フェノメノ
case:02「自己責任系」 願〜wish
一肇 Illustration/安倍吉俊
注目の新鋭・一肇があの安倍吉俊とタッグを組んで『最前線』に登場! ーーそれは、ありとあらゆる怪異(ミステリー)を詰め込んだ青春怪異小説(ホラー)。
case:02 「自己責任系」 願〜wish
1
――暗闇とは、水のようにぬるく水のように底知れない。
そんな言葉を残したのは、『バームクーヘンの絶望』という恐らくは唯一の日本語訳作品を残したアメリカの推理作家だ。高校の図書室にあったその本はマジで面白かった。普段本なんかあまり読まない俺が言うのだから間違いない。すこし傾いた世界観をどこかコミカルに描くその筆致は、俺にページをめくる手が止まらないという貴重な体験をもたらしてくれた。他の作品も読んでみようと思ったが、図書室にはもうその作者の本はなかった。東京に出てきてからも本屋でその人の著作を探したものだが、やはりどこにも見当たらなかった。日本語訳されたものがあの一冊だけであるとわかったのはその頃で、しかし、同時に残念なことも知ってしまった。
俺が高校の図書室でその本を読んでいたちょうどその頃――遠くアメリカで、その作家は酒に酔ってダムに落ちて死んでいたのだ。
それは雨の夜だったという。自殺とも事故死とも言われたらしいが、あの本を読んだ俺としては、彼が死ぬ直前に立っていた夜のダムに思いを寄せてしまう。
ただ冥く、満々と張った底知れない大量の水。
もしかして彼は、闇の深さを知る欲望に勝てなかったのではないか。
そんなことを思い出しつつ――
俺は、その底知れない暗闇の真っただ中にいた。
確かに、闇は水のようだった。
ぬるくまとわりつくようで、ペンライト程度の中途半端な光などたちまちに吞み込もうと覆いかぶさってくる。月も雲に隠れた山の中の廃病院ともなればなおさらだった。
「なあ、そろそろ戻らないか?」
その声が幾分震えていたことは否めない。
「――な、戻ろうぜ? ほら、割れたガラスも危ないし、コンクリだって崩れてる。それに手加減知らずのDQNだっているかもしれない」
そう思いつく限りの退去理由を並べ立てたわけだが。
「安全な心霊スポットなんて、この世に存在しないわ」
美鶴木夜石は、いつもの何の感情も窺わせない口調でそう呟いた。
ペンライト片手に進む夜石は、制服姿のままだった。
闇に半ば溶け込む、黒のタイと白いブラウスという高校の夏服は、どうにも倒錯した映画のワンシーンのように思えてしまう。場所が場所じゃなければ楽しいイベントなのかもしれないが、無表情のやたら整った顔立ちはかえって怖い。
時刻は、深夜二時を過ぎていた。
俺と美鶴木夜石は、八王子の山奥にある廃病院を訪れていた。
窓ガラスは割れてリノリウムの床に散らばり、カルテの残骸がその上に覆いかぶさっている。はがれかかった壁のポスターが斜めに垂れ下がっていて、ペンライトを当てれば、まるで血まみれの女が手招きしているように見えた。何と言っても最悪なのは、ここには俺たちの他誰もいないはずなのに、そこら中に人の気配が色濃く漂ってるってことだ。
「もともとこの廃病院には幾つも怪奇談があったの」
夜石のその楽しげな呟きは、周囲の気温をぐっと下げた。
「電気が通っているわけでもないのに、地下室から低い機械音が聞こえるとか、女の看護師の亡霊が彷徨うとか、誰も乗っていない車椅子が追いかけ回してくるとか」
「おいやめろよ、こんなとこで」
「でも、そんなありふれた話の中にひとつだけ面白い噂があった」
闇の中に響く夜石の声色には、生気が漲っていた。
「それは、訪れた人たちの人数が変わる、という話だわ」
「人数が――変わる?」
俺は訊き返した。
「それってそんなに変わった話か? 四人で行ったのにいつしか五人に増えてるって話だろ? そんなの俺でもよく聞く話だぞ」
そう指摘すると、逆なの、と夜石はどこか嬉しげに呟いた。
「私が聞いたのは、人数が減るという話だわ」
にわかに話が奇妙な方向に傾き始めた気がして、俺は身構えた。
「四人ならば、三人。五人ならば四人に。そして病院にいる間、メンバーはあいつはどこに行った、と騒ぎになるのだけど、病院から出てくると全員が揃っている」
暗闇のどこかで何か、ぱきん、と音が聞こえた気がした。
そういえば、さっきからずいぶん周りで俺たち以外の音が聞こえるような気がする。
「この話の面白いところは、認識の違いだわ。姿を消していた人間に話を訊くと、病院内にいる間ずっと皆と一緒にいたと言う。しかし他の人間たちはその人間はその場にいなかったと口を揃える。だとすると、この行方が知れなかった人はどこにいたのか。誰といたのか」
どんどん気温が下がっているような気がした。
不意に俺は自分のいるところがわからなくなった。今立っている箇所にはコンクリの床があるはずなのに、深い闇だけがあるような気がした。そして今俺が話しているのが夜石であるのか、自信が持てなくなっていた。
ああ、なんでこんなところに来てしまったのか。
あれほど懲りたはずなのにどうしてこいつとまたこんなことをしているのか。
前回の経験で俺は知ったはずだった。こいつの声や瞳に生気が漲り始めると、何かがぎゅるっとずれるのだ。俺の周囲を包む常識という壁がどこかで破れる音がして、その破れた穴の先に棲むやつらがぬるぬると侵入してくる気配を感じるのだ。
ためらいもなく先に進む夜石の背中と、自分の足下に交互にライトを当てながら――
俺はもう、すっかり涙目になっていた。
【禁断の心霊スポットの場所がついに判明!】
そもそもは、オカルトサイト『異界ヶ淵』に立ったそんなスレッドが始まりだった。
このスレ自体は、管理人のクリシュナさんによってすぐに削除されたわけだが、幸か不幸か、俺はたまたまその時その掲示板を見てしまった。そして、その中の幾つかの記述に注目した。
・八王子の山奥。
・廃業した病院。
・ここを訪れた人間は今でも精神科に入院している。
そんで思い出した。前のオフ会で話題になった、かつて夜石のやつが参加したという心霊スポット探索オフのことだ。たしかそこは廃病院だったといっていた。んで、その時そこで何かが起こり、そのオフの参加者のひとりは「よいし」としか呟かなくなり、今も精神科に入院しているという話だった。もともと電波な発言をネットで垂れ流していた美鶴木夜石は、この事件を機に「呪われた存在」として認識されてしまった。そしてここ数週間の間に、夜石を巡る噂はいよいよ加速して、いまやすっかりネットではリアル貞子状態なのだった。
出逢えば、七日後に死ぬ。
会話を交わしただけでも、呪われる。
その容姿も勝手に喧伝され、片腕の男だとか、血まみれの女だとかとどまるところを知らない。俺はいいかげんそんな適当な噂にうんざりしていた。
前回多少なりとも夜石の世話になっていた俺は、夜石がネットで言われるほどの化物じみたやつではないと思い始めていた。あいつはただオカルトに詳しいすこし変わった女子高生ってとこだ。まあ、多少、電波のきらいはあるわけだが。
というわけで、思ったわけだ。
あの時ここで何が起きたのかちゃんとわかれば、あいつの汚名も晴れるんじゃないか。
俺はその日の講義が終わると、早速うちの大学の西側通用門へ急いだ。時刻はちょうど三時だった。付属高等学校の生徒たちも帰宅の時間に当る。クリシュナさんに訊いても教えてくれるとは思えないし、こういう話は当の本人に訊くのが一番早い。
「あ、おい、夜石!」
やがて出てきた黒髪白顔の少女の姿を認めると、俺はそう電柱の陰から声をかけた。
「待て。訊きたいことがある」
駆けつけてそう切り出すと、夜石はぼうっとした顔つきをこちらに向けた。
相変わらずガラス玉みたいな瞳だな、と思いつつも俺は早速本題に入った。
「おまえ、前に『異界ヶ淵』のオフ会で八王子の廃病院に行ったことがあるか?」
しばらく幼稚園の頃の友人を思い出すような顔つきをしていた夜石だったが、やがて頷いた。
「行ったわ」
「そん時のメンバーって今どうしてるんだ?」
「オフ会だもの。その後連絡はとってない」
「あのな。その内のひとりは今も病院に入ってるんだ。しかも精神科だぞ」
俺は、この間のオフ会でジッポさんが言ってたことを伝えた。
ジッポさんの知り合いが夜石とともにそこを訪れたこと。
その後、「よいし」としか呟かなくなり今も入院していること。
それらをざっと伝えると、夜石はわずかに首をかしげた。
「おまえはなんともないのか? つーかあそこでいったい何があったんだ?」
「なにって……心霊スポットだというから行っただけだわ」
「いや、でもおまえにはその病院が危険だってわかってたんだろ? なんで止めなかったんだ?」
「あそこは本物だわ、と告げたところで止まる人たちではないもの」
「…………む」
それはそうか。
俺だってそんなこと言われたら余計行きたくなってしまうかもしれん。
が、いやいやいや。問題はそこじゃない。前回でわかったが、こいつは特別なのだ。普通のオカルト好きとは何かが決定的に違う。こいつにはあの病院が本当に危ない場所だとわかっていたはずだ。わかっていながら、それを注意しないってのは人としてどうなのだ。
すると、そんな俺の表情を読むように夜石は言った。
「心霊スポットは基本的に自己責任なの。この世の本質がそうであるように」
その冷たい言い草に――なぜだろう、俺は無性に腹が立った。
「おまえはそれでいいのか。おまえはそんなこと言ってるから電波扱いされんだぞ」
そう言ってしまっていた。
だが夜石はひとつ溜息をついて、
「人の口に戸は立てられないわ。ましてネットなんてなおさら」
そう呟くと、またそのまま歩き出した。
まあ、さすがに俺だって馬鹿馬鹿しくはなった。心配して骨おってやろうとしているのに、あの態度はない。だがしかし、やつの立ち去る細い背中を見つめていると、なんかこう無性に哀しい気持ちになった。まるで風吹きすさぶ荒野をひとり歩く異邦人だ。そこには、世の中の苦しいこと、悲しいこと、すべてひとりで背負っているような頼りなさだけがあった。
――ああもう、ちくしょう。
俺はまた駆けた。
やつに追いすがって、勝手に話を進めることにした。
「じゃあ俺に真相を教えろ。あそこで何があったのか。それを俺が書き込んでやる」
すると夜石は足を止め、心底不思議そうに俺の顔を覗き込んだ。
「そんなことに何の意味があるのかわからない」
「やかましい。いいから教えろ」
もう一度そう言うと――
夜石の暗い瞳の奥で、何かが蠢いた。
「本当に知りたいの?」
その空虚な視線に、ぞっとした。
すべてをからめとるような闇色の瞳の先に、何かが開けていた。同時に、また俺の中の安全装置がけたたましく鳴り響く。止めとけ、と誰かが叫び始める。救いのない物語が始まる予感がした。
「どうしても知りたいのならば――」
夜石はどこか遠くを見つめたまま呟いた。
「行ってみたほうが早いわ」
「その、病院にか?」
夜石はひとつ頷いてから、わずかに眉を顰めた。
「正直、あそこはまだ私にもよくわかっていないの」
「……は?」
「ああこれはそういうことなんだ、と私の頭の中で答えが出ていないということ。ああいうパターンは珍しいわ」
足がすくんで言葉を失った俺に、ただし、と夜石は付け足した。
「ここから先は、自己責任なのだわ」
……というわけで、俺と夜石は電車を乗り継いでここにたどり着いたってわけだが。
なるほど、こいつは自業自得ってやつじゃないか。身の程知らずにこいつを救おうなんて思ったが為に、俺はこんな薄気味悪いところを彷徨っているのだ。
濃い闇の中――
病院の地下に降り立った俺たちは、もうずいぶん暗くじめじめとした通路を進んでいた。
すえて淀んだ空気のせいか、俺の息は必要以上に荒くなっていた。心臓の鼓動が服を破りそうなほど高鳴っていて、もうさすがに限界だろうと何度も思った。
それなのに、どうして俺はまだ我慢しているのか。
今すぐ夜石の手を引っ張って、ここから出ようと言えないのか。
その時――
どこかでまた、ぱきん、と音がした。
俺はもう心臓を摑まれたかと思うくらい狼狽えた。
「い、今の音なんだ? さっきから鳴ってるよな?」
そう尋ねたが、前を進む夜石はただ、さあ、とだけ言った。
「さあって……確かにしたよな? けっこうでかかった」
へっぴり腰で、ひたすら辺りにライトを向けていると、
「ここだわ」
前方で夜石の声がした。
顔を向けると、とある部屋の前で夜石は立ち止まっていた。近づいて、夜石がペンライトで指し示すそこを見ると「第二資料室」と書かれている。
「ここがどうした」
「ここから人数がひとり減ったの」
「……は?」
俺はひとつ唾を吞んでから、訊いた。
「つまり、何か? さっきの人数が減るって噂は――」
「本当だったの」
「……そんな大事なことはもっと早く言えよ」
うんざりとしてそう悪態をついた俺だったが、しかし、ようやくいろいろと繫がった。つまり、入院したジッポさんの知り合いってのが、そのはぐれた人なわけだ。こんな気味悪い場所で、そんな恐怖体験をしちまえばそりゃあ精神もやられるってもんだろう。いまここに立っているだけの俺ですらもう膝の震えが止まらないのだから――って……いや。待てよ? だとすると、よいし、としか呟かなくなったっていうのはどうなる? なんでこいつに悪評がこびりつくような結果になったわけだ?
すると、夜石は静かに首を振った。
「違うわ」
「……は?」
「行方知れずになったのは、私なの」
その言葉に、ぞっとした。
「私は皆とずっと一緒にいたのに、病院から出てみると皆は私だけがいなかったという。病院から出た後に確認したのだけど、病院に入ってからこの部屋に来るまでの記憶は一致している。けれど、病院を出た後の記憶が違うの。彼らの中には私はいなかったし、私の中ではずっと彼らと一緒にいた記憶がある。だとしたら――私が一緒にいた人たちは誰だというのかしら」
どこか楽しげにそう語る夜石の横顔を見つめながら――
やっぱり来るんじゃなかった、と俺は思った。
「なぜ皆の記憶が乖離するのか。どうしてそんなことが起きたのか。私はそれが知りたい」
夜石は、恍惚とした表情で扉に近づき、そして一度振り返った。
「ねえ、怖い?」
俺の瞳を覗き込むように訊いてきた。
「怖いってどんな気持ち?」
そんな台詞とともに、やつは部屋の中に消えていった。
ひとり暗い廊下に取り残された俺は迷った。
――ああ怖えよ。当たり前だろ。んじゃ俺は帰るから気をつけてな。
そんなことを言ってここから帰れたらどれほど楽だろう。
だが、人間恐怖の臨界点を迎えると逆に足が動かなくなってしまうものなのだ。流れから外れる、というその行動自体が目に見えぬ何かを刺激してしまいそうで、逆にもの凄い勇気を必要とするのだ。しかもまたこいつの、女子高生、という属性がずるい。これで逃げたら、俺は年下の女の子を暗い病院にひとり残したキングオブヘタレという称号から終生逃れられまい。
仕方なく、俺も傾いた扉の隙間に身をくぐらせた。
中はさらに暗かった。闇に濃さがあるとしたらさっきよりずっと濃度が濃いように感じられた。ライトで照らすと、中は十五、六畳ほどの空間だった。真ん中に机があって、その周りによくわからない器具が散らばっている。部屋の隅にはガラスの割れたキャビネットが幾つも倒れていて、中の資料はそのまま床にまき散らされたままだった。
何かをかつんと蹴飛ばして、俺はそこに灯りを向けた。それはひしゃげたビールの缶だった。よく見ればそこらにタバコの吸い殻やらスナック菓子の袋やらも散らばっている。大方、クリシュナさんのよく憤慨する「礼儀知らず」どもの残滓だろう。週末ともなれば、ここは地元の暇な連中が肝試しがてら訪れる場所に変わるのかもしれない。
「ずいぶん人気スポットみたいだな、ここ」
俺が言うと、暗闇の向こうで、そうね、と気のない返事が返ってきた。
ライトを向けると、夜石はキャビネットの横にいた。引き出しの中や、落ちたカルテなどにライトを当てていたが、やがて何かを手にするとこちらに歩いてきた。
「この前はみんなでこれを見ていたの」
夜石がライトを当てて差し出すそれは、一冊の古ぼけた大学ノートだった。
「なんだよ、それ」
ライトを当ててページを開くと、それは日記だった。中には文字がびっしりと書き連ねられていて、そのほとんどがひらがなだった。時折色鉛筆で車やら人やらのイラストも添えられていることから見ても、どうやら子供の患者が書いたものであるようだった。ぺらぺらとめくっていると、ノートの半分辺りで記述が止まっている。日付は、一九九一年八月十六日だった。そしてそこには、広々とページ全体を使ってこう記されていた。
『ぼくのびょうきをなおしてください』
そのつたない文字は、俺の胸の奥につきんと刺さった。
「名前が一緒だから、たぶんこの子のものね」
呆然と黄ばんだノートを見つめていた俺に、夜石は横から白い紙を渡してくる。
それはカルテだった。そこには八歳の男子の病状と入院記録が記載されていた。
そしてその最後には、ただ事務的に「死亡」と書かれていた。
「死んだのか」
思わずそう呟くと、夜石は頷いた。
そして、おもむろにペンライトを正面の壁に向けてどこか楽しげに言い直した。
「そう、死んだはずなの」
ライトで照らされる壁を見た俺は、呆然とした。
そこには――
ノートと同じように、ひらがなだけでこう書かれていた。
『なおしてくれたらなんでもいうことききます』
その壁の文字は、でかかった。文字のひとつひとつが人の頭の二倍ほどはあった。おまけに大人でも手を伸ばさないと書けないような高さに書かれていた。
「これ……この子が書いたのか?」
「さあ」
夜石は壁の隅から隅までライトを当てながら言った。
「だけど、誰がいつ書いたかというのは問題ではないのだわ」
……じゃあ何が問題なんだ。
そう思ったが、また薄気味悪い展開になりそうなので訊くのは明るいところに出てからにしようと思った。俺の成長したところである。
が、その瞬間だった。
不意に灯りが消えた。
辺りは完全な闇と化し、俺は露骨に狼狽えた。
「お、おい、なんでライト消してんだ――」
そう言った後、気がついた。
……違う。ライトを持っているのは夜石だけではない。俺の手の中にもペンライトがあって――そして俺はライトのスイッチに触れていない。
それにもかかわらず、こんな真っ暗闇になるって……
またどこかで、ぱきり、と音がした。
それは遠くから響くようであり、すぐ耳そばで鳴ったような気もした。空気が裂け、見えない壁にヒビが入ったような音だった。同時に何か鼻をつくような匂いを感じた。死んだ魚がたくさん浮かんでいる川のような、胃がでんぐり返るような腐敗臭。
「おい、夜石――」
震える声でそう辺りに声をかけたが、返事はなかった。
「……ふ、ふざけんなよ、おい」
手元のミニライトのスイッチをいじくり回しながらそう叫ぶと、
ぱきり ぱし ぱきん
立て続けに俺の周りで何か鋭い音が響いた。
これは――あれか。噂のラップ音ってやつじゃないのか。
すると突然、腕を摑まれた。
ひい、と叫びそうになったが、そのままその場にしゃがまされる。
「静かに」
夜石の鋭い囁きとともに、俺は口を噤んだ。
そのまま、辺りを闇と静寂が支配する。
否――
きんと張りつめたようなその無音の世界の端で、何かが傾くような気配がした。小さな音の連なりが聞こえてくる。俺たち以外に誰かがいるのか。それとも動物か、虫か。そう考えようと思ったが、その小さな気配には明確な意思が感じられた。少なくとも動物ではなく、人と同じような複雑で救いようのない感情を持っている気がした。
それが、廊下の奥から次第に俺たちのいる部屋に近づいて来るのがわかる。
俺はもう、完全に涙目だった。
そして、心の底から己のヘタレ気質を確認した。もし命あってここから出ることが出来たなら。俺はもう二度と心霊スポットなど足を踏み入れまい。もう二度と夜石の奇妙な言葉に釣られまい。書きかけの母親への手紙もちゃんと仕上げて、ここから先は、勉学とアルバイトだけに精を出す親孝行な学生として生きる。そうだ。俺はもともと実家の林業を立て直す為に東京に出てきたのだ。それなのにオカルトサイトにうつつを抜かし、こんなところをうろついてるから罰が当ったのだ。これは、手紙を寄越すように言ってた母親を裏切った俺への罰なのだ。俺が悪かった。これからはまっとうに生きる。だから。だから頼む。何がどうなってんのかさっぱりわからんが、成仏してくれ。あの世へ行ってくれ。
だが――俺のそんな即席にして切実な神頼みをぶち壊すように、
「消えろ!」
夜石の訳のわからない叫びが轟き、俺の横にあった机がもの凄い音を立てた。
どうやら夜石が蹴っ飛ばしたらしい。その拍子に何かが割れて、静かだった夜の廃病院にひときわけたたましい音が鳴り響いた。同時に、俺の体の硬直が解けた。なぜかライトがまた点灯して、闇を裂いた瞬間――俺は見た。
見てしまった。
傾いて外れかかった扉から覗ける廊下。
そこに青紐のスニーカーを見た。
そして、すりきれてぼろぼろになったそのスニーカーから伸びるのは――細く、蒼白く、腐敗した、ぼろぼろの子供の足だった。
「う……うわあっ」
俺が叫ぶと同時に、夜石も叫ぶ。
「無理じゃないから」
俺の腕を振りほどくと、そうもの凄い声で叫んでいた。
「意味もないから。必要ないから」
そう立て続けに何かに怒鳴っていた。
この細っこいこいつのどこからそんな大声が出るのか。その大音声に俺の腰は完全に抜けた。だが、夜石のその声は、俺以上に見えない何かを強烈に刺激したようだった。無数の見えない何かが、ずるりと動いたような気がした。
同時に――夜石は、廊下に向かって駆け出した。それは、何か訳わかんないやつに対して挑んだのかもしれないが、ひょっとすると脱出を図ったのかもしれない。
「お……おいおい!」
冗談じゃねえ、と一瞬遅れて俺も追いかける。
夜石がぶち破って完全に外れた扉を踏んづけるように、俺も廊下に転がり出た。
「おい、待てよ、夜石!」
ライトをかざして廊下で叫ぶが、しかし夜石は待たなかった。
――この野郎、上等じゃねえか。
俺だって高校時代はバスケ部で、しかもポイントガードだったのだ。足だけは自信がある。
だが――夜石はずば抜けて速かった。いつもの、のろのろとしたあいつの挙動なんてそこにはなかった。黒髪を翻し、若鹿のように跳ねるような走りを見せて、見る見る俺を引き離す。途中、わざとか見えてなかったのか、病院内のパーテーションとか枯れた観葉植物とかをぶち倒していった。おかげで心霊スポットというよりも、小学生の頃やったピンポンダッシュを思い出した。無論今は反省してるが、当時は怒り狂って追ってくるハゲ親父が怖くて面白くてよくやったものだった。あの時の興奮が唐突に蘇った。そしてそれは、この時の俺にとって救い以外の何物でもなかった。足や肩にぶつかる障害物なんて気にすることなく吹っ飛ばして、俺もひたすら駆ける。この時だけは恐怖を興奮が勝っていた。地下の廊下を駆け抜け、階段を駆け上がり、一階で急ターン。前を駆け抜ける夜石の背中だけを追って必死に駆け抜けた。
「おい、夜石!」
病院の入り口の扉を蹴破り、外に出ると――
しかし、そこには誰もいなかった。
辺りはただ虫の音だけが響く、雑草だらけの駐車場だった。
月が青白く照らす中――俺は膝に手を置き、呼吸を整えた。久々のダッシュのせいでもう心臓は爆発しそうだった。とにかくこんなに月の光が頼もしく感じられたことはない。ひたすらじっと息を整えていると、俺の眼前に黒のソックスと黒の革靴が見えた。
顔を上げると、制服姿の夜石が俺を見下ろしていた。
「先に逃げるなんて、反則、だろ?」
息を切らしつつそう抗議すると、夜石は吐き捨てるように呟いた。
「くだらない」
「……なんだって?」
「ここは、くだらないわ」
夜の闇に黒々と浮かぶコンクリートの建造物を睨みつけ――
そして、夜石は吐いた。
唐突に、駐車場で吐いていた。
月夜に照らされる夜石の吐瀉物はきらきらと輝いていて。
阿呆面下げた俺は、なんか奇麗だな、なんて見つめていた。
2
「クリシュナさーん? いますかー?」
あの気味の悪い病院から出て、十時間ほど後のことだ。
俺は、『異界ヶ淵』本部・ビートニク研究会の扉を叩いていた。
「もしもーし?」
そう何度か扉をノックしたのだが、しかし中からは返事はなかった。
「おかしいな。いつもこの時間はいるのにな」
扉に取り付けられた磨りガラスから薄暗い室内を窺いつつ、俺はあくびをひとつ嚙み殺した。
結局、あの八王子の病院から、武蔵野市のアパートに帰り着いたのは明け方だった。
今日は自主休講にして安眠を貪ろうと目論んでいた俺だったが、しかしこうして一限から真面目に大学に来ているのには訳がある。
あの病院から国道まで出て、八王子駅まで延々歩き、始発の中央線に夜石とふたりで乗り込んだところで、どっと疲れが出たのかふたりして寝込んでしまった。三鷹のアナウンスに運良く気がついて慌てて飛び降りたら、なぜか夜石も降りていた。そのままあいつは、ふらふらと寝ながら歩くように俺のアパートの前までくっついてきやがって、あげく廊下で倒れ込みやがったのだ。もちろん俺は言ってやった。こら起きろとか、自分の家に帰れとか、あげくほっぺたも思い切り引っ張ってやったのだが、夜石はもう電池が切れたように動かなくなっていた。
で、仕方なくやつをアパートで寝させて、ひとつしかない布団を提供し――俺自身は、追い出されるように大学にやってきたというわけだった。さして重要じゃない一限の法学概論に出たのは、正直なところ睡眠補給しようと思っていたからだったが、しかし、昨晩のことを考えていたらどうにも眠れなくなった。最初からどう考えても、結局あの病院の正体がさっぱりわからない。メンバーがひとり消える謎も解けていないし、夜石が何に対して「くだらない」と言ったのかもわからない。
そんなことをぐるぐる考えていたら、寝そびれた。仕方なく続けて出席した、第二外国語でも眠ることは出来なかった。で、そのまま一睡もすることなく、昼休みの鐘と共にここを訪れたわけだった。
「もしもーし? クリシュナさーん?」
改めてノックしたが、やはり返事はなかった。
ないのだが、その時、中から何か物音が聞こえた気がした。
「まさか」
そういえば、最近部室荒らしが多発してるとか学生掲示板に書いてなかったか。
心配になってそっとドアノブに手をかけてみたが、鍵はかかっていなかった。いよいよ怪しんだ俺は、意を決して中に入ることにした。
ひとつ深呼吸してから――扉を開け放った。
で、中の光景を目の当たりにするなり――
引いた。
ドン引きした。
中には、火のついた蠟燭を鉢巻きで額につけた少女がいた。
白装束で、左手には藁人形、右手には木製の槌。
かわいらしい唇には、ご丁寧に五寸釘までくわえられている。
「ひはは」
白装束の少女は、そう言った。
いや、たぶん「見たな」と言ったつもりだろう。
だが、口にくわえたままの五寸釘のせいでそうは聞こえなかった。
「く、クリシュナさんですか?」
そう尋ねると、赤眼鏡に白装束の少女――クリシュナさんは口元から釘を外し、きっとこちらを睨んで改めて「見たな」と言った。鈴を鳴らしたかのような実に美しい声だった。
「ノックはしたんすけど」
「ああ、ノックには気がついてたさ」
クリシュナさんは、憤懣やるかたないといった様子で喚きちらす。
「しかしわたしの口元には不幸にも釘があった。それじゃあ返事もままならない。構わん無視しようと思っていると、勝手に扉を開けられた。おかげで秘法実験が台無しだ。だいたいノックして返事がなければ普通開けないだろう。開けるのは泥棒くらいだ、それともキミは泥棒か」
そう、このやたら弁の立つ、小柄な少女こそが――
日本最大級のオカルトサイト管理人、《クリシュナ》こと、栗本詩那さんだ。
ちなみに、どう見ても中学生の巫女バイトみたいにしか見えないこの人は俺より年上である。たしかいま二十歳の大学三年生なので、そのロリ容姿に騙されてはいけない。オカルト全般におけるその超絶的な知識とカリスマ性によって、ネット界では至上の尊敬を集めている存在である。
「すみません、ちょっと訊きたいことがありまして」
俺がそう切り出すと、
「キミに話すことなんかない」
あっさりとそう言われた。
「だいたいここにはもう来るな、と言ったろう? 昨日も、その前も、同じことを言ってるつもりだがキミには学習能力がないのか。それともこれは何かの嫌がらせか」
「どちらでもないです」
俺はとりあえず平身低頭して、室内に入らせてもらった。
それで改めて部室の変容ぶりを確認して呆気にとられた。窓には暗幕が張り巡らされ、四方に注連縄までこしらえてある。四隅には塩が盛られ、中央にはひと際大きな蠟燭が煌煌と揺らめいていた。
「まさか、とは思いますが」
俺はそれらを見上げながら尋ねた。
「誰かを呪い殺そうとしてますか」
すると、クリシュナさんは額の蠟燭を取り去って怒鳴った。
「馬鹿者! 呪いなどこのわたしが用いると思うか。これは反呪禁言の儀だ。いわば呪い返しだ。『異界ヶ淵』ではいろいろと用い方によっては物騒な言霊の数々を載せているからね。それらの持つ磁場をこの藁人形に集めて燃やし拡散させる――いわば、アースだ。けして余人に見られてはならない儀式だったのに――まったくキミってやつは」
「見られちゃいけないって、見られた場合どうなるんですか?」
「見た人そのものがアースとなる」
「……は?」
クリシュナさんは無言で、俺の髪をぐいと摑むと自分の方に引き寄せた。それから机の上にあった、木の棒におみくじみたいなのが付いたもので容赦なく背中を叩きまくられた。祓い幣というものらしい。
「……いてて、痛いです!」
「痛いのはわたしのほうさ。日時と太陽の向きを合わせて、安くもない神具を揃えて。この日の準備にどれだけ時間と費用と手間がかかったと思ってるんだ!」
そんな大事なこと鍵もかけずに部室でやらないでくれ。
そう言いたかったが、背中を棒で執拗に叩かれながらも、俺はクリシュナさんの形良く豊満なバストを間近で堪能できる幸せに浸っていた。でけえ胸だなーとは思っていたが、いざこう頭を抱えられるように密着するとサイズを実感出来るというものである。もう少しこの柔らかな感触を堪能していたかったが、二十も打ち叩いた辺りで、唐突に俺は突き放された。
あれ? と顔を上げると、クリシュナさんは眉を顰めたままこっちを凝視していた。
「キミ、どこか怪しげなところに行ったか?」
「…………え」
「妙だな。ここにはふたりしかいないのに、数人の気配を感じるのだが」
「ちょ……気味の悪いこと言わないでくださいよ」
「どこに行った」
そうクリシュナさんはにじり寄ってくる。
すこしずり落ちた赤眼鏡ごしの大きな瞳が、俺の鼻先まで迫った。
「まさか、キミはまだあの夜石という子と会ってるのか」
……まずい。
クリシュナさんはこの間の一件以来、美鶴木夜石を目の敵にしていた。まあ、せっかく霊とは無関係という解決法を俺に施したのに、あいつはそのすべてを台無しにしたのだから無理は無いのだが――あれ以来、俺は口酸っぱく夜石と関わらないよう説教されていた。
どう言い抜けするかすこし考えてみたが――
この人は恐ろしく勘がいいし、そもそも俺は噓がうまくない。
「怒らないから言ってごらん」
一転してクリシュナさんは、にっこりと微笑み、俺の口はつい緩んでしまった。
昨日の夜、話題の八王子の廃病院を夜石と訪れたこと。人数が変わるという噂は、夜石たちが経験した事実であったこと。そして地下の資料室でノートを見つけ、同じ筆跡のでかい文字を壁で見たこと。もちろん、あいつが今現在俺の家で死んだように寝ていることは伏せておいたが、残りをことごとく詳細に話してしまった。
「……なるほどね」
ひと通り話が終わると、クリシュナさんの笑顔は硬質なものに変わっていた。
「あの病院に行ったわけか」
「……はい」
「よりによって、美鶴木夜石と」
「……はい」
「そんで何かを見て逃げ帰ってきた、と」
「……はい」
「キミは、まったく――」
一語一語、ねっとりと実感を込めてクリシュナさんは言った。
「救いようのない、馬鹿だな」
唐突に襟首を摑まれた俺は、強引に椅子に座らされた。それから、クリシュナさんは机の上にあった紙とサインペンを手に取り、紙の真ん中に一本の線を引いてみせた。
「いいかい、よく聞くんだ。この線のこちら側がわたしたちの住む世界。つまり、此岸だ。そしてこの線の向こう側――ここからがあの世であり、彼岸とする。キミがあの世のことを知ろうとすることは、この線を超えることなんだ。こちらが覗けば、必ず向こうからも見られてしまうんだ」
それは会う度に言われることであり、俺は首をすくめて聞き入った。
「ほら、よく霊感のある人間の近くにいると自分も霊感が強くなるとか言うだろう? あれは本質を正確に言い得ていない。霊現象を目の当たりにすることによって、向こう側の世界を覗いてしまうことによる、“知る”という感覚がマズいんだ。知れば必ず霊と関わってしまう。そしてそれはとてつもなく辛いことなんだ。すぐ間近で他人にずっと見つめ続けられるのと同じさ。現代日本ではほとんど科学的な研究が進んでいないし、助けてくれる公的機関も存在しない。ひとり孤独に苦しみ続け、やがて疲れ果てて死を選ぶようになるんだ」
うそ寒い思いに駆られつつ、しかし俺はクリシュナさんの顔を見つめて言った。
「でも……そん時は、クリシュナさんが助けてくれるんですよね?」
「ば――」
クリシュナさんは真っ赤になってさらに唾を飛ばした。
「馬鹿者! わたしをテレビのスーパーヒーローかなんかだと思うな。わたしはただ向こうの存在を認め、警告を発することしか出来ない人間だ。実際に霊障が起きれば、霊的に訓練された人間の手を借りるしかないし、現実的にはほとんど何も出来ない。とにかく、あの病院のことは忘れるんだ。あの子とも当分会わない方がいい。もうここにも来るな」
クリシュナさんは、そう一方的に話を打ち切ろうとするが、俺としては、はいそうですかと引き下がるわけにはいかない。
「じゃあ、ひとつだけ教えてください。半年前あの病院で起きた事件っていうのは、ホントに夜石が原因なんですか? 行方知れずになったのはあいつなのに、どうしてジッポさんの知り合いが病院に入ることになったわけですか?」
すると、クリシュナさんは俺の顔をまじまじと見つめた。
「……そういうことか」
と呟き、長く息を吐いた。それから椅子に腰掛け、反り返るように天井を見つめた後、さらさらのおかっぱを搔きむしってからようやく口を開いた。
「キミは、美鶴木夜石の汚名を晴らそうとしてあそこに行ったわけか」
「いや、まあ、なんというか」
正直に言えば、それだけではないのだが。恐いもの見たさ、というどうしようもない俺の主成分が多分に影響しているのもある。しかし、風向きが変わったのを敏感に察した俺は、その方向で話を進めていくことにした。
「とにかく、俺には夜石が原因であるようには思えないんです。でも、壁の文字、人が消えること、そして夜石が言ってた、くだらない、という言葉とか――なんかさっぱりわからなくて」
すると、その通りさ、とクリシュナさんに頷かれた。
「あの病院は、わたしもまるでわからない」
啞然とする俺に、巫女姿のオカルトサイト管理人は説明してくれた。
「あそこはね、いろいろな話が多すぎるのさ。廃病院系の心霊スポットにはありがちな傾向であるとはいえ、それにしたって、あの病院にまつわる噂は多岐に渡りすぎている。車椅子の霊の目撃例がある。正体不明の音がする。看護師の霊があり、子供の霊がある。行方知れずになったやつもいれば、帰ってきたが病院に入ったままの人間もいる。そして今度は、人が消える、か――情報を集めれば集めるほどその正体が曖昧になっていくというか……正直、こんなパターンは初めてなんだ」
そういえば――
夜石も似たようなことを言っていた。
こういうパターンは珍しいとか、まだ私の頭の中で答えが出ていない、とか。
「薄気味悪い場所にいろいろな噂が立つのはわかるけどね、その噂にしてもある一本の線に結びつくのが心霊スポットのパターンなんだよ。ほら有名な八王子城跡では、落城悲話の影響で武士の霊の目撃談が多いし、夫婦岩周辺では悲恋物語の影響で若い男女の霊がよく報告される。つまり、噂には必ず根っこがあるんだ。しかしあの廃病院にはそれがない。それぞれが勝手な方向に枝を伸ばす野生の樹木のような印象で――しかも、その成長スピードは恐ろしいほど早い。いろいろな心霊スポットを見てきたが、正体が知れない、というのが本当のところなのさ」
この人にもわからないことがあるのか。
そんなどこか新鮮な驚きに、俺が改めてオカルトの世界の奥深さを感じていると、
「しかもね」
とクリシュナさんは眉を顰めた。
「その壁の文字は、まずい」
「まずい? どうして?」
だが、クリシュナさんはそれには答えず、唐突に尋ねてきた。
「そもそもキミは、霊とはどんなものだと思っている?」
「霊、ですか?」
俺は、ええと、と頭の中に浮かんだイメージをそのまま伝える。
「ほら、よく絵とかで描かれる、うらめしやあって手を垂れ下げているやつですか」
「なるほど、三角頭巾に死に装束ってあれかい。まあ、そんなところだろうけど――」
クリシュナさんは立ち上がると、本棚から古いアルバムのようなものを取り出した。
「何に見える?」
開かれたページにある写真は、三分の一ほどの広大な地平と残りすべてを切り取る澄んだ青空の写真だった。北海道かどこかだろうか。舗装されたコンクリートの道が延びていて、その両脇に青々と茂る雑草がたなびいている。そして後は、白い雲と青空だ。どこかの観光協会が使いそうな気持ちのよい風景写真にしか見えない。
「何に見えるって――夏の北海道へようこそ、とかそんなんじゃないんですか?」
「よく見ろ」
クリシュナさんがそうかわいらしい指先で指し示すのは青空だった。
地平に入道雲と、それ以外は遥か上空に鱗雲――
「あれ?」
……入道雲と鱗雲って同時に出たっけか?
それに気がついた瞬間、ぞっとした。
……違う。
これは、鱗雲じゃない――顔だ。
無数の白く虚ろな顔が、空いっぱいに浮き出ているのだ。
「……うわわっ」
飛び退った俺に軽く微笑むと、クリシュナさんはアルバムをぱたんと閉じた。
「わたしの師匠筋に当る人の話さ。この世に未練を残して死んだ人は何らかの形を得て残留するのだという。腕だけだったり、目だけだったり。つまり人の形をしていることの方が稀だという。しかも時間とともに何に未練を残していたのかも忘れてしまうのだそうだ。要するに、ただの空虚な浮遊物となるわけだけど――しかし、それら浮遊物と浮遊物は結合するのだそうだ」
「結合……って合体ですか?」
「そう。犬だろうが、猫だろうが、人間だろうが、ただ目的無く浮遊する霊は結合する。あげく果てしなく膨張していく。師匠がかつて見た最大級のものは、富士山ほどの大きさだったという。あちこちに苦悶の表情をたたえた巨大な塊が、ただ海の上を彷徨っていたそうだ」
その光景を思い浮かべて、ぞっとした。
そこらに無数の犬やら猫やら人間やらの顔だけがついた、巨大な塊。空いっぱいに広がる無数の負の思念。じゃあ俺がいつも何気なく見上げている青空にも――そんなのがいっぱい漂っているっていうことなのか。ひょっとして俺が今まで見ていた雲も、雲じゃない可能性があるのか。
「さあてね。何にしてもそれら浮遊物は、時間の経過とともにすこしずつ消滅していくそうさ。武士の霊の目撃例はあるが、縄文人の霊の目撃例なんて聞いたことがない。それはどうやらそういうところに理由があるらしいけど、消えるにしても数百年という膨大な時間を要する。つまり、未だこの世界を漂う巨大な霊的結合物は無数に存在していて――そして、ここからが問題なのだけど、彼らは、何らかの霊的磁場にひっかかるとそこで止まるんだ。巨大な霊場だとか、強烈な恨みの念を遺す殺人現場とか、そういう場所にとどまる傾向がある。それはつまり――」
ああ、と俺はようやく腑に落ちた。
つまり、それが心霊スポットというわけだ。
昨日、あの廃病院で感じた無数の人の気配。無数の視線。
今も肌に残る、それらの気配を思い出して、俺は改めて背筋がうそ寒くなった。
「で、そこでキミの見た壁の文字が問題になる」
クリシュナさんは眼鏡を押し上げて続けた。
「どこの馬鹿のいたずらか知らないが、『ぼくのびょうきをなおしてください』というノートの言葉に『なおしてくれたらなんでもいうことききます』という言葉を続けてしまった。文脈としてしまった。つまり、そこには意味が生じてしまう」
ごくり、と唾を吞んだ俺にクリシュナさんは尋ねた。
「目的無く浮遊する霊の集合体が集まる場所に、意味を与えたらどうなる?」
冷たいものが背中をつたっていった。
「彼らは切ないほど意味を求める。己の存在が幽かであるからこそ意味を求めるんだ」
俺の頭の中で、不意に浮遊する思念の塊が一様にこちらを見た気がした。その無数の無表情な顔の集合体は、おそらくさっきの雲の心霊写真からのイメージだったのだろうが――ふとあの空虚な視線と夜石のガラス玉のような視線が重なった。
「キミがあの子の汚名を晴らそうとした、その行為自体には敬意を表するけどね」
クリシュナさんは、どこか遠くを見つめるような視線で呟いた。
「人には見てはならないものがあるんだよ」
その言葉に、俺の心臓は冷たくなった。
「本来、彼岸と此岸は、隔絶されてしかるべきものなんだ。その境界をあの夜石という少女は軽々と超えてしまう。そしてそれはとても危険なことさ。彼女の言動は人が知ってはならないものを含んでいる。いや――人が本来知ってて、しかし忘れているからこそ人たり得ている何か。それを含んでいる」
その言葉で――
ようやく、俺がどうして夜石の言葉に戸惑うのか、その謎が解けたような気がした。
クリシュナさんが同じ言葉を語ってもわくわくするだけなのに、あいつが語ると何かがずれるような心地がした。こう、俺の信じている常識の壁が崩れさるような――立っている位置がわからなくなるような不安を感じるのだ。前回にしても、今回にしても、俺はそういう体験をしてきた。
「残念だけどね、ああいう子を救うのはとても難しい」
クリシュナさんのそのどこか寂しげな表情を見て――
俺は思った。
この人はかつてそういう人間を全力で助けようとしたことがあるんじゃないのか。そして結局助けられなかったんじゃないのか。ひょっとしていつか言ってた夜石に似た人間というのがそうなのかもしれないし、違うのかもしれないが――
もはや俺にはいろいろと尋ねる気力が無くなっていた。
俺だって俺なりに自分の力量というものは心得ている。精神力も、行動力も、霊に関する知識だって、目の前のこの童顔の管理人には遠く及ばない。夜石にしたって、俺がどんなに止めたところでこれからも怪異に飛び込んでいくだろう。そして、そこにことごとく他人である俺が付いていくわけにもいかない。
夜石を悪評から救おうなんて――
とうてい手に負えることではないのだ、と俺は思い知らされていた。
「……いろいろ、ありがとうございました」
鞄を肩に引っ掛けて力なく立ち上がると、クリシュナさんは白い袋を渡してきた。
「これは、今宮神社の素戔嗚尊によって清められた粗塩さ。これを今から一週間ほどは部屋の入り口に置いておけ。何か妙なことがあったらすぐに連絡するんだよ」
はい、と答えて扉を開けたところで、
「ああ、そうだ」
クリシュナさんは俺の背中に声をかけてきた。
「キミは、あの病院から何も持出していないだろうね?」
廊下に足を踏み出しつつ、俺は笑った。
「そこまで無鉄砲じゃないですよ」
そう言って、扉を閉めた。
廊下に出て、薄暗いコンクリートの通路を進みつつ――頭を抱えた。
すべて話そうとは思ったが、それが出来ないのが俺のダメなところだった。
鞄を開けて、一冊のノートを取り出す。
それは、あの『ぼくのびょうきをなおしてください』と書かれたノートだった。