サクラコ・アトミカ
第九回
犬村小六 Illustration/片山若子
「最前線」のフィクションズ。サクラコの美しさが世界を滅ぼすーー。 畸形都市・丁都に囚われた美貌の姫君、サクラコ。七つの都市国家を焼き払う原子の矢は、彼女の“ありえない美しさ”から創られる......。 期待の新星・犬村小六が放つ、ボーイ・ミーツ・ガールの新たな金字塔、ここに誕生!
†††
「はめになってしまったのであった。とほほほほ。おしまい」
話を終えて、ナギは傍らで縁側に腰掛けるサクラコを見やった。彼女のかたちの良い鼻からは見事な鼻提灯がぶらさがっていた。
「ZZZZZ……」
「熟睡だねえ。後半からいくらユキノを褒めても暴れなくなったから怪しいと思ってたんだよ」
「ZZZZ……食べれん……ナギ、カナブンは食べれんぞ……ZZZ……」
「どんな夢見てんだかなあ」
「ZZZZ……ぬ?……むにゃ、むうう……ふああ。おはようナギ。長ったらしい過去話は終わったかえ?」
「ごめんねえ。スマートにまとめられなくてごめんねえ。内容、覚えてる?」
「内容? 覚えておるような、おらんような……長いし他の女の自慢話を混ぜるし語り口は抑揚がないし、思い出話としては最悪の部類に……あ……あぁ、そうじゃ!」
なにかを思い出したサクラコはおもむろに縁側に仁王立ちとなり、両手を腰に当ててふんぞり返った。
「パンダになれ!」
「え?」
「パンダになれると言っておっただろう!? さっそくパンダになれ!」
しばらくぽかんとサクラコを見上げてから、ナギの表情は徐々にげんなりしていき、うつむいて片手で顔を隠したまま悲しそうに言った。
「……ねえ、そこなの? けっこう他にもっと重要な話したと思うけど、きみが気になったのそこなの?」
「一回パンダと遊んでみたかったのじゃ! パンダになれ!」
「しょうがないなあ。じゃあ、ちょっと待ってて」
ナギは縁側から腰を上げて奥の間へと入っていった。サクラコが声をかける。
「なんじゃ、なんで奥にいくんじゃ?」
ふすまで隔てられた奥の間から、ナギの声だけが返される。
「服脱がないと。パンダ大きいから、そのまま変身すると服が破れちゃう」
「不便じゃのう。まだか。早くパンダになれ」
「二分待って。二分。いま変身中」
「退屈じゃ。覗いていいか」
「見てもいいけど、いまいつものぼくとパンダが混ざってるからすごい気持ち悪いよ」
「おえー。はよ変身せい」
「わふっ。わふっ」
「うお、なんじゃその声。もしやパンダの鳴き声か?」
「わふっ。わふっ」
期待を込めてサクラコが振りかえると、目の先でふすまがひらいた。
出てきたのは、まごう事なきパンダだった。体長は二メートル半ほどもあり、まるまるとした身体にふさふさの白黒毛皮をたたえ、黒真珠さながらの瞳のしたに楽しそうな微笑みを浮かべて直立している。
「パンダじゃあ!」
サクラコの顔が、ぱあっと晴れやかに笑んだ。そのままためらいなくパンダの胸に飛びつくと、大きな身体に両手でつかまって頰を毛皮のなかへ埋める。
「パンダ~。パンダ~」
「わふっ。わふっ」
サクラコは笑顔を左右へ振って、いい匂いのする柔らかな体毛の感触を楽しむ。暖かな、日向の匂いがパンダから伝ってきた。
「パンダ、パンダ」
名前を呼びながら、両足に力を込めて押すと、ころんとパンダが仰向けに寝転がる。サクラコはその白黒の胸に飛びついて、両手のひらでパンダを撫でさすった。
サクラコは飽きることを知らなかった。いつまでもパンダにすがりついて、立たせたり座らせたり押し倒したり四つん這いにさせてその上にまたがって庭を歩いたり、やりたい放題にパンダと遊んだ。
一時間ほど戯れたあと、おもむろにパンダが辛そうな表情で立ち上がり、物憂げな目線を彼方にむけて、悲しげな声で啼いた。
「うお~ん」
「ぬおっ。どうしたパンダ、なにが悲しいのじゃ!?」
サクラコが心配そうに問いかけるが、パンダは二本足で直立したまま悲しげに、
「うお~ん」
「な、なんじゃ、具合が悪いのか!? どうしよう、お医者はおらんのか、お医者は」
あたふたするサクラコを尻目に、パンダは二足歩行でよたよたしながら、さきほどの奥の間へと戻っていく。
ぴしゃり。とふすまがしまって、二分後、同じ部屋から軍服すがたのナギが顔をのぞかせた。
「ただいま。あぁ、疲れた」
「なんじゃ、おんしか。パンダはどうしたパンダは」
「パンダおしまい。あのね、一応説明するけど、変身してるとすごい疲れるのね。だから時間制限があるの。いつまでもパンダじゃいられないの」
「うっさい、知るかボケエ。パンダに戻れ、パンダに」
「ぼくがもともとパンダだったみたいな言い方やめてよ。こっちが素なの」
ぶつぶつ言いながらナギは再び縁側に腰を下ろしてお茶をいただいた。どうやら本当に疲れた様子だ。サクラコもしばらくはパンダがいなくなったことに不平を言っていたが、やがてふと丁都の天井を見上げた。採光口のむこうが闇に沈んでいて、大天井には星空を模したきらびやかな電飾がまたたいていた。大きな人工満月がふたつ、天井の表面に浮いている。
「おぉ、なんじゃ。下界は夜らしいぞ。晩飯を食っていけ、ナギ」
「なんだかもう、きみもやりたい放題だよね」
「晩飯はなにがいい。いえば大概のものは出てくるぞ。好物をいえ」
「そうだねえ。いまので疲れたし、せっかくだから食べていこうかな。きみはなにを食べるの?」
「そうじゃなあ。わらわはオムライスを食べるぞ」
「じゃあ、ぼくもそれで」
「おーい下僕ども、オムライスふたつ、オムライスふたつじゃ~。ケチャップでわらわとナギの顔を描いてくれ~」
「なにそのリクエスト……」
「喜べ、下僕どもに拒否権などないからの。命じられたからには言うとおりにするぞ、あいつら。どんな不細工なおんしを描いてくるか楽しみじゃわい」
ほどなくして運ばれてきたオムライスには、不細工なサクラコと格好良いナギの似顔絵がケチャップで描いてあった。
「なんじゃこれは下僕どもっ! 真面目に描いたのかムキーっ!!」
「人徳の差がこういうところで出るんだね~」
「すぐ塗ってやるこんなもん。えいえいっ。わらわをかわいく描いておったらもっと鑑賞してやったがのう。えいえい。はっはっは、見ろ、もはやなんの変哲もないただのケチャップじゃ。ようし食べるぞう」
「いただきます」
「うまいなあ」
「うん。おいしいね」
「この牢獄、メシが無駄にうまいのじゃ。思わず太ってしまう。運動不足だしのう……」
「庭で運動できるじゃない」
「なんじゃ。ひとりで縄跳びでもしろというのか。いやじゃ、いやじゃ。もっと面白いことがしたい~」
「面白いことって言ってもねえ」
縁側に腰を下ろしてオムライスを食べながら、宵闇の底に沈もうとする庭園を眺めつつ、なんの気なしにナギは考えてみた。傍ら、サクラコは皿をきれいにすると不満そうに庭とナギの横顔を交互に眺める。
サクラコは食後のミルクティーに口をつけながらおもむろににんまりと笑んだ。なにやら悪巧みを思いついた様子で、側女のひとりを呼びつけてリクエストする。
「蓄音機を持ってこい。飛びきり甘いこっぱずかしい音楽を流すのじゃ。はようせい」
側女は嫌そうな顔で拝命すると、同僚に申しつけて早速どこからか大きな蓄音機を庭に据え付け、レコードを何枚か持ってきてどれが一番こっぱずかしいかをしばらく考えてみたがいかんせん専門外の分野であるのでよくわからず、どうせサクラコもわかるまいと思って適当になにやら感傷的な風情のジャケットのものを選んで蓄音機にかけた。
すぐに柔らかなピアノの調べが流れ出る。
人工の月明かりは庭園とサクラコの意地悪な笑みを蒼くしていた。
「踊るぞ」
「え?」
「付き合え。庭でできる運動じゃ」
ナギの手をひき、サンダルを突っかけて、サクラコは庭に降り立った。着ている純白のワンピースが月の色に染まっていた。
「え、ぼく、踊れない」
ナギは慌てて、残った手を顔の前で左右に振った。サクラコの笑みがもっと意地悪になる。
「なんじゃ。あれほど偉そうに語っておったくせに。イメージを現実にできるのであろうが」
「戦いのときはね。踊り方は知らないし」
「わらわと優雅に踊るところを邪念と下心たっぷりにイメージすればよかろうが」
「そんな簡単じゃないよ……」
「言い訳がましい。ぐちぐち言うな、恋した美少女と踊るのじゃ、ほれ」
サクラコに引っ張られ、恋してない、と口にしながら仕方なくナギは軍靴を履いて庭に降り立った。
サクラコの右手はナギの左手をしっかりと握り、斜め上方へ引っ張り上げた。それから身体をぴたりと寄せて、おすまし顔で間近からナギを見上げる。
「おんしの右手をわらわの腰に回せ」
軽い溜息と共に、ナギは言われるまま残った右手をサクラコの腰へと回した。華奢な背中だった。抱き寄せたサクラコは尊大な態度とはうらはらに小さくて頼りなかった。
「アホみたいに突っ立っとらんで、ほれほれ、わらわを真似てステップを踏むのじゃ、ほれ」
音楽に合わせてサクラコは洗練された優雅な身体のさばきでナギをリードする。ナギはおぼつかなくそれについていく。
「木偶かおんしは。やる気を出せ」
「こういうのは専門外。よくわかんない」
ぶっきらぼうにナギは言い捨てる。その頰は真っ赤だ。サクラコはますます唇を上機嫌に湾曲させて、
「なんじゃあ、だらしのない。イメージがうんたらかんたらなどと、口だけではないか。偉そうに語り倒しておったくせに踊りも踊れんのか、ほれほれ」
調子に乗り、小刻みなステップを入れて身体全体を旋転させ、ナギを振り回す。
「わ、わ」
くるくる回りながら、ナギは慌てる。サクラコの動きについていけない。
ワンピースの裾がひるがえる。剝き出しの太股と張りのあるしなやかなふくらはぎが月明かりに染まる。大天井いっぱいに装飾された星を模した光が華やかすぎるほど庭園に落ちてくる。春の妖精さながらサクラコは奔放に踊る。
「どうした、無敵の個体。やられっぱなしじゃぞ」
勝ち気な笑みがナギを見上げる。引きずり回されながら、ナギはややムッとした顔で間近のサクラコを見下ろす。それからおもむろに足を止め、目を閉じて、すうっと深く息を吸い込んだ。
「ぼくの踊りを見せてあげる」
「ふむ?」
「ぼくだけの踊りを」
ざわっ、とナギの髪の毛が逆立った。
サクラコはやや気圧される。握っているナギの手のひらが熱い。彼の身体全体がざわめいている。その背後、悲しげで優しいピアノの旋律があった。
丁都の大天井のむこうは夜だった。採光窓に切り取られた本物の月光と、天井の表面を滑るふたつの人工満月の彩りが高空庭園に蒼く降りそそいでいた。
その光に縁取られて、ナギの背中から真っ白な翼が一対、音もなく現れて、大天井を目がけて伸びてゆく。ナギの軍服にはあらかじめ、翼が出せるよう切れ込みが入れてあった。うずくまっていた鶴が首をもたげて空を仰ぐのと同じ動作で、身長の三倍ほどもある両翼がいっぱいに翻る。
聖堂画に描かれる大天使の翼そのものだった。細い月明かりを帯びて、柔らかな羽毛と、翼の後縁にたなびく三列の風切り羽が青銅色に輝いていた。
ナギを振り回していたはずのサクラコは、いつのまにかナギに抱きとめられていた。
腰の後ろに回っていたナギの右手に力がこもり、華奢な背筋が反った。
「飛ぶよ」
蒼い光をたっぷりと孕んだ両翼が持ち上がり、翻った。