フェノメノ
case:01「願いの叶う家」 浮〜flow
一肇 Illustration/安倍吉俊
注目の新鋭・一肇があの安倍吉俊とタッグを組んで『最前線』に登場! ーーそれは、ありとあらゆる怪異(ミステリー)を詰め込んだ青春怪異小説(ホラー)。
『人には見るべきでないものがあるんだよ』
今は亡きばあちゃんによく言われた台詞だったが、それは真実だった。
ガキの頃からオカルトに興味のあった俺は、大学入学と同時に、数々の異界の淵に踏み込んでそれを思い知った。いるのかいないのか誰もが明確に定義出来ない幽かな存在――亡霊。ここから始まる物語は、そんな彼らを巡る物語群だ。
そして、これはまた、あいつと俺の物語とも言える。
怪異を前に瞳を輝かせ、恍惚とした表情で吐かれるあいつの言葉は、いつも俺の信じる世界を歪ませた。立っている場所が揺らぐような不安を抱かせた。聞いているだけで背後を振り向けなくなり、扉の影の暗闇から誰かが覗いているような恐怖を感じさせた。
それはきっと、やつの語る言葉に向こう側の真実が含まれていたからだろう。幽かで、グロテスクで、傾いた、死んでいるやつだけに通用する真実が含まれていたからなのだろう。
あいつが消えてしまった今、ようやく俺はそれを知った。
ばあちゃんの言う通り、それはきっと見るべきでない世界だったのだ。生きている人間が知るべきでない物語であったのだ。
だが。
だが、俺はこれからそれを語ろうと思う。
そのすべてをここに語っていこうと思う。
だってそうでもしないと――あいつが浮かばれないから。
闇の淵で生き、闇の狭間でもがき抜いたあいつがあまりにも浮かばれないから。
そう――もう一度だけ言っておく。
ここからは、知るべきでない物語だ。
case:01 「願いの叶う家」 浮〜flow
1
なあ、母さん。
もし幽霊という存在がこの世にあるとして――
誰からもどこからも反論が出ないようにその存在を証明することが出来るのだろうか。
俺は、あとどれほど人類が進化したとしても無理だと思う。逆にいえば、誰からもどこからも反論が出ないように存在を否定することも出来ないわけだけど。
そういう意味でいえば、幽霊がいるいないを論じるのはまったくもって時間の無駄だ。だからきっとこの論争における勝ち組は、幽霊を純粋にエンターテイメントとして楽しんでいる者だろう。そう、それが俺であり、俗にいうオカルトマニアってやつだ。
母さんは知らないかもしれないが、これがまた実に世間で肩身の狭い存在なわけで――いい年こいて幽霊だ、UMAだ、と大騒ぎする俺たちを人々が笑っていることも知っている。だけどな、不可思議なことってのは世の中にいくらでもあるんだ。
そう――
例えば、いま俺が住んでいる家。
玉川上水のほとりにある、築三十年近くたつこの古い建物は、へんぴな場所にあることもあり、家賃がずば抜けて安かった。今年の春、上京したばかりの俺はとにかく安い物件を探していた。そこで見つけたのがこの物件だった。
自転車で十分ほど走らないとコンビニもない。周囲は暗く鬱蒼とした林に覆われていて、周りには街灯も少ないから夜なんて真っ暗だ。それでも、この古い建物はかっちょよかった。山小屋風の造りで、一階がガレージで、二階・三階が吹き抜けであるという、なんとも一人暮らしには贅沢な建物だった。キッチンは給湯室程度の狭さだったが、居間があって、和室があって、風呂もあり、おまけにアトリエもあった。なんでも、ある建築家が自分の仕事場として設計したものだという。俺は一目見て気に入った。なにしろ予算三万円だと東京武蔵野では、風呂付きの物件ですら稀なのだし、何よりそこには、無視出来ない謂れがあった。
『ここは、願いの叶う家なんですなあ』
ここを俺に紹介してくれた、恵比寿顔の不動産屋はそう言っていた。
『ここを建てた建築士さんも有名になられたし、次に入ったイラストレーターさんも忙しくなって都心に移られましたし、先月まで入っていた若いご夫婦もお子さんを授かったとかでちょうど空いたところで。あなたは実に運がいい』
そんなことを言われたら、すぐ契約しちまうってもんだろ?
で、俺は飛びついた。大学の同期連中が倍以上の家賃を支払ってうさぎ小屋に住んでいることに対する優越感もあったんだろうな。とにかくしばらくは俺はなんて運のいい男か、と初の一人暮らしは上々の滑り出しを見せたってわけだ。
で――ひと月もしないうちに、それが大きな間違いであると気がついたんだ。
夜寝ているとどこかで音がする。何か古い扉を懸命に開こうとしている、きいきいとした音だった。始めはどこか建て付けの悪いところがあるのかと思ったが、決まって深夜二時近くだけ鳴るのは妙だった。俺は寝室にしていた二階の隅の和室から居間に出てみた。すると音がやんだ。上か、と思って階段を上って三階のアトリエにあがる。しかし別に音がするものはない。そこはいずれもうすこしかっこよく整えようと思っていたが、現在は俺の机と本棚があるだけの殺風景な空間だ。見回したが窓も開いてないし、音の出るものもない。それからトイレにも風呂にも行ってみた。しかしどこからもその音の正体に繫がるものは発見出来なかった。気のせいかと寝ようと思った時だ。またその音がした。きいい、と古い木の軋む音。かりかりと何かを刻む音もする。ねずみとか猫とかそんな感じじゃない。長年苦しみ抜いた何かがどっか暗いところから這い出てこようとするような薄気味悪い音だった。
次第にその音は家のどこかから響いてくるというより、すぐ耳そばの空間から染み出してくるように感じられ始めた。結局、その日から家中の電気をつけて耳栓を押し込んで寝るようになったわけだが、しかし、問題は音だけではなくなった。
それは、今から二週間ほど前のことだ。
俺は、その決定的なものを見つけてしまった。
階段の踊り場の壁に、何か鋭いもので刻み込まれた『七』と読める傷跡があったのだ。
すぐさま家の戸締まりを確認した。誰も家屋に入った形跡なんてない。とんでもなく怖かったのもあったんだと思う。けっこうでかい傷跡だったが、これまで気がつかなかっただけだ、と無理やり思うようにした。だがそれから数日後、今度は風呂場で『六』を見つけた。窓の木枠にやはり何か鋭いもので傷つけられた跡だった。そして一週間前のことだ。トイレで『五』と読める数字を見つけるに至って、いかに楽天家の俺でも確信した。
この家には、何かがいる。
そして、これはカウントダウンなのだと。
俺は、すぐにその家を飛び出した。こんな家にこれ以上住んでいることなんて出来なかった。大学でまだ仲の良いやつもいない俺は、カラオケボックスやネットカフェで連泊する日が続いた。こんなこと誰にも相談出来ない。俺には坊さんの知り合いなんていないし、霊能者も同様だ。そんな時に気がついた。そうだ、『異界ヶ淵』の連中ならば、こういう相談をするのにうってつけではないか。俺同様、オカルトの深遠な世界に心惹かれる同好の士ならば、信じてくれるかもしれない。
というわけで――
彼らは、けして怪しい人たちじゃないんだ。
「いや、充分怪しいよね、あたしらは」
「……は?」
不意に頭上からそんな声が降ってきて、俺はのけぞった。
振り返ると、そこには“鴉さん”の白い顔があって、ひらひら手を振っていた。
「やあ、ナギくん」
「か、鴉さん。いつからいたんすか?」
俺はケータイで時間を確認した。
時刻は午後十時半。十一時集合のオフ会までまだ三十分もあった。
「ちょうど、キミがお母さんに“願いの叶う家”を説明し始めたあたりかな」
「……めちゃくちゃ書き始めじゃないですか」
便箋のセットをそそくさと鞄に仕舞いながら、俺が文句を言うと、
「ごめんごめん。だけど覗き見はあたしらの習性みたいなもんでしょ?」
そう言って、鴉さんはかわいらしく微笑んでみせた。
ここは、五日市街道沿いのファミレスだった。
これからここで俺がよく見ているオカルトサイトの臨時オフ会が開かれる。そして、この鴉さんという名もむろん本名じゃない。いわゆるネットで使用するハンドルネームだ。本名・山田凪人である俺が“ナギ”と名乗っているように、この人は“鴉”なのだ。会うのは今日で三度目になるが、いまだ本名は知らない。けどやはりオカルトサイト『異界ヶ淵』の常連で、今年の春からこのサイトを覗くようになった俺にとって、オカルト道の大先輩である。
彼女の格好は相変わらずだった。足首まで伸びる紫ずくめのビロードの服で、その下は黒のキャミソールのみ、という胸もと全開仕様。毎度、その飛び出しそうなバストが実に目のやり場に困るわけで――しかし、これは彼女のいわば制服なのだ。
「ずいぶん早いけど、今日は早引けですか?」
俺が尋ねると、
「まあね、占い師なんて客が来なけりゃすることないし」
羽織っていたストールを脱ぎながら、鴉さんは俺の真正面の席に腰掛けた。
「けど、こう言っちゃなんだけどさ」
胸もとに光る髑髏のアクセサリーを指先でくるくると弄びながら、彼女は俺を見た。
「キミの家、たぶん何でも無いよ」
「はい?」
「なんつったっけかな――ええと、ああそうそう、スキーマ」
「スキーマ?」
「認知科学の言葉らしいよ。怖い怖いと思っていると、天井の染みも人の顔に見えるってあれ。毎日家鳴りを聞いていたら、もともと家にあった傷が数字に見えてきたってのが真相だよ」
「……ま、マジですか?」
「マジマジ。ほら静岡のど田舎からひとりで上京して、しかも人生初の一人暮らしでしょ? そんでそんな古い木造家屋にひとりで住んだらそりゃあ無理もないよ。あたしの前の家も家鳴りがひどかったからわかる。あれ、ラップ音と似てて薄気味悪いんだよねえ」
そんなことを言いながら、ウェイトレスさんに手を挙げてビールを注文する鴉さんだった。
いや、ちょっと待ってくれ。もし、これがヘタレた俺の勘違いだとしたら今日のオフ会にこれから集まっちまう無数のオカルト猛者どもになんて言い訳したらいいのか。俺は一晩にして吹かし野郎としてあの素晴らしいサイトに出入り禁止を食らうのではないか。
「あーいいんだよ、気にしないで」
鴉さんはへらへらと笑った。
「もともと集まって薄気味悪い話するのが大好きな連中なんだから」
「いや、そんなわけにいかないでしょ? 今日の参加者は十人くらいはいましたし」
すると、鴉さんは、あれ? と俺の顔を見た。
「まだ、見てない?」
「何をですか?」
「今日の参加者、もう三十人は超えてるんじゃないかな」
……なんだと?
俺は慌ててケータイでオカルトサイト『異界ヶ淵』のオフ会掲示板にアクセスした。
そんで今日の【願いの叶う家・探索スレッド】を開き、仰天した。
「ホントだ。どうしてこんな急に増えたんすかね? みんなそんなに“願いの叶う家”に興味持ってるってことですか?」
「残念だけど、それは全然違う。ほら、超常連の“すーさん”とか“ジッポさん”とかも参加リストに入ってるでしょ? あの人たちはこんな怪談もどきじゃ動かないよ」
……いや、怪談もどきって。
複雑な顔をしていた俺をくすりと笑ってから、鴉さんは俺のケータイを取り上げて、何やら操作し始めた。やがて、その液晶画面を俺に向けてくる。
「こいつ。この、四番目の“夜石”ってハンドルのやつ。こいつが参加表明したから、ここまで人数が増えたんだと思う」
「何者なんですか、この夜石って」
「さあ」
鴉さんは、どこかにやにやとした顔つきでタバコを取り出した。使い込まれた細身のライターで火をつけて紫煙を吐き出しながら静かに呟いた。
「夜石に出逢ったやつは七日後に死ぬ」
「はい?」
「まだあるよ。夜石は生きた人間じゃない。夜石が参加したオフ会は恐ろしい結末を迎える。あとなんだっけな」
「な、なんですかそれ」
「いつからか『異界ヶ淵』で囁かれ始めた、まあ都市伝説の類かね。そのくせ誰も夜石と出逢っていない。夜石がおっさんなのか、男か女なのかもわからない。ただ、夜石が来たオフ会に参加した者は一様に口をつぐんでしまうんだ。スレッドごとなくなる。参加者たちも『異界ヶ淵』に来なくなるのか、それとも――」
「それとも?」
「死んだのか」
その低い囁きに、首筋から背骨にかけて冷水を浴びせられたような心地がした。一方、鴉さんは運ばれてきた水滴眩しいビールを嬉しそうに受け取って、
「ぐあー、うまい!」
吞気にそんな声を上げていた。
「そんなの……ただの噂でしょう?」
俺がそう尋ねると、そうだね、と鴉さんは笑った。
「まあつまり、たとえ“願いの叶う家”が外れでも“夜石”という肴があるから、今日みんな楽しみに集まってくるわけよ。だから、キミはそんなに気に病む必要がないってわけ」
そうは言われたが、俺はかなり複雑だった。
今の今まで、そして今日の今日まで、俺は家に帰ることも出来なくてひとり恐怖に震えていたのだ。それで『異界ヶ淵』に集うオカルト猛者たちの意見を伺おうと、今日のオフ会をわざわざ催したわけだった。それが会うなり俺の勘違いだ、と一蹴されたからといってもすぐに、ああそうですか、と震えがおさまるわけではない。
「でも――その夜石ってやつが興味を持ったということは、“願いの叶う家”は本物だとも言えますよね?」
「どうかなー。あたしとしては取るに足らない怪談がどう夜石くんの登場で薄気味悪くなるのか興味あるだけなんだけど」
……取るに足らないって。
「それでも気になるなら『異界ヶ淵』には心霊スポットを研究するページがあるからさ。そこに調査申請してみればいいじゃん。けど、あたしは笑われて終わるのが関の山だと思うけど」
あっという間にビールを飲み干して、そう笑う鴉さんだった。
確かに、俺がよく入り浸っているオカルトサイト『異界ヶ淵』では、有名無名問わず全国の心霊スポットの実地調査もしている。
調査を終えた心霊スポットには、AからDの四段階の評価がなされ、Aがもっとも危険なスポットと言われている。この評価がまた独特で、高名な将門首塚やお岩稲荷などは、『異界ヶ淵』の評価ではともにDランク――つまり、もっとも危険度の低いスポットと評価されていた。なんでも、あそこはすでに人間と霊の双方が互いへの敬意を元に「棲み分けている」からなのだという。
逆に、Aランク認定されているのは、世間的には無名の場所が多い。痴情のもつれなどどろどろの感情の果てに起きた殺人事件現場や、死のその瞬間まで妄執をまき散らした老人の孤独死現場などがそうだった。そういうところにとどまる霊はただ現世に対する恨みの塊であり、すでに人格もなく、近づくものに救いようのない悪意を及ぼすのだという。
そんなことを考えていたら、いつしか鴉さんは俺の顔を覗き込んでいた。
「おいナギくん」
「はい」
「キミ、出逢いの相が出てる」
「はい?」
「しかもこれは――女の子だ」
……マジですか。
その言葉に、つい俺の頰も緩んでしまった。
「もうちょっと、詳しく教えてください」
「うーん」
そこで鴉さんは、胸もとのやたらリアルな髑髏アクセサリーをぐりぐりいじりながら続けた。
「なんてゆーかね、すごく濃い出逢い。ふたつの割かれた魂が再び出逢うような。だけどね――」
鴉さんは俺を透かしてどこか別の世界を見るような視線で告げた。
「その子との出逢いが果たしてキミの幸せに直結するかというと微妙なんだけど」
「なんですかそれ」
「しかも……あれ? もうこの子死んでね?」
…………おい。
つーか、それ憑かれるとかじゃないのか?
冗談じゃねえとか思いつつも、考えたらいつも俺は鴉さんと出逢う時にこんな不吉なことを言われまくっていた。前は自転車運があるとか言われた帰りによそ見運転のママチャリに追突されたし、金運があるとかいうから喜んでたら家で金色の画鋲を踏んだりした。つまり、この人は人の不幸を不幸と感じさせない表現で伝える、占い師としては微妙な技術があるのだ。
「あのね、鴉さん。あなた占い師なら不幸を避ける方法を教えるべきじゃないですか?」
俺がそう言うと、
「だって不幸を不幸と思うかは本人次第だもん」
かわいらしく舌を出して、通りかかった店員に「ビールおかわり!」と声かけしていた。
そんな鴉さんを呆れて見守っていると、連続して入り口ドアのチャイムが鳴って、次々に怪しげな連中が入ってくる。鴉さんの姿を認めてまっすぐにこちらに向かって来る様子から窺うに、恐らくは、今日のオフ会の参加者たちだと思われる。
「やあやあ、鴉さん。いつもお奇麗で」
「丸さんも久しぶり」
「わくわくしますな」
「因果な性分だよねー、お互いに」
そんな会話を繰り広げながら、俺の陣取っていたファミレスの一番奥の席は徐々に賑やかになっていった。ひとりふたりと増えていくその顔にはたまに知った顔もあったが大部分は見知らぬ顔だ。東京でのオフ会には積極的に参加している俺だったが、毎回違う顔を大量に見つけるとつくづくオカルトの世界は深いと言わざるをえない。
十一時をわずかに過ぎた頃には、ファミレスの奥の席に集まった異様な趣味を持つ集団は、ついに三十名を超えていた。つーか十人ってことだったからファミレスを集合場所にしたわけなのに、これは反則だ。ぎこちない笑顔を俺に向けるウェイトレスさんたちの視線が痛い。
「まだ来ますかね?」
他の参加者と談笑していた鴉さんにそっと尋ねると、いまさら遅いでしょ、とほんのり頰を赤くした鴉さんに言われた。
「毎回参加申請しないで現れるのが何人かいるから、もうちっと増えるかな」
「困るじゃないですか」
「これじゃあ“夜石”も逃げちゃうよねえ」
鴉さんは明るくコメントするが――
これはちょっとマズいんじゃないのか。
◯
「で、どいつが夜石だ?」
案の定、一時間も経たない内に、“願いの叶う家”の話題は消し飛んでいた。
ファミレスを埋めた無数のオカルト猛者たちは、誰もがぐるぐると周囲を見回し、呪われた“夜石”を探すことだけに必死になっていた。
「よし、ここはひとつ自己紹介を一巡させることを提案しまっす!」
“教授”というハンドルのおっさんが、すでに赤い顔つきで言い出した。
テーブルにビールの空ジョッキが幾つも転がっていることから見て、この人も相当の酒飲みらしい。するとその声を合図に「やろうやろう」と合唱が始まり、たちまちひとりひとり立ち上がっての挨拶が始まった。参加者の半数にすでに酒が入っていることもあり、そこにはすでにオカルトマニアの雰囲気はない。完全に宴会のノリである。
「一番! 教授でっす! 得意オカルト分野は棄民族史です!」
「二番! うさぎです。大好きなのは両面スクナ様伝承です!」
「三番! ハーレーです! 私の一番ぞくぞくするのはオーパーツ関連です! 中でも現在はヴォイニック写本を研究しています!」
何が一番二番三番だ。つーかうさぎさんもハーレーさんも乗ってんじゃねえ。
必要以上にノリのよいオカルト好き連中は次々に自己紹介し始めた。それもとんでもない大声だ。店中の客からの鋭い非難の視線を、俺はひとり勝手に受けまくっていた。
「七番、鴉です!」
鴉さんが元気よく立ち上がるとひときわ大きな拍手が沸き、それに応えるように愛想を振りまき始めた辺りで俺はもう諦めた。考えたらいつもこんなオフ会になってしまうのが、『異界ヶ淵』のオカルトサイトらしからぬ特徴だった。
「ほれ、ナギくん。次はキミだ」
鴉さんに促されて、俺はしぶしぶ立ち上がった。
「えーと、八番。ナギです。大学生してます」
「好きなオカルト分野は?」
「ああ、不思議な話はなんでも好きですけど……今は心霊関係ですかね」
どこかから飛んだ質問に適当に答えを返すと「硬い硬い!」「吞みが足りないぞ!」という声が上がって勝手にビールが注文された。つーか俺はまだ十八だ。未成年だ。吞んだらまずいだろ。
「大丈夫、大丈夫。あたしが吞むからさ。吞むふりだけしてりゃあ、この連中は納得するんだから」
俺の顔色を察した鴉さんが手のひらで俺のけつをぱんぱん叩きながら笑う。
まあ何にしても、こうして三十余名の自己紹介が一巡したわけだが――
結論から言おう。
この場に夜石というハンドルネームのやつなんて、いなかった。
「なんだ、いないじゃないか」
「夜石に会いたかったのに」
「誰かハンドルごまかしてないか」
そんな声が次々に起きたが、互いに初対面というのも珍しくないオフ会という特殊空間では、誰が噓をついてるとかわかろうはずもない。
「まあ、人数も揃ったことですし、そろそろ“願いの叶う家”とは何かについて――」
そう言いかけた俺の台詞におっかぶせるように“すーさん”が呟いた。
「オレは思うんだが」
確か酒屋を営んでいて、天狗の腕とか、河童の甲羅とか、怪しげな品物を収集するのが趣味という『異界ヶ淵』の古参だった。
「夜石って、クリシュナさんの別ハンドルじゃないのか」
溜息まじりに聞いていた俺は、その固有名詞に反応した。
「そうか。それだといろいろと話が繫がるな」
誰かが返した。
「夜石に関する噂をまとめると――ええと、夜石が関わると恐ろしい結末になる。夜石は生きた人間じゃない。夜石に出逢ったやつは七日後に死ぬ、とかそんなところだったか? けど死んだやつの話を具体的には聞かないし、クリシュナさんが隠れて参加して要調査心霊スポット登録したから掲示板からスレッドも消えるんじゃないかな、と私は思うのだが」
なるほど、と鴉さんも頷いた。
「ここ最近、クリシュナちゃんも参加しないしね。それならつじつま合うかも」
「ちょ、ちょっとすみません」
そこで俺は口を挟んだ。「そのクリシュナさんって、『異界ヶ淵』管理人のクリシュナさんですよね? みなさんは会ったことあるんですか?」
「会ったことあるも何も、以前は必ず参加してたよ」
「今日は来てないんですか」
「会いたいの?」
「そりゃあそうですよ」
だいたい俺が『異界ヶ淵』というサイトに興味を持ったのは、このクリシュナという人の魅力にあると言っていい。もともとオカルトが好きであったというのもあるが、『異界ヶ淵』というサイトには、明らかに他のオカルトサイトとは違う魅力があった。
それは、たとえばトップページにでかでかと記載された『人にしたら迷惑なことは、霊にとっても迷惑です』というおかしな一文を見てもわかる。もともと『異界ヶ淵』は、霊と人との棲み分けを進める為に設立されたサイトなのだ。大多数の人間には霊は見えない。だから悪気があるにしろないにしろ、迷惑をこうむっているのは霊の方が多いはずだ、というその論拠に俺は新鮮な感動を覚えた。そして『異界ヶ淵』内にある各心霊スポットの詳細記事を読むにつれ、その確信は深まっていった。どれも霊に対する愛に満ちていて、同時に生きた人間と死んだ人間双方に対する礼儀をけして忘れない姿勢がある。
『私は不思議に思う。どうして人は霊を怖がるばかりなのだろう。どこかの霊が人にちょっかいを出そうとして、それをまたどこかの霊がやめろよ、と止めているかもしれない可能性についてどうして誰も思い至らないのだろう。大多数の人間が霊障に脅かされずに暮らしていけるのは、善良な霊がそれなりの秩序を維持してくれているせいなのかもしれないのだ』
特にしびれたのが、この文章だ。
この言葉に、上京したばかりで大学で友達と呼べる存在もまだいなかった俺はがつんときた。もうこれ以上ないくらい、人と人はちゃんと誠意で繫がっているのだ、と確信出来た。人と人の関係性が希薄で、やたら他人との不必要な干渉を避けるこの東京でも、俺だってやっていけるんじゃないか。そう勇気づけられた。俺がこのサイトの掲示板に参加するようになったのは実にそれからなのだ。
毎日のように更新される奇怪な記事を読むにつれて、俺はどんどんこのクリシュナという人物に魅了されていった。その深く広範囲なオカルトの知識。理路整然とした凜とした文章。言葉の端々に感じる誠実さ。どれも俺には著しく不足しているものであり、俺が心からいま必要としている要素に満ちていた。俺はいつしかクリシュナさんを東京の兄とも父とも思うようになっていたのだ。
そして、叶うならば――
“願いの叶う家”も、クリシュナさん自身に検証してもらいたい、というのが俺の本音だった。
「く、く、クリシュナさんって何歳なんですか。どんな人なんですか」
「ナギくん、嚙んでるぞ」「落ち着け」「まあ吞め」
すーさんたちの突っ込みにもめげず、俺はさらに問い質した。
「教えてくださいよ。どうしたら会えるんですか?」
だがその疑問には、総勢三十人からの微妙な沈黙が返された。
「あの人はもうオフ会には出てこないんじゃないかな」
「どうしてですか?」
「いろいろあったからなー」
「いろいろって?」
「まあ、そのうちな。いずれキミも知る機会があると思うよ。でも今はそっとしといてやってくれ」
そんな曖昧な返事を返された。
一瞬しんと静まったファミレスの沈黙を破ったのは、たしかプログラマーをしてるとかいうジッポさんだった。
「あの……自分はその意見に反対です」
「その意見って?」
鴉さんの問いに、ジッポさんは分厚い眼鏡を押し上げておずおずと答えた。
「その、夜石とクリシュナさんが同一人物である、という説です」
「どういうこと?」
「実は、自分の知り合いが夜石の参加したオフ会に出たことがあります」
「ホントか?」
にわかに一同は沸き立った。
「どんなやつ?」「何歳くらい?」「男? 女?」「どのオフ会?」
皆一斉に問い質すと、ジッポさんは静かに答えた。
「オフ会は、半年ほど前にあった多摩地区の廃病院の探索です」
「で、夜石はどんなやつ?」
「ええと、それが……わからないんです」
「わからないってなんで?」
鴉さんの問いかけに、ジッポさんはひとつ唾を吞んでから答えた。
「そいつが入院したからです」
「入院?」
「精神科です」
その言葉で、賑やかになった一同はまた静まり返った。
沸き立っていた席の頭上に重苦しい何かが覆いかぶさったように誰もが黙り込んだ。
「精神科に入院って、それ夜石のせいなのか?」
すーさんの言葉に、ゆっくりとジッポさんは首を振った。
「わかりません。けどそいつは意識が戻った後も、よいし、としか呟かなくなって。だから、自分が今日ここに参加したのは、もし夜石がいたなら、あの日、あのオフ会でいったい何があったのか聞きたかったからです」
ジッポさんの言葉が終わると、全員しばらく口をつぐんだ。
それからはまた夜石の話題にファミレスは満たされた。そういえば、という感じで次々に夜石に関する話題が誰からともなくもたらされた。
その話を俺なりにまとめると――
どうやら“夜石”というのは、『異界ヶ淵』の掲示板にごく稀に姿を現すやつらしい。出現頻度こそ多くはないが、ほぼどんな話題のスレッドにも書き込みをするし、どんなにマニアックな話題にも的確な批評を下す。その出現時間がまちまちなことから見るに、夜石とは、ほぼ二十四時間パソコンの前にへばりついてるオカルトマニアだと思われる。クリシュナさんに匹敵する心霊知識を持ち、しかしその書き込みからはクリシュナさん独特の亡霊ラブな姿勢は感じないという。どちらかといえば、もっと薄気味悪い――言うなれば、死者がネットに紛れ込んでいるような薄気味悪さを感じるのだという。
「案外、夜石は生きている人間ではない、という噂が真実なのかもな」
雑誌でライターをしているという、ジャージさんが呟いた。
「ほら、少し前にネットであったろ。幽霊だけど質問ある? っていうスレ」
「ああ、IP検索かけても、パソコンもホストも不明で、マジもんか? って話題になったやつ?」
「オレの考えでは、霊体はパソコンとかデジタル機器と相性がいいと思うんだよな。ほら脳機能を動かしているのも微弱な電磁波だし」
「霊がネットに書き込むってそういう話はよく聞くよね」
「じゃあ、その夜石は――」
すーさんはまとめるように呟いた。
「オレらには見えないが――もう、ここにいるってことか?」
その言葉に、俺はぞっとした。
蛍光灯の明るい店内を、そっと見回した。
俺だけじゃなく、誰もがうそ寒いものを感じているようだった。
それから、場はなんとなく霊の話題を遠慮するようになった。いつしか、席ごとにそれぞれの話題で盛り上がるように自然に分散していった。
今日のオフ会の主催者たる俺としては、そろそろ本題に入りましょうと言いたかったが、もう誰も本題である俺の家のことなど覚えていないに違いない。加えて、俺の隣のすーさんが次々に繰り出す、薄気味悪い話が面白すぎた。骨董店で見つけたどうしても開けられない箱を巡る話、とあるホテルの壁にかかった絵画の裏のお札にまつわる怪談、人形に話しかけながらけたけたと笑う女の話――どれもが夜ひとりで眠れなくなっちまうってほど面白かった。
ついつい時間を忘れて、めくるめくオカルト談義に楽しく浸ってしまい――
深夜一時近くに、オフ会は散会してしまった。
2
「ちょっと待ってくださいよ!」
三々五々夜の街に散っていく『異界ヶ淵』の連中を横目に、俺はタクシーをつかまえようと大通りで手を挙げる鴉さんに追いすがった。
「俺の家はどうすんですか。“願いの叶う家”は」
すると、このいまいち使えない占い師は、赤い顔して手をひらひらとさせた。
「大丈夫大丈夫。あれだよ、ほら、えーと、スキーマ。あとなんだっけ、他にも伝えたげようと思ったことあったけど――あはは、忘れちったー」
「忘れちったじゃないでしょ……」
「大丈夫だって! キミには出逢いの相があるから! んじゃ!」
俺の背中をばんばんと叩き、鴉さんは停まったタクシーにご機嫌で乗り込んでいった。
走り出すタクシーを見送りつつ、俺はいつまでもそこに呆然としていた。
「……むう」
帰っていいものなのか。
あの家に――“願いの叶う家”に。
ネットで買った格安通学用ママチャリを引きずりながら、俺はとりあえず大通りを駅方向に向かって歩き出した。
東京は、深夜でも人が多い。特に俺の最寄り駅周辺には大学が多く、深夜でも昼間とほとんど変わりない人通りがある。駅ビルが見えてきた辺りで、俺は二人組の女子とぶつかりそうになって、謝った。ひとりは「なにこいつ」という目で見てきたが、もうひとりはにっこり笑って「ごめんなさい」と言ってくれた。俺ももう一度謝った。それだけのことだったが、俺の心は希望に満たされた。そうだ――俺にはこれから運命の出逢いが待っているのだ。それも女子だ。これはあれかもしれん。俺を苦しめたあの家の奇妙な出来事は、きっとここから起きるはずのハッピーな出来事の引き立て役なのだ。後から見ればきっと笑い話になるだけのイベントのひとつに過ぎないのだ。
そう考えたら、少し心が軽くなった。
それに、これで俺は引っ越さなくともよくなったのだ。実家からの仕送りなどない俺にとって、また引っ越し代がかかるというのはいろいろときつい。
「オフ会はそれなりに楽しかったし、いいことずくめじゃないか」
そう呟いて、ようやく自転車に跨がった。
くるりと方向転換して、数日ぶりに家に帰ることにした。
「今日のオフ会に来た連中だって一言も“願いの叶う家”についての話が出なかったんだ。それって裏を返せば、心霊事件ですらないってことだ。スレ主としてはまあ格好悪いけど、結果オーライだよな」
もしこれでみんなを引き連れて俺の家に行って、霊でもなんでもなかったらどうなっていたことだろう。俺はいい笑い者だったのだ。
すっかり理論武装を終えた俺は、気持ちのよい夜風を頰に受け、ペダルを勢いよく踏み込んだ。鼻歌まで出るほど回復していた。
だが――
駅前のアーケード街から、大通りに出る辺りで気がついた。
さっきから、左の足裏に妙な違和感があった。ずっとガムを踏んづけているかのような妙な感触があって、自転車を停め、その場でスニーカーを脱いだ。
そして左足だけ上げるように、ゴムの靴裏を見た俺は、固まった。
いっぺんにそれまでの高揚は去っていき、冷たく血が凍っていくのを感じた。
俺のスニーカーの裏には――
数字の『四』という文字がびっしりと刻み込まれていた。
◯
「ちくしょう、何がスキーマだ」
カウントダウンは続いているじゃないか。
ほとんど片足ステップでママチャリを押す、必死の形相の俺を道ゆく人々は例外なく見つめてきたが、それどころじゃない。
『四』の文字が刻まれたスニーカーは、その場で捨てた。あんな薄気味悪いものを履き続けていられるわけがない。コンクリートの冷たさと固さと散らばる小石が靴下越しに俺の足裏を刺したが、そんなことはどうでも良かった。
どうして、いつ、俺のスニーカーの裏に『四』という数字が書き込まれたのか。
このカウントダウンが尽きる時、俺はどうなってしまうのか。そして、この恐怖から逃れる為にはどうすればいいのか。
まったくわからないが、とにかく駆け続けた。
おしゃれな格好に身を包んだやつらが俺を見て何か笑っていたが、そんなのどうでもいい。とにかく温かな雰囲気の場所。
どこだ。
それは、どこだ――
やがてアーケード街を抜けたところに深夜営業のディスカウントショップを見つけて、俺は飛び込んだ。店内には、馬鹿明るい店のテーマソングがかかっていた。豊富な品揃えがとにかく安い、と連呼するだけの単純なメロディを一緒に口ずさんだ。化粧品の棚にもたれかかってぶつぶつ言ってる俺を派手な格好した女の子たちが避けていった。店員に「どこか具合がお悪いのですか」と声をかけられ、俺はようやく靴下だけの左足裏がじんじんと痛んでいることに気がついた。見ると、途中で割れたガラス片でも踏みつけたのか、靴下も切れて血が滲んでいる。絆創膏と靴下と一番安いスニーカーを買って、トイレで傷の手当をした。足裏を洗い、絆創膏を張って真新しい靴下を履く。安っぽいスニーカーはデザインも履き心地もいまいちだったが、裸足よりはずっとましだった。実に余計な出費ではあったが、人心地ついた。トイレにひとりでいるのは怖いのでまた店内に戻った。ウィンドウショッピングをするようにあても無く店内をうろうろとして深呼吸を繰り返す。
――俺はこれからどうすればいい。
そればかり考えたが、答えは出なかった。
いつしかぼうっとただショーウィンドウの前に突っ立ってただけの俺に、さっきの店員がまた声かけしてきて、俺は店を出た。仕方なく、またいつものネットカフェに赴いたが、すでに満室だった。近くのカラオケボックスも覗いたが、路上にまで待ちが出来ていた。数軒回ってみたがどこも同じだった。考えてみたら、土曜の夜なのだ。これはもう、始発が出るまで空くことはあるまい。
しかし、もう行くところなんて思いつかなかった。
自転車を引きずりながら、とにかく駅の周辺を回り続けて、警官に胡乱な目つきで見られたりした。いっそ補導された方が心強いかもしれないが、まだどこかに常識が残っていたのか、俺はまたふらふらと大通りに足を向けた。
五日市街道を行き交う車のヘッドライトが、俺を照らしては過ぎ去っていく。普段、排気ガス排出装置にしか見えない多すぎる車も、今の俺には有り難かった。とにかく科学的なもの、理論で説明出来るものが何より心強かった。
しかし――
もう限界かもしれん。
これではすっかりホームレスじゃないか。
夜でも灯りの絶えない東京で心許せる知り合いもいない。居場所もない。おまけに金も尽きようとしている。なんとなく夜空を見上げたが、雲一つないというのにそこに星はなかった。ただ塗り込めたような暗黒空間が広がっていた。
朝になったら、姉ちゃんに電話かけて金を融通してもらうか。そんで静岡に帰るか。俺には東京は無理でした、と言うのは情けなさすぎるがこれはさすがに不測の事態ってやつだ。俺じゃなくとも対処の方法なんてないだろう。母さん、すまん。せっかく俺の上京に味方してくれたのにな。
その時――
夜道の先に、ひと際強烈な光を見た。
顔を上げると、いつしか俺はまたさっきのファミレスの前に戻っていた。
「そっか……ここも二十四時間だっけか」
そんなことで百万の味方を得たような心地になって、膝が崩れかけた。
ここのドリンクバーだけならばネットカフェより安いし、土曜の夜なので人もいっぱいいる。最初からここに居続ければ良かったのだ。
「ははは」
そんな乾いた笑いを浮かべた俺は、多分端から見ればかなり近寄りたくないやつだったろう。
だが、ファミレスの自転車置き場にママチャリを停めて店内に入ろうとしてぎょっとした。
そこには、もっと近寄りたくねえと思わせる奇妙なやつがいた。
店の大きなガラス窓の外側。
そして、店を覆うように植えられたシダの茂みのその中に――
黒ずくめの少女がいた。
春だというのに黒いロングコートを着込んでいて、背中にかかる長い髪もスカートもブーツもすべてが真っ黒だった。そのくせ顔色だけは異様に白い。それが暗がりに潜んでいたものだから、まるで顔だけの何かが浮いているようだった。
……な、何してんだ、こいつ。
そいつはただ茂みの中に立ち、額をガラスに押し付けるようにして店内を覗いている。
薄気味悪くて、俺がわずかに後ずさった瞬間だった。
そいつは、ゆっくりと俺の方に顔を向けた。その頰はびっくりするくらい白くて、顔のすべてのパーツが夢みたいに整っていた。出来過ぎだと言いたくなるくらいの完璧な造形は、まるで何かの間違いで置き忘れられた等身大ビスクドール――そんな印象を受けた。
夜色の少女。
不意に、そんな言葉が浮かんだ。
それは、少女の瞳の色だ。灯りの加減か、妙に黒目の比率が多く感じられ、長い睫毛の下でそれは漆黒に輝いているように見えたのだ。前髪だけまっすぐに切り揃えた黒髪の下で、それはひたすら闇色に輝き、俺を見据えていた。
「……ひょっとして、おまえ」
自然と、その言葉は口をついて出た。
「――夜石、か?」
少女は、ただ黙って頷いた。
◯
夜石は、生きた人間じゃない。
夜石に出逢ったやつは、七日後に死ぬ。
夜石が関わった怪談は、恐ろしい結末が訪れる。
さっき聞いた話を思い浮かべながら、俺は目の前の少女を見つめていた。
夜石の前のテーブルには七つもグラスがあって、アイスコーヒーやらコーラやらオレンジジュースやら日本茶やら、それぞれ別種類のドリンクバーが集結していた。
「あのさ。それ一品ずつ持ってくるのが礼儀じゃないか?」
俺が呆れたように言うと、
「すべて飲めば文句はないはずだわ」
夜石はグラスから目を離さずにそう言い返すと、次から次に口をつけた。
オレンジジュースを飲んで、アイスコーヒー、そんで温かい日本茶、コーラ。律儀にその順番を繰り返して時折、アクセントのようにルイボスティーと紅茶とメロンソーダを加える。その順番に何か意味があるのかわからんが、こいつがやると何か歴史を経た宗教の儀式っぽく見えてくるから不思議だった。
俺は改めて、夜石と名乗る少女をまじまじと観察した。
年頃は、まだ高校生といったところか。明るいところで真っ正面から見るに、とんでもない美貌の持ち主だった。だが、問題は彼女の瞳だ。ガラス玉のようなその瞳は、どこかを見ているようで見ていない。同じ世界を共有していないと感じさせるその雰囲気が、彼女の周囲に独特のバリアを張っていた。お姫様の持つ高貴さというよりは、どちらかといえば、魔女の弟子っていったところが近い。
「なあ」
俺は、忙しく飲み物を漁る黒ずくめの少女に尋ねた。
「おまえ、なんで今日のオフ会に来なかったんだ?」
「いたわ」
「いやでも、さっきみんながいた時に来なかったじゃないか」
「いたわ。ずっとあそこに」
そう指差す先は、最初に俺が夜石を見つけた窓ガラスの向こう――つまり店の外の茂みである。
……あそこで? ガラスに額つけて?
「ていうことは何か。十一時から今まで――ずっと、あそこにいたってのか?」
そう、と頷く少女の白い顔をまじまじと見つめて、俺は思った。
つーかこいつ――
いわゆる、電波ってやつじゃないのか。
今はもう二時過ぎだ。十一時から三時間もあのガラスにへばりついてたなんて、店の人はさぞ気味悪かったろう。そう思ってそっと振り返ると、さっきとは別のウェイトレスたちが夜石を見てさわさわと何事か話していた。その表情は、すこしいじわるな風に歪んでいて、自分より愚かなものを蔑むような雰囲気があった。嫌なものを見た気がして、俺は立ち上がる。そいつらの元にまっすぐ向かって、「俺もドリンクバー」と宣言すると、そのまま飲み物を取りにカウンターへと向かった。なぜ、そんなにむしゃくしゃしたのかわからない。たぶん、同じオカルト好きとして俺自身も笑われたような気がしたのだろう。
グラスに氷を満タンに入れてから、アイスコーヒーのボタンを押す。
――さて、ここからどうしたらよいものか。
熱いアイス用コーヒーが氷を溶かしていく様を見つめつつ、俺は考えた。
家には帰れず、カウントダウンは続いてる。おまけに『異界ヶ淵』でも異端級のオカルト少女と出逢っちまった。なぜかふたりで深夜のファミレスだ。ひとりじゃないのはある意味心強いが、相手が妙な都市伝説のくっついたオカルト少女だとまた微妙だった。
「まずいコーヒーが好きなの?」
席に戻ると、夜石にそんなことを言われた。
「なんだって?」
「まずいコーヒーが好きなのか、と訊いたの。ここのコーヒーはいまいちだわ」
見ると七つあるグラスのうち、アイスコーヒーだけはあまり減っていない。
「事前に知ることの出来る情報は、集めてからことに赴くべきだわ」
夜石の理路整然とした言葉にすこし腹が立って、俺は嫌味口調で言ってやった。
「じゃあ事前に情報を集めさせてもらう。おまえはどうして今日のオフ会に来たんだ?」
「興味があったからだわ」
「“願いの叶う家”か? あの家の何に興味があるんだ? 家の音なんてただの家鳴りだろうし、傷跡だって見間違いの可能性だってあるだろ?」
あえて自虐的に鴉さんに言われたことをそのまんま伝えたわけだが、夜石は、そうね、と否定しなかった。
「じゃ、どうして――」
「掲示板であの家の話を読んだ時――奇妙な違和感を感じたの」
その低く囁くような声に、なぜか俺は鳥肌が立った。
「ネットの世界には数限りなく怪談が溢れているけど、そのほとんどは偽物だわ。けれど本物には隠しようのない匂いがある」
そしてその言葉に、どこか腹の底から熱いものがぐっと押し寄せた。
電波に本物認定されて喜んでいる場合じゃないが、ようやく俺の恐怖の一端を聞いてくれる人間に出逢えたことが、単純に嬉しかった。そうだ。あそこは本物なのだ。今さっきだって靴の裏に数字書き込まれて俺はもう涙目だったのだ。
「なあ、あれはなんなんだ。やっぱり幽霊とかなのか。おまえはそういうの見えるやつなのか。本物には匂いがあるってどういうことなんだ」
思わず続けざまに尋ねると、夜石はオレンジジュースのグラスを見つめながら淡々と答えた。
「まず最初の答え。幽霊ではないかもしれない」
「は?」
「次の答え。私にはすべてが見えるわけじゃない。最後の答え。気配なの。本物の怪談には、微妙な嚙み合わせの悪さがあるわ」
夜石は、今までのぼうっとした姿勢とは打って変わって喋り出した。
「怪現象が起きる。関係者が怖がる。調べてみるとここでは過去に自殺があった――そういう奇麗に落ちる話のすべてが噓だとは言わないわ。けれど、本当に面白い怪談はそういうところを超越している。大事なところを飛ばしているような違和感があるの。そこを埋められるのは、唯一、向こう側の理論なのだわ」
「つ――つまり、なんなんだ。俺の家で鳴る、あの薄気味悪い音はなんだってんだ。どうして数字が書き込まれて、その数字がどんどん下がっていくんだ。あの数字が尽きたら、俺は――」
いつの間にか、俺は腰を浮かせて叫んでいた。
「――俺は、どうなっちまうんだ!」
店内がしん、と静まり返って、誰もがこちらを見ていた。
俺は、気まずくなって腰を下ろす。だが、もう何が何だかわからなかった。ここからどうしてよいのかもわからなかった。そんな自分が情けなくなって、頭をくしゃくしゃと搔き回していると、静かに夜石が呟いた。
「あなたが、あの話を書き込んだのね」
顔を上げると、夜石は冷たい闇色の瞳に不思議な輝きをたたえていた。
俺は頷き、そして、いまさっきあったことをすべて話した。
数字はすでに『四』まで来ていて、そしてそれが書き込まれたのは俺自身のスニーカーの裏であったということ。それらをすべて、震えながら説明した。
「そんなの誰がどうやって刻み込むってんだ? あの家から何かが俺に憑いてきてんのか?」
ほとんど涙目になってそう訴えていて――ぎょっとした。
ガラス玉のようだった夜石の瞳は、いつしか生気を漲らせていた。
それから、唐突に俺の鼻先に指を立てて言った。
「ねえ、目を瞑って」
「は?」
夜石は白く美しい顔立ちを真正面から向けて、俺の瞳を覗き込んでいた。彼女の目鼻立ちの造形が色濃く視界に広がって、はっきり言って俺の心臓は高鳴った。
「なんで目を瞑らなきゃならないんだ」
「いいから」
俺はどぎまぎしながら言われた通りにした。目蓋を固く閉じると、なんか場違いな妄想が頭の中を駆け巡ったが、懸命にそれを払った。
「想像して」
目蓋の裏で夜石の唇が動き、命じるように言った。
「あなたはいま、あなたの家の玄関前に立っています」
どこか優しく凜然としたその声は、有無をいわせず俺をあの家の前に立たせた。
「出来るだけ詳細に、家の玄関の前に立つ状況を思い浮かべてください」
その言葉に促されるように、俺は暗闇に佇むあの家を思い浮かべてしまった。
黒く――山小屋風の先鋭なその形。
赤茶けた屋根で、山小屋風の、ある建築家が自分の為だけに建てたアトリエ。壁面はいい具合にすすけて二階の途中までツタに覆われ、木製の出窓の白いペンキがはげかかっている。一階はすべてガレージで二階、三階が居住区となっている。キッチンすらない、家賃三万円の俺の借家。そして夜どこからか奇妙な音が鳴り始め、翌朝にはどこかに数字が刻まれるあの家――
足が震え始めたが、手でぐっと膝を握りしめて俺は耐えた。
「いいですか。思い浮かべたら、ドアノブに手をかけます」
「……おう」
「さあ、開けてください」
開けた。玄関には俺の靴が転がっていた。慌てて出て来た時に、蹴飛ばした革靴だ。だが、そこから先に足は進まなかった。誰もいないはずの家に人の気配がある。ねっとりとした空気がそう感じさせる。嫌だ。ここから先には想像上でも進みたくない。
そんな俺の思いを察したのか、夜石は囁くように言う。
「大丈夫。ゆっくり中に入ってください。そしていつもやるように靴を脱いで中に入って。中に入ったらどの順番でもいい。家中の窓をすべて開けてください。正確に、ひとつひとつ確実に」
……窓? 窓なんかなんで?
そうは思ったが、俺は従った。居間の窓辺に近寄って鍵を開けると開け放った。そこから寝室にしている和室へ移動。そこの窓も鍵を開けて開け放った。そして和室からトイレ。開ける。次に風呂。開ける。そこから三階へと進んだ。三階にはふたつある。ベランダ側と俺の机の横の窓。どちらもきっちり鍵を開けて開け放った。
「……終わった」
「そしたら、その窓を今度は逆の順番で閉めていってください」
「……は?」
「最後に開けたものから順番に閉めて」
仕方なく俺は従った。
三階の机横の窓。ベランダ。そして二階に下りて、ええと、風呂、トイレ、和室、居間。
すべて閉めた。
「はい、終わり。目を開けていいわ」
夜石の声がして、目を開くとまばゆい蛍光灯の光が差し込んできた。今まで耳にも入ってなかったが、明るいポップミュージックの店内音楽も聞こえてきた。そうだ、ここはファミレスなのだ。目を慣れさせるように擦っていると、夜石が訊いてきた。
「どうだった?」
「どうだったって、これに何か意味あんのか?」
「部屋の中に誰かいなかった?」
その言葉に、総毛立った。
……いた。
それは、家の二階と三階を繫ぐ階段の踊り場だった。そこに灰色の服着たおっさんがいたような気がする。虚ろな顔して動かず、それでいて俺の行動のすべてを見守るようにじっとりとした目で見つめてきた。視界の正面では捉えられない。だが目の端には確実に映るその存在――
「……いたのね?」
夜石はどこか嬉しそうに黒い瞳を輝かせた。
「知ってる人?」
「……知らねえ。見たこともない」
いや……そんなことがあるのか。会ったこともないやつを想像上で思い浮かべるなんてことがあるのか。まだあの家が頭の中に色濃く息づいている中、夜石の楽しげな声が響いた。
「怖い?」
見ると、夜石は息がかかる距離までにじり寄っていた。
「ねえ、あなたいま怖いと感じているの?」
……怖え。
つーかおまえの何もかも食い尽くすような目つきが怖え。
「詳しく聞かせて。どんな人?」
ひとつ息をつき、俺は震えを押さえながら説明した。
グレーのよれたスーツ。ネクタイはしてなかったように思う。スーツがすこし大きめに感じたが、そのおっさんが瘦せているだけかもしれない。髪は白髪まじりで、顔まではよくわからない。髪は無造作に伸ばしていたように思う。黒い靴を履いてた。
すると夜石は、ふうん、と形よい顎を撫でた。
しばらく黙って宙に視線を彷徨わせた後、もう一度俺に視線を向けてくる。
「ねえ、行ってみない?」
「――なんだと?」
「あなたの家。いまから」
3
――ああ、どうしてこんなことになってるのか。
月の奇麗な夜だった。俺は、ママチャリを懸命に飛ばしていた。
ファミレスのあった隣駅から北側の住宅街に抜けて、そこからどぶ川沿いにしばらく西に進む。どぶ川は下川と呼ばれていて、玉川上水の支流のひとつだった。この川は次第に北東へと緩やかにカーブしていき、俺の住むエリアへと向かう。道路のでこぼこに自転車が波打つ度に、背後の夜石の体が俺の背中に密着した。やつの僅かな胸の膨らみがその度にジャージの俺の背中にくっついたりして、ああ仲の良いカップルみたいだな、と場違いな妄想にふけったりした。
だが俺の背後にしがみついているのは、黒い服で身を包んだ電波少女だった。彼女が俺の腰にまわしている腕は、妙に冷たい。女の子ってのはもうちょっと体温あるもんじゃないのか。こう柔らかくて、温かくて、いい匂いがして。しかし、俺の自転車の後部座席にちょこんと座った夜石からは体温というものがまるで感じられなかった。実はこいつが俺にしか見えてない何かとかいうオチでも俺は納得する。そんくらいデートという気配のまるでない夜の自転車ランデブーだった。
住宅街がまばらになり、その代わり地主の畑が広がり始める。街灯もぐっと少なくなる。星の数が増えたような心地がして、草いきれがむっと押し寄せる。もう俺の家まで近い。
「ずいぶん田舎ね」
「ほっとけ」
久方ぶりに口をきいた夜石の台詞に、俺はそう返した。
「悪い意味じゃないわ。武蔵野にまだこんなところがあったのね」
「だから家賃も安いと思ってたんだ」
幾分の自嘲も込めてそう呟く。
家々がよりまばらになり、幾つか古い神社を越えて、鬱蒼とした木立が並ぶエリアへと入る。この狭い道をしばらく行くとあの家にたどり着く。
「正直、夜行きたくないんだが」
俺がそう背後に言うと、
「夜にしか起こらない現象なのだから夜行くべきだわ」
夜石はあっさり返した。実に正論だった。
しばらく互いに無言でいたが、やがて夜石は尋ねてきた。
「あなたの願いは何だったの?」
「は?」
「だってわざわざ“願いの叶う家”に住んだのでしょう」
わざわざっつーか、元々は金がなかっただけなんだが。
「別に大したことない。実家の事業がうまくいきますようにってそんくらいだ」
そう答えると、
「意外と家族想いなのね」
夜石は感情を感じさせないコメントを発した。
意外とは余計だろ、と返しているうちに黒々とした林の向こうにあの家が見えてきた。
「あれね」
「ああ」
こうして改めて見ると、よくこんな家を借りたものだと感心してしまう。今見るにこれは誰がどう見てもお化け屋敷じゃないか。
俺が一階のガレージにママチャリを滑り込ませると同時に、夜石は自転車の後部座席から飛び降りた。鉄骨柱にあるスイッチを押すと、ガレージの天井部分につけられた灯りが点った。それだけでぐっと恐怖心は和らぐ。夜石は、勝手にすたすたと歩き回って建物をいろいろな確度から眺めていた。
「素晴らしい建物だわ」
そんなことを言うと、夜石は先頭に立って歩き出す。階段を上って二階にある玄関へと向かった。仕方なく俺も階段に足を一歩かけたがそこから足が進まない。夜石のやつは、さっさと玄関にたどり着くと勝手に扉を開けて中を覗き込んでいた。ああ、そうか。考えてみたら、鍵をかけないで飛び出してきたのだ。何日も鍵無し状態で放置だったわけだが、不用心にもほどがある。
俺はただひたすら階段の下からその様子を窺っていた。情けないとは思うが実際恐怖体験したのは俺なのだ。安全がわかるまで近づきたくないのは動物としての本能だろう。
「どうだ?」
「暗いわ」
そりゃあそうだろう。
夜石はそれだけ言って、さっさと中に入っていった。ひとりで階段下にいるのも怖いので俺も慌てて夜石の後を追って階段を駆け上った。玄関の扉を開けると、中はもう電気が点いていた。夜石は電灯のスイッチ横に立ち、天井から壁から眺め回している。光って偉大だ。明るいというただその一事だけであの薄気味悪い出来事が途端に現実だったのかわからなくなるほど落ち着いてくる。
玄関で靴を脱ごうとした時、夜石の膝まであるブーツが、ちゃんと揃えて脱いであるのを見た。こいつ意外と育ちがいいのかもしれん、と思った瞬間、気がついた。
考えてみたら、俺たちはまだ互いにちゃんと自己紹介もしていない。
「なあ、今更なんだが」
俺は、改めて夜石に向き直って言った。
「俺は、ネット上では“ナギ”と名乗ってる。本名は、山田凪人っていうんだ。今年の春から大学一年だ」
やつは振り向きもせず、こくりとひとつ頷くと言った。
「私は、夜石」
「それ、ハンドルじゃなかったのか?」
「違うわ。姓は、美鶴木。どうでもいいでしょう」
――美鶴木、夜石。
つくづく変わったやつだ。ネットで本名さらして、名字はどうでもいいってなんだそりゃ。
「『五』はトイレの壁?」
しかし、こいつは時間がもったいないとでも言うようにそう尋ねてきたので、俺は「そっちだ」と二階の奥を指差してやった。夜石は黙ってそちらに進む。躊躇なく扉を開けて、電気を点けると中を覗き込んでいた。
俺もそっと続く。
「な? それ『五』って数字に読めるよな。スキーマとかじゃないよな」
夜石の背中にそう声をかけると、
「あなた、スキーマなんて言葉を知ってるのね」
そんな馬鹿にしたような台詞を吐かれた。
「そりゃあ俺だってオカルトマニアのひとりなわけだしな」
噓である。ほんのさっき仕入れた情報である。
「ある特定の情報を事前に知った状態で無意味な図形を見た場合、脳は情報に沿ってその図形を認識する傾向がある――それが脳認知学におけるスキーマだけど、これは間違いなく『五』ね。私にもそう見えるわ」
夜石は俺の台詞などお構い無しに、傷跡を指の先で触れながらそう言った。
まあスキーマじゃなかろうと問題が解決したわけじゃない。むしろ深刻だ。これがホントに意図して書かれた『五』だとすれば、この家にはそれを書いた誰か――いや、何かがいるということなのだから。
「『六』はお風呂場ね」
『五』をじっくりと観察し終わった夜石は、トイレのすぐ向かいにある風呂場の電気をつけて扉を開けた。そのままぐっと顔を近づけて、窓枠に刻まれたその跡を見つめた。俺も夜石の背後からその様子を窺っていると、妙な匂いが鼻についた。
実を言えば、夜石に会った時から気にはなっていたのだが――こうふたりで密閉空間にいると改めてはっきりとしてきた。
「……おまえ、なんか香水つけてるか?」
夜石は無言で首を振った。
「いや、だっておまえこの匂い……」
そん時、俺はその匂いに思い至った。
なんか中学の時の部室とかで嗅いだことのある匂い。
どこかすっぱく鼻につんとする、何かの腐ったような香り。
「……あの、女の子にこういうことを訊くのは実に失礼だとは思うんだが」
俺は鼻をつまみながら尋ねた。
「おまえ、いつ風呂入った?」
すると夜石は振り向いて不思議そうな顔をした。それから天井を見上げる。その遠い記憶を探るような仕草に嫌な予感がした。
「ちょ……考えるほど前なのか?」
「はっきりとは覚えていないけど、ひと月ほど前かしら」
「ふ、ふざけんな! 風呂入れ、風呂!」
「ここは、お風呂場だけど」
「そういう意味じゃねえ! シャワーとか浴びないのか? 髪とか洗ってるか?」
「それとこの数字が減ることに、どういう関わりがあるの?」
夜石は心底不思議そうにそう訊いてくるが、勘弁してくれ。汚ギャルって言葉があるって聞いたことがあるし、フランスの宮廷貴族が風呂入らなかったって話も有名だが、ここは現代日本だ。ひと月も風呂入らない女子高生がいるのか?
「あなたの言うことには、まるで論理性がない」
そんな言葉を平然と返し、夜石は再び窓枠に顔を寄せた。
「間違いなく、『六』だわ」
それからすぐに振り向いて『七』は? と訊いてきた。こいつは、本当に、怪異にしか興味がないのだった。溜息をつき、俺は仕方なく案内した。
それは、三階へと上がる階段の踊り場の壁だった。
さっき夜石にやらされた疑似連想ゲームの時に見た、知らないおっさんが立っていた場所である。さすがに一緒に行く気にならなくて、あそこ、とジェスチャーだけで指し示した。夜石は黙って階段を上り、その壁にもにじり寄った。
「ふうん」
「それも『七』に見えるよな?」
だが夜石は俺の問いにはすぐに答えず、ポケットからミニライトを取り出すと『七』の数字に光を当てて、そこから舐めるように見つめ続けた。
「何か変か?」
「確かにこれは『七』だけど――妙だわ」
何が妙なんだ、とそう訊こうとした瞬間だった。
唐突に、夜石は吐いた。口元を押さえて遠慮がちに、とかそんなかわいい仕草なしで、仁王立ちしたまま、堂々と吐いたのでさすがに俺は引いた。吐くことに慣れている。そんな感じの姿勢であり、しかも俺はその様子を思い切り見てしまった。
こぼれ落ちる吐瀉物。
きらきらと光る胃液と、さっきまで飲んでいたオレンジジュースの残骸。
――なんなんだ、こいつは。
風呂には入らねえ。堂々とゲロは吐く。
おまけにオカルト好きで、春でもコートを着込む電波少女。
だが、さすがの電波少女も苦しそうにしていることにようやく気がついた。
「おい、大丈夫か?」
俺が駆け寄り背中をさすってやると、夜石は力なく頷いて、口を拭った。
踊り場にはゲロが残ったが、そんなことまるでなかったかのように夜石は話を戻した。
「最初にあなたの書き込みを見たときから不思議に思っていたの。どうしてカウントダウンは『七』から始まったのかしら」
「は?」
「むしろカウントダウンならば『十』か『九』が自然なはず」
「知るかよ」
だいたい幽霊なんて何を考えているのかわからないから怖いのだ。そんな相手がどうして『七』からカウントダウンを始めたかなんて人間の俺にわかるはずがない。
「違うわ。怪異にルールはないけど、そこには向こう側なりの意思があるはずなの」
夜石が階段を上りながら言うので、俺も仕方なく付いていく。
どこかに『八』も『九』もあるはずだ、と言わんばかりに夜石は三階の電気をつけると壁という壁ににじり寄った。その四つん這いになって壁に食いつくような姿勢は、薄気味悪くもあり、滑稽でもあった。その後、夜石は何かぶつぶつと言いながら俺が何を話しかけても答えなくなったので、仕方なく俺は二階に下りた。そしてトイレ横の小さなシンクでバケツに水を汲むと、そこにぞうきんを突っ込んだ。何にしてもまだここは俺の家であるわけで、階段にあるゲロを放置しておくわけにはいかない。バケツを持って階段の踊り場まで行くと、さっきファミレスで夜石に見させられたおっさんの虚ろな顔が思い出されたが、必死に考えないようにして、ゲロの始末をした。
うげえ、どうしてこうゲロってすっぱい匂いがすんだろうな。おまけにどうしてこうこっちの吐き気まで誘発するのか。しかも、吐いた本人がまるで気にしてないのが腹立たしい。まるで俺が片付けるのが当たり前だとでも思っている気がする。
「おまえ、何にも食ってないのか。水分しかないぞこれ」
ちょいと嫌味も込めてそうコメントすると、三階から下りてきた夜石は「『八』も『九』もないわ」と呟いていた。心底がっかりしたようなその言い回しに俺はなんかおかしくなった。
「だからないって言ったじゃないか」
俺のそのコメントは無視して今度は二階の壁という壁を調べ始める。その様子を半ば呆れて見守りつつ、俺もぞうきんとバケツを手に二階に下りる。それから、時計を見て、なあ、と話しかけた。
「おまえ、こんな時間まで大丈夫なのか?」
さっきから今更過ぎるが、もうすぐ深夜三時だ。
俺がこいつの親ならば、激怒している時間だった。
「家にはちゃんと連絡してから出て来たんだろうな。いやこんなことになっているのは俺のせいってのはわかっているんだが、親はいつでも心配してるもんなんだぞ。俺だって実家にいる時には、親なんてうるせえだけだって思ってたけど、離れてみると有り難さが身にしみるんだぞ」
だが、こいつは俺の熱い説教なんて聞いていなかった。
気がつくと、どこか一点をただじっと見つめて動かなくなっていた。
「どうした?」
俺は尋ねるが、しかし夜石は動かなかった。そのまま姿勢よく立ち尽くし、まるでマネキンのようにじっと固まっていた。俺も夜石の背後に立ち、こいつの見つめる先を見てみた。
そこは、さっき夜石が吐いた場所であり――俺の想像上で知らないおっさんが立っていた階段の踊り場だった。
「ちょ……ちょっと待て。おまえ誰とにらめっこしてんだ」
そう俺が肩に手をかけると、夜石は呪縛が解けるようにびくんと動いた。
そして小さく、そうか、と呟いた。
振り向いたその顔は実に嬉しそうだった。白い頰に血がさして興奮しているのがわかった。
「ねえ、気がついた?」
「何が」
だが、夜石は何も答えずそのまま踵を返すと、玄関に向かった。
「お……おいおい、待てよ」
「出ましょう」
さっさとやたら靴底のある黒いブーツを履くと、夜石はそのまま玄関から出て行ってしまう。俺も慌ててスニーカーを突っかけて追いかけた。部屋の中を見ないようにして電気を消すと、扉を閉めて、今度は鍵をかけた。それから、階段をどこかふらふらと下る夜石の背後にぴったりとくっついた。
ガレージに置いたままのママチャリのところで、夜石は改めて建物を見上げて言った。
「この建物はとても興味深いわ」
「何の話だよ」
「三階に上る階段の下。無意味な空間が存在する」
その瞬間、首筋から背中にかけて一斉に鳥肌が立った。
そうか――
ずっとこの家に感じていた薄気味悪さの正体に、今ようやく気がついた。そうだ。俺はずっとずっとこの家のどこかに違和感を感じていたのだ。それは、どうしても侵入出来ない階段下の空間だった。外から見ても中から見てもどうしても入れない、階段下の領域。開かずの間なんて話はよく聞くが、それに似た、中に何があるのかわからない空間の存在をどこかで感じていたのだ。
「それに、これを見て」
夜石が指差したのは、一階の階段入り口に備え付けられた郵便受けだった。
名刺サイズの紙に俺のフルネームが書いてあって、その名前を上から押しつぶすように三本の線が刻まれていた。
それはもう――間違いなかった。
『三』だ。
カウントダウンは、また進んでいた。
夜石のやつは顔がくっつくほど傷跡を眺めて「ここは本物だわ」とか嬉しげに呟いてやがったが、俺は虚ろな声で言った。
「もう、限界だ」