フェノメノ
case:02「自己責任系」 壊〜overlay
一肇 Illustration/安倍吉俊
注目の新鋭・一肇があの安倍吉俊とタッグを組んで『最前線』に登場! ーーそれは、ありとあらゆる怪異(ミステリー)を詰め込んだ青春怪異小説(ホラー)。
case:02 「自己責任系」 壊〜overlay
3
アパートに戻ると、もう夜石はいなかった。
机に置いておいた鍵にも気がついたらしく、ちゃんと戸締まりされて鍵はポストに入っていた。
玄関に入ると、俺はとりあえずクリシュナさんにもらった粗塩をドアの隅っこに盛って、ようやく一息つけた。明日にでももう一度クリシュナさんを訪ねて、ノートを持出したことは相談しよう、と思った。
リビングに行くと、布団はちゃんと畳まれていた。やっぱりあいつは育ちがいいのかもしれん、と思うと同時に、それだけに外泊とかして大丈夫なのかと心配にもなった。
あいつはどこに住んでいるのだろうか。だいたい高校何年で何の部活に入っていて何の教科が得意なのか。趣味は何で、ペットは何で、愛読書は何なのだろうか。
つくづく、俺は夜石のことを何も知らなかった。
どこに住んでいるのかも、電話番号も、メールアドレスも知らない。
こちらから連絡をとりたいと思っても、『異界ヶ淵』の掲示板に書き込むしかない。そんな希薄な関係性な割に、俺たちの間には、彼岸だ此岸だと生死に絡む大問題だけが横たわっている。外堀も埋めずにいきなり天守閣でデートしているようなものだった。
「まあ、例が多少壊れているのは疲れているせいか……」
もう、寝よう。
とにかく身体が鉛のように重かった。
まだ七時過ぎだったが、とりあえず昨日から着たままの服を着替え、顔を洗った。歯も磨いてすっきりしたところで布団を広げて寝転がったわけだが、すぐさま飛び上がった。いや、それは花の女子高生の残り香に眩惑されたとかじゃない。
――枕がくせえ。
なんかこうすっぱい匂いがこびりついていた。疲れて寝ようって時にこれはひどい。あの野郎、次に会ったら強制的に風呂に叩き込んでやる。仕方なく座布団を丸めて枕代わりにすると俺は改めて転がった。しかし強烈な臭気はまたも俺の眠気を遠くに追いやっていた。
仕方なく、俺は寝転んだままケータイであの八王子の廃病院を検索してみた。以前、パソコンでは調べてみたが、ケータイでは初めてだった。しかし検索結果を見てたまげた。ケータイ専門サイトでも、いやケータイ専門サイトだからなのか、驚異のヒット数が表示されていた。
「あそこ、実は有名なんだな」
表示された検索ページを上から順に開いていく。
大方は、どこかのコミュニティの掲示板だ。地元専門のオカルトサイトもある。だが、そこにひとつのキーワードが共通していることを発見した。
それは“願いの叶う病院”という言葉だ。
どっかで聞いた言葉だな、と思ったら、ついこの間まで俺が振り回されていたものじゃないかと気がついた。馬鹿だな、願いを叶えるのに近道なんてないんだぞ。クリシュナさんに言われた言葉をそのまんま口にして、俺はサイトの書き込みをにやにやと眺めた。半ば愛すべき後輩たちを見るような心地だったわけだが――
「身長が伸びました!」「彼女が出来た!」「ヘルニアが治った」「就職できますた」「宝くじ当った!」
各サイトの掲示板には、そんな報告事例が溢れていた。
「おいおい、マジか?」
俺はつい起き上がって、その続きを読みふける。
どうやら、あのノートと壁に書かれた文字――『ぼくのびょうきをなおしてください』『なおしてくれたらなんでもいうことききます』このふたつからそんな噂が広がっているようだった。中には、wiki形式に情報をまとめてあるのがあったのでそこを開いてみた。
・廃病院の地下には資料室がある。
・そこの壁には「なおしてくれたらなんでもいうことききます」という文字がある。
・その壁に向かって三回、「◯◯◯◯が直します」と自分の名前を言う。
・「その代わり、△△を叶えてください」と願い事を言う。
・その後、病院内の倒れた何か(何でもよい)を元の位置に戻す。
・また壁に向かって「◯◯◯◯が直しました」と報告。
・願い事が叶う。
どうやら、まとめるとそういうことらしいが。
「くだらん」
俺は呻いた。
そして、その他の関連サイトを見ているうちに、次第に暗澹たる気持ちになった。
あの病院内で馬鹿騒ぎしている写真を載っけているやつがいた。カルテを燃やしてたき火をするやつがいた。その横で放尿するやつがいて、ビール片手にピースサインを向けているやつがいた。
「なるほどな。クリシュナさんが怒るわけだ」
あの人はことあるごとに言う。
――ここ最近日本人のモラルの劣化が激しい、と。
古来、日本人は目に見えぬ存在に対する崇敬において特筆すべき民族であったという。それが八百万信仰へと繫がったのだろうが、たしかに日本には神様が多い。死ねば仏という言葉もあるように、生前どんなに対立していても神様に祭り上げてしまう。俺ら現代人からすれば、片っ端から奉っているうちに収拾つかなくなった感じだが、それでも俺は目に見えぬものを畏れ敬う日本人の気質は悪くはないと思う。まあうちの田舎では、まだ漠然とした山の神様を信じているし、太陽をおてんとさんというのも普通だからかもしれないが。
そこで、俺はリビングの入り口に投げ出したままの鞄を見た。
這いずり近寄って、あのノートを取り出す。それは、たった八歳でこの世を去った少年の精一杯の文字で埋められた日記だ。もう黄ばんで端々のよれたページを開き、最初から目を通していった。
少年は、どうやら最初は簡単な検査入院ということで病院に来たらしい。早く家に帰りたいとわくわくしていた。しかし入院が長引き、検査の回数も増え、少年の文字も小さく元気が無くなっていくように感じられた。そこらへんから、もし退院出来たらしたいことが記述の主なことになっていく。自転車に乗りたい。友達とサッカーをしたい。家族と出かけたい。ザリガニ釣りに行きたい。ゲームがしたい。思い切り走りたい。そんな子供が当たり前に出来ることを望むようになっていた。ノートの中盤も過ぎると、もう願い事はただ家に帰りたいとだけ記されるようになっていた。検査が苦しいとも書かれていた。発作の苦しみについても書かれていた。当事者にしか書けないような重い感想に、俺の息もつまった。
そしてこの時、ようやく俺は気がついた。
あの闇の中、俺がこのノートを握りしめていた理由。
そして、持ち出した上にずっと肌身離さず持ち続けている理由。
俺は耐えられなかったのだ。幼くして死んだこの子が、あんな暗い部屋で、ぽつんと放置されていることが。
こいつは――俺だった。
俺には、小さい頃、小児喘息の気があった。
成長するにつれてそれは治ったわけだが、当時の俺としては発作の予兆を感じるだけでもうパニックとなった。自分の周囲だけ空気が消え失せるような、たったひとり底知れぬ深い海に叩き込まれたような、激しい呼吸困難に襲われるのだ。あの目の前が真っ白になるような絶望感――それはまだ俺の体にじっとりと染み込んで残っている。夜寝ていて発作の予兆を感じると、泣きまくって両親のところに飛んでいった。そしてそん時、どんな医者よりも薬よりも頼りになったのが、母親の手のひらだった。あの温かい手のひらで背中を撫でられているうちに不思議な安心感が胸一杯に広がって、気がつくと発作は止まっていた。
ノートの最後のページに目を落とす。
『ぼくのびょうきをなおしてください』
俺には母親がいたが、この子には誰か苦しみの防波堤となってくれる人はいたのだろうか。
逃げ込める安全地帯があったのだろうか。
それがたぶん――このノートを持出してしまった理由だった。
死ぬまで苦しみ、死んでも心霊スポットとして慰み者になっていることが許せなかったのだ。
しかし、俺はひとつ長く息を吐いた。
だからといって、このノートをこれからどうしてよいのか、俺にはわからない。最後まで面倒みるなら、あの壁の文字も消してしまうのが一番だとも思うが、もう一度あそこに行く勇気もない。
「まったく……俺はどうしようもないヘタレだな」
そう髪をぐしゃぐしゃと搔きむしった時だった。
突然、ケータイが振動した。
びくっとして、思わず相手も確認せずに出てしまう。
《ようっ! ナギ助!》
受話口から響くその脳天気な声色に、俺は硬直した。
《オレだよ、オレ。元気でやってるか?》
「や……やあ、姉ちゃん」
――そう。
それは俺の遺伝子上の姉である、山田暁である。
《やあ姉ちゃん、じゃねーだろ。夏休みにこっち帰ってくる日程を教えろっつったろーが》
ちなみにうちの姉貴は昔やんちゃしていた頃からずっとこの口調であり、ふたりきりの時の一人称はオレである。
「ああごめん、帰省の件か。ええとお盆が一番いいんだよな? じゃ七月末辺りで」
《こら》
電話の向こうから一段と低い冷気が漂ってきて、俺は身震いした。
《はっきりした日にち言えっつの。オレはおまえと違って働いてるんだから有休というのを申請しないとなんないのよ。わかる?》
四歳年上の暁は、地元静岡の短大を卒業して、地元でそのまま会社勤めをしている。昔からこの姉貴に口喧嘩で勝ったことはないし、実際肉弾戦でも敵うとは確実に言えない恐ろしさがあった。おまけにこないだの事件で俺は姉貴に借金までしていた。つまり俺の現在の立場は、わずか十八年の人生の中でも最悪に弱かった。
《出来損ないのあんたの帰郷でも、おとんもおかんも楽しみにしてんだからさ。ナギももう大人なんだからね、そろそろ親孝行とか考えるようになれよ》
「……わかってる」
《んだ? そのつっけんどんな答えは?》
「すみません、わかってます」
《で、いつだ? 七月末の》
「ええと。前期試験の日程が来週にでも発表されるからさ。それからすぐ連絡する」
《ん。来週だな。来週末になってもかけてこなかったらいてこますぞ》
「はい」
《ああ、それからな》
「はい?」
《今年の火祭りは、うちが仕切りだからさ。お盆前には帰ってくんだぞ》
ばつんと電話は切れた。ケータイの液晶に表示された通話時間一分三十七秒という表示を見つめつつ、俺は長く息を吐いた。
わずか一分三十七秒でここまで空気を変える姉、暁――恐るべし。
それから、俺は改めて天井を見上げる。
――なんかもういろいろだ。俺はいろいろなことに無節操に手を出して手に負えなくなって放置している。安いところに住もうとして怪しい物件に手を出し、そこから逃げ出して姉貴に借金し、学業にも身を入れているわけでもなく、クリシュナさんのようにオカルトに生涯を捧げる気概があるわけでもない。おまけに心霊スポットから勝手に持出したノートをどうしてよいものかわからない。
ふと、夜石の白く陰鬱な顔を思い浮かべた。
超絶的に整ってはいるが、無機質で無感情な人形のようなあの顔。
そんな俺に、あいつが手に負えるわけがないのだ。
そのまま大きく寝転がって、いつしか俺は眠りに落ちていった。
◯
白く、霧の立ちこめた世界にいた。
そこで、夜石は見たことがないような、晴れやかな顔で笑っていた。
――おい、おまえ笑えるんじゃないか。
そう声をかけたのだが、あいつには聞こえてないようだった。夜石は俺に気がつかずとにかく楽しげにはしゃいでいた。何か下にまとわりつくものと戯れているようだった。犬か何かだと思って夜石の足下を見た俺は仰天した。そこには蛇がいた。
いや――蛇というより、ただ胴だけが異様に長い見たことのない生き物だった。その胴の先端には顔がついていた。そして、それも夜石だった。いつもの陰鬱さに輪をかけて陰鬱な顔をした夜石の顔がくっついていた。そして人間の方の夜石はそれをひたすら蹴りつけ、けたたましく笑っていた。おい、やめろ。俺がそう声をかけると今度は人夜石は俺を見た。ついで蛇夜石も俺を見る。そしてふたり同時に言った。なぜ、と。なぜって――人を蹴りつけるなんて見てて気持ちのいいもんじゃないだろ。俺がそう言うと、人間の夜石は、またけらけらと笑った。蛇夜石は、くだらない、とでもいうように黙りこくった。いいの、この子は悪い子だから。そう言って人夜石はまた蹴り始める。いいの、私が悪いのだから。蛇夜石もそう言って辛そうに蹴られ続ける。俺はただひたすらやめろやめろと叫んでいた。だが俺が叫ぶほどふたりは蹴り蹴られる行為に没頭していった。
やがて、蛇夜石の腹が蹴り破られ、そこから赤黒い血が辺りに染み渡ったところで――
俺は、目を覚ました。
……つーか、なんて夢を見てんだ、俺は。
部屋は電気がついたままだった。ぼうっとケータイで時刻を確認すると、一時過ぎだった。ちょうど六時間くらいは寝ていたことになる。やたら喉が渇いていたので、立ち上がってキッチンまで水を飲みにいこうとした時だ。
アパートの廊下から奇妙な音がした。がさごそと何かを引きずるような音だった。隣のやつか? そう思って放っておこうと思ったが、やがてその何かは、どん、とどこかにぶつかった。そのまま無音になった。
「……なんだよ、今度は」
恐る恐る扉に近づいて、覗き窓から確認して仰天した。
そこには幽鬼がいた。
いや――
幽鬼としか言いようのない美鶴木夜石が、制服姿で立ち尽くしていた。
「お……おまえ、何してんだ?」
ドア越しに尋ねたが、返事はなかった。
仕方なく鍵を開けて、扉を開けるとふらふらと揺れる夜石がそこにいた。
「そこで何してるんだって訊いてるんだが」
もう一度俺が言うと、夜石はようやく俺を認識したようだった。ガラス玉のような瞳をこちらに向けて、「ああ、あなた」と今気がついたかのように呟いた。
「あーあなたじゃねえだろ。人んちの前で偶然会ったような台詞吐いてんじゃねえ。いつからそこに――」
いたんだ、と言いかけて気がついた。
夜石は、頭のてっぺんからつま先まで濡れていた。濡れたブラウスが透けて下着の線が覗けたのにはすこしどきっとしたが、そのスカートの先からは茶色の水が滴り落ちていた。
しかも――臭え。今までの中でもずば抜けて臭え。
「おまえ、ドブ掃除でもしてたのか?」
鼻をつまみながら尋ねると、
「そんなアルバイトはしたことないわ」
夜石は真面目な顔をして答えた。ダメだ、いちいち話が嚙み合わねえ。とりあえず廊下でこんな夜中に騒いでいるのも迷惑なので、やつを家に入れた。扉を閉めるとより匂いが鼻をついた。俺は瞬時に覚悟を決めた。廊下の汚染までは仕方がない。だが、そこから先は死守だ。リビングまで広がる前にこいつの鼻が曲がるような腐敗臭を除去する作戦を発動することにした。
来い、と夜石のえりを摑み、ユニットバスへと引っぱり入れる。途中で廊下に、夜石の髪から、服の端から、何か茶色の雫がこぼれてうんざりした。
「ジャージかなんか探してくるからとりあえず風呂入れ」
そう言ってやつを中に押し込めて扉を閉めた。
中からは「お風呂は嫌い」とかいう声が聞こえてきたが、
「嫌いでも入れ。三回は体洗え」
そう怒鳴り返して、俺は引っ越し以来放置してあったダンボールの中を漁った。
もう夏の気配漂う季節とはいえ、あんななりでは風邪を引く。そして一番の問題はこのドブのような匂いだ。せっかく新品壁紙の香しいアパートに引っ越したってのにこれはない。段ボールの奥から、いつだったか実家から送ってくれた新品のジャージ上下を取り出すと、風呂場に戻った。だがもう近づいただけでわかった。つんとくる匂いが漂っていて、やっぱり風呂場の扉は開いていた。
「洗えって――」
「あの廃病院の正体がわかったの」
そう言う夜石の瞳は、疲れきってはいたがわずかに輝いていた。
◯
――ああ、なぜなのか。
俺はユニットバスの洗面台の前に夜石を座らせて、やつの髪にシャワーを浴びせていた。さっきから熱めの湯をだいぶかけまくっているのだが、茶色の水だけが排水溝に流れていく。
どうやら、夜石はまたひとりであの病院に行っていたらしい。目が覚めてすぐのお昼頃に向かったらしいが、いろいろ調べて病院を出るともう六時を回っていて、辺りは真っ暗であったという。そこでペンライトの電池が切れ、夜の山を彷徨ったあげく川に落ちたのだという。
「タクシーとか使えよ」
俺が言うと、夜石は押し黙った。
「……ひょっとして、乗車拒否されたのか?」
「…………」
……まあこんなずぶ濡れじゃ当たり前か。
大方、こいつのことだろうからそのまま延々駅まで歩いて、周囲の奇異を見る眼差しにさらされながらここまで来たのだろう。電車の中に、ずぶ濡れでひとりぽつねんと座る夜石と、その周囲だけ人のいない光景を思い浮かべて俺は溜息をついた。
「いいか、夜石」
俺はやつの髪に湯を当てつつ、年上ならではのアドバイスをしてやった。
「世の中、身なりって大事なんだぞ。人間見た目じゃねえとか言うが、第一印象がいいってのはやっぱ得なんだ。それだけスタートをいい場所から切れるんだ。だから風呂くらい毎日入れ。人の家を訪ねる時もまず普通の時間から来い。今何時だかおまえはまるで気にしてねえだろうから教えてやるけど、今は一時半だ。普通の人間は寝ている時間なんだ」
だが夜石はまるで聞いてないようだった。
長い睫毛を重ねるように目を閉じてどこか気持ち良さそうに顔を横に向けている。
馬鹿馬鹿しくなったが、ようやく茶色の水が透明になりかけたので、俺は夜石の頭全体にぐるぐるとシャンプーをかけ回して指で勢い良くかき混ぜた。見事に泡立ち、たちまちユニットバスにシャンプーの香りが立ちこめた。
「で、あの病院について何がわかったんだ」
そう尋ねると、夜石は目を瞑ったまま言った。
「あそこで起きた事件については、私は無関係だわ」
「それ――ジッポさんの知り合いのことか?」
夜石は、かすかに頷いた。
「じゃあ、おまえが消えたのはどういうことなんだ?」
「それは、話したくない」
……話したくないって。
じゃおまえはなんでまたここに来たんだ?
そう思いながらも、やつの頭を洗い続けていると、
「ネットには、霊がいるのだわ」
夜石は、意味不明な言葉を呟いた。
「自己責任系の怪談を読んだことがある?」
「ここから先は自己責任で読んでください、っていうあれか?」
それはネットで有名な、読んだだけで呪われるって怪談群だった。幾つかパターンがあって、話を知ってしまうと何らかの亡霊に憑かれるとか、意味がわかってしまうと憑かれるとか、そんなやつだ。しかし正直なところ俺はあまり信じていない。
「あんなの作り話だろ?」
俺がそう言うと、そうとばかりも言えないわ、と夜石は語り始めた。
「霊は自分の存在を認知する存在に敏感なの」
その言い回しに、なぜか鳥肌が立った。
「霊の話をしていると霊が集まる。見えているとわかると寄ってくる。そういう話はすべてこの霊の性質に準拠するのだわ。本当に面白い話には違和感があると前に言ったけど――それはそういうことなの。霊に関する事実を正確に記述すると不思議な文章になる。なぜなら、そこに人間では理解しがたい向こう側の真実があるから。だからこそ物語として不完全なものは、ある意味完全なのだわ」
相変わらず、霊の話になると恐ろしく多弁になるやつだった。
「よくわからんが」
とりあえず俺は尋ねた。
「その自己責任系の怪談が、なんであの廃病院の話と繫がるんだよ」
「知ると憑かれるという点において同質だわ」
その言葉で、今度は鳥肌が首筋から足先まで広がった。
つまり、これ以上訊くな、と言いたいらしい。クリシュナさんによく言われる、こちらが覗けば向こうからも見えてしまう、という言葉。本質的には同じことを言っているのに、やはりこいつが言うと迫力が違う。
「とにかく」
夜石は、付け足すように言った。
「精神科に入院した人に関して、私に責任はないわ。それがわかっただけでもよかった」
そう言うと後は再び目を閉じて黙り込んでしまった。
その後はもう何を質問しても答えなくなった。
……つまり、まとめるとこうか。
どうやら、こいつはこいつなりに去年の事件に責任を感じていたのだ。一緒に心霊スポットに行った人間が病院に入るはめになったということ。そしてそこが危険な場所であると自分が知っていたこと。それを止めることは出来なかったとはいえ、それに対する答えを求めてこいつは三たびあの病院を訪れて自分なりに納得したらしかった。
俺としては相変わらずあの病院の正体が知れないわけだったが、幸か不幸かいま俺は忙しかった。夏の入道雲のように泡立つシャンプーで夜石の髪を洗うことに愉悦を感じていた。
何を隠そう、俺は掃除好きだった。汚いものが奇麗になっていくことに堪らない快感を覚えるのだ。周りからは変だとよく言われるが、手強いことで有名な換気扇掃除だって大好きだった。あのこびりついた油汚れをいらない歯ブラシとかで擦っていて、元の地金が見えてきたりするとどうしようもない興奮に包まれる。おまえホントはこんなに奇麗なんだぞーってなもんだ。だからかわからないが、みにくいアヒルの子とかのラスト、アヒルが実は白鳥だったとわかるシーンなんかが俺は好きだ。ヨーロッパの昔話、熊っ皮とか。そういう意味では、汚れに汚れた夜石の頭はある意味挑戦しがいのある頭である。
結局、都合三回もシャンプーをしてしまった。その後、リンスもしてやったが、うちにトリートメントがないことを残念に思うくらい、夜石の髪はつやつやのさらさらになった。タオルを頭の上からかぶせて、がしがしと拭いてやる。
「ほら見ろ。ちゃんと洗えばこんな奇麗になんだぞ」
湯気で曇る正面のガラスをタオルで拭いて、夜石の顔を映し出してやる。
だが鏡越しに夜石と目が合って、俺の方がどきりとした。
濡れた髪で清潔になった夜石は、とんでもなく美少女だった。つやつやの肌に、濃く細くまっすぐな眉は絶妙だったし、その下の大きな黒い瞳も澄んだ夜空のように美しかった。ぼうっとしていただけだろうが、半開きの唇も素晴らしい曲線を描いてる。
こいつまさに――宝の持ち腐れってやつじゃないのか。
だが、夜石は「ありがとう」の代わりに、感情の乏しい口調でこう言った。
「あなた、便利ね」
ふざけんなおまえ、と言おうとした時だ。
ふと何か奇妙な匂いが鼻をついた。ああ、と夜石の濡れた制服を見る。考えたらこいつはまだ泥だらけの服を着ていたのだ。それも脱がせて全部洗ってやりたいがさすがにそこまでは出来ない。
「後は、自分でやれ。そこの石鹼とか使っていいから」
そう立ち上がったが、奇妙な匂いは濃くなっていた。子供の頃、工場近くの川で嗅いだような、魚の腐敗臭。おかしい。ユニットバス内は換気扇をつけているし、少なくとも髪を洗った後で今の今までシャンプーの匂いが立ちこめていたはずなのに――
すると、突然夜石が言った。
「あなた、もしかしてあの病院から何か持出した?」
「……え」
と同時に夜石は立ち上がり、どこかに行こうとして――
吐いた。
また、吐いた。
すぐそばに便器があるってのに、そのまんま床にきらきらとする胃液を吐き出していた。
「おい、こら、夜石!」
そう叫ぼうとした俺はぎょっとした。
湯気でまた曇りかけている鏡に映る、ユニットバスの向こう――
その廊下に青紐のスニーカーが見えた。
足も青白く変色していて、水死体のようにぼろぼろにすり切れていた。
硬直する俺をよそに、突然夜石は叫んだ。
「出て行け!」
叫ぶというより、吼えるような剣幕に俺の方が飛び上がる。
口元からよだれを垂らしたままの夜石は、鏡の向こう――廊下を振り返っていた。
「お、おい、夜石」
俺も恐る恐る夜石の見ている方向に目をやるともうそこには誰もいなかった。
廊下には、夜石が残した雫跡が残っているだけだ。
「あ、おい、ちょっと待て」
だがそのまま止める間もなく、夜石は廊下に這い出ていった。
髪の雫と、服から滴る川の水。それらをまき散らしながらずりずりと勝手にリビングに入っていった。ものの見事に俺の真新しいカーペットを浸食しながら夜石は進む。そして迷うことなく放り投げたままだった俺の鞄にまで行き着き、勝手に中を漁り出していた。
「これ」
鞄からあのノートを取り出すと夜石は俺を見た。
「あなたが持っていたのね」
どう説明してよいかわからず、ただ黙している俺に夜石は言った。
「だから、私はここに着いたのだわ」
4
「おい、これからどこに行けばいいんだ」
必死に自転車をこぎつつ、泣き叫ぶように尋ねると、
「なるべく人の訪れないところに向かって」
夜石は、ママチャリの荷台に腰掛けたままそう返してきた。
やつの手には、新聞紙でぐるぐる巻きにしたあのノートがあった。
「つまり、おまえがあの病院からうちにまっすぐ来たってのは」
「そう――これを追ってきたのだわ」
あれから、すぐに夜石は廊下に併設されたキッチンに走り、卓袱台に置きっぱなしだった、クリシュナさんがくれた神社の粗塩の残りを手にこすりつけていた。洗ったばかりの頭にも濡れたままの服にも振りかける。それから、ものすごい早さで試し読みといって新聞屋が置いていった新聞でノートを包み込んでいった。だが、その表情はやっぱり恍惚としていた。何かヤバいものを封じているようであるのに、その様子は楽しげで俺は逆に事態の深刻さを痛感していた。
「やっぱ、そのノートがヤバいのか」
「これがすべての元なの」
「元? だって、それはただの日記だろ?」
「そう――だけど、みなで意味づけをしてしまったのだわ」
「意味づけって――」
そこで俺はクリシュナさんも似たようなことを言ってたことを思い出した。
「なあ、クリシュナさんに連絡した方がよくないか?」
だが、夜石はにべもなく却下する。
「このノートは、これ以上人の目に触れさせるべきじゃないわ」
その言葉にぞっとしていると、突然夜石は前方を指差した。
「あの角を曲がって」
「え?」
「寄ってほしいところがある」
俺は言われるまま、大通りから途中の細い道へと入った。
そこは小さな商店街だった。夜だから当然すべて閉まっているわけだが、昼間も開いてないんじゃないかと思われるほど寂れた通りだった。街灯はまばらでその灯りは実に頼りない。あえて車の多い大通りを通っていたというのに、どうしてこんなところに入ったのか。
「おい、どこに寄るんだ」
「たしかこの先に神社があるわ」
「そこで封じるのか」
「ううん」
夜石はごく自然に言った。
「注連縄をもらうの」
――しめなわ? もらう?
だがすぐに夜石の言った通り、商店街のどんつきに鳥居が見えてきた。
薄暗い木立に挟まれた細い参道の先に、本殿の明かりが灯っている。
入り口の狭い駐車場に自転車を滑り込ませると同時に、夜石は自転車から飛び降りた。そのまま駆けて鳥居をくぐり抜け、本殿の横にある大銀杏の木にへばりついた。自転車を停めて駆け寄りつつ、俺は慌てて周囲を見回す。
「そんなことして大丈夫なのか」
「呪われるのと神様が怒るの、どちらがいいのかしら」
……どっちも嫌だ。
が、夜石は手で引っ張ったところでらちが明かないと思ったのか、またどこかに走り出す。社務所の横にあった小屋に入り込んで、やがて手に鎌を持って出てきた。そして俺が止める間もなく、見事古く太い注連縄を搔き切った。その間、俺はもうひたすら本殿を拝んでいた。すみませんすみません、こいつ電波なんです。たぶん悪いやつではないと思うんですが電波なんです。
「神様なんていないから安心して」
夜石は左手にノート入りの新聞包み、右手に注連縄を持ってそう言った。
「じゃあなんで注連縄が必要なんだ」
「長い間人々に尊崇されたものはそれだけ力を持つから」
夜石の言うことが理解出来ないのは今に始まったことじゃない。
とにかく、俺はまた自転車に駆け戻る夜石を必死に追いかけた。
二人乗りを完了すると、逃げるようにそこを離れた。
スピードを上げて、旧商店街を大通りに向けて戻る。来た道をそのまま全力で戻る。
だが――
俺は妙な感覚を味わっていた。微妙にさっきの商店街と何かが違うような――そうだ、店の数が増えているような気がした。来た時同様、すべての店のシャッターは閉まっているのだが、数軒にひとつの割合であった店の看板が、ほぼすべての家に取り付けられているような気がした。いや、それだけじゃない。窓の向こうの室内がほのかに明るい。人が起きている気配がある。今にも店が開店しそうな活気がある。
「急いで」
夜石が、俺の耳元で囁いた。
言われなくとも、俺はペダルに力を込めていた。
何かが、ヤバい。俺の周りで奇妙なことが起きている――いや、起き始めている予感があった。
家と家の間、狭い路地に人がいたような気がした。
こちらを覗き見ているような気がしたが、俺はもう振り返ることが出来なかった。通り過ぎた店のシャッターが開く気配がする。にわかに背後が明るくなったような気もしたが、懸命に無視した。ただひたすらこいでこいでこぎまくる。
――返せ。
不意に、そんな声が聞こえた気がした。無数の手が俺たちの背後に迫るのも感じていたが、ごめんなさいごめんなさい、と心で繰り返してひたすら耐えた。もう全身が汗でびっしょりと濡れていた。無限に続くかと思われた商店街の終わりに向けて自転車をかっ飛ばし、大通りに飛び出す。
その瞬間だった。
目映い光が網膜一杯に広がった。けたたましいクラクションも聞こえた。トラックだった。それが俺たちを横から吹き飛ばす勢いで迫っていた。
「う……わわわ」
必死にカーブを切る。だが曲がりきれない。トラックの進行軌道から外れない。
轢かれる――そう思った瞬間、俺の安いママチャリは信じられない運動性能を見せた。時が止まったような感覚の中、俺が振り返ると夜石が思い切りハングオンしていた。長い髪をなびかせ、顔を路面にこすりつけるほど重心を路面側に傾けていた。
「こいで!」
その言葉に我に返った俺は、もう力の限りペダルをこいだ。
両輪ともスリップしまくっていたタイヤは、その瞬間、路面をグリップする。急激に車両のバランスが回復していく。
「ぬおおおお!」
もうタッチの差だった。
再びクラクションを鳴らしたトラックは、俺たちをかすめるように通過していった。
トラックが押しのけた風圧にさらされつつ、そのまま懸命にバランスを保った。しばらくは俺は何も考えられなかったし、夜石も黙っていた。
俺はもう先祖から何から――
知ってる限りの神様に感謝を捧げていた。
◯
破れた金網から中に入ると、そこは雑草の生い茂る湿地だった。
辺りはひたすら暗い。月が雲に隠れるともう互いの顔すらおぼつかなかった。
足下は柔らかく、辺りにはヘドロのような嫌な匂いが充満していた。そこらから虫の音だけが聞こえていた。
そこは、武蔵野の北にある、今は使われていない貯水池だった。
呆然と辺りを見回していると、夜石は口にペンライトをくわえてせっせとそこらの石をノートに挟み、神社から失敬してきた注連縄で縛り付けていた。
「何してんだ?」
「沈めるの」
当たり前のようにそう呟く。
俺はもう一度、正面の暗闇の中のさらに暗い部分――貯水池を見つめた。
三十メートル四方はあるその池は、闇の中静かに佇んでいた。
「なあ」
虫の音が鳴り響く中、俺は尋ねた。
「ホントにそんなことしなきゃダメなのか?」
ライトに照り返された夜石の白い顔が、こちらを向く。
「こいつは関係ないだろ? こいつはただ病気で死んだだけだ。それがどうしてこんな寂しいところに沈められなきゃならないんだ?」
「それはただの感傷だわ」
「おまえ、このノート読んだか? こいつはただ健康な身体を望んだだけだ。それがこんな――」
闇に慣れた俺の眼前には、藻の浮きまくったどろりとした貯水池が広がっていた。
「こんな寂しいところに沈められなきゃなんないのか?」
「闇に落ちたものには、闇に属するものとしての対処が必要だわ」
「……え?」
「すべての犯罪者にだって犯罪に手を染めるに至った経緯がある。親の虐待があったかもしれない。社会的に恵まれない環境のせいかもしれない。心壊れるような悪意にさらされた結果かもしれない。けれどそれで一度でも闇に落ちたのならば、もう戻ることは出来ないの」
手を休めることのない夜石を、俺はただ見つめていた。
どうしたらいい。俺はどうすればいい。夜石は淡々と作業をこなしていた。その動作にはすこしの迷いもない。だが、俺はまたいつしかその細い背中に目を奪われていた。俺には、夜石が夜石自身を縛っているように見えた。汚れた自分を消滅させようとしているように見えた。それは、さっき見た夢――
人間の夜石が、蛇になった夜石を執拗に蹴りつけている光景を思い起こさせた。
「やめろ」
気がついたら、俺は夜石の手を押さえていた。
「他の方法を考えよう」
「他の方法なんてないわ」
「ほら神社とか、霊媒師とかあるだろ」
「そんなものの手に負える代物じゃないわ」
いつもの決めつけるような口調が、この時ばかりはどうしてか我慢出来なかった。
「どうしてそう言える?」
俺は夜石の白い顔を見つめて言った。
「やってみなきゃわかんねえだろ」
「わかるわ」
辺りの闇よりも濃い漆黒の瞳を俺に向けて、夜石は言った。
「一度闇の深さを知った者は、その深さに魅入られてしまうのだから」
俺は言葉を失った。
雨の夜、ダムに消えた小説家のことを思い出した。そんなのどこか物語の中だけのロマンチシズムだと思っていた。ある意味中二的妄想だとも思っていた。しかし、いまこいつの口から吐かれたその言葉には、たやすく否定してはいけない重みがあった。
だが――
だが、と俺は頭を振る。
魅入られて、吞まれて、それでいいのかと俺は問いたい。
闇の正体を知ってどうする。ダムの底に沈んで何がどうなるってんだ。いつか人は必ず死ぬ。闇の正体なんてそん時のお楽しみにしとけばいいじゃねえか。俺だって不思議なことは大好きだ。起こりえないことを眼前にすると世界の深遠さにどきどきとする。けど、それは親父が山の木を切り出す時に山の神さんに祈りを捧げるみたいに、見えない、人間の力を遥かに凌駕する何かの存在――自然といってもいいかもしれない――そいつらに敬意を捧げることと同義なのだ。
俺は、それを母さんに教えてもらった。ガキの頃、いつ起こるかわからない喘息の発作に怯えまくっていた俺は、ある朝、日の出前に起こされて、烏帽子山に連れて行かれた。真っ暗なうちに山に入り、母さんに手を繫がれ、眠い目をこすってひたすら登ったのを覚えている。夜の山はもう足下なんて見えず、訳わかんない動物の声がそこかしこに響くまさしく魔境だった。怖くて母さんの手だけを頼りにほとんど目を瞑って登った。なんで母さんは夜の山に俺を連れ出したのかわからなかった。だが、烏帽子山の頂上に着き、母さんが指差す先から日が昇り始めた瞬間、俺は声にならない声を上げていた。あまねく闇が払われ、世界のすべてを圧倒的な光が染めあげていく光景に、身が震えるような感動を覚えていた。この世界を構成する生物学的奇跡を、俺たちもただ生かされているだけなのだ、と千言に勝る説得力で見せつけられたのだ。
そんな訳わかんないことをぐちゃぐちゃと考えたあげく――
「おまえ、今度、藤枝に来い」
俺は言ってしまっていた。
「そんで早朝の烏帽子山からの光景を見せてやる。それでまだそんな台詞吐けるなら吐いてみろ」
夜石は、すこし驚いたように大きな瞳をより見開いていた。
――ああ。
俺は馬鹿だ。本当の大馬鹿だ。
そうは思ったが、一度口から出てしまったものは取り消せない。
仕方なく、俺は胸を張った。
「そういうことだ」
「あなたの言うことは、まるで論理性に欠けるわ」
夜石は小さく溜息をついてそう言うが、無理もなかろうと思う。
「とにかくこいつはここに沈めない」
俺は夜石からノートを奪い、そのまま抱きしめるように胸に抱えた。
夜石はしばらく黙って俺を見つめていたが、
「好きにすればいいわ」
やがて、そう冷たく言い放つと俺に背を向けて立ち去った。
◯
わかってる。
俺が救いようのない馬鹿でヘタレだということは、嫌になるほどわかってる。
つまり、そういうことだ。案の定、夜石の忠告を無視して再びノートを家に持ち帰った俺の周りでは、一週間もしないうちに、次々と奇妙なことが起きるようになった。
たとえば、ある雨の朝のことだった。
大学に向かうバスの中でそれを見た。
つり革につかまってぼんやりとしていると、すこし離れた場所にそいつはいた。
時代劇に出てくるような、裃姿の男。どこか色彩が薄く、するりと立っていた。藍色の染め着に白い袴というなんとも目立つ格好のわりに、誰もじろじろと見たりしていない。まあ、最近コスプレとか流行っているからな、と俺も目をそらした。しばらくしてバス停が近づいた頃、もう一度そっちに目を向けると、もうそいつはいなくなっていた。降りたのかと思って窓の外を見て仰天した。なぜかそいつは大通り沿いのビルの上にいた。飄々とビルの屋上の柵の上を歩いていた。
また、大学の講義中にこんなことがあった。
ふと、笛の音が聞えた。それはどこか物悲しくも軽妙で、ふわりふわりと風に乗って聞えてくる。風流だなあ、となんとなく聞いていたが、突然気がついた。それは外から聞えているのではない。教室の中、いや、もっと言うと俺のすぐ横から聞えているように思えた。慌てて周りを見回したが、当然のことだが誰も笛なんて吹いていない。つーか、講義中に笛なんか吹いたら、教授に叱責されるに決まっている。早くなる鼓動を押さえ、俺は数回深呼吸した。しかし相変わらず笛の音は聞えていた。それは、メロディを追えるほど大きくなく、されど無視出来るほどの小ささでもない。しかしどこか耳に残る音でいよいよくっきりとしてくる。怖くなって耳を覆った。その瞬間、ぞくり、と背に水を浴びせられたように鳥肌がたつ。まだ、聞える。耳を塞いでいるのに聞える。俺の頭の中で鳴っているのだと気がついた時、叫びそうになる口を押さえ、俺は教室から飛び出した。
昼休みに、大学の奴らと体育館でバスケをしている時にもあった。
ボールをカットし、猛然と敵エリアにドリブルを敢行していると、バスケサークルに所属している敵メンバーの素早いチェックにあった。その時、俺の目の端で誰かが手を上げたのだ。俺はすかさずパスをする。それで、敵のディフェンスを外したはずだった。が、代わりに聞えたのはラインアウトの笛で、俺はチームメイトから何してんだよ、と罵られることとなる。
「あれ? いま、そこに走り込んだよな」
そう訊き返したが、チームメイトの答えは、逆サイドだろ、だった。
首を捻りながらもプレーを続けたが、その試合中、あと二度ほど俺の視界の端にだけいる誰かに向けてパスを出し、味方の顰蹙を買ってしまった。
……なんなんだ。
さすがに異常を感じた俺は、ふらふらと体育館の外に出た。入り口横にある水飲み場まで行き、蛇口を捻って水を思い切り飲んだ。それから横のベンチに腰掛けて、顔をあげた。空は、目に痛いほど晴れ渡っていた。しかし、晴れているのにどこか薄暗い気がした。いつもの見慣れた景色がどこか霞んで見える。古く変色した写真のように、俺とは無縁の世界がそこにあった。俺と俺が住んでいた世界が不意に決別してしまったかのような心細さだけがあった。
「やっぱ、あれのせいなのか」
あのノートはいま俺の家にあるはずだった。
結局再び家に持ち帰ってしまったが、そのままというのも怖いので夜石が持ってた注連縄でぐるぐるに縛り、押し入れの一番奥に押し込んだままだった。それからしばらく何事もなかったから安心していたわけだったが――どこかで俺は気にしているのかもしれない。だからここ最近妙なものを見たような気になっているのかもしれない。
だがその時、ふいに隣に誰かが座った。
俺は無意識に少し詰めてやったのだが――
隣のやつが履いている靴を見て、どくり、と心臓が鳴った。
それは、ぼろぼろのスニーカーだった。青い紐で結ばれ、そいつは素足のまま履いていた。
全身が硬直して、動けなくなった。
どう呼吸をしていたのかも思い出せない。
音が消えて、白く霞んだ世界の中――
俺はただそこに座り続けていた。
「いい天気だな」
無限にも感じる時間が過ぎた頃、その声が聞こえた。
びくりと顔を上げると、そこには語学で一緒の石川の笑顔があった。
お坊ちゃん大学で有名な、典型的なうちの学生といったやつだった。
「大丈夫か?」
「……あ、ああ」
俺の身体は動くようになっていた。そっと横を見るともう誰も座っていなかった。拳をゆっくりと開いて、閉じる。動く。しかし、手のひらには汗がびっしょりと滲んでいた。
「バイト明けか?」
「いや」
「なんか寝てなさそうだな」
ははは、と石川は笑う。常に美味しいバイト、美味しいコンパ、美味しいコネクションを探し出すことにかけて異様な才能を発揮する石川を見ていたら、急に自分が悩んでいることが、ひどく現実感の薄れた馬鹿馬鹿しいものに思えてきた。
「なあ、凪人。聞いてくれよ」
石川はいかにも語りたそうな顔つきで勝手に話し出す。
「こないださ、近くの女子大の子たちと合コンしたんだけどさ。そのうちのひとりがてんでお人好しでよ。勝手に好みのタイプを話し出すから適当に合わせてやったのよ。そしたら向こうから電話番号とか渡してきてさ」
「そうか」
「すこしおかしいよな」
「まあそうかな」
「だけどさ」
石川は、すこし間を置いてから言った。
「ありゃあ、食えるぜ」
その言葉に、ぐっと胃液がこみ上げた。うす汚れた、どろどろの工場廃液に放り込まれたような心地がした。胃が迫り上がるような吐き気に襲われ、俺はそこから駆け出した。
立ち上がる時に見た、石川の顔が何か別のものに見えていた。どす黒い、人以外の何かに見えていた。俺は、いよいよおかしい。とにかくもう限界だ、と思った。
その時、ふと空が陰った。雲が出てきたのかと思って見上げると、空は晴天のままだった。澄んだ青空がどこまでも広がっていた。だが、暗い。俺の周りだけが暗い。そんな錯覚に襲われながら俺は駆け続けた。昼休みのキャンパス内を駆け抜けて、西部室棟へと向かっていた。
夜石と決裂した今、もう頼れるのはひとりしかいなかった。
「クリシュナさん!」
部室の前にたどり着くと、そう言って鉄製の扉を叩いたが、中からは返事がなかった。磨りガラスを覗き込み、耳をすましたが、中には人の気配がない。壁に寄りかかり、ケータイを取り出した。名刺に記載されていたクリシュナさんの携帯電話にかける。繫がるまでの時間が無限のように感じられたが、息を整えつつひたすら待った。
《――もしもし?》
電話の向こうからその声が聞えた時は、涙が出そうになった。
「クリシュナさん、やばいっす」
俺はもうほとんど泣き叫ぶように訴えた。
《どうした? 何があった?》
「俺、なんか憑いてるかもしんないです」
俺は今度こそ、ホントにもう余すことなくすべてを語った。
あの病院からノートを持出したこと。それを黙っていたこと。そして夜石が捨てようとしたのに結局また持ち帰ってしまったこと。そして俺の日常がどんどん希薄になっていくこと。
全部話して、訴えた。
「助けてください」
電話の向こうで、クリシュナさんは押し黙った。
まったく、キミは――そんな言葉をかけられるのを覚悟した。どれだけ説教をされてもいい。罵倒されてもいい。それでも、この人はこれからの対策を瞬時に編み出してくれるはずだった。
《とりあえず、言えるのはね》
やがて、クリシュナさんの声が聞こえてきた。
《わたしには、キミを助けられないってことだ》
「は? どうしてですか?」
《いま青森にいるんだ》
「――はあ?」
そういえば、どこかクリシュナさんの声が遠いような気がしていた。
「ちょ……なんで青森なんか行ってんですか!?」
《背骨の矯正だ》
「なんで背骨の矯正しにわざわざ青森まで――」
《背骨は気道なんだよ。それは話すと長くなるからいい。それより師匠が代わるそうだ》
――師匠?
ああ、そういえばクリシュナさんの師匠筋の人がいるって……その人のとこにいるのか?
俺が忙しく頭の中で状況を整理していると、
《やあ! こんちは》
やけに明るい男の声がした。青森っていうから、恐山のイメージからか、てっきりイタコのばあさんみたいな師匠をイメージしていた俺は、呆気にとられた。
《まず、状況を確認したいんだけど、周囲に水はあるかな》
「水ですか」
見回すと、廊下の果てに手洗い場があった。
「あります」
《よし、まずそこで手を洗いたまえ。それから首筋も》
俺はダッシュでそこまで駆けて、言われたように手と首筋を洗った。
「やりました」
《よろしい。奇麗に拭いたら左の腕を出す》
それも言われた通りにする。
《ゆるく握り、ボクが今から言う経文を七回唱えるんだよ》
必死に頷き、その男が呟くお経みたいな文言を唱和するように七度唱えた。
《やったかい? そうしたら五指のすべてに右手の指で“鬼の字”を書き、息を強く吐きかけ、しかるのち、すぐさま開きたまえ》
訳がわからない。わからないが、従う。
俺の開いた手のひらはうっすら汗ばんでいたが、緊張のためか指がぴくぴくと動いていた。
《――さて》
男の声は、不意に低くなった。
《どの指が震えているかな》
……えーと。
中指が大きく震え、それに合わせるように薬指も震えていた。
中指です、と伝えると、電話の向こうで男は黙り込んだ。
「あの……もしもし?」
……急に黙るな。めちゃくちゃ怖えだろ。
「ちょっと。聞こえてますか? 中指だとなんかまずいんですか?」
叫ぶように尋ねると、電話の向こうから馬鹿明るい声色が響いた。
《アウトぉ!》
…………おい。
◯
《……しもし? もしもし、ナギくん!》
「……ああ、クリシュナさん」
《聞こえてるか? 大丈夫か?》
俺はさっきのアウト、という宣告で一瞬気を失っていたらしい。
手洗い場のシンクに寄りかかるように、倒れ込んでいた。
「……さっきの野郎、どこ行きました?」
今更、怒りがじわじわと沸いてきてそう尋ねると、
《師匠は、今キミのことを霊視してくれている》
クリシュナさんは電話の向こうで言った。
《まあ、写真がないからわたしの知っている限りの情報と方位だけだけどね。何が憑いてて何が原因なのか詳細まで判明するかわからない》
「その師匠って人は信用できるんですか?」
そう尋ねると、クリシュナさんはすこし笑った。
《さあて、あの人は変わり者だからね。しかし、見立てに関しては間違いない。それは保証する》
なんか知らないが、その言い回しにむかむかとした。クリシュナさんが信用していることに対する嫉妬か。それともあいつがてんで他人事のように、アウト、とかふざけた答えを返しやがったことか。わからないが、俺はあの男を信用しないことに決めた。
「で、さっきの指が震えるとかいうあれ、なんなんですか?」
《あれは、『指相識別之大事』という日蓮系の呪法さ。憑いている霊の種類がわかる》
「アウトってどういうことですか」
《師匠も信じられないって言ってたけどね――中指は、普通の霊じゃない》
「普通の霊じゃないって……なんなんですか」
《言うなれば、神さ》
「……は?」
《高神か邪神か――何にしても、ふつうの浮遊霊じゃない》
ちょっと待て。なんでそんなのが憑いてんだ――と言いかけて思い出した。
そういえば、俺は夜石と一緒に夜の神社に忍び込んで注連縄かっぱらったりしてなかったか。だが待ってくれ。あれは俺が切ったんじゃないし、俺は十二分に謝った。謝って許されることじゃないのはわかるがそれにしたってこれはない。
《とにかくこれからすぐに東京に戻る。そっちに着くのは夜になると思うが、それまでの対処法を言うからメモするんだ》
ポケットを探っても何もなかったので、俺は偶然廊下を通りかかって不審者を見るような目つきで怯えていた女子学生に頭を下げて、なんとか紙とペンを借りることにした。
そして、どうぞ、と電話の向こうのクリシュナさんに伝えると、
《まず、あのノートを捨てろ》
そう言われた。
《場所は、人のまず訪れることのない場所。キミが夜石と行ったその貯水池でいい》
だが、俺はことここに及んでもそれには抵抗があった。
「やっぱそれをしないとダメですか」
《キミの気持ちはわからないでもない。けど、それがすべての元なんだ》
「どうしてなんですか? あの子がどうして――」
《恐らく、浮遊する無数の思念体があのノートに引っかかっているんだ》
その言葉で、ばらばらだったいろいろなものが急速に結合していくのを感じた。
《目的を失った霊たちは意味を求めると前に言ったよね? 壁に書かれた文字を誰が書いたのかは今となってはわからない。けどふたつの文が言霊として意味を持ったために、すべてが起きている可能性が高い》
――そうか。そうだったのか。
だから、夜石はあれを捨てようとして――
クリシュナさんは、文字はまずい、と言っていたのか。
だが。
だが、俺はすぐそこまで出かかる、嫌だ、という言葉を吞み込むのに必死だった。
あいつは、俺だ。ただ苦しかっただけだ。助けてほしかっただけだ。退院してみんなと同じように遊んだり跳ね回ったり笑ったりしたかっただけなのだ。
《ナギくん、聞け。その子はもう死んでいる》
クリシュナさんは囁くように言った。
《もう、この世にいないんだ。キミがその少年に同情しているかぎり、キミに降り掛かる霊障を除くことは出来ないんだぞ》
俺は。
俺は。
俺は――
何か言い返そうとして、それに気がついた。さっき震えた左の手をゆっくりと開く。震え続ける中指以上に、薬指の震えが激しくなっていた。
「あの、クリシュナさん」
電話の向こうに俺は震え声で伝えた。
「なんか、薬指もすごく震えているんすけど」
《――は?》
「これって」
そこまで言った時、ケータイが混線した。
不意に、ゴポゴポという水面に気泡が浮かぶような音が受話口から聞えた。
「あれ……? もしもし?」
《も……もし……?》
どこか遠くで、クリシュナさんの声が聞える。だが、そこからはまるで会話にならなかった。
ノイズ音に、気泡の音。それに混じって何か低い声のようなものも聞えた。無数の人間の声が重なりあって――
《聞くな!》
不意にクリシュナさんが向こうで叫んだ。
「き、聞くなってどーすりゃいいんですか」
そこで唐突に電話は切れた。
「く、クリシュナさん?」
何度もリダイアルしてみたが、電話は繫がらなくなった。
5
……どうすりゃいいんだ。
日が暮れてきて、必死に日差しにすがるようにしていた俺はいよいよ居場所を失った。
とにかく人のいる所――人の大勢いる、賑やかな所――
ふらふらと、いつしか俺は、中庭に面した大講堂へと足を向けていた。
しかし――
講堂の入り口のガラス扉の前で、俺の足は止まった。
教室の中には、スリ鉢状の席につく百数十名の学生たちと、その中央の教壇で黒板に板書する教授がいた。さらさらとノートをとる音がする。かつかつと黒板にチョークを刻む音がする。講堂には、やるべきことをやっている静かな熱気だけがあった。
俺は、中に入れなかった。
自分が情けなかった。どうしようもない親不孝ものだ、と髪を摑んだ。実家に無理いって姉貴に借金までして東京にいる俺。学費を支払うのだって、今のうちの状態じゃそんなに楽なことじゃないだろう。それなのに、俺はいったい何をしているのか。オカルトにうつつを抜かして、やめとけと言われた場所に行って、すべて中途半端で放り投げて、何かに取り憑かれている。馬鹿が馬鹿としてひたすら馬鹿馬鹿しく生きているだけだ。
今ならまだ戻れるだろうか。
俺は、まだ正しい場所に戻れるのだろうか。
夜石の言う通り、そしてクリシュナさんが言うように、ノートを捨てればいいのだろう。だが、俺の中の意地を張ったガキ成分がノートを捨てることを頑に拒否している。どうしてもそれが正しいことであると思えないと叫んでいる。ノートなんか捨てようと思うのも俺で、捨てないと言い張るのも俺で、いまここで呆然としているのも俺だった。そんな幾つもの俺に板挟みになって苦しんでいるのも俺で、あげくいろいろな人に迷惑をかけ、どんどん歩むべき道から遠ざかっているのも俺だった。幾つもの俺が頭の中で壮絶な殺し合いを繰り広げる。俺が俺を殴り俺を刺し、引き裂き、引きちぎる。暴風のような戦いが続き、やがてすべての俺は死ぬ。その結果、俺の足は止まり、思考が止まり、誰でもなくなった俺は呆然と教室を見つめ――そこに、俺の知らない俺を見つけた。
いつも俺が座っている席――前から五列目の右端。
そこには、俺が座っていた。
何食わぬ顔で、退屈そうに講義を受けていた。
その瞬間、俺の中で何かが音を立てて崩れていった。
――逆なんじゃないのか。
――俺が幽霊で、あいつがホンモノなんじゃないのか。
もう、目に映る何もかもがリアルに感じられなくなっていた。俺だけが、完成している映画に後から合成された存在である気がした。俺の常識なんてほんの細い糸でこの世界と繫がっているだけなのだ。ささいなことで切れてしまうのだ。ジッポさんの知り合いがそうであったように、ある日突然糸が切れて、戻って来れなくなるのだ。
ふらふらと講堂から離れて、いつしか近くのベンチに腰掛けていた。
両手で髪の毛を摑むように頭を抱える。どこか雑音のように遠くで車の音が聞え、目の前の花壇も掲示板も暗い木々も、まるで作り物の大道具のように見えていた。
当たり前にあった場所が、常識が、ある日消滅する。
それがどれだけ怖いことかやっとわかった。価値観が揺らぐ。立っている位置がわからなくなる。自分が完全に無意味だと思い知らされる。そんな時、涙なんか出ない。無意味だからだ。無意味な者が無意味なものを流して何になるのだろう? 虚無が生むものは、虚無だけなのだ。
――怖いってどんな気持ち?
夜石は以前、訊いてきた。
夜石、わかった。
怖いってのは、これだ。自分の居場所を無くすことだ。
――これだ。
そう頭を上げた時、目の前に白い顔があった。
美鶴木夜石が、黒く長い髪を風になびかせ、大きな瞳で俺を見ていた。
「このままでは、あなたは死ぬわ」
夕暮れの大学のキャンパスに、制服姿の女子高生は目立つ。
帰路に就く大学生たちは、みなこちらを見つめながら歩き去っていた。
「そんなに苦しんでまで――なぜ、あなたは人の闇を背負おうとするの?」
夜石のガラス玉のような瞳には、しかし、いつもの空虚さはなかった。
そこには、“恐怖”以外の何かを知ろうとする光があった。
「どうしてって……」
どうしてだろう。わからない。つーかわからないから俺は苦しんでいるのだ。いまそんな質問されて答えられるわけがない。なので、わからないままに俺は口走っていた。
「……それが、普通じゃないのか」
「――え?」
「そこに重いもんを持っているやつがいたら……普通、手伝うだろ?」
「それが、あなたの手に負えないような荷物でも?」
その質問に言葉が詰まった。
わからない。だから、俺はいろいろなものに手を出してすべて中途半端に放置しているのだ。だったら手を出さなきゃよかったのか? そうなのか?
「手に負えない荷物――か、くそ」
俺は、髪をがしがしと搔きむしって答えた。
「俺だって手当り次第に手を出してるわけじゃない。そこには基準があって――」
「基準って?」
「だから、俺がそれを自然にしちまうとしたら――それは、友達だけだ」
その言葉を口にして、自分で驚いた。
死んだ少年は正確に言えば、友達ではない。もちろん顔も知らないし話したこともない。だが、確かに俺はあいつと同じ痛みを共有していた。同じ苦しみの中にいた。幼児期、死というものを常に間近に感じていた俺にとって、その少年の願いは他人事じゃない。ぼくのびょうきをなおしてください。最初にあのノートのあの文字を目にした時、俺は心の中でこう呟いていた。
――俺にはどうすることも出来ないが、一緒にいてやる、と。
だから、俺はあのノートをあそこから持出したのだ。直接治すことが出来ない俺の母親が、発作が終わるまで何時間でも手を握ってくれていたように。あの手が恐怖という海の真っただ中にいた俺にとって唯一の港であったように。たったひとりでもそばに味方がいるだけで、人は人たりえることを教えてやりたかったのだ。
「――馬鹿だなあ、俺は」
いつしか、ぽたぽたと涙がこぼれ落ち――
「馬鹿だなあ」と俺は繰り返していた。
「確かに、論理的じゃないわ」
夜石はそう静かに呟くと、その場で突然ケータイをポケットから取り出した。
どこかに電話をするのかと思ったら、もの凄い勢いで指を動かし始めた。
誰かにメールかと思ったが、ボタンを押す速度が半端じゃない。まばたきひとつせずに親指打鍵する夜石は、壊れて同じ動作をひたすら繰り返すからくり人形のようだった。うっすらと額に浮かぶ汗に揃えた前髪がくっつき、両足を軽く開いて、そのまま根が生えたように微動だにさせない。親指だけが高速で蠢いていた。
俺が呆然と見つめる中――
なんとそれは、一時間近く続いた。
辺りは完全に闇に包まれ、時折見回りの警備員が近づいてきたが、俺は「待ってやってください」と頭を下げた。それくらいやつの指先には切実さがこもっていた。
永遠に続くかと思われたその打鍵作業は、唐突に終わった。
同時に、夜石の四肢に漲っていた尋常ならざる集中力と緊張感は急速に失われる。夜石は、その場にふわりと崩れ――俺は慌ててその身体を支えた。その時初めて、こいつがとんでもなく軽いことを知った。
「おい、大丈夫か?」
そう声をかけると、夜石はかすかに頷いた。
「……おまえはいったい何をしていたんだ?」
だがそれには答えず、気持ちいい、なんてそんな訳のわからないことを夜石は呟いた。
「でも、これですべて解決するはず」
その台詞を最後に――
夜石は、白目を向いて気を失った。
◯
「無事か?」
その日の夜遅くだった。
俺のアパートに飛び込んでくるなりクリシュナさんはそう叫んだが、中で夜石が俺の布団で寝ているのを目の当たりにすると、途端に口をぱくぱくとさせ始めた。
「あ……お……キミ」
「……はい?」
「キミは、ついに女子高生を……ありえないだろ! 男の一人暮らしの住居にいたいけな女子高生を招き入れてどうしようっていうんだ! しかも、ふ、ふ、布団で寝てるじゃないか!」
なぜか猛烈に顔を赤くして、そう怒鳴りつけられた。
ひょっとすると、この人異常に下系のネタに弱いのかもしれない。
「まあまあクリシュナちゃん、落ち着いて」
そこに入ってきてくれたのは、鴉さんだった。
夜石の額に置かれた濡れたタオルを交換しつつ、説明してくれた。
「たまたま荷物取りにきてたらさ、ナギくんがこの子背負って涙目で倒れた倒れたって大騒ぎ。んで、見たらこの子すごい熱だったわけ。あたしの部屋は倉庫化してて布団なんかなかったからさ、だからここで薬飲ませて、寝かせてるわけ」
そういうわけです、と俺は正座したまま目でクリシュナさんの故無き非道を責めた。
「そ、そうか――すまない。で、キミは平気なのか」
そう言って、クリシュナさんはでかい旅行鞄を部屋の隅に置き、俺を見た。肩から頭の先から微妙に輪郭の外れたところを眺め回す。
「わかんないんすけど……夜石はすべて解決するって言ってました」
「なんだと?」
「いつもこいつのやることはよく理解出来ませんけど、今回は特別理解出来ないです」
クリシュナさんは、へなへなとその場に座り込んで溜息をついた。よほど急いで青森から帰ってきたのだろう。脱力っぷりが哀れである。
「すみません、いろいろと。また迷惑かけちまいました」
俺がそう深く頭を下げると、まったくさ、と毒づかれた。
「あれから大変だったんだぞ。キミのケータイは繫がらないし、こっちのケータイにまで受話障害が残るし――とにかくね、師匠が言ってたことを伝える。キミの霊視の結果だ」
大きな鞄から分厚い手帳を取り出すと、クリシュナさんはそれを読み上げた。
「まず――『指相識別之大事』の結果、キミは中指が震えたと言った。中指はこないだ電話で話した通り、高神か邪神なんだが、その後キミは、薬指も動いた、と言ったね? あれをもう少し早く聞いていれば対応も変わっていた」
「どういうことですか?」
「薬指は、生霊を指す」
「……は?」
いや、ちょっと待て。
生霊ってあれか? 妬みや恨みなんかが霊体になったとかいう……
「そう、その生霊。飛ばした本人も自覚のない、実にやっかいな霊障」
淡々と説明するクリシュナさんだったが、俺としては納得がいかない。
「つまり、あれですよね? 俺がこんな目に合ってるのに、生霊を飛ばしてやがったそいつは、毎日のほほん、と暮らしてやがるってわけですよね?」
「まあ、そうだね」
瞬時に頭に血が上った。ここまで恐怖や絶望感のどんぞこを味わわされてきた俺としては、言い様のない怒りが込み上げる。
「どこのどいつですか、それ? マジでぶっ飛ばしてやる」
勢い込んでそう言うと、クリシュナさんは、それは難儀だな、と肩をすくめてみせた。
「キミは、日本中に散らばるオカルト好きを殴って歩くかい?」
「…………に、日本中?」
「まあ正確に言うならば、東京近郊在住者がほとんどかな。あの“願いの叶う病院”は東京ローカルで異常に広まってるから。つまり、いいかげんな情報を真に受けてあの病院の願いが叶うという都市伝説に希望を感じている者たち――彼らの願いが生霊となり、結合してあの病院に巣くうとんでもなく大きな霊体となってしまっているんだ」
「じゃあ、俺が見たあの裃姿のやつは――」
「多分、浮遊する霊体のひとつだろう。結合した霊体同士において、一番記憶を残すものがその上位に当るから。前に目的を失った霊体は浮遊すると言ったけど、つまり、今回の事件の真犯人はその巨大な生霊さ。結合して大きくなった浮遊霊と生霊がさらに結合して、“願いが叶う”都市伝説という磁場に留まり、ほとんど神レベルの精神体となったということなんだ」
絶句する俺に、クリシュナさんは次のページを開いて読み上げた。
「そして、そこにもうひとつ。生霊を増幅させるある装置が絡んでいる」
「装置?」
「ネットさ」
クリシュナさんは中指で赤い眼鏡を押し上げて、俺を見つめた。
「ああ、実にくだらないね――ネットにおける、あの病院を巡る馬鹿騒ぎは。病院の何かを元に戻しただけで願い事なんて叶うわけがないし、誰も願い事なんて叶っていなかったんだ。しかもあれだけ念の集まる場所だ。霊障のひとつやふたつはあっただろう。自己中心的な願いを叶えにあの場所に赴いて、代わりにひどい目に合う。そんな時、人間はどうすると思う?」
「……最悪だ」
やっとすべてが繫がった。
ひたすら期待の念が膨れ上がる。怖い思いをしてその場所に赴く。だが、何も起きない。願いごとなんて叶わない。俺ならそんな噂を信じた自分を恥じるが――自分だけが騙されてなるものか、と思うやつもいるかもしれない。
「そう――そんなどろどろで救いがたい不幸の手紙形式の悪意。歪んだ欲望は悪意という形に変質し、またさらに邪な思いを呼ぶ。“願いの叶う病院”という都市伝説はこうして生まれてしまったんだ」
だから、夜石はくだらない、と言ったのか。
ネットには霊が住む、なんて言っていたのか。
――と、そこまでは理解出来たが、その時そもそもの謎がまだ立ちはだかっていることに気がついた。去年のあの病院の事件だ。夜石だけが皆からはぐれたのに、夜石は皆と一緒にいたという記憶の乖離。それはどう説明がつくというのだろう。
俺がそのことを尋ねると、クリシュナさんはどこか俺をいぶかしむような顔をした。恐らく、俺の疲弊した精神を心配したのだろう。だが、俺は頼んだ。
「教えてくださいよ。ていうか、その謎が解けないと俺は自分の中に膨れ上がる妄想でショック死しちゃいますって!」
「うん、まあ……そうかもな。キミは非常に妄想癖に長けているようだから」
そんな名誉毀損的発言をした後、クリシュナさんは説明してくれた。
「簡単さ。夜石が一緒にいた連中がすべて生霊であっただけなのだから」
その言葉に、ぞくりとした。
あのどこまでも続く暗闇で――
嬉々として邪な妄想を抱く生霊たちと歩く夜石が、思い浮かべられた。
「おそらく夜石以外のメンバーは、願いを叶える為にそこに赴いたんだろう。つまり彼らはあの壁の文字を見た瞬間、どうすれば願いが叶うかと思った。その望みを強く心に描いた。それを夜石は見たのだと思う」
それからホントに羨ましそうな顔つきで、クリシュナさんは眠る夜石を見た。
「この子には、恐らく霊が見えている」
「じゃあジッポさんの知り合いが、よいし、としか呟かなくなったのは――」
「生霊なんて、自分以外の誰にも知られたくないどろどろとしたエゴの塊さ。そんなものをこの子にあの状況で囁かれてみろ」
この間、部室で聞いたクリシュナさんの言葉を思い出す。
夜石は、軽々と境界を超える。
夜石の言動は、人が知ってはならないものを含んでいる。
だからこそあいつの言葉は、俺たち此岸に住むものを揺るがすのだ。
運良く俺はまだ此岸に立っているが――
この世の境界ぎりぎりのところから戻って来れなくなる可能性はいつだってある。
そして、ジッポさんの知り合いは戻って来れなかったのだ。
「とにかく――」
クリシュナさんは、おかっぱ頭をかきながら呟いた。
「今回の件は、わたしたちも自戒しなくてはならないね。時間をかけて変質・熟成されていく昔の怪談に比べて、今の都市伝説はネットを介して急速に広まり、ある時、劇的に化学変化を起こす。そこに根っこなんかありゃしない。誰かの無責任な書き込みが連鎖して影響し合って磁場を作り上げてしまう。本物を引き寄せてしまうんだ。ソースも何もない闇の部分がオカルトの醍醐味だからある意味必然とも言えるけど――ただでさえ集まってしまう場所に、シンボルが出現してしまったのがすべての始まりさ」
「それが、あのノートの言葉ですか」
俺が尋ねると、クリシュナさんはすこし悲しげに頷いた。
「それだけ、その子の思いは切実だったんだろう」
――ぼくのびょうきをなおしてください。
あのつたない文字が目蓋の裏に蘇った。
外で遊びたい、退院したい、学校に行きたい、思い切り食べたい、ゲームがしたい。
あいつは最後の最後に、そのすべての望みをそこに帰結したのだ。
「純粋にして力を持つ言葉――昔の日本人は、それを言霊と呼んだんだ」
クリシュナさんは最後にそう締めくくった。
俺の部屋を沈黙が満たし、小さく冷蔵庫の作動音だけが響いていた。
「だけどさ」
そこまで無言で俺たちの話を聞いていた鴉さんが口を開いた。
「もうホントに全部、何もかも、解決なの?」
……それだ。
実のところ、俺もそれが気になっていた。だいたい神レベルなんていう霊体を祓うことなんて出来るのか。夜石はいったいあの時ケータイで何をしていたのか。気を失う寸前のあの満足そうな表情と、気持ちいい、という言葉がどこか気になる。
確かにね、とクリシュナさんは、死んだように眠る夜石の白い顔に目を落とす。
「この子は、すべて解決する、と言ったんだね?」
「はい」
「ふん」
ずり落ちかけた眼鏡を押し上げ、クリシュナさんは鼻を鳴らした。
「まあ、様子をみよう。実際、今のキミにはそれほど多くの気配を感じないし、美鶴木夜石がそれをどうやって祓ったのか個人的にはとても興味がある」
俺も、今日はこれ以上複雑なことに考えを巡らすには疲れすぎていた。まだ身体中が痛いし、重いし、頭の中はすっきりと晴れたわけじゃない。いますぐ泥のように眠りたかった。
「ナギくん、寝るならあたしの部屋使っていいよ」
安心したせいか、あくびを嚙み殺した俺に、鴉さんが笑った。
「女子高生と一緒じゃキミももてあましちゃうでしょ? 若さを」
な、な、何言ってんですか。
そんな言葉が飛び出しかかったが、実際に口にしたのはクリシュナさんだった。
「だっダメだぞ、ナギくん! そんな……破廉恥な……そんなの絶対ダメだダメだ」
顔を真っ赤にしてじたばたと喚くクリシュナさんを、鴉さんは軽くいなして夜石の横に座り込んだ。そして、額のタオルを引っくり返すと微笑んだ。
「そっか――この子が、夜石なんだ。寝顔はかわいいのにね」
どこかうっとりとそう呟く鴉さんだったが――
まあ、そこらにゲロ吐かないで風呂も毎日入ってくれれば、俺も同意である。
「じゃあ、俺はお言葉に甘えて」
そう言って立ち上がった時だった。
「ナギくん」
俺の背に、クリシュナさんの声がかかった。
「キミは、充分彼に尽くしたよ」
「…………」
「あのノートはわたしが責任をもってしかるべきところで供養する。けして粗末に扱わない。いいね?」
なぜか突然涙が出そうになって――
俺は顔を背けたまま、何度も頷いた。
◯
それから、俺の身体は日に日に軽くなっていった。
妙なこともあれきり起きなくなった。裃姿のやつも見ない。笛の音も聞えない。不気味な人の気配もしない。何より世界が飛び跳ねたくなるほど鮮やかだ。
そんなある日、すっかり元気を取り戻した俺は、西部室棟のクリシュナさんのところに向かう途中で付属高校の正門前を通りかかった。帰路につく高校生たちを見て、ふと夜石のことを思い出した。
あいつは次の日の朝、俺が鴉さんの荷物置き場から部屋に戻るともういなかった。手紙も何もなかったが、またちゃんと布団だけは畳まれていた。恐る恐る枕の匂いを嗅いだが、うちのシャンプーの匂いがかすかに残っているだけだった。それきりもう会っていなかった。
――何にしても、一言礼を言っておくか。
そう思った俺は、夜石が出てくるのを待ったが、あいつはなかなか出てこなかった。しびれを切らして適当に高校生に声をかけて、美鶴木夜石について訊くと、
「あの子はまた図書館だと思う」
と言われた。どうも学校にはほとんど来ない問題児らしい。おまけにどの生徒も、関わりたくない、というオーラを発していて、普段のあいつが思いやられた。
で、俺はここからチャリで五分もかからない市立図書館へと急いだ。
受付をくぐり抜け、閲覧席を順に覗いていくと一番奥の窓際で制服姿の夜石を見つけた。何か分厚い本を見つめてうっとりとしていた。
「よう、何読んでんだよ」
そう声をかけると、夜石は顔も上げずに答えた。
「キュルテンの手記」
「誰だよ、それ。小説家か?」
やつの正面の席についてそう尋ねると、夜石は首を振った。
「ドイツの有名な殺人鬼よ。あまりに異常すぎる殺人であったために、本人の自供を待たずして逮捕できなかった人」
俺が呆気にとられていると、夜石はどこか恍惚とした表情で続けた。
「殺す、という行為の途中で射精するキュルテンのオルガスムスはとても興味深いわ」
ちょいと覗くと、それは、目を背けたくなるようなモノクロの写真が満載の薄気味悪い本だった。
「まあ、いい」
俺はひとつ咳払いして、本題に入った。
「おまえが何をしてくれたのかわからんが、今はもう身体が軽い。妙なやつも見なくなった。あのノートもクリシュナさんが処分してくれた。とにかく、いろいろと助かった、ありがとな」
そう頭を下げると、
「それはよかった」
そんな言葉だけを呟いて、夜石は本と鞄を手に立ち上がった。
本を丁寧に書棚に返すと、そのまま出口に歩き去っていく。
――で、おまえはいったい何をしたんだ。
その言葉がそこまで出かかる俺だったが、さすがに今回は自重した。クリシュナさんは俺に学習能力がないなんて言うが、そんなことはない。俺にだって成長する余地はある。ここから先は俺には無理だ、という領域がこの世にあるということ。俺は、今回痛く学んだ。だから、ぐっとこらえ、ただ、立ち去る夜石の背中を見送った。
ところが、数メートル先で、何かを思い出したように夜石は振り向いた。
俺の近くまで戻ってくると、顔を寄せ、そっと耳元で囁くように言った。
「あの廃病院関連のサイトは、しばらく見ないほうがいいわ」
「……は?」
「じゃあ」
そのまま、歩き去ってしまった。
しばらく呆然とその背中を見送っていた俺だったが――
体内のどこかでぐわぐわと沸き上がる、異常な好奇心を感じていた。
いや、ちょっと待て、これはダメだ。行くなと言われれば行ってしまうのが俺なのだ。子供の頃からのどうしようもない習性なのだ。そして、そのことごとくでやっぱりやめときゃよかったと泣きを見るはめになるのはわかっているのだが――いつしか俺はポケットからケータイを取り出してしまっていた。少しだけ。ちょびっとだけ覗いてみて、それでヤバそうなら撤退すればいいんじゃないか。そう自分を納得させていた。
すぐにネットにアクセスして、適当に『八王子』『廃病院』『願い』で検索をかけてみた。幾つもかつて覗いたページが表示されて、とりあえずそこからトップ検索されたサイトを開いてみる。
が――
「……なんだ、こりゃ」
驚いて、他のサイトにも飛んでみた。
「……同じだ」
どのサイトも、異常な分量の書き込みを最後に更新が途絶えていた。書き込まれた日にちは、ちょうど一週間前だ。時刻も夜石が何かケータイで打ち込んでいた時間と一致する。
「あいつがこれ書き込んだのか?」
恐る恐る、その文章を読んでみた。
そしてその冒頭の文章で、俺は即座に理解した。
それは、とある有名な書き出しで始まっていたのだ。
【この話は自己責任で読んでください。それだけは了承してから進んでください】
ネットで有名な自己責任系と呼ばれる怪談話。
読んだだけで霊障があると言われ、結末がいまいち謎な薄気味悪い話だ。文字列の中に、霊を呼ぶ呪法が隠されているとか、守護霊を去らせる韻が踏まれているとかいうウワサもある。そいつが書き込まれていた。
読み進めて、すぐ悟った。それは、誰がどう読んでもあの『廃病院』についての話としか読めない内容になっていた。
「……なるほど、うまいこと考えたな」
『廃病院』を巡る欲の念を消すには、タブー化すればよいのだ。
それは、『廃病院』に惹かれた少女が徐々に狂気の世界に足を踏み入れていく話だった。
序盤から一気に惹き込まれた。文章は鬼気迫り、徐々に人格が崩壊していく描写が凄まじかった。どこか傾いた情景描写が妙にリアルで、あいつが言ってた本物の怪談には違和感があるという言葉通り、その文章のどこもかしこも居心地の悪さで溢れていた。夜石のやつ、こんな文章が書けるのか。そう驚くと同時に、結末がすごく気になった。
いつしか俺は、夕闇迫る図書館で、ケータイを抱き抱えるように読みふけってしまっていた。崩壊していく精神を表わすためか、徐々にひらがなが多用されていくのがまた怖い。まるでアルジャーノンじゃねえか。そう思いながらも、息を止めて文字を目で追う。寒気がするのも構わずに読みふけった。そして、いよいよ、少女が運命に導かれ再び病院の地下に降りたところで――
急に、ケータイの画面が隠された。
顔を上げると、いつしか戻ってきた夜石が手を伸ばしている。
そして、冥く深遠な瞳を俺に向けて――
「最後まで、読まないほうがいい」
それは、ここ数日で一番ぞっとする言葉だった。