大日本サムライガール
プロローグ
至道流星 Illustration/まごまご
「真正なる右翼は、日本に私ただ一人である!」 目的は政治の頂点、手段はアイドル——。至道流星の本気が迸る、“政治・経済・芸能”エンタテインメント、ここに開幕!!
市ヶ谷駅を降り立ち、防衛省の本部正門へと続く並木通りはいつも粛然としている。この道を行き交うのは防衛省職員か出入り業者が少なくない。自衛隊の制服を着用した士官たちや、隊員を乗せたジープなどが頻繁に出入りし、東京でもっとも軍の存在を身近に感じる場所だった。
「それにしても、どうして自衛隊は妙なコンセプトに走るんでしょうね? 先輩、そう思いません?」
隣を陽気に歩く部下――健城由佳里は、不思議そうに俺を見上げてきた。
「『美少女が防衛を語る』って広告コンセプトか? いや、ありがちだろ。今どき珍しくもない。そんな広告、街に溢れてるよ」
「でも公官庁がそんな広報を求めるなんてどうかしていると思います。どうして二三歳じゃダメなんですか!」
「二三歳じゃダメなんて誰も言ってねぇし……。つーか由佳里、広報VTRに出たいのか?」
ようやく仕事にも慣れてきた由佳里は蒼通に入社して二年目、まさに二三歳である。二三歳が少女に該当しないことには異論の余地などないが、ピンポイントに自分の年齢を指定してくるあたり、由佳里の飾り気のなさが窺える。
「まさか。私は蒼通の社員です。その辺のタレントなんかと一緒にしないでください。……でもちょっとだけ、出てあげてもいいかなって思いますね。必死に頼まれればですけど!」
蒼通は、日本最大の総合広告代理店だ。広告事業単体の企業として見れば、世界最大でもある。蒼通の社員自らが広告に出るなんて聞いたことがない。
「出たいんだな。別にいいけどさ、出演してくれても。どうせタレントのギャラなんてロクに払える案件じゃないんだ」
「ほうほう、そうですかそうですか。先輩がそんなに頼むなら、考えてあげなくもないですね。ミス早稲田クイーンの座に輝いた私としては、会社のために、この身を削ってご奉公せざるを得ないということでしょう。なんという社員を酷使するブラック企業。うん、でも、それなら仕方ない」
「正直、ミス早稲田って響きがどうも野暮ったく聞こえるのは気のせいか」
冗談交じりに言うと、由佳里は大げさに俺を指差してくる。
「今、先輩は全国の早稲田OBを敵に回しました。ロックオンです。これでも一万数千の女子学生のなかで頂点に立ったんですからね。先輩の目は節穴ですか? それとも脳ミソの方ですか? ……あ。なるほど、そっち系の、女性に興味を持てない人ですね。わかります」
「そのさ、先輩って呼ぶの止めてくれる? 青春スポーツ漫画みたいでこそばゆいんだが」
「先輩は先輩じゃないですか。私には先輩の言うことがわかりません」
由佳里は高校時代、強豪で知られるテニス部に所属していたと聞いている。そもそも早稲田にも、テニスでの活躍が評価された推薦入学だったらしい。だから人一倍、上下関係には厳格なのだ。ただ、会社にまで部活動のマナーを持ち込むのはどうかと思う。
俺――織葉颯斗は蒼通に入社して五年目。二六歳だ。由佳里は三つ下で、俺が初めて受け持った部下だった。
俺たちは公官庁の営業を担当する事業部にいる。官庁が公示する一般競争入札案件を整理し、適切な企画と価格を提案していくことが仕事だった。今日は、すでに受注している防衛省の広報ビデオ制作のための打ち合わせにやってきたのである。
もうすぐ防衛省の正門入り口に到着しようという頃――。
ふいに、女の子の朗々とした声が響いてきた。
「真正なる右翼は、日本に私ただ一人である。有権者諸君、我が国は今、大きく舵を切るべき瞬間を迎えている。日本が取れる指針はもはや少なく、残された時間には猶予もない。それ故、真に国家を愛する私――神楽日毬は、日本の独裁者となり国家を正すことに魂を尽くす所存である」
行く手には、拡声器を持って叫ぶ女の子。防衛省を囲む小高いコンクリートの壁沿いに、高校のブレザーを着て、軍人のように少女が直立していた。
俺たちの前を行く通行人は、女の子と視線を合わせないようにして、そそくさと前を通り過ぎてゆく。
「なんでしょうね……あれ……」
由佳里が呆れてつぶやいた。
「さあな……。右翼って名乗ってたし、右翼なんじゃないか……?」
女子高生はひときわ高い声を張り上げる。
「真正なる右翼は、日本に私ただ一人である。有権者諸君、私は決断したのだ。政治家になってこの国を正すのだと。たしかに一六歳の私には被選挙権はない。それでも、今までの常識に縛られないでほしい。もはや過去の常識を引きずっていては、将来の安寧を手にいれることはできない。未来のため子供たちのため、日本は今、変わるべき時にある。自友党を廃し、民政党を放逐し、私が日本の独裁者になることでしか、この国の未来は開けない」
「一六歳……? 右翼というより、超絶なファシストなんじゃ……ううん、無政府主義者……?」
由佳里は毒気を抜かれたようだった。
俺たちは肝をつぶし、少し離れたところで思わず立ち止まった。
「真正なる右翼は、日本に私ただ一人である。有権者諸君、近年ウィキリークスは、ある他国高官が語った言葉を暴露した。『日本は肥満した敗者だ』と。現在の日本を鑑みるに、悲しいかな、的を射ている表現だと言わざるを得ない。大東亜戦争に敗れて以来、我が国は牙を抜かれ、丸々と肥え太ってきた。だがしかし、宴は終わりの時を迎えたのだ。肥満した自らの身体を持て余す私たちは、思うように身動きが取れず、動脈硬化に陥ってしまった。日本は今、かつてない危機の渦中にある」
まじまじと女の子を見据えながら、俺はぼそりと口にする。
「なぁ……あの子、相当な電波っぽいけど……マジ可愛くない?」
「私よりも?」
「冗談言ってろ。これから提案する自衛隊の広報に、ああいう感じの子がマッチすると思ったんだよ。一六歳ってことは女子高生だし、スッピンだろ。あのレベルなら即使えるなぁ」
「私はスッピンでも変わりません」
「訊いてねえよ。それにしても、ふぅむ……」
立ち止まって演説を眺め入る俺たちに気づいたのか、女の子はこちらへ熱い視線を注いでスピーチを繰り広げ始めた。
「有権者諸君、どうか私を支持してほしい。どうか私と共に、日本を一新する大業へと乗り出してほしい。我々が力を合わせれば、いかなる困難があろうとも、日本は何度でも立ち上がることができるだろう。優秀なる大和民族の子孫である我々は、奥底に計り知れない力を秘めているのだ。今こそ力を解き放ち、太平の未来を描き出す必要がある」
もはや女子高生はこちらに身体ごと向き、俺たち二人に狙いを絞って演説していた。
「有権者諸君、私が総帥を務める政治結社日本大志会は、国民の力を結集し、我が国の復権を志向する正しき政治団体だ。我々は広く結社員を募集している。その心に熱い想いを宿したならば、いつでも私に声をかけてほしい。入会資格は日本国籍所有者であるということだけだ。私は、諸君らを同志として温かく迎え入れたい」
演説少女と俺は、視線がガッチリとかち合った。少女は激しい身振りを交えて、俺に切々と語りかけ続けている。
――やばい。演説を聴いているとは思われたくない……。
俺はサッと視線を背け、足早に歩きだした。後を追うように由佳里も付いてくる。
できるだけ視線を合わせないように……かといってあからさまに視線を背けず、無関心を装って小走りに前を通り過ぎたのだった。
「真正なる右翼は、日本に私ただ一人である。有権者諸君、我が国の財政は危機に瀕しつつあり、周辺諸国より領土を掠め取られんとしている間際にある。私、神楽日毬は常日頃から日本の未来を憂い――」
拡声器を通した演説少女の声は背中に追いすがってきた。
振り返れば負けなような気がする。ただただ俺たちは無心に歩き続けた。
あんな少女がいるのかと茫然自失としながら、俺と由佳里は言葉も交わさず、急ぎ足で防衛省正門へと向かったのだった。
◇
打ち合わせを終えて防衛省の正門ゲートを出ると、演説少女はいなくなっていた。場所を変えたのか、家に帰るかでもしたのだろう。
由佳里は俺をうながしてくる。
「次の予定は国立国際医療研究センターですね。行きましょう。あっちですよ」
「タクシーでも捕まえるか」
「何言ってるんですか。ここからすぐですよ。裏路地を抜けていけば、ちょちょいのちょいです」
「この辺の道わかるのか?」
「当然じゃないですか。東京は私の庭のようなものです。江戸っ子ですから」
誇らしげに由佳里は胸を張った。
俺は由佳里の案内で付いていく。そう言えば早稲田大学は比較的近い。築地生まれの由佳里でも、この一帯ならよく知っているのだろう。
曙橋の駅を通り過ぎ、古ぼけた商店街を俺たちは歩く。防衛省から歩いて五分、こんなところが残っているとは驚きだ。
俺は周辺の木造住宅群を眺め回しながら首を振る。
「新宿区のこのあたりはゴチャゴチャしすぎててサッパリだ。こんな超都心なのに迷路のようでさ。いったん入り込むと、二度と戻れる気がしないよ。早く再開発しろっつーの」
俺の言葉に、由佳里が大仰にため息をついてみせる。
「はぁ……。これだからワビサビを解さない人は困ります。東京の美しさはこういうところにあるんですよ。先輩、大阪や名古屋に行ったことはありますか?」
「そりゃ何度もあるけどな」
「いいですか。大阪も名古屋も、あれは頂けません。街が碁盤の目で、どこにいっても同じようで、風流のカケラもない。でも東京は違います。ホラ、見て下さい、この道を。流れるような曲線美、緩やかに上下する標高、入り乱れる路地と民家。これこそが東京の風情ってなもんです」
「そんな良いもんかよ。暮らしにくいだけだ」
「てゆうか、よく考えたら先輩、この近所育ちじゃないですか! 番町ですよね!?」
由佳里の言う「番町」とは、千代田区の一番町から六番町までの番地を総称して言う。近いかどうかは微妙なところだ。自転車でかっ飛ばせば一〇分くらいの距離だろう。
「こっちには来ないよ。用事ねーし」
「東京の美しさがわからないとは、まったく見下げ果てたものです。そのうち街が上海みたいに無機質になっちゃいますよ」
ふと由佳里は、気づいたように俺を見上げてくる。
「先輩、さっきからキョロキョロして……もしかして、さっきの子を探してたりするんですか?」
「まぁ、ちょっとな」
「かなーり可愛かったですからね。でも一六歳はダメですよ。犯罪です」
「違うっつーの。やっぱりちょうどいいだろうよ。今度の広報ビデオにさ。予算少ないし、五万くらいで出てくれれば御の字だったんだけどな」
「本当に予算少ないですよね……二〇〇万で六〇分二本も広報ビデオ作れなんて……。ましてや蒼通の仕事となれば、どんなに予算が少なくてもいい加減なものを作るわけにはいかないし……大損ですよ」
ため息交じりに由佳里が言った。
「そう言うな。いくら低予算でも国家事業であることに変わりない」
「いっそ撤退したらどうです? 他社に取られてもいいじゃないですか。受注すれば赤字なのに、わざわざ仕事をこなす意味がわかりません」
「一件一件の小さな案件ばかりに注目するな。こうして信用を積み重ねていれば優良案件が回ってくるから、全体としてバランスを合わせられればいいんだよ。蒼通の仕事ってのはそういうもんだ」
最近の官庁は世間の想像と違い、予算が少なく、渋い要求ばかりだ。要するに金がないのである。だから接待で予算枠を拡大してもらうこともできない。しかしある意味で優良クライアントであることは確かだから、蒼通としては仕事をせざるを得ないという悩ましい事情もある。
俺は説明を続けていく。
「『損して得取れ』って言葉があるだろう。日本社会は、そうやって上手く回っているところがある。考えてみろ、いざ有事となれば、防衛省は最高のクライアントになりうるんだぞ。そんなときに取引してないなんて事態になってみろよ。日々の仕事は多少損したって、長期的視野で構えていられる余裕のあることが蒼通の強さなんだ」
「有事って……戦争ですか」
「そういうのも含めてだ」
「ありますかね……戦争?」
首をかしげた由佳里に、俺は肩をすくめて応じる。
「知らねー。さっきの演説少女にでも聞いてみろ」
「あ……演説の子……」
路地を回ってすぐ、由佳里は呆然とつぶやきながら前方を指差した。
演説少女が、いかつい二人の男に挟まれ睨み合っている。少女は片方の男から腕を摑まれ、どこかへ引き立てられようとしていた。
すぐ傍で車のドアが開け放たれている。真っ白いトヨタ車。少女を拉致しようとしているのだろうか。
「やめろッ! 汚い手で触るな、犬め!」
少女は腕を振りほどこうと必死に叫んだ。
男たちは包囲を狭め、力尽くで言うことを聞かせようとしているようだった。
由佳里は戸惑った声を上げる。
「ど、どうしましょう……」
「助けないわけにはいかないだろう。俺が行ってみるから、由佳里は一一〇番してくれ。それから万一の場合、大声で叫んでくれると助かる」
「さすがです、先輩。……これ、使ってください」
もぞもぞとバッグを漁った由佳里は、スプレー缶を差し出してきた。
「なんだ、これ?」
「痴漢撃退用スプレーです。男性は私を一目見ただけで、ストーカーになってしまう可能性を秘めていると思うんです。だからいつも万全の準備をしています。まだ一度も狙われたことありませんけど!」
「うっせ。お前ならストーカーも全力で逃げ出すぜ」
そう言いつつ、俺はスプレー缶を受け取った。使うことにはならないだろうが、俺は念のため缶を握りしめ、少女と男たちの方へ慎重に歩を進めた。
揉み合いながら少女は声を上げている。
「何をするッ! 離せ!」
「神楽日毬、いいから来い! ちょっと話を聞くだけだ」
「噓をつけ! なら乱暴なんてするな!」
「お前が暴れるからだろうが!」
男たちの後ろから近づいた俺は、うんざりしたように声をかける。
「おっさんたちさぁ……。こんな真っ昼間から、やっていいことと悪いことがあるだろう?」
「あ?」
男たちは、眉をひそめて俺を振り向いた。
「警察呼んでるから。早く逃げた方がいいんじゃねーか?」
俺はアゴでそっちに行けと促した。
だが俺の思惑とは裏腹に、男たちは微塵も動じた様子を見せなかった。「警察を呼んだ」という言葉だけで逃げ散っていくものと思っていたのに。
「なんだぁ? 部外者はすっこんでろ!」
男の一人が俺を睨みつけてきた。興奮状態にあるように見えた。
もう一人が少女を摑む手に力を込める。
「面倒なことにならないうちに従え! ほら、行くぞ、車に乗れ!」
「嫌だ! 手を離せ!」
少女は激しく首を振り、うめいた。
「部外者は下がってろ。用事はすぐ済む」
俺と睨み合っていた男はそう口にし、再び少女の腕を取った。
なんという白昼堂々とした暴漢だろうか。ここまで威厳に満ちて犯行に及ぶ凶漢に、さすがに俺は面食らった。日本の治安は世界一だったはずではないのか。
いくらなんでも、少女が連れ去られるのを黙って見過ごすわけにはいかない。こうなれば手段を選んでいる余裕はなかった。問答無用だ。
俺は意を決し、男らに一歩近づいた。
再び男がチラと俺を見やり、訝しげな顔をした。
おもむろに俺は痴漢撃退スプレーを、目の前の男に振りかける。
「ぎゃああああああああああああ!」
住宅街に響く男の絶叫。
男は路面にひれ伏し、のたうち回った。
うむ。効果は抜群だ。
「貴様!」
倒れ伏した男を乗り越えるように、少女から手を離したもう一人の男が、俺へと襲いかかってきた。身のこなしが速い。
咄嗟に俺はスプレーの発射口を向けるも、男は機敏に、しゃがみ込むように俺へと急接近してきた。スプレーを発射する間もなく、男は俺の腕を摑みあげてくる。
「くそッ! 暴漢野郎!」
「暴漢だと!? 貴様こそ暴漢だろうが!」
男が俺を投げようと腕を取ってきた。俺も投げられまいと、必死で男の腕を摑み返す。
そのまま揉み合う格好になるも、男の力の方が強い。俺は片膝をつき、組み伏される寸前だった。
その時――。
「えいっ!」
由佳里の声が聞こえた。
「がはっ……」
突然、男がグッタリし、俺にのしかかるように倒れ込んできた。
由佳里が持っていたバッグで、男の後頭部に一撃を食らわせたのだ。由佳里のバッグにはノートパソコンが入っている。その角を力任せに打ち付けでもしたのだろう。ナイスフォローだ。
くずおれる男を払い除け、俺は立ち上がって少女の手を摑んだ。
「逃げるぞ! 走れるな?」
少女は目を見開いて俺を見上げ、コクリと頷いた。
「よくやった、由佳里。その靴で走れるか?」
「喧嘩上等かかってきやがれってなもんです。江戸っ子ですから」
目の前で由佳里はパンプスを脱ぎ、裸足になった。
それから俺たちは住宅街を駆け抜け、暴漢たちから遠ざかった。
由佳里は一一〇番しているはずだ。倒れ伏している暴漢たちは、現場に駆けつけた警官らに、いの一番で見つかることだろう。
◇
近くの児童公園まで避難した俺たちは、揃ってベンチに腰かけた。住宅街のなかに無理やり押し込んだような小公園には、遊んでいる子供もおらず、ひっそりしていた。
「やだー、ストッキングが穴だらけ……」
ベンチで子供のように足を伸ばした由佳里は、手に持っていた両靴を地面に投げ出し、みだらに破れ果てたストッキングを眺めた。
「由佳里はタクシーで帰っていいぞ。それじゃ営業に同行できないだろう」
「むしろ営業上、このくらいの方がインパクトないですか? どうしてこんな風になったのか語って聞かせるだけでも話題沸騰ですね」
「だけどそれで、客前に出るわけにはいかないだろうよ。ちょっとエロい感じがするからな」
「えー、ちっともエロくないですよ? 先輩がそういう目でみてるからじゃないですか。これを見たお客さんは、なんだか哀れで不憫に感じてくれて、つい仕事の発注量を増やしてあげたくなると思いますね。大丈夫ですって!」
由佳里はグッと拳を握り、親指を突き立てた。本人がいいのなら、まぁ良しとしよう。たしかに由佳里の言う通り、暴漢に襲われていた少女を救出したという事実は、営業での話のネタになるはずだ。
俺たちの間にちょこんと座っていた少女が、俺と由佳里を交互に見やり、上目遣いで口にする。
「助けてくれたんだな。ありがとう」
そう言って、少女は大事そうに拡声器をギュッと抱え込んだ。
こうして傍で見下ろすと、その美貌が一層引き立っていた。研ぎ澄まされた少女の造形には思わず息をのんでしまう。防衛省前で見た右翼的な演説と、目の前の容姿のギャップが噓のようだ。
この見目姿なら、先ほどのようなストーカーに襲われるのも納得である。身構えているのに襲われない由佳里とは一味違う。
実際、人間味がある由佳里の容姿と比べると、その美貌は格が違っている。仕事でテレビ局や撮影所に出入りしてモデルやタレントを見かける機会が少なくない俺でも、この子の容姿は群を抜いて見えた。
「あんな場面を目撃すれば、助けないわけにはいかないからな。とにかく無事で良かった」
「うーん……こうして間近で見ると……本当に可愛いらしいですね。お人形さんみたい。先輩が目をつけたのも頷けます」
俺と由佳里は揃って声をかけた。
少し興奮したように少女は胸を押さえる。
「こんな風に人から助けてもらったことなどないから、びっくりした。なんだかとても嬉しい……」
俺は名刺を取り出した。話の成り行きによっては、この子に仕事を持ちかけようかと思ったのだ。
「織葉颯斗だ。蒼通に勤めてる。ちょうどこの辺りに営業に来てたんだ。知ってる、蒼通?」
「蒼通くらい誰でも知ってる。そこまでバカにするな」
少女をムスッとさせてしまったようだ。
慌てて俺は謝罪する。
「そうか、ゴメンゴメン。高校生くらいだと、世間の会社を知らない子も一杯いるからさ」
「同じく蒼通、健城由佳里です。よろしくね」
由佳里も続いて名刺を出した。
少女は拡声器を置いて、俺たちの名刺を受け取った。しばらく俺たちの名刺を眺めていた少女は、制服のポケットから名刺ケースを取り出し、渡した名刺をしまい込む。
名刺ケースを持っている高校生などまずいない。この子は何者なのだろう。
そして少女は名刺をサッと二枚取り出し、俺たちに渡してきた。
「神楽日毬だ。これからは日毬と呼んでくれ。政治結社日本大志会の総帥を務めている。高校二年生。自宅はこの近所なんだ」
俺は名刺を受け取って、食い入るように見やった。
俺は無表情で顔を上げた。どんな表情をすればいいのかわからない。
目の前の美少女――神楽日毬は、俺を凝視しながら再び拡声器を取り上げ、それを強く抱きしめた。
――ええと……。どこから突っ込めばいいのだろうか……。
冗談であることを期待したが、日毬は大真面目な視線を俺に向けていた。
沈黙に耐えかねたのか、由佳里が名刺とは関係ないことを口にする。
「日毬ちゃん、その拡声器……ずっと抱えているけど、大事なものなの?」
「これは私の大切な相棒だ。苦しいときも、辛いときも、ずっと一緒にやってきた。名前は『拡さん』と付けている」
「そのまんまのネーミングじゃねえか」
「助さんもいるわよね絶対」
「ちょっと古びているが、これでも毎日ちゃんと掃除してあげてるんだぞ。こいつといると気持ちが落ち着くんだ」
見たところ、拡声器はガタがきているようだった。ところどころ小さなヒビも入っていて、どことなく黒ずみ、使い古し感が半端ない。よほど使い込んできた証しだろう。
いよいよ俺は、意を決して名刺のことを切り出してみる。
「ところでさ……この政治結社って……マジなのか?」
「マジとはどういうことだ? 我が日本大志会は、きちんと東京都選挙管理委員会に届け出て、総務大臣の認可を得ているれっきとした政治団体だぞ。収支報告も欠かさず行い、万全の運営を行っているつもりだ」
そこまで言って日毬は顔を伏せ、寂しげに続ける。
「……しかし残念だが、党員の獲得が思うように進まず、常に赤字だから困っている……。結社設立時に立てた計画では、本当は今ごろ党員三〇〇〇人に増えている予定だったんだが……誰も話を聞いてくれないんだ……」
「じゃあ日毬のところの党員って、今、何人いるんだ?」
おそるおそる、俺は訊いた。
「……い、今は……まだ私一人しかいない……。だけどいずれ、みんなわかってくれる時が来ると思うんだ……きっと……」
「……」
「……」
沈痛な面持ちの日毬がなんだか可哀想な気がして、俺と由佳里は黙って顔を見合わせた。その主張はあまりに右寄りで辟易するものの、日毬は日毬なりに真剣に違いない。一生懸命に取り組んでいるヤツこそ、相応に評価されてほしいと思うのは人情だろう。
サッと日毬は顔を上げ、何かを期待するような表情で問いかけてくる。
「お前たち、今の政治をどう思う?」
「唐突にそんな話を振られたってな……。うちの一族は自友党ができた時からずっと自友に献金してるし、俺も政治的には保守だがなぁ」
「お前は?」
「私はその時の状況で……」
俺と由佳里の答えに、日毬はうんざりしたようだった。
「ダメだなお前らは。驚きだ。話にならん。非国民にもほどがあるぞ。現代に生きる我々は、いかなる者でも政治スタンスを持っていなくてはならない。危険な状況を救ってもらった義理はあれど、政治上の信念を譲ることはできん」
キッと鋭い視線を俺に向け、日毬は断固として言い放つ。
「日本は強くあらねばならない。だが今の政治ではまったくダメだ。根本から覆さなくては。そのために私は日夜戦っている」
「……」
「……」
再び俺と由佳里は押し黙った。どう答えろと言うのだろう。
構わず日毬は演説調で続ける。
「第一に、アメリカとは適度な距離を置くことだ。いつまでもアメリカの庇護下におかれていていいわけがない。牙を抜かれたまま、いいように振り回されるだけだ。現状のままではアメリカと共に沈んでしまうだろう。今こそ日本はアメリカの支配から脱し、独自のポジションを打ち立てるべきだ。我が国にはその力がある。貴公はそう思わないか?」
「右翼ならアメリカ支持だと思ったが……」
俺の言葉に、日毬は鼻を鳴らす。
「ふん、ずいぶん短絡的だな。そんなヤツらは偽者だ。大方、アメリカからお金でも貢いでもらっているのだろう。真の右翼は、日本に私ただ一人である」
日毬は毅然と断言し、言葉にさらに力を込める。
「第二に、中共とは対決も辞さない姿勢で外交交渉を持つことだ。そういう覚悟があってこそ、初めてまともな交渉ができるようになる。アジアに両雄は必要ない。いずれ中国とは雌雄を決することになるだろう。自衛隊のさらなる強化は必須のことだ」
「その両雄ってヤツは、ぜひとも中国とインドにしておいてもらいたいところだな。日本はアジアのスイス的な――」
「軟弱者! だからお前はダメなんだ!」
唐突に日毬が俺の言葉を遮り、目を見開いて叫んだので、俺はいささか驚いた。自分より年下の美少女に叱り飛ばされるなんて、なかなか想像できるシチュエーションではない。
「領土拡張も辞さず。権力者ならば、そのくらいの心意気で外交交渉に当たるべきだろう」
「領土……拡張……」
由佳里は啞然としてつぶやいた。
「真の右翼は、領土拡張をいつでも夢見るものなのだ。私の言う領土とは、何も土地のことだけではない。未だ日本人にあらざる者たちに対し、大和心を広めていくことが、誠の領土拡張というものだろう」
「極右を突き抜けてるだろ……どうしてこうなった……」
しげしげと俺は日毬を見下ろした。日毬は自分の言葉に微塵も疑いを持っていないようだ。
「我が国の未来にとって、核武装は必要不可欠なことになる。もちろん軍事力の裏付けとなる経済力の強化、そして財政の健全化も急がねばならん。何もかも、今すぐに取り組まねば……。早く、一日でも早く、強い政権を創り上げることが重要だ。ならばこそ、我が日本大志会は、日本権力の頂点に立つ高潔なる意志がある」
「そ、そうなのかぁ」
「色んな意味で難易度が高すぎです……」
俺と由佳里は愕然としているだけだったが、ふいに日毬は感極まったような表情になり、ポツリと口にする。
「初めてだ……」
「え?」
「初めてなんだ。出会った人と、こうして政治を語り合うなんて……。私は今、猛烈に感動している。どんなに街頭で語ってもダメだったのに……」
そう言いながら、日毬は感に堪えない様子で俺たちを見やってきた。日毬の政治活動に取り組む姿勢は、正真正銘、本物であるようだ。
俺は思想的には、エドマンド・バークを源流とする新保守主義的な方向を良しとしている。近年ではフリードリヒ・ハイエクあたりの流れだろう。自国の伝統に自信を持ち、社会を守るためならば武器を取ることも厭わず、一方で現実に向き合えるように旧来のシステムを見直し、グローバルな自由貿易を促進し、断続的な革新を試みるという政治思想だ。都市在住の一般的なホワイトカラーの考えを代表したようなものだろう。
それと比べれば、日毬の主張は、行き過ぎな部分があまりに多い。しかし保守という観点から見れば、一概に「俺とは違う」と切って捨てきれないところもあった。
興味が湧いて、俺は訊いてみる。
「街頭演説、どのくらいの間、続けていたんだ? 二週間くらいか?」
「一年だ。私は一年間、学校が終わったあと、雨の日も風の日も雷の日も、一日も休まず拡さんと一緒に演説を続け……こうして話を聞いてくれる人は、ただの一人もいなかった」
「近所迷惑パねぇ……。もしかして生活にも困ったりしているのか?」
「そんなことはない。家で三食食べさせてもらえている。でも、私はいつでも金欠だ。政治活動費はいくらあってもすぐになくなってしまう」
日毬は瞳を輝かせて俺を見やってきた。
「日本大志会では党員を募集している。こうして出会った縁は大切にしたい。お前たちには、是非とも入党してもらえると私はとても嬉しい。本当は会費を毎月三〇〇〇円と決めていたんだが、お前たちならそんなものはいらないぞ」
「悪いな。さすがに右翼団体の党員にはなれない。だけど、せっかくだから三〇〇〇円、カンパしておくよ。なんか面白かったし、多少は応援してやりたい気持ちもあるからな」
俺はスーツから財布を出し、札を引き抜く。そして三〇〇〇円を日毬へと押し付けた。
すると日毬の手は震え、宝物を受け取るように両手で札を包み込んで受け取った。
「ほ、本当の本当に……いいのか……?」
俺を見上げる日毬の目は涙ぐんでいた。まさか三〇〇〇円で、ここまで感じ入ってもらえるとは想像の範囲外である。
「どうしたってんだ? 何も泣くことないだろう」
「生まれて初めて党費を貰うことができたんだ……。嬉しくないわけがあるか……。この幸運を、一億三〇〇〇万すべての日本国民と共に分かち合いたい……。これは大切に党費として処理する……。きっと今、日本大志会の第一歩が始まった瞬間なんだと思う。織葉颯斗……ありがとう……」
「たった三〇〇〇円でそこまで感動されると、逆に困っちまうな……」
「お金の額の問題じゃない。気持ちの問題なんだ」
「党費とかじゃなくて、日毬が好きなもの買うなり自由にしていいぞ」
優しく俺はそう言った。
日毬は頰に伝った一筋の涙をふき、決然と口にする。
「集めた資金は、政治資金規正法により報告が義務づけられている。心遣いには感謝するが、正当に処理をしなくてはならない」
「演説するより、バイトでもした方がいいんじゃないか?」
「バイトならしている。近くのお弁当屋さんだ。それでも政治活動費を賄うに足りないのだがな……」
「時給いくらなんだ?」
「時給一三〇〇円だ。本来なら高校生は時給八五〇円と決まっているらしいのだが、私は一生懸命やっているから、店長が喜んでくれて、ずいぶん上げてくれたんだ」
横から由佳里が感心した声を上げる。
「へー、日毬ちゃんって実直そうだもんねー。ところで政治活動って何にお金かかるの?」
「団体として活動している限り、税理士を雇わなくてはならない。届出やら何やら、細々とした資金もかかる。これが大変なのだ」
「でも政治団体って会費だけで成り立つの? たった数千円を党員から集めたって、結構厳しいと思うけど」
「大抵の政治団体は別の事業でお金を稼いだりして成り立っている。そうしないと活動費の工面ができない。だが私は商売を知らないから、バイトをするしかないのだ」
ここぞとばかりに、俺は仕事の話を持ちかける。
「なぁ、弁当屋でバイトするくらいなら、もう少し割のいいバイトするつもりはないか? 丸一日の拘束で五万円出せる仕事があるんだ。うまくすれば今後も続けていける仕事になるぞ」
「一日で五万……? バ、バカな!? 私を騙そうとしているのか? 危ない仕事を紹介しようとしているんだな?」
「違う違う。変な仕事じゃない。ちょっとしたビデオに出演する仕事だよ」
「ビデオ出演なんていかにも怪しげだろう!」
「大丈夫だって。蒼通が発注する仕事だから安心してくれ。防衛省の広報ビデオだ。立派なものだぞ」
「防衛省の……?」
日毬は息を吞んだ。
それから俺と由佳里が代わる代わる、どんな仕事なのかを説明した。
単純な話だ。防衛省の広報業務の一環として、今年度の防衛要領を一般向けにわかりやすく語る広報ビデオを制作するだけである。企業商品のPRではないから、最高レベルのスタジオやカメラマンを用意するほどでもない。
台本は用意されている。日毬のように真面目一徹な女の子なら、台本を覚えるのはすぐだろう。
広報ビデオは六〇分が二本。ポスター用の撮影と合わせても一日あれば足りる。だが出演する女の子は台本を頭に叩き込まなくてはならないから、そちらの方が大変だ。これらすべてで発注額五万というのは、正式にプロダクションに依頼するには安すぎる金額だった。しかし日毬が個人で受けてくれるなら、なんとか割に合うだろう。
「――そんな訳で蒼通としては、この仕事を二〇〇万で受注したんだ。曲がりなりにも官庁に納品するものだから、いい加減なものは作れない。スタジオやら編集作業やらCG制作やら、すべて引っくるめれば赤字の仕事だな。だから五万しか出せない。それでも日毬がやってくれるかどうかだ」
「私が国防の一端を担うことができるのか? ならば私は日本人として、当然その仕事を拝命せねばならない。まさかこんなに早く、防衛業務に参加することができようとは……」
なぜだか知らないが、日毬は感動に打ち震えているようだった。防衛省の仕事だというのが、日毬にとっては極めて重要なことらしい。
日毬は感極まったように、俺に身を乗り出してくる。
「織葉颯斗……最初に防衛省前で貴公を見かけたとき、何か感じるものがあったのだ。しかも、連中に暴力を振るわれていた私を、身体を張って守ってくれた。我が党の初めての党費までもらってしまった。おまけに国防に私を携わらせてくれるのだと言う……。どうしてこんな私に、そんなに優しくしてくれるんだ? 私はどうしたらいい? お前はきっと私のサンタクロースなんだ。もう胸がいっぱいで、どうやって今の気持ちを表現すればいいのかわからない……」
少しも優しくした覚えはないのだが、日毬は俺に尊敬の眼差しを向けていた。多分に誤解があると思う。
しかしこんな真っ正面から、しかも女の子からストレートな口説き文句のような言葉を投げかけられたことなど、未だかつてないことだ。日毬は素直な気持ちを吐露しただけで、深い意図はないのかもしれないが、言葉を受けた俺は頰が赤らむのを禁じ得なかった。俺とて女に慣れていないわけじゃない。だが、日毬のような女の子に出会ったのは、生まれて初めてのことだった。
由佳里が日毬の後ろから、そっと両肩に手を乗せる。
「日毬ちゃん、なんてストレートなの。聞いてるお姉さんがちょっとキュンとしちゃったよ。いっそのこと付き合っちゃっていいと思うよ。先輩はチャラそうに見えて、意外と真面目なところもほんの少しだけ垣間見られる気がするから、ギリギリ安心してオッケーだからね……たぶん。先輩の私生活は知らないけど!」
そう言いつつ、由佳里は日毬の両肩に手を添えたまま、今度は俺に視線を向ける。
「あ! でも一六歳は条例違反ですからね先輩。お付き合いは一八歳になってからですよ」
「お前はどっちなんだよ……」
由佳里に構っても仕方ないので、俺は仕事に話を戻す。
「それにしても、まさかこんなに日毬が乗り気になってくれるとは思わなかったよ。こっちとしてはありがたいけどさ、ひとつ注意してほしい。仮にも広報ビデオに出演するわけだから、世間に顔が出ることになる。そういうのに抵抗感があれば無理な仕事だけど、それは大丈夫か?」
「私は毎日、街頭に立って拡さんと一緒に演説しているのだぞ。そのくらいで抵抗を感じるわけがない。私には日本を変える使命がある」
「それならいいさ。あと一六歳ってことなら、親権者の同意も必要だ。いずれ親御さんの同意書をもらうことになる」
「まったく問題ない。母上は、私が決めたことなら貫き通すように言うだろう」
日毬は大きくうなずいた。
――母上……どんな家庭なんだ……。
「そうと決まれば後日、打ち合わせをしよう。連絡先は、さっきの名刺の場所でいいんだな」
「そうだ。いつでも連絡してほしい。……貴公は私に優しくしてくれてばかりだ。逆に私が、何か貴公にしてやれることはないのか?」
本心から日毬は言っているようだった。
「広報ビデオに出てくれるだけで十分さ。五万のギャラで、一級の美少女を探すだけでも手間だからな。助かるよ」
「わ、私は美少女か……?」
日毬はハッとして目を見開いた。
肩に手を添えたままの由佳里が、日毬を後ろから覗き込む。
「うん! 日毬ちゃん、とっても可愛いよ。言われたことないの? すっごくモテるでしょ?」
「いや……男の子たちは、みんな私を避けるんだ……。私はきっと嫌われている……」
日毬は顔を伏せ、表情を曇らせた。
真剣に落ち込んだ様子の日毬に、慌てて由佳里が口にする。
「そ、それは別の方面で避けられてるだけじゃないかな……。主に思想的に……それと武士っぽい言葉遣いとか……。日毬ちゃんの美貌は間違いないよ、うん!」
「織葉颯斗、お前も私を美人だと思ってくれるのか?」
おずおずと日毬は、すがるような視線を俺に向けてきた。
俺はしっかりとうなずいてみせる。
「どこから見ても日毬は傑出した美少女だな。そうじゃなきゃ街中で出会った相手に、こんな仕事をお願いしないさ。だろ?」
「……」
日毬は顔を赤らめ、視線を伏せてはにかんだ。やがてコクリと、小さくうなずいたように見えた。
俺は腕時計を見やる。
「さぁて、あと二〇分ほどでアポの時間だ。それまでに日毬を家に送り届けるよ。近所なんだろ。さっきのヤツらがいたら困るからな。なにせ大事なタレントさんだ」
「あいつら、ストーカーみたいに私にまとわりついて来るんだ。困ってる」
日毬は眉をひそめた。
由佳里が応じる。
「ひどい……。警察に言った方がいいわよ」
「言っても無駄だ。警察は何もしてくれない。余計に事態が悪くなる」
「そんなことないわよ。こんなに困ってる日毬ちゃんを簡単に見捨てたりしないはずよ」
「そうだぞ、これからすぐにでも警察に行った方がいい。なんなら後で、俺も一緒に警察署に同行して説明してやろう。暴行を目撃した当事者でもあるからな」
俺も由佳里に同意した。
たしかに警察は、実際の被害が出るまではほとんど動いてくれないところだ。対応もおざなりなことが多い。しかし今回は、俺や由佳里が事件を目の当たりにしている。こういうときこそ、メディア業界に力を持っている蒼通の名前は、多少は役に立つだろう。警察としても、メディア関係者には特に慇懃に接してくれる。俺か由佳里が同行すれば、警察は嫌々ながらも耳を傾けてくれる可能性が大きくなるはずだ。
少しでも日毬を安心させようと、俺は強めの語調で続ける。
「これから営業があるから、警察に行くのはそれが終わってからでいいか? ひとまずストーカーは撃退できてるし、家まで送れば安心だろう。警察では、俺と由佳里がきちんと説明してやるよ」
だが日毬は不思議そうに、俺と由佳里を見やってくる。
「うん? だってアイツら自身が警察なんだぞ? 警察の乱暴を、警察に訴えたところで意味はないんじゃないか?」
「……え?」
「……はい?」
俺も由佳里も、目が点になっていた。意味がわからない。いや、わかりたくない。
「アイツら公安なんだ。私が何か悪巧みをしているんだと勘違いしている。私はただ、日本を変えたいだけなのに」
「公……安……?」
「ここ、公安って……小説で読んだことありますが……それってやっぱり警察……ですよね……?」
間違いであってほしいと祈るような表情で、由佳里は俺におそるおそる視線を向けた。
だが、日毬の次の言葉で、俺たちの期待は無惨に打ち砕かれることになった。
「警視庁公安部。私の敵だ」
ちょうどそのとき――。
――プルルルル……プルルルル……。
由佳里の携帯が鳴り響く。
怖じ怖じしながら、由佳里は携帯を取り上げた。
「もしもし?」
目の前で息を吞んだ由佳里に、相手が誰であるか俺にはすぐにわかった。
由佳里は涙目で携帯を耳元から離し、俺に助け船を求めてくる。
「先輩……警視庁からです……。公安三課って名乗ってますが……」
公安第三課は、公安警察のなかで、右翼を専門に扱うセクションだ。
「携帯、貸してくれ……。とにかく俺が話してみよう……」
愕然としつつも、俺は携帯を受け取ったのだった。