サクラコ・アトミカ

第二回

犬村小六 Illustration/片山若子

「最前線」のフィクションズ。サクラコの美しさが世界を滅ぼすーー。 畸形都市・丁都に囚われた美貌の姫君、サクラコ。七つの都市国家を焼き払う原子の矢は、彼女の“ありえない美しさ”から創られる......。 期待の新星・犬村小六が放つ、ボーイ・ミーツ・ガールの新たな金字塔、ここに誕生!

序章二

月明かりは雲海を夜のさなかに浮き立たせていた。

きららかな星くずを従え、青々とした満月がおぼろな光芒こうぼうをまとって、敷き詰められた雲の絨毯じゅうたんを幽玄の色に染めぬいている。

世界の果てまで覆い隠すかのような層雲は春の気流にその上層を搔き乱されて、まばゆい夜空を反射しながら海原のごとく毛羽立けばだち、うねる。

その青紫な雲の海の直上を、丁都の御紋章を船首に掲げた飛行艦船が一隻、悠然と飛行していた。

白塗りの船体は木造である。帆船の帆を取り払い、その代わりに煙突が上部甲板から四本突き出し、超蒸気機関から排出された青灰色の煙を夜空へと吐き出している。船尾には水平尾翼と垂直尾翼が、両舷側からは大きな主翼が突き出して、主翼の前縁に据えられた八つのプロペラが排水量二万トンを越える船体を飛翔せしめる。

艦名「白雪しらゆき」。丁都空艇兵団の保有する軽巡空艦である。

艦長が詰める指揮所しきしょは船首付近、船体のなかへ収められている。ここからであれば左右前方、それに船体直下を見晴らせるためだ。

指揮所内には軍服に身を包んだ将校が四名と通信兵一名が詰めていた。将校たちは背筋をぴんと伸ばして直立し、硬い視線を船の前方へと据え置いている。

ひとりはりんとした女性将校だ。年齢は二十代後半くらい、しなやかな身体の線にすいつくような白の軍服をぴしりと身にまとい、腰には銀のサーベルを吊り下げ、目深まぶかにかぶった軍帽からは練り絹にも似た金色の髪がこぼれでて、澄んだ翡翠色ひすいいろの瞳にかぶさっている。

「間もなく予定空域に到達します」

ひとりが女性将校へ告げた。

二七七と名付けられた今偵察任務主任参謀、ユキノ・ヴィルヘルム・シュナイダー大佐はうなずきもせずに伝声管を手にとって、

「雲の下へ降りる。総員配置につけ」

命令がくだされ、飛行艇は汽笛を高らかに響かせ、青灰色の煙を濛々もうもうと吐き出して徐々に高度を落とし、水蒸気の飛沫をあげて層雲のただなかへ突っ込んでいった。

指揮所前面の有機ガラス窓が一面の灰色に塗り込められる。月と星の光が消える。ほどなくして白雪は雲の下へ抜けた。

眼下、夜の荒野である。

なにも見えない。月明かりが雲にさえぎられているから、雲上より遙かに暗い。この辺りには町もなく、肉眼で地上との距離を見定めるのは不可能だった。ユキノは探照灯をけさせて、地表面を照らし出した。艦底部から打ち下ろされた漏斗状ろうとじょうの光域が大地をまさぐる。起伏の少ない赤土がひび割れているだけの面白おもしろみもない夜景だ。

超蒸気機関を重々しく律動させつつ、白雪は一心に南東を目指して飛ぶ。

ユキノは前方の暗闇へじっと目をらしていた。夜明けまであとすこし。地上偵察部隊を後方へ置き去りにし、白雪は目標との接触を求めて部隊先頭を飛翔している。

「あれか」

ユキノのつやめいた桃色のくちびるがおもむろにひらき、無機質な言葉がれた。脇を固める三人の将校たちが、一斉に双眼鏡を目にあてた。

彼方かなた炎を噴き上げるなにかが地表面上に存在している。

夜空を炊きあげる紫紺の火焰かえん揺らめくそれがこちらへゆっくりと移動してくる。

ユキノは傍らの通信兵へ第一電の文面を伝えた。

「○四二五、幻妖を確認。阿岐ヶ原方面区画、三二八─○九○。針路九十度」

通信兵が無電の電信を叩いたのを確認してから、ユキノは伝声管を手に取り、操舵士へ高度百メートルまで降下するよう命じた。

正面を見据える。幻妖の噴き上げる炎が闇のなか、近づいてくる。汽笛が高らかに鳴り響き、白雪は青灰色の煙幕をきながら高度百メートルのところで艦首を引き上げた。

「大きい」

つぶやいたのはユキノの片腕として今作戦に従事する情報補佐官、猿渡さるわたりミチオ少佐。

「身長が百メートルを越えている。あれでよく歩けるな」

ユキノは幻妖を睨みながら感想をこぼした。

「阿岐ヶ原の新兵器とみて間違いないでしょう。彼の地にもオルガ様のような魔術の使い手がいるものと思われます」

あんなふざけた存在がこの世にふたりもいてたまるか、という返事を咄嗟とっさに吞み込み、ユキノは無難に答えておいた。

「世界は広い」

「困ったものです」

「サクラコ内親王の奪還が幻妖の目的だな」

「まず間違いなく」

猿渡は双眼鏡を覗き込んだ。

幻妖

荒野をさまよう炎の怪物の伝説を参考にして丁都軍令部が名付けたこの巨大怪獣は、紫紺の色を揺らめかせながら直進をつづける。双眼鏡で覗いても揺らめく炎が見えるだけで、そのむこうが視認出来ない。

白雪は幻妖を中心にして半径五百メートルの円周を描きながら緩旋回をはじめた。幻妖は頓着とんちゃくなく、地響きをあげながらその長い足を交互へ前へ送る。

東の地平線と空の境界が鮮やかになりはじめた。空のすそが朝の色にかれる。もうすぐ夜明けだ。

ユキノが呟く。

「攻撃してこないな」

「近づきますか?」

「なにをしてくるかわからん」

「まさか空は飛ばないでしょう」

「いや、このままだ。夜明けを待つ。偵察任務であることを忘れるな」

ほのかに赤みを増していく東の空を見やりながら、ユキノは短く呟いた。

荒野のむこうにたなびく雲の下腹を太陽が炙った。

雲の輪郭りんかくのかたちに朝の陽光が切り分けられ、一直線に空をかけた幾条もの光たちが、あまりに異形すぎる幻妖のありようを仔細しさいまで鮮明にユキノへ送り届けた。

みにくい」

率直すぎる感想を口にして、ユキノは今日はじめて双眼鏡を目に押し当て、朝日の中の幻妖を見やった。

身長は目測でおよそ百二十メートル。完全な人型をしていて、二足歩行で歩んでいる。肉体の表面に紫紺の炎をまとい、輪郭に沿ってゆらゆらと光芒が立ちのぼっているのだが、よく観察してみると炎のむこうに白い外殻がいかくが視認できる。骨格が肉体の表面にところどころ現れて、急所を守っているらしい。顔、胸、背中、上腕部、両腿りょうもも、足首、爪先の辺りに、あたかもよろいのような外殻があてがわれ、そのむこうに肉らしい流動物が見えた。肉はどうやら頭頂部からあふれてきて胸から腰、足へと至っているようだ。流動する肉の表面が時折泡立ち、月餅げっぺいにも似た気泡が割れて、そこから排気された可燃性ガスらしきものに火が燃え移って燐光をなしている。

「焼けただれた肉を引きずって歩いている」

幻妖から流れ出た肉の残骸が、歩んだ跡で青黒く燃えているのを確認し、ユキノはそう呟いた。かぶとに似た頭頂部の外殻から流れ落ちる肉は尽きることがない。

「どういう仕組みでしょう」

「魔術師のやることに仕組みなどない。ふざけた実態がそこにあるだけだ」

「困ったものです」

「サクラコの件で阿岐ヶ原を完全に怒らせたな。次から次に奇怪な攻撃を仕掛けてくる。先日は陸上重戦車艦隊、今度はこの生体兵器

ユキノはおのれの愚痴ぐちに気づいて途中でやめた。言葉通り、つい先日、阿岐ヶ原が送り出してきた多砲塔戦車群を凄絶な戦闘の末に撃退したユキノだった。多砲塔戦車は一台あたりの重量二百トン、全長三十二メートル、全幅十メートル、全高十二メートル。乗員三十八名、十二センチ主砲二門、七十六ミリ砲四門、十五ミリ機関銃八門。そんな馬鹿げた火力を搭載したバケモノが八十台ほど群れをなして荒野を直進してくるさまは悪夢以外のなにものでもなかった。

原子塔が完成したなら丁都を取り巻く七つの都市国家はもはや滅亡するのみ。だからどの都市も総力をあげて攻撃を加えてくる。なんの因果いんがか丁都は環状に配置された七都市の中心に位置しており、防衛線はどこも大忙おおいそがしだ。馬鹿げた霊感だけを頼りに規格外な兵器を開発したオルガをうらみたくもなる。

胸中のもやもやを振り払い、気を取り直して再び幻妖を観察した。自分はただ一介の軍人として、余計なことを考えずに都市国家の脅威を撃滅することに邁進まいしんせねば。

双眼鏡の映像から、気づいたことを口にした。

「表情がある。目鼻立ちが見えるぞ」

「人間の顔そのものですな。気味が悪い」

「なにか、悲しげに見える」

「そうですか?」

「うんいや、気のせいかもしれない」

幻妖は相変わらず白雪に構うことなく、ただ愚直に丁都方面を目がけて歩みつづける。地響きをあげて、堅い大地にひび割れと燃え立つ痕跡を与えながら、紫紺の炎をまとい、その巨大にすぎる肉体を前へ前へ送りつづける。

やがて

彼方、丁都方面の地平線から土煙がたなびいていた。そのけぶりの中に、漆黒しっこくの兵列がうごめいている。

「来た」

ユキノは双眼鏡をその兵列へとむけた。レンズの中、部隊の全容を確認する。

先頭は重戦車三両。その背後からぶよぶよした二メートル近い巨体を左右へ揺らしながら、全身に鉄鋼装甲をまとったヒドラ歩兵五百が行進してくる。歩兵の両脇を挟み込むようにして、新型駝鳥だちょうを操る騎兵が二百。丁都陸戦兵団一大隊としては平均的な規模である。大隊はひとかたまりとなり、ひるむことなく幻妖を目指して直進していく。

先ほどからユキノが待っていた威力偵察部隊である。我が身を以て目標に攻撃を仕掛け、敵の戦闘力を推し量る役を担っている。

「頼んだ、加藤かとう。必ず生還してくれ」

大隊長の名を口ずさみ、ユキノはこれからはじまる前哨戦ぜんしょうせんを観戦するべく、白雪を高度三百メートルまで上昇させた。この高さであれば幻妖はユキノへ手を出すことは出来ないだろう。

幻妖は偵察部隊に構わず、速度をゆるめることなく丁都を目指す。

重戦車三両は走行しながら躊躇無く第一撃を放った。

正面から腹部付近に三発着弾。

幻妖は足を止め、加藤隊を見下ろして高く咆吼ほうこうした。全身にまとう炎が一瞬、濃い色へと変じ、怒りを示すかのようにぶわりとさらに燃え立った。長い両手が地について、幻妖は地響きを立てて大地につんいとなる。どうやらこれがこの怪獣の戦闘態勢であるらしい。

「前代未聞の戦いだな」

ユキノはぽつりと呟いた。