大日本サムライガール
第一巻 第四章 アステッドプロ
至道流星 Illustration/まごまご
「真正なる右翼は、日本に私ただ一人である!」 目的は政治の頂点、手段はアイドル——。至道流星の本気が迸る、“政治・経済・芸能”エンタテインメント、ここに開幕!!
俺は営業アポイントをすべてキャンセルし、さまざまなメディアから舞い込んだメールの取材依頼を捌き、慌ただしく事務所へと戻ってきた。今は営業どころじゃない。
絶え間なく入る取材の電話やメールをやり取りするだけで、かなりの時間が喰われてしまう。気づけば夕方になっていたが、取材の申込はひっきりなしだった。
ガチャガチャとカギを開ける音が響いた。日毬がやってきたのだ。
日毬には高校にいる時に携帯で連絡を入れ、「養成所には今日から通わなくてもいいから、高校が終わったらすぐ事務所の方へ来てくれ」と伝えていた。
「颯斗、いたのか。おつかれさま」
事務所に入ってくると、日毬はいつものように礼儀正しく言った。
「おつかれさん。座ってくれ」
「うむ」
日毬はトコトコとやってきて、応接ソファの、いつもの定位置に腰かけた。
俺も一旦メールを打つ手を止め、机を離れて日毬に相対して座る。
「高校では何もなかったか?」
「いつも通り、私は熱心に授業を受けてきたぞ。今ちょうど日本史の授業で大正時代を扱っているんだが……日本史教師がガチガチの左翼でな。恥も外聞もなく噓八百を並べ立てたものだから、ヤツの捏造を私は厳しく追及してやったのだ。殴り合う直前までいったが、私は一歩も引かなかった。ヤツはきっと、コミンテルンの回し者に違いない」
「学校でまでそんな論戦やってるのか」
俺は苦笑した。
そんなことばかりやっているから、これだけ容姿がいいのに、男子生徒たちから避けられるのだと思う。そのことに、日毬は気づいてなさそうだ。
「当然だ。日本を正すためには、まずは自分の身の回りの事象から正さねばならない。あのような教師を放逐するのは国家にとって必要なことだ。私が裁きを加えてやらねばならない」
そう言って日毬は胸を張った。いつも通りの日毬だ。
何気なさを装って俺は切り出す。
「そういや昨晩、音声配信サイトにたくさん声をアップしたみたいだな」
「そうだな。私は頑張ったと思う。一〇〇はアップしたのではないだろうか。颯斗が努力してくれているのに、肝心の私が何もしないわけにはいかない。昨日でだいぶ慣れてきたぞ。これからは毎日、最低でも五〇はアップしていこうと考えている」
「日毬の声、とんでもなく話題になってるぞ」
「そうなのか? どんな人が聴いてくれているのだろう? 日本国民に、私の熱意が少しでも伝わってくれるなら嬉しいものだ」
どうやら日毬自身は、自分が一躍名を馳せていることを知らないようだ。今日は高校に行ってきたはずだが、誰にも指摘されなかったのだろうか。
だが考えてみれば、俺がそのことを知ったのも日中になってからだった。ネットでは深夜を通して盛り上がっていたのだろうが、大手メディアが動き出したのは昼からである。よほど朝方までネット三昧の高校生でもない限り、同級生が知らなくても無理はない。
そして大手メディアを通して一般人がこの騒ぎを知るのは、早ければ『報道ニュース18』で特集が組まれる明日の夕方からか……いや、その前に、明日の早朝にはスポーツ新聞紙面に日毬のカラー写真付きで登場するかもしれない。とにかく現時点だけでも、取材の申込は二〇社を超えていた。取材なしで、勝手に記事として配信されることの方が多いことを考えれば、もうすぐ日毬の名前は日本列島を駆け巡るはずである。
「おそらく明日には、日毬は全国的に名前が売れることになるはずだ。良くも悪くも、一気にメジャーにのし上がることになる。売り出そうと思っていた方向とは大きく違う形でな……」
「一気にメジャーに? コツコツ積み上げていくと言っていたのは颯斗ではないか」
日毬は釈然としない顔をした。
ため息をつきつつ、俺は言う。
「ところが現実は面白い……」
「元気がないぞ。颯斗、どうしたのだ? 熱でもありそうだな」
日毬はソファから立ち上がり、こちらのソファまでやってきて、俺のすぐ隣に腰かけ直した。
そして心配そうな表情で、俺の額に手をあてがってくる。日毬の手は温かい。
「熱はないみたいだ」
スッと手を引いた日毬と、間近で視線を合わせた。
しばらく俺は、どうしたものかと頭を悩ませ、まじまじと日毬の顔を直視した。なんとも難しい状況だ。この流れに乗って突っ切ってみるべきだろうか。
半ば呆然と思案していると、ふいに日毬は顔を赤らめ、恥ずかしそうに視線をそらした。
「日毬、素で勝負してみるか?」
俺に視線を戻した日毬は首をかしげる。
「素、とはどういうことだ?」
「日毬のありのままで、ってことさ。何一つ飾らない日毬で、アイドルとしてどこまで通用するか、やってみるのも一つの方法なのかもしれない。というか、事ここに至っては、俺たちに打てる選択肢は多くないんだ」
「ありのままで勝負など、当たり前だろう? 私の容姿が変わるわけでもないし、私の考えが変わるわけもない」
さも当然といった風に日毬は応じた。
あやふやで、まやかしが跋扈する芸能界にあって、日毬は微塵もこの世界に迎合していくつもりはなさそうだった。むしろ日毬のなかでは、虚構に身を委ねることなどまったくの想定外なのだろう。元来が、どこまでも一本気なのだ。
ポン、と俺はヒザを叩く。
「よし、やろう。俺も、この選択がどういう結果をもたらすかわからない。だが、日毬を日毬のままで押していってみよう。申し込まれた取材をぜんぶ受け、演技もせず飾りもせず、すべて日毬の考え通りに行動してみるか。日毬は史上初の、素のままのアイドルだ」
「私には、颯斗が今、何を言っているのかよくわからないぞ。まだまだ私も勉強不足ということだろうか……」
しきりに日毬は困惑した表情を浮かべた。
◇
「えいッ! やーッ! や ッ!」
日毬の気合が響き渡る。
その手には真剣だ。鈍く銀色に輝く日本刀の刃は、やはり持つべき者が持つと、犯し難い重みがあるように感じられる。
剣道の稽古着を着用し、真白いハチマキを額にまき、日毬は演舞を行っている。
その足捌きには微塵も迷いなく、実に見事なものだった。
「えいッ! や ッ!」
ここは日毬の自宅道場。
日毬が手にする日本刀はもちろん本物で、都教育委員会から登録証を交付されているそうだ。この家には、古くから引き継がれてきた刀が少なくないらしい。撮影用に持ち出してきたのは神楽家にある最上級の刀で、かつて徳川将軍家から賜った業物だと日毬は言っていた。
壁ぎわにはテレビカメラと、番組制作スタッフが所狭しと居並んでいた。俺もそのなかに交じり、日毬が舞う様子を眺めている。
旭日テレビのゴールデンタイムに放送されるバラエティで日毬の特集が組まれることになり、今日はその撮影なのだ。
日毬の掛け声が響くなか、隣のディレクターが俺に顔を寄せてささやく。
「いやぁ、素晴らしい絵になりますよこれは〜。こんなに美しい武人は見たことがない。何より演舞がマジものです。とても一朝一夕にできるものじゃありませんよ」
「それはどうも」
どう応じるべきかわからず、当たり障りない答えを返した。
「それにしても、織葉さんのところは良いタレントさんをお持ちだ。真剣を振るう極右の少女――うーん、実に良い。ただの右翼や過激団体なら何の絵にもなりませんが……まだ一六歳で、超がつくほどの美貌の持ち主で、グラビアアイドルな極右ですよ。こいつは本当にすごい運命の巡り合わせだ。この子はきっと、すごいことになりますよ」
「神楽の言動はいささか激しいですが……流せますか、おたくで」
半信半疑で俺は訊いた。旭日テレビが、過激派も啞然とするような日毬の素の言葉を、本当に流せるのかどうか不安だったのだ。
ディレクターは飽き飽きしたように応じる。
「そりゃ上はスポンサーとの兼ね合いがあるからいろいろ言うでしょうがね、私には関係ない。面白ければいいんです。私が興味のあるのは視聴率だ。右とか左なんて些細なことで、視聴者が興味をひくものこそがテレビの正義ですよ。テレビが正しいとか正しくないとか、そんな話すらナンセンス。問題は、多くの視聴者様が見てくれるかどうかです」
「最近じゃ、テレビが噓八百だと怒りをぶつける意見も台頭してますからね」
「まったくバカげてる。噓八百ならどうしたというんです? うちらに文句を言う前に、何百、何千万人の視聴者様に文句を言うべきですね。私らは視聴率から、視聴者様が望むものを判断してるだけなんで。テレビ番組も、視聴者様と同じレベルに落ち着くってことですよ」
ディレクターが言う「視聴者様」という言葉には、シニカルな響きがあった。
俺は腕を組んで応じる。
「しかしここのところ、テレビは連戦連敗です。メディアに関わる者として、テレビがもっとしゃきっとしてくれないと困るところです」
「ええ、テレビが隆盛した時代に世の中が戻ることは、もう二度とないでしょう。しかし探せば、テレビだからこそ映えるような、こういう絵に出会うことができるということです。考えてみてください、彼女ほど興味をかき立てるネタなんて、一年に一度出会えればいいほどのレベルですよ。こいつは化ける」
感心した眼差しで日毬を見やっていたディレクターは、ふと俺に視線を向ける。
「そう言えば彼女、まだ無名だった頃にACのCMに抜擢されてましたね。どうやったんです?」
「少し前まで蒼通にいまして。在籍していた事業部が、餞別としてひとつだけ仕事をくれたってわけです。それがAC。小さな案件ですけど、それなりに助かりました」
「蒼通! 織葉社長、蒼通だったんですか! これまたどうして!」
ディレクターはありありと驚嘆の表情を浮かべた。他人事ではないといった様子である。大手キー局と蒼通は、それはもう深い深い関係なのだ。
俺は肩をすくめる。
「いろいろありましてね。ノーコメントということで」
「極右の政治系アイドルに、蒼通を辞めてプロダクションを始めた社長。いやいや、こいつは面白い。どうです、社長の特集もセットで?」
「ちょっと待って下さいよ。くれぐれも、ぼくの方に話をもっていかないで下さい。いいですか、くれぐれもですよ」
慌てて俺は声を荒らげた。
「あはは、冗談ですって。社長くらいのネタならありふれてますから」
おどけた口調でディレクターは言ったが、どこまで冗談かは怪しいところだ。多少は注意しておくべきことかもしれない。
日毬の演舞を眺めやりながら俺は確認する。
「ところで、この映像はいつ放送されますか?」
「早ければ今週中には編集して流しちゃいますよ。……ところでTBMさんの『オールスターニッポン』でも、彼女の剣道の練習風景を流すって話しておられましたよね……? あっちは、いつの予定ですか?」
「さあ……。撮影は終わってますから明後日か明明後日あたりに流れてもおかしくはありませんが……」
本当は明後日だと予定を聞いていたが、他社の日程までベラベラとリークするわけにもいかない。別に俺はTBMが嫌いなわけでもないし、旭日テレビに恩があるわけでもない。
ディレクターは腕を組み、ブツブツと独り言のように口にする。
「そいつはまずいな……。うん、今日帰ってすぐ編集しますんで、明後日にはなんとか押し込みたいですね」
もし放送日が重なるなら、日毬のインパクトが大きくなりメリットが大きい。ありがたいことだ。
「でも、こうして真剣まで持ち出させたのは御社だけですよ。神楽があっさり真剣をOKしてくれるとは思わなかったですが」
「そうなんですけどねー。どうせなら一番早いことに越したことはないんで」
そんな打ち合わせをしながら、俺たちは日毬が道場で舞う様子を見守った。
◇
俺と日毬は事務所のソファに座り、揃ってテレビを見やっていた。日毬の特集が流れるのを、リアルタイムでチェックしているのだ。
型に沿って流れるように日本刀を振り回した日毬が、カチリとサヤに刀を収めたところで画面が切り替わった。今度は、日毬が道場に正座して、リポーターと向かい合う映像だ。
ヒザを折って目線を合わせたリポーターが、日毬に問いかける。
「日毬ちゃんはグラビアアイドルとして活躍されていますよね。それからCMや雑誌モデルでも……。一方で政治団体を運営しているとは、どうにもピンときません。どうしてアイドルをやっているんでしょうか? または政治団体をやっている理由でもいいです。教えてください」
稽古着やハチマキはそのままに、日毬は日本刀を横に置き、正座したまま語る。
「私にとってアイドル活動とは、すなわち政治活動だ。それ以上でもそれ以下でもない。私にはなぜ貴公がそのような疑問を持つのかわからない。私には、芸能界にいることと、政治団体を運営することの間で、まったく矛盾はないのだからな」
「なるほど……アイドルとは政治というわけですか……。これは興味深いですね。では、政治活動の抱負などを教えてくれませんか?」
日毬はカメラに真剣な眼差しを向けて胸を張る。
「真正なる右翼は、日本に私ただ一人である。有権者諸君、我が国は今、大東亜戦争終戦以来、最大の国難を迎えている。政治は混迷し、日本民族は自らのアイデンティティを喪失しかねない分水嶺に立っているのだ。ならばこそ、私が日本を死守しなくてはならない。いかなる苦難を押し通してでも、私は私の政権を打ち立て、日本を救ってみせる。私には日本を背負う覚悟がある」
「どこから突っ込めと! ていうか、自分の政権を打ち立てるわけですか!? それはクーデター予告!?」
リポーターが驚愕するも、日毬は冷ややかな視線を向ける。
「わからんな。なぜクーデターに繫がるのだ? 政権を獲る方法は暴力的手段だけではあるまい。私は党員を集め、自らの政党を大きくしていくつもりだ。そこから政権を奪取するための戦略は、臨機応変に考えるべきだろう」
そんな風に、いつも通りの日毬と、リポーターとの間で、微妙にずれたやり取りがテレビでは続いていた。
鼻をすする音が聞こえ、俺はテレビから視線を外して日毬を見やった。すると日毬は目を充血させ、涙を流していた。
「ど、どうして泣いてるんだ……?」
俺が訊くと、日毬は涙をふきながら応じる。
「私の活動が……こんな風に全国に紹介されるとは……。今ほどアイドルになって良かったと思ったことはない……。颯斗……ありがとう……本当に、本当にありがとう……」
感動しているのだろうか、身体は小刻みに震えていた。
俺がティッシュの箱を前に差し出すと、それを日毬は何枚も摘み、鼻をかんだ。
「泣いてるヒマはないぞ。これからも取材が大量に入ってる。グラビアやモデルの仕事は目に見えて増えたし、日毬を巻頭にしてガンガン推したいって申込が引きも切らない状況だ。それから、テレビのエンタメ番組からレギュラータレントとしての出演依頼まである。ここまで来たら引き返せないから、この路線で行けるところまで押していくしかない。とんでもなく忙しくなるけど、大丈夫そうか?」
「私はやり遂げるつもりだ。とうに私は自分の命など捨てているのだからな」
日毬の返事には悲愴感が漂っていた。覚悟を決めているということだろう。
「しかしだ、日毬にはすべて伝えておくけど、正直、これは難しい舵取りだぞ。今回の知名度の高まりは、日毬にとって諸刃の剣になる。今まで俺が営業で蒔いてきた種は、壊滅したに違いない。とくに大手企業CMへの日毬の出演は絶望的だ。ゼロから戦略を練り直す必要がある」
「なぜ壊滅したというんだ?」
「そりゃ簡単だろう。物怖じせずに政治的な発言を繰り返す日毬を、商品宣伝に使おうと考える企業なんて、まずないからだ」
「なぜだ。財界は私を真っ先に支援するべきだろう。私は日本国にとって味方でしかないというのに」
「そう思ってるのは日毬だけだ。経済活動は全世界と繫がってる。とくに日本企業のアジア圏との結びつきは深いし、政治的な波風はできるだけ立てないで欲しいと願ってる。ならばこそ日毬を商品宣伝に使うなんて、自ら地雷を踏むみたいなものだろう」
「私は何もアジアを侵略しようと企んでいるわけではないぞ。国境問題さえなければ、戦争などする必要はない。時にはアジア諸国と手を取り合って、欧米に対抗することも必要だろう。それにもかかわらず、なんという軟弱姿勢。企業こそ、国家と共にあるべきだ。敵は本能寺にあり……」
日毬の言葉に、すばやく俺はクギを刺す。
「それは違う。元来、経済活動と政治活動は相容れないシロモノだ。あらゆる経済活動は、すべての消費者から愛される商品を作ることが最終目標にある。反面、政治活動は対立する組織に打ち勝ち、政権を奪取することが目標だ。政治は常に、暴力的な姿勢を内在している。企業の立場に立ってみれば、よほど政治的利権を有している企業以外は、可能な限り政治から遠ざかっていたいと考えるのは当然の姿勢なんだ。そしてメディアも芸能人も、企業がお金を出してこそ成り立つものと言っていい」
決して企業だけではない。来年度の防衛省の仕事も絶望的だし、官庁や公益団体にも敬遠されてしまうだろう。第二次世界大戦での敗北の呪縛が未だ解けない日本では、とくに政治的発言は機微な注意を要する問題だ。
日毬は断固とした口調で言う。
「しかし私にとっては、アイドルとは政治活動に他ならない。最初から颯斗も知っていたはずだ。第一、政治的な頂点を目指すなら、タレントとして頂点を極めることが一番早いと私に教えてくれたのは颯斗と由佳里だろう。私は政治の世界で頂点に立つために、アイドルの道を選んだのだ」
「それは俺も把握している。だが物事には順序というものがある。芸能人として押しも押されもせぬ地位を確立した後で政治に進出するなら、波風を乗り越えていくことができたはずだ。事実、ろくに政治も知らないタレント議員・スポーツ選手議員が世の中には溢れてる。しかし今は、日毬はタレントとして売り出しの真っ最中にあった。波風は強く、日毬の知名度急上昇に嫉妬する人間も多い。だからこそ、俺もこの方向が正しいのかどうか判断しかねるということさ。もっとも、こうなった以上は選択の余地なんてないんだが……とにかく、計画をまっさらなキャンバスに描き直す必要があるんだということだけ覚えておいて欲しい」
「私は颯斗に迷惑をかけたということか……? 颯斗ほどの大切な者に、私が知らず識らずの間に迷惑をかけていたとしたら……私は、腹を切って詫びなくては……」
日毬は哀しげな表情になり、無念そうに唇をかんだ。日毬なら本当に切腹しかねない。
慌てて俺は口にする。
「迷惑ということじゃない。日毬の売り出し方を練り直さなくてはならないという話だ」
ゴホンと咳払いし、俺は冷静に説明していく。
「いいか日毬。アイドルは、万人から愛されるように振る舞うことが仕事なんだ。本当なら敵を作っちゃいけなかった。ある有名なアイドルは、握手会で再会するファンの名前をすべて覚え、握手するときに『また会いましたね、○○さん』と声をかけることを常としていたという。そのアイドルは、後に有名になり、ファンから圧倒的な支持を受けるようになった。アイドルは、見えないところでそのくらい苦労して、味方を増やすために全力を尽くしているんだ」
「なるほど……アイドルとは、教祖みたいなものなのだな……。信者にそっぽを向かれないように注意し、崇拝され続けなくてはならない……」
「だけど日毬には敵が多くなってしまった。熱烈に日毬の発言を支持する味方もいるが、発言を聞くのも嫌だという敵だっている。これほど白黒ハッキリした、万人向けではないアイドルなんて普通はいないということだ。いや、それがアイドルかどうかすら怪しい。だから日毬の売り出し方は、未だかつてないものになっていく。その方法が、俺にはまだ思いつかないということを知っておいて欲しいということなんだ」
「……わかった。何より私が政治家として飛躍できるかどうかの分岐点と言って良さそうだな。私も懸命に方策を練り、最善を尽くそうと思う。颯斗、これからも、どうか私を支えてほしい」
「もはやこの道を変えることはできそうにない。結果がどうなるかわからないが、今は申し込まれた取材をすべて受け、スケジュールが合う限りテレビや雑誌の仕事も受けまくってみるしかない。忙しくなるが、いまは無我夢中でやってみよう。戦ってさえいれば、新しいキッカケが摑めるかもしれないからな」
自分に言い聞かせる意味も込めて、俺は強い調子でそう口にした。
いずれにせよ、もはや俺たちに選択の余地はない。こうなった以上、行けるところまで全力で駆け抜けていくしかなさそうだった。
◇
四谷三丁目のワンルーム事務所。
取材にやってきた東西新聞の記者と、日毬は向き合っていた。俺は机からその様子を眺める。
「日毬さんの目的、日本政治の頂点に立つとはどういう意味でしょう?」
記者の質問に、日毬が熱心に応じる。
「決まっている。現行制度を前提とするならば、私が内閣総理大臣になるべきだ」
「しかし一六歳では無理ですよ。被選挙権がありません」
記者は、疑わしげな眼差しを日毬に向けた。
「わかっている。運動して、憲法や法律を変えればいい。年齢制限を撤廃してもいいし、私だけに特別枠を与えてもよかろう。特別枠は、たとえば一〇年間限定の、ローマ時代の独裁官のような地位でもいい」
「特別枠ですって? バカな! あなたは差別を助長するのですか? 身分制度を容認するようなものです」
上ずった声で記者は言った。
東西新聞のこの記者は、最初から全面対決姿勢だった。
すべての取材を受けるという方針を日毬と固めたばかりだから、相手が右派・中道・左派かどうかなど選ばず、申込順にスケジュールをセッティングしていっただけである。もとより取材先が敵対姿勢かどうかなど、受ける時点で知ることができるわけもない。そして一旦取材を受けたら、いかに意にそぐわないものだとしても、無闇に追い返すわけにもいかない。よけいに印象が悪くなり、手酷い記事や放送をされるだけだからだ。
日毬は苛立たしげに指摘する。
「私の話を、差別や身分制度に意図して持っていこうとするな! 貴公の取材には悪意が感じられる」
「差別でなくて何なのです? 法律で自分だけ特別枠なんて、ふざけた妄想ですよ。そんなことを認める国民などいるわけがない」
「いるわけがないかどうかは、日本国民が判断することだ。貴公ではない。日本国民はいずれ私に賛同してくれるだろうと、私は信じている」
「特別枠にですか?」
記者はせせら笑った。
日毬はムッとして目尻をつり上げたが、俺が落ち着けというポーズをすると、深呼吸を繰り返して平静に応じてゆく。
「貴公はマルクス主義者の類なのか? 真に万民が平等な社会こそ、争いと差別にまみれるだけだ。権力や権威を否定することは、人間存在そのものの否定に他ならない。いかなる社会も、寄り添うべき大樹を必要としている。私には、大樹になる意志があるということだ。そして私の求むるところは日本国家の安寧だけであり、そのための機械装置として我が身を酷使する所存である」
「タチの悪い独裁者の思想と一緒だ。自分の権力だけを追い求める妄言ですね。本当に国民の幸せを考えるなら、国民主権を守らなくてはならないはずです」
「その結末が、現行の日本政治の低落だ。寄り添うべき基盤をなくした民族の未来は、嘆かわしいものになる。日本にとって今が最後の分水嶺だからこそ、私は自らにムチ打ち、決起しようと誓ったのだ」
「そもそも、どうしてあなたがやらなくてはならないのです? 日本の憲法では、国民の主権が保障されている。国民の判断を信じないのですか?」
「常に国民が正しいと私は思わない。間違っていることの方が多いと言ってもいい。そんな国民を私は優しく包容し、たとえ百万の民に恨まれてでも、国家の礎を再構築すべきだと考えている」
「本音が出ましたね。あなたは国民を信じない。国民を奴隷化し、権力を我が物にしようと企むアジテーターだ」
我が意を得たりといった表情で、記者は日毬をペン先で指し示した。
日毬はため息をつく。
「私がいかなる話をしようとも、貴公の記事の内容は最初から決まっているようだな。今日ここに貴公がやって来たのは、ただ私に取材をした上で記事にしたという事実が欲しいからだけだろう?」
「ずいぶん勝手な判断ですね。私は訊くべきことを訊いているんですよ」
取材開始から二〇分――。
体裁を整えるだけの、最低限の時間が経過したと思う。俺は席を立ち、記者に告げる。
「すみません、そろそろ時間なんで。神楽の次の予定が入っています。これにてお引き取り頂いてよろしいでしょうか」
この記者が書く記事は、あらゆる方面から日毬を叩くものになりそうだ。防ぐことはできないし、それはそれで仕方ない。批判も受け止めていかねば、この世界では活動できないのだ。
それに周りを見渡せば、すでに日毬の賛否両論が百出している。むしろ批判の方が多いくらいだ。ひとつやふたつの批判記事など、ものの数ではない。
◇
テレビ局の会議室で、日毬は有名なお笑い芸人二人に囲まれていた。エンタメ番組に、ゲスト枠として日毬が登場するのだ。
リーダー格の芸人が日毬に訊く。
「じゃあ日毬ちゃんにとって、芸能界って、政治家への登竜門みたいなもの?」
「うむ。その通りだ。むしろ芸能界などそれしか興味がない」
断固として日毬が言い切ると、もう一方の、盛り立て役の芸人がカメラ目線で大声を上げる。
「言い切る日毬ちゃんマジかっけー。主に喋り方までかっけー。もののふって感じ」
「やっぱ立候補とかしちゃうの? なんかもう想像つかないんだけど」
リーダー格の、頭の悪そうな質問だ。しかしカメラが回っていない時に彼と打ち合わせした時の感じだと、決してバカっぽいタレントではなかった。テレビ向けに、視聴者のレベルに合わせた彼なりの戦闘スタイルなのだろう。
「現行法に則って立候補するかどうかは、その時に決める。とにかく私は急いでいる。いますぐにでも政権を担いたいところだ」
「じゃあさじゃあさ、立候補しないとしたら、どうなんの?」
「私が総帥を務める政治結社日本大志会では、常に党員を募集している。私と共に日本の変革を志す者たちと、政権を奪取するために立ち上がる可能性もあるということだ。暴力的手段は想定外ではあるが……それでもいざチャンスとなれば、私は怯むことなく立ち向かうだろう」
「それってまさかのクーデターっすか!?」
「私は平和的手段で政権の禅譲を受けることを目指している。だがしかし、クーデターを頭から否定するつもりもない。問題は、私の志に大義が伴っているかどうかだ」
再び、盛り立て役が口をはさむ。
「かっけー。日毬さま生き様マジ最高っす。日毬さまが総理になったら、警察大臣あたりにしてください!」
「警察大臣などの役職は、少なくとも今は存在しない。だが、貴公が内務問題を研究し、より素晴らしい警察機構を創れるという自信があるならば……そのような役職を設け、貴公に担ってもらう可能性は、なくはない」
「都知事とか、大阪府知事とか、長野県知事とか、宮崎県知事とか、各地方のトップには芸能っぽい人いっぱいいるじゃない? まずはそっちを目指したりしないの?」
リーダー格の問いかけに対する、日毬の断固とした口調。
「地方政治は私の志すところではない。私は日本国家を支えるために生きている。国政が私のすべてだ」
会議室での撮影は、終始なごやかな雰囲気だった。
芸人二人組が日毬を囲んだ撮影は、一時間半にも及んだ。番組は三〇分だし、そのうち日毬の出演は一五分くらいの予定だったから、ぶつ切りで面白い部分だけを使用することになるのだろう。
ただ、少なくとも日毬を叩くような部分はまったくなかったし、二人組も日毬の興味深い部分を引き出そうと懸命だった。日毬の芸能活動にとって、大いにプラスの放送になるはずだ。
◇
あらゆる取材をこなし、日毬はメディアを席巻した。日毬の強硬な演説の一部がテレビで放映され、論議が沸騰していた。テレビは面白可笑しく日毬を取り上げることが多く、本当に際どい発言はすべてカットして放送した。いずれにしても、これだけテレビで名前を売ったことは、芸能活動にとってプラス以外の何物でもなかった。
言論の場である新聞や雑誌では、七割方が日毬を批判する側に回った。日毬を支持する声にまで批判の声を上げ、日毬のような子がテレビで台頭することは、日本にとって不幸な事態だろうとまで言い切る新聞が多かった。残り三割は是々非々にはあまり触れず、物珍しさで日毬を取り上げた。
ネットでは日毬支持の声が多く、ファンとアンチ間の争いが盛り上がり、さらに日毬の知名度を押し上げる結果となっていた。どこのブログでも掲示板でも日毬の話題に触れないことがないほどで、ネットは日毬が完全攻略したといってもいいほどだった。もともと日毬の音声が広がり、大手メディアに騒がれる触媒の役目を果たしたのがネットである。注目を集めるのは当然だろう。
とにかくあらゆるメディアを通して日毬が巷を騒がせ、批判と賞賛のあらゆる声が止まないのだった。
一般に、絶賛ばかりが集まっても話題は盛り上がらないものだ。支持の声が大半を占めてしまうと、狭い世界だけで意見が交わされ、なかなか外にまで知名度が拡大していくことがない。
適度に批判があってこそ、その話題は息の長いものになってくれる。そして批判が激しいものであればあるほど、批判者の意図に反し、結果的に話題が大きく拡散するパワーになっていく。批判の強さが、知名度上昇のブースターの役目を果たしているといってよい。あらゆる著名人にとって、批判を受けるのは嫌なことに間違いないのだが、それでも批判こそが最高のメシの種になってくれるのだ。
日毬とてそれは例外ではない。批判の大合唱に晒されたからこそ、一時的な「時の人」で日毬は終わらなかった。テレビ番組のレギュラー出演の話まで多々舞い込み、アイドルとしての地盤を一気に固められる可能性が見えてきたのだった。
◇
制作会社で、俺は番組プロデューサーと打ち合わせしていた。
プロデューサーは口にする。
「二週間に一日、丸々拘束させてもらいます。『学校DAISUKI!』では、そこで二本分を撮り溜める形になってます。人気グループ『スピリットG4』のスケジュールを中心に調整しているので、カッチリ日時が決まっているわけではありません。その都度ご連絡してスケジュールを調整していくことになりますが……それでよろしいですか?」
『スピリットG4』は大手芸能プロ・アレクスに所属し、男性四人でユニットを組織する国民的人気アイドルグループだ。四人各人がばらばらに、さまざまな分野で活躍し、ライブの時には四人が結集してファンサービスするという方法論を採っていた。そのためライブの盛り上がりは半端でないことで有名なグループである。
そして『学校DAISUKI!』は、テレビ番組のなかでは唯一四人が一堂に会する番組として、女性層から高い支持を受け、高視聴率を記録していた。
「スケジュールのことはなんとかします。うちの神楽が人気長寿番組にレギュラー出演させてもらえるだけでありがたいです」
殊勝に俺は応じた。
「彼女、テレビ的に最高のキャラですよ。近年稀にみる神クラス。視聴率、絶対爆発しますって」
「神楽の言動は大丈夫でしょうか? たまにキャラを作ってると誤解する人がいるんですが、神楽はマジなんですよ。私も、あんなに真剣に政治のことを憂えている子は未だかつて見たことがありません。その辺、事前に理解がないとトラブルの元になるので、重々確認しておきたいんですが……」
「大丈夫大丈夫。本当にまずい部分は編集でカットしちゃいますから。でも、できるだけ素のままの彼女を押し出していきたいですね。それが彼女の、そして番組の、最高の売りになると思います」
プロデューサーは満足顔で続けていく。
「この番組は高い視聴率を記録し続けてますが、現状に安住するつもりは毛頭ないんです。近年、予算が縮小してどの番組も四苦八苦していますが、それでも我々はその範囲内で、可能な限りアグレッシブに視聴率を追求していきたい」
「このテレビ不況の時代に頭が下がります。その姿勢が長年高い評価を得ている要因なんでしょうね。神楽のことを理解して下さるなら、私どもとしても全面的にご協力させていただきます」
俺がそう言うと、プロデューサーは企画書を渡してきた。
「番組での彼女の役割としては、生活指導の教師となって、高校生を指導してもらうことを検討しています。彼女、リアルで高校二年生でしたよね? ですから『高校二年生の熱血教師ひまり』といったプッシュの仕方になるでしょうか」
「まさかの教師役ですか! 神楽なら、たしかにマッチしていそうな気がしますね。面白いポジションです」
「でしょう? ベストな役割だと思えるんですよ」
「指導が過激にならないか少し心配ですが……」
「多少なら問題ありませんよ。近年甘やかされている高校生たちが、同年代の教師に激しく指導されて泣き出してしまうくらいの方が、テレビ的には絵になりますから」
終始、プロデューサーはこの企画が楽しみで仕方がないといった様子だった。とくに『学校DAISUKI!』には思い入れが強いらしく、この番組に限りプロデューサー自身が現場に出て、ディレクター業務までやっているという。
早くも次の撮影には日毬に参加してもらいたいという意向のようで、撮影スケジュールが決まり次第、連絡をもらうことになった。
◇
「おめでとう、日毬。テレビのレギュラー番組が一本決まったぞ。こいつは記念すべきことだ。これからも次々と話が舞い込んでくるはずだ」
事務所にやってきた日毬に、俺は開口一番、そう声をかけた。
「レギュラーとは何だ?」
丁寧に靴を揃えながら日毬は訊いてきた。
「定期的に出る番組が決まったということだよ。毎週、同じ時間に、日毬がテレビに出るということだ。しかも、ほとんど看板タレントとしての扱いなんだ。駆け出しのアイドルとしちゃ、こいつは凄いことなんだぞ」
俺は熱っぽく言ったが、日毬はあまり興味を示さなかった。応接ソファにちょこんと座り、気のない素振りで俺を見やる。
「私の目標はタレントなどではない。タレントとして褒められても嬉しさを感じないな。しかし、テレビに登場する機会が増えるということは、日本大志会の目標に一歩近づいていると言えるだろう」
「そういうことだな。他の番組からもいろんなアプローチがあるから、今後も立て続けに出演番組が決まっていくだろう。むしろ日毬のスケジュールをどう調整するか、心配で仕方ない。学校を休まなくてはいけないことも増えてくると思うけど、抵抗あるか?」
「私は自発的に勉強しているから、わざわざ学校の授業で学ぶ必要があるかどうかと問われれば、いささか疑問がある。むしろ颯斗と一緒にいる方が、はるかに勉強になるから驚いているくらいだ」
俺は机を立ち、日毬に相対してソファに座りながら訊いてみる。
「学校と実社会を比べたら、そりゃそうだろう。大学に進学する予定、あるか?」
「ない。姉上も高校を出てすぐ、うちの道場を継いでいる。私も大学なぞに行く時間があるのなら、政治結社日本大志会の政治活動に全力を尽くすべきだと考えている。余計な時間を費やしている場合ではない」
「なるほど……。しかし日毬はタレントじゃなく、政治家を目指しているわけだろう。俺の立場としては大学進学を勧めるべきところだが……」
日毬の学力のほどは知らない。しかし、頭は悪くない子であることは十分にわかっている。日毬は決して天才肌ではないが、他人が遠く及ばないほどの堅実な努力家だ。俺としてはしっかり教育環境を用意してあげたいところだった。だが最終的には日毬が決めることでもある。
「日本は懐が深い国だぞ。日本のトップは中卒だろうが大卒だろうが関係ない。器の方が重要だ。私は日々研鑽を重ね、器を磨いていると思う。それに教育はどこかへ行って学ぶものではなく、自分自身で吸収するものだ」
「そうか……。そこまで日毬が言い切るなら、それもいいか……。じゃあ日毬の勉強時間を、俺が気にする必要はないということだな?」
たしかに日毬の言う通り、日本は海外と比べて学歴閥の影響は小さい。学歴が壁になるのは、大企業への入社を目指すときにほぼ限定される。日本には実力があれば人の上に立てる風土がある。田中角栄のように中卒が総理大臣にまでなり得るのは、日本だけの現象だ。これがヨーロッパや中国だったとしたら階層が固定されてしまい、そうは問屋が卸さない。
たとえば自由・平等・友愛を掲げた市民革命で民主主義の土台を作ったとされるフランスの実像は、小さな子供のころに少数のエリート組に入れるか、それとも下層民かが明確に決まってしまう夢のないエリート社会だ。少し前まではアメリカも幅広い層にチャンスがある国だったが、近年、急速にヨーロッパ化してしまった。
それに比べれば日本はまだ風通しがよくて、勉強エリートのことを優秀だとか偉いだなんて本心では誰も考えていない。泥臭い環境のなかを実力でのし上がっていく人の方が尊敬の対象になる。武士だった家康よりも、農民上がりの秀吉の方が好まれる社会なのだ。
欧米の支配層は総じて極めて優秀なことは間違いなく、大衆が絶対的にバカな存在だと考えている。一方、日本の支配層は大衆と変わらない。
もしかしたら風土だけでなく、日本は大学教育の中身が薄く、かつ学生のモチベーションも受験が終わるとプッツリ途切れてしまうので、中卒と大卒の実力に大して違いがないという理由もあるだろうか。どこかに就職口を求めているわけではない日毬にとって、大学に行く行かないが、人生を規定する材料にならないことは確かだ。少なくとも日毬に、強く進学を勧める理由はないかもしれない。
「私の人生は日本国家と一体化している。少しでも余計なことに時間を費やしている余裕などないのだ。ならばこそ、私は人前で水着にだってなっているのだぞ」
そんな日毬の話に、俺は思わず微苦笑した。水着グラビアと政治的成功が結びついていることに、つい笑みがもれてしまったのだ。
「颯斗? 何がおかしいのだ?」
「いや、なんでもない。わかった。これからは日毬の勉強時間など考えず、全力で売り込みを続けていくことにしよう。……ところで、日毬に注目する人々が凄まじい勢いで増えている。そこでだ、プロダクションとしては、日毬のファンクラブを創設しようかなと考えているところだ」
「ファンクラブとは、具体的にどのようなものか教えてくれないか」
「日毬のことが好きな人たちがファンクラブに入会すれば、優先的に日毬の最新情報を流してもらえるとか、ファングッズを手に入れられるとかするわけだ。その他、さまざまなサービスがあっていい。誕生日には日毬から直筆のハガキが届くとか、ファンクラブ会員だけを集めて日毬と握手会をするとか……。もちろんファンクラブに入会するにはお金がかかる。月五〇〇円として、年間六〇〇〇円で会員になれるなどの形を取るわけだ。しかし別に、これで儲けようって話じゃない。金銭面だけなら赤字だろう。ファンを大切にするためには必要な活動のひとつだ」
日毬は腕を組んでうなる。
「ふぅむ……。政治結社日本大志会ではダメなのか? 党員になった者には、私の演説を優先的に聴かせたり、政権奪取のための会合に参加してもらったりするといい。集めた党費の収支報告も全党員にきちんとしていくから、颯斗の言うファンクラブよりも公明正大なものになるはずだ」
「党員……それは、どうなんだろうか……。もしかしたら今回の事態で、党員って増えてるのか?」
俺の問いに、日毬の顔がパッと輝いた。
「まだまだ少ないが確実に増えているぞ。申込はネットでのみ受け付けているのだが、党員数は一気に一五〇名に達したんだ。このままいけば、今月中には二〇〇名を超えるだろう。ほんの少し前まで私一人しか党に所属していなかったことを考えると、格段の成果だ。やはり私は颯斗についてきて良かったんだと思う……。颯斗には、感謝してもしたりない……」
「一五〇名ってことは、党費は毎月三〇〇〇円だから……月四五万円の党収入ってことか……。そいつはなかなかのものだな」
まぁ、このレベルでマスコミに取り上げられ、一躍時の人となれば、こんなものだろう。一五〇名は案外少ない方だが、極右思想を掲げているのだから仕方ない。もしかすると一時的に千単位に達するかもしれないが、その辺りで頭打ちするのではないだろうか。
いくら閉塞感や不況感が暗く世相を覆っている現状でも、この日本で、そうそう簡単に極右団体が万単位の人数になるわけもない。一定数まで行けば、その後は少しずつ減少していくかもしれない。
「考えてみれば……日毬が政治結社でファンを集めているのに、もうひとつファンクラブを立ち上げるわけにもいかないか……。政治結社はどうかと思うが、ファンから二重取りするわけにもいかない。しばらく日毬に任せてみるしかなさそうだ」
「颯斗、任せて欲しい。日本大志会はきっと、党員三〇万人に拡大することだろう。自友党の党員数は一〇〇万人前後いるからまだまだ遠く及ばないが、それでも一定の発言権を持つ政治結社として、重要な役目を担うことになるはずだ。数年後には党員一〇〇〇万人を目指したい」
日毬の声は確信と情熱に満ちていた。
「そういうことじゃ……ないんだがな……」
応えに窮し、俺は言葉を濁らせた。日毬は真剣そのものだし、国を愛する心は重々理解しているので、決意を踏みにじるようなことは言いづらい。
何にしても、ファンが増えるのはいいことだ。とにかく今は、将来の政治的なトラブルを心配するよりも、この地盤を固める方が大切である。
それから取材や番組出演の日取りを調整し、日毬のスケジュールはびっしり埋まったのだった。
◇
突然、同業社であるアステッドプロから「ぜひ会いたい」という連絡が入り、俺は日毬と一緒に、事務所で先方がやってくるのを待っていた。同業他社といっても、ひまりプロダクションとアステッドプロでは、力に隔絶の違いがある。
アステッドグループは、芸能界のドンと噂されるアステッドプロの仙石社長が創り上げた、芸能プロダクションを中核とする企業グループだ。株式会社アステッドプロはグループの一角にすぎず、傘下の系列プロダクションが山ほどあった。一見、無関係に見えるプロダクションでも、実際には資本関係や人的関係を通じて、アステッドの強い影響下にあるとささやかれている会社は多い。
芸能界で生きていくためには、アステッドプロと何らかの関わりを持たなくてはならないと言わしめるほどの権勢を誇っている。実際、アステッドが間接的に多数のタレントを押さえているので、テレビ局も頭が上がらないのが実態だった。もしもアステッドにそっぽを向かれたら、タレントの供給がなされず、番組作りなどできないのだ。
また、飲食業や不動産業にまで進出し、大きなグループを形成していると指摘されているが、すべての関連企業が非公開企業であり、実態が判然としない。ここが何より理解を困難にしている部分だが……資本関係すらないのに、親分子分のような人的関係で企業グループが繫がっていると言われ、どこまでがアステッド関連なのか部外者にはわからないのだ。
黒い噂も絶えない、押しも押されもせぬ芸能界のトップ企業である。そんな企業でも、社長の仙石氏は意外と真面目で、仕事熱心であることでも知られていた。
アポイントの連絡があったのは女性の秘書らしき人物だったし、俺はもっと若い営業マン然とした相手がやってくるのだと思っていた。タレントとして日毬が急速に台頭し始めたので、「挨拶に来い」くらいのことを言われるのだと俺は思い込んでいた。
だがしかし、やって来たのは使いの者ではなさそうだった。
相対したのは六〇代の、物腰柔らかな紳士。もう一人、どことなく危ない雰囲気を持つ五〇代前半の男も同行している。ただならぬ空気だ。
俺は日毬と一緒に、如才なく彼らを出迎えた。
六〇代の紳士が名刺を差し出してくる。
「やあどうも。アステッドの仙石だ」
――社長!?
噂の仙石氏……。初めて見た……。仙石氏自らが、こんなワンルーム事務所に何をしに来たというのだ……?
続いて、もう一方の男。歳の頃は仙石氏より一回り若い印象である。
「お初にお目にかかります。アステッドの狩谷です」
――常務まで……?
何事だろうか。ただ事ではない。俺は気を引き締め直した。
「ひまりプロダクションの織葉です。仙石社長や狩谷常務がわざわざ足を運んで下さるとは思っておりませんでした。ご足労、ありがとうございます」
丁重に挨拶してから、俺は日毬に挨拶するよううながした。
「神楽日毬だ。政治結社日本大志会の総帥を務めている。私の目的は日本の頂点に立ち、国家を背負うことにある。支援をお願いしたいところだ」
日毬は政治結社の名刺を差し出した。プロダクションの方の名刺は用意していないから大目に見るしかない。それに日毬の政治結社は、すでに日本全国でニュースになっていることだ。今さら隠す必要もない。
名刺交換を済ませたところで、アステッドの二人と俺たちは、ソファに向かい合って腰かけた。
出し抜けに仙石社長が万年筆を取り出し、日毬の顔にあてがうようにしながら口にしていく。
「うん……いいねぇ……。目鼻立ちと輪郭のトータルバランスが絶妙だ。あとは君自身が持つ内面のディテールを積み重ねていけば、これから年齢を経るほどに、この美貌は他の名女優たちをも凌いでいくだろう」
唐突に、顔のすぐ傍まで万年筆を突き立てられた日毬はさすがにムッとしたようで、眉間にシワを寄せる。
「なんだそれは? 目の前で人の顔を、まるでモノであるかのように観察するなど、失礼だとは思わないのか? なんたる客だ。追い返せ」
「手放しで絶賛したつもりだったんだけど……お気に召さなかったかな?」
「ほう? 貴公の褒め方は少しばかり捻くれているようだな。捉え方によっては、人をバカにしているようにしか思えんぞ」
「それは失礼。気に障ったら許して欲しい」
仙石社長は苦笑しつつ、頭を下げた。
慌てて俺は日毬に言う。
「日毬……ちょっと外出していてもらえるか? あとは俺の方で話すから」
「ん? 別に構わないが、私に同席するように言ったのは颯斗ではないか」
「すまん……。とにかく、頼む……。今日は仕事の打ち合わせもないから、このまま帰ってもらってもいいからさ。な?」
それから俺は日毬にやんわりと言い聞かせ、家へと帰らせた。
汗を拭きながら再び向かい合う。
「うちの神楽が失礼を申し上げてしまい、誠に申し訳ありません……」
仙石社長はクスクスと笑う。
「本当の本当に、あれが素なんだなぁ。実に珍しく、そして素晴らしいタレントだ。どんなに探しても、あんなダイヤモンドはそうそう見つからない。ますます譲り受けたくなったよ」
「譲り……受ける……? すると……今日の話は?」
二人は、俺の質問には答えなかった。
仙石社長の代わりに、狩谷常務が口にする。
「織葉社長、蒼通だったそうですね。しかも東王印刷の創業者一族とか……。実に筋がいい。すべてお聞きしていますよ」
元蒼通だったことは知っている相手が多いが、東王印刷のことまでは、きちんと調べないとわからないはずだ。どこまで俺のことを調べ上げているのだろうか。
「蒼通はすでに辞めてしまっていますし、東王印刷もぼくには無関係ですよ。今は単なる、しがない自営業者にすぎません」
「蒼通時代は、なかなか優秀だったとお聞きしましたが。引き留められなかったんですか?」
「それほど言われなかったですね。私の意志がそうそう簡単に変わるわけもありません。可能な限り迷惑をかけないように引き継ぎを終えてから、円満に退職させてもらいました。そのおかげもあってか、ACのCM出演の話を回してもらえましたが……正直、蒼通から、もう少し仕事が流れてくることを期待していたんですけどね。これで打ち止めです。あとは私の努力次第ということでしょう」
俺の話を受けて、今度は仙石社長が言う。
「しかし、プロダクション経営は難しい。所詮は明日をも知れぬ水商売。大半は成功しないよ。誰にも知られぬまま消えるだけだ」
「存じております。かといって私も、他にできることをすぐに見つけられるわけでもありません。当面は、この業界であがいてみるつもりです」
狩谷常務が口をはさむ。
「プロダクション経営が上手くいかなければ、筋が悪いところはAV業界に流れたり、もっと怪しげな方面まで流れたりします。しかし元来が筋の良い織葉社長では、ありえない選択でしょうね」
「そうですね、ありえません。神楽のプロデュースに失敗すれば、潔く撤退しますよ。社名にも謳っている通りです。もとより、未練を感じる業界でもありませんから」
「確実に成功できるシナリオがあります。そのお話を、今日は持って来たのです」
「その本題とやらを聞かせて頂きましょう。さあどうぞ」
さっさと目的に入れと、遠回しに俺はうながした。
「ズバリ提案します。神楽さんを、うちに譲り渡して頂きたい」
「……想定外ですね」
俺は強い調子で断言した。
狩谷常務は怯まず、淡々と口にする。
「九〇〇〇万円を提示致します。どうです、それで神楽さんを譲渡して頂けませんか?」
「……ノー」
俺の強い意志を見て取ったのか、狩谷常務は早くも値をつり上げてくる。
「一億二〇〇〇万円。これが限度です」
「ノー」
仙石社長と狩谷常務は、チラと顔を見合わせた。
そして狩谷常務がテーブルに身を乗り出してくる。
「いいですか織葉社長、紙切れ一枚にサインするだけで一億二〇〇〇万が手に入るのですよ? この時点で、プロダクションとしては破格の成功です。大成功なんです!」
拳をテーブルに打ち付け、狩谷常務は切々と続ける。
「我々は、神楽さんをスカウトしたという織葉社長の慧眼だけに、一億円以上の金額を付けるのです。これがどんなに特別なお話か、社長ほど優秀な方ならおわかりにならないはずがない」
「残念ですが……」
俺は首をふった。
「普通の相手ならここで折れるんだけどね。織葉社長のような方は珍しい」
ソファに悠然と腰かけていた仙石社長が、他人事のような口調で言った。
狩谷常務は口にする。
「大変申し訳ありませんが、織葉社長の個人資産も調べさせて頂きました。東王印刷の一族とはいっても……失礼ながら、個人の財産はあまりお持ちではないようですね。今の織葉社長にとって、間違いなく破格の提案なはずです」
「破格かどうかは、あなたが決めることじゃなく、私が決めることでしょう。一億や二億、私にとっては大したお金だとは思いませんね。私自身は、確かに常務がご指摘されたように豊かじゃありません。それでも私は、そういう環境で育ってきたんです。一〇〇〇億というお話ならまだしも、一億なんて値付けで私を動かそうなんて、まるで空虚なことですよ」
「……」
「……」
仙石社長も狩谷常務も押し黙り、しばらく次の言葉がなかなか見つからないようだった。
少しうなってから、狩谷常務が言う。
「一億三〇〇〇万」
「ですから――」
「いい、もうやめろ」
仙石社長が、狩谷常務に鋭く叱りつけるように言った。
「はい、申し訳ありません……」
「織葉社長。あなたを安く値踏みしたこと、切に申し訳ない。私の顔に免じて、どうか許してくれるだろうか」
覗き込むように、仙石社長は俺を見やってきた。
「……わかりました。御社のような芸能界の最大手からこのような提案を頂いたこと自体は、誇るべきことと認識しています」
「しかしタレントとしての値付けは、やはり一億円台が限界だろう。売り出したばかりのタレントとしては、これは最高評価だよ。まずはその点を、ご理解頂けるだろうか?」
「まぁ、そうでしょうね」
俺は素直にうなずいた。
芸能界も、プロスポーツ界と一緒で、移籍に当たってお金が支払われることは度々ある。今はまだグラビアアイドルにすぎない日毬にこれだけの値付けがなされるのは、確かにすごいことだ。
これが企業のM&Aだと考えれば、即金で一億円を積めば、そこそこの会社が買える。また、都心に近い場所で中古の雑居ビルが買えるようになってくる価格だ。人間一人のプロデュース権で一億の値が付くのは、なかなかのものだろう。それに、サッカーや野球の最高ランクのプレーヤーには一〇億円を超える値が付くが、日毬の将来性だけで付く値段としては破格のはずだ。
「その上でだ、織葉社長。神楽さんのタレントとしての将来を考えてご覧なさい。神楽さんがうちに所属すれば、成功は約束されたようなものだろう。この話を棒に振るとなれば、あなたは神楽さんの成功を妨害したと断罪されても仕方がない」
仙石社長の話に、俺はうなる。
「……神楽が大成することは誰よりも望んでいるつもりなので、そういう論法で来られると弱いですね……。しかし私としても、神楽の売り込みに全力を尽くしています。御社の力には遠く及ばずとも、それなりの成果は挙げられるだろうと考えています」
「そうだろうか。こっちから言わせれば、あなたはしょせん素人だ。蒼通にいて広告・メディア業界のことは知っているつもりかもしれないが、芸能界はまた違う。知識でどうにかなるものではなく、もっと人間対人間のドロドロした世界だ。生半可な付け焼き刃で勝負できる世界ではないのだよ」
「社長の仰ることはごもっともです。私は門外漢かもしれませんね。しかし冷静に考えてみれば、誰もが最初は素人のはず。素人だからと勝負を諦めれば、何も始めることはできません。素人なりに、自分自身が培ってきた仕事経験を活かせる分野だと考えています」
「神楽さんを手放す意思は微塵もないのか?」
「もし彼女が移籍したいと言うのなら、私は受け入れようと思います。しかし彼女は私を信頼してくれており、その信頼を裏切るつもりも私には毛頭ないということです。神楽が移籍を希望することはないと思っています」
「……」
「……」
仙石社長と俺は視線をかち合わせた。
しばし俺は、仙石社長の次の言葉を待った。諦めてくれれば、それが一番いい。
しかし仙石社長は食い下がってくる。
「では、レンタル契約の提案はどうだ? 一定期間、我々に権利を譲渡して頂きたい。一年間につき四五〇〇万円払おう。契約期間は五年。それなら完全に譲り渡すというわけでもないし、織葉社長も乗りやすいだろう?」
譲渡を前提に、条件交渉しているような流れになりつつあった。老練な仙石社長は、そういう方向に持っていくことが狙いなのだろう。
だが確かに、レンタルならばまったく交渉の土台に乗せられないわけじゃない。こういうレンタル移籍の話は芸能界では間々ある。現実問題として、「さあ五年が経ったから即戻って来て下さい」というわけにはいかなくなっている状況にはなるだろうが、気分的に乗りやすい提案であることは事実だ。レンタルなら日毬との関係が断絶するわけでもないし、日毬がいずれ有名になってから戻ってくる可能性は残るわけだ。
俺としても五年間にわたり四五〇〇万円が保証されるなら、芸能プロダクションを捨てて、まったく別の事業に乗り出していく選択肢だってある。単にオヤジを乗り越えるために勝負を打つなら、プロダクションよりも、もっと良い事業がたくさんあるはずだ。
それに、日毬がスターダムにのし上がるには最善の道であろう。日毬が政治家として頂点を目指すために芸能界を踏み台にするのなら、アステッドプロに移籍して猛プッシュをかけてもらった方が、目的に適うことは間違いない。
諸々のことを思案しつつ、俺は言う。
「……即答はできかねますね。日毬にも相談してみないと」
「よく言ってくれた、織葉社長。その言葉を待っていたのだよ」
まるで話が決まったかのような物言いだ。
慌てて俺は注意を促す。
「まだ同意したわけじゃありませんよ。くれぐれも早とちりしないでください」
「わかっている」
仙石社長は自信ありげにうなずいた。
「確認なんですが……移籍後、神楽の意にそぐわない仕事をさせるということはありうるでしょうか?」
俺の質問に、今度は狩谷常務が口をはさんでくる。
「ある程度は、プロダクションの方針に沿ってもらわなくては困る。この仕事が嫌だ、あの仕事が嫌だなんてえり好みされたら、我々としてはお手上げだ。織葉社長だって、彼女にやりたくない仕事を強いたことはないんですか? ないわけがないでしょう?」
「それはわかります。神楽は水着を着たくなかったし、グラビアに登場するのも嫌がった。それでも、なんとか説得して出てもらった経緯があります。やはり神楽の容姿ならば、グラビアで勝負することが最善だと思いましたから。それでも、彼女に選択の権利は与えたつもりです」
「我々とてそれは同じです。本人が望むような状況に持っていくことが、私たちの最も重要な仕事のひとつですよ」
「ご気分を悪くなさらないでほしいのですが……妙な仕事を強要したりする可能性があるかどうかが心配なのです」
「妙な仕事、とは?」
意味深な風に狩谷常務は問い返してきた。
「たとえば富豪の相手とか、そういう……」
仙石社長と狩谷常務は、顔を見合わせて苦笑する。
「どうも我々は誤解されることが多くて困るな」
「そうですね。世間は我々アステッドプロを、週刊誌などで面白可笑しく取り上げますが……まるで我々が、日本を支配できる力を持っているかのようです」
「まぁ我々も、世間がそうやって騒ぐのを都合よく利用しているところもあるのは事実。しかし週刊誌がかき立てるネタが、行き過ぎていることも事実だよ。芸能界とて、どんな業界、どんな会社でも発生するのと同じくらいの醜聞はある。それが芸能界だから目立つだけで、何も特別なことが芸能界で繰り広げられているわけではない。アステッドプロの世間のイメージを、そっくりそのまま吞み込まないで欲しい」
仙石社長のその話には納得できる部分もあった。アステッドプロは、芸能界のブラックホールのような存在として多くの週刊誌の話題に上っている。だがしかし、本当に権力がある組織なら、マスコミに名前のひとつすら登場するわけがない。アステッドとマスコミは持ちつ持たれつ、お互い情報を流し合い、利用し合い、うまく協業している仲なのだ。
俺はうなずく。
「移籍の可能性は低いといえども、神楽と相談する前に、その点は確認しておかねばならないことでした」
「そりゃ、君の言うような妙な仕事がないわけではない。だがアステッドは、そういうのを強制することはないよ。格下の筋が悪いプロダクションは、所属タレントに強制するところもあるのは確かだが……正直ね、そんな仕事はアステッドにとって、大して儲けにならない」
仙石社長の言葉に、狩谷常務が続く。
「一人を相手にするより、電波で万人を相手にした方が稼ぎがでかいに決まっています。むしろ個人的に愛人契約みたいなことをするタレントもいますけどね、下手打ちゃキズものになるんで、こっちは困るんですよ本当に。そういうスキャンダルをどうやって調整するかがプロダクションの腕の見せ所でしょう」
「なるほど、わかりました。では、もう一点確認します。率直なところを打ち明けると、神楽は非常に使いづらいタレントです。女優が向いているとは思えませんし、かといって政治的な発言で物議を醸すので、企業CMに使う用途も限られてしまう。売り込みの幅が狭く、私もどうしたものかと常々悩むところです。ですが移籍話を持ってこられたということは、大きな可能性を感じているはず。アステッドプロは、どのような分野で彼女をプッシュする予定ですか?」
今後の参考にするために、俺は包み隠さず訊いてみた。面白い答えが聞けるなら、俺にとっても日毬にとっても役に立つものになるはずだ。
「何も企業に広告を出してもらうことだけがタレントの稼ぎではありません。彼女自身を中心にして仕事を作ればいいのですよ」
「彼女ほど注目を浴びずにはいられない人物は、世の中にそうそういない。彼女はいるだけで旋風を巻き起こす。ということは、お金も集まるということだ」
狩谷常務と仙石社長の話に、漠然とだがキッカケが見えてきたような気がした。
「わかってきました。仕事をもらうという発想ではなくて、神楽自身が仕事をプロデュースし、その知名度をお金に換えていくということですね?」
「そうだ、彼女自身をお金に換える道はいくらでもあるということだよ。先ほど織葉社長が指摘したような妙な仕事ということではなくて、真っ当な仕事はゴマンとあるだろう」
日毬が運営する政治結社日本大志会でさえ、党員が少しずつ増えている。あんな危険な極右団体ですら多少なりとも収入増が現実的にあるのだから、選択を間違えなければ遥かに大きな稼ぎを得ることも可能に違いない。
たとえば日毬人気にあやかってグッズを売ったりすれば収入になるように、そのスケールをもっと広げていく方向性もあるということだろう。企業CMに出て、他人の商品をPRするだけがタレントの仕事ではないということだ。この発想の転換は、素直に参考になった。
メディア産業の縮小の影響を受けて、芸能界の経済規模も年を追うごとに小さくなってきている。アステッドは業界の雄であるからこそ、その影響をモロに被っているはずだ。そんななか、生き残りのためにはこうした大胆な発想の転換が必要なのだろう。
「お話は非常に勉強になりました。移籍の提案を受けたことを、神楽ともゆっくり相談してみます。話し合った結果はきちんとご連絡致しますので、しばしお時間を頂けますと幸いです」
それから芸能界やメディア業界についての最新情報や意見を交換し、仙石社長と狩谷常務は満足そうに引き上げていった。
◇
「颯斗は、私を売り渡すつもりなのか……?」
説明を聞き終えた日毬は、最初にそう言った。
「違う。そうじゃない。そういう提案があったから、あとは日毬次第で俺も方針を決めようと思ったんだ」
「……」
日毬は怒ったような視線を俺に向けてきた。
「日毬の目的は政界の頂点に立つことであって、芸能界はステップでしかないだろう? ならば、より最短の道を考えれば、移籍した方がプラスかもしれないということさ。判断は日毬がすることだ」
「颯斗は……私の移籍話を受けてお金になった方がいいのか?」
「そんなものはどうでもいい。たしかに新しい事業を始めるには役に立つだろうが、しょせんは一億やそこらの話だ。端金だよ」
「……私には想定外なのに、颯斗には検討の余地があることなんだな。私は……颯斗にとってその程度の存在なのか……」
ありありと日毬は落ち込んだようだった。
「常日頃から日毬は言っているだろう。命を懸けてでも成し遂げるんだって。俺は日毬の本気さを誰よりも知っているから、日毬の障害になるようなことはしたくない。いいか日毬、目的を成し遂げるためにどっちを選ぶのがメリットになるか、冷静に考えるんだ」
俺は熱心に続けていく。
「移籍してくれと言っているんじゃない。日毬の判断を尊重しよう。だけど日毬の目的を考えれば、俺には答えが決まっているように思えてならない」
「でも、私は……」
「命を懸けるって話は冗談だったのか?」
「冗談ではない。私は日本国家のために生きている。日本の頂点に立つためにはアイドルとして成功するのが手早いと思ったからこそ、私はこの業界に入ることを決意したのだぞ。私は臆せず、最短の道を突き進むつもりだ」
そう抗議してきた日毬は、ふいにハッとした表情になり、うつむきがちに小さく口にする。
「それでも颯斗に……一緒にいて欲しいんだ……」
「駄々っ子みたいなことを言うな。日毬のプロデュースを俺がやり続けるとしたら、アステッドプロがやるよりもずっと時間はかかると思う。日毬はそれでいいのか? 一日でも早く日本の頂点に立つんじゃなかったのか?」
「……」
日毬は目に涙を溜めたように見えた。うつむいているから、表情はよく見えない。
「……日毬?」
俺は優しく声をかけた。少し強く言いすぎただろうか……。
健気に日毬は手で涙を拭った。
「あれも欲しい、これも欲しいなどと、私は最低だな。でっ、でも……颯斗と一緒にいられないなんて信じられない……。どうしようもない気持ちなんだ……」
日毬は涙が止まらなくなったようだった。
俺は慌ててソファを立ち、日毬のすぐ隣に腰かけ直した。まさかこれほどまでに日毬を苦しめることになろうとは想像していなかったのだ。
「日毬、すまない……。泣かせるほど困らせるつもりはなかった。二度とこんな話は持ち出さないから、泣かないでくれ」
俺はティッシュで日毬の目尻を拭いてやり、続ける。
「この話をすぐに断らなかったのは、俺に力のないことが原因なんだ。確実に日毬のプロデュースを成功させる自信があれば、日毬に嫌な選択を強いることもなかった」
「いや、私にアイドルとしての力がないことが原因なんだ。颯斗は頑張ってくれているのに、私は……」
「バカ言うな。日毬だからこそ、これだけ話題になってるんだぞ。俺にも想像できなかったほどの、急激な日毬人気だよ。だから最大手のプロダクションが、日毬を獲得しようと躍起になってるんだ。俺がもっと頑張ってやるからな。心配するな」
日毬の涙を拭きながら、俺は断ることを心に決めた。
◇
提案に対する答えを持って、俺はアステッドプロを訪問していた。
場所は千代田区麴町。俺の実家から徒歩圏にあるビルだ。
案内されたのは社長室――ひまりプロダクションのワンルーム事務所の倍くらいのスペースに、高級ソファと黒檀の机がゆったりと置かれている。
業界最大手と言いつつも、比較的こぢんまりとした部屋だった。……いや、そう見えるのは、俺が織葉家絡みの企業の社長室や会長室を見慣れすぎていたからかもしれない。アステッドプロは大きな企業グループを形成している中核企業といえども、しょせんは売上高は数百億レベルだろうから、やはり向こうとは格が違う。
ソファに着くなり、さっそく俺は切り出す。
「今日はお時間を取って頂き恐縮です。先日のお返事をお持ちしました」
俺に相対するのは、先日と同じく、仙石社長と狩谷常務。
「こんなに早く決断してもらえるのはありがたい限りだよ。ありがとう」
「今後の契約詰めなど、諸々進めていきましょう。お互いにとってプラスになると思いますよ」
二人はなぜか喜んでいるようだった。俺が話を受けることが大前提になっているらしい。まぁ普通なら、双方の会社にとっても、タレントにとってもメリットのある渡りに舟の提案を、受けない方がおかしいのだ。
「いえ……。お断りに参上したのです。興味深いご提案ではありましたが……今回、お話を受けることはできかねます」
俺の言葉に、仙石社長は目を白黒させる。
「……」
「……そんなバカな」
啞然として狩谷常務はつぶやいた。
そんなに驚かれると、なぜか申し訳ない気分になってくる。
「それは……神楽さんのご意志にも添うものですか?」
狩谷常務が念を押してきた。
「そうです」
「まさか! うちなら、タレントとして成功が約束されたようなもの。断るわけがない」
「そうは言われましても、噓を申し上げているわけではありません。なんなら、本人に確認してもらってもいいですが?」
「レンタルの提案も乗るつもりがないと?」
「はい」
仙石社長が割って入ってくる。
「織葉社長。どうも君は、芸能界を軽々しく見ているようだ。この世界は、蒼通での仕事のように、明確な成果を描けることも少ない。今、神楽さんは一時的に騒がれているだけだ。ここから軌道に乗せるのは本当に難しい。我々としても、新規事業に乗り出すくらいの心構えを持っている。いわば賭けなのだよ? それを、君は自身の力でできるとでも思っているのかね?」
「やり遂げるつもりです。今後、社長や常務のような業界の大御所に、ぜひともご指導頂ければ幸いだと思っております」
「ぬけぬけと何を言う。あなたは、自分が何を言っているのかわかっているのか? 大変なことになるぞ?」
狩谷常務が息巻いた。今まで丁寧な口調だったのが、威嚇するようなものに豹変していた。
ムチャクチャな話だ。提案を断っただけで恫喝されるなど、まともな業界ではない。
仙石社長が告げてくる。
「たかだかゲリラのような存在が、ようやっと光の当たる場所に出て、うかれた気分になるのはわかる。だがゲリラはしょせんゲリラにすぎん。これから正規戦に臨めると思ったら大間違いだ。芸能界の厳しさを、その身を以て知ることになるだろう」
「肝に銘じておきましょう。簡単にはご納得頂けないようですが、意志が変わることもありません。どうかご了解ください。用件はこれですべてなので、失礼させて頂きます」
そう言い残して俺は席を立った。もはや交渉する意思はないし、ここで話していてもプラスになることはなにもない。
「下手に出れば小童が……」
狩谷常務がつぶやく声が聞こえた。わざと聞こえるようにつぶやいたに違いない。
「織葉社長。考えが変わったら、いつでも声をかけてきなさい。悪いようにはしないから」
そう最後に、仙石社長は優しい声をかけてきた。しかし俺には、仙石社長の強い意志が籠もっているように感じられた。
◇
テレビ局・大手新聞から引きも切らずに入ってきていた取材申込が、ぱったり止まってしまった。
日毬の話題が沈静化したからだと捉えることもできるが、その可能性は低い。なぜなら、週刊誌やネット系ニュースなどでは今まで通りに騒がれていたし、むしろ取材の数は増えていたからだ。この偏りは、明らかに不自然だった。
大手メディア……とくにテレビからの取材が途切れたことは、タレントとして非常に悪い傾向だ。芸能人は、活動する舞台をテレビに移していくことが大目標のひとつなのに、肝心のテレビに総スカンを喰らうというのは致命傷になる。
テレビへのアプローチを強めようと今後の戦略を練り直していたところ――。
定期的に依頼があったモデル雑誌から、撮影の直前に連絡が入ったのが皮切りだった。
携帯を通して、雑誌社の編集者は恐縮して語る。
「織葉社長……大変申し訳ございませんが、神楽さんには降りてもらうことになりました。次の撮影からは参加してもらわなくて結構です」
「えっ? どうしてです? 気に入って頂けているとばかり考えていましたが……」
「すみません。神楽さんはすでにメジャーになってしまいましたので、そろそろ別の候補者にもチャンスを与えたいと思っているんです」
編集者は、無理やりな言い訳を口にした。
そんなバカな。モデル雑誌にとって、メジャーなタレントが出てくれるなら、これほどありがたいことはないはずだ。話題や売上に直結する。ましてや今なら、日毬ほどニュースになる女の子などいるわけがない。誰もが建前とわかる言い訳である。
出版社が完全な左翼系で、日毬のファシズム的な言動に抵抗があるという理由なら、理解できないわけじゃない。名の通った業績の良い中堅大手でも、常日頃から右翼の街宣車に囲まれるようなガチ左翼の出版社はある。しかしこのモデル雑誌を出しているところは、右翼系から左翼系まで幅広い雑誌や書籍を扱っており、政治的主張には懐が深い老舗大手出版社のはずだった。この路線から断られた可能性はないだろう。理由が釈然としない。
「ひとまず次の撮影だけはお休み、という話でもないんでしょうか?」
わずかな期待を込めて、俺は確認した。
「申し訳ありませんが――」
編集担当は謝罪を繰り返すだけで、要領を得ない返答ばかりが続いた。何を訊いてもはぐらかすだけで、しかし本当に申し訳ないとも思っているようだ。
もしかすると、この編集担当も理由をよくわかっていないのではないか。突然、上から指示があり、仕方なく断ってきたのかもしれない。
謝るだけの編集担当と話していてもラチが明かないので、俺は諦めて電話を置いた。
これはやはりタイミング的に、アステッドプロの工作によるのだろうか……。たしかに、テレビや新聞の豹変ぶりを考えると、アステッドが圧力をかけた可能性は高そうだった。
こんな工作に押し切られ、アステッドの軍門に下るわけにはいかない。だが、どんな手が打てるだろう……?
◇
俺は不安に駆られ、日毬のレギュラー出演が確定していた『学校DAISUKI!』の制作プロダクションを訪ねていた。取材が減ったとしても、テレビのレギュラー番組さえ確保できれば何とでもなってくれるはずだ。
応対してくれたプロデューサーに俺は菓子折を手渡し、挨拶を交わして会議室で向き合った。
「わざわざ出向いて頂いてすみません。ちょうど連絡しようと思ってたんですよ」
プロデューサーはそう言って、頭を下げてくる。
「実は、神楽さんの出演時期をもう少し延ばして欲しいんですね」
「延ばして欲しいとは……?」
予感的中だ。俺は話を急がせた。
「すぐに出てもらう予定だったんですけど、いろいろ立て込んじゃいまして……ひとまず未定にしておいて頂きたいんですよ」
「それは……どうしてでしょう?」
「いずれは出演してもらおうと計画していますけどね、今すぐは難しいなぁ」
プロデューサーは、俺の質問には答えなかった。
やはり何かが動いている。芸能界でここまで力を発揮できる組織はあまり多くない。俺たちに関わりがあるのは、やはりアステッドプロだ。
念のためのことを考え、俺は奥の手を用意してきていた。非常手段だったが、ここは使うしかなさそうだ。
何気なさを装い、俺はスーツから封筒を取り出す。
「どうか神楽のレギュラー出演の話を継続して頂くわけにはいかないでしょうか……? お願いします」
封筒をテーブルに置いた俺は、プロデューサーの方に押しやった。
プロデューサーは封筒に手を伸ばし、中を確認して一瞬躊躇する表情を見せた。
中身は一〇〇万円だ。今のひまりプロダクションには手痛い出費だが、このレギュラーは確保しなくてはならない。プロデューサー個人が手に入れる裏金として考えれば、かなり大きな臨時収入には間違いないはずだ。
プロデューサーはしばし思案する表情になり、封筒を懐にしまいかけた。しかし、ハタと動きを止め、眉をひそめて中空に視線を向けた。
そして残念そうに首をふり、テーブルの上に封筒を置き、俺の方へと差し戻してくる。
「これは受け取らないでおきます。申し訳ないが、このくらいのお札じゃ割に合わないのでね」
「そうですか……」
仕方なく俺は封筒を取り上げ、懐にしまい込んだ。
「織葉社長、その代わりといっては何だがお話ししましょう。ここだけの話にして下さいよ。いいですか?」
「ええ、お願いします」
「おたく、アステッドと揉めてるようですね」
「……当方にはトラブルを抱えたつもりはなかったんですが、向こうさんが色々あるようです」
「そこまでわかってるなら、理由はわかるんじゃないですか?」
含みを持たせた言い回し。察しろということだろう。
「なるほど……。やはりそうですか」
「そうです」
ふいにプロデューサーは、興味津々な様子になって訊いてくる。
「いったい、何があったんです?」
「うちの神楽を譲り渡せと言ってきたんですよ」
俺は肩をすくめて応じた。
「どんな条件で?」
「まぁ……移籍に一億少々」
「一億! いい条件じゃないですか。確かに、神楽さんはかなりのものですよ、いろいろと。しかしねぇ……さすがはアステッドといったところでしょうか。私なら飛びつきますが。それ、吞まなかったんですか?」
「ええ」
俺はうなずいた。
「向こうも本気の金額提示ですね。アステッドを怒らせたのに、構わず業界を泳ぎ回ると……マジでそのうち沈みますよ。今ならまだ間に合うかもしれません。ここはアステッドに詫びを入れて、話を進めてみたらどうです?」
プロデューサーは善意でアドバイスしているつもりだろう。
しかし俺には吞むつもりなど毛頭なかった。すでに日毬と話し合ったことだ。
それから俺はプロデューサーから、アステッド絡みのさまざまなゴシップを聞かされた。どのタレントが仙石社長の愛人だっただの、どのタレントが広域暴力団組長の娘だの、どのタレントが仙石社長の怒りに触れて業界を追放されただの、アステッド所属のタレントと大手テレビ局の編成局長が情交を結んで仕事を確保しているだの……真偽が定かではない話ばかりである。業界の渦中にいるプロデューサーだけに、挙がってくる名前は具体的だ。しかし内容がどうにも週刊誌レベルだから、どこまで話に信を置けばいいのかわからない。いかにも芸能界らしい有耶無耶なネタが多かった。
そんなゴシップを聞かされただけで、何の成果もなく、俺はとぼとぼと制作会社を後にした。
一夜明けたら、まともな仕事は、ほぼ壊滅してしまったようだった。
仕事だけでなく、取材の方も、テレビや大手新聞が終息。週刊誌やネット系で日毬の話題が継続している程度だが、これでは早々に話題が途切れ、一般大衆の会話に上ることはなくなっていくだろう。それこそまさに瞬間的な「時の人」で終了だ。
潮流に乗りかけたと思った直後の、この痛烈な打撃には心底参った。
アステッドのことは、噂の範囲内では知っていたつもりだ。しかし、その怖さを初めて知った。
事務所へ戻る道すがら、芸能界のメチャクチャっぷりを俺は初めて肌で感じていた。