サクラコ・アトミカ
第一回
犬村小六 Illustration/片山若子
「最前線」のフィクションズ。サクラコの美しさが世界を滅ぼすーー。 畸形都市・丁都に囚われた美貌の姫君、サクラコ。七つの都市国家を焼き払う原子の矢は、彼女の“ありえない美しさ”から創られる......。 期待の新星・犬村小六が放つ、ボーイ・ミーツ・ガールの新たな金字塔、ここに誕生!
〈資料1〉
ヒトゲノムを解読するというと、役に立つ情報がぎっしり詰まった遺伝子の暗号を片端から解読していると思うかもしれないが、そうではない。
ヒトゲノムを構成しているDNAの大部分が、意味のない(もしくは意味のわからない)塩基配列だからだ。
――『3日でわかる遺伝子』青野由利/渡辺勉
〈資料2〉
この章では、本格的に量子力学を基本から説明する。しかし1つ断っておかねばいけない。残念ながら、量子力学は理解できるものではない。これはこの本を読まれる読者だろうと、われわれ専門家であろうと変わらない。
――『図解雑学よくわかる量子力学』夏梅誠/二間瀬敏史
〈資料3〉
私が心配しているのは、この宇宙の組成で私たちが知っている物質はたかだか五パーセントに過ぎず、二五パーセントはダークマターと呼ぶ暗黒に潜む物質に押し付け、残りの七○パーセントを出所不明の宇宙項に担わせようとしていることである。つまり、宇宙の九五パーセントまでの成分については知らないまま、宇宙の年齢や構造を論じているのだ。
――『物理学と神』池内了
〈資料4〉
ここで最新の素粒子理論をもとにダークエネルギーの値を計算してみると、観測結果と 10120(1のあとに0が百二十個も続く)も離れた数字が出てくる。この理論値と観測値の食い違いは、これまで科学で見つかったどんな例よりも断然大きい。まさに最大級の問題と言える――われわれがもつ最高の理論をもってしても、全宇宙に存在するエネルギーの最大の源泉の値が計算できないのだから。
――『パラレルワールド』ミチオ・カク
心の座をめぐっては、古来、さまざまな哲学者、科学者が思索をめぐらせてきた。古代中国の医家たちは内蔵に心を求め、プラトンは脳に、アリストテレスは心臓に、デカルトは脳の中の松果体という器官にと、心の住まう場所を求めて苦悩した。では、そもそも心とはなんなのか。
――『NHKサイエンススペシャル脳と心』NHK取材班
〈資料5・6〉
天地の狭間にはきみの考えの及ばないものが多々あるのだよ、ホレーショ。
――『ハムレット』W・シェイクスピア
からしだねひとかけらほどの信仰があれば、山をも動かせる。あなたがたに出来ないことなどなにもない。
――マタイの福音書 17・20
サクラコ・アトミカ
序章一
丁都には空がない。三十万都民の頭上にはただ大きな屋根があるだけだ。
半径五キロメートルの円周を形成する城壁に、すっぽりと屋根が蓋していて、昼と空を都民から奪い去っている。
この屋根がどんなかたちをしているのか、丁都のなかからはわからない。覗き窓みたいな天井の隙間と、飛行機械だけが通過できる七ヵ所の空中ゲートから入ってくる日の光を頼りにその形状を推し量ってみると、「天にむかってとぐろを巻いている」ことだけがかろうじて理解できる。
だから丁都はいつも夜だ。街灯の光が途絶えることはなく、歓楽街のネオンと行き交う自動車輛のライト、巨大すぎる天井をまさぐるような地上からのサーチライト廻廊の灯りを頼りに、都民たちは毎日の生活を送っている。
風は天井の通気口や採光口、飛行艇が通行する空中ゲートから入ってくる。頼りない風は白く濁っていて、蒸気の熱がかすかに含まれ、おおかたの場合、筋状に切り分けられて狭い街路を駆け抜けていく。
見下ろしたなら、風はサクラコの遙か眼下を放射状に爆ぜてゆく。あたかもサクラコの足元から生まれ出たかのように、身をよじりながら八方へ走り、やがて切り分けられた全ての風は彼方の城壁にぶつかって、白い飛沫とともに屋根を目がけて打ち上げられる。
地上八十メートルの高みから丁都を見下ろす。サクラコがこの塔の最頂部、別名「高空庭園」へ囚われて半年が経ち、否応もなく見慣れてしまった景観なのだが、それにしてもいつ見てもすこぶる完璧なまでに常軌を逸した街並みだった。
――畸形都市。
他の都市国家の人間は丁都をそう呼んで嘲笑する。まさか自分がやがてその都市に囚われることになるとも知らず、サクラコも以前は同じ呼び方をして馬鹿にしていた。現在は馬鹿にする代わりに丁都の全てを憎悪している。
風が今度はいきなり吹き上げてくる。長いサクラコの黒髪をかきあげる。サクラコは爛とした眼差しを直下へ差し向けたまま動かない。
いびつに歪んだ街並み。遠近感を狂わせることを目的に都市計画が為されており、丁都内を走る八本の幹線道路は意味なくねじまがり、太くなったり細くなったりいつのまにか互いに交じり合ったり、交通の便を自ら率先して阻害している。道路沿いの建物からは煤けた煙があがり、日中でも瓦斯灯のほやは黄色く咲いて、霞んだそのなかを黒や灰色の衣服たちが猫背気味に黙々と行き交う。屋根があるのに超蒸気機関からの排煙は威勢良く行われ、幾千となく天井に据えられた直径七メートルほどの巨大換気扇の唸りが鳴り止むことはない。
眺めているだけで気が滅入ってくる。だがそれも今日で終わりだ。この世で最期に見る物体はどれにしようかと候補を物色してみたが適当なものも見あたらず、サクラコはひとつ息をぬいて目線を天井へと持ち上げた。この憎々しい天井でいい。馬鹿げた造型をあざ笑いながら死んでやる。
今日はおのれの死に装束として白拍子を選んだ。特に理由はない。なんとなく最期は白拍子すがたでこの世からおさらばしたい気分だったから側女に言いつけてこの衣裳を持ってこさせた。
濃紺色の烏帽子をかぶり、真っ白な水干と紅袴。烏帽子からこぼれた長い黒髪が横へとそよぐ。かつて阿岐ヶ原にいた頃、世界一の美少女とたたえられたその横顔にはいま悲しみしか宿っていない。
世界一の美少女……。聞くも馬鹿馬鹿しい修辞だが、サクラコを目の当たりにした人間は全員が首肯せざるを得ない。「言語に絶する」その美少女ぶりを、ある物理学者は「観測する主体によって美しさが変わる」と表現した。観測者が密かに抱いている「世界一の美少女」像が、サクラコの美しさに影響を与えているというのである。人はおのれの抱いている「絶対美」がサクラコ上に具現するさまを目の当たりにし、敬い崇めひれ伏してしまう……。その美しさは顔立ちやスタイルや瞳の色などに一切依拠していない。観測する主体によって美しさが変わるため細部を描写することもできない。サクラコは量子論的に美しいのだ。
そしてそのあり得ない美しさがいま、世界の危機へと変じていた。
「姫さま、おやめください。お下りください」「危ない、落ちてしまいます」
庭園のうちから側女たちがサクラコを見上げて、無表情にそんなことを言う。言葉には感情がこもっておらず、どこかおざなりだった。
サクラコが踵を下ろしているのは、庭園をぐるりと取り巻く高さ二メートルほどの石塀である。足を一歩踏み出せば、あとは八十メートル下方の煤けた街へ落ちていくだけだ。
サクラコは踵を支点にくるりと身体を反転させると、両手を腰に当てて毅然と胸を張る。
「わらわはあの変態の思い通りになるくらいなら死ぬ。亡骸は跡形も残らんくらい丁寧に粉微塵になるまでよく焼いて荒野へ撒いてくれ」
遺言を側女たちへ浴びせると、息を整えてから、サクラコはきっぱりと片手をあげた。
「わかったな。頼んだぞみなのもの。それではさらばじゃ」
再び爪先を上げて踵でくるりと回転し、お付きのものたちのおざなりな制止を背中で受け流し、サクラコは呪わしい丁都を見渡した。
ここで死ぬ。決意をもう一度おのれへ刻む。後悔がない、といえば噓になる。もっと生きていたかった。
けれど。
世界を救うために、自分はここで死ななければならない。
このまま自分が生き延びたなら、世界は滅びを迎えてしまう。自分さえ死ねば、あの変態のもくろみは全て無に帰す。自ら命を絶つことが、あの変態への一番の嫌がらせなのだ。
決意してサクラコはぎゅっと目を瞑った。
怖くて怖くてたまらない。だが――
サクラコは震える爪先を虚空へと踏み入れた。
小さな水干すがたが前のめりになり、袖をばたつかせながら、サクラコは落ちた。
ぐんぐん落下していく。頭をしたにして、爪先で丁都大屋根を指し示し、八十メートル下方の路面へむかってまっすぐ。
落ちながら、サクラコは悔しさを嚙みしめていた。なんて無意味な人生だったのだろう。ディドル・オルガに目をつけられることがなければ阿岐ヶ原の内親王としてなに不自由なく暮らしていけるはずだったのに。たった十七年しか人生を味わうこともできず、路面に身体の中身をぶちまけて死ぬだなんて。
だんだん、息が苦しくなってくる。視界が暗転しかけたそのとき、いきなり――
塔の壁面に影が走った。
落下してくるサクラコを目がけて、華奢な体軀の少年があろうことか石壁を駆け上がっていく。足場もない筒形の塔の側壁を斜め上方へむかい、螺旋状に渦巻くようにして、ミズスマシさながら。
「んっ」
短い掛け声と共に、少年は裸足で壁面を強く蹴りつけ、跳躍した。そして身体をねじりながら右腕を差し伸べ、サクラコの身体を空中で抱き留める。
「!?」
失神しかけていたサクラコは不意の衝撃に目を醒まし、見知らぬ少年に片手で抱き留められていることに気づいた。
「な、なんじゃ、おんしっ!」
少年は仏頂面で面倒臭そうに答えた。
「牢番」
「うぬ?」
「あんまり面倒かけないでね」
爪先を地面へむけたまま、サクラコをナップザックのように右肩に担ぎ、優雅な姿勢で落下しながら、少年は左の手のひらを石塔へむかい差し出した。
次の瞬間、手のひらが隆起して、紐状になり、勢いよく噴き出された。紐状のなにかは円筒形の側壁に巻き付き、少年の身体を支えてしまう。
紐が縮み、少年とサクラコは塔へと引き寄せられる。少年の肘が塔の壁面に吸い付く。
「……あの変質者の造ったバケモノか」
「うん」
少年は仏頂面を浮かべたままバケモノ呼ばわりを受け入れると、再び螺旋状に渦巻くようにして高空庭園を目がけ、側壁を斜め上方へ駆け上がりはじめる。サクラコは少年の肩に抱えられたまま、じたばたと手足を動かして、
「いやじゃ、離せ離せ、わらわは死ぬのじゃ。変態の思い通りにはならぬぞ」
「死んじゃダメ。ぼくが知事に怒られちゃう」
「離せ変態の手下。けがらわしい手でわらわに触れるな、変態がうつる」
「ぼくは変態じゃない」
ふわり。少年は側壁を強く蹴って軽やかに空中に浮揚すると、音もなく元の高空庭園に降り立った。側女たちはこうなることがわかっていたかのように、サクラコへ無感情な目とおざなりな安堵の拍手を送った。
サクラコは少年の肩から芝生へ降り立ち、片手で一度髪の毛を整えてから、澄みきった紫紅色の瞳をぎんと光らせ、真正面から無礼な少年を睨みつける。
やや長めの髪の毛の隙間から、無垢そうな眼差しが興味なさそうにサクラコの背中のむこうに焦点を合わせていた。背はサクラコより少し高い程度、細身の身体にぴんとした詰め襟の黒の上衣、すらりとした黒のズボン。肩には大尉を示す赤い二本線、そして右の上腕には近衛師団を示す黄金の鷲を刺繡した腕章。年齢は十七、八歳くらいだが、近衛師団の一大隊を統率する将校であるらしい。
「丁都では人間でなくとも軍人になれるのか」
「うん」
「バケモノめ。どこでわらわを監視しておった」
「護衛、といってくれないかな。この下に出っ張りがあってね。きみが落ちたときに受け止められるように知事が造った出っ張り。そこで暮らしてる」
「出っ張り?」
「うん。塔の真ん中くらいの高さのところが、ぐるって、出っ張ってるの。筒の途中に円盤をはめこんだ感じ。そんなものを造るくらいならはじめからきみが落ちないような造りにすべきだと思うけど、なにぶん知事のお考えは地を這う常人の及ぶところではないから」
「あの変質者の頭の中身など想像したくもないわ。ふむ。それにしても。出っ張りとな。わけがわからん」
「一応、きみがいるところまで侵入者が登って来れないためのものでもあるらしいよ。ネズミ返しみたいな」
「ふむ。監視役はおんしだけか」
「うん。ぼくだけ」
「人数不足に思えるがの」
「部下なんて足手まといなだけ。きみの護衛くらいぼくだけで充分」
「自信家の名を聞こうか」
「ナギ・ハインリヒ・シュナイダー」
サクラコは気に入らなそうにナギの態度を睨め付けていたが、やがてつんと顎を斜めに上げて、
「首尾よく美しいわらわを掠め取ったはいいが、阿岐ヶ原も黙ってはおらんぞ。必ず丁都へ奪還の兵を差しむけるであろう。異形の業ならこちらにもある。おんしひとりで防ぎきれるやら」
「どうだろうね。頑張るよ。どうやら知らないようだから教えてあげるけど、もう仕掛けてきてるよ、きみの故郷の偉い人たち」
「うぬ?」
「都域圏付近に未知の脅威が迫ってるみたい。丁都のみんなが大騒ぎしてる」
「そんなもん、いつものことじゃろうが。世界の嫌われ者の丁都が平和に過ごせるわけがない」
「うん。でも今回はなかなか手強そうだってうわさだよ。きみを助けに来るつもりじゃないかな」
「ふーむ……。未知の脅威……。あれのことか……?」
訝しげにサクラコは首をひねったあと、ひとりでなにごとか納得した。
「まあでも、ぼくが牢番してる限り、残念だけどきみの故郷の人たちは諦めるしかないね。ぼく、強いから」
「悪人めが。恥を知れ」
「かわいそうだけど、原子塔の工事が終わるまでここにいてもらうからね」
ナギは感情を込めずにそう言ってから、目線を天井へと上げた。
いまこの天井のむこう、屋根の上部面では、丁都知事ディドル・オルガの指揮のもと、一千体を越える異形のバケモノたちが昼夜を問わず工事にいそしんでいる。
造っているのは巨大な兵器だ。
――原子塔。
丁都を取り囲む七つの都市国家を焼き払うために、物理学者ディドル・オルガがありったけのインスピレーションを振り絞って築き上げた原子力兵器。これが丁都を覆うとぐろ状の屋根のてっぺんにそびえ立とうとしている。
その原動力はあろうことか、霊感の素となったサクラコの美しさである。彼女の肉体を構成する全細胞を核分裂物質に置換し、TNT爆薬十五万トンに匹敵する原子の矢を敵都市に放ち出す計画なのだ。
――サクラコの美しさが世界を滅ぼす。
原子塔の建造をディドル・オルガが思い立つに至った一文だ。あろうことかオルガは右のたった一文を根拠にして、この驚くべき兵器を設計し建築し稼働状態へおこうとしている。常人であれば不可能な業も、悪夢の魔法使いディドル・オルガには可能なのだ。わずかなインスピレーションがありさえすれば、オルガは不可能を可能にする。
超常芸術家ディドル・オルガにしか創造しえない、この悪夢のような兵器を巡っていま、標的となった七つの都市は結託して丁都への攻撃に踏み切っている。しかし天才分子生物学者ディドル・オルガがペトリ皿から生み出した異形の軍団は、七つの敵を目前にしてなお互角以上に戦っている。丁都知事ディドル・オルガの理不尽なまでの創造性、学識、霊感、山勘、第六感から産み落とされる、現代技術を越えた禍々しい兵士たちと兵器群――丁都が世界の嫌われ者たる所以だ。
「変質者めが。わけのわからんことばかり思いつきおって」
サクラコはいまいましそうに吐き捨て、翳った眼差しを丁都へむける。数十本の野太い支柱が、巨大すぎる屋根を支えている。なかでも丁都中央部にそびえ立つ、直径二百メートルを越える大黒柱が他を圧して目立つ。あの大黒柱の直上において原子塔が建設中だ。
原子塔が完成したとき、サクラコの命も終わる。時間はもうあまりない。一ヵ月後か、一週間後か、それとも明日か。工事終了日がサクラコの命と世界の終わる日となるだろう。
「でもかなり強いらしいよ、きみの故郷の人たち。久しぶりに丁都の住人が慌ててるし。希望は持ってみてもいいかも」
「ふむ。それは励ましかえ?」
「お愛想」
「ふん。目障りじゃ、さっさと去ね」
「ごきげんよう、お姫さま。もう飛び降りないでね、とても迷惑だから」
ナギは駄々っ子に言い聞かせる口調でそう言って、サクラコに背をむけ、一跳躍で塀のうえに踵を付けると振り返りも躊躇もせずに飛び降りた。そのまま彼のいう「出っ張り」に着地するのだろう。
「生意気なやつ」
庭園に残り、サクラコは虚空を見つめて独りごちた。
それから薄情な側女たちをひとにらみして溜息をつき、紅袴のすそを翻して館へと戻った。頭の隅に、ナギの言った「未知の脅威」が引っかかっていた。