サクラコ・アトミカ
第十三回
犬村小六 Illustration/片山若子
「最前線」のフィクションズ。サクラコの美しさが世界を滅ぼすーー。 畸形都市・丁都に囚われた美貌の姫君、サクラコ。七つの都市国家を焼き払う原子の矢は、彼女の“ありえない美しさ”から創られる......。 期待の新星・犬村小六が放つ、ボーイ・ミーツ・ガールの新たな金字塔、ここに誕生!
五.
「お疲れさまでしたがあ。心配しでましたでがあ」
酒屋の主人はいつものように吞気な調子で御者台の赤司を出迎え、馬の口を取って荷馬車を店の前に横付けにした。そして荷台に積んだ酒樽をこつこつと拳で叩き、そのうちのひとつを土間へ運び込み、木槌で上蓋を外しにかかった。
赤司は心配そうに主人へ警告した。
「一般の方は直接ご覧にならない方が良いかと。訓練されたわたしでも、サングラス越しにかろうじてやっと理性が保てるほどですから」
初老の主人は鷹揚な笑みを息子ほどの年齢の赤司へむけて、
「もう枯れちまっとるでがあ。そっだに美しいお姫さんなら、もっかい元気くれるがもじんねえなあ。そっだらうれじいがあ」
丁寧に蓋を外して、裸眼のまま中を覗き込む。
「ぬぼっ」
そんなおめきが乾いた唇から勝手にもれた。彼がはじめて目にするサクラコ内親王のすがただった。
「ご、ごらあ、どんでもねえず~」
思わず両手で頭を抱えて、土間に跪く。あまりにも美しいものを見たとき、耐性のない人間はこうして本能的に隷属の姿勢をとってしまう。常識破りの絶対美が呼び起こすのは感動を越えた畏怖の念だった。
サクラコは不機嫌な表情をぴくりとも動かすことなく酒樽を出た。血に染んだ純白のワンピースを着て、この世ならざる天上の光輝をまとったまま、顔をしかめ、両手を突き上げ伸びをして、うーーん、と大儀そうにひと息もらし、冷たく凍てついた眼差しを周囲へむける。
裸電球の明かりが粗末な木造の酒屋の中を照らし出していた。どこからか湿った麴の香りがした。
「まだ丁都におるのか」
無感情な声音を、跪く赤司へ無造作に投げつける。
片膝を土間についたまま、相変わらずマスクにサングラスすがたの赤司は顔を上げることなく返答する。
「はっ。外界へ出るには空中七門のいずれかを通過するしかありませんが、積み荷の検問は厳重を極めましょう。うかつに丁都の外へ出ようとしたなら必ず見つかり元の木阿弥。いますぐの脱出は非常に困難です。機会が訪れるまで姫にはこの酒屋の中で辛抱くださいますよう」
「……ふん。辛気くさい家じゃ。それに何か臭い」
「ご不便は重々承知。なれどいまは我慢していただくしかありません。無事に阿岐ヶ原へご帰還するため、どうかご容赦を」
「風呂に入りたい。用意せよ」
「……はっ。……主人、手間だが……」
「へっ、へへえっ! お、お姫さんにはもっだいねえ、きったねえ風呂だけんど、それで我慢じでぐれっならばすぐに……」
主人は顔を地面へむけたまま動かそうとせず、腰を抜かしたような動きで、這いつくばりながら土間から逃れていった。サクラコの美しさが人の内面に呼び起こす情緒は「畏怖」または「欲情」であるが、いまのところ主人の内面には畏怖の働きが強いらしい。仏にでも出会ったかのごとくおののきながら奥へ駆け込んでいき、妻へ命じて慌ただしく支度させた。
用意できたのがそれから二時間後であった。風呂釜を焚くと同時に、サクラコに失礼がないよう、隅々まで水垢掃除していたらしい。サクラコは血と泥に汚れたワンピースを脱ぎ捨てるとためらいなく風呂釜へ白い裸体を浸した。
湯のぬくみが奥深くまで染みとおってくる。ずっと酒樽の中で身を縮めていたため強張っていた身体が解きほぐれていく。それと同時に混乱していた気持ちもまた静けさを取り戻す。
――ナギ。
まずその名前を呼んだ。
ぽたり、と湯面に雫が落ちた。
つづけて、ぽたり、ぽたり。頰から滴るものが湯の中へ溶けていく。ここなら誰にも見られない。だからサクラコは思うさま、声を殺してみっともないほど泣いた。
悪いことをしたと思う。ナギがあんなすがたになってしまったのは自分のせいだと思う。わがままに付き合わせて、パンダに変身させて、無理矢理に空を飛ばさなければ、彼はあんなことにはならなかったはずだ。
「ごめんナギ。許せ。許してくれ」
小声で何度もそう呟いてから、サクラコは湯の中に顔を突っ込んでめそめそ泣いた。
意識の内壁がたまらなく痛かった。ナギは何度も何度も疲れた疲れたと繰り返していたのに、なぜそれを顧みてやれなかったのか、自分の愚かさと身勝手さを痛切に悔いた。
ざばあ、と湯から顔を上げた。
世界を焼き尽くせるほどに美しい顔立ちを不格好に歪め、喉の奥から嗚咽を絞り出した。
「ナギぃ。ナギぃ」
サクラコは生まれてはじめて慟哭した。
失ってようやく、自分が驚くほどナギを大切に思っていたことを知った。いっぱいの後悔を思うさま風呂釜に垂れ流した。
なぜこれほどナギのことを想ってしまうのか。サクラコ自身にもよくわからない。こみあげてくる感情には理屈も根拠もない。ただ制御できない激しさが潜んでいて、サクラコはその熱のなすがままにされていた。
冷静にならずとも、ナギが敵であることはわかっている。
ナギ・ハインリヒ・シュナイダーは丁都知事ディドル・オルガが創造した疑似生命体であり、サクラコが高空庭園から逃げ出さないよう見張っていた牢番だ。これほどまでに意思を疎通する相手ではない。サクラコもはじめはナギをたぶらかす目的で彼に近づいていった。サクラコ奪還の任を受けて阿岐ヶ原から派遣されてきた赤司源一郎がナギを倒したからこそ、サクラコはこうして無事に味方の手の内にかくまわれ、安穏と風呂に入ることができている。ナギに同情しなければならない理由などない。
なのに――涙が止まらない。
「わらわはアホか」
自嘲しながらサクラコはますます嗚咽する。
いつも文句を言いながらも優しくしてくれたナギのことが思い出されてならない。
美しい白銀の翼を広げて星空を飛んだ、昨夜の記憶がまだ鮮明に脳裡に焼きついている。
非人道的なディドル・オルガのやり方と、与えられた任務に対する使命感の狭間でナギが悩んでいることはサクラコにも知れていた。サクラコはそこにつけこんでいた。ナギの生まれ持った優しさを利用するために、囚われの身の哀れさを存分にアピールして彼に葛藤を強いた。もくろみ通り、ナギは葛藤してくれたしサクラコの身の上に同情もしてくれた。だからこそ、あれだけ無理をしてくたくたになるまで空を飛んでくれたのだ。
そしてそのせいでナギは死んでしまった。
サクラコの涙は止まらない。顔をくしゃくしゃにして、涎と鼻水を垂れ流して、湯で顔を洗ってもまたすぐに目からも鼻からも口からも溢れ出てくるものがあった。とても人には見せられないすがただった。ひとりきりの風呂釜で、尽きるまでサクラコは慟哭した。
一時間ほどしてからようやくサクラコは風呂を出て、用意されていた浴衣に着替え、しかしまだめそめそしながら板張りの廊下を歩き抜け、畳敷きの一室へ辿りついた。
裸電球の灯りが、殺伐とした室内を照らしていた。既に布団が用意してあったが、なぜだか人の気配がなかった。
不審げに左右を眺めて、誰か来るのを待ってみたが誰も来ない。邸内の空気になにか不穏なものが紛れている。静かにその部屋を離れて、足音を忍ばせながらサクラコは一階の土間へむかった。
「!!」
覗き見た土間では、ふたりの人間が倒れていた。
さっきの主人とその妻だった。ふたりして異常な角度に首がねじ曲がっていて、力ない四肢を石敷き床に投げ出していた。その傍ら、赤司は酒樽をふたつ並べて上蓋を外し、なみなみと酒の入った樽の中へまずは主人の身体をそのまま突っ込んだ。
酒が溢れ出るのも構わず、主人の死体を強引に樽に押し込めると、赤司はそのまま蓋してしまった。サクラコは目を見ひらき、小さな悲鳴を喉から洩らした。赤司が気づき、こちらを振り返る。
「……姫っ!? いらしたのですか。見てはなりません。奥の部屋に布団の用意をしておきましたので、今夜はそちらでお眠りください」
「な、なにをしておるのじゃっ。そのふたりは味方であろうっ」
「もう用済みです。後顧の憂いを残したくありません」
「こ、殺すことはなかろうにっ。おんしは殺しすぎる、牢獄でわらわに仕えていたあの側女たちも皆殺しにしてしまったっ」
「姫、あれは敵ですぞ。味方と敵の区別がついておられますか?」
「お、おんしは……それでも人間かっ」
赤司は黙ってサクラコを見つめた。サクラコも負けじと彼を睨みつける。
そのとき――サクラコは赤司がマスクとサングラスをしていないことに気づいた。
赤司の端正な顔立ちがこちらを直視したまま静止している。その瞳の奥に、尋常ならざる光がいつのまにか宿っていた。
――まずい。
サクラコは軽挙を悟った。
訓練されているとはいえ、成人男性が肉眼でサクラコを間近から直視してしまったなら、呼び起こされる感情は「畏怖」か「欲情」のいずれかひとつ。
赤司の場合は――どちらだろうか。
ひたり。赤司の左足が一歩、こちらへむけて迫った。サクラコは慌てて、
「あ、赤司っ! 急いでマスクとサングラスをしろっ!!」
「…………」
「肉眼でわらわを見てはならぬっ!! わらわの美しさに魂を乗っ取られるぞっ!」
「……姫。わたしは……あなたのために粉骨砕身……」
手遅れだった。赤司の理性は既にサクラコの美しさに乗っ取られてしまっていることが眼差しから明らかだった。
「ひっ……!!」
喉の奥でそう叫び、サクラコは身を翻した。奥の間へ駆け込み、赤司が外したはずのサングラスを探す。もう手遅れかも知れないが、なんとかして理性を取り戻してもらわないと大変なことになってしまう。
「あなたのために無敵の個体にも勝った! あなたのために三万五千キロの彼方からこの腐った町までやってきた! それなのに……それなのにあなたはわたしではなく敵を応援していた、何故だっ!!」
「お、落ち着けっ! まずはサングラスをしろ、話はそれからじゃっ!」
「なんなんだあなたのその美しさはっ! いくらなんでも美しすぎる! 訓練されたわたしをここまで錯乱させるなど……!!」
「すまぬ、わらわが美しすぎることは認める、謝るっ! じゃがまずはサングラスをして理性を取り戻せ、任務を思い出すのじゃっ!!」
いまの赤司の瞳に宿っているのはあからさまな獣性だった。サクラコは阿岐ヶ原で何度もこれと同じことを経験してきた。肉眼でサクラコを目撃した男たちは九割が欲情し、衛兵の槍衾も構わずに飛びかかってきた。
サクラコは逃げ道を探す。しかし八畳ほどの部屋には出入り口はひとつきり、そこには赤司が仁王立ちしている。
「お、落ち着け赤司っ! わらわを無事に阿岐ヶ原へ連れ戻すのがおんしの役目じゃろう!」
サクラコの叫びに応えたのは、ぐるりと裏返った赤司の眼球と、もはや人間のものとは思えないケダモノの叫喚だった。
サクラコの美しさを至近距離から体験した赤司の理性は一分を持たずして粉微塵に破壊されていた。理知的で物静かだった青年の面影はもはやどこにもない。いまの赤司は本来の目的を忘れ、おのれの獣性の奴隷となっている。
慌ててサクラコは押し入れの襖をひらいて武器を探した。あるのは無慈悲にも布団と枕だけだった。こめかみから汗が伝った。
振り返ったなら、赤司の両腕が伸びてくる。ここには衛兵もおらず、されるがままになるしかない。
――衛兵。
サクラコを守ってくれる存在。直後に浮かんだのは、ナギの言葉だった。
『必要なときはぼくを呼んで』
『それでぼくはきみのところへ駆けつけることができる』
いま頼れるのはその言葉だけだった。どんな効能があるのかも知らないし、彼はもう死んでしまったから助けてくれない。けれどサクラコは渾身の力で彼の名を呼んだ。
「ナギーーーっ!!」