大坂将星伝
第五章 徹斎
仁木英之 Illustration/山田章博
戦国の世に“本意(ほい)”を貫いた男ーーその名は、毛利豊前守勝永(もうりぶぜんのかみかつなが)。家康(いえやす)の前に最後まで立ちはだかった漢(おとこ)の生涯を描く“不屈の戦国絵巻”、ここに堂々開帳!
第五章 徹斎
一
穏やかな潮の香りが漂っている。昨日までの雪混じりの寒さが嘘のように、南国の温暖さが戻っていた。
先ほどまで周囲を埋め尽くしていた男たちが発する、汗と脂と血の臭いはすでに沖合へと去った。戦は終わり、四国勢は大敗を喫してしまった。
四国に帰る船団を見送った後、太郎兵衛はしばらく砂浜に座り込んでいた。千雄丸、長宗我部信親の遺体が置かれていた場所にそっと手を伸ばした。あれほど強く、颯爽とした若武者が首のない死体となって敵陣から送られてくる。それが戦なのだ、と太郎兵衛は己に言い聞かせた。
だが、父が死んだかもしれないことを自分に納得させるのは難しかった。どうにも立っていられない。信親の遺体を見て嘆いた後、すぐさま軍の指揮をとり始めた元親の姿が瞼の裏に焼きついて離れない。
動揺していた四国の残兵がきびきびした動きを取り戻したのは、元親の常と変わらぬ下知を受け始めてからであった。すごいな、と感嘆したが自分にはできないことだ、とも思った。
敗走した際の焦りと恐怖が収まって冷静になった途端に、体じゅうの力が抜けてしまったのだ。父の安否が知れないことと、信親の死が肩に重くのしかかっている。
「四国へ行けばよかったかな……」
吉成が無事なのかを確かめねばならない、とも思ったが一人ではどうにもならない。まさか島津の陣に訊きに行くわけにもいかない。
腰の両刀が重い。体の大きな信親が佩いていた太刀は、やはり大きかった。二尺はありそうな刃は、まだ体の小さな太郎兵衛が背伸びしても地面に摺るほどである。太刀を布に包んで背負い、脇差だけを腰に挿す。
「筑前へ行こう」
自分に言い聞かせて、立ち上がる。筑前は毛利の本隊と軍監の黒田孝高や安国寺恵瓊が押さえ、島津も押し返されている。秀吉が九州に向かっているかどうか太郎兵衛は知らなかったが、父の行方を捜すにも復命するにも、孝高に合流するのが都合がいい。
仙石勢と共に後退したはずの又兵衛の消息がわかるかもしれない、ということもある。彼になら一緒に父を捜してもらえるかもしれない。
そう考えた太郎兵衛は、立ち上がって歩き出した。このまま豊後街道を西にたどれば、大友義統が篭る高崎山城に至るが、そちらは島津の大軍で満ちているに違いなかった。
もうひと押しで全滅させられた四国勢を見逃した島津の意図は、太郎兵衛にはよくわからない。だが、このまま豊後から引き下がる気配はなかった。四国勢が海に出たのを見届けた島津軍の主力が、そのまま土煙を上げつつ軍を西に向けて動いたのを太郎兵衛も目にしている。
主要な街道筋を進めないとあれば、海沿いを行くしかない。高崎山城がまだ落ちていなければ、そこから北にはまだ島津軍は進んでいないはずだ。
府内の大友館はほぼ無人となり、陥落しているのは間違いない。太郎兵衛は物陰に隠れるようにして、海沿いの木立を進んでいく。村々から出てきた民たちが一揆を組み、戦の後に金目の物が落ちていないか探している。
落ち武者狩りも始まっているのか、身ぐるみ剥がされた死体があちこちに転がっている。府内から高崎山の北を回り込んで北上すれば別府の町がある。だがそこまで行っても安全かどうかは自信がなかった。
震えそうになる体に力を入れ、太郎兵衛は先を急ぐ。
小倉街道、と道標にはあった。
島津は城を攻める陣を南に敷いているのか、幸いなことに兵の姿はほとんど見えなかった。戦の真っただ中にある府内へと向かう人影もなく、太郎兵衛はほっと胸を撫で下ろしつつ、海辺の道を歩く。
二本の岬が海を抱いているような田浦を右手に見て進むうちに、ようやく街道をゆく人の姿も多くなってきた。街道といっても、荷車が一台通れるほどの幅しかない粗末なものだ。それでも道に人がいるというのは随分と心強いものである。
太郎兵衛の格好は血と汗に汚れたものであったが、道行く人もさして気にする様子もない。九州一円が戦場となっている時に、けが人など珍しくもなかったからである。
もう目の前に別府の港が見えている。山が急速に開けてくると、太郎兵衛の足も自然と軽くなった。だが轟音が響き、太郎兵衛は地面に倒れ伏していた。
頭が石で殴られたように痛い。
一瞬気が遠くなりかけたが何とか踏みとどまり、衝撃を受けた辺りを手で触る。指に血はついていない。銃で撃たれたことはわかったが、弾は頭のすぐ近くを通っただけですんだらしい。
すぐに起き上がって木立に飛びこみ、振り返る。
鉄砲を持った男が、数人の杣人姿の男たちに合図をし、太郎兵衛が潜んだ木立を取り囲むよう指示している。
落ち武者狩りに見つかったのか、と太郎兵衛は暗澹たる気分になった。足取りは軽くなったものの、合戦の後で体は疲れている。腰には元親の吉光、背中には信親の左文字という業物がある。
「若いお武家さまよ」
鉄砲を担いだ頭目がのんびりした口調で声をかけてくる。
「随分と立派なものを腰に挿していらっしゃる。どうです、お服も汚れているようだ。私が良い値で買い取ってあげますよ」
そう言いながら、男たちは包囲の輪を狭めてくる。又兵衛がいてくれれば、と太郎兵衛はくちびるを噛んだ。こんな野盗どもは一網打尽にしてくれたはずだ。
こんなところで元親からもらった名刀を抜きたくはなかったが、野盗の類に大人しく渡すわけにもいかない。太郎兵衛は気配を殺し、男たちが間合いに入るのを待った。
だが、次々に一揆勢の姿は増えて、ついには二十人を超えた。鉄砲を持つ者こそ、頭目の一人だけだが、多くが太刀や手槍を持ち、弓矢を構えている者もいる。海と山に挟まれたこの辺りに住んでいるせいか、漁師のような風体をしている男たちも交じっていた。
「出さぬのなら致し方なし。おい、取ってこい」
頭目らしき男は周囲に命じる。太郎兵衛はゆっくりと短刀を抜く。手にずっしりと重いのに、握っているうちに手になじみ、体と重なっていくような錯覚を起こさせた。
白刃のひらめきが恐怖を拭い去ってくれる。
太郎兵衛は身を沈めて駆けだすと、頭目へと一気に間合いを詰める。多勢に油断していた男の腹に体ごと突き込むと、うめき声と共に腹を押さえて倒れた。
「何しやがる!」
賊たちが激昂して襲いかかるが、吉光の短刀は確実にその急所を抉っていった。刃こぼれは感じず、血脂で切れ味が落ちることもない。だが五人倒したところで、太郎兵衛は膝をついた。
体が動かない。刀に力を吸い取られたような激しい疲労である。賊たちから繰り出される槍を避けきれず、いくつかの傷を負ったところで意識も薄れ始めた。
「こんなところで!」
ともう一人の首すじを刎ね斬ったところで、全ての力を使い果たした。賊たちは勝利を確信したのか、太郎兵衛に罵声と嘲りを投げかけながらとどめを刺そうと刃を振り上げた。
「諦めるもんか!」
そう叫んだところに白刃が振り下ろされる。瞼を閉じず、ゆっくりと脳天に食い込もうとする刃を見つめていたが、いつまでも刃は体に届かない。それどころか、太郎兵衛を取り囲んでいた賊たちは一斉に地面に倒れ伏してしまった。
痩せた長身の侍が、倒れている男たちの中央に立っていた。懐手に薄汚れた小袖姿で腰に大刀を一本だけ挿している。どこかの家中というわけでもなく、足軽風情という風でもない。場にそぐわない気楽な雰囲気を漂わせている。
「確かに、童には似つかわしくない刀を持っているな。しかも二振りか」
若いようにも見えたが、髪は半ば白かった。目は細く、瞳に浮かぶ表情はうかがえない。
「おい、なんだお前は」
賊たちが後ろから怒鳴りつけるが、男は倒れた頭目を見下ろして顎を撫でている。
「童、いい突きだな。刀を見せてみろ」
太郎兵衛は言われるままに、吉光の短刀を手渡した。穏やかな声は、どこか逆らい難い威厳を漂わせていた。
「おい、これ粟田口じゃないか」
男は細い目を大きく見開き、短刀を太郎兵衛に返した。
「お前どこかの公達か?」
太郎兵衛は名乗らなかった。相手が何者かわからぬのに、正体を明かすのは危険だった。
「私は丸目徹斎長恵という浪人よ」
その名に、微かな聞き覚えがあった。
「丸目、徹斎……」
剣聖である上泉信綱に柳生宗厳らと共に教えを受け、免許皆伝を許された数少ない剣士である。京での評判は抜群で、太郎兵衛もその名を知っている。剣術を学ぶために弟子入りしないかと吉成に勧められたこともあった。
驚きつつ、太郎兵衛も名乗った。
「黄母衣衆の子か。なるほど、お前のような子でもそれほどの名刀を挿せるほどに関白の羽柴筑前の威勢は大きくなっているのだな。そちらの太刀も見せてもらっていいか」
「違います。さるお方から預かっているものです」
「どちらでもいいさ」
手を差し出す男に、太郎兵衛は背負っていた左文字も渡す。男の刀を扱う手つきは丁寧で、優美にさえ見えた。
すると業を煮やした賊の一人が、槍で突きかかる。
「邪魔をするな」
男は言うなり後ろに足を突きだす。軽く出したように見えた足裏に触れた賊の一人は宙を飛び、立ち木の幹に激突して動かなくなった。
「これは左文字か」
太郎兵衛が頷くと、
「土佐侍従さまのご子息に与えられた筈だが」
「……千雄丸信親さまは、島津との戦いで討ち死にされました」
「そうか」
話している間にも、賊たちは背を向けたままの丸目長恵に斬りかかっている。だが、わずかに長恵が身を揺らして手を振るだけで、賊たちは顎を砕かれ、鼻を潰されてうずくまる。拳や肘を使っているらしい、としか太郎兵衛にはわからないほどの速さである。
「大切に持っておきなさい」
長恵が左文字の太刀を返してくれた時には、賊のほとんどが地に倒れ、残りは逃げ去っていた。
二
「鶴賀城は落ちたのですね」
噂は街道を走る。戦に関わった者、目にした者が四方に伝え、それが広がっていく。統久たちの安否を気にしていた太郎兵衛の耳にも、その報は入ってきた。
「お前が落ち込んでも仕方ない」
丸目長恵は太郎兵衛を慰めた。
「ですが……」
四国勢が惨敗し、救援は望めない。総大将の利光宗魚が討ち死にする瞬間もこの目で見た。すぐに降伏したとて恥ずべきことではない。それよりも、太郎兵衛は統久や豪永を思って、くちびるを噛んだ。
「ある種の武人は表すべき心を大切にする。本意といってもよい。そういった連中にとって生死はその後のことなのだ」
馬が二頭ようやく並べる程度の道を、丸目長恵は速足で歩いている。腰の位置がほとんど上下せず、手もほとんど振らない。そして何刻歩いても息ひとつ乱さなかった。起きている時に止まるのは用を足す時か食事を摂る時だけで、どちらも一日に一度、朝の起きぬけにする。飯は乾飯を一握りに味噌玉を少しなめる程度だ。
「飯も糞も心のままだ」
と長恵は涼しい顔をしている。
小倉へ通じる街道沿いは、人気が少なかった。
「島津が来ると皆が怖がっていたからな。あいつらは蝗のようなものだ。それぞれは別々の事を考えているのに、襲いかかる時は一団となって派手に略奪していくからな。百姓たちからしたらたまったもんじゃない」
日が暮れれば街道脇の木陰に寝そべって火を熾すと、あっという間に寝息を立てる。空腹と寒さで寝付けない太郎兵衛は歯を鳴らしながら身を縮めているばかりだった。
明け方になると長恵は火を再び熾し、湯を沸かして椀に一杯飲み干す。この瞬間が、一日のうちでもっとも心が休まった。
「寒いからこそ温かいもののありがたみがわかる。負けているからこそ、勝ちのありがたみがわかる」
ひとり言のように、長恵は言うのであった。
ともかく、この剣客が筑前まで送り届けてくれたおかげで、太郎兵衛は無事に豊前小倉までたどり着くことができた。
長恵は九州ではとにかく名の通った剣士らしく、どの村を通ろうと弟子が出迎えた。驚いたことに、筑前の諸将も大抵顔見知りらしく、訪れては剣技と理を教えては一泊する。一刻でも早く毛利の本陣にたどり着きたい太郎兵衛であったが、長恵の話がわからないなりに楽しく、複雑な思いだった。
長恵は豊後から海岸線をたどって豊前に入ることはせず、日田の盆地を経由して筑前へと入っていた。
「この道を島津が通ったのさ」
長恵はさして先を急ぐでもなく、歩を進めている。戦場だった形跡はほとんどなくなり、注意して見ると道のあちこちに欠けた鏃や鉛玉が落ちている程度だ。
「これから先も、この道を大軍が通ることになるだろうよ」
「関白さまが来るのでしょうか」
「島津が惣無事に従うかどうかにかかっている」
確かに、島津の強さは恐ろしいほどであった。長宗我部元親をはじめとする四国の諸将は、仙石秀久の暴走はあったにせよ、まるで歯が立たずに敗退した。
「大友からの求めに応じて九州を先に片付けようとしたのは賢いことだ。天下から私の戦を取り除く、という大義を明らかにできるのだから」
丸目長恵は、剣を教える時も自ら立つことはなかった。言葉で一つ二つ、助言を与えるだけである。驚いたことに、太郎兵衛に弟子の相手をさせることすらあった。
「俺は丸目さまの弟子ではありません」
「そんなことはどうでもいいのだ」
長恵は戸惑う太郎兵衛にかまわず、道場に立たせる。太郎兵衛の剣は犬飼九左衛門に教えてもらったもので、戦場往来の実用的なものだ。長恵の弟子たちも大きな所では変わらないが、太郎兵衛も気付かないところで様々な工夫がなされていた。
気付くと刀を落とされていたり、小手を押さえられたりしている。組み打ちも上手で、取っ組み合いには自信のある太郎兵衛もあっさりと組み伏せられることが多かった。その強さの秘密を訊ねると、
「知らぬ者には勝てるような方策を考えているだけだよ」
と言うばかりだ。
「兵法というやつですか?」
「戦場というのは、でたらめに見えて決まった流れがある。戦における人の動きも同じだ。相手の剣が迫っていれば逃れようとするし、弱気を見れば嵩にかかる。そのあたりの機微については、我が師は抜群によくご存じでな。おかげで私が負けることはまずなくなったのだよ」
長恵が話すきら星のごとき弟子たちの中で、特に太郎兵衛の興味を惹いたのが立花弥七郎統虎、後の宗茂である。もちろん、太郎兵衛もその武勇を聞き知っている。
筑前に攻め寄せてきた島津軍を父の高橋紹運と共に迎え撃ち、父以下岩屋城に篭った者たちが全滅するという大きな犠牲を払いながら、ついには撃退した勇者である。
「ちょっと立花城に寄って行こう」
と長恵が言った時には、胸がときめいた。
篭城戦の凄まじさは、太郎兵衛も鶴賀城でつぶさに見てきたばかりだ。その苦しさと、守る者たちの強さは尋常ではない。利光宗魚の戦いぶりは太郎兵衛の心に深く刻み込まれている。
それほど勇敢に戦っても、宗魚は敵弾に倒れた。残された宗魚の弟である豪永と息子の統久はさらに数日、島津の攻勢を支え続けたが、四国勢の敗退と大友義統が高崎山城にこもって救援を出さない態度をとったことから降伏したらしい。命は無事だと知って、太郎兵衛もほっと胸を撫で下ろした。
ともあれ、立花宗茂は大友宗鱗に救援を求め、宗鱗は自ら大坂に秀吉を訪れて助けを願っていた。毛利や長宗我部が出撃するとなっても、いつとも知れない助けを待ちながら島津軍と戦い続け、ついに撤退させたことには驚くほかない。
「まだ弥七郎は十九だ」
と長恵が言ったので、太郎兵衛はつい信親を思い出してしまった。戸次川で散った長宗我部の御曹司と二つ違いである。
「岩屋、立花の戦で何を得たのか、ぜひ知りたいものだ」
長恵は話好きな男で、歩いている間はもちろん、弟子の家に寄せてもらえば夜半遅くまで喋っている。
「私は将としてはまったく駄目な男だった」
見栄を張ることもなく、さらりと言った。
「そんなにお強いのに、ですか」
太郎兵衛の言葉に、長恵は照れ臭そうな表情を浮かべた。
「確かに一剣を以って相対すれば、私は大抵の者には負けぬだろうよ。それだけの剣を授けられ、自らも鍛えてきた。だがそれは、ただ一人、兵の強さに過ぎない。だが、将とは剣技が優れていればよい、というものではない。太郎兵衛にはちょっと難しいかな」
だが、太郎兵衛はその先をせがんだ。
「ふむ……。お前は私の剣を見た時よりも、興趣を惹かれた顔をしているな。なるほど。では将才がないなりに考えを述べてみようか」
兵が技であるとすれば、将は術である、と長恵は言った。
「技と、術……」
「一人一人は技を持っている。だがその技を束ねる戦の術に優れていなければ、軍を率いることはできない」
「そうすればいい将になれるのですか?」
「一軍を率いるのであれば、それで十分だ。だがその上がある。それは、略だ」
「略……」
「術を持つ将たちを束ねるには略がいる。戦の略、術の略だ。営み、謀り、大局を捉え、簡略を旨として鋭く打つことを略という」
太郎兵衛は頭がくらくらしてきたが、惹きこまれるものはあった。
「今、日本に略の心で天下を動かせるのは一人、いや二人かもしれん」
「関白さまだ!」
「そうだな。後は、三河の殿くらいか。あの方はやや術に偏る気配があるが」
長恵は楽しそうに腕組みをして話していたが、はっと表情を改めた。
「偉そうなことを言っているが、相良の殿に仕えている頃には、任されている城を落とされたりしたものだよ。よき将になりたくて色々と思い悩んだものだ」
だから城を守る苦しさと難しさはよく知っているという。
「城を守る時は将一人が強くても駄目だ。それは技でしかない。将の心が強くあるのはもちろんのことだが、兵が一人門を開いてしまえば、そこで終わりなのだからな。共に篭る者たちの気持ちを掴んでいなければならない。そこに術がいる。私にはそれができなかったんだよ。その点剣一筋に生きれば、将として人を死なせなくてすむ」
長恵は初めて苦い表情を浮かべた。
「戦いは突きつめれば全て一人と一人に行きつくのだが、将となればそうはいかない。我が師もそうで、将としては今一つでな。結局万人を統べる男にはなれんかった。そこで、己一人くらいは御せるようになろうというのが、我らが兵法の始まりなのだ」
と随分と情けないことを言う。だが太郎兵衛は、長恵の恐ろしい強さを目の当たりにしているから、何とも答えようがない。
「だが、この己一人を鍛えることによって、強き男をさらに強くすることができる。そうなれば、一人を平穏の境地へと導き、それが結局天下を平らかにする人材を作ると考えているのだ」
その理想の形の一つが、立花弥七郎という若者の形をとって筑前に現れているという。
「どんなお人なのですか」
太郎兵衛はどうにも気になって訊ねてみると、
「一見に勝るものはない」
といたずらっぽい笑みを浮かべて答えてくれない。
「私も、今の弥七郎がどうなっているのか、見当がつかないのだ」
日田の盆地を抜けて筑前に入り、北へと進むと再び左右から山肌が迫ってくる。その左右の山こそ、島津に相対した岩屋城と宝満城があった場所である。
「紹運どのには会っていこう」
急峻な山道を身軽に上がっていく長恵に太郎兵衛もついていく。
太宰府を見下ろす小さな山だが、登ってみると存外に険しい。登る者から見て覆いかぶさるように木立が茂り、岩峰をよじろうとしてもその先にはまた別の岩壁がある。狭い道は九十九折りとなり、頂まで着くのに随分と時間がかかった。
山の中腹に、ごく狭い平地があってそこだけはよく踏み固められている。
「ここが岩屋城だ」
と長恵に言われて、太郎兵衛は驚いた。言われてみると、確かに石組の跡は残っているようであったが、その他には何もない。ほんの数カ月前に激戦が行われたとは信じられないほどの、静けさであった。
「紹運どの以下、七百人余りが立て篭って、十数日の間島津三万の軍を食い止めた。見事な死にざまだ」
長恵が腰を屈め、何かを拾う。よく見ると、甲冑の錣だ。
「私にはできなかった」
そうぽつりと呟く。
「だが、他にできることは何かあるのだと思って、この世を歩いているよ」
錣を石積みの上に置き、手を合わせた。太郎兵衛は再び鶴賀城のことを思い出す。利光統久と豪永は篭城を止めて降伏した。長恵の言葉では、そうやって降ったことが何か悪いことのように言われている気がして、不愉快だった。
「何故怒っている」
手を合わせたまま、長恵は言った。
「どうしてわかるのですか」
「剣を長く握っているとな、不思議なことに周囲の人間がまとう心がわかるのだ。どれほど強いか、だけではない。心の中で何を思っているのかすら、伝わってくることがある」
合掌を終え、振り向いた長恵は、優しく太郎兵衛に怒りの理由を訊ねた。
「城に篭って戦い、仕方なく降った友がいます」
そう言うと、長恵は嬉しそうに頷いた。
「素晴らしい者たちだ」
「死ぬまで戦った方が立派なんじゃないんですか」
「人は生を享けて、いつどこで死ぬかわからん。そうならば、生を選ぶ方が貴いに決まっている」
太郎兵衛は長恵の言葉の意味がわからず、黙りこむ。
「答えなどないのだ」
岩屋城からの道を、長恵は下り始める。木立の先に太宰府の広大な敷地が見える。島津家久が陣を敷いたあたりは、草が少なくまだその痕跡をとどめていた。
「どれほど美しい死も、醜い生に及ばないことがある。どれほど醜い死でも、美しい生に勝ることがある。難しいよ」
長恵は登りよりもゆったりとした足取りで、山を下りる。
「さあ、弔いは終わった。生者の巷に戻ろう」
太宰府から北へ三里ほど歩くと、香椎宮が見えてくる。香椎宮の西はもう海である。潮風を遮るように聳えているのが、立花城である。南北に三つの峰が連なり、それぞれが城塞となって敵を防ぐ造りとなっている。
岩屋城よりも険しいとは見えなかったが、山襞の入り込みが深く、攻め落とすには相当に苦労しそうではあった。城の周囲には既に軍勢がいるわけでもなく、山裾の畑には農作業をしている百姓たちの姿が見える。
城の大手への道はきれいに掃き清められ、何年も戦と無縁であるかのような静けさをたたえている。
門には二人の兵が立っているのみで、長恵の顔を見るなり嬉しげに駆け寄ってきた。
「先生、いつ筑前にお帰りになったのですか。殿も落ち着いたからには剣の修業を再び始めたいから京に使いを送ろうかと仰っていました」
と古くからの顔見知りのように親しげに挨拶した。
「お前たちも息災で何より。弥七郎も元気そうだな」
「それはもう」
楽しげに言葉を交わす門番と長恵の後ろで太郎兵衛が待っていると、
「この子は新しいお弟子さんですか」
番兵が訊ねた。
「まあそんなもんだ」
違います、と言うのももはや面倒になって黙っている。
「弥七郎にこの子を引き合わせてやろうと思ってな」
門番たちは顔を見合わせたが、腰に挿している刀を見て慌てて奥へと駆けて行った。
「その刀、よからぬ者も引き寄せるが、挨拶代わりにもなって便利だな。大きな城に入る時は背中の太刀も見えるようにしておけばいい」
長恵は門番が帰ってくるのも待たず、先へと進む。立花山の頂に近いところに、館が設けられている。矢倉や柵は、鶴賀城で見たものよりもやや大掛かりではあったが、登ってみればそれほど、堅い城とも見えなかった。
三
館から一人の若者が出てきた。一瞬、太郎兵衛は信親の幻を見たのかと目を疑っていた。それほどに、背格好が似ていたのである。
「こちらは四国勢軍監を務められた森吉成どのの子息、太郎兵衛だ」
いきなり、長恵は太郎兵衛を紹介した。
「立花弥七郎にございます」
はるかに年下で、服も汚れてぼろぼろの太郎兵衛に対し、弥七郎は丁寧に挨拶をした。だが太郎兵衛は返礼もせずに突っ立ったままでいる。
「どうした?」
長恵に声を掛けられて我に返り、ようやくのことで名乗る。
「四国勢の方々は、気の毒なことでした。存分に戦えず、さぞや無念であったことでしょう」
心よりの言葉に、太郎兵衛は胸が詰まった。初めて会ったばかりだというのに、その一言が胸に広がっていく。顔を上げると、太い眉の下から黒目の大きな瞳がじっと太郎兵衛を見つめていた。
「あの……、言葉をお平らにしていただけると助かります」
弥七郎のような名将に辞を低くされていると居心地が悪くて仕方ない。そう言うと、弥七郎は少年のような笑みを浮かべた。
「紹運さまはよく仰っていた」
弥七郎は実の父のことを、そう呼んだ。今の彼の父はあくまでも立花道雪である。
「城の主と胸を反らせたところで、その命を支えているのは兵であり、その兵を支えているのは民である。そのことを考えると、誰に対しても偉そうなことを言えるわけがない。とはいえ、政となれば厳しく接しなければならないのが難しいところだ」
「すっかり大名らしくなったな」
長恵が言うと、弥七郎ははにかんだように顔を伏せた。
「何もかも手探りです」
「いや、将としても男としても、いい顔になってきた」
この立花弥七郎という若者は随分と大人びて見えた。最初に感じた重圧のようなものも今は消え、長恵の下座に静かに座っている様は、信親より若いとは到底見えない。
「師よ、天下が平らかになりましたら、またお教えを願いたく存じます」
弥七郎は手をつき、長恵に頼んだ。
「平らかになるのは、まだ相当先だな」
「ではそうならなくともお教え下さい」
「そう思ってふらふら歩きまわっている」
太郎兵衛は二人の遣り取りを聞きながら、どちらも岩屋城の話をしないのが不思議だった。弥七郎に対して悔やみを言うこともなければ、その戦いを振り返るようなことも言わない。長恵は岩屋城に行ったことすら口にしなかった。
「太郎兵衛、弥七郎の相手をしてあげなさい」
と命じられて庭に下り、木刀を握ったところではっとなった。
「俺、どうして弥七郎さまと立ち合うことになっているんでしょう」
弥七郎は木刀を下ろして笑いだした。
「何故ここに来て言うんだ」
「気付けばこうしていたのです」
弥七郎は冗談めかしていながら、責めるような視線を長恵に向ける。
「また先生はそういう悪戯を」
「悪戯ではないよ。弥七郎の腕と眼を試すには丁度いい機会だと思ってね」
訳の分からないまま突っ立っている太郎兵衛に、弥七郎が師の術の種明かしをした。
「我が師は剣で相手を制する術を使って、太郎兵衛を乗せたのだ。人の気が逸れた瞬間、呼吸が乱れた刹那に踏み込んで勝つのと同じように、意図したことをさせる。恐ろしい技ですよ。しかし先生、太郎兵衛と俺を立ち合わせたいですか」
長恵は悪戯が見つかった少年のように、こくりと頷いた。
「この子は弥七郎の気配に押されて、尋常なことでは立ち合ってくれないと思ったのでね」
そう言われると、太郎兵衛は俄然やる気が湧いてきた。
「お、その気になったようだな」
長恵は面白そうに足を組み直す。何故わかるのか謎だったが、太郎兵衛も弥七郎という若者から感じた圧力の正体を確かめたくなったのだ。
「弥七郎、制してみよ」
木刀を腰に挿したまま佇立していた弥七郎は微かに頷く。太郎兵衛は八双に剣を構えた。押されるような感覚はない。太郎兵衛は身を沈めるようにして踏み込み、伸びあがって木刀を袈裟がけに振り下ろした、はずであった。
だが、伸びあがったところで体は止まり、木刀もそこから先に進まない。弥七郎の瞳の黒が視界一杯に広がり、それが壁となって動きを止められているような感覚であった。ついで、その瞳から発せられた黒きうねりが白刃のひらめきへと変わる。
弥七郎が持っている木刀が真剣の鋭さを伴って襲いくる恐怖に、太郎兵衛は思わず叫び声を上げた。
「そこまで!」
長恵の声がかかり、太郎兵衛は自分が木刀を取り落として尻もちをついていることに気付いた。弥七郎の方を見ると、先ほどと変わらず木刀を腰に挿したままで、抜いてもいない。
「見事だ、弥七郎」
師に誉められても、弥七郎は太郎兵衛を見つめたままでいた。
「剣気で完全に制することができたな。まだ太郎兵衛が幼いとはいえ、素晴らしかった。ここ最近の戦がお前をさらに強くしている。惜しむらくは、もう少し太郎兵衛の剣を見たかったが」
弥七郎は倒れている太郎兵衛を助け起こして師を見た。
「この子には俺の心が全て読まれていたような気がするのです」
そうなのか、と長恵は太郎兵衛に訊ねるが、そんなことはないと首を振る。恐ろしげな幻覚に襲われて気付けば腰を抜かしていただけだ。
「そこまで見ていたのは、お前が初めてだよ」
弥七郎は満足げに微笑んで太郎兵衛から手を離した。
「この子にはぜひ先生の剣を授けて下さい。きっといい遣い手になります」
「将としてはどうかな」
「楽しみにしてよいのではないでしょうか」
その言葉に、長恵は満足げに頷いた。
四
豊前小倉に集結した豊臣方の軍勢は、町を覆い尽くさんばかりの人数だった。
「こんなもの、ただの先ぶれに過ぎないぞ」
長恵は大軍勢の中を悠々と懐手で歩いていた。誰何するものもいたが、名乗れば大抵それ以上何も言われなかった。それどころか、各陣屋から招きがくるほどであった。小倉ではどこにも寄らず、まっすぐに向かったのは城下にある小さな寺であった。
数百人ほどの小勢を率いてそこにいたのは、黒田孝高である。
「丸目先生が小三次どのの子を連れてくるとは、奇縁としか言いようがないな」
こちらを見ることもなく、忙しげに書状をしたため続けている。長恵はそれを無礼と咎めることもなく、勝手に寺の台所に行って人数分の茶を淹れて持ってきた。
「この子の父御の消息を知りたくてね」
筆を走らせる手を止めて、孝高は顔を上げた。
「太郎兵衛よ、四国勢を前にして島津は止めを刺さなかったのだな」
信親の遺体を返し、夕方まで猶予を与えて敢えて退却させた。そのおかげで、長宗我部と十河の残存兵力は無事に海を渡ることができたのだ。
「小三次どのは無事かも知れんぞ」
「どういうことですかな」
長恵は興味深そうに身を乗り出した。
「あそこで四国勢に情けをかけたのは、辱めを与えたようにも見える。だが、島津はあくまでも礼を尽くして信親どのの遺体を返してきた。敗走させたのではなく、兵糧をとらせるという名目で軍を止めて、その間に四国勢が軍を返すのは逃げたのではないと周囲に示すことができる。顔を立ててくれたと考えるべきであろうな」
「島津がそのような挙に出た意図は何です?」
「薩摩の連中、一筋縄ではいかん奴らだよ」
孝高は筆尻で広い額を叩きながら答えた。
「畿内から兵を率いてきた連中の足元を見るのに長けている。総力を挙げて戦うと見せつつ、指一本は繋げておこうとする。そこを見抜いて、四国勢を助けるよう仕向ける者がいたとしたら、それは関白さまの薫陶を受けた者だろうよ」
捕えられた吉成がそうさせたかも知れぬ、と孝高は言った。
「わかるのですか」
太郎兵衛は喜びを隠しきれない。
「中国を走り回って話をまとめていた一人だからな。わしも関白さまにつく前は、小三次どのと随分と膝を突き合わせて話したものだ」
ただ、と孝高は鋭い視線を太郎兵衛に送る。
「今の九州は何が起こるかわからん。小三次どのの案というわしの考えは誤りで、既に首になっているかも知れん。黄母衣衆といえば関白さま直属の精鋭だ。その首となれば価値もあろう」
「はい……。わかっています」
悄然とした太郎兵衛を見て、孝高はやや表情を和らげた。
「わしの知っている小三次どのは、それはしぶとい男だ。死地にあってもそう簡単に首を渡すような男とは思えん。生死は天のみが知っているが、子であるお前が不安を抱いていてはどうにもならんぞ」
「東はもういいのですか」
「徳川三河守さまとの和平は固い。そうでなければ、三十万の軍は動かせまい。出来ることならいらっしゃる前に島津を片付けておきたかったのだが、筑前と豊前どまりであったな」
秀吉は天正十五(一五八七)年の春を機に、直接九州征討の軍を起こすと公言していた。
「三十万もの軍が来るのか」
丸目長恵は天を仰ぐ。
「それほどの大軍が、一人の男の意思で動く時代になったのか」
「九州を手に入れればそれが四十万、関東を手に入れれば五十万になりますな。それが天下の力というものです」
にやりと孝高は笑い、再び猛烈な勢いで書状をしたため始めた。
五
太郎兵衛が大坂に帰ることはなかった。吉成と叔父たちがひょっこり小倉に姿を現したからである。
「太郎兵衛さま、ご無事で!」
杉助左衛門と宮田甚之丞に突き飛ばされそうな勢いで抱きつかれて、太郎兵衛は驚いた。
多くの郎党が傷つき、死者もいたが、一族の主だった者は無事であった。
「なんだその顔は。これから忙しくなるぞ」
「よくぞご無事で……」
「見ての通りだ」
息子の感傷などまるで無視して、吉成は黒田孝高へ報告に向かおうとした。
「太郎兵衛」
「は、はい」
「土佐侍従さまから委細は聞いている」
よくやった、と一言誉めるなり孝高のもとを訪れると、半日ほど何か語らっていた。これまでの話を聞いて欲しい太郎兵衛であったが、吉成は全く興味を示さない。
「お前が四国勢とどう動いていたかは土佐侍従さまからの書状で、その後どうしていたかは、丸目長恵どのから聞いている」
だから話す必要はないと言うのである。
「じゃあ父上は戸次川の後、どうしていたんですか。島津に囚われていたのですか」
「そうだ。殺すよりもいい使い方があったら使う。それだけの賢さがあるのが、島津という連中だ」
で話は終わりである。島津の陣中で何があったのかは一切口にしなかった。太郎兵衛が気になっているのは、吉成の献策で家久は四国勢への手心を加えたか否かであったが、
「それを知ってどうする」
と問われて言葉に詰まる。
「もし、俺が島津に四国勢に情けをかけろと言ったとしても、どうして彼らが俺の言葉を聞き入れる必要がある」
「……後々有利だから」
「それは官兵衛どのの受け売りだろう」
あっさりばれてしまう。
「太郎兵衛。土佐侍従さまをはじめ、四国勢は決して弱いわけではない。島津の知勇がそれをわずかに上回っていただけだ。戦の機微は俺ごときで左右できるものではない」
父が元親たちを救ったと思いたかった太郎兵衛の願いはあっさり否定された。吉成はそれ以上、島津に囚われている間の話をすることはなく、翌年に控えた秀吉出陣に向けた準備を進め始めた。
天正十五年の年も明けて、吉成は四方に奔走しているが太郎兵衛を連れて行くわけではない。かといって大坂に帰すわけでもなく、要するに太郎兵衛は暇を持て余していた。
「関白さまご出陣となるまで、我が陣でゆるりと過ごしているがいい」
黒田孝高はそう言ったきり、一室にこもって書状作りと謀議の日々だ。遊び相手になってくれるはずの又兵衛も、孝高の命を受けてあちこちに出かけている。
連れて行ってくれと父にせがんでみるが、
「今は待て」
と言われるばかりだ。暇つぶしの相手は、同じく陣内でぶらぶらしている丸目長恵となった。剣を教えてくれと頼めば相手をしてくれるし、釣りに誘えば隣で糸を垂れてくれる。忙しい陣中で、長恵の周囲だけが時の流れが別であった。
「丸目先生は軍を率いて島津と戦うのですか」
「向いてないから、やめておくよ」
「戦場に立って一番槍ですか?」
「私は己一人の強さを追い求める気持ちが強くてな。いまは誰にも仕えていないし、仕えるつもりもないよ」
そんな男が陣中にいるのが不思議であったが、孝高や吉成だけでなく、九州のあちこちから弟子が来ては話をしていくのでそれなりにありがたみがあるのだろう、と太郎兵衛は思っている。
「あ、私の剣を疑っているな?」
「滅相もない。丸目先生が強いのはこの目で見ています」
「口惜しいことに、太郎兵衛はあまり私の剣に心惹かれていないんだよな。筋もいいし、このまま剣に専心すればそこそこの腕になるのだが」
と実に惜しそうな顔をする。
「太郎兵衛の剣は、技の剣ではないんだよな」
とぶつぶつと何やら呟き続けていた。
春三月になって、のんびりとさえ感じられた太郎兵衛の周囲は一気に慌ただしくなってきた。前年から準備を進めていた秀吉は三十万の大軍を動員し、中国道を西に下り始めたのである。
宇喜多秀家を先陣、豊臣秀長を第二陣、そして秀吉自身は第三陣の主力を率いて九州へと上陸した。この万端の準備で、秀吉の中での勝算はほぼ固まっていた。
「島津のやせ城など、木の葉のように吹き飛ばしてくれる、と関白さまは意気軒高だ」
吉成は孝高に送られた朱印状を見せてもらい、安堵していた。彼がこのところ没頭していたのは、豊後の後始末である。
鶴賀城を抜かれ、府内を落とされた大友氏側であったが、すんでのところで踏みとどまっていた。大友宗鱗は臼杵に追い詰められていたものの、臼杵の支城である鶴崎城の妙林尼、豊後玖珠の日出生城に篭っていた鬼御前など女性たちの活躍など、必死の反撃で島津の猛攻を退けていた。この時秀吉は、毛利輝元と黒田官兵衛の中国軍を豊前まで進めており、島津への圧力を強めてその進撃を止め、ついに豊後平定を諦めさせたのである。
宇喜多の軍勢だけでも小倉の町は膨れ上がったように見えていたのが、秀吉本隊がやってきたことで町の様相は一変した。
「お祭りだ……」
そう太郎兵衛が呟くほどである。
「祭りか。なるほどな」
ここしばらく、息子と口をきく暇も見せなかった吉成が久々にくつろいだ姿を見せている。秀吉の本隊が来た時には、ほぼ全ての務めは終わっている、という算段であった。秀吉が中国道を西に進んでいる時から、吉成は何度も呼び出されていた。
「四国のことは、えらく殿に叱られたな」
そう言いつつ、父は怯えている風でもない。
「叱られるって、どうして?」
「仙石権兵衛を止められなかったうえに、千雄丸さまを死なせてしまった。大友の御曹司を動かすこともできなかったうえに、俺は島津に捕まってしまった。いいとこなしだ」
秀吉の怒りは、小倉にも伝わり聞こえていた。仙石秀久は改易に処せられ、十万石を失った。四国勢をまとめる地位にいながら、真っ先に逃げ出したのだから無理もないと太郎兵衛も納得していたが、父がしくじったとは思えなかった。
「豊後は負け戦だったからな。一国全てが島津になびいてもおかしくなかった。大友氏に義理だてする諸将がいてくれなければ、どうなっていたか」
島津の諸将は勇敢で智謀にも長けていたが、薩摩の人々は恐れられてもいた。兵が剽悍なだけでなく、その略奪も徹底していたからである。当時の戦場は、略奪と人攫いが横行しており、敗北によって蒙る損害は莫大なものとなっていた。
島津は人買い商人を陣に帯同しており、攫った人々を島原の市に持ち込んでは奴隷として売り飛ばしていた。身代金と引き換えに返すという取引も行っている。これに豊後や豊前の人々が激しく抵抗したのは言うまでもない。
「島津の自業自得でもあった。もし四国勢を率いていたのが殿なら、もっとうまくやったことだろう」
秀吉は行く先々で、ことさら仁政を印象付けようとしていた。兵糧は徴発するのではなく購入し、人を使えば賃金を払った。人買いなどもちろん厳禁である。
これが進軍先の人々の心を随分と和らげたことは間違いない。
「攻め入る先も同じ天下だと思っているから、無茶をしない」
三十万の軍を迎え入れた小倉では、嫌な顔をする者は少なかった。むしろ商売のタネがやって来たと大いに盛り上がったのである。商いをする者だけでなく、遊郭や芝居小屋まで立ち並んでいる。
吉成は久しぶりに自分から太郎兵衛を誘い、町に出ていた。しばらくあった話しかけづらいほどの張り詰めた気配は、なくなっている。
「皆もう飽き飽きしているからな」
「飽きているって、戦に?」
そうだ、と吉成は頷く。
「百年以上、どこかで戦いが起きている。ここ二、三十年は大きな戦いも多かった。総見院さまの代で考えても、どれだけの人死にが出たかわからない。疲れてきているのだよ。やる気に満ちた島津でさえそうだ」
九州を制覇するために兵を動かしたのも、結局は秀吉というより大きな相手との戦いを避けるためだと吉成は言う。
「殿は兵や民たちの心を汲み取るのが実に上手い。しかも九州ははるか遠いところにあるからな。兵たちを退屈させない工夫も必要だ。それが、祭りのように賑やかな小倉の町なのだろう」
だがもちろん、秀吉は将兵を遊ばせに九州に来ているわけではなかった。小倉に上陸した秀吉は何度か吉成からも九州の情勢を聞いていたが、三月二十四日の軍議には太郎兵衛も伴って参加するようにとの命が送られてきた。
六
大坂でも見たことのないほど多くの武将たちが、一堂に会していた。小倉城の大広間が一杯になるほどの人数である。太郎兵衛もさすがに気押されて、父の陰に隠れるように座っていた。
「陣立てを告げる」
秀吉は一段高いところに座り、諸将は広間に座っている。かつて同輩や上役であった者たちも、ごく自然に秀吉を見上げていた。陣立てを述べているのは石田三成である。戦をさせても強く、九州の諸将の取り次ぎも務めるなど秀吉に重用されている。
彼をはじめ、小西行長や前野長康などの兵站を担当した諸将は、秀吉の新たな側近団であった。
太郎兵衛は父が広間に座っているのが不思議ではあった。秀吉の傍らに侍って、こうして諸将に命を伝えるのが務めだと思っていたからである。
広間に集められた諸将は、三成の口元に注目していた。
「第一陣、森吉成どの、高橋元種どの、城井朝房どの、竜造寺政家どの」
そう名が読み上げられて広間はざわめきに包まれる。太郎兵衛も驚いて父を見上げるが、微動だにせず座っている。前に座る父の表情はうかがえないが、肩に力みがあるわけでもなかった。
吉成と共に第一陣を命じられた高橋元種と城井朝房は、共に九州の国人武将である。高橋元種は、島津について豊前、筑前を攻略しようとした秋月種実の次男にあたる。大友氏に従っていたが、毛利の調略によって寝返り、その家督を立花弥七郎宗茂の実父で岩屋城に散った高橋紹運に奪われている。
今や大友も毛利も秀吉に従っている。宙に浮いた形となった彼からすると、高橋家本筋の名誉を回復するために、どうしても避けられない戦いであった。もう一人の城井朝房は大友氏に従っていたが、島津の攻勢を見て寝返り、秀吉の出馬を見て再び寝返った。ここで戦功を挙げなければ信を勝ち得ることはできない。
そんな二人に交じって先鋒を務めるのが黄母衣衆の森吉成であったから、一同のざわめきはなかなか収まらなかった。
「森どのには十分な兵がおらぬゆえ、関白さま直属の近江衆と美濃衆をつける」
そう三成は告げて二番隊以降の陣立てを発表していった。太郎兵衛は、父がついに一軍の将になるという驚きと嬉しさで、体が震える思いだった。
秀吉は三十万の大軍を西の肥後、東の日向というふうに二手に分けた。吉成が先鋒を務める肥後表の総大将を秀吉自身が、日向から南へ攻め入る軍の総大将には豊臣秀長が就くこととなっている。
肥後方面軍には福島正則、木村重茲、堀秀政など秀吉子飼いの諸将が従い、日向方面軍にはもはや秀吉の腹心といってよい黒田孝高を一番隊に据え、小早川隆景や毛利、宇喜多、因幡の諸将など中国地方で新たに従った者たちが名を連ねている。一度四国へ撤退していた長宗我部元親の名も、日向方面の番外にあった。
やがて出陣の手はずが言い渡され、質疑があって軍議は終わる。三成の戦準備は周到で、質問が挙がることもほとんどなかった。
「小三次どのは官兵衛どのと同じほど信任を受けているのか」
という囁きが聞こえる中を、吉成は立ち上がり、広間を退出した。
「父上、やりましたね!」
黒田孝高が借りている寺の一室を、吉成たちは間借りしていた。帰り着くなり、太郎兵衛は叫ばずにはいられなかった。
「ついに一軍の将だ!」
いくら黄母衣衆といっても、知行は多くとも数千石、配下の兵は五百を超えないのが普通だ。千人、万人を率いて戦場を往来するのとはわけが違う。父の仕事は凄いと思うようになった太郎兵衛も、血の滾りを抑えられなかった。
「つまらんことだ」
吉成は特に慌てて準備することもなく、湯を沸かし始めた。庭に生えている茶の木の枝を何本か折ると、そのまま沸いている湯の中に突っ込む。
「茶の湯もできるかもしれないね」
出世すると、茶の湯ができるという。大坂城を訪れた際に見た茶室は、目も眩むような豪華さだった。あれこそ、世に出た者の証だ。名物と言われる茶器は千金の値であり、そのやり取りで国の命運が左右されることすらあった。
「俺がいつ茶の湯などやりたいと言った」
父が淹れているのは、出来合いの粗末な焼き物に庭でへし折った茶の枝である。優雅な茶の湯とはかけ離れている。
「お前、まさかそのような贅沢をしたいなどと望んでいるのか」
怖い声で問われて慌てて首を振る。
「茶の湯のために戦うなど、俺には阿呆らしくてできないな。そのあたりの茶の木でも十分に味が出る」
一杯先に自分で飲み、次の一杯は太郎兵衛に渡した。
「うまいだろう」
と吉成は言うが、それほどのものではない。微かに茶の香りはするが、そのすぐ後に泥水のような匂いがして太郎兵衛は顔をしかめた。
「白湯の方がいい」
「戦を経験して少しは大人になったと思ったが、まだまだだな」
吉成は苦笑すると、大の字になって寝てしまった。
秀吉軍がまずやるべきことは、筑前に残った島津方の拠点を一掃することである。島津方について岩屋城など諸方を荒らしまわった秋月種実に対してどう勝利を収めるかによって、戦況は大きく変わる。
「秋月種実が篭る古処山城を落とせば、決着はすぐにつく」
秀吉は当初、そう考えていた。秋月氏が本拠とする古処山と岩石の両城は、豊前小倉へと続く山塊の出口に位置する。遠賀川沿いに広がる平野を制せられては軍を自由に動かすことはできない。この城をそのままにしておけば、小倉に多くの守備兵を残しておかねばならず、徹底して叩かねばならなかった。
「岩石城を先に落とすべきです」
蒲生氏郷や前田利長は軍議でそう主張した。古処山を落とそうとすれば、東に位置する岩石城から側面を衝かれる恐れがある。それに、古処山城を陥落させたとしても、岩石城が堅く守って落ちなければ結局かかる手間は同じである。
「小三次」
呼ばれた吉成は黄母衣衆の一人として主君のすぐ傍らに控えていた。
「豊前をつぶさに見て、種実の取次をしていたお前はどう思う」
「岩石城を先にすべきです。種実は当初、私を通じて降伏の道を探っていました。心に迷いがあるうちに一気に片をつけるべきです」
とすぐさま答えた。
「では岩石城に寄せる」
秀吉は先鋒の諸将に攻略を命じたが一つだけ条件をつけた。
「一日だ。一日で落としてこい。派手に攻め、派手に討ち取り、派手に燃やしてくるのだ。しかし、降るなら許せ」
秀吉との付き合いの長い氏郷や利長は表情も変えず命を受けたが、九州で新たに従った高橋元種、城井朝房の顔は青ざめた。意気揚々と出陣の準備を始める蒲生勢や前田勢を横目に、城井朝房は吉成に歩み寄った。
「関白さまは我らに死ねと仰るのか」
城井氏は豊前宇都宮氏とも呼ばれ、祖は鎌倉時代に下野からやってきた。国人として長きにわたって豊前に勢力を張り、朝房の父、鎮房は城井谷城を本拠として周辺の大勢力の間で何とか勢威を保っていた。
鎮房は大友宗麟の妹を娶ったものの、耳川で大友軍が大敗すると一転して島津方についている。秀吉の大軍勢を見て敵対は避けたものの、鎮房自身は出陣せず、微妙な立ち位置を崩さなかった。
「そうですな。それくらいのお覚悟があってしかるべきでしょうな」
自陣に戻りながら、吉成はこともなげに答えた。
「城井どのは表裏のないところをこの一戦で諸将にご覧に入れれば、この先に行われるであろう九州国分けにおいてもめでたきことになりましょう。その際には私もきっと、口添えいたします」
と約束した。
「この戦、お父上が出て来られるべきでした」
鎮房は剛力無双にして弓の名手として知られる豪傑だ。
「父にも立場があるのです。ご理解を」
「わかっています。ですからこそ、あなたは殿に見せるべき姿がある。私はしっかりと見ておりますよ」
朝房は青ざめたまま頷き、自陣へと戻る。吉成は秀吉から与えられた一軍を前に、出陣の命を下している。森隊は前田、蒲生の両軍と共に岩石城に攻め込み、一気呵成に落とすこととなった。
太郎兵衛は吉成を支える将領たちを見て目を輝かせた。
「知っている人ばかりだ」
長浜で隣近所だった黄母衣衆の面々がいる。後に勝永と共に大坂で戦うことになる、速水守久、真野助宗、伊東長実は太郎兵衛を見て、若との、若君、とからかった。他にも、木村重成の父である隼人正重茲も陣に加わっていた。
「九州での働きは聞いているぞ。お前の名は俺たちで揚げてやるよ」
木村重玆が言うと一同が気勢を上げた。
石合戦仲間の連中で、近年元服を迎えた者もいる。それぞれが槍や鉄砲をかつぎ、一丁前の武者姿で馳せ参じていた。
「若!」
宮田甚之丞や杉助左衛門も新しい馬と甲冑を与えられ、輝くような笑顔を見せている。彼らは一隊を率い、吉成と共に進軍することとなっていた。
だが、血の気の多い者が増えれば揉め事も起きる。
「喧嘩だ」
と騒ぎが起きて太郎兵衛がすっ飛んで行くこともままあった。出陣を前にして、若武者たちが村の娘をかどわかしたという訴えがもたらされた。軍令で、地下のものへの濫妨狼藉は厳しく禁じられている。
「ことによっては成敗してもよい」
という吉成の命を受けて、太郎兵衛は走った。父の軍を辱める輩を許す気はない。彼が駆けつけた時には、悪さをした者たちは酒に酔い、娘の衣に手をかけて諌める者にも矢を放つ始末であった。
「戦に勢いをつけるんじゃ。邪魔をするな!」
猛り狂った男たちは五人ほどいて、いずれも腕に覚えがあるらしく、始末に負えない。太郎兵衛は怒りのままに突き進もうとした。だが、
「関白さまの軍は島津と変わらんな」
と凛とした声が飛んだ。武者たちを恐れる気配もなく、六尺槍に似た、長大な鉄砲を担いだ男が一人、立っている。
「何を抜かす。殿を愚弄するのか!」
「お前たちのような奴の姿が主君を愚弄しているんだ」
「やかましい!」
男たちは矢を番え、娘をなぶろうとしていた男も槍を構え、一気に銃手へと突っ込んだ。太郎兵衛が足元の石を拾い、印地打ちで救おうとした次の瞬間、山が震えるような轟音が響いた。
白煙が銃口から立ち上ったその時には、荒くれ者たちは一列になって倒れていた。娘は悲鳴を上げて村へと帰り、銃手はゆっくりと銃を担ぎ直して太郎兵衛の方を向いた。
「こんな連中がいるようじゃ、島津には勝てないよ」
太郎兵衛は駆け寄った。
「豊前でこんな無礼を働く奴は、俺と父上が決して許さない」
「五人使い物にならなくなった」
統久は鼻を鳴らし、倒れた足軽たちを見下ろす。
「でも統久が加わってくれたら、それでいい」
「嬉しいこと言うね」
統久の手を、太郎兵衛は握りしめた。統久も力強く握り返す。豊後戸次の鶴賀城を守っていた利光一族の跡取りで銃の名手がそこにいた。
「どうしてここに?」
「村は豪永おじに任せて、天下を見て回ることにしたんだ。それに、太郎兵衛には世話になったしな。つくとしたらお前のところだと決めていたんだ」
喜びに言葉が出ず、太郎兵衛はただ統久の手を握って何度も振った。
吉成が一軍を率いるのは初めてではあるものの、その下についた者たちは美濃や近江時代からの古馴染みが多い。主だった顔ぶれを集めて細かな打合せをするにも、よどみがなかった。
「戦になったら、真っ先に斬り込んで名を揚げてくれ」
吉成の指示は明快だった。
「銃戦では話にならぬほどこちらが優勢だ。秋月方は岩屋城や鶴賀城の戦訓を得て長く守ろうとするだろうが、そうはさせぬ。射すくめられているところを一気に行くぞ」
物見によって、城の守りは既に明らかとなっていた。山城らしく、峰や尾根に曲輪や出城を設け、要所に銃卒と弓兵が詰めている。大手の添田からは長い尾根筋を駆けあがらなければならず、搦め手の赤村からの道は険しい。
「蒲生と俺たちが大手、前田が搦め手と決まった。もちろん、蒲生勢に遅れる理由は何もない。戦が始まれば、我ら一丸となって、城主熊谷久重の首を挙げるのみだ」
吉成の言葉に、将兵は力強く頷く。
「出立は深更とする。今のうちにしっかり腹を満たし、休んでおけ」
そう言うと、吉成は陣屋に入った。大将に必要な武具は、黒田孝高がはなむけに全て揃えてくれた。
「さすが官兵衛どのだ。測ったようだな」
秀吉から拝領した水牛の角をかたどった兜は、これまで揃いだった黄母衣衆の無骨なそれとは違う華やかさであった。
「大将の貫禄が出てきたな」
顔なじみの近江衆が覗いてはからかっていく。太郎兵衛から見ても、漆黒の鎧に勇ましい兜は随分と立派に見えた。別人のようですらある。
「重いな」
何度か首を振って、吉成は兜の感触を確かめた。緒を締め終わると振り向き、どうだ、と太郎兵衛に訊ねる。
「随分と男ぶりが上がったように思います」
世辞をいうでもなく太郎兵衛が言うと、吉成はつかつかと近寄ってきて拳骨を振り下ろした。頭を抱えた太郎兵衛が涙目になりつつ父に食ってかかろうとすると、世にも珍しいものを見た。
「そうか、男ぶりが、上がったか」
吉成が片頬を上げて笑っていたのである。
合戦が近づくにつれて、太郎兵衛は落ち着かなくなった。吉成が軍勢を率いて、しかも先陣を切るなど、これほど晴れがましいことはない。体の火照りを抑えようと、彼はそっと城を抜け出す。
寅の刻には出陣すると言い渡されている将兵の多くは、鼾をかいて眠っている。城のすぐ傍らを流れる紫川に沿って、太郎兵衛は南へと馬を走らせた。夜気に当たれば少しは心も静まるだろうと考えたのだ。
紫川をしばらくさかのぼると、各地から送り込まれた軍勢があちこちに陣を張っていた。竜造寺の旗印が見える辺りに、小さな池がある。万葉の歌に詠まれたこともあるという紫池の畔に馬を止め、大きく息を吸う。
しっとりとした水辺の空気が心地よい。細道をゆっくりとたどっている間に、熱くなっていた心と体が落ち着いてきた。だがその時、何かの気配を感じて茂みへと身を隠す。
耳を澄ますと、水の跳ねる音が微かに聞こえてきた。音のする方へ顔を向けると、どうやら誰かが沐浴をしている。こんな夜更けに、と近づきかけて太郎兵衛は足を止めた。
星の光を受けて腰まで水につかり、豊かな黒髪を池の清水で洗っている。水面に映る星影全て吸いこんだような、白く輝く肌をした少女だ。声をかけることも忘れて見惚れる太郎兵衛の首すじに、冷たい刃が突き付けられる。
「姫さまの水浴びを覗こうなんて、いい度胸しているじゃないか」
掠れた、老いた猫のような声である。
「姫さま……、いずれの?」
「お前のような下郎に教える義理はないね。死ぬ前にいいものを見たと感謝しな」
喉元に当てられているのは、巨大な鉄の爪であった。首筋を引き裂かれる寸前、太郎兵衛は腰を落として足を蹴りあげ、相手と距離をとる。
そこには巨大な猫がいた。両手に鉄の爪をつけ、背筋を丸めて牙をむき出しにして彼を威嚇している。太郎兵衛は腰に吉光の短刀を挿しているだけだ。
「覗くつもりはなかったんだ」
「でも姫さまの体を見たろ?」
頭の中に白い肢体が甦った刹那、鉄の爪が一閃した。懸命に抜き合わせ、激しい音が鳴る。だが、不思議なことに、池に入っている少女はうろたえることもなく、沐浴を続けている。太郎兵衛はその剛胆さに感心する。もう一度、その姿を見たかったが、
「二度と見せないからね!」
と化け猫の鉄の爪が襲いかかり、振り返ることを許さない。何度か二人が火花を散らしているうちに、
「お玉、帰るよ」
と声がかかった。太郎兵衛が声のする方に目をやると、ほっそりした体つきの若武者が栗毛の馬に跨っている。侍の格好をしているが、その顔は間違いなく、先ほどまで沐浴をしていた少女のものだった。
「命拾いしたね」
お玉、と呼ばれた怪物のような娘は爪をしまうと、若武者の後に続いて姿を消す。太郎兵衛はただ呆気にとられて見送るばかりであった。
七
寅の刻となった。
夜明け前の闇がもっとも深くなる瞬間、先に銃火を放ったのは、岩石城の方であった。それを合図に、吉成は鬨の声をあげさせた。攻める側も、守る側も、完全に目覚めていた。
「蒲生勢も動き始めています」
物見の兵が報告すると、吉成は銃卒たちに火縄をかけさせた。
「闇雲に撃つな。柵や門に当たっても弾の無駄だ。向こうがどこから撃っているのか見極めて、よく狙え。そして一度狙いを定めたら、今度は相手の気が萎えるまで撃ちまくれ」
そう命を下す。
双方の激しい銃撃が続く間、槍兵たちは押し黙って折敷いている。功に逸る蒲生氏郷の部隊が森隊の横を駆け上がっていくのをじっと見守っていた。
「父上、我らも早く行きましょう」
このままでは城攻めの手柄が全て蒲生側に奪われてしまう。太郎兵衛はそれを心配した。氏郷は清洲会議の時から秀吉に味方すると旗幟を鮮明にして寵愛を受け、伊勢十二万石を与えられている。動員している兵数も森隊よりずっと多かった。
「まだだ」
吉成は本陣でじっと腕を組んだまま動かない。
部隊の先頭に並べた銃隊は激しく城の守兵と撃ちあっている。蒲生隊から激しい喊声が聞こえ、声の源は徐々に山の上へと上がっている。
「小三次」
他の将領たちも、吉成に迫った。
「四国勢の過ちを繰り返してはならん」
仙石、長宗我部など四国から豊後に攻め入った者たちは、中国勢や筑前を守った者たちに比べて大いに面目を失った。戦機を失っては、一番隊の栄誉もなかったことになる。
だが、周囲がどれほど迫っても、吉成は突撃の命を下さない。
「太郎兵衛、様子を見てこい」
吉成は後ろに控える息子に命じた。そして、
「蒲生隊は勇敢に戦うだろうが、必ず一度は押し戻される。その気配を察したら報告するのだ」
と耳打ちした。
「俺も行こう」
犬飼九左衛門も立ち上がり、吉成は頷く。
太郎兵衛は父の指示に首を傾げながら、銃火が行きかう正面を避け、蒲生隊からも距離を取って城に近づいた。戦は激しさを増しているとはいえ、尾根を一つ越えれば静かな闇が広がっているばかりである。
「落ち着いていますな」
九左衛門は太郎兵衛の武芸の手ほどきをしてくれていたが、太郎兵衛が吉成について土佐に行って以降、稽古をつけていない。
「二年ほど見ない間に気配が変わった。強き者たちに会われたな」
太郎兵衛はこくりと頷く。石合戦に明け暮れている頃は、周りが弱く見えて仕方なかった。だが、天下には強き者が多くいた。そうなりたい、と思う男たちが綺羅星のごとくいる。真の戦の中で鍛え上げられた男たちには、全く敵わない。
だから太郎兵衛は、戦に何があるのかを知りたかった。
「どうして父上は、蒲生の軍が一度退くと言ったのだろう」
吉成が暗闇の中で、味方の動きを読めるのは何故か、わからなかった。
「殿の凄さは、少ない手掛かりから正しい答えを導き出す力です」
しばらく考え、九左衛門は吉成の力をそう評した。
「黄母衣衆として大名たちと交渉し、使者として敵陣へ乗り込み談判を行えば、過ちは許されない。一つの過ちが何千という命を散らすことになりかねない。敵や味方の機微を読みながら、正しき方へことを進める術を極めているのでしょう」
「まだわからない……」
「俺だってそうです。だが、あなたは殿の子だ。できぬ筈がない」
尾根を登りきると、蒲生隊が城の大手に迫り、激しく撃ち掛けているのが見えた。城からの反撃も激しい。夜襲だけに松明を焚いているわけではなかったが、城のあちこちには篝火が煌々と輝き、寄せ手を照らしていた。
城の銃卒は蒲生隊に砲火を集中させている。多くの兵が柵に取りつく前に倒れ、柵を登りかけた者たちは上から矢で射られるか槍で突かれるかして息絶えていく。
しばしそのような攻防が続き、攻め手の気が挫けたように見えた。
「戻ろう」
太郎兵衛が尾根を下りようと九左衛門を促した。
「波を見ましたか」
「そんな気がする」
木立の中を駆け抜けて父のもとに復命すると、吉成は腕組みを解いて全軍に命じた。
「蒲生隊が一度退いた頃合いに城大手の直下まで足音を潜ませて進め。そして一気に攻め込むぞ」
吉成は激しく続けさせていた銃撃を止めさせ、全員の足もとに藁を巻かせて山を登り始めた。喧騒に包まれていた岩石山に一瞬の静寂が訪れる。
「父上、あれは……」
太郎兵衛は山の下から伝わってくる微かな地響きに気付いて振り返る。巨大な光の塊が添田一面に広がっていた。
「殿が尻を叩きに来ているのだ」
吉成は振り返ることもしない。
「あの光を見れば、蒲生と前田は奮起して再び攻勢に出るだろう。城方もあの本隊が攻めのぼってくるまでに束の間の休息を取ろうとするはずだ。そこを狙う」
城の搦め手からひっきりなしに喊声が聞こえてくる。秀吉本隊の動きに気付いた前田利長が突撃を再開しているらしい。吉成は後方から蒲生隊が再び山を登って来ているのを確かめると、初めて大音声で攻撃を命じる。
搦め手に気をとられていた大手の兵たちが慌てている間に、多くの兵が門にとりついていた。激しい銃火の中を、門が内側から開く。
「先陣は森小三次吉成の隊がいただいた!」
兵たちがそう叫びながら城内へと躍り込む。城方も懸命に防戦する中を、太郎兵衛も吉成も槍をふるって突き崩す。だが、その中を別の大音声が響いて来た。
「岩石城への先陣、蒲生松ヶ島侍従氏郷なり!」
太郎兵衛が驚いて振り向くと、鯰尾の銀兜が間近に見えた。蒲生氏郷が大槍を担ぎ部隊の先頭となって城内へ走り込んでいく。
「小三次どの、ご苦労!」
爽やかに声をかけると、近習たちと共に敵兵の群れの中へと雪崩れこむ。それはいいのだが、口々に先陣は蒲生と叫び続けるのが太郎兵衛には不快である。太郎兵衛が氏郷の後を追おうとした刹那、苦笑した吉成の口から出たのは、
「退け」
という命であった。
八
岩石城は、一日のうちに落ちた。
島津に味方することで三十万石相当の領土を勝ち得た秋月種実は、天下の力を思い知らされた。彼は反撃の機会をうかがって、古処山城を出て、秀吉の本陣に近い益富城にまで軍を進めていた。
岩石城が堅く守っているうちに、秀吉の側面を衝くつもりであった。だが、堅城と自負していた城が落ちたことに驚いているうちに、十万を超える兵が益富城に迫っていたのである。その報を聞いた種実は、島津に救援を求めると共に本拠地の古処山に戻った。
当然、益富城には火をかけ、敵に使われないようにすることも忘れない。だが翌日、種実は目を疑った。焼き払ったはずの益富城がそのままの姿で建っていたからである。それははりぼてと松明の灯りによってできた幻の城であったが、種実には真実を確かめる術もなかった。
一夜城だけでなく、その周囲を埋め尽くす大軍勢が彼の心をへし折ったのである。
「何とか一族の命を助けていただけないか」
内々に黒田孝高に問い合わせがあった時、吉成と太郎兵衛もその陣屋にいた。孝高は先陣を切って岩石城の大手を破ったのは吉成だと知っていたが、蒲生氏郷から先陣の功績は我らだとの申し出があったので真偽を確かめるために二人を呼んでいた。
吉成は、先陣の功について何も言わず、太郎兵衛にも余計なことは言わせなかった。ただ、
「蒲生どのには養う者も多いでしょうから。私は殿の兵をお借りして働いたのみだ。我が兵たちの功だけは認めてやって欲しい」
そう孝高に告げた。その言葉を聞いて含むところを悟った孝高は頷く。
「表立っては、蒲生と前田の功とするが、よろしいな」
と念を押す。
「まだまだ先は長いですからな」
孝高は片眉を上げ、そうとは限らん、と言う。
「小三次どのは、関白さまが何故岩石を一日で落とせと仰ったかご存じか」
「もちろん。九州が平らげば東国が残っておりますからな」
満足げに頷いた孝高だったが、太郎兵衛は妙な気分だった。まだ豊前の入り口で一勝を挙げたのみである。だがもう、九州の戦は終わったような話を二人はしている。
「太郎兵衛、これが関白さまの戦いだ。一戦で全てを終わらせる。これほど美しい戦をする方はいない。よく憶えておくがいいよ」
孝高は上機嫌であった。
「さて、秋月からの申し入れをどうするかな」
楽しげに、その書状を吉成に見せた。
確かに、孝高の言った通りになった。
北九州に猛威をふるった秋月種実はわずか数日で降伏し、秀吉が快く許したことも話題となっている。散々な目にあわされた大友宗鱗や立花弥七郎の気が済むわけがなかったが、秀吉は二人の膝を抱くようにして宥め、不満を言わせなかった。
秀吉の秋月種実に対する穏健な態度は、島津についた諸将の心を大いに動かした。逆らえば数日で滅ぼされるが、降れば必ず許される。となれば許される方を選ぶのは当然である。
日向や肥後では散発的な戦闘があったものの、秀吉軍は瞬く間に豊後、日向、肥後の諸城を抜いて薩摩へと軍を進めた。島津義久は本拠地の薩摩で頑強な抵抗を試み、確かにある程度の足止めには成功した。だが、兵力差は圧倒的で敗北は免れない。
秀吉は島津を滅ぼすか、迷っていた。
「追い詰められた島津は厄介だ」
と考えていた。秀吉からすると、苦境と見るや惜しげもなく命を捨てるように見える島津の戦い方は脅威であった。肥後を経由して川内に入っていた秀吉は、まだ島津義久の本隊とは戦っていない。
豊後の府内にいた義久は秋月種実が降伏すると見るや薩摩に撤退し、守りを固めていたのである。
秀吉の帷幕でも、意見は分かれていた。だが、島津との取次を務めていた石田三成は島津を討ち滅ぼさぬように進言した。島津は信頼するに足ると弁じたのである。
秀吉は一通り意見を聞いたうえで、三成の案を採った。
「ここで島津を滅ぼしてしまえば、確かに九州は静かになるかもしれんが、どれほどの損害が出るかわからん。島津は腹を括れば歯だけになろうと噛みついてくるぞ。平佐城のような戦いぶりを薩摩全土でやられてはかなわん」
平佐城には桂忠昉が篭って最後まで頑強に抵抗し、秀吉を手こずらせた。
秀吉はもちろん、硬軟両面で準備を進めている。根来攻めの際に仲介の労をとってくれた高僧、木食応其を使者に立て、義久に降伏の打診をしていた。木食応其からは、
「関白さまの慈悲を見て降るかもしれません」
との感触が報じられていた。
島津が求める「慈悲」の内容は、もちろん一族の助命だけでなく、領土の安堵も意味していた。
「図々しい」
と最初は秀吉も怒ったが、
「毛利や長宗我部も我らと激しく遣り合っていましたが、恭順な態度を示せば許すのが殿のやり方ではありませんか」
九州で交渉に当たっていた三成にそう言われて、秀吉も考えを変えた。
「なるほど。義久もそのあたりを見抜いて、したたかに交渉しておるのだろう。こちらの言い分はただ一つだ。反抗を止め、義久が出家すれば、薩摩、大隅を安堵する。それ以上のことを望むのであれば談判は無用である」
これが秀吉の出した最後の条件であり、島津義久もついには受け入れた。薩摩の各所で抵抗する動きが出たが、義久は自ら説得して回り、双方ほとんど出血することなく、薩摩は平定されたのであった。
秀吉は薩摩の国内を悠々と巡検して力を見せつけた後、国分けを行った。
薩摩、大隅を島津、日向を古処山で降伏した秋月種実、その際に攻城の先鋒を務めた高橋元種、丸目長恵の旧主である相良氏に分け与えた。
それを皮切りに、肥後を佐々成政、豊後を先だって死去した大友宗鱗の子、義統に。小早川隆景に筑前、筑後の二カ国を授けた。
黒田孝高に豊前六郡、立花宗茂には筑後柳川、肥前は古くから力のあった大村、竜造寺、松浦の諸氏に分け与えられている。戦で混乱をきたした博多の復興は、石田三成らに任された。
そして森吉成には豊前小倉を中心とした二郡、およそ六万石、そして太郎兵衛にも、豊前の一万石が与えられることとなった。
九
秋七月になって小倉に入っても、父の馬丁から万石もちの大名になるという大出世の意味が、太郎兵衛には今一つわからなかった。
吉成は秀吉の命に従い、権兵衛吉雄に一万石、犬飼九左衛門を一門に加えて香岳山城を与えるなど足元を固めつつあった。杉助左衛門、宮田甚之丞は侍大将となり、麗々しい陣羽織を太郎兵衛に見せにきたほどである。吉成は博多から師を招いて茶の湯を始めた。
「お嫌いなのかと思っていました」
太郎兵衛がからかうと、
「付き合う相手の間に流行っているからな。それに殿のお許しも得た」
苦々しい顔つきながら、見事な手つきで点前をこなしてみせた。
「あとは碁と将棋だな。お前には茶の湯はまだ早いが、盤上では一人前にふるまえるようにしておけ」
と命じた。だが吉成は、茶の湯も碁もする暇がない。秀吉は反抗的だった国人たちの領地を没収し、吉成に与えた以外は蔵入地として直轄地にした。検地の備えを行い、そこからもたらされる米などの産品を大坂に送るのも、吉成の仕事である。
だが、いずれも太郎兵衛にはまだ難しすぎる仕事ではある。まさか父親の馬の世話を続けるわけにもいかず、手持無沙汰であった。
「どうすればいいの」
一番身近な城主の跡取り経験者といえば、近侍に加わってくれた利光統久である。
「普段通りにしておけばいいんじゃないの」
太郎兵衛の戸惑いを楽しむかのような顔つきで統久は答えた。
「一万石を与えられた、とはいっても実際は小三次さまが政を行うんだから、あまり気負う必要はないよ」
「そ、そうかな」
秣と馬糞のしみついた馬丁の服は、もはや捨てられている。代わりに着せられたのは、紺地の小袖である。肌触りからしてまるで違い、くすぐったいほどだ。
「でも太郎兵衛はこれから大変だよ」
統久は気の毒そうに言った。
「俺たちは太郎兵衛と小三次さまが豊前でどれほどの働きを見せたか知ってる。でも、多くの国人や大名たちは、無名の武者がいきなり万石の大身となって、豊前の、いや九州の要を治めるようになったことに驚いているはずだ。注目を浴びるよ」
人目を気にして暮らすべきだ、と統久は説いた。
「俺も一応城の跡取りだろ? だから馬鹿にされないように励んだものだよ。鉄砲がこれからくるだろうと思ったから、懸命に鍛えたもんさ」
確かに統久の射撃は誰もが認める腕前である。
「武芸だけがあればいいってもんじゃない。太郎兵衛の印地打ちは大したもんだけど、それよりも四国勢退き陣の時に軍を率いたとか、土佐侍従さまに刀を授けられたとか、そういう経歴の方がものを言うから、言いふらすといい」
「やだよそんなこと」
太郎兵衛は顔をしかめた。自慢するようなことではない。
「だったら、俺たちが言いふらす」
「止めてくれ」
「悪い事じゃない。豊前の国人たちは、関白さまから送り込まれた森小三次親子がどんな人間か知りたがってるんだ。どうせなら良く知ってもらう方がいい。妙な噂が流れて国が乱れたら、それこそ厄介だ」
ただし、
「これから一気に金回りがよくなるけど、身を持ち崩すなよ」
と統久は付け加えた。
最初は意味がわからなかったが、すぐに理解した。小倉城の前には商人たちが市を成すようになり、周辺から集まる物資や人でごった返すようになった。城には秀吉からの使者や、蔵入地の検地に出張ってきた役人たち、港に入ってきた明国の商船長や、はては南蛮人までもが出入りし、吉成はその応対で茶を飲む暇もない。
それに加えて、あらたな大名のもとで一旗揚げようと牢人たちまで集まってくるのだから、喧騒はとどまるところを知らなかった。
しばらくして吉成は、
「街が騒がしい。お前は先頭に立って騒動が起きないよう見て回れ」
と太郎兵衛に命じた。
馬に乗り、小倉の街をゆく少年武将を、人々は眩しげに見上げていた。そんな視線がくすぐったくて仕方がない。新しい町は血の気の多い男たちを呼びよせ、喧嘩騒ぎも後を絶たない。だが、太郎兵衛の姿を見ただけで、多くがこそこそと逃げ出す。
店をかけている者は口々に寄って行けと誘い、茶なり菓子なりをご馳走してくれる。中には金や銀をこっそり袖の下から渡そうとする者もいた。
「受け取っちゃだめだ」
あまりの心地よさにぼうっとしていた太郎兵衛の背中を、統久は叩く。
「くれるって言ってるのに」
「何故くれるんだ。小倉城主の跡取りになるはずのお前がそれを受け取れば、渡した方は当然のように見返りを要求する。一つ賄賂を受け取って応えてしまえば、あの若君は袖の下で動くという評判がたつぞ。よその地から来た者への目は厳しいんだ」
そうだった、と太郎兵衛は慌てて金を返した。袖の下を贈ろうとした商人は苦々しい顔で統久を睨みつけるが、
「太郎兵衛さまを賄賂でたぶらかそうなど、無礼千万。殿は公平無私、関白さまの命によって小倉をお治めなされ、偏りなく政を行われる。勘違いするな」
と一喝した。
その一喝は自分に向けられたものだ、と太郎兵衛は背筋を伸ばしたが、気分がいいことには変わりなかった。