大日本サムライガール

第一巻 第一章 右翼的な彼女

至道流星 Illustration/まごまご

「真正なる右翼は、日本に私ただ一人である!」 目的は政治の頂点、手段はアイドル——。至道流星の本気が迸る、“政治・経済・芸能”エンタテインメント、ここに開幕!!

俺の気分は沈んでいた。父に呼び出されたのだ。

織葉れんは、俺にとって父のようなものではなく、生徒指導を担当する教師のような男だった。社会的には極めて評価の高い男であることは確かだが、帝王学教師としての父の存在がいつも俺には重くのしかかっていた。

オフィスビルが建ち並ぶ千代田区三番町の大通りから一本通路を入ると、低層の高級マンションがのきつらねている。この辺りはビジネス街と住宅街が混在し、活気と平静が入り交じったエリアだと言えるだろう。最近でこそ表通り沿いにはタワーマンションが建ったりもするが、一歩奥に入ると、やたらに頑強な作りの、重々しい建物ばかりだった。

皇居を守るように存在するこの地域には、昔は江戸城に仕える旗本の武家屋敷が並んでいた。東京二三区の中央に位置し、銀座や丸の内と並び、日本でもっとも地価が高い場所のひとつでもある。

しかし、いざ生活となれば、付近に何もないのが困りものだった。スーパーもほとんどないし、デパートも惣菜そうざい屋もないし、娯楽になるようなものもまったくないのだ。子供時代をここで過ごした俺には、無機質な街というくらいしかイメージが湧かない。こんな日本の中心に住んでいたのに、新宿や渋谷のお祭り騒ぎのような人混みに最初は辟易へきえきしたし、学校の同級生らと原宿デビューしたりするのが一大イベントだったりしたものだ。今から振り返れば滑稽こっけいなことである。

若干の上り坂を登り切った先に、四階建ての、ひときわいかめしい建物が現れる。もう築三五年を優に超えているが、毎年飽きもせず必要以上にメンテナンスを行っているせいで、そんじょそこらの建物よりもよほど頑強で風格がある。誰もが高級マンションと見紛みまがうが、すみから隅まで、これがぜんぶうちの家だ。

入り口脇には、ひとりがやっと入れるくらいの監視小屋がある。昔、株主総会がある日などは警察官が派遣されていたこともあったものだ。今は老警備員が一人、週に五日勤務するだけの場所になっていた。

家に近づいた訪問者を確認しようと、老警備員が顔をのぞかせた。俺を認めた老警備員は顔を輝かせる。

「ぼっちゃん! お帰りなさい」

「やあ、中山さん。オヤジに呼ばれたんだ。お邪魔するよ」

「わかりました。今開けますね。少々お待ちを」

それから中山じいさんは監視小屋で機械を操作し、誰に言うでもなく門を向いて声を上げる。

「開門!」

俺は中山爺さんに会釈えしゃくをし、玄関をくぐった。

さっさと靴を脱ぎ、俺はエレベータへと向かう。父の部屋は四階だ。

家には、エレベータが東端と西端の二ヶ所に設置してある。

お手伝いさんなどはいない。遥か昔は家政婦を一人雇っていたそうだが、俺が生まれた頃にはすでにいなかった。最近の庶民が想像するところの、メイドや執事などもいるわけがない。日本においては、アレはただのファンタジーだ。

無闇に広いこの家の掃除は、ハウスクリーニングの会社と契約していて、一週間に一度、家全体の掃除に一〇人ほどが機材を背負ってやってくる。

日々の食事はと言えば、子供のころは朝はコンビニで買ったパンなどを食べていたものだ。だが夜は、なだまん吉兆きっちょうと契約していて、新鮮な食材を抱えた一流の料理人たちがやってくる。彼らがその場で腕を振るってくれるのだ。料理人と契約している時間帯なら、家族バラバラな食事でもきちんと対応してくれる便利なサービスだ。オヤジは仕事で食べてくることが多かったから、残った食材などは料理人たちがきちんと持ち帰ってくれる。掃除も生ゴミの片付けも、うちでは一切したことがない。

だからうちが雇っている個人と言えば、表口の老警備員の爺さんだけなのだ。別途、警備会社とも契約を結んでいるのに、そこは情が出てしまい、すっぱり解雇ということはしづらいらしい。オヤジとしては、爺さんが望むまで勤務してもらうつもりであるそうだ。俺もガキの頃から気安く話せる爺さんだから、死ぬまで残っていてもらいたいものだ。

うちだけにかかわらず日本の富豪層は、家政婦や執事を抱えることは少なく、ケータリングサービスを好む傾向にある。そして日本は、海外と大きく違い、外部の老舗しにせ会社を招き入れても比較的信用できる環境にあるから、そういうサービスを頼りやすい。少なくともうちは、その辺に現金や貴重品を投げ出していても、それが盗難にったというケースは一度もなかった。

たしかに日本は税金が高めだが、富豪層にとって、実は日本ほど暮らしやすい国は世界のどこにもない。どんなに大金持ちでも、どこでも普通に歩けるし、どんな店でも入れるし、溶け込むことができる。だからアジアの大富豪は、最後は日本に移住したがる傾向にある。この国では、貧乏人と富豪の区別など誰にもできない。

ちなみに、うちの隣に住み、俺に説教を喰らわせることが多かったクソ爺は、いつも怪しげなパーカーに薄汚れたジーンズと汚らしい格好ばかりしている。引退してからは図書館や公園をつまらなそうに往き来するだけの無味乾燥むみかんそうな生活を送り、たまに近所の子供たちを見つけては小言を言い募るクソじじいだ。しかし南海なんかい製鉄の創業一族で、百数十年にわたり着々と培ってきた総資産は二兆円に達する。

四階のエレベータを降り、俺は深々とした絨毯じゅうたんの上を進んだ。オヤジの部屋に近づくほどに気分が落ち込んでいく。

部屋の前。俺は大きく息を吐き出し、意を決してノックした。

「入れ」

オヤジの声だ。

「うす。来てやったよ。で、何の用なんだ?」

俺は部屋に入るなり、言葉も待たず、ソファまで進んでドカリと腰を下ろした。

オヤジは苦手だ。いつも俺はオヤジの前で感情が高ぶり、ついカッとなってしまう。いつでもオヤジは高所から正論をぶちかましてきたので、それに反発しようと子供が試みるとしたら、感情を剝き出しにするしかなかったのだ。

オヤジは机から腰を上げ、応接セットまで近づき、俺を見下ろしてくる。俺もオヤジもスーツの格好だ。なんつう他人行儀な家族なのだろうか。

無表情でオヤジが口にする。

「公安から問い合わせがあった。なんでも、公安捜査官を二人殴り倒したそうだな?」

呼ばれた理由がわかり、少しだけ安堵あんどした。

「そのことか。問題ないよ。ちゃんと説明して理解してもらえた。女の子が暴行を受けていると誤解しちまったんだ。まぁ俺が悪かったんだが、警察の方も事情を斟酌しんしゃくしてくれたよ」

「わからんな。警察の捜査にどんな誤解をしたのかってことが。時々お前のことがわからなくなる」

当時の状況を知らない他人なら、そう判断してしまうのも仕方のないことだろう。だが本当に警視庁には理解してもらえたし、張り倒した捜査官たちにも直接謝罪してきた。彼ら二人は「気が急いてきちんと説明をしなかった我々も悪かった」と言ってくれたのだ。万事、丸く収まっている。

かといって、長々とした話をまたオヤジに説明して聞かせるのもアホらしい。俺は一刻も早くオヤジの部屋から去りたいのだ。だから一言で済ませることにした。

「頼むから信じてくれよ。俺ももう大人なんだ。なぁ、それで十分だろう?」

オヤジはやっとソファに相対して腰かけ、しばらく俺の顔を黙って見据えていた。

やがてオヤジは、事件とは関係のない話を切り出してくる。

「まったく、蒼通なんぞに入りやがって。もっと相応しい企業に入れと言ったろう?」

いつもの小言だ。

「またその話か。俺が自分の力でどこに入ろうと、俺の自由だろうが」

オヤジは常々、メディアや広告業のような水物商売をバカにしている。俺の就職の時に、オヤジは「社会に出て働くのなら、鉄や石油を選ぶことだ」と幾度も口にしていたものである。とにかく発想が重厚長大じゅうこうちょうだいなのだ。徹頭徹尾てっとうてつび、実業一択。オヤジが代表取締役会長を務める東王とうおう印刷も社会インフラの企業だから、プライドがあるのだろう。

うちの家は、一八九七年、ひい爺さんの代に創業した東王印刷株式会社が礎になっている。目下、東王印刷は連結売上高一兆七六〇〇億円、東証一部上場企業だ。印刷業界日本一の座を京版けいはん印刷(連結売上高一兆七二〇〇億円)と争い、近年はエレクトロニクス部門・産業資材部門・環境部門などにまで手を広げ、印刷業は斜陽しゃよう産業と言われながらも業績は堅調に上昇中だ。オヤジは経団連の会長まで務めたこともある名士だった。

呆れたようにオヤジは口にする。

「自分の力だと?」

「コネなんぞ使っちゃいねえだろ。俺は今まで一度もオヤジに物事を頼んだこともないし、蒼通への就職を誰かに斡旋あっせんしてもらったこともない。きちんと受けたんだよ」

そう俺が言い切ると、オヤジは小さく首をふる。

「本当に颯斗は、すべて自分の力だけでやってきたと思っているのか? 蒼通に入れないわけがないだろうよ」

「もっと具体的に言ってくれよ」

「お前、五菱いつびし銀行にも、ゴールドマンドレクセルにも、テレビ日本にも受かったと言ったな? 本当に自分の実力だと考えているのか?」

「なぜ俺が金融やメディアごときにお前が入るのを、口利きしてやらねばならん? いいか、お前が東王印刷の一族だということだけで、どこの会社も諸手もろてを挙げて歓迎してくれるだろうよ。人事担当者がお前の履歴さえ知れば一発だ」

俺はオヤジの言葉に、ぐうの音も出なかった。指摘されたくないことを、よくもまぁサラリと言ってくれるものである

正直なところ、俺とて理解していた。俺について回る一族の履歴は、見えないところで俺の人生を規定しているのだ。しかし、こればかりはどうしようもない。

オヤジは冷静な口調で続ける。

「俺が納得できないのは、お前が蒼通なんぞを選んだことだ。社会に出て修行するなら、世界のどこへ出ても通用する場所を選べと何度も言ったろう。蒼通ごときは、〝大海の中のかわず〟だ」

まったくオヤジの指摘通り、蒼通は日本でしか通用しない視野の狭い企業だ。蒼通が、世界で通用する新しいマーケティングスタイルを産み出したり、他社が追随できない手法を開発することは、後にも先にもないだろう。要するに蒼通は、政治力や営業力を行使して利権をもぎ取り、その圧倒的な支配力で常に特等席を確保するタイプの企業だった。

だが、そのことと、俺が自分で就職先を決めることには何の関係もない。俺はぞんざいに応じる。

ああその通りだよ。だけど、いいじゃねえか、俺が何をやっても。どうせ跡継ぎは悠斗ゆうとだってんだろ。俺に何を望むんだよ」

「その件に関しては、お前に悪いと思っている。だが、織葉家の後継者は悠斗で決まりだ」

そう断言し、何を思ったのかオヤジはスックとソファを立って、自分の机へと向かった。

悠斗は俺の弟である。三つ下の二三歳。昨年大学を卒業し、大東亜石油に就職して一年数ヶ月。由佳里と同い年である。

兄の俺が言うのも何だが、悠斗は優秀な弟だ。頭も良いし、堅実で人当たりも良い。穏やかな性格はビジネス面で若干心配だったが、社会に出て揉まれれば、その辺りのバランスも身についてくるだろう。

悠斗なら、織葉家を継ぐのに不足はないと俺も思う。だが問題は、俺が兄で、悠斗が弟だったということだ。せめてこの関係が逆だったら万事が上手く収まり、俺とオヤジはここまでギクシャクした関係にもならなかったろうに

机の引き出しから書類を取り出したオヤジは、ソファに戻ってきた。

オヤジはゆっくりと腰かけ、両手を組んで俺を見据えてくる。

「何度も伝えてあるように、兄弟で力を分散するのは愚の骨頂だ。海外の財閥や日本の権力層それらが長年にわたって名を残しているか、それとも消えたかの明暗を分けるのは、子孫への遺産の残し方で決まっている。子供たちに均等に遺産を分与した家系は、例外なく、いずれ消えゆく運命にある」

ゴホンと咳払いして間を置き、オヤジは続ける。

「颯斗も知ってることだが、俺には姉と弟がいた。父は、織葉家の跡継ぎは俺だと匂わせてはいたが、結局最後まで明言しないまま死んでしまった。そしてたしかに、遺書にはそれが書いてあった。まだ六〇歳を少し超えたばかりで、ある日突然、脳卒中でポックリとな。本人も、こんなに早く死ぬとは思っていなかったのだろう。だがそのせいで俺たち姉弟は財産分与で揉めに揉め、法廷での争いにまで発展し、結局、今に至るまでわだかまりは解消していない」

その大まかな事情は聞き及んでいた。身内同士の争いだけに、ドロドロの闘争に発展したそうだ。うちの場合は扱うケタも違うから、外部の事件屋やペテン師まがいの会計士、警察OBや弁護士、果ては右翼団体や任俠団体まで介入してきて、それはもう激しいものだったらしい。

「お前たち二人には、兄弟でみにくく争い合う状況だけは避けてほしいと願っている。だから俺の目が黒いうちに、すべてを決しておきたい。今日来てもらったのは他でもない。この書類にサインしてもらいたいんだ」

オヤジがテーブルの上、俺の方に書類を押しやってきた。

それは相続放棄の同意書だった。

今日俺を呼んだ本題は、警視庁なんてチャチな話ではなく、このことだったらしい。オヤジは一族にとって非常に重要な決断を、ここで決しようとしていたのだ。

俺とて、この書類の意味するところはわかる。相続放棄とはその名の通り、民法上、相続人となるべき人物が、相続を放棄することだ。一般的には、被相続人が巨額の負債を背負っていたために、借金を引き継ぐのを拒否したい相続人が利用するケースが多いと考えられている。しかし富裕層に属する経営者一族に利用されるケースも多く、家業を長期的に安定させていくため、後継者と定められた兄弟姉妹以外の者が相続財産を辞退する方法の一つだった。

俺は、織葉家の財産をどうしても引き継ぎたいと望んでいたわけではない。繰り返すが問題は、俺が兄で、悠斗が弟だったことだけだ。俺にもプライドがあるし、自分に能力がないとも思っちゃいない。悠斗に比べたら俺が劣っていることも認めよう。それでも心情的に、いかんともしがたい想いに駆られるのは仕方のないことだった。

オヤジのことは嫌いで仕方がないが、悠斗のことまで嫌いなわけでもない。だが、なぜか心に大きな穴が空くようなこの気持ちは、きっと俺にしかわかるまい。

こんな話がある。誰もが名前を聞いたことのある大企業U社の実話だ。U社の創業家には二人の兄弟がいた。兄はU社に入社して専務取締役を務め、弟は自分で事業を創業してジャスダック上場企業I社を創り上げた。周囲では、弟の方が経営能力においても決断力においても上という評価であった。やがて父親が死を目前にして弟を後継者と定め、U社の社長には弟が就任する。その後、ほどなくして兄は自宅で首を吊ってしまった。本当の話だ。

俺は、オヤジをぶん殴ってやりたい衝動に駆られた。無性むしょうに腹が立つ。冷静であろうと意識すればするほど、感情的になっていく気持ちを抑えられない。

頭では、オヤジが決して間違っていないこともわかってる。いや違う昔から、オヤジはいつ何時でも正しかった。正論一辺倒の男なのだ。子供時代から今に至るまで、その正論の重圧にさらされてきた俺の気持ちを、オヤジはどれほど理解しているのだろうか。

なぜだかわからないが、俺は涙が出そうになった。それでも憎たらしいオヤジの前で涙を見せるくらいなら、今ここで自決して果てた方がマシだ。俺は唇をかんで涙を堪えた。

資産家の家に生まれた元内閣総理大臣・麻生あそう太郎たろうが「とてつもない金持ちに生まれた人間の苦しみなんて、普通の人には分からんだろうな」と発言したことをメディアにすっぱ抜かれ、世間から激しくバッシングされたことがある。しかし俺としては、麻生太郎の言葉に全面的に同意したい気分だ。

オヤジが差し出してきたペンを、俺は乱暴に受け取った。

そして大して書類を読み込みもせず、サラサラと同意書にサインしていく。

とにもかくにも、これで俺と悠斗との遺産相続の醜い争いは回避されるということだ。どうでもいい。

サインが終わった同意書を、俺はオヤジに押しやった。

「ほらよ。俺もオヤジのことが死ぬほど嫌いだ。織葉家なんて、こっちから絶縁してやりたいくらいだ」

「バカ野郎が。大して実力もないヒヨッコのくせに、いっぱしを気取るんじゃない」

「帝王学は聞き飽きた。悠斗に教えてやってくれ。さて、これで話は終わりだな?」

言葉も待たず、俺はソファを立ち上がった。

オヤジを見下ろし、俺は宣言する。

「蒼通を辞めることに今決めた」

蒼通を辞める? 何を今決めたというんだ?」

啞然としたように、オヤジは俺を見上げていた。

「織葉の力が及ばないところで勝負してやる。自分の力だけで戦うことに決めたってことさ」

「お前が一人で? 徒手空拳としゅくうけんで、いったい何ができると言うんだ?」

「帝王学を俺に叩き込んできたのはオヤジだろう。徒手空拳でも、できることがあると教えてやる」

そして俺はドアノブに左手を掛け、右手でオヤジを指差して言い放つ。

「いいかクソオヤジ、よく覚えてろよ。東王印刷なんぞ蹴散らしてやるからな。吠え面かくなよ。弟子に討たれる師匠ってのは、あんがい悪い構図じゃない」

思う存分に感情をぶちまけた俺は、乱暴にドアを開け放ち、オヤジの部屋を後にした。

サッサと実家を去ろうと玄関で靴を履いていると、悠斗が声をかけてきた。

「兄さん!」

「よう。帰ってたのか。今日も仕事だって聞いてたけど」

振り向くと、悠斗もスーツ姿だった。

「さっきまで会社にいたんだ。夕方にはイランに飛ばなくちゃならない。しばらくそっちに滞在する予定だから、荷物を取りにね」

悠斗は今でもここに住んでいる。勤務する大東亜石油の本社が大手町にあり、ここからならチャリでもタクシーでもすぐだから、引っ越すのが面倒だったらしい。

ちなみに俺は就職が決まってすぐ、銀座の外れに1LDKを借りて移り住んでいた。蒼通の近くが便利だったからというよりも、単にオヤジと距離を置きたかったのだ。

「イランか。核武装問題やら何やらで、あっちは色々きな臭くなりそうだな。気を付けろよ」

「まぁね。うちも色々と情報収集しなくちゃいけないことが出てきてるんだよ。イスラエルとイランの対決姿勢がエスカレートしてて、アメリカを巻き込んで大きな紛争に発展する可能性があるんだ」

そう説明し、悠斗は話題を切り替える。

「兄さんの方は、仕事、順調なの?」

「ああ、俺、蒼通を辞めることにした」

え? なんで?」

悠斗は目を丸くした。入社して間もない悠斗にとって、会社を辞めるなどすぐには想像できないことだろう。ましてや悠斗は、仕事が好きでたまらないようだから尚更だ。

俺は肩をすくめる。

「実はあんまり深く考えてないんだ。ちょうど三分前に決めたところさ」

「東王印刷に行くの?」

「いかねーよ。俺とオヤジが仲悪いこと知ってるだろ。修復不可能ってヤツだ」

「父さんも兄さんも、どっちも意固地になってるだけなんだよ。二人ともガンコだからなぁ

うんざりした表情で悠斗は言った。いずれ織葉家の後継者として指名されることを、悠斗は知らない。きっとその辺りのことは何も考えず、俺が継ぐと思い込んでいるに違いない。弟とはそういうものだ。

俺としては、悠斗がオヤジから後継者として指名されたときに、あまり俺に気を遣わないようにしてやりたい。

悠斗は食い下がってくる。

「じゃあ蒼通を辞めるってどういうことさ?」

「そのうち身の置き所が定まったら話すよ。あんまり期待せず楽しみにしておいてくれ」

俺は軽く手を振り、玄関を立ち去った。

「ちょっと、兄さん!」

悠斗の声が追いすがってきたが、俺は振り向きもせずに正門を抜け出した。

「辞める? どうして?」

俺の辞表を前にした部長は、戸惑ったような声を上げた。

予め用意していた当たり障りない理由を俺は言う。

「一身上の都合です。蒼通に不満はないんですが、色々考えるところがありまして」

「東王印刷に行くのか?」

部長が悠斗と同じことを言ったので、思わず笑ってしまった。

「それはありません。今後もずっと、私が東王印刷に関係することはないでしょうね」

「こんなことを聞くのはおかしいがたとえばだ、俺が説得したら翻意ほんいする可能性は?」

部長は机に身を乗り出し、秘め事を告げるような口調で言った。

「申し訳ない。一〇〇%ありません」

。ふぅむ。織葉くんは結構な案件を抱えてるだろ。引き継ぎには時間がかかりそうだ」

「私が抱えている案件の大半には、このところずっと健城に同行営業させています。学ばせるためだったんですが、ちょうど都合よく、引き継ぎの役割にもなってくれたということですね。事業部の他のメンツにも、適時案件を割り振っていくようにしますし」

「しかし健城くんに独り立ちさせるには、まだちょっと早いんじゃないか?」

「いえ、アレでも健城は要領がいいヤツですよ。お客さんの受けは非常に良いし、才能があって努力もする。お客さんに最後の挨拶あいさつ回りをする際に、必要なことはすべて健城にも伝えておきます。それに何かあれば、辞めた後でもいつでもお手伝いに参上しますよ。当面、フリーの予定なんで」

俺の言葉に、部長は呆れた顔をする。

「なんだ。本当に何も決まってないのか。もっと良い条件でヘッドハントでもされたのかと思ったぞ。君は頭が良いから、もっと手堅い人生設計を描くかと思ってたよ」

「残念ながら、頭は悪い方なんです。これからは、悪いなりに努力してみようかと」

苦笑いしながらそう言って、俺は肩をすくめた。

続々と由佳里や事業部のメンバーらに仕事を引き継いでいくなかで、神楽日毬に手伝ってもらう予定の防衛省案件の打ち合わせをすることになった。

会議に参加してもらうため、俺は日毬を蒼通に呼んでいた。会議には日毬と、俺と由佳里、それからチームリーダーの部長と、制作を担当するディレクターの五名が参加している。

なぜか日毬は拡声器を持ってきていた。隣の椅子いすに、ちょこんと使い古しの拡声器が置いてあるのは場違いな感じだ。

日毬から渡された政治団体の名刺をしげしげと眺めていた部長が、きつねにつままれたような表情で視線を上げる。

「政治結社日本大志会。この子かうーん、これは確かに美少女だな。よくこんな子を見つけてきたな?」

「街中で声を掛けただけですけどね」

俺がそう言うと、部長は冗談交じりな口調で応じる。

「スカウトまでできる蒼通マンは君だけだよ」

業界人風のヒゲをはやしたディレクターが、興奮したように日毬の方に身を乗り出す。

「いやいやマジ可愛いっしょ、この子。政治団体なんてやってる場合じゃないって。ねぇ日毬ちゃん、プロダクションに所属するつもりある? 即日でエース張れるよ。紹介するけど、どう?」

軍人のようにスックと背筋を伸ばした日毬は、鋭い視線でディレクターを見やる。

「真正なる右翼は、日本に私ただ一人である。私に日本を変える使命がある限り、いかなる危機に直面しようとも、日本大志会で戦い続けてみせる。もはや我が国には一刻の猶予もない。私がやるしかないのだ」

あんぐりと口を開けたディレクターは、放心したようだった。

「ちなみにプロダクションに所属とはどういうことだ? 政治政党のようなものなのか? 具体的に解説してくれ」

「そこから!? ていうか、その喋り方、素!?」

目を白黒させるディレクターに、由佳里が説明する。

「素なんですよ。主張はともかく、とても一生懸命で真面目な子であることは保証します。ね、日毬ちゃん?」

「私はいつでも真剣に生きている。生き方を妥協すべきじゃない」

日毬は決然として言い切った。

なんというか、すごい子がいたもんだ! スタイルも、ユカッチとは比べものにならないよね。何もかも一六歳とは思えないよ」

「ユカッチ」とは、ディレクターが由佳里のことを呼ぶときの渾名あだなだ。由佳里も特に抗議しなかったので、それで通っている。このディレクターは女の子に勝手に渾名をつけまくることで社内で知られていた。

ディレクターは両腕を伸ばし、両手の人差し指と親指で四角を作って、日毬のバストやウェストの辺りを覗き込んだ。普通の人がやれば痴漢行為としか思われないが、試写体をチェックするディレクターのいつものクセだ。

「ディレクター、誰と誰のスタイルを比べてます!? 私だって捨てたものじゃないはずです!」

由佳里はテーブルにドンと拳骨をつき、ディレクターを睨みつけて息巻いた。

するとディレクターは、両手の指で作った四角を由佳里のバストあたりに移動させ、まじまじと眺めやる。

「ユカッチ、結構ハードにスポーツやってきたでしょ。適度に引き締まった筋力は魅力的だけど、バストを日毬ちゃんと比べちゃいけないってマジで。だって、必死に寄せて上げてソレじゃん。限界まで頑張ってるよね」

「むっかー。超怒った。セクハラ逮捕です。求刑は、面倒だから死刑ってことでいいですか」

「ユカッチに処刑されるなら本望だけどさ、その前に日毬ちゃんの活躍をこの目に焼き付けておきたいね。きっと日本を動かす子になるよ」

ディレクターはいい加減なようでいて、タレントをチェックする目だけは肥えている。日毬がディレクターに認められたということは、俺の選定眼が評価されたということでもあった。素直に嬉しいことだ。

俺は日毬に問いかける。

「渡した台本は覚えてくれたか?」

「万全だ。任せてほしい。国防に人為的ミスは決して許されないからな。私はこの仕事に命を懸けている」

「隅から隅まで、ぜんぶかっちりと覚える必要なんてないからな。大まかな流れを摑んでおいて、あとは要所要所で台本を確認しながらやればいい。ミスしても何度だって撮り直せるから心配ないぞ」

「私にいろいろしてくれた颯斗にも、精一杯喜んでもらえるよう死力を尽くそうと思う。お前は私の初めてだ」

何気ない日毬の『お前は私の初めてだ』というセリフに、出席者一同は凝固した。かく言う俺も、そのセリフの意味を反芻し、半ば呆然としてしまう。

部長もディレクターも由佳里まで、ぎこちなく俺に視線を向けてくる。

「未成年だぞ

「手早ッ!」

「うっわ、先輩チャラい人だと思ってましたがいつの間に

「違う! みんな誤解してる。俺は何もしていない」

俺は全力で否定し、日毬に説明を求める。

「日毬、やたらと懸命な表情でジョークを飛ばすのはやめてくれ。俺が日毬に何かしたか? みんなの誤解を解いてやってくれ」

「私は冗談など言わないぞ。颯斗には、たくさんのことをしてもらった。初めてのことばかりで本当に本当に、とても嬉しかったんだ。私も颯斗にいろいろしてあげたい

日毬は恥ずかしそうに視線を落とし、可愛らしくはにかんだ。

部長は沈黙し、ディレクターは色めき立つ。

「おいおいおいおい、どうなっちゃってんのよこれ。死刑にするしかないよ」

「処刑されるべきは、ディレクターではなく先輩の方でした。銃殺刑です」

由佳里も生真面目な顔で断言した。

「なぁ日毬、初めてのことって何だ!? 俺には覚えがないんだが!?」

「たくさんしてくれたろう? お前は私が警察に襲われているところを助けてくれた。政治議論もたくさん交わしたし、日本大志会を結成してから初めて党費を寄付もしてくれた。おまけにお前は、私に国防任務を与えてくれるのだという。たった一日で、私なんかのためにこんなにしてくれたのは、何もかもお前が初めてなんだ

日毬の言葉に、俺はホッと胸をなで下ろした。だが、「警察に襲われる」という表現はどうかと思う。

ディレクターはあっさり前言を翻す。

「そうだと思った。見た目と違って、織葉ちゃんは根が真面目だからね。条例違反なんてするわけないよ」

「なぁんだぁ。そういうことなら私も知ってます。私だけは信じてましたよ、先輩!」

由佳里は可愛らしい声を上げた。

「お前ら今、俺に死刑宣告したばかりじゃねーか

部長はゴホンと咳払いし、話を切り替える。

「彼女は未成年だから、親権者の同意が必要だ。それはもらっているか?」

「今日、日毬が持ってきてくれているはずです」

俺の言葉に、日毬はうなずく。

「母上にちゃんともらってきたぞ。これだ」

日毬は封筒を取り出し、書類を広げた。

しっかりと親のサインが記入してある。毛筆の太々としたサインで、サイン欄から大きくはみ出しており、しかもやたらと達筆だ。書道の達人レベルが書いたとしか思えない記名だった。

同意書を取り上げた部長は、うめくように言う。

ふむ。こんなに上手い字は見たことがない。じゃあ織葉くん、念のため撮影前に一度、確認も兼ねて親御さんのところに挨拶に行ってきてくれ」

「わかりました。元々そのつもりです」

日毬のことを信じないわけではないが、親権者が本当にサインをしたのかどうか、直接確認を入れることは必須だ。未成年のタレント志望者には、親権者のサインを自分で書いて、いかにも親が同意しているように見せかけるケースがたまにある。日毬に限ってそれはなさそうだが、お役所案件である以上、そこは押さえておかなくてはならなかった。

次に部長は、由佳里に指示を出す。

「それから当面の間、防衛省の広報担当は健城くんに取り組んでもらうことになる。事業部のなかから誰か割り当てることも考えたが、みな忙しい。それに今回は小さな案件だ。だからひとまず健城くんが、この仕事の引き継ぎをしてもらってほしい」

「あいあいさー」

軽く由佳里は応じた。

俺は日毬に口にする。

「日毬。後日、俺と由佳里で親御さんにご挨拶に伺うことになる。すぐに済むから、悪いけどその旨、伝えておいてほしい」

「わかった。颯斗が来てくれるなら大歓迎だ。ぜひとも日本大志会の総本部にも立ち寄ってもらいたい」

それから会議の間も、終始、日毬は堂々たる態度を貫き通したのだった。

由佳里の父親が経営している寿司屋に、俺と由佳里はやってきていた。一〇席のカウンター席しかない、こぢんまりとした寿司屋だ。築地で長く営業している老舗しにせであり、常連客だけで経営はなんとか成り立っているらしい。

最奥の席で、俺と由佳里は刺身の盛り合わせを摘みながら熱燗あつかんを飲んでいた。会社から遠くはないので、由佳里とサシで軽く飲むときはここにやってくるのである。どうせお金を落とすなら、由佳里の実家で落としてやった方がいい。

それに由佳里のオヤジさんは腕も良く、この店の食材のレベルは相当に高かった。俺は美食家ではなく、牛丼だろうがコンビニ弁当だろうが何でも食べるが、これでも幼少のころから最高峰の料理人や食材に囲まれてきて舌は肥えている。その俺が美味いと感じるのは結構なレベルということだ。

熱燗を一口あおった由佳里は、俺に視線を向けてくる。

「先輩、本当に辞めちゃうんですか? せっかく蒼通に入れたのに、まったく信じられないですよ」

「価値観の違いだ。俺は別に、蒼通がすがりつくほど素晴らしい会社だとは思っちゃいない。俺のオヤジなんて、蒼通をクズ呼ばわりしてるからな」

「そうかぁ私はしがみつきたいですよ。お給料はいいし、取引先も私たちのことを、みんな下にも置かないですからね。やっぱり先輩みたいな富豪と、私みたいな庶民じゃ、そういうところからして違うんでしょうか」

「あのな、俺はちっとも富豪じゃねーぞ。家も賃貸だし、貯金だって由佳里とそんなに違いがあるとは思わない。オヤジから出してもらった金は大学の学費だけで、学生時代の生活費だってバイトして稼いできた。実家と俺はまったく違う」

「でもそれは家庭の教育方針ってだけであっていずれ財産は先輩のものになるんでしょ? だったらやっぱり富豪だと思うなぁ」

「織葉家は弟が継ぐ。俺にはもう無関係のものだ。ほとんど縁を切ってるようなものさ。そんなこんなで、一から出直してみようと思ったんだ」

ふと由佳里が、思いついたように声を上げる。

「そもそも織葉家って、どのくらいの財産があるんです?」

「そうだなぁ大雑把なところだと、東王印刷の持ち株だけで七〇〇〇億その他、うちの家が創業に関わった三和さんわ製薬や交北こうほく建設の株それから不動産まで諸々もろもろ含めれば、まぁ一兆三〇〇〇億ってところだろう」

大雑把に俺が計算しただけで、由佳里は度肝を抜かれたような表情をした。

「うっはケタ違いすぎ

「だけど現金で持ってるわけじゃない。大半は株と不動産になってるわけだから、俺の家族は、お金持ちだなんて実感を誰も持っちゃいないよ。株だって、うちが支配権を維持するためには換金できない性質のものだ。自由に動かせる金は、実はそんなにない」

「ていうか、どうして弟さんが継ぐんです? 先輩なら実力があると思えるんですが」

「そうでもないさ。俺と比べれば、悠斗弟の方が優秀だ。それは俺も認める」

「私から見れば、先輩はかなーり優秀ですよ。蒼通の誰よりも。お世辞じゃないっす」

由佳里は本気で言ってくれたようだったので、俺も真摯しんしに状況を説明してやりたいと思った。それに俺たちの仲で、隠し立てするようなことでもない。だが、どうやって説明してやればいいだろうか。俺は悩みながら口にしていく。

「うーん、そうだな目先の仕事ができるできないっつう単純な問題じゃないのかもしれない。戦術じゃなくて戦略的な話だ。もっとこう、一言で説明しがたいけどこうな

「庶民にもわかるように説明してください。両手で空気をこねくり回して見せてくれたって意味不明ですよ」

じゃあひとつ具体例を挙げようか。あれはたしか俺が小学校六年生の正月だった。ということは悠斗は小学三年生だな。新年早々、俺たちは兄弟そろってお年玉を渡された」

「ふむふむ」

いくらだったと思う?」

「え? さ、さあ。先輩の家なら一〇万円とか?」

由佳里の答えに、俺ははばかることなく腹を抱えて笑った。しきりに富豪と庶民とを区別する由佳里を奇妙に思っていたのに一〇万円という庶民的な発想に思わず吹きだしてしまったのだ。

激しく両腕を上下させ、由佳里が抗議してくる。

「そんなに笑うことないじゃないですか! もしかして金額が少ないってことですか?」

「悪い悪い。だってやたら具体的で由佳里っぽい金額だから、ついな」

「あんまり庶民をバカにすると、革命起こされちゃいますよ?」

俺は咳払いをして口にする。

「白紙の小切手だよ。お年玉が。小学生にだぜ?」

「白紙の小切手!?」

由佳里は意表をつかれたようだった。

「ああ。オヤジがペンと一緒に渡してくるわけだ。俺と悠斗に、好きな金額を書き込めってな。で、ここからが本題だ。俺たちは幾らを書き込んだと思う?」

「それはわかった! 一〇〇万円! 子供なら一〇〇万円ですよ」

「その金額はわかるような気がするな。惜しい。悠斗は一〇〇〇万と書いた。そして本当に悠斗は、一〇〇〇万をもらったよ」

「ほわ〜。小学三年生が一〇〇〇万

由佳里は呆気あっけに取られたような声を出した。

「まぁたぶん悠斗は、適当にゼロの数を書いただけだと思うけどな。そして肝心の俺だ」

「先輩ならもっとゼロを適当に書きそうなんで、一〇〇〇億とか? それでお父さんを怒らせちゃったと」

「違う。三九八〇円だ」

俺の答えに、由佳里が吹き出す。

プッ。すみません

「いいよ。笑うところだ。ちょうど俺には欲しくてたまらないゲームソフトがあってな。それが三九八〇円だったんだ。俺が喜び勇んで差し出した小切手を、オヤジは哀しげな面持ちで見下ろしてた。そのオヤジの顔を、俺は今でも覚えてる。器小さいと思うだろ? 今振り返れば俺も思うよ。反論ねーよ。俺は本当に三九八〇円を貰ったよ。その時は嬉しくて、金を握りしめてゲームソフトを買いに行ったんだ」

「それからこんな話もある。俺が高一、悠斗が中一のとき、オヤジ名義の一〇〇〇万円が入金された証券口座を渡された。オヤジは言った。『三ヶ月間、この金を自分で運用して増やしてみろ』とな。オヤジなりの、子供に対するテストのようなものだったんだろう」

「さすが、経営者一族ですねー」

「悠斗はその金を、三ヶ月後には一三七〇万円にした。まだ中学一年だってのに立派なものだ」

「じゃあ先輩は?」

ワクワクした表情で由佳里は聴き入っていた。

「そう、それが問題だ。三ヶ月後、俺の一〇〇〇万円は幾らになったと思う?」

「それは簡単ですよ。大幅に減らしたんですよね。きっと運用を大失敗して、元手を五〇万円にまで減らしちゃったんだと思います」

「大ハズレ。俺は三ヶ月で、二億円の損を出した。つまり、マイナス一億九〇〇〇万円だ」

由佳里は息を吞む。

「マジすか。むしろ元手一〇〇〇万円なのに二億円の損を出すのが凄いんですが

「忘れもしない、為替かわせ取引だ。子供だから加減を知らなくて、たった一取引に全開でレバレッジをかけててさ。日銀がなぁ日銀が突然介入したんだよ。そして俺は大損だ。高校生ながらに、心臓が止まる寸前だったんだぞ。オヤジに告げるのが怖くて証券会社が追証を要求してくるまで隠してた。それが余計にオヤジの怒りに触れちまって

俺はうなだれて続ける。

「ああそうさ、俺が悪かったよ。それからオヤジは二度と俺に資産運用の訓練をさせなかった。俺もトラウマで、あれ以来、株式や相場には一切手を出したことがない」

「それはトラウマになりますね

「当時、オヤジが東王印刷から受け取る公式の年俸は、せいぜい一億くらいだったはずだからその二倍以上。むしろオヤジの方が、よっぽどトラウマになってるんじゃないか」

俺は熱燗をあおり、うんざりして続けてゆく。

「俺たち家族には、こんな逸話が山ほどある。一日じゃ語り尽くせないほど、山ほどだ。ああ、わかってるよ。俺がオヤジから邪険にされるのは当然なんだ。そしてオヤジはそれをハッキリした態度で示すようになってきて、俺も反発し続けるようになっていた。オヤジはわざととしか思えないほど、俺と悠斗を差別した。今だから客観的に状況を振り返ることができるけど、子供の頃の俺は怒りの持って行き場がなかったんだ。オヤジが憎くて憎くて堪らなかった。今でもやっぱり、俺はオヤジが嫌いなままだ。できれば二度と顔も見たくない。正直、俺とオヤジの仲は一朝一夕には語れない、もはや修復不可能なものなのさ」

率直な感想を言わせてもらいますね」

「なんだ? 遠慮せず言ってみな」

「話を聞いてると、それ、実力の有る無しじゃなくて、個性の問題に過ぎないと思いますね。本当に。なんか、先輩の方が個性がとがってて、本当は弟さんより、ずっと秘めた実力を持っているのかもしれませんよ? そんな気がしました」

「へえそういう見方もあるんだな。その意見、ちょっと新鮮だったぞ」

少しばかり感心して、俺は由佳里を見やった。

由佳里はイタズラを前にした子供のような顔で言う。

「ところで今度、弟さん紹介して下さい。きっと私、好きになると思うんです」

「うっせ。なかなか良い意見だと思ったのに台無しだ」

「あはは、冗談ですよ。やっぱり私は、先輩と弟さんの違いは、個性だけだと思いますね。先輩にだって多少は財産を主張する権利があるんじゃないですか?」

「そんなみっともないことを俺はしない。端金はしたがねなんて幾らあっても大したことはないんだ。それよりも、富裕層に囲まれて過ごしてきたからこそ、自身の能力や人の縁の方がはるかに重要だってことを、俺はこの目で見てきたよ。だから俺は悠斗と事を構えるようなことはしない。オヤジや悠斗に助けを求めるようなこともない。俺は俺の力で、彼らと対等に向き合っていくつもりさ」

うーむ、風格ですねぇ。その辺の成金っぽい男の人とは違います。私、これでもお金のある男の人に結構言い寄られますけど先輩と比べれば全然ダメに思えてしまいます。目先の財力をこれ見よがしにチラつかせて女の子の歓心を買おうなんて、情けないったらありません。あーあ。先輩と会わなきゃ良かったのに。どうしたらいいんでしょうね!」

「由佳里の場合、普段からツンと澄まして、お高く構えることを学んどけ。由佳里はそのくらいの方が、優秀な男を捕まえられるだろう」

他のお客さんに寿司を握りながらも、俺と由佳里のやり取りに耳を傾けていたのだろうか、店主である由佳里のオヤジさんが俺たちの話に割って入ってくる。

「もらい手があるうちに、良い人を見つけてくれればいいんだがねぇ。うちの経営も厳しいから、早いとこ娘を嫁に出して、あとはゆっくり暮らしたいよ」

「もらい手ならジャンジャンいるもん。あまりにたくさんいすぎて選びきれないくらいなんだから!」

すかさず由佳里が反論した。

俺もオヤジさんに同調する。

「その割には男っ気あるように見えんけどな。そろそろ仕事も覚えたろ。残業は適当に切り上げて、たまには遊びにでもいくようにしろ」

「そうします。仕事での力の抜き方もわかってきたんで。近いうちにパワー増しますから」

オヤジさんが俺に訊いてくる。

「そろそろ何か握る? 織葉さんはうんと安くしとくから、どんどん頼んじゃってよ」

「じゃあまずはイクラとサーモン、お願いします」

「はいよ」

由佳里も続いて注文する。

「お父さん、江戸前穴子ね」

「ダメだ。他のにしろ」

「えー!? なんでー!?」

「お前はネタの仕入れ価格知ってるだろう。由佳里は安いの限定だ」

「どうせ先輩持ちだし! 物凄い勢いでガンガン頼んじゃった方がいいよ!」

「だったら尚更だろう。ちょっとは遠慮ってものを知らないのか」

「江ッ戸前あっなごー!」

由佳里は子供のように、はしで食器を打ち鳴らし始めた。少し酔いも回っているのだろう。

「ったくこの娘は

啞然とするオヤジさんに、俺は言う。

「いいですよ。江戸前穴子、握ってやってください」

「すいませんね、こんな娘で。本当にいつもいつも

ひたすら申し訳なさそうにしつつも、オヤジさんは由佳里に江戸前穴子を握ってやった。寿司ゲタからはみ出すほどに大きい穴子を、由佳里は嬉々としながら一口でほおばった。

この親子のやり取りをみていて、しみじみと感じる。うちの家庭とはまったく違う。この親子の温かいやり取りを、心底からうらやましく思った。

降車駅は若松河田わかまつかわだ

日毬の親御さんに挨拶するために、俺と由佳里は揃ってやってきたのである。

若松河田駅は、東京都民にさえあまり知られていない駅だった。東京の都心なのにだ。

駅を上がると申し訳程度に、昔から営業を続けているようなお店が幾つかあるだけだ。どこかの田舎駅と言われても不思議ではない雰囲気もある。

神楽かぐらざかからこの辺りまで連なる一帯は牛込うしごめ地区と総称され、古くは牧場が多くあり、牛がたくさんいる地域として名付けられた。江戸時代には武家屋敷が広がり、それにちなんだ地名も多く残る。第二次世界大戦前は新宿区ではなく、牛込区として独立した区でもあった。相対的に戦争の被害が少なかったこともあって、かつてのコミュニティが色濃く残り、再開発とは無縁の地域にもなっていた。そのせいで、千代田区に隣接する新宿区東部一帯は、都心に古い町並みが残されることになる。

駅を出てすぐ、なだらかに下る路地を入り、以前、日毬と避難した児童公園を通り過ぎた。

あまりにゴチャゴチャした住宅街と、複雑に入り組む細い路地に迷うだろうと思っていたが、幸いにも由佳里のおかげで一度も立ち止まることなく日毬の家に着くことができた。

日毬の家はひときわ大きな木造家屋で、古びた木塀に囲まれ、昔の武家屋敷をそのままもってきたような無骨な造りだった。

剣道場を経営していると言っていたが、一見しただけでは道場だとはわからない。家の表札も普通に「神楽」となっている。

木の門をくぐってなかに入ると、目の前には玄関。右奥には別の出入り口があり、そちらに「神楽道場」と、ひなびた看板がかかっていた。

玄関のチャイムを押すと、ガラリと扉が開き、稽古着けいこぎ姿の日毬が姿を現した。白無地の道衣に、紺色の袴、そして足袋まではいている。しかしどことなく大人びて見えるのは気のせいか。

「あれ日毬? なんだか雰囲気違くないか?」

「日毬ちゃん、かな?」

俺と由佳里が戸惑うと、日毬とそっくりな女の子が無表情で首をふる。

「私は日毬ではありません。姉の凪紗なぎさです」

「あっ、そうでしたか。お姉さんがいるとは聞いておらず。こんにちは。蒼通の織葉と申します」

「同じく蒼通の健城と申します。日毬さんの件で、親御さんに一言ご挨拶させて頂きたく参上しました」

「母上と日毬が奥座敷でお待ちしています。どうぞお上がり下さい」

格式張って俺たちをなかに招き入れた凪紗は、ニコリともしなかった。超然とした立ち居振る舞いは、日毬とおんなじだ。一見無愛想だが、俺たちを嫌っているわけではないのだろう。

古い日本家屋の廊下を凪紗のあとについていく間、由佳里が俺の耳元に近づいてヒソヒソと口にする。

「お姉さんも可愛らしいですね。ちょっと浮世離れした美貌です」

「ああ、仰天した」

部屋に通されると、今度こそ日毬が待っていた。日毬は学校の制服姿だ。

その奥には四〇前後の女性母親だろう。よく通った鼻筋やくっきりした目尻から、若いころ美人だったであろう面影が十分に見てとれる。

日毬が紹介してくる。

「よく来てくれた。母上だ」

「神楽京子きょうこです。わざわざ足を運んで頂き、ありがとうございます。この度は日毬が世話になるそうで、何卒よろしくお願い致します」

「そして案内してくれたのが姉上だ。今は道場の師範を務めている。剣の腕前は一級品だぞ」

「改めまして、神楽凪紗です。茶をお持ちしますので、少々座を離れます」

挨拶を交わして、用意された座布団に俺たちは腰かけた。

さっそく俺は疑問に思ったことを訊いてみる。

「女性ばかりですね。失礼ですが、旦那様はいらっしゃらないのでしょうか」

「夫は五年ほど前、肺病をわずらって亡くなりました。ですから家のことは、私と凪紗が代わりを務めさせて頂きます」

そうだったのか。日毬はいわゆる母子家庭だったらしい。そう言えば同意書のサインは母親のものだった。

凪紗がお盆を持って戻ってきた。俺たちの前に丁寧にお茶を並べ、部屋の隅に正座した。

「そうでしたか。知らぬこととは言え、失礼いたしました。お話はすぐに済みます。すでにお聞き及びになっていると思いますが、日毬さんに防衛省の広報VTRに出演頂くことになりまして一六歳ということもあり、親権者の方に同意をして頂く必要がありました。それで今日、こうしてご挨拶にお伺いした次第です」

「同意書にはサインしたはずですが

「はい、ありがとうございます。しかし昨今、保護者にもらうべき同意のサインを自分でサインしたりするケースもあり、やはり直接確認することが必要だったのです。お手間かとは存じますが、ご了承ください」

「なるほど

「ですから実は、こうしてお会いできただけで、今日の目的はすでに達成しているも同然なんです。だからもしお母様が不安に思っていることなどありましたら、逆にご質問などして頂ければ、すべてお答えいたします」

「私からは特に何もありませんね日毬が決めることですから。凪紗、何かある?」

京子が振り向いて問いかけると、凪紗はきっぱりと応じる。

「いえ、ありません」

次に京子は日毬を見やる。

「日毬、あなたはもう決めているのでしょう?」

「母上。私はやらなくてはならない。日本国の未来のため、私はこの身を削ってでもご奉公するつもりだ」

日毬は決然と応じた。

たかだか防衛省の小さな仕事ひとつなのに、日毬のなかでは途轍もない大事業になっているようだった。

「わかりました。一度決めたこと、全力を尽くしなさい」

京子は大きくうなずいた。

そんなに簡単にOKしていいのだろうか。それはまぁ、そこらの芸能プロダクションではなく、誰でも名前くらいは聞いたことがある蒼通がお願いする仕事なわけだから、親御さんとしても安心はしてくれるだろう。しかし特殊な仕事であるわけだから、もう少し内容について関心を持ってくれてもいいような気がするのだが

念のため俺は確認してみる。

「お母さん、本当によろしいのですか? ひとまず一回だけのお願いとは言え、れっきとしたタレントさんのお仕事です。お顔も公に知られることもあります」

「我が家には、代々伝わる家訓があります。一五歳になったら独り立ちせねばならない。自分で進む道を決断し、一意専心すべしと決まりがあるのです。私たちは皆、そうやってきました。日毬はもう一六歳。私たちができることはただ、日毬を見守ることだけです」

「家訓ですか?」

俺の問いに、今度は日毬が応じる。

「私たちは三河みかわ武士の出身だ。代々伝えられる家訓を守り通すことは、私たちの至高の義務のひとつである」

由佳里が声を上げる。

「三河って、名古屋のあたり? へぇー、名古屋だったんだー。いつこっちに越してきたの? あれ? その割には、この家ちょっと古いよね

「うむ。我が家に伝わる家譜かふによれば、神楽一族は、六八〇年頃に勃興ぼっこうした藤原北家ふじわらほっけの流れを汲んでいる。長暦二年、西暦で言う一〇三八年時は朱雀すざく陛下の治世の折り、私たちは三河国神楽明神の社職の地位を与えられ、神楽氏を称したことに始まった。応仁の乱後の混乱期、我が一族は領国を守りつつ三河松平一族と血縁を結び、それ以降、松平家の郎党として数多くの戦いに従軍してきたのだ。それが後の徳川家となる。そして家康公の関東転封によって、我が神楽家も関東へと引っ越してきた。それが一五九〇年のことだ」

?」

由佳里は目を白黒させた。

日毬は、俺たちの混乱など意に介さず続けていく。

「数百年単位で見れば、私たちも徳川将軍家の血族には違いない。もっともそれを言い始めれば、今では数十万、数百万の縁者がいることになってしまうがな。江戸幕府成立以降、私たちは家康公から一五〇〇石を与えられ、旗本として市谷いちがやに居を構え、三〇〇年近くをそこで暮らしてきたのだ。私たちの仕事は、江戸の治安を預かる与力や同心たちへの剣術指南役だった」

京子が話を引き継ぐ。

「剣に秀でた私たちの一家は、江戸期から今に至るまで、この地でずっと剣を教え続けています。夫が亡くなってからは私が道場を引き継ぎ、そして今は長女の凪紗が師範を務めています」

キリリと背筋を伸ばして部屋の隅に正座している凪紗は、口元を引き結び、微動だにしなかった。

「四〇〇年前に引っ越してきたということでしたか

由佳里が呆然としつつ口にした。

「明治維新の後、一八七六年の秩禄ちつろく処分によって士族に与えられていた秩禄給与が廃止され、収入の道が絶たれることになりました。私たちの一族はなんとか生計を立てようと試行錯誤しましたが世間様に、士族の商法と揶揄された通りです。ついには食べるに窮し、東京市谷にあった本宅の土地を明治政府に売却することになりました。それが今ではJR中央線の、路線の一部になっています」

母親の話を受けて、今度は日毬が続ける。

「そして結局、私たちが構えていたこの剣道場だけが残ったというわけだ。以来、私たちはこの場所に居を移し、細々と剣を教え続けている」

特異に思われていた日毬の剛健な性格が、話を聞いてようやく合点がいった気がした。ずいぶん端折って話してくれたのだと思うが、そこには長い物語があるのだろう。

それから京子と日毬が交互に神楽家の考え方などを、かいつまんで話してくれた。世間一般では一八歳、あるいは二〇歳未満の監督指導は両親が行うと考えられているが、神楽家においてはそれが一五歳と決まっているのだそうだ。そして一般家庭よりも、本人の意志をずっと尊重しているようだった。奈良時代以降、男子が成人を迎える儀式元服が一般化したが、数え年で一二歳から一六歳までに行われるものだった。神楽家から見れば、今の子供たちが過保護になっただけに見えるのだろう。

ひとまず本題も語り終えたので、別件だが、俺は確認しておくべきことを訊いてみる。

「一点、今回の目的ではないのですが先日、公安と悶着もんちゃくがありました。その件はすでに解決していることではありますが親御さんとしては、警察と揉めることはあまり芳しいことではないのではありませんか? その点は大丈夫でしょうか」

「もし日毬に非があるならば、我々一族の責任です。しかし日毬に非はないと、私は確信しています」

京子は微塵も迷いをみせず、確固とした口調で断言した。

実際、たしかに日毬は政治的主張をしていただけであって、現実的に破壊活動をしたり、暴動を起こしたりしているわけではない。処罰の対象ではないのは当然だ。しかし普通の親なら、事が警察絡みとなれば、心配するのは自然なことでもある。

「警察なぞ、私たちから見ればヒヨッコ同然だ。我々が忠節を尽くすのは、おそれおおくも天子様のみである。我々は一〇〇〇年にわたり、天子様から与えられた役割を遵守し、徳川将軍家、そして維新の後も天子様に仕えてきた。たかだか六七年の歴史しか持っていない新政府ごとき、ものの数ではない」

そんな日毬の言葉に、母親も凪紗も、一言の異議も差し挟まなかった。それどころか、さも当然といった様子だ。

それにしても壮絶な一家である。天然記念物級の一族だ。

いや、もしかすると昔の日本人はこうだったのだろうか。変わってしまったのは俺たちの方かもしれない。

「委細、承知しました。今回、日毬さんにお手伝い頂けることは大変感謝しています。ぜひともよろしくお願いいたします」

俺は改めて礼を言い、先を続ける。

「ところで、こうしてご挨拶にお伺いして何ですが、私はもうすぐ蒼通を退職することが決まっています。今後、日毬さんのお仕事に関しては、こちらの健城が引き継がせて頂きますので、何かありましたら彼女の方までご連絡ください。そちらの名刺の、お電話でもメールでもどちらでも結構です」

「よろしくね、日毬ちゃん」

由佳里がそう言って、日毬に微笑んだ。

日毬はいささか驚いた様子だった。

「えっ? 颯斗どうして辞めるんだ?」

「個人的な事情があってな。興味があれば、あとで話してやろう」

わかった」

日毬はうなずいた。

部屋の隅で正座をしているだけだった凪紗が、ふいに俺たちに居ずまいを正し、口にする。

「もし日毬が何か問題を抱えるようなことがあれば、その責はすべて、留守を預かる私にあります。織葉殿、健城殿。日毬をよろしく頼みます」

そして凪紗は両手をつき、礼儀正しく頭を下げた。

なんという立派な儀礼なのだろうか。俺と由佳里は慌てて頭を下げ返したのだった。

母親と姉への挨拶を済ませた俺と由佳里は、日毬の案内で道場を見学させてもらっていた。

日毬は道場に足を踏み入れるとき、軍人のように背筋を伸ばして正面を見据えたかと思えば、深々とこうべを垂れた。俺たちもそれに倣って足を踏み入れる。

稽古に励んでいたのは四人。時間帯が平日の昼間だからだろう、老人ばかりだった。だが、力のもった本格的な打ち合いは並の稽古ではない。

道場の隅にはひっそりと、色あせた一枚の肖像画と、三枚の写真が並んでいた。明治天皇の軍服姿から始まる歴代天皇の御真影ごしんえいである。その横には人名が細々と羅列されていて、ザッと見たところ、かなり以前からの天皇名らしかった。

由佳里が素直な感想を口にする。

「本格的だけど、意外とこぢんまりとした道場なのねー」

「昔はもっとずっと広かったんだ。古地図を見ると、うちの敷地は五倍以上あった。しかし道場を建て替える度に小さくなってきたらしい。相続税や固定資産税が払えないせいで、手放さざるをえなかったんだ。見ての通り、うちの稼ぎは少ない」

日毬は淡々と言った。

東京のこの立地と面積だと、相応の固定資産税になるだろう。年に数十万と言ったところか。道場経営では、捻出するのも一苦労に違いない。

「これ以上は土地を切り売れないところまで小さくなってしまった。もし可能であれば私が少しでも母上や姉上のために稼いでこられればいいのだが目先の金のためだけに働くなと、我が家の家訓にもある。まずは己の身を鍛え、目的に向けて刻苦勉励こっくべんれいすることが大切だろう。目的に向かう途上で、生活に困らない程度のお金が後からついてきてくれればそれが理想だ。もっとも、理想通りにいかないのが世の中なのだがな

世知辛い日毬の話だが、その通りすぎて反論の余地がない。俺と由佳里はすぐには言葉を思いつかなかった。

由佳里が話を切り替える。

「そう言えば凪紗さんって、何歳なの?」

「姉上は一九歳だ。まだ若いが、剣士としても人としても一流だ。私も早く追いつかねばならない」

「一九歳ずいぶん沈着で、しっかりしたお姉さんね」

「当然だ。剣の修練を積む者は皆、いかなる状況でも、己を制御する術を心得ている」

「ああいうお姉さんを持つと心強いわね」

「それはそうだが私とてしっかりしているつもりだぞ。姉上に迷惑をかけるようなことはしない」

「うんうん。日毬ちゃんはびっくりするくらい真っ直ぐで律儀よね」

「私は正しくあろうとしているだけだ。さて、次は政治結社日本大志会の事務所に案内しよう。ついてきてくれ」

それから俺たちは道場を去るときに再び一礼し、日毬の後をついていったのだった。

案内されたのは家屋敷二階、畳の六畳間。

日毬愛用の拡声器が置いてあるところを見ると、日毬の荷物置き場だろうか。

部屋を眺め回す俺たちに、日毬は言う。

「政治結社事務所、兼、私の部屋だ。政治結社の方は、党員が増えたら賃貸を借りようと思っていたんだが計画は未達のままだ」

「ここ、日毬の自室でもあるのか!? ベッドとかは?」

予想外の話に俺が声を上げると、日毬は押し入れを開けた。

「フトンだ。今どきはベッドなのか? しかし私はフトンでしか寝たことがない」

「女の子の部屋とは思えないわね

由佳里が驚いたのは無理もない。畳はともかく、いかにも過激な政治結社っぽい部屋なのだ。

日の丸と旭日旗きょくじつきが共に掲げられ、しかも神棚まで設置されている。壁には、墨汁ぼくじゅうで標語が羅列され、さまざまな計画が書かれているようだ。パッと見、おどろおどろしいのは気のせいか。

「こうして部屋に案内されてみると、日毬はマジなんだってことが伝わってくるな。なんだか軽い気持ちでバイトを持ちかけちまって、申し訳ない気持ちだ」

俺は素直な気持ちを言葉にした。

「何を言う。颯斗が提案してくれた仕事は国防なのだぞ。私は剣と銃器を抱えて戦場に赴いてもいいのだ。だが今は平時、私には私の戦い方があるのだと、颯斗が教えてくれたんだ。私は颯斗に、感謝してもしたりない」

ふいに由佳里が、気づいたように口にする。

「日毬ちゃんの目的は日本を変えることなんでしょう?」

「当然だ。少し前、頑強な権力機構だと思われていた帝国政府ですら、六〇年しか続かなかった。現行政府も、すでに六七年が経過している。寿命を迎えるのはもうすぐだ。その時にこそ、私は起たなくてはならない。政治結社日本大志会は、国家のためのいしずえになるつもりだ」

「でも、その結社はまだ党員も集まっていないし、誰も見向きもしてくれない」

「そ、そういうことになる。口惜しいが、私の努力が足りないのだろう。情けない限りだ

視線を落とした日毬は唇をかんだ。よほど口惜しく思っているのだろう。

「日毬ちゃんの努力の問題じゃないよ。一年やって成果が挙がっていないということは、やり方が間違っているということ。日毬ちゃんはひたむきだから、簡単にやり方を変えようとしないけど、もっと高い次元から手段を見直してみた方がいいと思うの」

いつもの由佳里らしくない過激な物言いを、俺はたしなめる。

「ずけずけ言うなぁ。これだけ真剣にやっているんだから、もう少し言い方ってものがあるだろう」

「違います。早とちりしないで下さい。日毬ちゃんは捨て身すぎて盲目的になっているだけで、本当は賢いから、私の言いたいことがきっと伝わるはずです」

そう俺に言いつつ、由佳里は再び日毬に向き直る。

「目的のためには手段を選ばず。日毬ちゃん、私からの提案よ。単にバイトとして何本かタレントの仕事をこなすんじゃなくて、本気で芸能界入りすればいいと思うの。日毬ちゃんの最大の武器は、その美貌と情熱でしょ。アイドルとして天下を獲ることだってできるはずよ」

? どうして私がアイドルにならねばならんのだ? あんなものは下衆げすの仕事だ。私は天下国家のために生きようと決めている」

日毬は戸惑ったようだった。

「ううん、国家を論じることと、テレビスターとして大成することは結びつく。きっと芸能界が、日毬ちゃんの目標を現実化させるには、最短のコースだと思うわ」

そこまで言って由佳里は、日毬の両肩に手を置く。

「酷なことを言うようだけど、日毬ちゃんが街頭で叫んでも効果がない。政治結社が大きくならないのは、日毬ちゃんの活動がメディアに取り上げられることがないからよ。ステップアップしていくためには、絶対にメディア対策を欠かすことはできないの。私だって蒼通の社員の端くれだから、その現実を誰よりも知っているつもり」

「由佳里の言う現実は私とて理解できる。だが私には、メディアを動かすような力などない。やはりコツコツと積み上げていくしか

「だからこそ芸能界でしょ。日毬ちゃんの武器その美貌を活かしてね!」

由佳里は明るく声を上げた。

俺にもようやく由佳里の意図がわかり、何度もうなずく。

「なるほど由佳里の言わんとしていることはわかったぞ。まったくその通りだ」

「ですよね! そもそも、メディア対策が私たちの仕事なんですから」

「颯斗も、由佳里の話が正しいと思うのか?」

「思う。毎日かかさず日毬は政治活動をしているのに、偉大な成果を収める政治家たちとは根本的に違う。今のままでは、日毬は日の当たる場所で政治を語ることは一生できないだろう」

たとえ厳しい言葉でも、ここは由佳里に乗り、率直にアドバイスをするのが本当の優しさだ。俺は淡々と続ける。

「俺自身がよく知っている例になるけどたとえばうちの家も、自友党の政治家一〇人ほどにずっと献金し続けているんだ。彼らはうちにもよく挨拶にやってきていた。その彼らの、最も重要で効果的な仕事は何だと思う?」

「それはもちろん、自分の政策を実行することではないのか?」

日毬の言葉に俺は首をふる。

「違う。本質は、実に簡単で単純だ。いかにマスメディアに取り上げられるかがすべてなんだよ。それが彼らの最大の関心事で、唯一無二の政治的な仕事なんだ。メディアに露出している政治家の方が有能だという錯覚を多くの人が持つから、献金だって集めやすい。世間が政治家の能力を判断するのは、その政治家が地道にやっている仕事なんかじゃない。いや、もっとハッキリ言えば、政治活動とは、対マスコミ向けのアピールのことを指している。中身なんて関係ないんだ」

日毬は端整な顔をゆがめ、息を吞む。

そんな

「メディアに露出していない政治家なんて、存在していないのと同じこと。民衆は誰も気づかない。心底バカげてると思うが、一人一票の民主主義である限り、この構造は変わらないだろう。おそらく、永遠に」

由佳里も同意する。

「まったくその通りですね。だから『メディア業界に君臨する蒼通が日本を操ってる』みたいなことを言う人がいるんですよ。で、実際、確かにそういう側面はあるわけです」

「たとえば最近の政治の話題だと、『事業仕分け』ってヤツがあるよな。財政の無駄をなくすって建前で、国家予算の見直しをすることだ。本来なら、政治家には権力があるんだから、ただ単に官僚に命令すれば済む。それで話は終わりだ。マスコミが介在する必要性なんかひとつもない。だけどわざわざ官僚を引っ張り出して、マスコミを集めに集め、大々的に『事業仕分け』を行ってる。あれはすべてメディアに取り上げてもらうことが目的であって、事業仕分け自体は果てしなくどうでもいいんだ。だが、メディアに取り上げられるという最も重要な政治的行為を果たすことはできている。これ以上ないほどの完全なる茶番だけど、それが政治なんだ」

「うんうん。まったくバカげたことですよ。でもそうして世の中は回っているわけだから乗るしかない、このビッグウェーブに! ってなわけです」

衆愚しゅうぐ政治ここに極まるわけだが、それもまた政治の現実だ。『民主主義とはテレビである』と言い切っても過言じゃない。由佳里の指摘は、かなり正鵠せいこくを得ているかもしれない」

由佳里は両手を腰に当て、誇らしげに胸を張る。

「ふふん、当然ですよ。超一流企業から何社も内定通知をゲットした私が、どうして蒼通を選んだかって言えば、そこに尽きるわけです。女子アナだってなれたかもしれませんけど、あんな茶番、こっちから願い下げです。大学ではメディア論を専攻してました。あんまり役に立ちませんでしたけど!」

ミス早稲田は女子アナや女優の登竜門と言われることもある。だから由佳里の言う女子アナ話は丸っきり適当なことでもない。由佳里は「私、容姿で蒼通に入社できました。あー、男って最低ですねホント」と常々はばかることなく口にしている猛者もさだし、それはおそらく事実なのだろう。

俺たちの指摘に、日毬が食い下がってくる。

「だ、だが最近では、ネットだってあるのだぞ。地道な活動をしていけば、メディアに乗らなくても評価されることもあるのではないか。日本大志会でもネットで情報を配信しているが

その言葉を、俺は容赦なくさえぎる。

「ダメだ。ネットの情報には価値がない。いや、この場合、本質的な価値の有る無しじゃないぞ。その情報が、どれほど世の中に影響力を持っているかという問題だ。いかにネットで広まった話であろうとも、実に滑稽なことに、テレビや新聞にその話題が転載されて初めて全国的な知名度を得ることができる。ネットのすべての住人が知っているようなことでも、それは驚くほど狭い世界の話であって、世間的には誰も知らないことなんだ」

じゃあ私がやっていることは無駄なのか?」

絶望的な表情の日毬の問いには、俺も由佳里も答えなかった。その答えなどわかっている。

日毬とて、理解していて訊いたのだ。沈痛な表情が、何よりもそれを雄弁に物語っている。

代わりに俺が、別のことを熱を込めて言う。

もしも日毬が最短コースで、本当に日本の頂点に立ちたいならば、由佳里の指摘は実に正しい。日毬の武器である並外れた美貌を活かし、タレントとして本気で活動してみることだ。それ自体が、必ず政治的行為へとつながっていくだろう。バカげたことだが、それが民主主義社会だ」

哀しげに、日毬が口にする。

「だがそもそも私ごときが、本当にテレビ界で通用する美貌なんて持っているんだろうか。私なぞ男の子たちに相手にされたことなど一度もないのだぞ。昔、少女漫画で読んだみたいなお話は、私には夢みたいな世界で無縁のことばかりだった

「それは日毬ちゃんが普通とちょっと違うからってだけで美貌なら間違いないわよ。私だって日毬ちゃんには完敗だもの。お姉さんが言うんだから間違いないからね。自信を持って」

由佳里は日毬に向けてニッコリ微笑んだ。

しかし日毬はいっそう落ち込んだ様子になる。

「で、でも水着になったり、カメラの前で笑ったり、歌を歌ったりするのだろう? 私には唐突すぎて、自信がない

俺が言う。

「タレントにもいろんな種類がいる。日毬に合った方向性を見つければいいだろう。希望なら、芸能プロダクションに当たってやってもいいぞ。これだけの美形とスタイルを持ってれば、きっと力を入れて売り出してくれるはずだ」

「そう言えば、ディレクターも『プロダクションを紹介しようか?』って言ってましたね。あの人、そっち方面に顔だけは広いから、訊いてみるのも

そこまで言った由佳里は、ふいに顔を輝かせて俺を見やり、手をポンと打った。

あ! 名案発見! いっそのこと、先輩がプロダクションを始めてみたらどうですか!?」

はぁ? 俺が? どうして?」

「だって先輩、蒼通の退職日が迫ってるっていうのに、次の仕事は決まってるんですか?」

「いや辞めてから考えようかとな。そもそも辞めることを急に決断したから、次の予定なんてさ」

「なら、日毬ちゃんのために、ちょっと駆けずり回ってみるのも悪くないと思いますよ」

「当面やることは決まってないから、手伝うくらいならOKだけどさ。しかし俺がまさかの芸能プロダクションか? なんつーか、東王印刷の一族が蒼通を辞めて芸能プロダクション限りなく胡散臭うさんくさい話だぞ

芸能プロダクションは、率直に言って、もっともいぶかしい仕事のひとつなのは間違いない。人を扱う水商売というものは、実体がないだけに客観的判断がしづらく、どうしても怪しげになる。実業を尊重する俺のオヤジが水商売を毛嫌いするのは、長年日本を支えてきたという自負を持つ実業家としては当然の姿勢でもあった。

しかし由佳里は急き立てる。

「そんなことないですって! プロダクションとしての、最初の仕事だって決まってるじゃないですか。金額は少ないけど、防衛省の案件ですよ。このままお役所中心に仕事を受注していくってどうです? 私だって営業のお手伝いをしますよ」

「だが日毬を売り出すためなら、やはり大手プロダクションに所属させた方がいい。日毬の意に添わない活動も多くなるかもしれないが、それでも売れるためなら必要なことだ

「だけど、日毬ちゃんの自由がまったくなくなっちゃうと思いますね。嫌な仕事でも強要されて、それを拒否すれば二度と売り出してもらえないに違いありません。日毬ちゃんは特殊な女の子ですから、その辺の事情を知っている先輩ほど適任なマネージャーはいないと思います」

俺と由佳里のやり取りを見守っていた日毬が、たどたどしく口にする。

「も、もし颯斗が一緒にやってくれるなら私は頑張ってみたい。本当に颯斗が私なんかのためにやってくれるのならだが

日毬は、懸命に祈るような視線を俺に向けていた。

俺と日毬はしばらく無言で見つめ合った。

日毬は、少し震えているように見えた。まだ一六歳なのに、日本の未来を真剣に憂い、政治活動に死力を尽くしてきた日毬のこの方針転換は、本人にとって極めて重大なものであるはずだ。清水の舞台から飛び降りるという表現が相応しい決断なのだろう。手伝ってあげたいがしかし

「やはり俺にはだな

言い終わる前に、日毬が俺の腕を摑んで切々と訴えてくる。

「颯斗私は命を懸けている。どんなに恥ずかしいことでも、嫌なことでも、できるだけ颯斗の方針に従うように頑張るからだから、お願いだ私に力を与えて欲しい

またもや、俺と日毬は視線を合わせた。

日毬は助けを求めるような、痛ましいほど切実な表情で、一心に俺を見つめていた。

大きく息をはき出した俺は、観念して深くうなずく。

わかった。どれだけ力になれるかわからないが、まずはやってみよう。人生を懸けた日毬の前じゃ、俺の決断なんて簡単なものだからな」

「そうですよ、プロダクションなんて所属タレントさえいれば、どこでも始められるわけです。他には名刺があればいいだけですね。先輩に損になることなんてありませんよ。私としても、これからも先輩のお手伝いができるのは嬉しいですし!」

一番喜んでいるのは由佳里のようだった。

「もしオヤジが知れば逆上するだろうがまぁ実質的に織葉家は追い出されてるわけで関係ないっちゃ関係ないか。よし、日毬、ここは一緒に頑張ってみるか」

「颯斗ありがとう不束者ふつつかものではあるが、どうか、どうか私のことを、よろしく頼む

切迫した表情で、結婚を誓う女の子のようなセリフを言った日毬は、礼儀正しく頭を下げた。