サクラコ・アトミカ
第二十一回
犬村小六 Illustration/片山若子
「最前線」のフィクションズ。サクラコの美しさが世界を滅ぼすーー。 畸形都市・丁都に囚われた美貌の姫君、サクラコ。七つの都市国家を焼き払う原子の矢は、彼女の“ありえない美しさ”から創られる......。 期待の新星・犬村小六が放つ、ボーイ・ミーツ・ガールの新たな金字塔、ここに誕生!
朝が来て、ふたりのバスは荒野を駆けた。
運転するナギにぴったり寄り添って、サクラコはずっととりとめない話をしていた。意味のない思いつきの話だったが、ナギは律儀に片方の耳を傾けて相づちを打ったり合いの手を入れたりしていた。
行く先はずっと晴れていた。真っ白なちぎれ雲が気持ちよさそうに遊弋していた。焼けつくような太陽光が視界いっぱい降り注いでいた。
昼になり、サクラコはパンにジャムを塗って運転中のナギに差し出した。素直に食べるナギを見てうれしそうに笑い、何枚もジャムパンをナギにあげた。
日がかげり、真っ赤な夕焼けが浮かび上がった。車内までが茜色に染まった。荒野はどこまでも空の真紅を映していた。薄桃色の雲の狭間を鳥の群がどこかへ帰っていった。
サクラコは珍しく口をつぐんで、暮れていく空の色を見ていた。行く手の東の空にはすでに強い星がまたたきはじめていた。
天頂から降り注いでくる漆黒が地表面まで落ち、ナギはキッチンにあったものを使ってシチューを作った。昔からシチューばかり食べていたこともあって、それなりに良い出来だった。味にうるさいサクラコがおかわりした。
やがて滴るような星空が窓の外に現れた。
窓の外を星が幾つか流れて消えた。どうやら流星雨らしかった。サクラコはバスの外へ出てみた。
天蓋は見渡す限り、きらびやかな星の海だった。漆黒の下地にこの世の全ての宝石を縫い留めたような、幾千の細やかな色彩が頭上にたなびいていた。冬の湖面さながらに凍てついた情景を、流星たちが切り破る。
「きれいじゃあ」
両手を広げてサクラコは満天の星彩を抱き留めた。ステップを踏みながらくるくる回った。
ナギもバスから降り、同じものを見上げた。
「すごいね。きれいだね」
感想をこぼすと、サクラコが悪戯っぽく微笑みながら問いかけた。
「おお? なんじゃあ、おんし、きれいとか思うのか」
質問されてナギも気づいた。きれいとか汚いとか、以前は存在しなかった感性が自分のうちにいつのまにか根付いている。
「変かな」
「変じゃないぞ。それがまともなんじゃ」
「なんか、わかるようになったみたい。ていうか……うん。きれいなのがわかるよ」
ナギは決まり悪そうに答えた。ただの人造兵器であるはずの自分が、美しいものを感じ取れることが不思議だった。そんな余計な機能を知事が植え付けているはずがないのに。
「そうかあ。すごいのう、進歩しておるではないか。わらわの美しさも理解できんかった男にしては上出来じゃ」
「うん……。なんか、よくわかんないけど、成長してる感じ」
夜風が行き過ぎた。冷たく乾いた土の匂いがした。ふたりの手が絡んだ。
「自然な命の働きじゃ」
「そうなのかな」
「たぶん。わらわもようわからんけど、たぶんそうじゃ」
ナギはサクラコを抱きしめた。うれしそうにサクラコの両手がナギにすがりつく。
「なんか幸せな感じ」
三千の星の色が降り注いでいた。
「ずっとこうしておれたらのう」
サクラコの瞳にも星の色が映り込んでいた。
「いつまでも?」
問いかけると、サクラコの瞳の星たちがいっそう輝きを増した。
「死ぬまでずっと一緒じゃ」
「あたしも死ぬまでずっと一緒よ」
不意に頭上からそんな声がした。
サクラコの瞳から目を離し、上方へ持ち上げたナギの目線の先、丁都知事ディドル・オルガがまっしぐらに降下してきた。
「サクラコっ!!」
ナギはサクラコを背後にかばった。瞬時にその右手に発光するフランベルジュが現出する。
オルガは地表面に激突し、粉々の微粒子となり、ふわっ……と空間にめくれあがった。
星明かりが舞い散るオルガの狭間できらきらとさざめいた。さざめきはすぐに集合して人型となり、今度はゆらゆらと揺れながら音もなく地面に降り立つ。
「あたしもバスに乗ってたって知ってた?」
微粒子たちは徐々に密度を高め、物質として視認できるほどになった。その口からねっとりした言葉が排出されて、サクラコの肌を総毛立たせる。
「変質者……!!」
汚らわしげに吐き捨てる。オルガはうれしそうに、口の形をひん曲げる。
「逃げれたと思ったでしょう? 本当はあたし、透明人間になって、ずっとあなたたちと一緒にいたのよ。うふふ。全部聞いたし全部見てた。もう、嫉妬で死にそうになりながら、サクラコ、あなたの呟きもやることも全部全部全部見た聞いた感じた」
サクラコの表情が嫌悪に歪み、両手で耳を塞いでナギの背後に隠れる。
ナギは自らの生みの親であり雇い主でもある生物――もしかすると生物ですらないのかもしれないなにか――を凝視する。
――丁都知事、ディドル・オルガ。
世界の鼻つまみもの。
下品な文様の十二単を身にまとい、長い髪を奇怪な形状に結い上げて、彫りの深い顔立ちに濃い化粧を施した、これでもかというほど糜爛して爛熟して堕落した女装男性が荒野に降り立った。
片手に持った扇子でおのれの顔を扇ぎながら、長いまつげの下、オルガの流し目がナギへむけられ、喉の浅いところから裏返った声が漏れ出る。
「牢番から騎士へ華麗な転身。素敵ね。バケモノとお姫様の恋。報われぬ逃避行。面白い演し物だわあ」
「知事の優しさに甘えて、このまま逃避行をつづけたいんですけど」
「もう充分、優しくしてあげたじゃない。世界一美しいお姫様と恋に落ちたバケモノを今日まで放置してあげたんだからちっとは感謝してよね」
「感謝してます、よ」
一瞬の隙をついて、ナギは大きく踏み込んでオルガの間合いへ入り、フランベルジュを横殴りに振った。
オルガの首が吹っ飛んだ。切断面から血流が噴き上がる。
「ナギっ」
サクラコが叫ぶ。
「バスに乗って、エンジンかけてっ!」
背後を振り返りもせず、ナギは叫んだ。
宙を舞い飛ぶオルガの頭部が、ブーメランのごとく自分の首の切断面へと戻ってきた。両手で自らの頭を挟み込み、二、三度位置を調整しただけで首と胴体が繫がり、オルガはふんと鼻を鳴らした。
「話の途中で人の首斬るのやめなさいよ。失礼よ。すごい失礼」
何事もなかったかのように、腕組みをしてつんと顎を斜めに持ち上げる。
対峙するふたりの背後、サクラコは言われたとおりにバスに駆け込んでエンジンをかけた。それから心配そうに、ガラスのむこうのナギを見やる。
ひとり荒野に残り、ナギは相変わらずオルガを注視したまま、じりじりと後退している。
「質問いいですか」
「なんでもカモン」
「知事って、どうやったら死ぬんですか」
「あたしが聞きたいわよバカ。ねえあなたひょっとして、あたしが好きで生きてると思ってる?」
「思ってます」
「死になさいよバカ」
「生きるの好きじゃないんですか?」
「大嫌いに決まってるじゃないバカ。あんまりバカなこと言ってるとチンチンを鉛筆削りに突っ込むわよ。こんなクソ以下の世界を這いつくばって生きるなんて無期懲役と変わんない」
「でも知事、なんでも願い叶うじゃないですか」
「叶うわよなんでも。この荒野を全部、肥だめにすることもできるわよ。やってみる?」
「やめてください」
「あのねえ、願いが全部その場で叶っちゃうなんて、ひどい罰よ。もう、生きててもなーんにも面白くない。あたしだって努力してなにかを達成したいのに努力する前に叶っちゃう。いっつも最低な気分」
「その力を善いことに使うと、いい気持ちになるかもしれません」
「してるじゃない。めちゃくちゃ善いことしてる。このクソ世界を焼き尽くしてあげるのよ、あたしが、責任もって、ひとり残らず分子レベルに解体してあげる」
「悪いですよそれ。すごい悪い」
「うるさいわねあんたなによ、人のやることに文句ばっかりつけて。かわいくない。つうかそろそろ決闘する? 準備OK?」
「一応もう、決闘してるつもりなんですけど、これでも」
「あ、そうなの? そういえばさっきあたしの首斬ってたわね」
「まいったなあ。こんな扱い受けるの、ぼくはじめてです」
「まあねえ。たいがいそうなるのよね。でもあきらめないでむかってきなさい。あなたはあたしの次に破壊に長ける生物なのよ? 自信を持って。もしかしたら勝てるかもしれない。さあ、胸いっぱいに希望を抱えて立ちむかってきなさい」
武器を持つこともなく、オルガは挑発する。久しぶりに自分に立ちむかってくる生物が現れたことがうれしそうだ。永遠の退屈に苛まれているオルガにとって、いまはこころときめくお遊戯の時間なのだろう。
「なにぐずぐずしてんの、ねえ。もしかしてこんな殺風景なとこじゃあ気分盛り上がらない? お花とか欲しい?」
オルガの言葉が終わると同時に、荒野が一面、七彩の花園と化した。星と月の光の下、とりどりの色彩たちが風にあおられ、むせかえるような花弁たちの香りがナギの鼻をつく。先ほどまでのひびわれた赤土の大地が跡形もなくかき消えている。
「…………!!」
このくらいのことはできる、と知ってはいたが、目の当たりにすると驚愕を禁じ得ない。全くもって不条理すぎる力だ。
「照明も派手にする?」
降り注いでくる月光の明度が上がる。さらに天蓋の星明かりたちも光量が増す。夜を半分残したまま、月と星の光が朝を呼び起こそうとしているかのよう。
「この力、善いことに使いましょうよ」
さっきと同じ提案をしてみる。オルガはいやらしく笑みながら、自分が咲かせた花をぐりぐりと踏みにじった。
「踏むためだけに花を咲かせたの。きれいな花があたしの靴底でぐちゃぐちゃになるの、かわいい」
「悪いなあ。めちゃくちゃ悪い人ですよ」
オルガが間合いを詰めてくる。本当ならこの生き物に間合いもクソもないはずだが、一介の闘士を気取って遊びたいのだろう。
花を踏みにじりながら、滴るような星と月の光を全身に浴びつつ、丸腰のままのオルガが寄ってくる。
無駄とは知りながら、ナギは大きく踏み込んでオルガの胴体を目がけフランベルジュを薙いだ。
しかし刀身がオルガの脇腹に接触した瞬間、フランベルジュは腐った。
一瞬にして波状の刀身が緑色に錆び付き、柄にフジツボが生じて、柄を握るナギの右手にまで腐敗が浸食してくる。
「…………っ!!」
手のひらがどす黒く変色し、裂け目ができて、ザクロのごとくぱっくりと割れ、そこから膿が垂れ落ちた。傷口には蛆虫まで湧いている。
――勝てない。
改めてそれを自覚した。斬りつけただけでこちらが腐敗する。勝てるわけがない。
「サクラコ!」
バスの運転席へ呼びかけた。
「逃げて! なんとか時間稼ぎするから!」
「い、いやじゃ、おんしも一緒に……」
「いいから! あとで行くから! だから逃げて!!」
おほほほ、とオルガは楽しげに声を立てて笑った。
「いいわ、互いにかばいあう恋人たち、いいわようっ! 愛しい少女の前で最悪にぶざまなすがたにしてあげる。サクラコがあなたを思い出すたびにうなされるくらい、醜い、汚い、最低に下品でグロテスクな負け方をさせてあげる」
涎を垂らさんばかりに、オルガが両手をナギへむかい突き出した。
ナギの左手から発光するレイピアが生じ、オルガの両手をめがけ下から斬り上げる。
しかしまたしても刀身がオルガに触れた途端、その場で赤錆を噴出して腐り崩れてしまう。
腐敗が左手へ伝う。指先から皮膚がささむけて、肉が紫に変色して血管が干涸らびる。手首から先が全てカビとなり、風に吹き砕かれる。ナギの両手はすでに使いものにならない。
「やめろ、変質者、やめるのじゃ!」
サクラコがバスの乗降口から身を乗り出して叫ぶ。いまにも駆け寄ってきそうだ。
「来ないでサクラコ、逃げてっ」
悲痛なナギの叫びに、オルガの微笑みが返った。
「いいわ、いいっ。永遠に引き裂かれる恋人たち、いいっ!」
歓喜に打ち震えながらオルガは両手を広げてナギに近づいていく。両手を失ったナギは正面から待ち受ける。
ナギの両膝から槍の穂先のような鋭い突起が生じた。オルガが間合いに入った瞬間、ナギはその膝をオルガへむかい突き上げる。無駄とは知りつつ、せめてもの抵抗だったが、結果はやはりオルガを貫くことも出来ないまま、膝が腐敗してしまった。
両手と右足がもげ落ちて、ナギはなすすべなく花園にうつぶせに倒れ込んだ。
「ナギィっっ!!」
サクラコが駆け寄るより早く、オルガは花園に両膝を突くと、身を屈め両手で愛おしそうにナギの胴体を自分の胸に抱きかかえた。
「かわいい」
人形のようにナギの髪を片手で撫でる。撫でられた髪が腐る。抱きかかえられているナギの背中が腐っていき、蛆虫が湧く。花の香りの中へ異臭が爆ぜる。
生きながら腐っていくナギの口元から苦悶が漏れる。
「苦しい? 死にたい?」
オルガは楽しげにナギの耳元に口を寄せてそうささやく。オルガの息がかかったナギの耳たぶが、あたかも塩酸をかけられたように白い煙を噴き上げて、ただれはじめる。
「でも死なせてあげない。あなたは死ぬこともできずに、いつも身体を内側から焼かれている状態で、皮膚から炎を噴き上げて、永遠に荒野をさまようの。サクラコの名前を呼びながら、誰もが目を背けるような醜いすがたで、うろうろ、うろうろ」
オルガは今度はナギの額に片手を当てた。紫煙があがり、撫でられた顔の皮膚がめくれあがる。堪えきれず、ナギの絶叫が明るすぎる夜に響いた。耳、鼻孔、口腔からも煙が洩れ出てくる。オルガの言葉どおり、ナギの身体が内側から燃焼をはじめていた。
「あなたの胃の中に溶岩をいれてあげる」
オルガのイメージが具現して、ナギの体内に溶岩が生じる。断末魔じみた叫びをあげながらナギは残った左足をばたつかせてオルガの腕の中から逃れようとするが、両腕と右足がもげ落ちてしまっているいま、満足な抵抗ができるはずもない。美しかった肉体は腐食し、焼かれ、原形を留めず爛れてゆく。ふたりに敷かれた花たちまでが黒ずみ、腐敗の領域を地に広げていた。
「やめよっっ!!」
ついにサクラコは勇気を振り絞ってバスを降り、オルガの元へ駆け込んでいった。そして両手でぽかぽかとオルガの頭部を叩く。
「いいわ、サクラコ、もっとぶってもっと」
オルガは笑顔でサクラコの殴打を受け入れる。いくら殴ってもサクラコの両拳は腐らない。
「ナギを放せっ! 放すのじゃ変態っ!!」
「んふふ。いやよ。いやいや。あなたの泣きっ面をもっと見たいから、絶対放してあげない」
オルガはねっとりと舌でおのれの唇を舐め上げ、腕の中のナギを弄びながら、泣き叫ぶサクラコを満足そうに睥睨する。
「きれいね、サクラコ。泣いててもきれい。あなた、世界で一番きれいよ」
「もういい、わかったから、放すのじゃっ! 言うことを聞くから、ナギを放せっ!!」
「あなたの睫毛が好き。その瞳も澄んでてきれい。鼻筋がつんとしてて、唇もかわいらしくて。それに比べてほら、恋人の醜いこと」
オルガは子どもを見せびらかすように、変わり果てたナギのすがたをサクラコの面前へ掲げる。身体の表面が焼けただれて、口腔は明らかな苦悶を示し、手足のもげ落ちた芋虫みたいなすがたでオルガの両腕の中に抱かれていた。
「うああっ! うわああああっ!!」
サクラコは絶叫した。涙がぽろぽろこぼれ出てくる。
「まだ足りない? もっと醜くする?」
「やめいっ! やめよっ! もういい、わかった、牢屋に戻るから、だからやめよっ!」
「ねえサクラコ。頼み方って知ってる?」
「やめて……やめてくりゃれ。やめておくれ……」
ぐずぐずとサクラコは泣き出してしまった。うつむいて、両手で自分の両目を何度もさすりながら、絞り出すように嘆願する。
「原子塔になる、って誓いなさい。あたしの造った装置と一体化して世界を焼き尽くすことをいまここで誓うの。そしたらこの芋虫を助けてあげる」
「…………」
「誓わないとこうよ?」
オルガは楽しげにナギの身体を壊しにかかる。ナギの絶叫が夜空を震わせる。
もはやサクラコに選択肢はなかった。
とめどなく涙を流しながら、美しい顔立ちをぐしゃぐしゃに歪めて、サクラコは叫んだ。
「原子塔になるっ! おんしの造った装置にわらわを繫いでくれっ! 世界を焼き尽くすから、だからナギを放せっ」
「んふふふふっ! んふふふふうっ!! ダメよサクラコ~、もっときちんと頼まないと。跪いて、ひれ伏して、おでこを地面に擦りつけながら、お願いをしなさい。原子塔にしてください、って頼むの、わたしをあなたの装置にしてくださいって。さあほら早く。早く頼まないと次は脊椎を抜き取るわよっ」
ナギの身体を赤ん坊のように弄びながらオルガが急かす。
かみしめた唇から血を流しながら、サクラコは花畑に跪いた。そして額を花弁の中に埋めさせて、震える声で嘆願する。
「原子塔にしてください。わたしをあなたの装置にしてください……」
けけけ、とオルガは哄笑すると、抱きかかえていたナギの身体を乱暴に花園へ投げつけた。
それからサクラコに歩み寄り、髪の毛を鷲づかみにして無理矢理に顔を上にむかせる。
涙と鼻水と悲しみに覆い尽くされたサクラコの表情だった。オルガがふっ、と息を吹きかけると、顔中に溢れ出ていた水滴たちがたちまち蒸発してしまった。
「かわいい」
オルガは呟いて、サクラコの身体を両手で胸の前へ抱き上げた。
「準備OKって感じね。世界を焼き尽くすには、あなたの意志がどうしても必要だった。あなたの決意があれば世界も焼き尽くせる」
「ナギを……助けて……」
「んふふ。あなたが決意を持ち続ける限り、生かしておいてあげる。どんなすがたかは保証しないけど、生きてるだけマシでしょ。んじゃ、行くわよ。あなたのお望み通り、原子塔に繫いであげる。あたしの造った塔と一体化して世界を焼き尽くすのよ、楽しそうでしょ?」
「ナギ……」
オルガに抱きかかえられたまま、サクラコは花園に突っ伏すナギへ片手を差し伸べた。
手足を失い、全身が黒く焼け爛れたナギだった。さらに身体の表面から、紫紺色の炎が噴き出ている。さっきオルガが言ったように、全身を焼かれながら生きている。どこが顔なのかももうわからない。
「ナギ……」
サクラコの頰を涙が伝った。
「いいわあ、恋人たちの永遠のお別れ。最高」
サクラコを抱き上げたままのオルガの背中から、青黒い翼が生じはじめた。ナギの翼よりも大きく、いびつな翼だった。
「夜間飛行しましょうね、サクラコ。あなたを抱っこしたままずっと飛びたいの。んふふ」
「ナギっ……!!」
サクラコは身をよじり、右手を差し伸べた。手の先でナギは炎をまとって燃えていた。肉の焼ける匂いと、悲痛すぎる苦悶の呻きが、ナギの別れの挨拶だった。
微笑みと共にオルガは上昇をはじめた。サクラコの叫びはもはや声にならない。地を這うナギが小さくなっていく。夜の底へ消えようとしている。
「丁都に戻るわよ」
不格好な翼が翻り、鳥よりも優雅に飛翔する。涙と鼻水に濡れたサクラコの顔を愛おしそうに指先で撫でさすりながら、オルガは夜を切り裂くようにして星の彼方へ消えていった――。
変わり果てたナギがひとり、花園に残されていた。明度が上がっていた月も星も普段の光量に戻り、花園も徐々に空間へ溶け込むように消滅していく。
「ひ……あ……っ」
もはや声でもなく、損傷した発声器官から呼気を漏らしながら、ナギはなおも内側から焼かれつづけていた。臓器が全て熱をもって燃焼し、しかも燃えながら細胞が勝手に増殖し再生するため燃え尽きることがない。オルガがナギに下した刑罰は永遠の炎熱地獄だった。さらに皮膚の毛穴からは燃焼ガスが絶えることなく噴出し、そこへ火が乗り移るため、身体全体に紫紺色の炎を否応なくまとわされる。
いまのナギは思考することさえ困難だった。残った左目を押しひらき、なんとか現状を認識しようと努める。
サクラコとふたりで荒野を逃げていて……バスに乗って……オルガに襲われ……負けて……サクラコを連れ去られた。
――助けなきゃ。
そう思うものの、身体の内側と外側に宿った炎が思考そのものを熱の手で引き裂く。
手足はもげ落ち、ナギは胴体だけで荒野を這いずりながら炎熱を振り払おうともがいた。しかしどうにもならない。どんなに泣き叫んでも、体内を焼き尽くす炎は消えてくれない。身体の表面を覆った炎が髪の毛も眼球も舌も燃え上がらせる。
苦しみの出口が見えない。いまのこのままではあまりに辛すぎる。なんとか現状を変えなければ。
そう思い至り、もがきながら、ナギはまず足を再生することにした。懸命に両足が生えてくるイメージをたくわえ、現実に具象するのを待つ。ただイメージすることさえも炎が阻害してくるためいつものようにいかない。かつて両足があった場所に湧いて出たふたつの肉の突起物は、そこからなかなか伸びてくれない。
「ひっ……あっ……」
焼け爛れた口腔から呻きを洩らしながら、ナギはただひたすら両足を取り戻す心象を自らの意識領域に生成しつづけた。ようやくそれがかたちになったのは、イメージをはじめてから一時間後のことだった。
「うぅ……」
業火をまとったまま、ナギは立ち上がろうともがいた。しかし両腕が失われているためバランスがとれない。起き上がろうとしたところで転倒してしまう。絶望的な気分のまま、両腕を生やすイメージの生成をはじめるしかなかった。
二時間ほども経って、夜が深まり、月が地平へと大きく傾いた頃、ようやくナギは自らの両足で荒野に直立していた。
相変わらず身体の表面には炎をまとい、揺らめく火焰のむこうにうっすらと焼け爛れた皮膚が垣間見え、頭部にはわずかに眼窩のくぼみ、鼻梁、唇のひらきが見て取れる。以前の凜として精悍な佇まいは面影もなく、荒野をさまよう炎熱のバケモノと化して、ナギはあてもなく足を前後に送りはじめた。
焼かれた頭蓋のうちからは、とめどなく悲嘆があふれてくる。
ひどすぎる刑罰だ。なんでぼくがこんな目に。
やっぱり知事に逆らうんじゃなかった。勝てるわけがない。逃げ切れるはずもない。バケモノのくせに恋なんかするからこんな目に遭うんだ。バケモノが人間のふりをした、その末路がこれだ。
――お願いします。殺してください。
炎熱からの逃げ場を求めて、ナギは残った片方の目で夜空を見上げた。自らがまとった炎のむこう、星と月はただ泰然と地上を見下ろしていた。手を差し伸べてくれるはずもない。誰も助けてくれない。このすがたのまま、何日も何ヵ月も何年も何十年も……いや、永遠に焼かれながら生きるしかない。
――希望を抱いたことを反省しますから。
もう逆らいませんから。個人的な思いなんて捨てて言われたことだけやりますから。だからどうかこの炎を消してください。
いくら祈っても、業火は消えてはくれなかった。
果てしない荒野をひとり、夜の底を焚く篝火となって、行くあてもなくさまようことしかできない。
炎は思考と精神を焼き、忘却を強制してくる。
過去が消えてしまう。
ナギは星空へむかって手を差し伸べた。しかし手の先で、思い出は火の舞のむこうへ過ぎ去っていく。
ナギの残った方の目から、ひとすじ、涙がこぼれた。その涙さえ瞬時に蒸気となる。
このまま、これまで積み重ねてきた時間の記憶を全て奪い取られてしまったなら、自分はもう自分であることさえできなくなるだろう。そのうち自分の名前さえ忘れ果てて、生きる目的もなく、死ぬこともできず、焼かれる苦しみさえ当たり前となって、荒野をさまよう一個のバケモノになり果てるだろう。
「サクラコ」
忘却に抗うように、ナギはその名前を呟いた。けれどもう、脳髄まで焼かれていくのがわかる。なにもかも、炎が持ち去ってしまう……。