っていた記者たちも、社長室に入ると、緊張して睨み合う二人の様子に息を吞み、皆が押し黙って注目していた。

「貴様。何のつもりだ

苦しげに、仙石社長は言葉を吐き出した。

日毬は堂々と宣言する。

「私は政治活動に命を賭けている。伊達だてや酔狂でアイドルをやっているわけではない。私とマネージャーに対する嫌がらせは即刻止めてもらおう」

クッ」

仙石社長の口元は震えていた。怒りからだろうか、あるいは恐れからだろうか。メディアに取り囲まれて少女に恫喝されるなど、生まれてこの方、想像したことなどなかったに違いない。しかもこれはライブ中継なのだ!

鋭く仙石社長を見やったまま、日毬は朗々と声を響かせる。

「私は貴公を、日本の敵と認定する。ここで私に成敗されたいか、それとも潔く自ら腹を切るか選ぶ時間を与えてやろう。一〇秒だ」

「なん、だって?」

仙石社長は目を見開いて、自信に満ちた様子の日毬を見やっているだけだった。為す術がないに違いない。

膠着した睨み合いのなか、刹那の時間はまたたく間に過ぎてゆく。

「時間だ」

そう言って、日毬は高々と木刀を掲げた。

構えは上段。実に様になっている。

や、やめろ

ジリジリと仙石社長は後じさりし、すぐ後ろのソファに、力無くストンと腰を落とした。

小さな応接テーブル越しに、日毬はにじり寄る。

決意を込めた日毬の表情に、仙石社長は両腕を顔の前に上げて口にする。

「おい見てないで、誰か止めろ。なぜ誰も止めようとしないんだ!?」

マスコミ関係者たちは息を吞んでカメラを構え、状況を注視しているだけで、誰一人として日毬を止める素振りすら見せなかった。むしろメディア関係者たちは、目の前で大事件が起こることを切々と心待ちにしているのだ!

俺は慌てた。まさか本当に日毬が仙石社長に木刀を振り下ろしでもしたら、大変なことになる。木刀とは言えど、素人の剣ではない。道場の取材で幾度も日毬に立ち会い、その剣の腕前はここにいる誰よりも知っていた。

俺は前の記者を搔き分け、日毬を止めようと試みる。

「やめるんだ日毬!」

俺が呼び掛け、なんとか人波を押しやって前に出ようとした瞬間

ついに日毬は気合一閃、木刀を振り下ろした。

「や                   ッ!」

「                    ッ!」

仙石社長の絶叫が辺りにこだました。

上段からの日毬の気合を込めた一振りは、仙石社長のギリギリのところをかすり、床へと着地していた。

日毬と仙石社長の間にある応接テーブルが、木刀で真っ二つにされていた。木刀より厚い木製テーブルが綺麗にかち割られているのに、木刀も仙石社長も無傷

だが仙石社長は気絶し、その場で伸びてしまっていた。

周りを取り巻くメディア関係者や俺は、ただただ毒気を抜かれていた。

やがて後ろから警察官たちが強引に人混みを押し分け、日毬の許へやってきて取り巻いた。しかし警察官たちも、日毬を囲んだはいいものの、しばらくキョロキョロと仲間の誰かが対応するのを見守っているようだった。

「ぼっ、暴行、器物破損確認! 現行犯逮捕ッ!」

やがて一人が声を上げたのをキッカケに、別の警官が日毬の手にある木刀を両手でしっかり握りしめた。日毬は一切の抵抗をせず、その警官に木刀を差し出した。

さらに一人の警官が手錠を取り出し、日毬の腕にかけた。すでに日毬は想定していたようで、静かに両手を差し出した。

焦った俺は、警官たちに声を上げる。

「待って下さい! 日毬のせいじゃ

「颯斗、心配するな。すぐ戻る。ちょっと行ってくるぞ」

気楽な調子でそう言って、日毬は俺に微笑した。

それから白装束に身を包んだ日毬は警官を促し、堂々とした足取りで胸を張り、率先して社長室を後にしたのだった。社長室に入りきれず廊下で揉みくちゃになっていた群衆は、壁ぎわに身を寄せ、日毬の道を押し開く。

人々が日毬を見守る視線には、深い敬畏けいいがこもっていた。

                                  次巻に続く