大日本サムライガール
第一巻 第二章 ひまりプロダクション
至道流星 Illustration/まごまご
「真正なる右翼は、日本に私ただ一人である!」 目的は政治の頂点、手段はアイドル——。至道流星の本気が迸る、“政治・経済・芸能”エンタテインメント、ここに開幕!!
「なんとか予算内のワンルームだ。しばらく俺もここに住むけど、勘弁してくれな」
俺は初めて日毬を、プロダクション事務所として利用する予定のマンション一室へと案内していた。
部屋を興味津々で眺め回しながら日毬は言う。
「いい事務所だ……。私の政治結社も、早くこのような場所を借りたいものだが……」
俺は銀座の1LDKを引き払い、四谷三丁目のワンルームマンションに引っ越してきていた。銀座は家賃が月一六万八〇〇〇円もしていたが、今度は月七万五〇〇〇円である。
蒼通を辞めても数百万程度の貯金を手元に残しているが、固定給がなくなる以上、高額な家賃は払えない。事務所と自宅を分けて借りる余裕もない。だからプロダクションが軌道に乗るまでは、事務所兼自宅にする予定だった。
二八平米、若干広めのワンルーム。築二〇年。風呂とトイレがセットになっているユニットバス。場所柄、小規模自営業者を対象にしている造りだった。
広めとはいえ、応接用ソファセットと、事務用の机がひとつ、それから書棚とロッカーを幾つか置くのが限界だ。生活感さえ消し去れば、仕事上の来客があっても問題なさそうだった。事務所として使用する以上、ベッドなどは置けないから、寝る場所はソファにすればいいだろう。
四谷三丁目はいささか雑然とした場所で、大手企業は少なく雑居ビルが多い。そのためこの界隈は交通の便がいい割に、家賃が意外と安いのだ。新宿御苑にほど近くて環境はまずまず、買い物も困らない。
何より重要なのは、日毬の家から歩いてこられることだった。徒歩でも一五分ほどで到着できる距離だから、日毬が通いやすいと思ったのだ。芸能事務所はタレントこそが商品であり、何事もタレント優先にすべきである。
一通り部屋を見終わった日毬は俺に熱い視線を向け、感じ入った様子で口にする。
「ここから、私の新しい政治活動が始まるんだ。颯斗に出会ったおかげで、何もかもが上手くいくような気がしている。私にとって颯斗は運命の人だったんだと思う」
恋人に告白でもしているように思われかねない言葉だったが、日毬は心の内をストレートに表現する子であると今ではわかっていた。そんな日毬に慣れてしまえば、裏表がない子だけに、一緒にいてとても居心地がいい。
こんな狭っ苦しい事務所なのに、日毬はひたすら感動しているようだった。
「喜ぶのはまだ早いぞ。上手くいくかどうかは、俺が日毬の仕事を獲ってこられるかどうかにかかってる。あんまり期待されると、プレッシャーになっちまうな」
「す、すまない。颯斗にプレッシャーをかけるつもりは毛頭なかった。私は颯斗を信じているということを伝えたかっただけなんだ……。どうか私のことを見捨てないで欲しい……」
胸の辺りを両手でギュッと握りしめ、切々と日毬は訴えてきた。普段は剛健なのに、日毬はときどき弱々しい少女のような顔を見せる。
「バカ。見捨てるかよ。俺も日毬と同じく、一度決断したことは最後まで貫き通すタチでな。一緒に頑張るって決めただろ。心配するな」
そう言って、日毬の頭にポンと手を置いた。
しばらく日毬は呆然とした表情で俺を見上げていた。やがてハッとした日毬は視線を落とし、はにかんだ。
ちょうどそのとき、チャイムが鳴った。
前に住んでいたようなオートロックではない。玄関の小穴から覗いてみると、由佳里だった。
「よう。早かったな。上がってくれ」
ドアを開けると、荷物を抱えた由佳里はドタドタと部屋に踏み込んでくる。
「ちわーッス。ここですかぁ」
荷物を応接用のテーブルに置き、日毬を見やった由佳里は笑顔を向ける。
「こんにちわ、日毬ちゃん」
「うむ。由佳里も健やかで何よりだ」
「これ、超差し入れです。お父さんから!」
由佳里は持ってきた荷物に手をかざした。
中くらいの寿司桶が三重になっていた。見れば寿司が詰め込まれていて、とても三人で食べきれる量じゃなかった。
「こんなに……。すまんな、ここまでしてもらって……。後でお礼言いにいかないと」
「いいんですって! 先輩はうちの上客なんですから、このくらい当然です。今さっき握ってもらったばかりですよ。電車で持ってくるの、結構大変でした」
いそいそと寿司を広げ、別に買ってきたらしい飲み物を由佳里は取り出していく。
「仕事の話は後にしましょう。さあさあご両人、まずは事務所開きと行こうじゃありませんか!」
ビール二本と麦茶を取り出した由佳里は、麦茶を日毬に差し出す。
「はい、日毬ちゃん」
「ありがとう。恩に着るぞ」
「はい先輩。乾杯しましょ」
「由佳里は仕事中だろ。いいのかよ?」
受け取りながら俺は訊いた。
「今日だけは、仕事中の飲酒は別腹です。部長だって、先輩の事務所開きだったって言えば絶対見逃してくれますから!」
「希望的観測だな。どやされるぞ」
「いいんですって。重要な取引先の事務所開きですよ。この重大極まる仕事に参加しないわけにはいかないじゃないですか」
「つーか、勝手にやってきて、自分で事務所開きおっぱじめようとしてるのは由佳里だろ……」
「新しい仕事を始める前に、ちゃんと関係者一同揃って気勢を上げた方がいいよね、日毬ちゃん?」
「そうだな。私も心機一転、気持ちの切り替えができる。儀式的な行為も時には必要なことだ」
「でしょでしょ」
「ったく……自分の会社みたいに振る舞いやがる。そもそも由佳里は関係者なのかよ……。まぁいいや。また由佳里に乗せられてやろう。オヤジさんのご厚意もあることだしな」
「ささ、そうと決まれば乾杯といきましょう」
由佳里に促され、俺たちは揃って缶の栓を開けた。
俺は日毬に言う。
「乾杯の音頭は日毬にやってもらおうか。うちのスターだからな」
「了解した。その任務、一所懸命に引き受けさせてもらう。やり遂げてみせよう」
日毬はやたらと熱心な表情で、麦茶を片手に一歩進み出た。
「真正なる右翼は、日本に私ただ一人である。諸君、私は国のため戦う。混迷する政府を立て直し、政治に本当の力を取り戻すことが私の使命だ。諸君、私は国のため戦う。日本を再び、世界史上に輝ける国家へと変貌させることが私の人生のすべてである。天子様の臣民にして忠実なる日本国民――神楽日毬が今ここに、我々の政治的前進のための決意を込めて、乾杯の音頭を取り仕切らせて頂く」
とても事務所開きの乾杯とは思えない、凄まじい文言の前ぶりだった。
これにはさすがに由佳里さえ、呆気に取られたようだった。
構わず日毬は缶を掲げる。
「大日本の未来のために……乾杯!」
「かっ、乾杯!」
慌てて由佳里が後に続いた。
俺も缶を掲げる。
「乾杯」
缶を打ち鳴らした俺たちは、飲み物を呷った。
満足げに日毬が言う。
「美味い。祖国の繁栄を誓い合った乾杯の後なら、麦茶でもこれほど美味しく感じるのだな」
「ぷっはー、仕事中のサボりビールは最高ですね!」
由佳里が持ってきた寿司を広げて箸を手渡してきた。
「いただきます」
日毬は両手を合わせて目を瞑り、丁寧に言った。こういう礼儀に日毬は厳格だ。
寿司を摘みながら、由佳里が事務所を見回す。
「ここは事務所兼自宅ってわけですよね。先輩、どこで寝るんですか?」
「そりゃここだよ、ここ」
俺は、今座っているソファを指で示した。
「これ、ただのソファじゃないですか。寝た気になれませんよ。そのうち身体の節々が痛くなることは確実ですね」
「ジジイじゃないんだし、大丈夫だっての。男ならこんなもんで十分だろ」
ふと日毬は気づいたように言う。
「良かったらうちに住んでもいいぞ。女所帯だが、颯斗なら大歓迎だ。ここからも近いし、颯斗と一緒に事務所に出勤できたりすると私も嬉しい」
「それはちょっとな……。日毬は高校だってあるし、一緒に出勤というわけにもいかないだろう。気持ちだけもらっておくよ」
あの厳正極まる家に住むとなれば、毎日気を遣いすぎて、営業どころではなくなってしまうに違いない。
「時々、日毬ちゃんってドキッとするようなことを平気で言うわよね〜。きっと穢れていない証しなのよ。その素直さが羨ましいなぁ……」
ひとしきり羨望の眼差しを日毬に向けた由佳里は、今度は俺を向く。
「ところで先輩、会社の登記はこれからですか?」
「ああ。今日、法務局に登記を出してきたところだ。見せてやる。ちょっと待ってな」
俺は箸を置いて立ち上がり、机に向かった。
「えー、いつの間に? 私も役員ですよね? 会社名とかは!?」
立て続けに由佳里が質問を発したが、それには答えず、机から法務局へ提出した書類のコピーを引っ張り出した。
それをテーブルに広げると、由佳里は興味津々で覗き込む。
「会社名……株式会社ひまりプロダクション……。そのまんまやないかー、って突っ込むべきところですか?」
「何でも良かったんだがな。良い名前が思い浮かばなかったから、会社の目的そのものでいいかなってさ」
「私の名前を付けたのか?」
「ああ。嫌だったか?」
俺が訊くと、日毬はフルフルと首を振った。
由佳里が首をかしげる。
「良い名前だと思いますけど……将来、プロダクションが大きくなったら、日毬ちゃんだけじゃなく、所属タレントさん増えていきますよ?」
「別にいいだろ。日毬から始まったのは事実なんだし。それに、たくさんタレントを所属させるような先のことまでは考えてないよ」
「私がどんどんスカウトして所属させていきますから。……あ! ていうか! まずは私が所属しますから! 昼の顔は蒼通勤務、でも実態はスーパーモデル兼女優ってことでどうです? 蒼通の営業で、自分をCMに売り込んじゃったり」
「うっせ。一人で勝手にやってろ」
提出書類を次々にめくっていった由佳里は、ふと声を上げる。
「私が役員に入ってなーい! 日毬ちゃんもないですよ!」
役員は俺一人だ。そもそも由佳里を役員に入れるなら、ずっと前に声をかけて必要書類に判を押してもらっているだろう。
「あのな……こんなちっぽけで、役員報酬だって出ないような会社の役員になって、嬉しいか? つーか由佳里、それ以前に蒼通の社員だろ。会社に届け出たりするのは面倒だぞ」
「フツーに自分の実家が経営する会社の役員になってる人とか、いますけどね。ひまりプロダクションは個人企業だし、きっちり届け出る必要もないと思いますよ」
「じゃあそのうちな。別に由佳里を参加させたくないわけじゃねえよ。由佳里に何のメリットもないと思っただけさ」
「私のメリットを気にするなんて水くさいですね。私と先輩の仲じゃないですか。先輩、お金の方は大丈夫です? 多少ならお貸ししますよ。本当にちょびっとですけど!」
資本金の額を見やった由佳里は、そんなことを言った。資本金は一〇〇万にしておいた。手持ちのお金の範囲内なら、こんなものは幾らでもいいのだ。
以前、由佳里が指摘していた通り、プロダクション経営に経費なんて何もかからない。せいぜい家賃くらいなものだ。
資本金で足りなくなれば、俺が会社に貸し付ける形にした方が楽でいい。会社の資本金として手持ちのお金を入れると、そのお金の運用状況をきちんと決算で報告しなくてはならない。しかし俺が会社に貸し付けるお金なら、その分は比較的自由に出し入れができる。
なんだかんだで、由佳里も心配してくれているのだろう。もともと言い出しっぺは由佳里である。
黙々と寿司を食べていた日毬が言う。
「このお寿司、本当に美味いな。よほど心を込めて作ってくれたのだろう。食事は常に腹八分目だと心得ているのに、これではつい食べ過ぎてしまうぞ」
「日毬ちゃんも今度、お父さんのお店に食べにきてね。お代は大丈夫だよ、先輩が払ってくれるから!」
「言っとくが、今までみたいに足繁くは通ってやれないぞ」
「由佳里の父上が握ったものなのか?」
日毬は顔を上げた。
「うん。長いこと築地でお寿司屋さんやってるの。そのおかげで築地市場に顔が利いて、その日に一番活きのいいものを優先的に譲ってもらえるんだって。子供のころは私も市場に入り浸りだったなぁ」
「素晴らしい仕事だな。父上は日本人の鑑のような方だ。ぜひとも精進を重ねていってもらいたい」
「このところ景気が悪くて、あんまりお店の状況は良くないらしいけどね。その分、先輩に通ってもらわないと」
俺は肩をすくめる。
「あっちの方に行くことがあったらな。日毬と一緒に寄ってやろう。……つーか由佳里……ちょっと飲み過ぎじゃないか……? 仕事中なこと忘れんな」
「あー、そうですね。ここで一眠りさせてもらってもいいんですが……そろそろ会社に戻らないと」
「酔い醒ましてから戻れよ。と、その前に、今度の仕事の話で来たんだろ。ちゃんとそのことを話していってくれ」
「そうでしたそうでした。これ、撮影のスケジュールです。流れは先輩ならわかると思うんで、書類だけ置いていきますね」
由佳里はバッグから書類を引き抜き、俺に渡してきた。
「了解した。うちのプロダクションとしても初仕事だからな。精一杯やるよ」
再び席を立った俺は、机に置いてあったプロフィールを由佳里に預け渡す。
「それからこれ、日毬のプロフィールだ。暫定的なものだが、持っていってくれ」
日毬と相談して作っておいたプロフィールだ。
貼り付けてある写真は、ひとまずデジカメで撮ったものである。あとできちんとプロに撮影してもらったものを用意するつもりだ。
プロフィールに視線を走らせた由佳里が凝固する。
「……プロポーション、こうして数字で見せられるとショックなんですが……」
「でもさ、もっと良く見えるだろ? 数字を多少は嵩まししようと思ったんだが、日毬が許してくれないんだ」
「学校の健康診断の数字は適切なはずだ。颯斗は誇張しようとしすぎる」
すかさず日毬がそう言った。
「大した誇張でもなかったけどな。みんな修正してるもんだぞ」
日毬のプロフィールのスリーサイズは上から89、58、87と大変立派なものだが、見た目にはもっと良いプロポーションをしているように思える。日毬の身長は一五七センチとあまり高い方ではないため、数字上より良く見えるのだ。水着撮影すれば、かなりのプロポーションに映るだろう。それに一六歳だから、まだ成長の余地もあるに違いない。だから俺は93、58、89と書いていたのだが、日毬の強硬な反対により、正しい数字に修正したのだった。
「日毬ちゃん、本名でやるの?」
「当然だ。芸名など潔くない。私には神楽日毬という素晴らしい名前がある」
日毬は胸を張った。
「芸名にしておいた方がいいって説得したんだけど、どうしても本名で勝負するって言うんだよ。日毬らしいと言えばらしいんだけどさ」
「芸能人が本名だと、あんまり良いことないわよ。タレントでも歌手でも映画監督でも小説家でも画家でも、大半は芸名を使ってるの。批判に晒される職業は、表に出る部分は別人格を用意していた方が無難だと思うけど……」
俺と由佳里の言葉に、日毬は決然と応じる。
「私はあらゆる批判と正面から戦うまでだ。国家を変える大業は、あらゆるものと向き合わなくてはならないのだからな」
「そっかー。結構大変だと思うけどなぁ。……おおっと、これ以上は長居していられません。じゃあこれ、頂戴していきますね」
プロフィールをバッグに詰めながら、由佳里は日毬を向いて口にする。
「来週にはポスターの撮影と、VTRの収録、両方あるからね。日毬ちゃんの記念すべきデビューになるから、頑張って」
「わかった。国防のため死力を尽くそうと思う。任せてほしい」
それから由佳里は慌ただしく会社に戻っていった。結局、ここにはビールを飲みにきただけのようなものだった。仕事の息の抜き方もわかってきたのだろう。
俺と日毬は残った寿司を摘みながら台本の確認をしたりして、事務所開設初日を過ごしたのだった。
◇
「今はこういう肩書きです。今後ともお付き合い頂ければと……」
親しい付き合いのあった防衛省の広報担当者に、俺は新しい名刺を差し出した。以前すでに退職の挨拶はしていたが、プロダクションとしての顔合わせは初めてである。
まじまじと名刺に視線を落としていた担当者は、驚いたように顔を上げた。
「ひまりプロダクション……蒼通から独立って……まさかのプロダクション? えー? ずいぶん思い切ったねー」
「事業を始めようとは思っていたんですが……手近なところから始めてみようかなと。とくにお金もかからないですし」
今日はポスターの撮影と、広報ビデオの収録日だ。俺は日毬のマネージャーとしてここに臨んでいるのである。なにせ日毬の初仕事だ。そして蒼通からは担当者として由佳里がやってきており、カメラマンと共に日毬を囲んであれこれと指示を出している。
予め用意されていた高校のブレザーを着用し、日毬は撮影に臨んでいた。日毬が通っている高校のものではなく、撮影用に用意した架空の学校の制服だ。美少女が防衛を語るという妙なコンセプトだったため、衣装は高校の制服が選ばれたのである。
俺と広報担当者は、撮影の模様を眺めながら会話していた。
モデルや女優のようにポーズを決めたりする必要はない撮影なので、簡単なものだ。企業や商品を買わせるための広報ではなく、お役所の真面目なポスターである。日毬がすることと言えば、せいぜい腰に両手をあてがったり、カメラに軽く笑顔を向けるだけでいい。
日毬はカメラマンの指定通りにきちんと身体を動かしていた。ぎこちないのは、慣れていないからだろう。
ただひとつ問題は、日毬はなかなかニコリとしなかったことだった。ひたすら真面目な顔でカメラを睨んでいるので、ムスッとして見える。日毬は懸命に仕事に集中しているつもりなのだろうが、もう少しいろんな表情を見せてほしい。
「少し笑って」
シャッターを連続できりつつ、カメラマンは言った。
日毬は顔を歪め、笑おうと試みたようだ。しかし真剣になろうとすればするほど日毬の眉間は険しくなり、逆に怒っているようにさえ見えた。
「日毬ちゃん、笑って」
今度はカメラマンの横にいた由佳里が声をかけた。
指定のポーズを守りつつ日毬は何度か瞬きし、大きく息をはき出した。そして熱心にカメラを見据えて口元を動かしたが、目尻はいっそう厳しさを増していた。たぶん微笑もうとしたのだろう。
このままでは良い写真も撮れず、日毬もストレスを溜めるだけだと思ったので、俺は撮影に口をはさむ。
「すみません、ちょっと休憩を入れさせてもらっていいですか?」
「了解です。じゃあ一五分休憩入れましょう」
カメラマンは汗を拭い、うなずいた。撮影スタジオの照明はとても暑い。日毬も大変だろうが、必死で動いて撮影するカメラマンは照明に照らされ汗だくになるのである。
俺は日毬の傍へ行き、手を取って引っ張った。
「颯斗、どこへ行くんだ?」
「屋上でも行こう。コーヒー飲もうか」
スタジオを出て、エレベータ横に設置してある自販機で俺はコーヒーを二缶買った。そのままエレベータに乗り込み、日毬と共に屋上へと上がった。
撮影スタジオの屋上から眺める景色はビルに囲まれ、殺風景なものだった。見えるのは隣のビルのコンクリートばかり。
俺は缶を日毬に差し出す。
「ほら、コーヒー」
「ありがとう」
「見てて思うよ。日毬は本当に一生懸命にやってるな。カメラマンのポーズの指定にも誠実に応えてる。初めて撮影やってみた感想はどうだ?」
コーヒーを口にしながら、それとなく俺は訊いてみた。
「最初にカメラを向けられた時は、やっぱり緊張した。でも、すぐに慣れたと思う。……街頭演説もそうなんだ。毎日、最初はとても緊張する。逃げ出したくなる日もあったんだ。でもそこでグッと耐え忍んで、頑張ってしゃべり出すと、いつの間にか緊張は和らいでくれる。撮影も、やってみればおんなじだった」
「そうか。街頭演説も無駄じゃなかったということだな。これから日毬を売り出すために、色んな場所で、色んな服を着て撮影をやってもらうことになるけど、大丈夫そうだな?」
「きっと大丈夫だと思う。颯斗も傍にいてくれるなら……」
日毬は小さくつぶやいた。
俺は、日毬は街頭活動が好きなのだろうと安易に考えていた。だがそれはまったく違っていたらしい。日毬が演説を続けるのを苦しく思っていたなんて、まったく思っていなかったのだ。
思い返せば日毬は、「拡さんが一緒だったから辛いことも乗り越えてこれた」と言っていた。愛用の拡声器をパートナーに見立て、自らを奮い立たせる力に変えていたのだろう。その役目を、今度は俺に求めているのだ。ならば、俺はその役目を果たしてやらねばならない。
「撮影だって肩肘張らずに、もっと自然体でいいんだぞ。カメラに対して軽く微笑む程度でいい。真面目に笑顔を作ろうとすると、どうしても緊張しちゃうからな」
「あんまり経験ないんだ。いつも真剣に生きようと心していたから……」
微笑むのに経験とか、そういう問題なのだろうか。
さらに俺は突っ込んでみる。
「近所の弁当屋でバイトしてたんだろう? そのとき、お客さんに笑顔で対応したりしなかったのか?」
「最初は売り子を任されたんだけど……接客は向いていないって言われて、料理や仕出しを担当するようになったんだ。その時は、どうして売り子に向いていないのかわからなかったが、たぶん私は、自然体というのができないのだろうな……」
そうか……二四時間いつでも命懸け。それが日毬の生き方なのだ。常時緊張に身を固めているのなら、自然体も何もない。
この子にもっと息を抜いてもらい、普通の女の子がするような自然な表情を引き出すには、どうすればいいだろうか。
「日毬、どこか行ってみたいところとか、あるか?」
「……行ってみたいところ? どうしたんだ急に」
「連れて行ってやろうと思ってさ。仕事のご褒美にな」
「颯斗が、私と一緒に行ってくれるのか?」
「もちろん。俺たちはパートナーだからな」
日毬は相好を崩し、表情はパッと輝いた。期待に胸を膨らませるように、俺を見上げている。
そう、欲しかったのはこういう表情だ。
「ならば、京都に行きたい」
「京都か。ずいぶん渋い選択だ。日帰りじゃ無理そうだな」
「一度、京都御所を訪問するべきだと思っていたのだ。五四〇年もの間、朝廷が存在した場所だ。今でこそ旧江戸城をご使用になられていらっしゃるが、臣民として一度は足を運ぶべき場所だろう。颯斗と一緒に行ってみたいんだ」
俺は頭を抱えた。
日本国民として皇室を敬うことは大切に違いないが、あくまでそれは自然体で受け入れておけばいいことだ。日常生活において最優先し、積極的に日々の行動を規定していくべきものでもない。
それを日毬に説いても議論は堂々巡りになると思えたので、今度は俺から指定してみることにした。
「京都にはいずれ訪問してみよう。でもさ、泊まりがけの旅行になっちゃうから、今すぐってわけにはいかない。だからまずは一緒に映画でも見に行って、その帰りに公園で散歩したり、食事を食べたりして丸一日ゆっくり過ごすってのはどうだ? 新宿とか渋谷とか、銀座や丸の内でもいい」
「……映、画?」
日毬は息を吞んだ。完全に不意をつかれたようだった。
「真っ暗い館内で、大画面を通して映像を見るところだ」
「そのくらい知ってる。でも、何しに行くんだ……?」
「そりゃ一緒に映画を見に行って一日過ごすって言えば、もちろんデートだろ。申し込んじゃいけないか?」
「……」
目を見開いた日毬は、肩を緊張させ、大きく息を吸いこんだ。
「そんなに格式張る必要はないんだぞ。たまには気楽に過ごしてみようぜって提案さ」
「……」
日毬は視線も動かさず、まじまじと俺を見上げていた。意表をつかれて凝固したようだ。
「俺とじゃ……嫌か?」
日毬は言葉で応えなかったが、代わりにフルフルと首を振った。
「じゃあ決まりだ。今は創業したばかりでバタバタしてるから、今月末の日曜に一緒に行こう。日毬のスケジュール、予約したからな」
コクリ、と日毬はうなずいた。
そして視線を落とし、はにかんだ。こういう自然な笑顔ができるなら、撮影はきっと上手くいくはずだ。日毬にとって、デートの申込は初めてのことなのだろう。
「日毬、今みたいな表情はすごくいい。カメラの前で微笑むってのは、そういう自然な笑顔が一番だぞ。撮影の間中、他の楽しいことを考えてりゃいいんだ」
視線を上げた日毬は、小さくうなずいた。
「こんな美少女とデートできるなんて、物凄く俺はラッキーだ。日毬と並んで歩いてたら、男たちの嫉妬を買いまくるのは間違いないな」
俺がホッとしたのも束の間、ふいに日毬の表情が曇る。
「……で、でもやっぱり、私は行けない……。颯斗がそう言ってくれるのはとても嬉しいけど……やっぱり……」
「どうして?」
日毬は視線をそらす。
「私は、ダメなんだ……」
「ダメなんてダメだ。もう予約は終わってるんだからな。この予約は、キャンセルは不可能なんだぞ」
強い調子で俺は言った。
それでも日毬は躊躇する。
「でも……」
「まさか日毬ともあろう者が、今したばかりの約束を破るのか?」
日毬は哀しげな視線を俺に向ける。
「私……あんまり洋服、持っていないんだ。ほとんど制服しか着ていなかったし、あとは稽古着とか……そんなの、考えたことなかったから……」
日毬の悩みが微笑ましい理由だったので、俺は心底ホッとした。
「そんなことだったか。じゃあ一緒に買いに行こう」
「一緒にデートする男の人と、その日に着ていく服を選ぶなんて……考えれば考えるほど情けなくなる……。私は本当にどうしようもないのだな……精進しなくてはならない……」
日毬の悩みがいっそう深まり始めたため、俺は慌てて方向を変える。
「そうだ、由佳里に付き合ってもらったらどうだ? 次の日曜は由佳里と服を買いに行って、今月末は俺と映画だ。それならいいだろう?」
日毬は視線を上げた。
わずかに逡巡した様子を見せつつも、日毬は言う。
「由佳里が付き合ってくれるなら……」
「よし。決まりだ。今度こそ、予約に変更なしだぞ」
「……うん」
日毬は視線をそらし、喜びと戸惑いが入り混じったような表情をした。
「撮影のときは、今みたいに楽しいことを考えてりゃいい。日毬は真面目すぎて、気難しく考えすぎなんだ。もっと軽い気持ちでいいんだぞ」
「……わかった」
「そろそろ休憩時間も終わりだ。行こうか」
腕時計に視線を落とした俺は、日毬を促した。
「颯斗……。私、うんと頑張るから……だから傍についていてくれ……」
日毬は顔を伏せつつ、切々とそう口にした。
◇
その後、ポスター用の撮影はスムーズに進んでいった。
日毬はずいぶんリラックスしてくれたようで、カメラに自然な笑顔を向けることができていた。
由佳里が近づいてきて言う。
「先輩。日毬ちゃん、休憩をはさんだら人が変わったみたいですよ。どんな魔法を使ったんです?」
「大した話はしていない。自然体でいいんだって教えただけさ」
「ふぅん。それだけじゃない気がしますが。女のカンってヤツです」
「そうそう、次の日曜、空いてるか?」
「えっ、日曜? 予定ありましたけど、空けますよ! すっごい勢いで空けますから! 東京ジョイポリスに新しいアトラクションができたんで、行ってみたいなぁって」
「悪い。そうじゃないんだ。いや、それなら別の日に付き合ってもいいけどさ……日曜は、日毬の買い物に付き合ってやってくれないか?」
「日毬ちゃんの、買い物?」
「今月末に日毬と映画に行く約束をしたんだけど、着ていく服が欲しいそうだ。それ以外にも、普段着を色々選んでやってくれないか」
そう言って俺は財布を開き、中身をチェックした。札を数えると七万二千円。
ひとまず七万円を抜き出して由佳里に手渡した。
「色々買うには足りないな。後で払うから、悪いけど立て替えておいてくれないか。ひまりプロダクションで領収書、もらっておいてくれ」
由佳里はもぎ取るように札を受け取り、舌打ちする。
「ちぇっ。はいはいわかりました。日毬ちゃんには、うんと可愛らしいお洋服を買って差し上げます。期待した私がバカでした!」
「なんだよ、俺なんぞと休日にテーマパークに行っても仕方ないだろう。由佳里は色々とハイレベルなんだから、相応しい連中を捕まえとけ」
由佳里は、俺といると気楽なだけだ。俺も由佳里とは何でも話せる仲だし、一緒にいると安心する。しかし、休日にデートをしたりする関係でもない。由佳里はまだ二三歳なんだから、今のうちから気安さに逃避するより、もっとアグレッシブに交友関係を広げておいた方がいい。
「そうですね。先輩なんて、所詮は明日潰れても不思議じゃない零細企業のド貧乏自営業者ですもんね! 私にとって、アウトオブ眼中な存在ですよ! もう目に入らないくらいの底辺です! 可哀想!」
つっけんどんに由佳里が言った。
正鵠を得た表現だったので、俺は思わず苦笑いする。
「まったくその通りだ。せいぜい、倒産しないように頑張るよ」
◇
ポスター用の写真撮影から、舞台を移して広報VTRの収録に入っていた。
制作会社のスタッフが、台本を前にして机に腰かける日毬に指示を飛ばす。
「次のシーンでは、本年度の予算科目表を読み上げるときに……そう、そこを指差してもらえる? そこにCGで数字が表示される予定だから。準備いい?」
「了解した。ここでいいのだな?」
日毬が応じ、スタッフが同意する。
「そうそう。じゃあ行くよ。はい、スタート」
「みなさん、今年度の防衛省の予算の概要を知っていますか? 防衛問題は国の根幹、国民として常に関心を持って――」
台本を読み上げていく日毬を横目に、俺と由佳里は、防衛省の担当者と話し込んでいた。
担当者が感心したように言う。
「めちゃくちゃ可愛いし、頭も良い子だね。指示を一度も違えない。台本もスラスラだ。丸暗記でもしてきたのかね? いいスタッフィングだよ」
「ありがとうございます。そう仰って頂くと、仕事のし甲斐がありました」
俺が礼を言い、由佳里も続く。
「来年以降も、ぜひよろしくお願いします」
「このコンセプトで今後もいけるかどうか、今回の評判を見てからだけど……できれば、毎年これでやっていきたいねー。司会はこの子でいいんじゃないかな」
俺と由佳里は顔を見合わせて頷き合った。
上々の反応だ。人選に間違いはなかったということである。
日毬の声はスタジオ内に朗々と響く。
「さてここで、上半期における歳出歳入予算を見ていきましょう。こちらの表に示す通り――」
演説慣れしているからだろうか、トーンは明快で聞き取りやすく、澄み渡った良い声だ。これなら、歌を歌わせても上々の成果を収められるかもしれない。
それから滞りなく、予定通りに撮影を済ませることができた。初仕事の割に、なかなかの出来だと思う。
担当者やスタッフらへの挨拶を済ませた俺と由佳里は、撮影を終えた日毬の許へ近づいた。
俺と由佳里がそれぞれ声をかける。
「初仕事、おつかれさん。上出来だぞ」
「おつかれさま、日毬ちゃん。やってみて、どうだった?」
「ポスター撮影より、広報ビデオの方がずっと面白かったぞ。やはり主張すべきことがあるといい。台本通りであってもだ。もちろん私と主張を違える台本ならやりたくないが、自衛隊なら大歓迎だ」
わずかに日毬は上気しているようだ。一仕事終えた達成感があるのだろう。
「広報担当や制作会社スタッフの反応も、ずいぶん良かったぞ。本当に一生懸命だから、俺もやりがいがあるよ。さて、初仕事をこなしたお祝いに、軽くメシでも食べに行こう。もちろん俺の奢りだ」
「やった。便乗〜」
なぜか由佳里がガッツポーズした。
「日毬は、肉と魚ならどっちがいい? 好きな方でお祝いしよう」
「日本人なら、お魚一択だろう。肉は好かん。口にしないわけじゃないが、積極的に食べるものでもない。お魚は毎日でも食べるべきだ」
そう言った日毬の顔に、由佳里が羨ましげな眼差しを向ける。
「だから日毬ちゃんのお肌は輝いてるのね……。最近、接待では焼き肉が多いのよ……」
「決まりだ。じゃあ由佳里の家にでも行くか。その辺でタクシー捕まえよう」
それから俺たちは荷物を手に、スタジオを後にしたのだった。
◇
翌日から早速、俺は営業活動を始めていた。
現状、ひまりプロダクションの所属タレントは日毬だけ。日毬の写真やらプロフィールを持って、関係しそうな会社を回るのだ。
まずは蒼通時代に付き合いのあったところに、挨拶もかねて顔を出すのが先決だ。
たまに仕事で出入りしていた雑誌の編集長のところに、俺は挨拶と称して押しかけていた。
渡した名刺を眺めながら、編集長は興味深げに口にする。
「風の噂に聞いたよー、織葉くーん。蒼通辞めて、プロダクション始めたんだって?」
どんな業界でも、狭い関係者の間では、噂が駆け巡るのは早いものだ。しかも天下の蒼通を辞め、タレント商売を始めるなど、酒の席での話題には最適なものだろう。
「ええ、一から始めてみます。ぜひ今後ともよろしくお願いできればと」
「しかし驚いたね。いずれ君は、蒼通で偉くなるもんだと確信してたからさぁ。なんかトラブルでもあったの? 変な話は聞かなかったけど」
「自分の力で一からやり直してみようと思っただけです。離職は急に決めたことでして――」
それから俺は、今まで幾度も繰り返してきた説明を始めた。
大抵の相手がしてくる質問は同じだ。こっちとしては手間になって面倒だが、一同を集めて説明するようなことでもない。
一通り俺の経緯を聞き終えた編集長は、訝しげに俺を見やってくる。
「で、どんな子?」
「こちらです。まだ所属タレントは一人ですが……」
俺はプロフィールを差し出した。
「お! 可愛いねー。正直あまり期待してなかったんだけど、この子はいいんじゃないかな」
プロフィールに視線を走らせながら、編集長はつぶやく。
「特技は剣道ね。硬派だなぁ」
しばらく当たり障りない会話が続き、二〇分ほどして編集長は時計を見やった。
「校了間近で忙しくてね。プロフィールは預かるから、期待しないで待っててよ。そのうち関係しそうな話があったらね」
投げ遣りにプロフィールを受け取った編集長は、席を立った。
そして俺は最後に軽く礼を言い、編集部を後にした。
あの様子だと、編集長は特に何もしてくれそうにない。取引先の元担当者だったからという義理だけで、ひとまず話を聞いてくれただけだ。
俺はビルの外に出て、ため息をついた。もちろん予想はしていたが、ハードルはかなり高そうだ。
この雑誌は、蒼通の俺の事業部が広告枠を押さえ、毎月一定額の広告料を蒼通が支払っていた先である。言わば編集長から見れば、蒼通は仕事を発注してくれる大事なお客様であって、蒼通社員には丁重に対応しなくてはならない。しかし今回の俺の立場はまったく逆で、俺が編集部に仕事をお願いするというわけである。
駅への道を歩きながら、立場が変わると、こうも状況が一変してしまうことに、しばし俺は愕然としたのだった。いかに蒼通時代が天国のような環境だったのか、改めて実感させられる。
とはいえ、こんな程度で俺も諦めるわけにはいかない。懸命な日毬のためにも努力してやらねばならないし、オヤジにバカにされたままでは終われないからだ。俺はなんとしてでも、自力で地盤を築き上げてみせなくてはならない。
それから数日、俺は足を棒にして昔の関係者に顔を出して回った。
学生時代の交友関係のなかから、マスコミや出版関係に就職している旧友が数名いたので、彼らに声をかけたりもした。しかしまだみんな若いこともあり、それほど社内で力を持っていないので、良い条件で話を通すことも難しい。
そうして手にした成果と言えば、ほとんどお金にならないような案件を幾つか紹介されただけだ。相手としては、どのプロダクションに発注してもいいような小さな仕事で、出演料も交通費しか支給されないようなものばかりである。
しかしたとえ無収入でも、これらの中から幾つか、将来に繫がる可能性のあるものを選び出し、地道に受注していくしかなさそうだった。
怪しげな懸賞広告のモデルなどの筋の悪い案件は、すべてスルーだ。まずはカジュアル衣装のモデルなど、イメージの良いものだけを受注して、日毬の経歴を積み重ねていくことが必要だった。
◇
日毬は、平日昼は大人しく学校に通い、放課後は街頭演説をせずに出社してくるようになった。弁当屋でのバイトも辞め、政治結社としての活動も控え目にしたそうである。
また、日毬は土日祝祭日にボランティア活動をしているそうで、それは仕事の状況に合わせて臨機応変に取り組むことになった。日毬が所属しているボランティア団体は、児童養護施設に入所している子供たちに対して学習指導をしたり、さまざまな行事を催して子供たちを支援しているところだった。日毬はその活動を細々とでも続けていきたいという意向で、できるだけ休日の予定は入れないようにする方針を立てた。
日毬は努力家だ。仕事がなくても、平日は学校が終わると事務所にやってきて、俺が買い揃えたタレント関連の書籍を読み込んだり、大手モデルエージェンシーが毎年発行している所属モデル名鑑を隅から隅まで眺めたりと、業界のことを少しでも知ろうと懸命だった。
幾つかの営業先に電話をかけ終わった俺は、ちょこんとソファに座ってモデル名鑑を眺めていた日毬に声をかける。
「日毬。一定期間、タレントの養成学校に通ってもらおうと思ってる。考え方とか、歌やダンスなんかを学ぶことができるはずだ」
やたらと分厚い名鑑から、日毬は視線を上げる。
「そんな学校があるのか?」
「幾つかある。普通はこんなところに通ったからといって、プロダクションにスカウトされたり、タレントになれるわけじゃない。こういう類の学校は、芸能界に憧れる連中からお金を吸い上げるビジネスだ。それでも、基礎的な指導は行ってくれる。日毬の場合、すでにタレント活動をしているわけだから順序は逆だが、吸収できることはあるだろう」
日毬が説明を吞み込んだのを確認し、俺は続ける。
「それから、歌やダンスの専属教師を付けることも検討してる。もう少し日毬の適性を検討してみて、営業の進行と合わせていろいろ試してみるつもりだ」
「わかった。最善を尽くそうと思う」
日毬はモデル名鑑に再び視線を落とし、口にする。
「しかしこうして見ると、みんな自信に満ちた顔ばかりに見える。本当に私が戦えるのだろうか……」
「でもさ、よくよく見れば、大して美人がいるわけでもないだろう? その辺を普通に歩いているようなレベルの子ばかりさ」
はっきり言って、掲載されている子の大半は、特筆すべきほど可愛いわけではない。ごく普通の子ばかりである。このなかに日毬が並べばすぐに一目置かれるだろう。
かと言って、ずば抜けて美人だから売れるわけでもないのが芸能界である。もっともこれは、芸能界に限らず、あらゆるコンテンツビジネスに共通する不思議な現実だ。
「そうなんだろうか……私には美人が多いように見えるが……」
「そんなことはまったくない。ポーズを決めているから堂々として見えるだけさ。日毬は自分がどれほどの美貌の持ち主か、まだ自己認識できていないだけだ。……たとえば、その名鑑には五〇〇人を超えるタレントが掲載されている。だが、そのうちまともに仕事があるのは、上位の数名だけなんだ。九八%は、ただ掲載されているだけ」
「みんな仕事があるから載っているわけじゃないのか?」
不思議そうに日毬は訊いてきた。
「そこに自分を掲載するにはお金を払わなくちゃならないんだ。大きく一ページ使って掲載されるためには四〇万円、小さな写真とプロフィールが掲載されるだけなら一〇万円という具合にな。要は、掲載されているモデルが、自分でお金を払ってる」
「ど、どういうことなんだ?」
日毬は目を白黒させた。
「その所属タレント名鑑自体が、ひとつのビジネスなんだ。掲載されてる女の子たちから集金すれば、プロダクションは濡れ手に粟で稼げるだろう。名前の通った大手プロダクションだからこそできるビジネスモデルだな」
「その理屈はわかるが、どうして女の子たちがお金を出すのだろうか。だって仕事もないのだろう?」
「そりゃ簡単な話だ。誇らしい想い出にもなるだろう。自分が大手モデルエージェンシーに所属したタレントだったんだっていうな。四〇万円でそういう過去の事実を作れるのなら、あんがい悪くないのかもしれない。たとえ一度も仕事が入らなかったとしても、モデルとして活動した記録はまったくのデマじゃないからな。日毬には実感が持てないかもしれないが、そういうことで喜ぶ女の子は意外と多いものだ。この名鑑は、生涯の宝物になるんじゃないか」
俺は机を立ち、日毬が座るソファに相対して腰かけた。
首をふって日毬はつぶやく。
「私にはわからない。だが、すごいところなのだな……芸能界というのは……」
「そのなかから、たまたま運を摑んでメジャーにのし上がる子だっていないわけじゃない。その辺はもう誰にも予測できないし、本人の努力だけでなんとかなる世界でもない。幾つか重要な要素はあるが、極めて政治的な世界でもある。美人だとかスタイルが抜群だとか、それはたしかに重要な要素だが、必須というわけでもない。これから日毬が大政治家を目指していくにあたって、通じる部分も多いはずだ」
日毬は図抜けた美貌の持ち主ではあったが、それは成功に直結しない。普通の子でも売れることが多々あるのが芸能界というところである。
タレントが売れるために一番重要なものは、「パワーのある芸能プロダクションが、本気でそのタレントを売り出そうと思うこと」だろう。これがすべてと言っても過言ではないほど圧倒的なことだ。これさえあれば、女の子の美貌の良し悪しにかかわらず手堅く売れる。
次点として、「運」「時流」「タイミング」も必要だし、「本人の努力」というのも不可欠なことだ。しかしプロダクションの意志ほどには重要なことでもない。「美貌」や「スタイル」は、その後に続く要素だろう。
ひまりプロダクションは創業したばかりでパワーには乏しいが、それでも日毬一人を脇目も振らずに売っていこうとしている分だけ可能性はあるはずだった。大半のタレントは、所属しているプロダクションから見向きもされていないのだから。大手だろうと中小だろうと、売り込みを担当する営業には限りがあるし、全タレントに等しく力を分散するわけもない。何らかの要素を見出した上位数パーセントを集中して売り込むだけである。
よく芸能界を扱った漫画・映画・小説・ゲームなどで、最初の段階から、無名のヒロインにオーラがあるような扱いになっていることがある。そのオーラに周りは徐々に感化され、動かされ、ヒロインたちがスターダムにのし上がっていくというストーリーだ。だが、物語を物語たらしめるために、やむを得ずそういう設定にしているだけである。
最初に誰の目にも明らかなのは、そのタレントの「美貌」と「スタイル」だけだ。その両方とも、日毬は完璧に兼ね備えている。だがそれは絶対不可欠な条件ではなく、プロダクションの力や運によって道が切り開かれてゆく。オーラなど、有名になった後からついてくるものにすぎない。
経営者でも政治家でも芸能人でも、オーラを放っているのは成功している者だけだ。人々は、「あの人はテレビで有名」とか「著名な賞を受賞した人」という事実を通して、権威というオーラを感じるわけである。そして大多数の一般大衆は権威に弱いから、オーラを感じる相手に声援を送ったり、嫉妬したりするのである。
権威を屁とも思わない者には、オーラなど感じられない。有名人がいても、そこに群がる大衆に冷ややかな視線を送り、自分は素通りするだけだ。
たとえば身近なところで言えば、俺のオヤジもオーラを放っている。しかも圧倒的なレベルで。子供の頃から俺は、そのオーラに晒され、四苦八苦してきたのだ。だがその威光は、東王印刷や織葉家の財産、元経団連会長という肩書きなどを体現したものであって、決してオヤジ個人が放っていたものではない。仮にオヤジがただの貧乏な中年の身分であったとしたら、頭の中身がまったく同じでも、オーラを放つことなどありえないことだ。
現時点、明確なのは日毬の美貌とスタイルだけ。これは今売れているどんなタレントと比較しても負けない自信がある。その上で、これから日毬が売れてくるために必要なことは、俺の努力と、運と時流だけである。やれることはすべてやりつつ、時が巡ってくるのを天に祈るしかない。
◇
防衛省に次ぎ、二本目の日毬の仕事は中堅ティーンズ雑誌『エイティーン』の撮影だった。かなり無理をして営業でねじ込んだ先で、まったく新規で営業した編集部だった。昔のツテをたどってゴタゴタやるより、まっさらなところで営業した方が早い場合も多いということだろう。
出版社のスタジオに日毬を連れ、時間通りに到着すると、すでに数多くの女の子がいた。
ちょうどスタジオの中央で撮影中のタレントを俺は指差す。
「ほら、今撮影してる子――片桐杏奈だ。知ってるか?」
直接こうして見ると、やはり可愛い子だ。その美形には定評があるが、彼女の自然な仕草やポーズが可愛らしく、どことなく印象に残り、そこにいるだけで人々を魅了するタレントだった。
「最近、事務所で勉強したから知ってるぞ。大手タレント事務所、西プロダクション所属のアイドルだろう? 雑誌やテレビに引っ張りだこのようだな」
ほとんどテレビを見ない日毬も、雑誌や本で勉強を重ねているらしい。この世界で活動するなら、有名タレントの名前くらいは知っておかないと失礼になってしまう。
「一八歳の高校三年生、国民的アイドルの一人だ。デビュー後わずか半年で、一気にスターダムにのし上がった。同時に三本のメジャーCMに出演してゴールデンタイムに何度も登場、同時期に主演をこなした映画も好成績、その映画用に歌った主題歌までヒットし、話題をかっさらったんだ。……まぁ西プロダクションは曲がりなりにも上場企業で、力のあるところだからな。プッシュするタレントを一人に絞り込めば、そういう力業ができるってことさ」
「そうなのか。プロダクションの力が重要だと颯斗が言っていた意味が、わかった気がするぞ」
杏奈の撮影は続いていた。彼女は雑誌『エイティーン』の看板モデルでもあり、雑誌を売るためにもっとも重要な柱にもなっている。
撮影に向かう杏奈は堂々としていて、洗練されていた。熟練の技と言ってもいいほどで、日毬にも参考になるはずだ。
真剣な面持ちで杏奈を見やっていた日毬に言う。
「だがな、西プロダクションには一〇〇人以上の所属タレント、数十人の所属アイドルがいる。皆、たくさんの志望者のなかから勝ち残ってきた女の子たちだ。そのなかで、どういう政治原理が働いたのか知らないが、彼女だけが選ばれてプッシュされた。片桐杏奈には、他の子にはない魅力があったんだろう」
「大手プロダクションに所属できても、その後の競争はもっと激しいものなのだな」
「だから安易に大手プロダクションに所属すれば勝ちってわけでもない。プロダクションの大小よりも、経営側が本気で売り出そうと思ってくれるかどうかが、実は一番重要な要素かもしれない」
「そういう意味では、私は恵まれているということかもしれないな。颯斗が全力でやってくれている」
日毬は俺を見上げて微笑んだ。
俺はうなずく。
「頑張るよ。精一杯な」
ちょうどそのとき、杏奈の撮影が終わったようだった。
「杏奈ちゃん、おつかれさま!」
「おつかれー!」
「ごくろうさん!」
周りのスタッフがねぎらいの言葉をかけると、杏奈も明るく挨拶する。
「おつかれでーす! どうもでしたー!」
そして杏奈はスタッフたちに手を振って、トコトコとドアの方へとやってきた。分刻みでスケジュールが埋まっている彼女は、もう次の予定に向かおうとしているのだろう。
杏奈とすれ違うとき、挨拶をしないわけにもいかないので、俺は声をかける。
「こんにちは。新人アイドルの神楽日毬です。今後、この現場で仕事しますので、よろしくしてやってください」
「うむ。よろしくお願いする」
日毬もいつも通りだ。
ふと立ち止まった杏奈は、まじまじと日毬を眺めやる。
「……神楽、日毬ちゃん? かわいーい! 何歳なの?」
「一六歳になったばかりだ」
日毬が即答すると、杏奈は目を輝かせる。
「一六歳!? えー、ホントに!? もう胸とか私ぜんぜん負けてるし」
いかにも女子高生といった風に杏奈ははしゃいだ。
この業界では、杏奈は話し好きとして有名だった。だが、彼女が話し出すと独演会のようになってしまうため、逆にトーク番組に出すことは御法度になっていると風の噂で聞いたほどである。
「ちょっと触ってみていい?」
杏奈はそう訊きながらも、日毬の返事すら待たずに胸に手をやった。
「あっ……」
日毬は可愛らしい声を上げ、胸を両手で覆い隠すようにしながら目を白黒させる。
「なっ、何をする!?」
「本物だ……。パットじゃない……。本物だよこの子……。この可愛さでこの胸とか反則……ホントに新人さん? うーん……ぜったい売れると思うなぁ。日毬ちゃんならグラビアで一撃でしょ。うんうん、いけるって、超いけるよ」
アゴに手を当てて考える格好をしながら杏奈は言った。言葉や仕草には嫌味がなく、不思議な愛嬌がある。
そのとき後ろのドアが開き、男が声をかけてくる。
「杏奈、何してるんだ。次の現場に向かわないと間に合わないぞ」
マネージャーだろう。
俺が言葉をかける。
「引き留めてしまってすみません。前を通り過ぎたもので、一言ご挨拶したかっただけなんです」
「あっ、そうでしたか。杏奈は放っておくと誰彼かまわず話し続けるタチなんで……。どうも、西プロダクションの森です」
それから森と俺はお互い名刺を取り出し、挨拶を交わした。
しげしげと俺と日毬を見やっていた森は口にする。
「ひまりプロダクション……? お初に聞く名前ですね。……ていうか、可愛い子じゃないですか」
「でしょでしょー? ちょっと嫉妬しちゃうよねー。この胸とかに」
杏奈は日毬の後ろに回り込み、突然、胸に手を回してわしづかみにした。
「やめっ……あんっ。ぶ、無礼者!」
日毬は真っ赤になって怒り、杏奈の手を振りほどいて、胸を守るように両腕で覆った。日毬の手は震えていた。
マネージャーも杏奈に向けて声を上げる。
「こらっ、杏奈! 迷惑だろう! ほら、行くぞ」
そして俺と日毬を交互に見やったマネージャーは頭を下げてきた。
「誠に申し訳ございません……。今後ともよしなに……」
「じゃーねー、日毬ちゃん! またお話ししよ!」
杏奈は何度も手を振り、マネージャーに引っ張られながらスタジオを後にしていった。
まだ胸を押さえたままの日毬は、ポツリとつぶやく。
「生まれて初めてだ……。姉上にも触られたことなんてないぞ……。大敗を喫した気分がするのはどうしてだ……」
「あれが彼女の素か。噂に違わずだ。むしろテレビや雑誌に登場するときの方が、かなりテンション抑えてあるんだな」
「芸能界とは恐ろしいところだ……。あんなタレントが跋扈しているなんて……」
「片桐杏奈は特異な存在だよ。あれが普通だとは思わない方がいい。アイドルデビューを果たしたって、あそこまで売れるのは一〇〇人に一人に満たない狭き門、ほんの一握りだ。たしかに頭一つ抜けた美人だが、それだけじゃない。運を引き寄せる何かが、彼女にはあるんだろう。……とにかく、彼女の撮影風景は参考になったろ? 最初はあんなに堂々とできないけど、慣れだからな」
俺の言葉に、日毬は苦々しい面持ちでうなずいた。杏奈との出会いが、日毬にはよほどショックだったようだ。
そのあと俺は、担当の編集のところへ日毬を連れて挨拶にいった。
「どうも、ひまりプロダクションです。今回はありがとうございます」
「ありがとう。恩に着るぞ」
日毬も丁寧に頭を下げた。
「ああ、どうも。じゃあ早速ですが撮影に入りましょうか。ええと、神楽……日毬ちゃんでしたっけ。ふうむ……実物は写真よりずっと可愛らしいですね……」
感心したように編集者は日毬を見やり、続ける。
「新発売するジーンズの撮影に参加してもらいますんで、まずはこれ、着てください。それとトップスはこれ固定ね。更衣室はあそこ。着替えたら、ここに並んで待っていて下さい」
日毬は渡されたトップスとジーンズを持ち、更衣室へと向かった。
撮影スタジオはとにかくフル回転で、ゆっくり挨拶している暇もない。『エイティーン』は毎月発売しているが、そのための撮影は膨大だ。流れ作業で撮影をこなしていくことになる。
片桐杏奈は雑誌の看板モデルであり、トップアイドルだから、彼女がスタジオ入りしているときは、撮影も彼女を中心に回る。しかしその他一般のタレントたちの撮影のときは、もう完全に工場でベルトコンベアーに乗せるような作業だといっていい。
ティーンズ誌は多種多様な種類のカジュアル衣料を雑誌に掲載しなくてはならないため、さまざまなモデルの需要がある。それなりの容姿を持つ女の子であれば仕事は幾らでもあった。しかし一部の看板モデルを除外すれば、軽い扱いのモデルにはほとんどギャラは出ない。申し訳程度に交通費のようなものが出るくらいだった。のし上がっていくために、タダでも受注したい相手が腐るほどいるのだ。
看板モデルになるまでの道のりは険しく、長い。継続して何ヶ月も何年も雑誌に登場し、徐々に注目を集め、ファンが広がっていくのを期待するわけだが……それは一朝一夕に成し遂げられることでもない。
ジーンズをはいた日毬が戻ってきた。トップスの黒のタートルネックは目立たないが、それだけに日毬のスタイルの良さを強調していた。
日毬は指定された場所に立ち、俺を見やってくる。目くばせを交わすと、日毬は口元を引き締めてうなずいた。これから重要な戦いに挑むといった覚悟の表情だ。他の女の子たちは駄弁っていたり、鏡で化粧をチェックしていたりと気楽に過ごしているなかで、日毬は特異な存在だった。
その日、何度も日毬はジーンズを穿き替え、カメラマンやスタッフの指示に忠実に従い、一生懸命だった。
日毬の撮影が終わるころ、編集者が俺の側までやってきて声をかけてくる。
「マジ可愛いっすね、彼女。どこで見つけてきたんですか?」
「街中です。声をかけて、この業界に引っ張りました」
「あぁ、渋谷とか原宿でスカウトしたんですか。あれだけの容姿なのに、よく他のプロダクションに獲られなかったですね。他社のスカウトもいっぱいいたでしょう?」
「実はスカウトしたのは若松河田駅のあたりなんです。知ってます、若松河田?」
「若松……え? 大江戸線の? 曙橋とか、あの辺? 東京女子医大があるあたり?」
編集者は意表をつかれたようだった。
「そうそう。そのあたりです」
「なんつー渋いところでスカウトしてるんですか。あの辺、何もないでしょう。そんなの初めて聞きましたよ」
しばらく俺と編集者は、日毬の撮影を見ながらスカウト話で盛り上がった。
一通り話し込んだあと、俺は礼を言う。
「今回は参加させて頂き本当にありがとうございました。うちもスタートしたばかりなんで至らない点はあるかと思いますが、今後とも継続してお願いできればと」
「ええ、仕事はいっぱいあるんで。ギャラはあんまり出ませんが、それでも良ければ」
担当者は何度もうなずいた。
◇
続いて漫画雑誌のグラビアの仕事だ。出版社は大手だが、一〇万部ほどの発行部数の、メジャーとも言えずマイナーとも言えない月刊誌だった。その漫画誌が、創刊一〇周年企画として、一九人のアイドルの写真を巻頭で掲載するらしく、そのなかの一人に日毬をお願いしたのだった。
なぜ一九人かと言えば、一ページに一人ずつ掲載し、企画を一九ページに収めるという単なる編集上の都合である。一ページのなかに掲載される写真は二枚のみだ。漫画誌としても一九人のグラビアアイドルを集めきるのは厳しかったようで、俺が日毬のプロフィールを持って営業に行くと、すぐにOKしてくれたのだった。ちなみにギャラはゼロの案件である。交通費も自腹で、足代さえ出ない!
下は一五歳から、上は二一歳まで。日毬は若い方だ。
ひと昔前のグラビア撮影と言えば、ロケ班を組織して砂浜にでも撮影に行ったものだが、今のご時世はどこも予算がない。撮影は都内のプールである。天候には注意しなくてはならないが、撮影スタジオを借りるより安く済むらしい。
学校を終えて日毬が事務所にやってきた。
いつも通りのソファ定位置に腰かけた日毬に、俺は言う。
「来週、グラビアの仕事が決まったぞ。かなり重要な仕事だ。頑張ろうな」
「そうか、颯斗が嬉しいなら私も嬉しい限りだ。この前の雑誌モデルのような仕事だな?」
淡泊に日毬は応じてきた。
「いや、ファッション雑誌の隅っこに掲載されてるだけじゃ、ほとんど目立たない。しかし漫画雑誌の巻頭グラビア企画となれば、はるかに華やかな仕事になるぞ。日毬にとってステップになるはずだ」
「漫画雑誌の巻頭……。そ、それはもしかして……いかがわしいものではないのか……?」
焦ったように日毬は息を吞んだ。
漫画の巻頭グラビアは、日毬にとってどんなイメージなのだろうか……。
「ちっともいかがわしくないよ。準メジャー誌の記念企画だからな。水着のアイドルが一九人並ぶんだ」
「水着……」
「日毬は容姿もスタイルも抜群だ。他のアイドルと並べば、ひとりだけ抜きん出るに違いない」
「……やはりその仕事は……やらなくてはならないのだろうか……」
「当然だろ。日毬を押し出すには、水着グラビアは避けて通れない道だ」
「……」
日毬は言葉もないようだった。
「早速、明日の土曜日に水着を選定しにいこう。今後のことも考えて、少なくとも五着は買っておかないとな。由佳里も呼んで、カッコいいのを選んでもらおうな」
「明日は午前中、学校があるのだが……」
「わかった。由佳里と一緒に学校まで迎えに行くよ。いろいろ見て回ろうじゃないか」
「スクール水着ならある……」
「ダメダメ。マニア向けじゃないんだから。基本はビキニだろ。露出が大きい派手なヤツな」
「……」
日毬は応えず、胸のあたりをグッと握りしめ、呼吸を荒らげた。
その日は終始、日毬は戸惑いを隠さず、念仏を唱えるような面持ちで物思いにふけっていた。日毬にとって好ましい仕事ではないのだろうが、こればかりは乗り越えてもらわないとアイドルとしてプッシュのしようがない。
◇
日毬が通う私立高校の校門前。
時間通りに由佳里と着くと、ちょうど授業が終わる鐘がなり、生徒たちが正門入り口から帰り始めたところだった。
「高校、なつかしーなー。先輩、土曜日も授業ってありました?」
校門の柱に背を預けた由佳里は訊いてきた。
「あったよ普通に。私立だとあるところが多いんじゃないか」
「私のところはなかったですねー。あんまりガツガツしてない公立だったからでしょうか。ずっと部活してましたよ」
下校する生徒の波を見ながら、しばらく由佳里と高校の頃の想い出話をしつつ日毬を待った。
ふいに日毬の名前が耳に飛び込んできたので、俺たちは注目した。徒党を組んだ四人の男子生徒が、駄弁りながら校門横を通り過ぎていく。
「えー? お前、神楽日毬の隠れファンか!? マジ!?」
「だってめちゃくちゃ可愛いじゃん。あんなレベル、普通どこにもいねえって。お近づきにはなりたくないけどな」
「可愛ければ誰でもいいのか? なんか三日三晩部屋に閉じ込められて愛国教育とかされそうじゃん?」
「そうそうそう。強制収容所に入れられて、思想改造されるだろ絶対。出てきたときには超一流のサムライになってるね、俺」
「だーかーら、付き合う対象とかそういう相手じゃねえって。見てるだけならアリだってことだよ」
「なんか女子どもが、日毬が芸能界デビューって噂してたんだけど、それ本当か?」
「あんだけ可愛けりゃスカウトされても驚かねえよ」
「ありえねー。容姿はたしかに図抜けてるけど、それ以上に中身が強烈すぎる。タレントなんてやってけるわけねえって。右翼デビューだろ」
「それはもうデビューしてるっつの」
「先月、戸山公園で拡声器持った神楽と会ってさ。街頭演説してたんだよ。うっせーのなんの。たまたま見つかって大声で挨拶されたんだけど、慌てて他人を装って通り過ぎたよ。俺まで右翼の仲間だと思われたくねえ」
男子生徒たちの話題は尽きないようだった。
市場調査や売り出し方の参考にするためにも、彼らのような身近な人の声をもう少し聞いてみたかった。しかし、まさか追いかけてまで聞き耳を立てるわけにもいかない。かといって直接男子生徒に声をかけたりすれば、日毬に迷惑がかかってしまう。
由佳里は困った様子で言う。
「日毬ちゃんらしいといいますか……」
「やっぱ高校でも、俺らが感じるのと同じような印象なんだな……」
ちょうどそのとき、高校生の波に交じり、正門から日毬が出てくるのが見えた。
すぐに日毬は俺たちを見つけたようで、急ぎ足で俺たちの許へとやってくる。
「おつかれさま、颯斗、由佳里。日直当番だったから、少し待たせてしまった」
「大して待ってないよ。学校のことは優先していいからな」
「日毬ちゃんは部活とか入ってないの?」
由佳里の質問に、いつものように日毬が胸を張って応じる。
「部活にうつつを抜かしているヒマなどない。私は国家のために、日本大志会を組織している。私の行動の一挙手一投足に日本の命運が託されていると思えば、政治活動に邁進する以外の道など選べるわけがない」
「そ、そうなんだ……。さすがは日毬ちゃん、剛気ね〜」
そんなやり取りをしていると、校門前を通り過ぎてゆく女の子の一団と日毬が視線を合わせた。どうやら知り合いらしい。
「さようなら!」
礼儀正しく日毬が頭を下げると、女の子たちは軽い調子で手を挙げて挨拶を返してくる。
「バイバイ」
「じゃーねー」
「おつかれー」
こちらに視線を戻した日毬に、由佳里が問いかける。
「クラスメート?」
「そうだ。みんな明るくて良い子たちだと思う。孤立しがちな私にも親しく接してくれるんだ」
その言葉を聞き、俺はいくらか安心した。普通の高校生活を送れていないのではないかと心配していたからだ。理解のあるクラスメートがいてくれるのは良いことである。
すると今度は、俺たちの横を通り過ぎようとする男子二人に日毬は声をかける。
「さようなら!」
「……」
男子らは見て見ぬフリをして、小走りに脇を通り過ぎていった。
日毬はありありと表情を暗くし、つぶやくように口にする。
「……今の二人もクラスメートなんだ。私はいつも正しく挨拶しているのに、男の子たちはあからさまに私を避けていく。昔からずっと、私は男の子たちから嫌われているらしい……」
無念そうにうつむく日毬に、由佳里は元気づけようと明るい声を出す。
「大丈夫よ日毬ちゃん。うんと可愛らしい水着を買って、バーンと巻頭グラビアを飾って、男どもなんて一撃でノックダウンさせてやろうね」
「私など……」
日毬は唇をかんだ。
年頃の女の子として、男子らからこうも避けられることに遣り切れない思いもあるのだろう。これだけの容姿を持っているのに、日毬はモテたことが一度もないのは本当らしい。
「そう落ち込むな。アイドルとして有名になれば、彼らの感想も変わるはずだ。さて、大通りに出てタクシーでも捕まえるか。水着だ水着。由佳里の言うようにグラビアで活躍すれば、学校中で話題になるぞ」
俺は日毬の肩に手をやって、努めて優しく口にした。
そして俺たちはタクシーに乗り込み、幾つもの店をハシゴして、日毬に合う水着を次々と買い込んでいったのだった。
◇
続々と女の子たちが撮影を終えるなか、ジャージを着た日毬はプールの隅で一人うずくまっていた。
編集担当者に挨拶を済ませた俺は、プールの隅に行き、うずくまる日毬の傍にしゃがみ込む。
「日毬、そろそろ時間だぞ」
うつむいたまま、日毬はコクリとうなずいた。表情が見えないので、いじけているようにさえ見える。
「どうしたんだ? この前、由佳里と一緒に選んだ水着は着てきたんだろう?」
「着てきた……」
「じゃあホラ、ジャージはもう脱いで準備しないと。最後になっちまうぞ」
順番を指定されたわけでもなく、とにかく早く準備できた女の子から撮影を済ませていた。撮影を済ませた子は帰っていき、残りは数名だけになっている。
「はっ、恥ずかしい……」
日毬は身体を強ばらせた。
「何を恥ずかしがることなんてあるんだ。今日ここにいる女の子のなかじゃ、日毬がナンバーワンだぞ」
「私の旦那様になる相手ならともかく……衆目に意味もなく肌を晒すなど……やはり私には……」
俺は言葉に熱を込めず、できるだけ冷静に状況を伝えることにした。頭の良い日毬には、若い子に対するような説得や説教は必要ない。対等な大人に向かうよう、俺は客観的に説明していく。
「日毬、決断のしどころだ。日毬を売り出していくためには、グラビアは避けて通れない道だと思う。日毬の最大にして唯一の売りは容姿だからだ。美貌とスタイルを他のアイドルたちと比べてもらえれば、日毬には必ずチャンスがやってくる。今回は写真二枚載るだけだが、今後は数ページにわたって掲載されることもあるし、写真集を出す機会だってある。これを乗り越えられなければ、日毬はスターダムにのし上がることはできないぞ」
「頭ではわかっているんだ……でも……」
「どうする? ここで降りるか?」
穏やかな口調で俺は言った。
「降りたら、また街頭演説の日々だ……。私は他にできることを知らない……」
やっと日毬は顔を上げた。今にも泣き出しそうな表情だ。
ここで押し切っても良かったが、それはフェアじゃない。俺は一歩引いて、日毬に考えさせることにした。
「決して街頭演説ばかりが日本を変えることではないと思う。日毬が時折やっているような福祉活動やボランティアに懸命になることも、日本に貢献する道だと思うぞ。道はたくさんあるはずだ」
「ダメだ。もっと上から、根本的な国家像の変革が必要な時なんだ。病院で長期入院を余儀なくされる子供たちに接するほど……彼ら彼女たちが長期的に、安心して過ごせる国が求められている。日本は必ず、万民に温かい機会を与えられる国が作れると私は思う。その使命が、私にはあるんだ」
切々と、日毬は思いの丈を打ち明けた。
「だから日毬は日本の頂点に立つって話だろ? 俺はそれに乗った。日毬が降りるなら、俺も一緒に降りるだけだ。責めはしないよ」
「そうだ……颯斗はこんな私に乗ってくれた……。ありがとう……。それなのに私は、颯斗に恩のひとつも返せていない。それに、これからも颯斗に傍にいて欲しいと思う」
「俺なんて何もしてないよ。プロダクションだってほとんど金はかかってないんだ。明日廃業したって損はしない。ちょっと気まぐれに付き合ったと思えば、後悔もない。日毬がやりたいことを優先させるといいぞ」
「私は日本を変えるんだ。それは私の命よりも優先する。だから私はやらなくてはならない。日本万民の未来のために。己自身の恥ずかしさなど、如何ほどのこともない」
まぶたを閉じた日毬は、ゼイゼイと何度も深呼吸を繰り返した。
しばらくして目を見開いた日毬は、決意に満ちた様子で空を見やる。
「日本、万歳……」
祈るように、真剣な面持ちで日毬は小さく口にし、唇をかみしめた。
そしてスックと立ち上がった日毬は、震える手つきでジャージのファスナーを下ろし、服を俺に預け渡してきた。
顔を赤らめ、両手で胸の辺りを隠すようにしつつも、上目遣いで俺を見上げて口にする。
「い、行ってくる」
「ああ。行ってきな」
俺は肩をトンと叩いて、日毬を送り出した。
見事なプロポーションだと思う。毎日、剣道の訓練も積んでいるらしく、腕や股のたるみも微塵もない。絶妙な筋力は日毬の優れたスタイルをさらに引き立たせている。
日毬に視線を向けたカメラマンは、口笛をふく。
「ひゅー、最後の最後で真打ち登場だな」
「……よろしくお願いする」
それから撮影が始まった。
かける時間は一人当たり一〇分程度だから、すぐに終わるはずだ。
カメラマンの指示に忠実に従う日毬だったが、やはりぎこちなかった。この前の撮影ではキッチリできていた笑顔も、今度ばかりは強ばっているように見えた。こればかりは、水着撮影に慣れるまで仕方ないだろう。
それでも日毬は懸命に撮影に応じ、無事に仕事を終えることができたのだった。
◇
日毬と約束したデートの日がやってきた。
一一時、東京駅を出てすぐの東京中央郵便局前で待ち合わせだった。新宿だと事務所や日毬の家から近所すぎるし、かといって渋谷は混雑が激しいので、日毬があまり足を伸ばしたことがないという丸の内を選んでいた。ここなら人混みはないし、大人向けの、一流の店が揃っている。値段は張るが、今日に限っては奮発するつもりだった。
駅を出たら携帯で連絡を取り合うことになっていたが、一〇時四〇分に着いて地下通路から出ると、すでに日毬は待っていた。
駆け足で日毬の許に向かい、俺は声をかける。
「おはよう。早かったな」
俺を目に留めると、日毬はハッとしたようで、急に頰を染めてうつむいた。
「可愛いじゃないか、その格好。見違えたよ」
日毬はいつも、事務所には制服でやってきていた。あとはせいぜい撮影時にジーパンと水着姿を見ただけで、カジュアルな普段着は今日が初めてだったのである。
「由佳里が……これがいいって言うから……。こういう服をちゃんと着たのは、今日が初めてなんだ……」
「ばっちりだ。似合ってるぞ」
俺は今日、普通の子が普通にすることを楽しんでもらう機会が持てれば、タレント活動の幅も広がるはずだと思って日毬を誘ったのだ。これも日毬と俺のため、仕事の延長線上としてのことである。それなのに、日毬の姿を見ると、さすがに男として逸る気持ちを抑えきれないものがあった。さすがに一六歳の、武家のような潔白な家の子に手を出すわけにはいかないが、ここまで可愛らしい子とデートする機会など普通はない。
「今日うちを出るとき、姉上も、似合ってるって言ってくれたんだ。颯斗もそう言ってくれるかどうか不安だったから、すごく嬉しい……」
日毬の言葉はいつも率直だ。
「さあ、行こうか」
俺が日毬の手を取ると、日毬の頰はいっそう赤く染まり、肩は強ばった。考えてみれば、日毬は手を繫ぐことすら慣れていないのだ。
「手、繫ぐの嫌か?」
日毬はフルフルと首を振り、俺の手をギュッと握り返してきた。
俺たちは並んで歩きだす。緊張しているのだろうか、日毬は妙にぎこちなかった。
◇
最初の予定は映画館だ。
先日、日毬にはどんな映画が好みか確認はしたのだが、希望は何もなかった。映画自体、日毬はめったに見ないのだと言う。
俺もそれほど映画を求める方ではなく、最近になって幾つか見始めた程度だ。蒼通はさまざまな映画制作に関わっていることもあり、仕事に関係しているものを見始めたからだった。
ではなぜ映画を選んだかと言えば、俺の経験上、初デートには好ましい選択だったからだ。日毬は真面目一徹な子で、いきなり遊園地やゲームセンターに行っても緊張するに違いない。しかし映画なら会話も不要で、一緒に二時間近くを過ごしたという既成事実ができ、お互いに比較的リラックスした状態でデートに臨むことができるようになる。映画の後はレストランで食事を楽しむのもいいし、公園を散歩しながら今しがた見た映画をキッカケに会話するのもいいし、デパートで買い物するのもいいだろう。とにかく、デートの入り口としては優れたものに違いなかった。会話のキッカケになる題材ができることが大きい。
選んだ映画は最も無難なものだった。
蒼通も制作に関わっている映画で、売れている小説を原作にしたものらしい。テレビでは頻繁にCMが流され、最近の邦画のなかでは最も興行的に上手くいっている映画だ。
ストーリーはこうだ。
偶然、同じ人間を同じ日に殺害しようと試みた男女がいて、二人の別々の罠が見事に発動しターゲットは死亡。それをキッカケにして男女は出会い、二人で逃亡を続ける最中に恋に落ち、逃亡の果てに寂しい教会で二人だけの結婚式を挙げたというストーリーだった。
こういうと重厚な映画っぽく聞こえるのだが、男女が相手を殺そうとした理由が最後まで不明だった。小説では少しだけ触れられているらしいのだが、明確になっているのかと問われれば、決してそうでもないらしい。文学にはありがちなパターンである。
映画を見終わり、手を繫いで映画館を出るとすぐ、日毬は不思議そうな面持ちで俺を見上げてくる。
「あのカップル、どうして相手を憎んで殺そうとしたんだ?」
日毬も同じ疑問を持ったらしい。
俺は肩をすくめる。
「さあな。そこは想像で補えってことじゃないか?」
「そこが明かされない限り釈然としないぞ。警察に追われながらの逃亡は面白かったが、だからどうしたと言えなくもない。追われるのは当たり前ではないか」
日毬の手を引きながら、俺は次の予定の場所へと足を進めた。お互い昼食はまだだ。レストランを予約してある。
すでに日毬には、俺が手を握っても、映画館にやってきたときのような恥じらいはなくなってくれたようだ。慣れてくれたのだろう。
「まぁそうだな……日常生活では、誰にだって憎い相手がいるだろう。だからカップルが殺したヤツは、自分が憎んでいる相手だと設定して見たらどうだ? そうやって自分の現実と重ね合わせれば、なかなか面白くなりそうな題材だと思ったぞ。だからこそヒットに繫がったんだろうな」
俺はそう答えた。
もしかすると、給料の支払いがたった一日遅れただけでぶち切れた男が経営者を殺害したのかもしれないが……その辺の設定は、個々人が最もしっくりくるように工夫して映画に臨むしかないだろう。
俺の話に、日毬はいささか不意を喰らったようだ。
「映画とは、そこまで読み込んで見学せねばならないものなのか……?」
「そういう映画もあるし、正義と悪がわかりやすく設定されている映画もある。この映画は最初から宣伝優先で創ってたから、そんなに深いことまで考えて創ったのかどうかはわからないけどさ。いちおう原作の小説に忠実らしいぞ」
「ふむ。颯斗の言う通りにして考えてみると……私が殺した相手は日本の現行政府ということだ。そして残存勢力に追われる私は、ついに敵の追跡を振り切り、バッサバッサと切り倒し、新政権を樹立したというストーリーになるのだろう」
かなり無理やりな設定に、俺は思わず声を上げて笑ってしまった。
「なっ!? 無礼者! 私は真剣に言ったのだぞ!?」
日毬は立腹し始め、俺を睨み上げてきた。日毬が握る手には強く力が籠もる。よほど興奮しているようだ。
「すまんすまん……。フフ……いや、なんつーか、日毬らしいと思ってさ……フフ、ははは」
笑いを抑えようとするほどに、ついつい笑みがこぼれてしまう。日毬の情熱的な様子を見ると、なんだか可愛らしくて余計にだ。
「いくら颯斗でも許さんぞ。何がおかしいというのだ!」
それから日毬と映画の話題で盛り上がりながら(?)、ゆっくりレストランへと向かったのだった。
◇
ビルの最上階から、都内を一望できるフレンチレストラン。
日毬はすっかり緊張もほぐれてくれたようだった。今しがたの映画での謎設定の話題も尽きたころ――。
ふと日毬は視線を落とす。
「颯斗は慣れているんだな……」
「慣れるって、何に?」
「デートとか……」
「慣れてるってほどじゃないけど……人並みにじゃないか。付き合ってた子も何人かいたよ。続いてないけどさ」
俺の言葉に、日毬はハッと顔を上げた。
「そのうちの一人が、由佳里とかなのか……?」
「違う違う。由佳里は蒼通時代の部下で、初めて会ったのは由佳里が入社してきてからだよ。陽気で勝ち気なヤツでさ、今じゃ一番仲のいい友達だ。付き合ってなんかいない」
「そうか……! 由佳里みたいなカッコいいヤツには、私なんかじゃ勝てないと思ってたから……よかった……」
「カッコいいか? 初めて聞いた意見だな」
意外な感想だ。俺から見た由佳里は、少し油断をするといつの間にか懐に飛び込まれているような、誰とでも打ち解ける下町っぽい愛嬌のある子といったイメージだった。
日毬は言う。
「いろんなことを知ってるし、何だって自然に堂々とやれてしまう。服を買うときに由佳里に案内してもらいながら、羨ましいなって……思った」
なるほど、日毬にとっては、由佳里が知っていることは何もかもが新鮮に見えるのだろう。
「日毬なんて、もっと堂々としたものだと思うけどな。一人で街頭演説しようなんて度胸は、普通の人間じゃ持てない。俺も由佳里も、最初に日毬に出会ったときは度肝を抜かれたんだぞ」
「私は怖いことばかりだ。一生懸命に自分の気持ちを奮い立たせないと勇気が持てない……」
弱々しく日毬は言った。
「日毬はまだ一六歳じゃないか。あんなんでも由佳里は二三歳だからな。そりゃ由佳里の方がいろいろ経験してるのは当然なんだし、比べちゃいけない」
「……付き合ってた他の女の子とは、どうして続かなかったんだ?」
「学生時代は学校が終わるとバイト三昧でさ、あんまり続かなかった」
「どんなバイトに熱心だったんだ?」
「聞いても、あんまり楽しい話じゃないぞ」
「……颯斗のことをもっと知りたいんだ。どんな小さなことでもいい」
「特定のバイトに一生懸命だったわけじゃないな。とにかく種類をこなしてた。定番の家庭教師とか、予備校教師もやった。ファミレスでウェイターもしたし、テレアポや営業のバイトまでやった。ああそれから、工事現場の派遣や、駅の掃除とか、肉体労働系もいろいろな。大抵の仕事は経験してきたと思う。一番多い日で、一日に三つもバイトが入ってて、もうわけがわからなくなってたな。だから大抵の仕事はそれほど苦にならない。蒼通時代は、こんなに楽に稼げていいのかと驚いたものだよ」
「貧乏……だったのか?」
申し訳なさそうな表情を浮かべ、日毬は言った。俺の家のことを日毬は知らない。知っているのは、俺が蒼通社員だったということだけだ。
「あはは、そうでもない。俺個人は貧乏だったけど、俺の家は裕福な方だった。うちの教育方針だったのさ。現場で、お金をもらいながらあらゆる仕事を経験できるなら、こんなに有り難いことはないってな」
俺は荘厳に口調を変えて続ける。
「企業経営の第一歩は、現場の苦労を共に分かち合うことから始まる――常々、俺のオヤジが言っていたことだ。オヤジは長らく企業人なんだが、日本的経営の信奉者でさ、松下幸之助とか本田宗一郎とか、あの辺りの流れを汲んでいる。自らに厳しいが、身内にも厳しい」
「素晴らしい家じゃないか。だから颯斗は、こんなに立派で優秀な男なのだな」
日毬は真顔だった。こんな風に面と向かってストレートに褒められると、逆に困ってしまう。
「だが俺は、オヤジのことが好きじゃない。オヤジと俺はいつも対立ばかりしていた。思い返せば苛立たしいことばかりだ。そうだな……俺の子供時代をたとえると……ラスボスがいつも傍にいる生活を送ってきたと言えるかもしれない。オヤジは俺を息子として扱わなかったと思うし、俺もオヤジを父親として見ていなかった。もうさ、徹頭徹尾、ウマが合わないんだな」
「そうだったのか……知らないこととは言え、適当な感想を言ってしまった。颯斗の気持ちも考えず、申し訳ない」
「そんな畏まらないでくれ。過ぎ去った昔のことだ。俺は家を出て、ほとんど縁が切れたような状態なんだ。最後にオヤジに会った時、『覚えてやがれー』ってな感じの捨てゼリフを吐いてきたよ。まるで映画に出てくるような、負けフラグ確定の小悪党のようなセリフだったと今では情けない。でも俺は本当に、自分のプライドにかけて、オヤジに勝たなくてはならないんだ」
「そんな颯斗に、私はプロダクションを始めさせてしまったのか……。颯斗のことも考えず、私は自分自身のことしか見えていなかったのだな……」
俺は首をふる。
「それは違うぞ。俺は決めたんだ。言ったろう――『俺は日毬に乗ることに決めた』って。俺は俺の目的のために、日毬に乗ったんだ。これは俺の戦いでもある。俺には金も力もなかったから、いざ事業を始めようと思っても、何も決めることができなかった。そんなとき、日毬という逸材がこの手に転がり込んできた――今ではそう思ってる」
「……私は、颯斗の人生も背負っているのだな」
ポツリと、だが決意に満ちた調子で日毬は言った。
「そんな大層に構えてもらう必要はないぞ。日毬は何でも背負い込みすぎる。もっと気楽に考えていいんだ。俺と日毬の最終目標は違うかもしれないが、そこに至るまでの道中は一致してるってことだけわかってればいいさ」
それから俺は初めて、東王印刷のことや、家の事情を日毬に話して聞かせた。俺は家を追い出されたようなもので、独力で仕事を創り上げなくてはいけないことも、包み隠さず、すべてをだ。
日毬はしきりに感心し、真剣に俺の話に聞き入っていた。
ひとしきり話し終え、今度は逆に俺が訊いてみる。
「日毬のことも聞かせてくれ。そもそも日毬は、どうして右翼活動家になったんだ?」
「知っての通り、私の家は日本と共にある。これからもそうだ。私こそが真の右翼たるべき存在だと自負している」
キリリと背筋を伸ばした日毬は、胸を張って言った。
「そりゃ日毬の家を見ればわかるよ。武家が成立する以前から続く家系だし、古くは朝廷から仕事を拝命するような家だったんだろう?」
「そうだ。もちろん今でもそれは変わらない。私は天皇陛下の忠実なる臣民である。ならばこそ、私は日本のために躊躇せずこの身を捧げるのだ」
「右翼なのはいいよ。つまりさ、活動家になった理由が知りたいってことだ。日毬の家には御真影があったり日の丸が飾ってあったりするし、お母さんもお姉さんもナチュラルに民族主義的だけど、別に活動家ってわけじゃなさそうだ。日毬だけ突出してる」
「神楽家の基準においては、私はもう成人している。自分の道は自分で決める。姉上は剣を究める道を選んだし、私は日本を変える道を選んだ。それだけのことだ」
「どうしてその道を選んだんだ?」
さらに突っ込んで訊くと、日毬は不思議そうに俺を見やってくる。
「……颯斗は、日本が変わるべきだと思わないのか? 現在の窮状を考えれば考えるほど……私の心は震えてくる。日本は今、重要な分岐点に立っているんだ」
「大局的な視野に立てばそうだろうな。だが身近なこととして実感できるかとなれば、難しいところだ」
「私がボランティア団体に所属していることは話しただろう。活動の中心は、身寄りのない子供たちのために、勉強を教えたり一緒に遊んであげたりすることだ。私は小学校五年生のころから団体に所属しているから、もう六年も支援活動を続けている。入った当時は、私が最年少のボランティア団体員だった」
「そんなに前から続けてたのか……」
「子供たちからは『ブス』とか『デブ』とばかり言われ続けてきた……。素直な子供たちの言葉だったから、そうなんだと思っていた……」
つぶやくように口にして、日毬は顔を曇らせた。
つい俺は吐き捨てる。
「いけ好かないガキどもだ。どこに目ついてんだよ。まぁ、子供だからな」
「あまり叱らないでやってくれ。颯斗はどんな子供たちが児童養護施設に送られてくると思う?」
日毬の問いかけに、俺は安易に応じる。
「単純に親がいない子供じゃないのか。事故や病気で亡くなったり……」
「違う。もちろんそんな子もいるが、少数派だろう。大半は親の虐待によって施設が引き取った子供たちだ。たぶん虐待は、国が把握しているよりも遥かに多いに違いない。施設まで送られてくる子たちは、よほど酷い状況に陥っていたからだ」
「……。すまん、その辺の認識が甘かった」
「颯斗が謝ることはない。児童虐待は急激な勢いで増加しているんだ。私も、ボランティア団体の人たちも、びっくりするくらいの勢いだ」
「どうしようもない親が増えてるってことか? 世も末だな」
「普通なら、そう決めつけたくなることだろう。だが事はそんな単純な話でもないんだ。東京都が、児童虐待の実態について調査したデータによると、どのようなタイプの家庭においても、親の経済的困窮から虐待に走るケースが大半を占めていたんだ。大半の親は、いわゆるワーキングプアだ」
「……」
「今の二〇代、三〇代の親にはお金がない。仕事も不安定で、未来も暗い。精神的にも、経済的にも追い詰められている。悩みに悩み抜いた末、ふとした機会に虐待が始まっていくんだ。ワーキングプアとして生きる若者の数は、五〇〇万人から七〇〇万人だと言われている。……これは私の責任でもあるのだが……我が神楽家もワーキングプアに分類されるに違いない……。他人事ではない。自宅があるから、なんとか食いつないでいるようなものだ……」
「その割には、生活保護を受ける人たちも増え続けてる。日本はまだマシなんじゃないのか」
「たしかに全体的には、日本は恵まれている側面があるように見える。しかし実像はもっと歪んだものだ。日本の富の再分配は、大半が高齢者にばかり向けられている。生活保護だって高齢者は受けやすいが、若者は鬱病をわずらったりして自分を壊すところまでいかないと、受けることもできない」
「ああ、それはそうかもな……。だが高齢者は大票田だから、いくら選挙をやっても変わらないだろう」
高齢者と若者の格差を考えれば、俺だって絶望的な気持ちになる。だが、どうすることもできないのが現実だ。
「堅実に生きてきた自営業者の年金は、生活保護で暮らす世帯より遥かに少ない。信じられない逆転が生じている。ありとあらゆる制度が綻んでいる。私のボランティア団体にも、前に福祉事務所で生活保護の審査をしていた人がいるが……自分が鬱を患うほど心身ともに疲弊し、仕事を辞めなくてはならなくなったそうだ」
「なるほど……。福祉事務所はメディアに叩かれがちだけど、現場の苦労は並大抵じゃないんだろうな。人々の権利意識はモンスター化してる。権利にうるさい一部の人たちの声ばかり大きくて、切実に援助を必要としている人の声はこっち側にはなかなか届かない」
「私は気づいたんだ。ボランティア団体で子供たちの世話をしているだけでは、砂漠に水を垂らすようなものだと……。社会を根こそぎ変えなくてはならない。今こそ真の民族革命が必要だ。天皇陛下を中心にし、国の制度を根幹から変えなくてはならないと。改革するだけじゃダメだ。白紙にして、そこから描き直さなくてはならない」
日毬は、決然とした顔つきで続けてゆく。
「年金制度も、すでに大きなお金を払ってきた世帯に泣いてもらってでも、一から構築し直さねばならない。生活保護受給も、せめて年金の最低水準額と摺り合わせなくてはならない。高齢者から反発を喰らってでも、若者への富の再分配を重視するべきだ。ありとあらゆる既得権益層からの反発は覚悟している。血を流すことも覚悟している。それでも、私は覚悟の上だ」
「だから独裁者になるってことか。たしかに独裁的な権力を手に入れない限り、日本じゃ何も進みそうにない」
「社会の変革には強権が必要なこともあろう。今がまさにその時なのだ。すべてをやり遂げた後なら、私の手によって苦痛に身を焼かれた人々のために、私は切腹しても構わない。たぶん私は一〇〇万の民を殺すだろう。だがきっと、未来に受け継がれる一億の子々孫々のための礎になるはずだと私は信じている」
日毬が本心から言っていることがわかったので、思わず俺は身を乗り出す。
「それをどうして日毬がやらなくちゃいけないんだ。もうみんな、このシステムは永続しないとわかってる。官僚や政治家さえもだ。仮に保ってもあと二〇年、その破綻までこのシステムは変わらない。行き着くところまで突き進んで、弾け飛ぶ日を投げ遣りな気持ちで待っているのさ。止まらないんだよ」
「変わらないのは、既得権益層が利権を手放そうとしないからだ。公務員ばかりが叩かれるが、それだけではない。一般企業でも、四〇代や五〇代の社員が居座り、一〇〇〇万以上の高給を得ているケースが少なくない。そのしわ寄せは、若い社員や派遣労働者に押し寄せている。本来なら、彼ら既得権益層が身を捨てて立つべきだ。明日の日本のために、自分たちのポストに安住せず、給料を削って若者にチャンスを与え、分配するべきだ」
「政府も遅まきながら解決を目指してる。国内の既得権益層が権利を手放さないから、海外と経済協定を結んで、外圧を頼って雇用の自由化を推し進めようとしてるんだ。社員の解雇がしやすくなれば、雇用が流動化して、老害のような社員は即座に放逐できるし、正社員と派遣社員の格差は縮まっていく。時間はかかるが、一〇年単位で見れば一定の効果は見込めるかもしれない」
俺は説得するように言ったが、日毬は首をふる。
「時間は逼迫している。もはや財政にも猶予がない。しかし不思議なことに、二〇代、三〇代を中心にワーキングプアに苦しむ層が急増している一方、日本の富裕層もまた確実に増えている。豊かな者が率先して起つべきだ」
ドンと日毬はテーブルに拳をつき、続ける。
「今こそ維新の時なんだ。かつての明治維新は、高い倫理観を持つサムライたちの切腹だった。武士たちは日本の未来を形作るために、自分たちの既得権益を自分で吹き飛ばしてしまった。だが今の既得権益層に、同じような倫理観が期待できるだろうか? いや、できまい。ならばこそ、武士の血を引く者として、私がやらなくてはならないのだ。国家に強権を集中し、根底から制度を変える。未来に永続する日本を創り上げるために。だから私は強い国家を志向するのだ」
「……」
俺は言葉に詰まってしまった。どんな言葉をかけろと言うのだろうか。
日毬の決意は初めて会ったときから知っていたが、改めて驚かされることしきりだった。
端整な顔立ちを無念そうに歪めた日毬は、震える声で口にする。
「私は今、これから出撃しようとする特攻隊員と同じ気持ちだ。どのような苦汁を吞み込もうとも私はやり遂げるだろう。だからこそ、私は身を焼かれる想いでアイドルにまでなったのだ」
それから日毬は、理想の国家像や日本の未来について熱く語った。
国家の行く末を語り合うなんて、どう考えても初デートっぽくないやり取りだ。しかし日毬にとっては、そういう生真面目な話の方がよほど楽しく感じるらしい。食事を終えてレストランを出る頃には、日毬は満ち足りた様子だった。
◇
レストランを出た後、俺たちは二重橋前駅を通りすぎ、和田倉噴水公園から皇居前広場へと向かってブラブラ歩いた。
歩きながら俺は口にする。
「なんか、真面目な話ばかりになっちゃったな。デートのはずだったけど……」
「私はすごく楽しかった……。颯斗とこうしているだけで、なんだか心がいっぱいで、信じられない気持ちでいっぱいなんだ」
素直でストレートな言葉。しかも日毬の視線には一点の曇りもなく、視線を合わせるとつい気持ちがぐらついてしまう。
だがその後、日毬は嘆くように続ける。
「だけど……私だけがこんなに楽しんでいいのかって、申し訳ない気持ちにもなるんだ……」
「誰に申し訳ないっていうんだ? 別にいいじゃないか」
「毎週日曜日は朝から夕方過ぎまでずっと、本当なら近くの施設でボランティアをしている時間なんだ。だけど今日は……告白すると……『家の用事があるから』って言って休んできた……。私は颯斗と一緒に過ごしたいために、大切な活動をサボってしまった……」
なんて真面目一徹な子なのだろうか。俺は優しく言葉をかける。
「最近、日毬のことがわかってきた気がする。できるだけ私心を持たないことが、立派なことであるように考えすぎだ。やっぱり俺たちは人間で、たまには休みたい時もあるし、楽しみたいときもある。こういう日は必要だろ?」
「……だが私にはやらなくてはいけないことがある。これは日本国民の未来に関わることなのだ。私一人の享楽を、天下万民の未来と天秤にかけることなど決してできない」
俺は立ち止まり、日毬に向き直って言う。
「日毬。無私であろうとすればするほどに、自分を締め付け、焦りや苛立ちが募るばかりだぞ。それはきっと、日毬の目標にとってプラスにはならないだろう」
「そう、なんだろうか……」
「自分が楽しいことを経験しないと、人を楽しませることもできないだろ? それにタレントとしてやっていくなら、普通の人がどんなことを楽しんでいるか知ることも重要なことだぞ。これも勉強だと思えば、妙な罪悪感を感じずに楽しむことだってできるさ」
「私はまだまだ不勉強だな……。颯斗には、いろんなことを教えてもらってばかりだ……」
そろそろ夕方だ。普通ならまだ早いが、暗くなってまで一六歳の子を連れ回すわけにもいかない。一八時までには日毬を家に送り届けようと決めていた。
そろそろ帰ろうと告げると、日毬は何も言わずにうなずいた。
そして俺はタクシーを停め、日毬と共に乗り込んだ。
◇
日毬の家の前は細い路地になっている。なんとか車一台が通れる道で、ちょうど玄関前でタクシーを停めてもらった。
日毬を降ろし、俺もタクシーを待たせて外に出る。
「楽しかったか?」
「うん。……こんな私のために、颯斗は気を遣ってくれたのだろう?」
「バカ言うな。少しでも嫌だと思ってたら、デートなんかに誘うわけないじゃないか」
「本当?」
不安げな表情で、上目遣いに日毬は俺を見上げてきた。
「ああ、もちろんだ。たまにはこうして遊びにいこうな。時間があれば、ちょっと遠出してみるのも良さそうだ。そのときは、日毬が言ってた京都にでも行ってみるか?」
日毬はうなずいただけで言葉を口にしなかったが、口元を震わせ、嬉しさをかみしめるように微笑んだ。
なんだ、可愛らしい笑顔ができるじゃないか。
俺は日毬の肩に手を置いて言う。
「ほら、今度の撮影は、今みたいな笑顔でな。写真でも映像でも、自然に出てくる表情が一番良く映るものだ」
「そうか……今みたいな……」
「明日から、俺ももっと頑張って、日毬の仕事を増やすように全力を尽くすよ。一緒に頑張ろうぜ」
「私の成功には、日本国民の安寧だけに留まらず、颯斗の人生もかかっていると今日知った。私は今まで以上に粉骨砕身の努力をしていくつもりだ」
あまりに日毬らしい決意に満ちた挨拶に、思わず俺は笑いそうになった。なぜって、こんな若くて可愛らしい子が、あまりにも熱心に天下国家のことを自分の身のように感じているそのギャップが、微笑ましく思えたからだ。
しかしここで笑うと、日毬をまた怒らせてしまう。俺は笑みをかみ殺しながら、優しく声をかける。
「肩肘はらずに気楽にな。それじゃおやすみ」
「颯斗……ありがとう。それから、おやすみなさい」
礼儀正しくお辞儀をした日毬は、チラと俺を見やってから、家のなかへと戻っていった。