フェノメノ
case:01「願いの叶う家」 落〜fall
一肇 Illustration/安倍吉俊
注目の新鋭・一肇があの安倍吉俊とタッグを組んで『最前線』に登場! ーーそれは、ありとあらゆる怪異(ミステリー)を詰め込んだ青春怪異小説(ホラー)。
case:01 「願いの叶う家」 落〜fall
4
真新しいアパートは素晴らしかった。
奇麗にクリーニングされたフローリング。新品の壁紙。消毒済みのユニットバス。
前の住人の気配すら漂いまくっていたあの家と比べるのもあれだが、やはり家賃などケチるものではない、ということである。大学からの距離はさらに遠くなったが、周辺には住宅が増えた。歩いてコンビニにも行けるし、街灯もふんだんにあった。とにかく夜でも周辺が明るいこのアパートは、鴉さんが紹介してくれた物件だった。
なんでも、鴉さんの知り合いが大家をしているアパートで、鴉さん自身もひとつ部屋を借りているということだった。そこは彼女の倉庫(奇妙な呪術品とか衣装の置き場らしい)だってのがなんか頭来るが、まあ文句は言えない。家賃は五万円に跳ね上がっていたが、六畳一間の1Kロフトつき、ユニットバスつきだと、この周辺では格安だった。
夜石とあの奇妙な家を見てから、一週間が過ぎていた。
久々のバイトも講義もない日曜日の昼過ぎ――
窓を開けて、気持ちのよい風を浴びながら、俺は何も無い部屋に大の字になっていた。
とにかくこの一週間はあっという間に過ぎ去った。
まず姉貴に泣きついて引っ越し資金を借りた俺は、さっそくここに引っ越した。もう二度とあの家に入りたくなかったので、すべて業者に頼んだからその分高くついたのだが、しかしそれだけの価値はあった。何よりこのアパートは隣の住民の電話に出そうになるほど壁が薄くて生きている人間との親密感に溢れていたし、廊下で影のある人間と挨拶も交わせたし、窓を開ければ竿竹屋ののんびりとした声も聞こえてくる。とにかく、生の熱気で溢れているのだ。これは今の俺にとってとても重要なことだった。極限まで精神の疲弊した俺には、人の暮らしの中に組み込まれている、という安心が何より必要とされていることだった。
夜石とはあれっきりだった。
あの晩、またあのファミレスまで送ってそこで別れた。夜石が高校生で、美鶴木夜石というのが本名であること以外、結局あいつ自身も謎だった。二人乗りで駅まで逃げ帰るようにママチャリを飛ばしている間もすこし話したが、結局あの家のことについてもよくわからない。あいつも説明しなかったし、俺も訊く気持ちにはなれなかった。
だが、不思議と確信出来た。あそこには何かヤバいのがいる。毎晩、気味悪い音を聞いていたし、カウントダウンまで食らっていた俺だったが、なぜか夜石の一言「ここは本物だわ」という言葉で決意した。ここは俺の手に負える物件じゃない。即座にそう思えた。そういう意味で言えば、あいつのおかげでこうして平和な空間に身を置く決意が出来たとも言えるわけだが――
人間、喉元過ぎれば熱さ忘れる、というのは本当だ。
過ぎ去ってみると、いろいろと気になってきたのが実情だった。
あいつは何に気がついたのか。
だいたいカウントダウンとかは何だったのか。
そもそも夜石とは何者なのか。何と言うか、あいつは普通のオカルト好き少女とは何かが違うような気がする。怖いものに近づいてぎりぎりのところを楽しむだけではなく、本能が告げるヤバいと思う領域に躊躇なく足を突っ込む命知らずさ――つまり、死にたがりとかそういう言葉じゃ言い表せない不安感を夜石はいつも帯びていた。あいつが何か口にすると、こう俺の信じて住んでいる世界が崩れていくような錯覚を覚えるのだった。
たまに『異界ヶ淵』も覗き込んでみたが、どの掲示板にも夜石は現れていなかった。
そしてやっぱり俺の立てたスレッドはもう誰も反応してなくて、発見するのもひと苦労な深いところまで流されていた。いろいろな掲示板にたまに降臨するクリシュナさんも、俺や夜石の件に触れるでもない。あれは本物だったのだ、と書き込んでみたくもなったが、それをどう証明できるわけでもないし、俺はいまひとつもやもやとしたものを抱えながらも、また普通の日常に埋没していった。
そう――日常は続くのだ。
増えた家賃に、待った無しの光熱費。奨学金だけじゃ足りないのでそろそろ本格的にバイトも始めなくてはならなくて、駅近くのイタリアレストランでバイトを始めた。姉貴に借りた引っ越し代もある。俺は、講義そっちのけで働き始めた。くたくたになるほどの肉体酷使と労働的笑顔を振りまく都会サバイバルが始まって――
たちまち一週間が過ぎ去った、そんなある日のことだった。
久しぶりに出席した大学の講義が終わり、俺が教科書類を鞄に詰め込んでいると、ふと見知らぬ少女が俺を見つめていることに気がついた。
背が小さかった。そのくせ服の上からでもわかるくらい胸だけでかい。座敷童みたいなおかっぱで、顔は中学生並の童顔であり、赤い眼鏡が実に似合っていた。
「誰だ、あいつ?」
俺がまじまじと見つめ返してやると、その子はひとつ咳払いしてこちらに寄って来た。
ポケットの中の何かを取り出そうとしては、引っ込める。それが、何かの紙であることはわかった。棒立ちしている俺のそばまで寄って来たその子は、結局、その紙を取り出すことはなかった。何か悔しげな顔して俺の顔を睨みつけ(童顔のせいか全然迫力はないのだが)、その後、舌打ちして踵を返してしまった。
「お、おいおい」
思わず、俺は声をかけた。
「なんか用があるなら言えよ」
すると、そのおかっぱ少女は、くるり、と振り返り言った。馬鹿者、と。
「ば、馬鹿者?」
いくら温厚篤実な俺でも初対面の少女に面と向かって痛罵されては我慢ならない。
「なんだおまえは失礼なやつだな。どこのどいつだ。何年だ」
そう問い質すと、うるさい、と一喝された。
「だいたいキミが悪いんだ」
さらにそう小さな人差し指を突きつけられる。
「キミのような輩がいるから、いつまでたってもこういうことが起きるんだ。身の程を知れ、愚か者」
「愚か者っておまえ……」
その後、少女は矢継ぎ早に訊いてくる。
「肩こりはないか。耳鳴りは。夜はちゃんと眠れているか」
こいつは医者の卵か何かだろうか。つーか、うちに医学部なんてあったか。
俺がそうあっけに取られているうちに、少女はポケットの中の紙をようやく取り出した。そして俺の鼻先に突きつける。俺が受け取る間もなく、少女は脱兎の如く走り去ったので、俺がその紙を拾い上げたのは、彼女が教室から去った後だった。
「……なんなんだ、あいつ」
すでに誰もいなくなった教室で、その紙を手に取り、目を落とす。
それは自分で作ったような名刺だった。
そこにはただ――
『ビートニク研究会部長・栗本詩那』
とあり、西部室棟におけるビートニク研究会の場所だけが記されていた。
◯
その晩、夢を見た。
夢の中で、俺はまだあの家に住んでいた。
川辺に建つ、あの古い三階建ての山小屋風建物だ。
そこで、俺は俺を見つめていた。なんというか、幽体離脱したみたいに宙をふわふわと漂っていて、そのまま下で生活している別の「俺」を眺めている感じだった。真下にいる「俺」はこちらに気がつくこともなく、普通に生活していた。どうやらすこし過去を見ているようだった。まだ夜中に音が鳴る恐怖を知らない「俺」が吞気にそこで暮らしていた。なあ、こんな家やめとけよ。そう声をかけてやりたかったが、夢の中でふわふわと宙を彷徨う俺に出来ることは何もなかった。ただぼうっと見つめているだけだ。
そのうち「俺」の隣にいつしか夜石のやつが座っていることに気がついた。ふたりで仲良く引っ越しの際に拾った古いソファに座っている。ふたりは話すでもなく、それぞれが好き勝手なことをしていた。「俺」はテレビを見てあくびを連発していたし、夜石のやつは古そうな本を抱えてただ黙々とそれを読んでいた。
夢だからどんな設定も自由なわけだが、確かにあいつと同棲とかしたらふたりともてんで勝手に生活してそうだよな、とおかしくなった。
そのうち、真下にいる「俺」はテレビにも飽きたらしく、ひとつ伸びをすると洗面所で顔を洗って、歯を磨き始めた。少しは勉強とかすればいいのにもう寝るらしい。こうして客観的に自分自身を眺めると、実に俺はたいしたことのないやつだった。低迷する実家の林業を立て直すとか大見得を切り、反対する親父や姉貴を振り払うように静岡から出て来て、あげく希望のゼミにも落ちて、オカルトサイトを彷徨っていた。おまけに手紙だけは寄越すように言っていた、唯一上京に賛成してくれた母親にもまだ手紙ひとつ書いてない。オチは安さに釣られてお化け屋敷に入居して、電波少女と巡り会う。つくづく頭を叩きたくなるやつだった。
俺が溜息まじりに睨みつける中、「俺」はさっさと寝室にこもってしまった。夜石がいるっていうのに、見えていないのか、電気まで消してしまっていた。夜石も電気が消えたのはわかったのか、本をぱたんと閉じるとそのままぼうっとしていた。
電気をつけてやるか、とふわふわと夜石のそばまで下りた時だった。
「そろそろだわ」
夜石のその言葉に、嫌な予感がした。
そして――月明かりだけが差し込む薄闇の中、その音は聞こえてきた。
どこかから、何かを引っ搔くような音。
彼岸と此岸が繫がるような、境界線上に鳴り響く不吉な旋律。
どこか密閉された空間から何かが外に出ようとするかのようなその音を聞くに及んで、俺の全身は硬直した。それは、テレビの怪奇特集とかでよくある、幽霊が出るって部屋に仕掛けたビデオ映像を見ているような気持ちだった。
この夢、ヤバいんじゃないか。
一刻も早く醒めないといけないんじゃないか。
だって、このままここにいたら――
この家に数字を刻み付ける、「何か」を見てしまうのではないか。
俺はもう必死に目を醒まそうともがいた。何か手に触れられるものはないかと泳ぐように手足を振り回す。しかし、何をどうしても夢は醒めなかった。まるでどっか別の世界から染み出してきた大きな黒い手に体ごと捕まっているようだった。出口のない部屋に閉じ込められたような絶望を感じつつ、夢の中では、俺の荒い息遣いだけが響き――そして、いつしか俺は夜石の隣にいた。
古い革張りソファの上で、俺は夜石を抱き抱えていた。
両の手のひらのすべてに夜石の体温を刻み込むように、夜石を弄ぶ。それは俺の意思であって俺の意思ではない。いや単純に十八の男の欲望として女の子に興味はあるが、俺の欲望はこんなに曲がっちゃいない。向こうに見えていない存在になってまで己の性欲を解放するなんてことを俺はしない。そのくらいの理性は、俺にだってあるはずだった。
だが――夜石には、怖がっているそぶりはなかった。
むしろ、恍惚としていた。その表情はヤバい。俺の理性が音を立てて飛んでいく。夜石の肌を舐める。服の上から胸をまさぐる。その柔らかな肉感を指先で堪能し尽くす。長いスカートがまくれ上がり、白い太ももが露になった。夜石は薄く目を開けていた。僅かに唇を開き、白い歯が見えた。やめろ。やめろ。やめろ。俺は俺の体内でそう叫んだが、沸き上がる異様な性欲を押しとどめることは出来なかった。
だが、その白い首筋に手をかけた瞬間――
俺は叫びそうになった。俺の腕は見覚えのあるものではなく、細く長い、どちらかといえば年老いたものとなっていた。その袖はグレーでよれていた。俺は、古びたスーツを着ていた。どこか線香臭い香りを嗅いだ気がした。震える腕をまっすぐ顔に伸ばして、頰を、鼻を、唇を撫で回す。そしてその感覚はおぞましいほど、俺の知ったものではなかった。確実に誰か他人のもので――そして、それが誰かを俺は知っていた。
あいつだ。
あの、視界の端に佇む男。そしてついに俺の顔は俺の意思と関係なく傾いた。月明かりが差し込む正面の窓へと向けられ――そこで夜石に覆いかぶさる男と目が合った。
その瞬間――
俺の意識は、飛んだ。
激しい身震いとともに、目を覚ます。
そこは異様にまばゆい蛍光灯が照らす、俺の新しいアパートだ。
すぐ横の卓袱台にはいまさっき食ったばかりのコンビニ弁当の空き箱が放置してあって、飲みかけのペットボトルのウーロン茶があった。枕元には大学で使っている教科書やらノートやらが入りっぱなしの鞄が放り投げてある。小さなベランダに通じるサッシには安物のカーテンがあって、すこし開いたサッシの隙間からの夜風に揺れていた。
大きく息を吐く。
まだ心臓が高鳴っていた。
バイトから帰ってきて、飯を食べたらいつしか寝込んでいたらしい。
マジでビビらせんな。誰にも向けようがない悪態をついて、俺はペットボトルを手に取った。三分の一ほど残っていたウーロン茶を一気に喉に流し込んだ。無性に喉が渇いていて、もうぬるいウーロン茶はむやみやたらと美味かった。飲み干すとようやく落ち着いてきて、髪をかきむしって息を吐いた。
「……落ち着け。夢だ。あんなことがあってまだ二週間ほどだ。心のどこかにあの恐怖がこびりついてても不思議じゃない。だからあんな夢を見ただけだ」
そう自分に言い聞かせるように呟いたが、打ち叩くような鼓動は収まらなかった。まだ、夜石の柔らかな肢体の感触が生々しく両手に溢れていた。
その時、ずっと頭の中で何かが鳴り響いていることに気がついた。
それは隣の家の電話のような、ポケットの中に入れっぱなしで鳴っているケータイのような、小さいが確実な警告音だった。なんだ……何が気になってる。部屋をぐるりと見回した。白い新しい壁紙が俺を囲んでいて、ろくに家具も揃えていない殺風景な部屋だけがそこにある。寝る前と何も変わっていない。しかし頭の中のベルは執拗に鳴り続けていた。
「なんだってんだ」
俺は立ち上がってもう一度部屋中を眺めた。異常なんてない。怖い夢の余韻がまだ体に残っているだけだ。そう思おうとして気がついた。壁沿いにある小さなロフトへと続く梯子階段。ロフトの照明はまた別なのでそこだけ薄暗い。その瞬間、冷たいものが背筋を伝った。
なんで俺はロフトつきなんて物件にしちまったのか。
あの薄暗い、今にも誰かが不意に覗き込んできそうな空間は、嫌な想像ばかり膨らませる。けど、どうも俺の中の警報機はあのロフトに向けて発せられているような気がした。勇気を振り絞って上を見上げると、頭の中の音はより大きくなっていくようだった。ひとつ唾を吞み込んでから、俺は梯子の横のロフトの電気をつけた。そして足をかけ、一段一段ゆっくりと梯子を上っていった。それから、意を決して思い切りロフトの中を覗き込んだ。
ロフトには当然だが誰もいなかった。布団代わりに買った安物のキャンプ用寝袋と数冊の本が散らばっているだけだ。
「はは」
安堵の溜息をついて、降りようと思った時だった。それに気がついた。寝袋の向こう、一番の奥の壁に何かが見えた。傷だ。二本の線が乱暴に引かれていた。
声にならぬ声で叫ぶと同時に、梯子から転がり落ちた。もの凄い音がして、膝と肩もしたたか打ったがそれどころじゃなかった。そのままなんとか財布とケータイだけを手に、玄関から外に飛び出した。
線じゃねえ。あれは線なんかじゃない――あれは……
『二』だ。
数字の『二』だ。
引っ越してきたのに――カウントダウンはまだ続いてるのだ。
夜の住宅街に飛び出して、とにかくどこか灯りを求めて近くのコンビニまで駆けた。駆けながらケータイを操作して、『異界ヶ淵』にアクセスした。そこの掲示板を片っ端から覗く。鴉さんでもすーさんでも夜石でも誰でもいい。誰か知り合いが書き込んでいないか必死に探した。そんで見つけた。【不思議空間☆伊勢神宮】という名のスレッドに、三十分ほど前“夜石”が書き込んでいた。どうしたら皇大神宮の八咫鏡が見られるか、と不謹慎にも真剣に議論していた掲示板の住人どもの流れをぶった切って、俺はそこに書き込んだ。
【おい、夜石。助けてくれ!】
議論を邪魔されたオカルトマニアどもは、俺の無粋な書き込みにいろいろと嘲笑のコメントを寄せてきたが、無視してさらに書き込んだ。
【夜石! 見てんだろ? すぐに連絡くれ。あいつまだ憑いてきてる】
だが、夜石から返事があるわけでもなく、余計伊勢神宮マニアを怒らせただけだった。俺はコンビニに着いてからも駐車場のところで『異界ヶ淵』の他の掲示板を回ってみた。夜石が興味持ちそうな話題のところに手当たり次第書き込んだ。すぐに連絡しろと。しかしあんまりあちこちに書き込みすぎたのか、そのうち掲示板中が大騒ぎになって荒らしだなんだと呼ばれ始める。サイトからブロックされてしまうともうあいつと連絡をとる方法が無くなるので、俺は「違う、荒らしじゃない。本気で困ってるんだ!」と書き込んで反論したが「それが荒らしというのだ」とか妙に冷静な突っ込みを受けてカリカリきた。そのうち俺のことを「DQN」呼ばわりしたやつをきっかけに、もう俺の追い込まれた感情が爆発してつい「この腐れオカルト野郎」とか書き込んでしまったせいで場は炎上した。ほとんど百対一くらいでもうありとあらゆる罵詈雑言を浴びせられ続けた。世界中が敵になったかのような感覚に陥り、ぼろぼろになってケータイを投げ捨てようかと思ったその時だった。
【キミは、ナギか?】
そう書き込んだやつがいた。
名前のところを見ると、“クリシュナ”と表示されていた。
ついに俺の元に降臨してくれたその奇跡の名前に、俺は崩れ落ちそうになった。なんとか返事を書こうとしたが、指が震えてうまくいかない。
そうこうしているうちに、クリシュナさんはまた書き込んでくれた。
そして――
そこにはこう記されていた。
【今すぐ、昼間渡した名刺の場所に来るんだ】
5
深夜の二時を過ぎていた。
俺は自転車も置いてきてしまったので、とぼとぼと歩きながら大学へと向かった。
当然ながら正門は閉められていて、その横にある詰め所から警備員にうさんくさげな目で睨まれた。その視線から逃げるように、俺はぐるりと大学の塀沿いに左手のケヤキ並木を進む。ここをしばらく歩くと、ビートニク研究会の部室のある西部室棟へとたどり着く。
「栗本詩那――クリシュナか」
迂闊すぎる。
俺は何も気がついてなかった。
まさか『異界ヶ淵』管理人・クリシュナが、同じ大学に所属している人間だとは――
そして、まさかあの童顔少女がクリシュナさんだとは、思ってもみなかった。
まっすぐに一番奥の部室棟に入り、中に入って驚いた。まだ学生たちは結構残っていて騒いでいる部もある。ここは不夜城か、と呆れつつも、そんな学生特有のノリを目の当たりにして、今時幽霊騒ぎに怯えている自分が恥ずかしくなってきた。同時に、なんてトボケた騒動に俺は巻き込まれているのか、と情けなくもなってきた。足取り重く、三階のビートニク研究会まで行くと磨りガラスの向こうには電気が灯っていた。扉をノックすると聞き覚えのある声がしたので、俺は声をかけた。
「“ナギ”です。山田凪人です」
「開いてるよ」
「失礼します」
扉を開けると、中は十畳ほどのコンクリ打ちっぱなしの殺風景な空間で薄暗かった。
壁に鉄製のキャビネットがひとつ。
部屋の中央には大きめのワークテーブル。
そしてそのテーブルの周りに四つほど椅子がしつらえてあり、そこには三人の男女がいた。
その中央――
そこには、数日前に大学の教室で俺に名刺を渡してきた童顔少女がいた。
赤い眼鏡は相変わらずだったが、黒く染め抜いた巫女衣装のようなものに身を包み、高下駄を履いて、椅子の上にちょこんと座っている。これまた似合い過ぎだ。俺にそっちの趣味はないが、ロリ好きコスプレ好きの気持ちが理解できそうで危うい。
「あの、キミ、いや、あなたがクリシュナさん?」
そう尋ねると、少女は不機嫌極まりない顔つきで頷いた。
「あの家からは即刻出るようにと忠告したはずだが」
「は?」
「鴉さんから聞いてないのか?」
「聞いてないです」
するとクリシュナさんはかわいらしく舌打ちして、とにかく入れ、と促した。
室内に入って改めて眺めると――小柄なオカルトサイト管理人の横にいるのは、どうにも学生とは思えぬ二十代後半くらいの白いシンプルな洋服に身を包んだ女性と、何をどうひいき目に見ても学生ではない、法衣を袈裟つきで着込んだ坊主頭のおっさんだった。
「え……あれ……えと」
俺が何と挨拶してよいかわからず、ただ入り口で立ちすくんでいると、クリシュナさんは小さな顎をしゃくって「そこに座れ」と言った。勧められるまま用意された椅子に座らされると、いきなり法衣のおっさんが俺の背後に立った。太い腕でむんずと俺の肩を摑む。
「あの……ちょっと、これなんすか?」
するとクリシュナさんは、眼鏡を押し上げながら言う。
「なんだって、キミは自分から向こう側を覗こうとするんだ」
そこから、怒濤の説教が始まった。
「いいかい? こちらが覗かなければ向こうからも見えやしないんだ。オカルトに興味持つのはいい。よくわからない事柄を知りたいと思うのは人間が持つ傑出した資質さ。けどね、向こう側には向こう側の事情がある。そこには見えないことによる言い訳なんて効かない。たとえ彼らが見えなかろうと、人にはちゃんと気配を感じ取る力だけは与えられている。ここは薄気味悪い、と思ったらちゃんと目に見えない存在を認知して敬意を払うべきなのさ」
その真剣な眼差しで、いかに愚かな俺でも悟った。
「つまり、俺、憑かれてたりするわけですか」
そう涙声で尋ねると、
「このままだと非常にまずいね」
その表情はいよいよ厳しく、俺は硬直した。
「クリシュナさん」
白い洋服の女性が声をかけた。女性はまったく化粧っけがなかったが、手には不思議な形をした数珠を持っていた。
「もう中に入りかけていますね」
……何? 中に何だって?
「ここで外せますか」
「やってみます」
ふたりはそんな訳のわからない会話をしていた。
「ちょっと、クリシュナさん。誰なんすかこのふたりは」
やたら力の強いおっさんから逃れようとしながら俺が尋ねると、
「『異界ヶ淵』の調査担当さ」
クリシュナさんは簡潔に答えた。
「調査担当?」
「後で説明する。黙っておとなしくしてろ」
「ダメです。本体はここにはいない」
女性のそんな声がどこか遠くから聞こえた。
「やはりあの家に行かないと」
「そうですね」
おっさんとクリシュナさんの声も、回転数の落ちたレコードのような音で響いていた。
俺はもうぐったりとしていた。おっさんの力は強かったが、それだけが原因じゃない。なんというか今までもの凄い荷物を背負わされてて倒れる寸前であったことにまるで気がついてなかったような――そんでそれに気がついた瞬間、全身の知覚器官が慌てて粘り着くような疲労を訴え出したような。そんな底の無い泥に体全体が沈み込んでいくような疲労感だけが体を覆っていた。
「動けないか。動かなくていい」
不思議と優しげなクリシュナさんの声を最後に、俺は気を失った。
正直、そこから先はよく覚えていない。車に乗らされたような気がする。長く揺れていたような気もする。意識がはっきりしたのは、体を絞り込むような、どこか覚えのある冷気を肌で感じたからだった。体は相変わらず重くて意識は泥のようだったが、俺の生命の持つ防衛本能がここはダメだ、と叫んでいた。
気がつくと、俺はあの家の前にいた。
おっさんに背負われ、二階の玄関へと続く階段を上っていた。
――ダメだ、嫌だ、ここだけはもう勘弁だ。
そう叫んだつもりだったが、実際には指先すら動かせていなかった。俺の意思なんて無関係に、おっさんに背負われた俺は、クリシュナさんと白服の女性とともに再びあの家の玄関前に立っていた。クリシュナさんが扉を無造作に開ける。鍵をかけて出たはずだったのに、扉は音も無く開いていた。そして、中からは幽かな光が漏れ出していた。
「誰だ」
クリシュナさんの鋭く問い質す声がする。
俺はもうあまり思う通りにならない目蓋をぎゅっと瞑った。
――嫌だ。見たくねえ。
中に誰がいようともう俺は関わり合いになりたくない。ギブアップだ。俺はこの時決意した。今度、無事朝日が拝めたらもうまっすぐに静岡に帰ろう。所詮、俺ごときには魔都・東京でひとり生きていくなんて無理だったのだ。実家の事業を立て直したかったが、その為に勉強しようと東京に出てきたが、ヘタレな俺には一人暮らしなんて向いてなかったのだ。田舎で家族や仲間たちに囲まれてのんびり暮らしているのが性に合ってたんだ。反対した親父や姉ちゃんが正しかったってことだ。ああ、母さんだけは応援してくれたのに申し訳ない。だが俺だって頑張った。精一杯頑張ったんだ。けどこんな展開、俺には想像も出来なかったし、対処のしようもなくて――
「中に入って扉を閉めて」
家の中から、誰かが応えた。
その声には聞き覚えがあった。冷たく澄んでいて、どこか確定的なその物言い。
「これから起きることを知りたければ、そうしたほうがいい」
そうだ――この声は。
「夜石」
俺の呟きが、静まり返った周囲に響いた。
「よいし?」
いぶかるようなクリシュナさんの声に「こんばんは」と、吞気な夜石の挨拶がかぶさった。
「下の水道栓のところに合鍵があったから入らせてもらったの」
「入ろう」
クリシュナさんの鶴の一声で、おっさんは俺を背負ったまま、玄関に入った。そのまま靴を脱いで建物の居間へと進む。背後からクリシュナさんと白服の女性も続いた。おっさんの肩越しに様子を窺うと、夜石はもう何も無い居間の真ん中に体育座りして、小さな空き缶にロウソクを灯していた。仄かな明るさの正体はそれだった。
「キミは誰で、ここで何をしている」
クリシュナさんの叱責にも似たその声に、夜石はのんびりと答える。
「静かにして。ここにその人を連れてきたということは、あなたもこの家で起きていることの正体に気がついているのでしょう」
「よいし……そうか」
クリシュナさんが呻いた。
「キミが“夜石”か。『異界ヶ淵』に時々書き込んでいる子だな」
夜石はただ沈黙を守ったが、クリシュナさんは、舌打ちして続けた。
「キミがオカルトに興味を持つのはいい。だけど興味を持つことと実際に淵を歩くことは別だ。キミの遊んでいる場所が、とてもあやふやな境界線だという自覚は持つべきさ」
「心配いらないわ」
クリシュナさんの厳しい口調に、夜石は淡々と答える。
「その自覚だけは自信があるの」
……すげえ。この剣幕のクリシュナさんにも怯みやしねえ。
女ってのはこれだから怖い。考えたらうちの姉貴だって実に怖かったし、母親も実のところマジ切れすると親父より怖い。
だが、クリシュナさんは、どこか寂しげに言った。
「わかってる――わかってるさ。君のような子を前に見たことがある。だからこそ言うんだ。闇の持つ深さに何かを期待するような人間は、意図しようとしまいと関わったすべての人間を巻き込むことになるんだ。それはとても――とても、危険なことだ」
ゆっくりとおっさんの肩から床に下ろされ、壁に寄りかかるように座らされた俺は、そんなふたりの訳わかんねえ会話を聞くともなく聞いていた。思うように力の入らない体を引きずって、自分の果てしない無力さを痛感していた。ここで起きたことも、今起きていることも、これから起きるはずのことも、まるで俺の今まで生きてきたルールから外れている。俺はここで何も出来ない。ただ薄気味悪い会話を聞いて、薄気味悪い芝居の傍観者にしかなれない。だが、その真相を知りたいという気持ちよりも、もうすべてから逃げ出したいという想いの方が強かった。とにかく早いところ、明るいところに出たかった。
「クリシュナさん」
その時、あの仁王坊主がふたりの間に割って入った。
「始まった」
その言葉と同時に音がした。
建物のどこかから、あの音が響き渡った。
……きり
きりきりきり
ききききききききききききききききききき
すべてを制圧するように、あの音だけが鳴り響いていた。きりきりかりかりと、どこかで何かが軋み合う。何かを刻み付けている。今までで一番音が大きかった。この建物を外から握りつぶしているように感じられて必死に目を瞑った。俺はもう完全に涙目で、世界を気味の悪い音だけが満たしていた。
――もう、やめろ。許してくれ。
そう泣き叫びかけた瞬間、夜石は言った。
「すてき」
その嬉しそうな声が耳に入ってきて、俺はなんかもうむしろ腹が立ってきた。
――すてきって、おまえマジでおかしいんじゃないのか。だいたい夜の夜中に霊がうろうろする家にひとり忍び込んでロウソクひとつで座ってるなんて尋常の沙汰じゃないぞ。ああそうか、おまえはあれだったな。幽霊と友達みたいなやつだったな。じゃあちょうどいい。おまえのお友達にこれ以上俺をビビらせないようにいってくれ。もともとこの家に住んでたところに俺が邪魔したのは悪かった。けど俺は知らなかったんだ。ちゃんと片付けて出て行ったんだからもう俺には構わないでくれって伝えてくれ。つーか新居にまで現れてカウントダウンするような真似はすんなって伝えてくれ。世の中に何の恨みがあんのか知らねえが俺はまったくの無関係だってきっちり伝えてくれ。
相変わらず体は動かないので当然口も動かなかったが、俺は全身全霊で夜石にそう訴えた。
だが、夜石は俺の気持ちなんて考慮しない。
「ねえ、怖い?」
なんかよくわからねえ期待に満ちた声が俺の耳元でした。すぐ近くに夜石が来ているらしかったが、俺は断固として目を開けなかった。代わりに心の中で叫んでやった。
――ああ、怖え。めちゃくちゃ怖え。体は動かないし意味わからない音は頭ん中響き渡ってるし、周りにいるのは幽霊と電波だけだ。そうだ、この家にはいま電波しかいねえ。気味悪い記事を集めまくって編集してる電波管理人に、いい年して奇妙な法具持ってる電波女と、ボディビルが趣味じゃねえのかって仁王のような電波坊主。そんでおまえだ。黒ずくめで前髪ぱっつん電波少女。おまけに姿も見せねえで数字刻むなんて嫌がらせする暗い霊までいやがる。マジでいいかげんにしろ。おまえら実はここで臨時オフ会を楽しんでるんじゃねえのか。俺がここで失禁するのを待ってるんじゃねえのか。なあ、もうやめろ。勘弁してくれ。俺が悪かった。俺はもうこんなところにこれ以上いたくねえ。もうあんな数字も見たくねえ。次は『一』で、その後はどうなる。俺は知りたくねえ。つーか殺るんならひと思いに殺れ。こんなじりじりと追いつめてくるような真似は勘弁してくれ――
――が。
いつの間にか、音は止んでいた。
固く目を瞑った、俺の真っ暗な世界の外は静けさで満ちていた。
なんだ。どうした。何が起きた――
みんながそこにいるのか不安になったが、もし目を開けて何か別のものがいたらと思うと目を開けるのも怖かった。
だが、このままでいるわけにもいかない。もう疲れきっていた。やけくそに似た思いだった。殺すなら殺せ。これ以上いびり殺されるような真似はごめんだ。いっそひと思いにバッドエンドに辿り着いたほうがよっぽどマシな気がした。
涙の滲んだ目を見開いた。だが、そこはさっきと何も変わらぬ俺が住んでいた家だった。そこにはみんながいた。
クリシュナさんは寝室への扉の前。
白服の女性は、目を瞑ったまま居間の中央。
仁王坊主は俺の横に佇み、夜石だけは俺を無表情に見つめていた。
俺が目を瞑る前と同じ立ち位置で全員が立ち尽くしていた。俺はぼうっと涙の滲む瞳を夜石の視線に重ねると、夜石はひとつ頷いた。それからまっすぐに視線を落とす。
俺もその視線の先を追った。
それは、俺の足下だった。
両足の間を大きく縦断するように、極太の傷が床に刻み込まれていた。
「う、うわああああっ」
俺は叫び、同時に粘り着いたように動かなかった体をそこから引き離した。だがもう腰が抜けていてかくかくと奇妙な動きにしかならない。だがとにかく、俺は動かせるところを総動員してそこから逃げた。
もう言われなくたってわかる。
これは――『一』だ。
「『一』だ。最後だ。もう嫌だ、俺は帰る。静岡に帰る」
「落ち着け、ナギくん」
クリシュナさんの声がした。いつの間にか俺の名称はナギくんになっていて、そんなことに気がつきもせず俺は這った。夢中でその数字から逃れようとした。
「嫌だ。ここにいたらどうなるってんだ。次起きることは何なんだ。俺はどうなるんだ」
「しっかりしろ、ナギくん」
再びクリシュナさんの声がして――ちくしょう多分おっさんだ。どすんともの凄い衝撃が俺の背中に響いた。続いて、あの白服の女性の何か意味不明な言葉が口ずさまれた。聞いたことのない奇妙な韻を踏む、頭がおかしくなりそうな言霊の数々――
だが必死に這い回る俺の前に、黒く長いスカートが立ちふさがった。
いつもの暗黒の衣服に身を包んだ夜石だった。
「どけ」
俺はそう震える声で言ったが、ガラス玉でもなく、きらきらと輝かせるでもなく、夜石は不思議な眼差しで俺を見つめながら手を差し出した。
「それを渡して」
…………それ?
「あなたが持っている、それ」
言われて、俺は俺の手の中にあるものを見た。
そこにはアパートの鍵があった。ポケットに入れたままの鍵だった。それを俺は逆手にもっていて、鍵の先には木屑がついていた。しばらく意味がわからなかった。だが、その木屑がはらりと落ちて、足下に不吉に斬りつけられた『一』の文字の上に落ちた。
「え……」
――まさか。
――まさか、そんな。
「そう」
夜石は、囁くように言う。
「この家にずっと数字を刻んでいたのは、あなたなのだわ」
その言葉とともに――
俺の意識は白濁していった。
6
「ようするに、スキーマさ」
あれから五日ほどたったとある夕方だった。
大学のビー研の部室で、クリシュナさんは話してくれた。
「いや、逆スキーマか。あの家はね、人を不安にさせる家なんだ」
俺とクリシュナさんは、奇麗な夕日が差し込む部室でふたり向かい合っていた。
「不安にさせる……家?」
俺が阿呆みたいに繰り返すと、クリシュナさんはひとつ頷いた。
「かつて『異界ヶ淵』で似たような物件を調査したことがあるんだけどね――建物の構造が住む人間に奇妙な心理変化を及ぼすという例は、世界各地で多数報告されているんだ。中には殺人事件の現場になったものだってあるし、かつてそこに住んでいたという人間が犯罪に手を染めるケースも多数ある。そこに科学的な因果関係があるのか立証はされていない。けど、わたしはあると思っている。人間の精神なんて、ちょっとした負荷でどのような方向にも傾く、実にあやふやなものだからね」
「ちょ――ちょっと待ってくださいよ。つまり具体的にいうとどういうことですか?」
「あの物件はね、人の為に建てられたものじゃないということさ」
その言葉に、心臓を摑まれたような寒気がした。
「ここでは名前は伏せておく。けれどあの建物を建てた建築家は、もともと大学時代から幾つもの建築賞を受賞している、将来を嘱望された人だったんだ」
黄金色に照らされたクリシュナさんは、奇麗なストレートのおかっぱ頭をきらきらと輝かせながら、どこか思い出すように語った。
「とても真面目な人だったようだね。真面目すぎたといってもいい。とにかく建物とは何か――それを寝ずに追求する人だった。何より施主の喜ぶ顔が見たくて、工夫に工夫を重ねる人だったという。しかし、ある時気がついた。また君に設計を頼みたいと言われ、心血を注いで作った家が“改築”という名目で壊されていく虚しさに。家族構成が変わる。趣向が変わる。それは人生やってれば仕方の無いことなんだろう。しかし彼は耐えられなかった」
――大切に住めば、百年だって持つのに。
――たまには、人間が建物に合わせればいいのに。
「彼はそう言い残して、ある日あのアトリエから失踪したという。家族により捜索願が出されたが、その後は行方がわからなくなって、やがて数年後に死亡認定された。もう三十年以上前のことらしい。あのアトリエは彼が最後に建てた作品で、いつしか“願いの叶う家”と命名された」
クリシュナさんは三階の窓から見える住宅街を指差しながら言った。
「この国は、明治の文明開化とともに幾つもの伝統をかなぐり捨てた。そのひとつにわたしは住宅があると思う。瓦葺きの屋根は年々少なくなり、数世代が暮らし継いでいく建物は減少した。大量生産、大量消費の時代に入ったんだ。大事に受け継いでいくのではなく、数十年でリセットする生活形態が主流になった。そうすることで需要と供給という経済行為は満たされるからね。だけどわたしは、それによってこの国の民が本来持っていた、大事な何かがどんどん希薄になっているような気がしてならない」
その話を聞いて、俺は思い出した。
うちの親父も似たようなことを言っていた。
一本の丈夫で健康な樹木を育てるのに三十年はかかる。だが、そんな日本の林業は大量に輸入される新興国の安価な木材の前にいままさに存亡の危機にある。いや、自分たちの仕事の心配をしているんじゃない。樹木なんて安くいくらでも手に入る――そんな意識がこの国の人たちに根付くのが怖い、と親父は言っていた。昔の人々は森の神に祈り、感謝して木を切り出し、丁寧に家屋へと加工した。建て替える時も元の木材を再利用するように心がけた。この地震の多い島国で、法隆寺は千年経ってもあの威容を保っている。木の性質を知り尽くした当時の大工の技術も凄いが、それ以上に大切なのは自然からの贈り物に対する畏れなのだと言っていた。
俺は、木にまつわる職業の家に生まれた身として、頭を抱えた。
俺は建物を大切に思って暮らしてきただろうか。建てた人の思いというものに少しでも気持ちを傾けたことがあったろうか。そしてこの大都会で毎日どこかで見かけるリフォームやら新築やらの工事現場を思い描き、彼の願いが叶う日は来るのだろうかと、やりきれない気持ちになった。
クリシュナさんによると、すべてはそうした建築家の意図を汲む、あの建物の構造に由来する事件であったという。クリシュナさんの知り合いの建築家に見てもらったところ、シンプルだが相当高度な建築技術が使われていたらしい。あの家鳴りだって建物を風雨や震災から持たせる為に、梁などの構造に多少の遊びを設け、あえて軋む構造にした為だったそうだ。
「階段下の意味ありげな空間は強固な家の中心点。建物で一番酷使されるキッチンのない構造。生活動線がいちいち切られる居住空間。まさに、耐久性を重視された家の為の家さ」
クリシュナさんは、赤い眼鏡をくいと上げてそう呟いた。
「本来、住人が主役となるべき家で、そうなってはいない。住人は住んでいるうちにここは自分以外のものの為に作られたのではないか、と必然的に感じることとなる。そこに心の均衡を乱す原因がある。そんな家に、東京に出てきてまだ日が浅く、友人も少ないキミが住んだらどうなるか」
「つまり、幽霊なんかじゃないってことですか」
「そう、都会にひとり上京したキミの精神状態は、キミの自覚なくずいぶん摩耗していたのだと思う。そこにあの音だ。キミは恐怖を感じつつも最初は耐えたことだろう。だがそれにもやがて限界がくる。すると人間はどうするか」
クリシュナさんは、眼鏡の下の大きな瞳を俺に向けた。
「恐怖から逃れるために、原因を作るんだ」
「原因を、作る?」
「そう。音が鳴る原因を作る。つまりキミは、無意識に夜、家の壁に数字を掘ったんだ」
「そんな――」
絶句した俺にクリシュナさんは詰め寄った。
「いいかい、ナギくん。恐怖はどこから来る? 無知から来るんだよ。だから人は学ぶ。恐怖から逃れようと理解不能なことを研究するんだ。人間の叡智はすべて恐怖から逃れるために積み上げられてきたんだよ。空腹の恐怖から調理研究が重ねられ、外気温の恐怖から衣服が研究され、外敵への恐怖から建造物や武器が研究されたんだ。みんなスタートは人の恐怖なんだ。夜、意味不明の音が鳴る。キミは考える。しかし家中どこをどう探しても音の原因がない。当たり前だ。音が鳴るように出来ている家が存在するなんてあらかじめ知識がなければわかりっこない。だとしたらどうする? 追いつめられたキミは音が鳴る原因を自ら作ったんだ。つまり逆スキーマさ」
そんなことがあるのか。
いや――あるのだろう。そうでなければ、ずっと履き続けていたスニーカーの靴裏に『四』という数字を刻み込まれることなんてありえない。ずっと履いていた俺でなければあり得ないはずだった。
下半身が震えていた。自分の意思とは無関係の行動をするもうひとりの自分。いや、自分が自分という機能をすべて把握しきれていないことが、無性に恐ろしかった。
「まあ――」
クリシュナさんは、椅子に腰を下ろすとひとつ溜息をついて付け足した。
「近くにそういう物件があることを知っていながら放置していたわたしも悪い。すまない」
そんなことを言って、クリシュナさんがおかっぱ頭を下げたので俺は慌てた。
「いやいやいや、やめてくださいよ。元はといえば俺が欲をかいたのが始まりで、家賃けちって引っ越すのも躊躇っていたわけですし。頭を上げてください」
俺が必死にそうなだめると、
「うむ、根本的にはキミが悪い」
あっさりクリシュナさんは頷いた。
「願い事を叶えるのに、近道なんてないんだ」
まったく言い訳も出来ず、俺はただ項垂れた。
が、そこで俺はまだひとつ疑問が解けていないことに気がついた。
「あれ、待てよ? んじゃどうして数字はカウントダウンされたわけですか?」
するとクリシュナさんは、さあね、と首を振った。
「え? わからないんですか?」
俺が訊き返すと、クリシュナさんはなぜか大きな瞳を面白そうに輝かせた。
「わからない。わからないが、恐らくキミは壁に十字を刻み付けたんだ」
「十字? 『七』じゃなくてですか?」
「そう、『十』という文字だ。しかしもともと数字のつもりじゃなかったかもしれない。キミにとってもなんでもよかったからね。音の原因となる何かを壁に刻み付ければキミの恐怖心は和らいだのだから。しかし、ここで今回の事件の原因となる、とある偶然が起きた。キミが刻み付けた箇所に、最初から、偶然、傷があったんだ。キミは無意識下で『十』と刻んだことをどこかで記憶している。なのに朝起きたらもともとあった傷と重なって『七』となった。そこで初めてキミの中にキミ以外の何か――“亡霊”が棲み着いた」
……ああ。
初めて数字を見た時の、どうしようもない不安感を思い出した。自分では対処出来ない、理解出来ない何かが起きていると知った時の感覚だった。
「それからのキミは、夜寝た後聞こえる音に沿って文字を刻み続けた。カウントダウンになったのはキミの無意識からくる希望だろう。数字が上がっていくと無限に続いてしまうからね。どこかでいつか終わるという希望を込めたのだと思う」
その後、クリシュナさんはいたずらっこのような顔つきで付け足した。
「しかし単純なキミのことだ。数字が終わったら本当に命を断ちかねないからな。よかったよ、間に合って」
そう言って、初めて柔らかな微笑みを見せてくれた。
「いいかい? これに懲りたら、これからは興味本位で霊の世界に立ち入らないことさ。そして生きている人同様、すべての存在に敬意を払うべきだ。それが『異界ヶ淵』の基本趣旨なのさ」
そんなことを大真面目にいうクリシュナさんは、俺のイメージ通り、やっぱり純粋まっすぐな人だった。
まあ――
兄貴とか父親とかよりは、遥かに萌えキャラ的な容貌ではあったわけだが。
◯
こうして、こんがらがって複雑になってどうしようもなくなった糸は解かれた。
クリシュナさんは、俺が書き込みをしたその最初から、あの家が、住む人間に奇妙な不安定さをもたらす構造であることに気がついたのだという。あまり大事にせずに、間接的にその対処を鴉さんに託してくれていたらしかったが――もともといいかげんな鴉さんにさらに酒が入った為に、肝心のメッセージが伝わらなかったことから、こんなややこしい事態になったらしい。
まあ、それもこれも、こうしてすべて解決してみるともうどうでもよかった。
『ひとつだけ、警告しておく』
部室を出る時に、クリシュナさんに言われた。
『どうもキミはこっちの分野に対する耐性がない。オカルトサイトの管理人が言うことじゃないかもしれないが、あまりオカルトというジャンルに立ち入らないことだ。せめて東京に心打ち明けられる友人が出来て、彼女でも作って、しっかりとアイデンティティが確立されてから趣味程度で嗜むのがちょうどいい。特に――あの夜石という子みたいに入れ込んじゃダメだ』
……確かになあ。
クリシュナさんの言う通り、夜石は異常だ。あいつはなんていうか、どっぷり向こう側の世界に足を突っ込んじまっている。その怪奇に対する異様な集中力が原因であんな都市伝説のような噂が形作られたのだろう。
西部室棟の外に出ると、夕日がめちゃくちゃ奇麗だった。
透き通るようなオレンジ色は、俺の心の奥深くまでまっすぐに差し込んできた。
やべえ。
今回の件ですっかり涙腺の弱くなった俺は、平和の有り難みにまた涙ぐみそうになった。しかし、ぐっと耐えた。周りにはたくさんの学生がいるし、西部室棟の門の向こうは付属高校だ。ちょうど下校途中の女子高生もいっぱいいる。大学生としてみっともないところは見せられない。
だが、その時――
ふと、その中のひとりがじっとこちらを見つめていることに気がついた。
黒髪が奇麗で、色白で、スレンダーな女子だった。制服姿が実に眩しくて、ただ立っているだけのその姿は妙に世界から浮き立っていて……
「え……あれ?」
やがてその美しい少女に見覚えがあることに気がついた俺は、思わず駆け寄っていた。
「おまえ、ひょっとして夜石か?」
すると、その少女はガラス玉のような瞳を俺に向けてきた。
「ああ、あなた」
その寝ぼけた返事から判断するに、どうも俺を見つめていたわけではないらしい。
制服に身を包んだ夜石は、もともとの容姿もあってまた違った意味で浮いていた。相変わらず日常性という言葉からかけ離れたやつなのだ。
「よう、奇遇だな。おまえうちの付属校だったのか? いま何年なんだ?」
そう満面の笑みで、俺は語りかけたわけだが。
「そんなこと、あなたに何の関係があるのかしら」
夜石の返答は、実に冷たかった。
怪異を前にした時の、あの生命力に満ちた恍惚とした眼差しは欠片もない。
「久しぶりに登校したけど――来るんじゃなかったわ」
そううんざりとした表情で呟く夜石だったが、今日はあの鼻につんとくる匂いはなかった。どうやら風呂には入ったらしい。つややかな黒髪と、アイロンがけされた白いブラウスと、黒のタイ。俺は、そのコントラストに目を細めてから言ってやった。
「いいな、それ」
「何が?」
「いや、そういう風に清潔な格好で生活してる方がいい。制服も似合ってる」
だが、夜石は、くだらない、と俺に背を向けてしまった。
褒めてやったつもりなのだが、どうも機嫌を損ねたらしい。
「用がないなら行くわ」
そう踵を返した夜石を、俺は慌てて引き止めた。
「なんか向こうをずっと見てたけど、クリシュナさんに何か用か?」
「――クリシュナ」
その単語に反応するように、たちまち夜石のガラス玉のような瞳に生気が漲っていく。
「そう――『異界ヶ淵』は、ここにあるのね」
相変わらずオカルト関連にはレスポンスがいいじゃんか。
おかしくなった俺は、あえてそっち方向に話を進めてやった。
「おまえにも世話になったな。あの家でのこと全部聞いたよ。建物による錯乱なんてあるんだな。ホント、真相を聞いた時はビビったよ」
ここしばらく俺を覆っていた不安感が晴れたのもあるのだろう。俺はべらべらと喋った。喋りまくっていた。クリシュナさんに聞いたばかりの、今回の事件の真相のすべてを。建物の構造がどうとか、失踪した建築家の無念とか、そこから飛んで現代日本の抱える住宅問題とかとか。
だが、思ったよりも夜石の反応は悪かった。
俺の方に顔を向けもせず、それはよかった、と無感情に呟いてそのまま歩き出した。
そのどこか寂しげで、吹けば飛びそうな細い背中が妙に気になって、俺は追いかけた。
「なんだよ、元気ないな。どうした? なんかまだ気になることがあんのか?」
そう口にして、思い出した。
そういえば、こいつはあの日、あの家で俺に言った。
『気がついた?』と。
……そうだ。こいつはあの時、何に気がついたというのだろう?
俺がついそれを尋ねると、夜石は立ち止まった。
そして、ゆっくりと振り返り、尋ね返してきた。
「本当に聞きたいの?」
その暗く冷たい瞳に吞まれそうになりながら――
俺の中で誰かが、やめとけ、と言うのを聞いた。
ここから先はおまえが知るべき話じゃない、と警告を発していた。
「まだ今なら戻れるわ」
夜石は言った。
「こちらが覗けば向こうからも見えてしまう――そういう物語よ」
クリシュナさんにも言われたその言葉に、改めて鳥肌がたった。
だが――
どうしてだろう。
この時、俺には奇妙な興奮があった。こいつの見ている景色を見たいと思った。こいつの立っている場所に立ってみたいと思った。こいつの言葉がどうして俺の信じる世界をこれほど揺るがせるのか、その秘密を知りたいと思った。
「聞く。教えてくれ」
そう告げると、夜石が僅かに哀しげな表情を見せたのは、俺の勘違いだったのか。
だが――
後から思えば、ここが分岐点だった。
ここから始まる、奇怪でグロテスクで救いようの無い、人の闇を彷徨う物語。
此岸と彼岸の境界――“異界ヶ淵”を巡る冒険は、この瞬間始まった。
やがて夜石は、ひとつ頷いてから語り始めた。
「ずっと気になってたの。どうして“願いを叶える家”と呼ばれているのか」
「どうして? だってそれは――」
「この言葉には主語が抜けているわ。誰の、願いを叶える家なのか」
その言葉に、ぞっとして――
俺は早くも後悔し始めていた。
「あの家は希望の家なんかじゃない。私が感じたのはただ強烈な悪意だわ」
闇の城に千年の孤独とともに幽閉される王女のような表情で――夜石は囁く。
「姿を消した異常に建築物を愛した建築家。『七』から始まるカウントダウン。階段の下の謎の空間。誰かの願いを叶える家。これらを繫げる答えはひとつしかないわ」
鳥肌が止まらなかった。
こいつは何を言おうとしているのか。ここから何が顔を出そうとしているのか。
夜色の少女は、闇色の瞳を輝かせてそれを口にした。
「建築家は、まだあの階段の中にいるのだわ」
「ちょ……ちょっと待て」
「もちろんもう生きてないわ。けどそれならすべてが繫がる。どうして階段の下に無意味な空間があるのか。どうして願いの叶う家と命名されたのか。そして、どうして数字が『七』から始まったのかも」
「いや、説明はつかないだろ? 『七』から始まったんじゃなくて、もともとは『十』で、俺が偶然最初から傷のあった場所に――」
「違うわ」
その言葉は、俺の世界を歪ませた。
「あなたは最初に『十』と書いた。そこまではいい。けどそこにもともと傷なんてなかった。誰かが傷を付け足して『七』という数字に変えたのだわ」
「どうして……どうして、そんなことが言える?」
「見たの」
「何を」
「あなたの書き込んだ『十』の上から傷がついて、『七』となっているのを」
「じゃあ……じゃあ、クリシュナさんがあの家には霊なんていない、と言い続けたのは――」
すると、夜石はどこか寂しそうな顔をして西部室棟の方角を見た。
「知らないで生きていけるならばそれに勝る幸せなんてないから」
……は。
「それがあの人の優しさであり、私にないところなのだわ」
……ははは。
ははははははははははは。
笑いでもしないと気が狂いそうだった。
「噓だろ? 全部おまえの作り話なんだろ? それかあれだ。おまえがどこかで読んだオカルト話なんだ」
そうであってくれと、祈るように俺は笑い続けた。
夜石はそんな俺を哀れむような、悼むような眼差しで見つめていた。
「全部真実だわ。だって――」
もう反論の言葉すら出ない俺に、夜石は静かにとどめを刺した。
「あなたが運び出された後、見知らぬ男が階段で舌打ちしていたもの」
世界が暗転する中――
夜石の冷たく甘美な言葉だけが響いた。
「ようこそ、こちら側の世界へ」