サクラコ・アトミカ
第十回
犬村小六 Illustration/片山若子
「最前線」のフィクションズ。サクラコの美しさが世界を滅ぼすーー。 畸形都市・丁都に囚われた美貌の姫君、サクラコ。七つの都市国家を焼き払う原子の矢は、彼女の“ありえない美しさ”から創られる......。 期待の新星・犬村小六が放つ、ボーイ・ミーツ・ガールの新たな金字塔、ここに誕生!
大気が鳴った。翼の内側に含まれていた空気が打ち下ろされ、ナギとサクラコに揚力を与える。
サクラコの足元から地面の感触が消えた。すっ……と胃の腑から空気が抜き取られる。
「わっ」
思わずサクラコはそんな声を洩らし、ナギの胸にしがみついた。今度はナギが勝ち誇る番だった。間近からサクラコを見下ろして悪戯っぽく、
「怖い?」
サクラコはムッとしてから気丈な表情を装うと、
「なんじゃあ。別になんともないわい。このくらいの芸は阿岐ヶ原でも仰山見てきたからのう」
強がりを言う。ナギは微笑んで、か細い背中を強く抱き寄せ、
「しっかり摑まっててね。大天井のぎりぎりまで飛ぶから」
さらに翼を打ち振り、高度をあげていく。
サクラコの足の先、高空庭園が遠のいていく。こちらを見上げる側女たちの呆れ顔や戸惑い顔も、翼がはためくたびに小さくなっていく。やがて囚われていた塔全体を見下ろせるようになって、その周辺の丁都の街灯りが闇のなか、きららかに現れ出てきた。
「遊覧飛行しようか」
ナギは両手でサクラコを胸の前にお姫さまのように抱え上げると、水平飛行をはじめた。サクラコは両腕をナギの首のうしろに回して、おっかなびっくり遙か眼下の丁都を見下ろす。
超蒸気機関の排出する白煙が街灯にきらめいている。丁都都庁舎を中心に、放射状に敷設された幹線道路の灯りが雪の結晶みたいだ。そのさなかを蒸気自動車の灯りが千々に行き交う。色とりどりのきらびやかなネオン、夜空を目がけて打ち上げられるサーチライト回廊、高層建築の壁面の宣伝広告、大屋根を支える円柱、ナギよりも高いところを航行する何艘もの飛行艇。そんなものがめまぐるしくやってきて、すれちがい、去っていく。
「どう? ちょっとは面白い?」
「まあまあ、かのう」
「贅沢だね」
「このくらいの夜景は、飛行艇から見たこともあるからのう」
過ぎゆく気流のさなか、ナギを見上げながら、サクラコは挑むようにそんなことを言う。
「よし、わかった。ちょっと疲れるけど、特別サービス」
やや意固地な気分になり、ナギはさらに強く翼を振った。
ふたりは中空を駆けあがっていく。とても天井のしたにいるとは思えないほど、高度が上がっていく。
サクラコは天井を見上げた。
目の前にあったのは丁都にしかない夜空だった。
「うお」
思わずサクラコは声をあげてしまい、我に返って口をつぐんだ。見上げたら、間近のナギが意地悪そうにサクラコを見下ろしている。
「ようこそ、丁都の星空へ」
芝居がかった口調でそう言って、翼を翻し、ナギは悠然と人工の空を滑った。
星空を模したきらびやかすぎるほどの電飾がどこまでも連なっていた。本当の星空と違うのは、星たちが波打つように彩りを変えるところだ。青と白を基調にさざめいていたものが、数刻後には金と銀の幾何学模様に変じて、西から東へかけて赤、青、黄色の光が走っていったかと思うと、天頂付近から発生した白銀の塊が直径十キロメートルを越える天井全体へ迸って、そのさなかを流星雨を模した真っ青な光が駆け抜けていく。昼が無い代わりに、あまりに賑やかな丁都の夜空だった。
大きすぎる天井は昇っても昇っても近づいてこない。蒸気の香りが消えていき、眼下の丁都が遠のいていく。
「どう? きれいでしょう」
「……うん」
珍しく素直にナギの言葉を肯定して、サクラコはぎゅっとナギの首の後ろに回した両腕に力を込めた。
「大丈夫。落とさないよ」
ナギはサクラコが恐がっていると思ったらしい。両腕を一度揺すって、お姫さまだっこしたサクラコの身体を持ち直した。
サクラコは頰をナギの胸にそっと寄せた。桜色の唇がひらく。
「ナギ」
「ん?」
「ずっと飛べ。飛びつづけよ」
「了解、お姫さま。力の限り飛びましょう」
お芝居の騎士役のような口調でナギはおどけた。
「そうではない、ほんとにずっと飛ぶのだ」
「ん?」
「永遠に飛べ、ナギ」
真面目な口調でサクラコは言った。
「そんな無茶な」
子どもをあしらうように、ナギはそう返した。
サクラコは頰をナギの胸に擦りつけた。ナギは困ったように、
「くすぐったいな、どうしたの? きみを喜ばせたくて飛んでるんだけど。なんでさっきから悲しげなの?」
「ナギ」
「なに?」
「このまま逃げてくれんか」
「…………」
「おんしならできようが。報酬はいくらでも取らす。天井の隙間から逃れ出て、阿岐ヶ原へむかって飛べ」
「ごめん。それは無理」
「わらわを哀れんでいるのじゃろうが。あの変質者のやり口に不満も抱いておろう。頼む。お願いじゃ。もうあんなふざけた牢獄へ戻りとうない」
「……何度も言ったけど、ぼくは命令されたことを黙って実行する機械。軍人だからね。人道的な正しさなんて考えたりしないんだ」
「自分でそれが間違っているとわかっておるではないか」
「ぼくは人間じゃない。バケモノなの。だから人間みたいな考え方はしない」
「それがなんじゃ。人間もバケモノも関係あるか。おんしのこころは尊いよ。生まれ方がどうあろうが、外見が異形だろうが翼が生えようが、そんなもんどうでもいいではないか。卑しさも気高さも、生命の価値はこころの在り方にのみある。生まれ方や能力が人間でなくとも、おんしは立派なこころを持っておるではないか」
「…………」
「ナギ。頼む」
「……それもきみの策略? ぼくを懐柔するつもり?」
「どうとでもとれば良い。ただ聞け」
「…………」
「おんしはバケモノではない。いたわりの気持ちを持った強くて優しい生命じゃ。そこらの人間よりもよほど立派な、ひとつの生命ではないか」
ナギはしばらく黙って飛行していた。サクラコは片耳をナギの胸に押しつけたまま、彼の硬い表情を見上げていた。そうしながらナギの心音を聞いていた。どんな言葉を投げかけてみても静かで乱れることのない、落ち着いた鼓動だった。
星空を斜めに滑り降りながら、ナギは口をひらいた。
「……きみは知事の力を知らない。もしもぼくがきみを連れて逃げたとしても、知事がやることはぼくが死ぬところをイメージすること。それだけ。それでぼくは死ぬ。きみは丁都に連れ戻されて、原子塔に連結され、世界を焼き尽くす」
「変質者におんしの死を想起させねば良い。おんしが死ぬところを変質者がどうしても想像できぬように持っていくのじゃ」
「どうやって?」
「……知るか。おんしが考えろ」
「実は考えてみたことがあるんだ。外見の力を手に入れるしかないんだよね。ものすごく強そうな、知事がどうしてもぼくの死を確固としてイメージできないような、そんなすさまじい外見を」
「…………」
「……まあでも無理だね。いまのぼくじゃ勝てない。逆らうつもりもないし」
「……ヘタレめが。わらわがこれほど真面目に頼んでおるというのに」
「……うん。ごめんね。でも、ちょっとうれしかったよ。いままでそんなふうに言われたことがなかったから」
「……言うて損した。あぁ、言うて損したわい」
「ねえ、サクラコ」
「うむ?」
「こころって、なに?」
「……知らん」
「ぼく、ずっこけていいのかな?」
「……そんなもん、答えられるやつは誰もおらんわい」
「そういうものなの? ぼくもきみもそれを持っているのに?」
「こころとはなにか。どこにあるのか。どこから来て、どこへ行くのか。それがわかったら誰も苦労せんわい」
「難しげだね」
「うむ。難しいんじゃ」
「ねえサクラコ。きみのこころが見たいよ」
「ふむ。ロマンティックな台詞じゃな。それっぽくなってきおったぞ。夜間飛行には最適じゃ」
「真面目に言ったんだけどなあ」
「ほう。真面目じゃったのか。ならば仕方ない、見せてやろう」
サクラコは左手でナギの下顎をつかむと強引に自分の方をむかせ、抱き上げられたまま首を伸ばして彼の唇に自分の唇を押しつけた。
ナギは黙ってされるままになっていた。
左手を放して、もう一度ナギの首の後ろに回し、両腕で強く彼にすがりつきながら、サクラコは可憐な桜色の唇をひらき、ほとんど強引にナギの唇をひらかせ、甘やかなもの同士を絡み合わせた。
心地いい、とサクラコは思った。実はこれがはじめてだった。それを悟られないよう、慣れているふうを装い、一度唇を離して、微笑み、もう一度強く彼に押しつけた。
優しい、とナギは思った。こうするのははじめてだった。人間たちがするのを見たことはあるが、自分がすることになるとは思ってもいなかった。戦闘に比べたらこれはただのちっぽけで無害な行為なのに、こんなに素敵な気持ちになれるなんて。
「どうじゃ。わらわのこころは」
唇を離し、サクラコは余裕綽々な笑みを装って尋ねてみた。
「わりと素敵な感じだった」
ナギも平静を装って、いつもの醒めた口調で答えた。ふん、とサクラコは鼻を鳴らして小声で呟く。
「まいった。わらわが先に惚れてしまうとは」
「え? いまなんか言った?」
「なんでもないわい。それよりいつのまにか高さが落ちておるぞ」
「もう疲れたから帰るの。これ以上飛べない」
「なんじゃあ、ぼけえ。やっと盛り上がってきたと思うたら帰り支度かい」
「あのねえ。きみが自分の力で飛んでみなよ。ほんとにすごい疲れるんだから。パンダになったり翼で飛んだり、すごい大変なんだよ?」
ぶつくさ言いながらナギは夜空を斜めに滑り降りた。眼下、再び丁都の夜景が近づいてくる。
サクラコは頰を膨らませて、泣きっ面を左右に振りながら、
「いやじゃあ。帰りとうない~」
「特別サービスなんだから。わがままばっかり言わないで」
宥めながら飛行するナギの目の先に、高空庭園の灯りが現れた。一度大きく翼を振って高度を取り直し、無事にサクラコ専用牢獄へ降り立った。
サクラコはこれでもかと無精たらしい表情を浮かべ、ナギの首の後ろから両手を放そうとしない。
庭に突っ立ってサクラコをだっこしたまま、ナギは腕の中のお姫さまを元気付けるかのように無理に明るい声を出した。
「とうちゃーく。お疲れさま。ていうか、主にぼくがお疲れさま。さ、駄々こねてないで、降りて」
「いやじゃあ。ずっと飛ぶんじゃあ」
「また機会があったら連れ出してあげるから。今日はぼくもうほんとにへとへとなの」
「ビフテキを食っていけ。食えば元気が出て、すぐ飛べるぞ」
「ねえきみ人の話聞いてる? ごはん食べただけですぐまた飛べたら誰も苦労しないの。はい、夜のお散歩はおしまいおしまい」
ナギは両手をほどき、サクラコを地に降り立たせた。ふくれっ面がナギを見上げる。
「……また飛んでくれるか?」
声に寂しさをにじませて、サクラコはそう言う。
「約束はできないよ。いままでもこれからも、ぼくは牢番。きみは捕虜」
平静を装って、ナギはそう応える。これまで何度もサクラコへ言い聞かせてきたその台詞に、ナギ自身が違和感を抱いていた。
サクラコはうつむいた。腰の横へ下ろした両の拳をぎゅっと握りしめる。
「わらわは、いつ殺されるかもわからんのじゃ。明日か、明後日か、一週間後か。ふざけた死に方をする日を待つしかないのじゃ」
「…………」
「次、また飛べるかどうかもわからん。明日、変質者がここへ来てわらわをあの天井のうえへ連れて行くかもしれん」
「…………」
「約束してくれよ。また空を飛ぶと。そしたら、それを楽しみにして今日眠れるから」
「…………」
「ナギ、お願いじゃ」
すがりつくようにサクラコはナギを見上げる。
ナギは険しい表情で両手を持ち上げてサクラコの両肩に置いた。そして彼女の耳元に口を寄せて低く重い声で、
「下がって」
「…………?」
ナギはサクラコの肩のむこう、館の屋根を見上げて言った。
「皆殺しとは容赦無いね」
サクラコは背後を振り返った。瓦屋根の上に、見慣れぬ人影がぽつねんとあった。
外套の長い裾を風になびかせながら影が応える。
「姫君を渡してもらいましょう」