サクラコ・アトミカ
第十八回
犬村小六 Illustration/片山若子
「最前線」のフィクションズ。サクラコの美しさが世界を滅ぼすーー。 畸形都市・丁都に囚われた美貌の姫君、サクラコ。七つの都市国家を焼き払う原子の矢は、彼女の“ありえない美しさ”から創られる......。 期待の新星・犬村小六が放つ、ボーイ・ミーツ・ガールの新たな金字塔、ここに誕生!
サクラコはナギの腕に身を任せた。ゴンドラの座席に並んで腰を下ろしたまま、ふたりの身体が寄り添った。
サクラコは目を閉じて、ナギの肩に頭を預けた。
ナギは抱き寄せる腕に少し力を込めた。サクラコの小さな身体から鼓動が伝ってきた。
ふたりの心音が重なっていた。窓の外、遊園地の灯りが遠ざかっていく。
静かだった。ゴンドラの軋みがかすかに聞こえた。
ナギは腰をずらして、両手でサクラコの身体を抱きしめた。サクラコの両手がナギの腰の後ろへ回った。
きつく抱きしめると、サクラコの背が反った。
互いに唇を押しつけ、口をひらき、なかのものを絡め合った。
ナギはサクラコの髪に指を通した。唇を離して、もう一度押しつけた。柔らかくていい匂いがした。
「ねえサクラコ」
ささやくようにして名前を呼んだ。
「うん」
人工の星をたくさん瞳に映して、サクラコは間近からナギを見上げた。
「こころって、なに」
以前尋ねたことを、もう一度問い直してみる。
「知らん」
以前と同じ答えが返ってきた。ナギはもどかしそうにサクラコの髪の毛を指の狭間でまさぐった。
「不思議だね。ぼくもきみもそれを持ってるのに。それしか持ってないのに。そのものの正体がわからないなんて」
「なあ。面白いよのう」
「どうしてだろう。どうしてぼくもきみもそんなもの持ってるんだろう。身体は人間じゃないくせに、なんでそんなの持ってるのかな」
「わらわも考えてみたことがあるよ。自意識と肉体に関するたくさんの文献を当たって調べてもみた。だが確かなことなどなにもわからんかった。わかったのはただ、こころとはどこからかやってきて、一定の時間を地上で過ごし、時が来るといずこへか帰っていく……そんだけじゃ」
「どこから来たのか、どこへ帰るのかもわからない、ってわけ?」
「もしかすると来たところも帰るところもないのかもしれんが。なにもわからんよ」
「不思議だなあ。人間って、空飛んだりバケモノ造ったりできるのに、自分がなんなのかわからないなんて」
「わからんことだらけで、素敵ではないか」
「うん。そうだね、素敵だね」
目を閉じて、ふたりはまた唇を重ねた。不器用な手つきでお互いの身体を撫で、髪の毛をまさぐり、胸に片耳を当てて互いの心音を聞いた。
「サクラコ」
意味もなく、ナギはただ名前を呼んだ。そうするだけでなぜだか幸せな気持ちになれた。
「サクラコ」
呼ばれるたび、サクラコは頰を真っ赤にして、ナギの胸におでこを擦りつけた。
「なんじゃあ、アホウ。ようやくわらわに惚れおったか」
「そうなのかな」
「自覚がないのか」
「よくわかんない」
「そのわりにチューは熱烈じゃがのう」
「うん。きみとこうするの、楽しい」
「……アホウ」
サクラコはナギの頭のうしろへ両手を回して、愛おしさを込め、桜色の唇を押しつけた。
「ずっとこうしてたい」
ナギは呟いた。
「わらわは構わんぞ」
サクラコは答えた。
「ずっとここにいたいな」
サクラコを背後から抱きすくめて、ナギは素直な希望を口にした。
「はらぺこになって死ぬまでここにおるか」
ナギの胸に頭を預けて、微笑みを浮かべ、サクラコは幸せそうに目を閉じた。
「それも悪くないかも」
「こんな狭いところにいつまでもいるのはいやじゃ。もっといろんなところに出かけたい」
「つれないなあ」
「おんしとふたりでじゃ。ふたりでいろんなところに行きたいんじゃあ」
サクラコは首をねじ曲げてナギを仰ぎ、頰を膨らませた。ナギの手がサクラコのあごを支えて、ふたりは今日十数回目の口づけをした。
「さっきも言ったけど、ぼく、丁都と戦場以外に出かけたことがないんだ。遊びに出かけたことって、この遊園地がはじめて。ふたりで遊びに行くとして、どんなところがあるのかな」
「デートの場所かあ。そうさのう。野原をピクニックするのも、河原でバーベキューするのも良いが、やはり海で決まりじゃ! 海が良い、海は楽しいぞ~」
「海かあ。そういえば阿岐ヶ原って海に近いんだよね。ぼく、見たことないや」
「海を見たことがないのか!? それは哀れな。あぁ、おんしと一緒に海に行きたいのう。海パン一枚のおんしにむかってカニを投げつけたり、ウニを投げつけたり、ウツボを投げつけたりしたいのう」
「遊び方が間違ってる気がするけど、行ってみたいなあ。すんごい大きいんでしょう?」
「大きいぞう。どーんとしておる。見渡す限り青くってなあ。ざぱーん、って、波が打ち寄せてくるのじゃ。砂浜は真っ白に輝いて、潮風は変な匂いがして、臭いけど、泳ぐと気持ちがいいのじゃ」
「いいなあ。海かあ。見たいなあ」
「いいぞう。楽しいぞう。夏の海とか最高じゃぞう」
「ねえサクラコ、一緒に想像してみて」
「うぬ?」
「ぼくときみがふたりで、夏の海で泳いでるところ」
「ふぬ」
「目を閉じて。風の匂いと、打ち寄せる波と、真っ白な砂浜を思い描く」
「なんのために」
「実現させるために。全ては想像することからはじまるんだ」
「叶うかのう」
「わかんない。でも、まずは想像しないとなにもはじまらない」
「頼りない話じゃ」
「夢見るだけならタダだよ。さ、ぼくもやるから。騙されたと思って」
「うぬう」
サクラコはナギの胸に顔を埋め、言われた通り目を閉じて、夏の海をふたりで泳ぐところを想像してみた。
かわいらしい水着を身につけて、サクラコは想像の海へ身を委ねる。
真夏の日光が透明な水面にきらきらと弾ける。ぬるい海水が四肢に気持ちよい。面白いすがたをした色とりどりの魚たちが周囲を泳いでいる。水底は珊瑚で、海水は透きとおっていて、魚の影が底にまで刻みつけられている。好きなだけ泳いで、顔を上げると、水平線に真っ白な積乱雲が林立している。そのむこうに真っ青な空。遮蔽物のない、果てもなく渺々とした群青の世界。
ナギもサクラコと一緒に泳ぐ。華奢な手足と薄い胸板を無防備に日射しに晒し、気持ちよさそうにゆっくり、手で水をかいている。サクラコはにこにこしながらナギの身体に抱きつく。ナギの手がサクラコの背に回る。抱き合ったまま透明な水の中へふたりで潜る。魚になったみたいだ。気が済むまで、水中でお互いの感触を確かめる。
「むふふ」
目を閉じてそんな光景を想像しながら、サクラコは笑ってしまった。
「面白いこと考えてる?」
観覧車のゴンドラの中、ナギはサクラコを抱きしめながらそう尋ねる。
「考えておるぞう。いろんな助平なことを考えておる」
「どんなのどんなの」
「教えてやらんわい」
サクラコはナギの臀部に手を回して、柔らかな筋肉をつねった。ナギはくすぐったそうに身をよじる。
「よいケツじゃ」
「海だよ、海のこと考えるんだよ? お尻じゃないよ?」
「うるさい黙れボケエ。想像の海で助平な行為に耽っておるのじゃ、文句あるかあ」
「うん、まあ、いいけど、きみの頭の中でぼくがどうなってるのか気になるなあ」
サクラコはナギの胸に頰を押し当てて目を閉じた。
「ほんとに行きたいのう。想像ではない、本物の海に。おんしと一緒に」
ナギの両手がサクラコの背に回った。
「ぼくも。きみと海に行きたい」
「ナギ」
サクラコは両腕にぎゅっと力を込めた。ナギの弾力が心地よい。しがみつくほど、愛おしさが募っていく。
「信じられる?」
不意にナギはそう問いかけた。サクラコは怪訝そうに彼を見上げる。
「なにを?」
「ぼくと一緒に海へ行く未来を」
至極真面目な調子で、ナギはそう尋ねてくる。いつもの軽口でないことはサクラコにもわかった。
サクラコはまた目を閉じてみた。そしてもう一度、海を想像した。ナギと共に水面を泳ぐ時間を。波打ち際で戯れる、太陽に灼かれたふたりを。
潮風の香りを鼻孔に感じた。水平線に立ち並ぶ積乱雲が瞼の裏に見えた。色鮮やかな魚たちが群れなす、珊瑚の海を脳裡にはっきりと描いた。
「信じられる」
瞑目したまま、サクラコは真面目に返事した。
「おんしと一緒の未来を」
すると、抱きしめたナギの背中が隆起をはじめた。彼の体内から別の生命が生まれ出たかのごとく、唐突な脈動が手のひらから伝ってくる。
「……?」
怪訝そうなサクラコの眼差しが、ナギを見上げる。
ナギは微笑んでいた。
「ぼくも信じる」
そして、サクラコの背中へ片手を回し、ゆっくりと座席から腰を上げる。
「きみと一緒に海へ行く未来を」
ナギが着ている軍服の背の切れ目から、肩胛骨じみた白い骨が生え出てきていた。ゴンドラの中、ゆっくりと音もなくその骨が左右へ伸びていく。
「……ナギ……?」
「どこまでやれるか、わからないけど」
ナギは残った手で、ゴンドラの出入り口をあけた。夜風が強くふたりのところへ吹き込んでくる。
「生みの親に抗ってみる」
見ひらかれたサクラコの瞳に、みるみるうちに歓喜が溜まっていった。
「……ナギ……っ!」
ナギは片手でサクラコを小脇に抱きかかえ、ゴンドラの外、鉄骨の梁へ足をかけた。髪の毛を風になびかせながら、ひょいとそのままゴンドラの屋根に登る。
室外へ出たおかげで遮蔽物を気にすることなく肩胛骨が鉤状に屈折しながら伸びていく。五メートルほども広がったところで羽根が生えて、みるみるうちに白い翼へと変じる。
ナギは両手でサクラコを抱き上げた。以前したように、サクラコは両手をナギの首の後ろへと回した。
眼下いっぱい、丁都の夜景だった。敷き詰められた銀砂さながら、街の灯が彼方まで明滅し、幹線道路を行き交う蒸気自動車の排煙がサーチライトの光域を鮮やかにしている。いつも藍色に濡れた丁都。冷たく強い風が直接、ふたりへ吹きつけてくる。
不安定な足場に直立し、恐れる様子もなく、ナギはサクラコを胸の前に両手で抱き上げたまま人工の夜空を敢然と見据えた。
「勝算はゼロじゃない。きみを奪還するための軍隊が都域圏に迫ってて、知事の興味はそっちにむいてる。戦闘のどさくさに紛れて知事の力の及ぶ範囲から抜け出ることができれば……」
言葉尻をかき消したのは、天空から降り注ぐ超蒸気機関の駆動音だった。
髪の毛を風になびかせながら、ナギとサクラコは上空を見上げた。
目線の先、天蓋を埋め尽くす丁都飛行艦隊の威容があった。全長二百メートルほどの飛行戦艦が二隻、それより二回りほど小さな重巡空艦が七隻、飛行駆逐艦が十二隻。大天井を覆い隠す木造船体の下腹をサーチライトが舐め上げている。
ナギは飛行艦隊の進発を睨みつけた。
「阿岐ヶ原軍の迎撃にむかうつもりだ。早くしないと戦いが終わっちゃう」
「ずいぶんものものしいのう。そんなに大変な戦になるのか」
「うん。すごい大きい戦車を連ねた陸上艦隊が相手らしくて。地上戦では勝てないから、飛行艇艦隊を呼び寄せたみたい」
「おうおう、見たことがあるぞう。ビルほどもあるでっかい戦車がいっぱい並んで突っ込んでゆくやつじゃな。そうかあ。あれがわらわを助けにきておるのかあ。これほど遠いところまでよう来てくれたのう」
「丁都艦隊を率いてるのはぼくのお姉ちゃんなんだ。かわいそうだけどたぶん、きみの国の人たち、勝てないと思う。ぼくの希望としては、できるだけ粘って時間稼ぎをしてほしいけど。知事の目が陸上艦隊と丁都飛行艦隊の戦闘にむけられている間に、丁都の都域圏を脱出することができれば、たぶんぼくらの勝ち」
丁都知事ディドル・オルガの『願えば叶う』力が及ぶ範囲は、丁都都域圏――丁都を中心とした半径約三百キロメートルの円周地帯――内に限られるとされている。これまで丁都に差しむけられた他都市軍隊は、みな都域圏内に入った途端に撃滅されていることからこの風評が根付いた。オルガの力が都域圏を越えられるのであれば、原子塔を建造する必要もなく他都市は焼き払われているはずだから、あながち間違った憶測でもないだろう。
お姫様の格好で抱き上げられたまま、サクラコはしっかりとナギにしがみついた。そして彼の耳元でささやく。
「ありがとう、ナギ」
ナギは思い切り照れた。
「な、なに、いきなり。やめてよ、まだお礼言うの早いよ」
「言えるうちに言うておくのじゃ。この先どうなるかわからんからの」
「うん。その通り、勝ち目は薄いよ。でもやってみる。万が一に賭ける」
「海に行こう」
「うん。きみと一緒に行くよ」
ナギの翼が夜の中へ翻った。気高い純白が星の色に染まる。
ばさり、と音を立てて翼が打ち振られた。ふわっ……とナギの両足がゴンドラの屋根から浮き上がる。
飛行艇艦隊が覆い尽くす人工星空に、ひとひら、ナギの翼が混ざり込んだ。夜を切り裂くサーチライト廻廊の間隙を縫って、純白の翼は丁都上空を飛翔していく――。