大日本サムライガール
第一巻 第三章 国家と共に
至道流星 Illustration/まごまご
「真正なる右翼は、日本に私ただ一人である!」 目的は政治の頂点、手段はアイドル——。至道流星の本気が迸る、“政治・経済・芸能”エンタテインメント、ここに開幕!!
営業回りで汗を流していたときに、由佳里から、今すぐ会いたいという電話があった。
お互いがいた場所からちょうど中間あたり、赤坂見附で落ち合うことを約束し、俺は指定の喫茶店に向かった。
喫茶店に入ると、すでに由佳里は待っていた。俺を見つけて大げさに手を振り、甲高い声を上げる。
「やりましたよ先輩!」
「何があった?」
相対した席に滑り込みながら俺は訊いた。
「ACです、AC。日毬ちゃんをぶちこんじゃいますから! 部長の許可も得て、内々で決定済みです」
「ACか! 筋の良い案件を回してくれたな」
嬉々として由佳里は指を二本立てる。
「ギャラは二〇〇万。これで当座は凌げますね。なかなかに優良な仕事じゃないですか!」
AC――公益社団法人ACジャパンは、蒼通で、俺と由佳里が所属していた事業部が扱っていた案件の一つである。ACは各種のメディアを通し、公共広告によって国民に広く啓蒙活動を行っている公益法人だ。会員から会費を募って制作され、その広告は、会員に名を連ねる各メディアによって無料で発信されていく。
公共団体の発注だけに、必ずしも蒼通だけが扱っている案件ではなく、他の広告代理店などと争って制作を受注できるかどうかが決まる。しかし一度企画を通して受注してしまえば、スタッフィングなどはある程度まで蒼通の裁量で押し通すことができるのだ。
「事業部からの、先輩への餞別だそうです。逆に言えば、これ以上は期待するなということでしょうね。部長からの伝言ですが『あとは自力でやれ』だそうです」
「わかった。感謝してるって伝えてくれ」
「了解です」
やってきた店員にコーヒーを注文し、俺は由佳里に確認する。
「で、今回、受注したのはどんな内容だ?」
「自殺防止キャンペーンです。インパクトあるんで、出だしにはいいんじゃないでしょうか」
「ちょっとイメージきついが……悪くはないな」
俺は考えを巡らせ、うなずいた。
バッグから企画書を取り出した由佳里は、書類を広げて説明し始めた。
日毬はゆっくり歩きながら、台本通りのセリフを話すのがメインらしい。プラスして、涙を流すシーンを撮影。それにCGを重ね合わせ、ひとつのCMとして完成させるのである。
「良い案件ですが、このCMだけで日毬ちゃんをスターダムに押し上げるには、いささか力が足りないと思いますよ? ゴールデンタイムにガンガン流れるCMじゃないですし」
「わかってるよ。今どきCMの一本や二本こなしたって、それだけで知名度を獲得できるわけもない。だが、タレントとしての日毬にとって、かけがえのない実績にはなる」
「ここから先が難しいんですけどねー。どんどん繫げられればいいんですが」
由佳里は腕を組んで、背もたれに身を沈めた。
その通りだ。よほどの幸運に恵まれないと、CMに出たところでそれで終わりである。CM出演経験のある可愛い子というのは、タレント業界には意外と多いものだ。しかし、それで終わっている子の方が遥かに多い。バブルの頃の発想じゃないんだから、CM出演によってタレント生命が開花するわけでもない。CMが話題になったからといって、ごくごく狭い範囲でニュースになるだけだ。そこから口コミで勝手に広がっていくようなことなどありえない。こういう実績をたくさんこなしていって、着実に全国区に浸透していけるかどうかが重要だ。
「まぁ、ACに出演させてもらったという実績は、営業にも役に立ってくれるさ。こっからは部長の伝言通り、俺の努力次第ってことだろうな」
「私もいますしね。日毬ちゃんに合った企画があれば、隙をみてねじ込んじゃいますから」
それから俺と由佳里は制作内容やスケジューリングを打ち合わせし、お互い次の仕事へと向かった。
◇
撮影スタジオにて、AC用の撮影が行われていた。
日毬はゆったりしたペースで歩きながら、カメラを向いて切々と語る。
「あなたを待っている人がいます。あなたを大切に想う人がいます。一人で思い悩まないで」
そこで日毬は立ち止まってカメラを見やる。指示通りの動きだ。
「人生はリスタートできる。あなたの苦しみは、伝えることできっと軽減します。お電話下さい。私たちは待っています」
真剣な表情のまま、日毬はカメラを見据えていた。
監督が声を上げる。
「はいカット! いいね、感情が籠もってるよ! 涙を流すシーンの撮影も一気にいっちゃおうか。三分後に撮影入るよ。準備して」
日毬には初の、本格的なスタジオでの収録だった。
スタジオの隅で見守っていた俺と由佳里の許に、日毬が戻ってきた。俺たちは声をかける。
「おつかれ。良い演技だったぞ」
「良かったわよ、日毬ちゃん。いつの間に演技を勉強していたの?」
もちろん俺は日毬のマネージャーとして、由佳里は蒼通の担当者としての参加だ。
俺たちを不思議そうに見やった日毬は口にする。
「演技などではないぞ? 演技を勉強したこともない。私は真剣に言ったのだ」
なるほど、演説の延長のような気持ちだったのだろう。日毬の場合、演説内容は行きすぎではあるが、心が籠もっていることは確かだ。
日毬は感心したように続ける。
「これは素晴らしい仕事だ。これこそがまさに、私が望んだ政治活動そのものと言える」
「次はカメラの前で泣くシーンの撮影よ? それは大丈夫?」
心配げに由佳里が訊いた。
この次は、日毬の顔をアップして、涙を流している表情だけを撮影するのだった。CMの最後に、そのシーンをCGで合成しつつ挿入するそうだ。
「泣けと言われて泣いたことがないから、いささか難題だな……。あくびでもしてからカメラを向こうかと思っているが……」
「目薬でも使う? でも、何度も撮るから、あまり目薬さしすぎると目に負担があるかもね。できれば、日毬ちゃんが自発的に泣いてくれるのが一番いいんだけど……」
「悲しいことを考えるんだ。泣くシーンで、女優がよく言うのは、昔飼っていた愛犬が死んだ場面なんかを思い起こしたりするそうだ。うまく泣けるらしいが……日毬はすぐに涙を流せるような悲しいこと、あるか?」
「なるほど……悲しいことを想像すればいいのだな? それなら私は、いつでも涙することができる」
日毬は何度も、一人納得したようにうなずいた。
次の撮影の準備ができたのだろう、監督が呼び掛けてくる。
「神楽さん、準備いいかな?」
「うむ」
日毬はうなずき返し、そして俺と由佳里を振り向き、これから戦いに臨む武士のように口にする。
「では、行ってくる」
スタジオの隅で見守る俺たちは不安だった。日毬は演技ができるような子ではないから、そんなに簡単に泣くことができるとは思わなかったからだ。
だが、不安は杞憂だった。日毬は、実に見事に涙した。
何度も何度も、同じシーンを撮影したが、その度ごとに、日毬はきっちりと涙をみせた。はらはらと流れ落ちる涙は、噓偽りのない、日毬の本物の悲しみのように見えた。
傍で見守る俺や由佳里や他のスタッフたちは、日毬を呆然と見守った。皆が心を動かされたほど、日毬が流す涙は本物に思えた。
「文句なし! お見事! 上出来だ!」
幾度もの撮影を終え、監督が言った。
再び戻ってきた日毬に、由佳里がタオルを渡しながら言う。
「よかったよ、日毬ちゃん!」
「すごいじゃないか。どうやって泣いたんだ?」
俺は訊いてみた。
日毬は目尻をタオルでふきながら、切々と語る。
「日本国家の未来を憂い、私は泣いた。一億三〇〇〇万の同胞たちの苦難に想いを馳せ、私は泣かずにはいられなかったのだ。私は……やはり私がやらなくてはならない……」
そして日毬は顔を歪め、再び目に涙を溜めた。
身体を震わせながら日毬は続ける。
「考えれば考えるほど身につまされ、一刻も早く日本大志会が政権を奪取せねばならないのだと、私は決意を新たにしたぞ……。やはり私がやらなくてはならない……。日本国民諸君、どうか、どうか耐え忍び、私が政権を取る日を待っていて欲しい……」
そして日毬は両手で顔を覆い、切々と泣き始めてしまった。
「……」
「……」
俺と由佳里はどう応えるべきかわからず、困惑して顔を見合わせたのだった。
◇
着々と、日毬がこなした仕事が表に出始めていた。
最初の仕事となった防衛省の広報VTRは全国の図書館や役所などに配布された他、防衛省の広報サイトへも動画としてアップされた。
アクセス数は多くないらしい。しかし幾つかの新聞が、防衛省の新しい試みとして記事に取り上げていた。
また、雑誌『エイティーン』のモデルの仕事は安定して受託することができるようになり、一週間に一度のペースで撮影に参加していた。すでに雑誌にはモデルとして日毬が登場している。もっとも、多数のモデルのなかの一人だから、いくら美貌が秀でていようとあまり目立たない。まだ大きく掲載されるほど日毬に良い役目は回ってきていないからだ。
そして最初のグラビアの仕事だった漫画誌では、掲載された一九人のアイドルの人気投票が行われたらしく、日毬は三位にランクインしていた。良くもなく悪くもなく。それに投票が何か意味のあるものでもなかったから、それほど注目すべきことでもない。すでに多数のグラビアに出演してファンを抱えるアイドルばかりのなかで、新参の日毬が三位なのは上々のスタートだ。掲載されているグラビアアイドルのなかでは、日毬が最も美貌に秀でていることは間違いないので、カメラの前での自信と慣れが身についてくれば、いずれ自ずと一位になれるだろう。
しかしこの漫画誌に登場したおかげで、グラビアアイドルとして幾つかの漫画誌やアイドル誌の編集部とも話しやすくなり、今後は日毬がグラビアに登場する機会は増えていきそうだった。実際、複数の編集部からすでに掲載の打診があり、定期的に日毬のグラビアをどこかの雑誌に掲載していくことができそうである。メジャー誌からの依頼もあったし、巻頭を飾る仕事の発注もあったし、まずまずの反響だ。
そして最大の広告効果が見込めるACのCMは、夕方と深夜帯を中心にして全国ネットで放映され始めた。これは日毬の知名度をある程度は押し上げてくれるだろう。もっともこれ一本だけなら、効果はタカが知れているのだが。そもそも、あまり派手なCMではないし、日毬はただ歩いて話しているだけだ。一部では、ACに登場している子が可愛いと評判になったが、だから何だというわけでもない。このCMによるアイドルとしての知名度よりも、実績を元にして俺が営業をしやすくなる効果の方が大きいかもしれない。
一方、ひまりプロダクションの会社としての売上らしい売上は、防衛省の仕事で得た五万円と、ACのギャラで得た二〇〇万円のみである。あとは自腹か、交通費を支給された程度のもので、走り回っている割にはまったく稼げていなかった。
日毬は売り出し最中だから、こればかりは仕方ないことである。定期的に受注が見込めそうなグラビアも、ほとんど無償で協力していかなくてはならないだろう。仕事として見れば丸損であるが、こうした活動をコツコツとこなし、ステップアップしていくのが芸能界というものだ。
比較的順当に活動しているようにも見えるが、本当に日毬をスターダムに押し上げるなら、最低でも毎月この一〇倍のメディア露出は必要不可欠なことだった。いや、そのレベルに達してからが、本当のスタートだ。まだまだ二流にすら達していないのである。
力のある大手プロダクションなら、ACのCMへの出演をテコとして、強引にドラマの準主役や敵役クラスの仕事をぶんどり、徐々にタレントをランクアップさせて、稼ぎ頭に変えようと努力していくわけだ。もちろんそんな大手プロが本気で取り組んですら、本当に稼ぎ頭にまで成長するのは、数パーセントがいいところであろう。
そして日毬の場合、もともと女優を志していたわけではないため、ドラマや映画の方へ進むべきかどうか悩ましいところだった。ACの演技を見れば、そちらの方でも活動できなくはないだろうが、決してお手軽な仕事でもない。CMやグラビアのように数日以内で撮影できるものならともかく、ドラマとなると長時間の活動を要することになる。主役ならまだしも、今の立場だとせいぜいチョイ役だ。日毬の適性に合わないのに無理に進ませれば、誰にとっても良くない結果になるに違いなかった。
ある程度は自由が利き、活動時間も少ない方法としては、やはり積極的にグラビアに露出していくのが良さそうだった。まず間違いなく、日毬なら着実にファン層を拡大していける。大量の雑誌に、毎月途切れずに露出を継続していくことが条件だったが、高校に通いながらの日毬でもやりやすい仕事ではあった。
そこから写真集に繫げたりしつつ、レコード会社と契約してCDを発売したりと、幅広い展開を視野に入れていける。
ただ、それも地道だ。ガツンとテレビに露出するのと比べれば、雑誌やネットが中心の活動になるから、どうしてもファン層が頭打ちになるからだった。
まぁとにかく、決して悪い状態ではないことも確かである。今ここは分岐点なのだ。
日毬を一歩上に押し出すためにどういう活動が必要か、俺も悩みに悩むところだった。
今のところ日毬には、会社がレッスン料を負担し、高校が終わってから養成所に通ってもらっている。しかし、すでにタレント活動をしている日毬には、素人の生徒らと共にあまり深く学ぶこともない。何も知らなかった日毬が、業界の心得とか基礎知識さえ雰囲気として摑めれば十分だ。それ以上は期待していない。三週間ほど通ってもらって、あとは辞めてもらう予定だった。
ひとまず今すぐにできることとしては、日毬のブログを開設するのもいい。ファンを増やすことには役立たないが、ACのCMを見て日毬を気になってくれた人を繫ぎ止めておくには必要なことだ。こうした活動を通して地道に積み上げていきながら、日々の営業を継続しつつ、日毬と適性を話し合っていこうと思った。
◇
雑誌『エイティーン』の撮影でスタジオ入りのためタクシーを降りると、ちょうど片桐杏奈がビルから出てくるところだった。
「日毬ちゃ――ん!」
俺たちを発見した杏奈は、ボストンバッグを投げ出し、大きく手を振ってこちらに走り寄ってきた。
「こ、こんにちは……」
日毬は挨拶しつつも、俺の後ろに隠れるようにした。
そんな日毬を杏奈が覗き込む。
「見たよ見たよ、CM見たよ! AC! 良かったよ! バッチリ! なんか日毬ちゃんの名演に感動しちゃった!」
ひとりで一方的に盛り上がった杏奈は、今度は俺を見上げて口にする。
「マネージャーさん、日毬ちゃんをよろしくお願いしますね! もう絶対売れますから」
「ありがとう。トップアイドルの杏奈さんからそう言ってもらえると、こっちも頑張ろうって気になるよ」
俺は本心から言った。
「おお? よく見れば、なんだかマネージャーさん、若いですよね? ていうか、どこのプロダクションだっけ?」
杏奈は、今度は俺の方に興味が向いたようだった。
「ひまりプロダクション。実は所属タレントはまだ日毬一人でね。できたばかりの新参事務所なんだ」
「えー!? じゃあもしかして、若くして社長さんだったり!?」
口に手を当てて、杏奈は大げさに驚いたようだ。
「そういうことになる」
「やだ、すごい! カッコいい!」
「ハハハ……。ぶっちゃけ、芸能プロダクションの社長なんて大したものじゃないよ……」
身の丈を遥かに超して褒められると、萎縮してしまうから不思議だ。
「そんなことないですよ! だって日毬ちゃんを抱えてる事務所なんですよ! すっごい尊敬しちゃいますから!」
ふと杏奈は、子供のように俺の後ろに隠れている日毬に首をかしげる。
「どうしたの、日毬ちゃん? 元気ないよ? 風邪でも引いてたり?」
「そうではない。大丈夫だ……」
日毬の声にはいつもの張りがなかった。ここに来るまでは普通に会話していたから、決して体調が悪いわけではないはずだ。
「そっかなぁ? ちょっと待っててね」
杏奈はそう言って、慌ただしく玄関のところに投げ出していたバッグの許へと走っていった。そうかと思えば再び勢いよく戻ってきて、俺の後ろにいる日毬へと小さなビンを差し出してくる。
「はい、エレナインG! 撮影が徹夜で続いて疲れたときとか、なんかやばいなーって思ったときにグビグビ飲むの。いつもカバンに一本入れてるんだ。超効くよ、飲んでみて」
戸惑う日毬に、杏奈はビンを無理やり押し付けた。
そのとき、杏奈のマネージャーである森がスタジオの入り口から出てきた。そして放置してあった杏奈のバッグを持ち上げ、こちらへ呼び掛けてくる。
「杏奈! 時間に遅れてるぞ! 早くしてくれ!」
「あっ、はーい! じゃあね日毬ちゃん、それから社長さん! またね!」
大きく手を振った杏奈は、忙しなくマネージャーのところへ戻り、車へと乗り込んだ。
スタジオの駐車場から出る車とすれ違うとき、森は俺と視線を合わせ、会釈してきた。俺も頭を下げ返す。
そして車が見えなくなるまで、杏奈は俺たちを向いて幾度も手を振っていた。
手のなかのエレナインGに視線を落としながら、日毬はポツリとつぶやく。
「良いヤツ……なんだな……。……でも、苦手だ……」
「日毬でも敵わない相手がいたんだな」
苦笑交じりに俺が言うと、サッと日毬は視線を上げ、激しく抗議してくる。
「かっ、敵わないヤツなどいない! いるわけがない! 私は国家のために、いかなる困難でも乗り越えてみせる! 私には臆する敵など一つもないのだ! ……ただ……杏奈がちょっと苦手だなって思っただけで……」
杏奈と会うと、日毬はいつもの調子が狂わされるようだった。たぶん最初の出会いで、胸をわしづかみにされたショックが強く残っているせいだろう。
◇
グラビアだけでなく、堅実にファッション誌でのモデルの仕事も広がりつつあった。カジュアル系雑誌が中心で、大した仕事ではないけれど、多くの編集部から仕事が入るのは重要なことだ。
仕事がある日は、日毬は高校が終わるとすぐに現場に駆けつける。仕事の時間帯によっては、高校を早引きしてやってくるようになった。
一方、日毬の仕事がない平日のスケジュールはこうだ。一六時まで高校、そこから一八時半までタレント養成所、その後に事務所に顔を出して一時間ほど過ごし、家に帰るというパターンである。もうすぐ養成所は辞めてもらい、細々とした売り込みに協力してもらうつもりだった。タレント養成所があると剣道の稽古に取れる時間が少なくなるそうで、日毬には不評だった。辞めていいと言えば日毬は喜ぶだろう。
休日のスケジュールは、仕事があるときだけ事務所にやってくる。何もなければお休みとなり、日毬は養護施設でボランティアをして過ごすことになる。
俺と由佳里の説得が利いたのか、日毬のなかでは「政治活動=アイドル活動」となっているようで、街頭演説をすることはなくなっていた。そのため拡さんの出動はめっきり途絶えているようだ。タレント活動の最中に政治を語られると困るから、ひとまず安堵していた。
事務所に出勤してきた日毬を前にして、俺は言う。
「CMのおかげで、多少は日毬にも注目が集まるようになってきた。ほら、アイドル雑誌にもACのCMが取り上げられてるぞ」
俺は雑誌をテーブルの上に置いた。
日毬は興味津々で覗き込む。
「私だ……」
「そうだ。日毬の特集だ。小さな記事だが、こういうことが今後増えていくということさ」
アイドル雑誌の片隅に、「ACの広告に登場している子は誰?」というタイトルで二分の一ページの記事が出ていたのである。
これは大して注目すべきことではない。効果もゼロに近いだろう。この雑誌はいわゆる地下アイドルの特集雑誌で、公称発行部数一〇万部だが、実質的な発行部数は四〇〇〇〜六〇〇〇といった程度のものだ。
ただ、日毬が雑誌記事に載ったケースとしては初めてのもので、記念すべきものであった。このように、どのメディアがどのくらいの量の記事を書いてくれるかが、日毬が今どのレベルにあるかの客観的な判断基準にもなる。テレビのキー局や全国紙で毎週のように日毬の記事が出るようになれば、アイドルとしてはそこが一つの到達点であろう。
「すごい……。私は一年もずっと街頭演説をして何の成果も上げられなかったのに……颯斗や由佳里が言っていた通りだ……。やっと私の政治活動が認められる時が来たのかもしれない……」
ほんの小さな一歩だが、日毬には初体験のことであり、感動もひとしおだろう。
「こうして形となって現れてくれば、なんとなくわかってくるだろう? だがこんなものじゃないぞ。日毬はもっともっと活動を積み重ね、上を目指すんだ」
「わかっている。私は日本に新しい政権を打ち立てねばならない。そのためになら、私は命を懸けると誓ったのだ」
「そこでだ、これから色んな売り出し方を考えているんだけど、まずはCMで日毬に興味を持ってくれた人のためにも、ブログを始めようと思うんだ。日毬の名前で検索したら、ブログに飛んで、どんなアイドルなのかを知ってもらえるようになる」
「政治結社日本大志会でも、組織を紹介するページを開設している。だがいずれはブログを始めて、日々の活動状況を告知していこうかと思案していたところだ。ぜひ始めるべきだと思う」
日本大志会のページは、最初に渡された日毬の名刺にURLが掲載されていたので、確認したことがある。墨で大書されたような太文字が並び、内容が愛国心に満ちすぎていて、いかにも危険な団体としか思えないものだった。あのページを見ても、日毬のような人並み外れた美少女が運営しているものだと想像できる人は、世界にただの一人もいまい。
「なら話は早いな。さっそく今すぐブログを準備するから、今日から毎日、事務所から帰宅する前に日記を付けていってもらえるか? 大したニュースはないと思うけど、その日に食べたものとか、学校であった面白い出来事とか……なんでもいいんだ」
「任せて欲しい。私はやり遂げるだろう」
日毬は決意に満ちた様子で、大きくうなずいた。
「当初はアクセスはほとんどないけど、数字を見て悲嘆するなよ。一日に一〇〇にも届かないはずだ。それでも、たとえ数名でも数十名でも、日毬の活動の幅を広げていくことは大切なことだからな」
話は決まったので、まずは無料で使用できるブログに、さっそく『ひまりのお部屋』を開設したのだった。日毬の知名度が増してくれば、いずれ有料のブログに切り替えるつもりである。
ソファで芸能関係の書籍を読み込んでいた日毬にブログ開設が終わったことを告げると、日毬は待ってましたとばかりにノートパソコンを立ち上げた。そして俺が指定したブログに嬉々として日記を付け、意気揚々と家に引き上げていったのだった。
◇
日毬が帰った後、コンビニで適当に食べ物を買ってきてパソコンの前に腰かけた。
メシをかきこみながら、明日の営業予定を立てるつもりだった。その前に日毬のブログをざっと眺めてみようとページを開き、俺は口にしたばかりの食事を吹きだした。
別のページをチェックしたのかと一瞬思ったが、それは間違いなく日毬のブログだった。
七生報国
日本国民諸君、最初に自己紹介させて頂く。
私の名前は神楽日毬、本名だ。今年で一六歳である。
最寄りの高校に通う高校二年生であるが、それは仮初の姿にすぎない。私は政治結社日本大志会の総帥を務め、常日頃から日本の敵と戦い続ける者である。
有史以来、我が国は輝かしい文明を維持してきた。それは我々の中に根付く和の心・寛容の精神・公共心など、目には見えないが素晴らしい精神が為しうる親和によって形作られてきたものである。
日本人だからこそ持ち得るその魂を、私は永遠に守りたい。近代合理主義的な観念とは決して相容れないものだが、それは我々の中に脈々と息づき、日本をして世界に燦然と輝く地域共同体を形成せしめているのである。
欧米を見よ、かの文明がいよいよ行き詰まりの時を迎え、金融資本に食い散らかされた末に、無惨にもがき苦しむその姿を。
中国を見よ、格差と汚職によって人民には怨嗟の声が満ちあふれ、周辺諸国を緊張と疑心暗鬼に陥らせているその姿を。
いま世界のなかで最も安定と秩序を保っている国は日本である。いかに現行政府が政治能力を欠き、迷走を繰り返していようとも……それでも我が国が驚異的な安定を誇っていることは、日本人の社会性を証明する何よりの証しだ。これはひとえに、日本が二〇〇〇年にわたり育んできた精神が為しうる業である。
だが歴史と伝統の破壊を目論む左翼の魑魅魍魎が跋扈し続け、日本は今、自らのアイデンティティーを喪失しかねない危機の渦中にある。口惜しくも多くの庶民が左翼のプロパガンダに惑わされ――
これは日毬がつけた日記の序盤にすぎない。こんな調子で、どこまでも文字列が続いていた。見たこともないほど超長文のブログである。日毬に一〇日もブログを書かせれば、一冊の本が発売できるくらいかもしれない……。
俺は食事などそっちのけで、震える手つきでブログの第一日目の日記を消去し、ゼイゼイと深呼吸を繰り返した。
――さて、どうしたものだろう……。
まず俺は、アクセスログをチェックしてみた。日毬がブログをつけてからまだ一時間ほどしか経っていないから、それほど見に来ている人はいないはずだ。ログを確認すると、来訪ユーザーは四名。滞在時間は長いようだから、一日目の日記を読んだのだろうか。何かの間違いだと思ってくれればいいのだが……。
日記は削除したが、このままにしておくわけにもいかない。
俺は女子高生風の文章と悪戦苦闘しつつ、日毬のブログを代筆していった。
はじめまして☆
こんにちは!
神楽ひまりって言います!
このページを見に来てくれてありがとう(‹_‹)
私はアイドル活動をしています。
いっぱい頑張って、みんなに笑顔を届けられたら嬉しいな。
まだ一六歳だけど、結構大人びて見えるよーって言われるんです。
それって喜んでいいのかなぁ?
どうなんだろー?
みなさんはどう思いますか?
これから日記を付けていくよ。
忙しい日は付けられないかもしれないけど許してね♥
今日は南青山のデリッシュでお食事したよ。
前から食べたいと思っていたシーフードパスタを食べてみたの。とっても美味しかったんだぁ。もう最高に美味しくて――
こんな調子でなんとか初日分を書ききり、俺はブログをアップした。
――変わりすぎ……。
建築リフォーム番組ビフォア・アフターもびっくりの、ブログの様変わりである……。
女子高生だと思われても不自然ではないように砕けた文章を書くのは逆に難しく、時計を見やると一時間半も経過していた。買ってきたコンビニ弁当はすっかり冷えてしまっていた。
これから毎日、俺が『ひまりのお部屋』を代筆しなくてはいけないことは確実で、暗澹たる気持ちになったのだった。
◇
アイドル雑誌から連絡があり、新人アイドルを紹介していく企画で日毬を掲載してもらえることになった。こういう雑誌はあまり売れていないものだが、そのなかでは最も老舗のアイドル紹介雑誌であるらしい。
注目を浴び始めた新人アイドルを紹介していくコーナーで、本人の写真と一緒に、そのアイドルが筆で書いた習字を掲載していくそうである。一見、習字を掲載と聞くと意味不明だが、タレントが抱負を大書することで、その子の意欲を読者に知ってもらうという定期連載コーナーだった。
雑誌を買ってきてコーナーをチェックしてみれば、各アイドルの写真の横に、習字が大きく掲載されている。みんな下手クソな習字だが、女の子っぽい文字で「みんなに会いたい」「売れますように」「心を込めて」などなど各人各様さまざまなことが書いてある。そのアイドルの特徴が巧く出ていて興味深い。こうして見れば、なるほど、味のある紹介コーナーである。
雑誌社からの取材という形であるため、もちろんノーギャラだ。そして写真と習字をこちらで用意し、雑誌社に郵送してやらなくてはならない。
写真はカメラマンに撮影してもらったものが多々あるから、あとは日毬に習字を書いてもらえばいいだけだ。俺は近場の文房具屋で習字道具一式を買い揃え、事務所にやってきた日毬に取材内容を説明した。
すると日毬は呆れて言う。
「習字道具をわざわざ買ったのか? うちには代々伝わる道具があるから、新しいものなど必要なかったのだ。もったいない」
「そうだったのか……。今どき、習字道具を揃えてある家なんてあまりないからさ。確認すれば良かったな。まぁいいや。とにかく、明日には雑誌社に送るから、今日書いていってくれ。自分の抱負を書くんだ」
「了解した。私は自信があるぞ」
日毬は新品の硯に墨汁を注ぎ、用意した高級和紙に文鎮を乗せ、颯爽と筆を取り上げた。
少しも戸惑うことなく書の準備を整えた日毬を見て、俺は感心する。
「へえ、手慣れたもんだ」
日毬が今にも和紙に筆を入れようとした瞬間――。
ふと俺はブログの一件を思い出し、慌てて押し止める。
「ま、待て。待ってくれ」
「何事だ? 集中を要するのだぞ?」
眉をひそめて日毬は顔を上げた。
「抱負、きちんと考えてからでなくていいのか? 何て書こうとしてた?」
「私の心は決まっている。『国家と共に』だ。今の私の精神を体現する、もっとも相応しい抱負であると言えるだろう。多くの人に、この気持ちを伝えたい」
「……」
俺は頭を抱えた。
お前は明治時代の志士かー、とツッコミを入れたくなったが、日毬は真剣そのものなのだ。しかし、『国家と共に』はいかにも不自然すぎる。あんまり深いことを考えていない他のアイドルたちの習字に『国家と共に』が混じっていたら、奇異の目で見られるだけだ。
腕を組んで押し黙る俺を、日毬は不審そうに見やってくる。
「颯斗、どうしたんだ?」
「日毬……悪いけどそれは止めてくれ。もっと一六歳っぽい要素が必要だ。……そうだな……『ひまり、頑張ります。』にしてくれないか」
「なんだそれは? 頑張るなど、当たり前ではないか。空気のようなことをわざわざ書く必要などない」
日毬は呆れ果てたようだった。
「この雑誌の読者は面食らってしまうだけだ。ここは『ひまり、頑張ります。』にしてくれ。お願いだ」
「しかしだぞ――」
日毬が異議を差し挟もうとするのを、素早く俺は制する。
「頼む。ここはそうしてくれないと困るんだ」
言葉で説明しても、日毬の理解を得るのは難しそうだった。ここは切々とお願いし、押し切るしかない。
「……」
日毬は不満そうに唇を尖らせたが、やがてため息をついてうなずく。
「……そこまで颯斗が言うのなら仕方がないな……。『日毬、頑張ります』にしておこう」
すかさず俺は補足する。
「日毬の文字は平仮名だぞ。それと、最後の丸――句点も忘れないでくれ。『ひまり、頑張ります。』だ」
「注文ばかりだな。……わかった、そうしよう」
文句をいいつつ、日毬は筆を墨汁に浸し直し、再び紙に向き合った。
大きく息をはき、日毬は緊迫した表情になる。そして流れるように筆を入れていった。
日毬がこの世に産み出していく文字を眺めながら、俺は息を吞んだ。
――う、上手すぎる……。
出来上がった『ひまり、頑張ります。』は、仰天するほどの達筆だった。
絶妙なバランスに磨き上げられた文字は、まさに芸術の領域。パッと見ではバランスに欠いているような雰囲気のある文字は、実のところ細部まで整えられた日本的書道の極地にあると言ってよかった。どこから見ても、一六歳のアイドルが書いているようには思えない。書道の達人に代行させたものだと誰もが勘ぐるだろう。これを編集部に送っても、感心されるどころか、逆に怪しまれるだけだ。
「うむ。いい一筆だった」
筆を置いた日毬は、満足そうに一息ついた。
「なぁ日毬……実に見事な書道なんだが……こうじゃない……。もっと女子高生っぽく、いかにも丸っぽい文字が書けないか?」
「どういう意味だ?」
「これじゃ不自然なんだよ……。あまりにも達筆すぎてさ……」
「不自然? 私は真面目に書いたのだぞ。颯斗は時々おかしいことを言うな」
日毬は困惑した表情を浮かべた。
この問題を日毬と議論してもラチがあきそうになかった。そもそも、書道のクオリティを遥かに落とせという俺の要求の方が奇妙なのだ。一徹な日毬は、どんなに言い聞かせても、俺の憂いを理解することはできないだろう。
「わかった。書道についてはこれでいいや。あとは任せてくれ」
俺は日毬から書を預かり、道具をしまい込んだ。
日毬の書をもう少し女子高生っぽくするために、俺は他の方法を取ることにしたのだった。
◇
「悪いな。習字なんて妙なことを頼んじまって」
俺は由佳里に礼を言った。
「別にいいですよ。こんなの、一分でできることですから」
書道の代筆をお願いするため、由佳里のオヤジさんの寿司屋に顔を出していた。由佳里も喜んでやってきて、テキパキと依頼した習字――『ひまり、頑張ります。』をかき上げてくれたのだった。
うむ。見事な成果だ。
実に「普通の文字」である。やはりこの人選に間違いはなかった。
書を前にして、俺は何度もうなずく。
「これだ、これなんだよ、俺の求めていたものは……。来た甲斐があったってものだ」
「ふふん、当然ですよ。江戸っ子ですから。お習字くらい、淑女の基本、お茶の子さいさいってヤツですよ」
由佳里は誇らしげに胸を張って続ける。
「やっぱり雑誌に掲載されるなら、他人に頼んででも、上手いお習字を用意した方がいいですからね。私、これでも小学校二年生のときに、お習字教室に通っていたんです。先輩、私を選定したのは正しい選択でしたね。いつでも代筆、ドーンと引き受けてあげますよ。最高のお習字を見せつけて差し上げましょう!」
カウンターの中にいたオヤジさんが、由佳里の書を見やり、首をかしげる。
「上手いかねぇ……? 織葉さん、本当にこれでいいの? 俺には普通に見えるんだが……。どっちかといえば下手……」
「お父さんの目は節穴? 先輩が超上手いって認めたんだから。老眼の人に言われたくないなぁ!」
由佳里は激しく抗議した。
そんな親子のやり取りを眺めながら、俺は寿司をつまんだのだった。
◇
「起きろ! 朝だぞ! いつまで寝ているんだ!」
パソコンに接続したマイクに向かい、日毬は声を張り上げた。
俺は首をふる。
「そうじゃない。もっと女の子っぽく言ってくれ」
「……」
日毬は俺に不満げな視線を向けたが、再びマイクに向かう。
「朝だ! どうして起きないんだ!?」
ファンサービスの一環として、PCやモバイル端末向けに、日毬の音声サービスを録音しているのだった。わざわざ録音スタジオを借りるほどでもないので、うちの事務所にあるパソコンにマイクを繫ぎ、ソフトウェアに日毬の声を次々と入れていくだけである。すると、生成された音声がサイトへとアップロードされてゆく。
これは大手芸能サイトが提供しているサービスで、こちらがする作業は音声をソフトに録音するだけ。そして日毬の声が、その大手芸能サイトにアップされるわけだ。
パソコン、携帯電話、スマートフォンでこの音声にアクセスすれば、この日毬の生声を聴くことができるというサービスだ。
最大三〇秒の範囲内で、自由に音声を登録していける。そしてアップされた音声がタレントごとに一覧にならび、ファンはそれらの中から何度でも好きな音声を聴けるというものだ。気に入った音声があればダウンロードしてモバイル機器で持ち歩いたり、繰り返し聴くことができる。
タレントによっては毎日新しい音声をアップする人もいたし、一気に大量の音声をアップする人もいた。大物タレントが本サービスを使ってファンと交流することはまずないが、売り出し中のタレントが少なからず利用していた。とりわけアイドルが多く、登録してある数を見ただけでも、いかにアイドル志望者が多いのか驚かされる。一緒に掲載されている写真などを見ると、やっぱり可もなく不可もなく、ごく普通の子が大半だ。まったくといっていいほど仕事がなくても、とりあえず事務所に登録してあるだけの子もたくさん混じっている。
「怒ってどうするんだ。もっと優しく」
俺の指摘に、日毬が睨みつけてくる。
「怒ってなどいない! 私は真剣なんだ」
「ほら、怒ってるだろ。なんつーか、漫画とかで、毎朝、幼馴染みを起こすようなシーンがあるだろう。そんな感じで頼む」
「意味不明だな。もっと具体的な指示をするべきだ」
この音声サービスは誰でも無料で聴くことができる。有料にすることもでき、一部の声優などは一音声一〇〇円などで販売しているケースもあった。しかしアイドルとして売り出し中の日毬は、まだファンからわずかでも搾取すべきタイミングではない。できるだけ無料でサービスを拡充し、ファンの裾野を広げていくべきだった。
日毬のメディアへの露出は少しずつだが増え始め、少々ながら固定ファンがついてきていた。俺が日々、ブログ『ひまりのお部屋』を更新していることも多少は貢献しているかもしれない。
日毬は当初想定していたように、グラビア方面やファッションモデル方面からの認知度が増してきていた。日毬の容姿なら、やはりその方面から浸透していくはずなのだ。
今なら写真集やイメージビデオを出せば、一〇〇〇には満たないまでも、それに近いところまでは販売が可能なのではないだろうか。採算は合わないから取り組まないが、完全な無名の立場からは脱却しつつあるのは確かだった。
俺は言葉を指定してみることにする。
「じゃあ……『おはよう、もう朝なんだからね』だ。そのまま言ってくれ」
「おはよう、もう朝だ」
俺はプリンターから紙を一枚抜き出し、文字を書いた。台本を用意すれば、日毬ならきちんとこなせる。
「この台本通りに読んでくれ。『おはよう、もう朝なんだからね』だぞ」
「おはよう、もう朝なんだからね?」
「ダメだ。いいか、よく聞いてろよ。『おはよう、もう朝なんだからね』だ。ちょっと尻上がりな感じで。疑問系じゃないんだけど、感じ疑問系っぽく」
「……わからんな」
奇妙なものを見るように俺を見やった日毬は、マイクに声を張り上げる。
「おはよう、もう朝なんだからね!」
「だーかーら、怒ってどうする。相手は不快になるだけだろ。『おはよう、もう朝なんだからね』」
「おはよう、もう朝なんだからね」
「お! グッドだぞ! もう一度」
「おはよう、もう朝なんだからね」
「できるじゃないか! それでいいんだよ」
「……なんだかわかってきた気がするぞ……。そうか、そういうことなのか……。これはまさに、日本的ワビサビに通じる事柄だぞ……」
何かに日毬は開眼したようだった。
日毬はマイクに繰り返す。
「おはよう、もう朝なんだからね」
「OKだ。早くもマスターしたな。他にも、自分なりにアレンジして言ってみてくれ」
「さあ、起きて学校に行こう」
「うーん、微妙に違う気もするが、かといって悪くもないな」
「仕事頑張れ。今日もきっといいことあるよ」
「お、そんなパターンもあっていい。そんな風にどんどん音声を録音して、ファンに提供していくんだ。パターンはあればあるほどいい」
「なるほど……颯斗の言わんとしていることが、私も理解できてきたようだ……」
「パソコンの画面を見てくれ。音声を録音するときはこのボタンを押す。録音が済めば中止ボタン。そして試しに再生してみて、問題がなさそうならどんどんアップしていってくれ。このボタンをクリックするだけで、生成した音声がアップロードされるからな。アップできるのは一音声につき三〇秒までだ」
俺はソフトの使い方を説明していった。
日毬はすぐにソフトの使い方を覚え、俺と一緒にいくつかアップロードも試してみた。そして実際に、音声がアップされたサイトにアクセスし、日毬の特設ページを開き、音声を試しに聴いてみた。
「ほら、できた。ファンはこうやって日毬の声を聴けるわけだ。よほど日毬が好きなファンは、何度も何度も、繰り返し聴くこともあるだろう。ファンサービスとしてはお手軽なものだろ?」
「街頭演説よりもずっと簡単だぞ」
嬉々として日毬は言った。
「それじゃ俺は今から出かけるから、後は頼むぞ。映報堂の営業と飲みにいかなくちゃならない。大手飲料メーカーのCMに、日毬をプッシュしてるんだ。これが決まればでかいから必死なんだよ」
映報堂は日本第二位の総合広告代理店である。蒼通と比べれば遥かに格下だが、蒼通に予算を握られるのを嫌がるクライアントが流れていくことが多々ある。クライアントはなかなか良いところを持っているのだ。
「これは簡単な仕事だ。この程度なら、颯斗に面倒をかけることもないだろう」
「今日はそれほど頑張らなくていいからな。日毬の音声にアクセスしてくる人はまだまだ少数だから、ソフトに慣れるために適当にいじってみて、幾つかアップを試してみる程度でいい。たぶん今晩で一〇人がアクセスしてくれば御の字ってところだろう」
ブログを見にくる人よりも、音声を聴く人の方がずっと少ないはずだ。わざわざ日毬の音声一覧にアクセスしてくるまでのハードルは、たとえコンテンツが無料だとしても高いものがある。さまざまな広告に関わってきた俺は、ウェブコンテンツビジネスの難しさを肌で感じていた。今日の今日で日毬の音声をチェックするのは、よほど日毬のことが気になっている人だけだ。
「じゃあ行ってくるぞ。戻りはたぶん深夜を回るから、帰る時はカギを忘れないでおいてくれ」
事務所のカギは日毬にも預けてある。俺が営業に出払っているときも日毬が出入りするからだ。俺の個人の家である以前に、ひまりプロダクションの事務所でもある。むしろ俺は営業で出払っていることが多いから、夕方には日毬が勝手にやってきて、とくに仕事がない日には芸能界について勉強し、一九時前には帰っていく。家に帰ると、一時間ほど剣道の修練をし、食事をして軽く勉強し、二三時には就寝するそうだ。そして朝は六時に起きて、姉の凪紗と軽く朝稽古をするのが日課になっているという。日毬は極めて規則正しい生活を送っている。
俺がカバンを取り出かける用意を整えると、日毬は口にする。
「……颯斗も捨て身で努力してくれているのだな。私も颯斗の期待に応え、死に物狂いで奮闘せねばならない」
「あまり気負い込まなくていいぞ。もっと軽い気持ちで取り組んだ方が、日毬の場合はきっと上手くいくさ」
そう言って、俺は事務所を後にした。
◇
飲み過ぎて、タクシーで帰ってきたときには深夜二時を回っていた。テレビに関わる人間は夜まで仕事をすることが多い。むしろテレビの主役は一九〜二三時あたりまでと言えるから、飲むのも日付を跨ぐ時間帯になることが少なくない。
今日は日毬をCMに出してもらうための根回しだ。もちろん上手くいくかどうかはわからない。今はこのような将来の種を、たくさん並行して育てているところだ。そのなかの数個でもモノになれば、次に繫げていけるだろう。
朦朧としながらネクタイを緩め、ソファに腰かけると、テーブルの上に書き置きがあった。
日毬のものだ。均整のとれた達筆である。日毬の書道は意図して崩して描いたかのような絵画的な鮮やかさを含んでいたが、ペンでの文字は徹頭徹尾、検定教科書を見ているように整っていた。
俺は紙を眺めやり、相好を崩した。たったこれだけの書き置きだが、嬉しいものだ。俺が営業で遅くなることを伝えてあったから、気を遣ってくれているのだろう。
日毬はこういうことが間々あった。こうした古風な儀礼を日毬が自然と身につけているのは、ひとえに家庭での教育の賜物だ。普通の若い人に真似をしろといってもできることではない。俺が高校の頃に同じような思い遣りや礼儀を身につけていたかと振り返れば、まったくできていなかった。今でさえ、日毬には及ばない。
ぼんやりする意識のなか、日毬の書き置きを眺めながら、シャワーは明日浴びようと思った。俺はスーツとワイシャツを脱ぎ捨てて、そのままソファで眠りに落ちた。
◇
七時三〇分に目覚ましに起こされたが、あまりに身体がだるく、八時半にセットし直してもう一眠りした。
次に目覚ましが鳴ってからようやく起き出しシャワーを浴び、昨日脱ぎ捨てたスーツを身につけた。
食パンをかじりながら机に座り、パソコンを立ち上げメールをチェック。ニュース一覧にもザッと目を通したが、とくに新しいことはないようだ。続いて天気予報も確認。
一〇時に溜池山王で営業のアポイントが入っているが、ここからならタクシーで二〇分程度で着ける。俺はカバンに日毬のプロフィールや会社案内を詰め込み、事務所を出てタクシーに乗り込んだ。
◇
一三時を少し過ぎた頃、JR品川駅を降り立った。
次のアポイントは一四時。一時間近く待たなくてはならない。どこかの喫茶店で時間をつぶそうと思い、俺が駅前の店を物色していた時だ。携帯に電話があった。
「もしもし。突然のご連絡恐れ入ります。あの、ひまりプロダクションの織葉社長の携帯でよろしかったでしょうか?」
丁寧な物言いだ。
「ええ、そうです」
「わたくし、東洋テレビの斉藤と申します。ただ今、お電話大丈夫でしょうか?」
「東洋テレビ……? 大丈夫ですよ」
東洋テレビは東京キー局のひとつだ。何事だろうか。そして俺の携帯の番号を知っているのはなぜだろう。
「ありがとうございます。私、東洋テレビが毎週水曜日二三時から一時間にわたって放送している『特捜テレビショー』の制作を担当しています。そこで御社の所属タレントである神楽日毬さんを、次の番組にお呼びできないものかと考えております。ぜひともお打ち合わせをさせて頂ければと思ってお電話差し上げた次第です」
あやうく俺は、携帯を取り落としそうになった。
いきなり日毬が五段階くらいステップアップしてしまったかのような、突然の棚ボタだ。壁をひとっ飛びに乗り越えるこの話に、飛びつかないわけがない!
興奮する気持ちを抑え込み、あらん限りの平常心を総動員し、俺は平静を装って応じる。
「なるほど。いいお話ですね。神楽のスケジュール次第ですが、おそらく大丈夫でしょう。お打ち合わせは早ければ明日には可能ですが、斉藤さんのご予定はいかがですか?」
◇
東洋テレビと明日のアポイントを取り付け、内心で俺はガッツポーズした。飛び上がりそうなほど嬉しい。
俺は目の前の喫茶店に入り、コーヒーを注文して席に着くと、今度は由佳里から電話があった。
「先輩! 東洋テレビから電話、ありました?」
「どうして知ってるんだ?」
「うちに電話があったんですよ。なぜか日毬ちゃんを必死になって探してたみたいで、所属プロダクションはどこだって色んなところに連絡していたみたいです。そのうち蒼通まで連絡が入って、うちの部署までたらい回しされてきたってわけです。きっとどこかで、蒼通を辞めたばかりの先輩が創業した会社だって聞き付けたんじゃないでしょうか。先輩の連絡先を教えておきましたが、良かったですよね?」
「そういうことか。サンキューな。でもさ、どうしてそんなに必死になってんだろうな?」
「さあ……。私も今しがた電話を受けたばかりで、確認まではしなかったですが……」
それから由佳里と二言三言、他愛ない会話を交わして携帯を切った。
営業の合間にメールを確認しておこうと、俺はノートパソコンを立ち上げた。時間はまだまだある。
メールソフトを開くと、どういうわけかメールが殺到していた。ひとつひとつ確認していくと……そのほとんどが取材依頼であった。テレビ局はもちろん、新聞、雑誌社、大手ネットニュースまで……。
――なんだこれは……。
俺は生唾を吞み込んだ。
明らかに異常事態である……。何があったのだろうか。
ひまりプロダクションでは所属タレントも一人だし、大して告知するようなこともないので、まだ会社案内ページは簡単なものしか用意していない。代わりに、ブログ『ひまりのお部屋』には問い合わせフォームを設置してあり、取材や仕事やファンからのメッセージなどが、俺のメールアドレスまで届くようになっていた。
毒気を抜かれた思いでメールを漫然と眺めていると、再び由佳里から携帯に着信があった。
「せせ、先輩! 日毬ちゃんが、Yahoo!のトップニュースになってますよ!」
「はあ? なぜ?」
俺の声は上ずった。
「日毬ちゃんの話題、すごいことになってます! ネット、見る環境にあります?」
「ちょうど今ノートパソコンを立ち上げてるところだ。急いで確認してみる」
「大変ですよこれは!」
由佳里は興奮しているようだった。
携帯を切り、俺はノートパソコンに向かい合う。
Yahoo!を開くと、上部のトピックスに、すぐにそれらしきタイトルを発見した。
――まさか……。
震える指で、俺はタイトルをクリックした。
それは、間違いなく日毬のニュースだった。
過去の雑誌で掲載されたことのある日毬のグラビア写真が並び、それと共に記事が配信されていた。記事の提供元は、大手週刊紙が運営するネットニュースサイトである。
ネットで今、あるグラビアアイドルが話題騒然となっている。
抜群の美貌とスタイルを持つ一六歳、神楽日毬ちゃんだ。
一目でも写真を見ると、誰もがその美しさに驚倒し、魅了されるに違いない。ACの自殺防止キャンペーンにも登場し、幾つかの雑誌で巻頭グラビアを飾り、以前から一部のアイドルファンの間では、彼女の美貌は語り草になっていた。
だが、人並み外れた愛らしい外見に惑わされてはいけない。なんと彼女は、極右団体の主催者でもあるのだ。
昨日の夜間、ネット上のタレント音声配信サイトに彼女の音声が続々とアップされてから、その美声はたちまちネット上を席巻した。ツイッターや各種の掲示板によって拡散し始めた彼女の主張は、今や多くのネット民の関心の的だ。その内容は凄まじい。
「この国難に立ち向かうためには、一時的に民主主義を捨てる勇気を持つことが必要だ。有権者諸君、今こそ我々の手に日本を取り戻す時がきた!」
「私が総帥を務める政治結社日本大志会は、日本の頂点に立つ意志がある。今こそ政治は変革されなくてはならない。自友党にも民政党にもノーを突き付けよ!」
「教育こそ国の根幹だ。左翼に汚染された教師どもを、一人残らず教職から追放せよ! 噓と欺瞞工作を平然と垂れ流す左翼どもは敵だ! コミンテルンの鉄砲玉を排撃せよ!」
だが彼女の音声は、こうした激しい文句ばかりではない。
普通の女の子らしい心が温かくなるような音声まで、たくさん混じっているのだ。このギャップの過激さが、多くの人の興味をかき立てたようである。
「こんにちは! 今日も私は一生懸命頑張ります! いま事務所で芸能界について勉強しているところです!」
「ごちそうさま。お食事のあとには必ずつけようね。感謝の気持ちは大切です」
「神楽日毬は本名なんです。父上と母上が熱心に考えてつけてくれました。私はとても気に入っています」
最初に話題が拡散したときは、彼女が意図してキャラを作っているという評価が主流だった。しかしその後、彼女が主催する右翼団体のページが発見され、どうやらこれは噓偽りない本当の彼女の姿であると考えられるようになっていった。
筆者が総務省に問い合わせたところ、たしかに日本大志会という政治団体は存在したし、彼女が代表者であることも間違いないようだ。設立は一年前で、決して作りっぱなしではなく、きちんと収支報告もなされていた。
また、ブログやツイッターでは、「彼女が街頭演説していたのを実際に見たことがある」という具体的な報告も相次いでいる。目撃されたとされる場所はいずれも、市ヶ谷駅、曙橋駅、牛込柳町駅、若松河田駅などの周辺と、特定地域に偏っており、信憑性が高そうな情報であると考えられる。
彼女が主催する政治団体は危険な極右系として警察にもマークされているという噂すらあり、かなりの猛者であるようだ。
我々は世界初の、「政治系アイドル」が誕生する瞬間を目撃しているのかもしれない。
ひまりのお部屋 http://himari-production.jp/himariblog/
ひまりプロダクション http://himari-production.jp
(記事提供/週刊ウェンズネットニュース)
ネットを見渡せば、日毬の話題一色に染まっていた。
日毬を絶賛する掲示板もあれば、クレイジーとして瞠目する有名ブログもあったし、激しい批判を巻き起こしている言論系サイトもある。そしてどこのネットニュースサイトでも、トップ級で扱われているようだ。
ここで終わればネット上の有名人というだけで終わるのだが……東洋テレビからの連絡や、メールで大手メディアからの取材申込が殺到している現状を見ると、この話題がメジャーに拡散してしまうのは早そうだった。
再び携帯が鳴った。知らない番号だ。
おそるおそる俺は携帯を取り上げる。
「すみません、こちら、ひまりプロダクションの織葉社長の携帯ですか?」
「そうですが……」
自分の声が震えていることを知覚した。
「急にお電話して申し訳ない。テレビ日本の杉村ともうします。『報道ニュース18』の担当をしています。平日の一八時から毎日放送しているニュース番組でして、一八時三五分から五分間、『話題の人』というコーナーを設けています。そこでぜひとも明日のコーナーでは、神楽日毬さんを扱いたいと思っているところです。早速ですが神楽さんにコメントを頂くことはできませんでしょうか?」