NOeSIS 嘘を吐いた記憶の物語
千夜の章(前編)10
cutlass Illustration/cutlass・たぬきまくら
我々の後継者はスマホの中にいました———田中ロミオ 累計50万ダウンロード突破のスマートフォンノベルゲームcutlass自ら完全改稿のうえ待望の書籍化。
携帯電話に着信があったのは、零時を少し回ったころだった。
電車に撥ね飛ばされたこよみを見たあと、自分の頭は真っ白になった。錯乱し、奇声を上げ、あてどもなく走り続けた。
憂姫とこよみが死んだ。何故自分は、こんなにも大きな犠牲を払わなければいけなかったのだろうか。
震え続けるスマートフォン。
右手に握られたその板切れは、さっきから何度も光ったり、暗くなったりを繰り返している。
突き飛ばした先輩に、どんな顔をして会えばいいかわからなかった。
虚ろな瞳で明滅を繰り返すディスプレイを眺めていると、後ろからにょっきりと黒い手がのび、通話の方向へスライドさせる。
ああ、もう数時間こんな調子だ……。
オレは後ろに立つ影から視線を逸らし、先輩からの電話を受けた。
「良かったっ、時雨君が無事みたいで。すごく、心配したんですよっ」
先輩の声色は明るかった。つまり生徒会長と呼ばれる彼女のほうだ。
「今から、会えますか? さっきは急に駆け出して――」
「――悪いけど、そんな気分にはなれないんだ。もうオレのことなんて、ほうっておいてほしい」
オレは彼女を、再び突きはなした。今なら、どうしてこよみが逃げ出したかがわかる。
そして、オレに冷たい言葉をかけたのかも。何故なら……。
「ねえ、時雨君。あなたは、 ?」
先輩の言葉は、心臓を抉るように冷たく刺さった。
瞳孔が窄まり、息が詰まる。
取り落としそうになった電話を必死に耳に近づけると、先輩は事務的な口調で集合場所を伝える。
「――待っています。今の私からあなたに伝えられるのは、それだけですから」
優しい声の、電話は切れた。オレはとても重い上半身を、公園のベンチから起こした。そして、確信したのだ。
千夜先輩は二人いる。千夜……いや、生徒会長が電話口で語った言葉。
『あなたは、見えているんでしょう?』
『もう一人の、自分が…………』
逃げ出したのは、こよみの死を見届けたからじゃないんだ。
アイツが……追ってきたから……。浮かんでいるのだ、ソコに……。
そして、オレを見つめている。もう一人の自分。浮かぶソイツを……生徒会長はそう表現していた。オレじゃない――。こんなの、自分じゃない――。
でも……。何故だかそれが、自分ではないと否定しきれない、そんな気味の悪さがあった。
『年齢や、顔、体格、たとえ違う性別でも、全く別の姿かたちでも、自分だとハッキリわかる』
憂姫が以前、ドッペルゲンガーについて語ったことだ。自分のようで自分でないもの。それはとても恐ろしく、得体の知れない気味の悪さがあった。踏み切りの前で、千夜先輩はソイツを視界に捉えていなかった。だけど、電話口の生徒会長は……。
やっぱり彼女にも、いるのだろうか。
日付は変わり、水曜日になっていた。今オレを待っているのは、千夜先輩ではなく、生徒会長だ。
ざわざわと、冷たい風が吹き始める。
オレはスマートフォンをポケットに突っこむと、足早に公園を抜けた。
ニヒニヒとした影はオレの後ろをぴったりとくっつき、足音もなくついて来る。
まるで、もう一つ影を背負っているみたいだった。
気配だけが背中を這いずり、ふり返るたびに、にょきっと窪んだ目を合わせてくる。
もう、こんなのはごめんだ。
生徒会長に会おう。そして、決着をつけるんだ。
***
ぼんやりとした薄暗がりの生徒会室に、目的の人物はいた。おずおずとこちらを確認したあと、戸惑いながら目を細める。
「こうやって夜中に会うのは、初めてですね」
夜の校舎で、一つだけ灯された明かり。
すべての警報装置は切られており、オレは容易に校舎内へ入りこむことができた。先輩は設置された監視カメラの性能などに、熟知していたことを思い返す。
「ふふ、疑り深いんですね、時雨君。私はたしかにこの学校の警備システムや、警備会社の見回りの時間を把握しています。でもね、あなたと一緒に行動しながら、一人の女の子を首吊りに導いたり、ましてやテープを強奪するなんて、そんな手品みたいなことはできません」
「そうか……なら、それ以外の知っていることを教えてくれよ、全部。そして、アンタをこれからどう呼べばいいのかを」
「顔が怖いですよ、時雨君。私のことはそうですね、生徒会長……そう呼んだほうがいいかもしれません。時雨君にとって、そのほうがいいでしょう。名前で呼んでもらえないのは少し、寂しいですけど」
「千夜先輩はアナタのことを、ドッペルゲンガー……もう一人の自分と呼んでいた。いったい何者なんだ?」
「そういう時雨君こそ、どうなんですか?」
彼女はオレとの間合いを一気に縮め、トンと、胸に手のひらを重ねた。そして耳元に唇を近づけ、ゆっくりと囁く。
「あなたは影に導かれてもう一人の私と出会い、そして自殺事件へと巻きこまれていった。影とはつまり……もう一人の時雨君のこと――」
彼女の言葉が、ぐるぐると頭を回った。足から力が抜けていく、立っているのすらおぼつかない。
「私には見えているんですよ、もう一人の、時雨君が……。ほら、廊下の向こうから、こちらを見ています……今……笑いましたよ……」
囁く声はとても近く、温かい彼女の吐息が頰を侵した。そして、彼女の口から出た言葉が、オレの心を凍らせた。オレは、指示された方向に顔を向けることすら、できなかった。
恐ろしいのは殺人鬼でも、幽霊でもない。自分自身と呼ばれる、似ても似つかないあやふやで、禍々しいものだった。
「こよみちゃんは、残念でした。一番あの子を信じてあげなきゃいけない時雨君が、まさか突きはなしてしまうなんて……」
「……何……言ってんだよ……。わけわかんねーことを……」
「盗まれた監視カメラのテープは、こよみちゃんが六人目の子を吊るした姿が録画されていたんじゃなくて……。こよみちゃんが六人目の子と別れてしまい、その後接触していないという、証拠がのこっていたんです。だから、持ち去られたままだった」
「…………アンタは、何を――」
「六人目の子は、時雨君が廊下の奥で見かけたとき、すでに死んでいた。でもね、こよみちゃんに罪を被せるために……死体は操られ、学校までたぐり寄せられた。時雨君が興味本位で覗いた自殺事件とはね……。死体を操ることも、罪を人に被せることも厭わない人物が、起こしたものなのですよ」
彼女が冷たく、オレを見つめる。
「でも最後にこよみちゃんを殺したのは、時雨君です。あなたが、信じてあげられなかったから……」
身をすくめる自分に対して、彼女は冷酷な現実を突きつける。胃が痙攣し、オレは口もとを手で押さえながら、襲ってくる吐き気に耐えた。
彼女は事件のことを、どこまで知っていたんだ?
クソッ、わけがわからねーよ。
「こよみは……、こよみは、呪いに憑かれていたんだ……。アイツが死んだのは、オレのせいじゃ……」
空虚な言いわけだと感じた。オレはこよみの日記に記された不安と絶望を、見ていたはずだ。こよみが電車に身を投げる前に、心をきちんと受け取っていれば……。自分を欺き続ける心を、目の前に立つ黒髪の少女は見とおし、語りかける。
「浮ついた態度、それにこよみちゃんは怒り、同時に……失望した。あの子は呪いを受けるより前に、自らの命を絶った」
「噓だ……呪いなんだっ!! 殺人事件だったからだっ!! だから……しかたなかったじゃないか……」
言葉が続かなかった。都合のいい言いわけだと自分で気づいていながら、それでも、オレは呪いという言葉に縋っていた。後ろめたさと後悔が心を苛み、オレは泣き出しそうな顔を彼女に隠すように、俯く。
「呪いに憑かれているのは、時雨君のほうです。見えているんでしょう、アレが……。そうだとしたら、今一番危険なのは時雨君です」
「呪いって……ドッペルゲンガーって、何なんだよ。どうして、オレなんだよ……」
自分ばかりが不幸を背負いこむ。世界で一番不幸なのは自分だと、感じていた。そう、無責任な言葉だ。
『深入りするな……』
色んな人間に警告されてきたじゃないか。目の前の彼女はそんなオレの不安を嗅ぎとったのか、くすくすと笑った。
「千夜は私の、もう一人の自分です。そして、あなたの前にしか彼女は現れなかった――。時雨君は私の背中を、隠していた存在を、覗いてしまったんですよ。後ろの正面だーあれっ――て。時雨君、私が、助けてあげます」
一歩近づくたびに彼女の黒髪が蛇のように揺れ、赤い瞳が心を覗きこむ。
天井から注ぐ蛍光灯は不規則に彼女を照らし、その顔に濃い影を落とした。オレが彼女に抱いた不信、そんなものを影は、あらわしていた。
「どうして……時雨君。どうしてそんなに、怖い顔をしているんですか……?」
彼女の腕が、オレに伸びる……。
冷たい指先が頰に触れた。
先ほど轢かれたこよみの血液がついたのか、彼女の制服には点々とした赤い染みが滲んでいる。血の臭いが、オレの鼻をつく。
オレは、逃げ出していた。
すべての現実から逃げ出すように、生徒会室を抜けて、暗闇に包まれた廊下を走る。
人が怖かった。闇が怖かった。自分自身というものの自惚れを痛切に感じ、後悔した。今自分は一人、孤立している。
呪い……そんな一言を、オレはこよみを見捨てた言いわけにつかっていた。自分の気持ちを偽ったという嫌悪感が、心を苦々しく苛んでいく。
オレはあてもなく、逃げ続けた。
影が、見える。
ぼやけた輪郭、腕と足と頭、そのすべてに現実感がない、歪んだ人影。
ゆらゆらと近づき、伽藍の底のような暗闇が二つ、オレを見つめている。ソイツは手招きした。どす黒い感情で満ちたオレの心を、優しく誘い出すように……。
死者と生きる者の狭間にある、幽霊の世界。その世界はあやふやに開き始め、その住人として……自分を、招き入れようとしていた。
不気味な人影を視界の端に捉えるたびにオレは……視線を、逸らし続けた……。
「違う、違うんだ……」
発した言葉に、自分自身が一番驚いていた。震える膝頭、よろよろとした不確かな足取りで廊下に手をつき、オレは逃げ続けた。
いったいオレは、何から……逃げているんだ? これじゃあ、まるで……。今までの……自殺者みたいじゃないか……。
「――時雨君っ!!」
そうオレの名を、叫ぶ声が聞こえた。長い髪が鼻先を掠め、右腕を強くつかまれる。
現れたのは、千夜先輩だった。
「今までどこに?」
オレの問いかけに対して、先輩が答える気はなさそうだった。明かりのすべて落ちた校舎の中、先輩の二つの赤い瞳だけが煌々ときらめいていた。
「へえ、そうだったの。もう一人の私が、苦労をかけたわね……」
一瞬目をあわせただけで、彼女は心を読んだ。
内側に秘めた自分の感情や記憶すべてを、射貫いてくる。オレの感じていた、孤独や恐怖さえも……。オレは唇をかみ締め、視線を彼女から逸らすしか、なかった。
「遅くなってごめんなさい。自分のドッペルゲンガーとは、一緒には出歩けないから。もしも出会ってしまったのなら、死んでしまうんですもの。ふふ、怯えているわね、時雨君? ドッペルゲンガー……二重に歩く者。もう一人の自分、それは影よ。あなたをしつこく追いかけて、そして追いつかれたが最後――。時雨君を――食べてしまうの――」
先輩の手が、肩に乗せられる。
「あなたには最初から、影が見えていたのね。追いかけられて、屋上まで逃げこんだとき……私と出会った、そうでしょう?」
オレの唇は縫いつけられたみたいに、動かなかった。その沈黙が図星の証だと、彼女は微笑む。
「示し合わせたように事件の現場にあなたが現れたの、不思議に思っていたの。でも当たり前よね、あなたは……影を見ることができるのだから」
肩にかかった先輩の手、指先に力が籠もり、肉に食いこむ。
「影は一週間に一度、人を食い殺してきた。今まで捕食された者たちの悲鳴、何から逃げていたか……あなたには、わかっていたのでしょう? 私と似た能力、でも――少し違う。だから、今の時雨君を救えるのは、私だけよ」
先輩はオレの肩から手を離し、両手首を摑みあげる。
ゆっくりと指先を眺めると、眉間にしわを寄せた。目的のものが、見当たらないようだ。
視線をオレの両目に移し、彼女は瞳を見つめるだけで身体中をまさぐる。
ズボンの右、左、後ろのポケット、少し跳ねて、胸の位置。そこで、先輩は満足そうに微笑んだ。
「こよみさんから受け取ったものは、胸ポケットにあるのね……」
オレの思考を読むだけで、探し当てる先輩。それは魔法としか、喩えようのない行為だった。ポケットから先輩は、それを取り出す。抗うことはできなかった。
淡い銀色の輪の中に、赤く発光するラインが走っていた。こよみが最後に落としていった、綺麗な赤い指輪だった。
「呪いを被るのなんて、そんなの私一人で十分よ。あなたには、ふさわしくない」
先輩は、指輪を嵌める。赤い光の輪は半径を広げ、先輩の腕をつつむように輝きつづける。
「ごめんなさい、時雨君。私は一人、地獄の底まで道連れにしなきゃいけないの……。あなたとは、ここでお別れ」
風が逆巻いている。
「ねえ、時雨君。最後に、私のわがままを叶えて欲しいの。次に私にそっくりの……いいえ、私に出会ったら……。本当の名前を、呼んであげて。それはあなたにしかできないことだから……。最初から、こうするつもりだったの。あの人を消して、私も消える。それでよかった……」
千夜先輩は一歩、また一歩と遠ざかっていく。嵌まった指輪は、赤く紅蓮の光を増していた。
先輩の瞳が真紅に燃えるように、輝いている。
「時雨君――最期にあなたの名が呼べて、私は…………幸――せ――」
ロウソクが消える直前のように光は輝き、次の瞬間、周囲の闇から色を消失させた。
幽霊が蒸発していくみたいだった。
――どさりと、人の倒れる音が響く。
その響きは薄氷の上に落ちる水滴の音に似ていた。千夜先輩はオレと出会った時の、その願いそのまま……一人でひっそりとこの世から消えたのだ。
***
あれから、数日過ぎた。
この世界すべてから、影が消え失せたような……そんな錯覚に囚われるくらい、粛々と時間が過ぎ去っていった。
空っぽになった自分の目に映るのは、色の失われた世界だった。ビルも、木々も、そして自分の影さえも、薄くて今にも消え入りそうな、灰色に見えた。
自殺事件は憂姫の死を以て、一応の決着をつけた。憂姫を殺したのは結局こよみだったのか、それともまた別の犯人がいたのか……、それもいまだに謎のままだ。警察も捜査を続けてくれてはいるが、進展は何もなかった。テレビや新聞は近隣で発生した宗教団体の立て籠もり事件の取材に夢中で、こちらにたいして何か調べてくるようなことはしなかった。
最後まで、不可解な謎だらけだった。
電車に轢断されたはずのこよみの遺体は、肉の一欠片も見つからなかった。だからこよみは、失踪者として行方をくらまし続けている。でも、現場に残った大量の血痕だけは……彼女の最期を、暗示させていた。
もう、考えることには疲れた。
心配や疑いなんて、自分に守るものがなければ、何の意味もない。
この事件に犯人がいようが、いまいが……もうそんなこと、どうだって……。
鉛の詰まった足を引きずるようにして、学校へ向かう。とおり過ぎるビルの窓ガラスに映るのは、やつれ、青ざめた自分の顔だった。
空虚になった自分に唯一残されていたのは、先輩……彼女への心配だけだ。彼女はあれから病院へ運ばれたがすぐに回復したようで、自力で学校まで来れるようになっていた。だけど、学校へ着いたところで、力尽きたようだった。
放課後にオレが保健室を訪ねると、彼女はベッドから半身を起こす。ぺこりと挨拶するさまは、いつもの先輩のように……とても……腰が低かった。
「あなたに一つ、謝らないといけないことがあるの……。私は、千夜という名前じゃなくて……」
彼女は、申し訳なさそうに俯く。
「一夜……だろ?」
「知ってたんです……ね」
「ああ、気がつくのが遅すぎた。今日ここに寄る前に、生徒会の会報を調べたんだ。思えばもっと早くから、調べていればよかった。あの日の夜、一夜先輩が手を差し伸べてくれたとき、オレはてっきりそれが呪いだと、思ってた。この人は千夜先輩に降り積もった呪い、なのだと。だから、手を摑んだら最後憑き殺される、そう思ってオレは逃げ出した。結局その考え自体が、呪いの影響だったんだな……」
「気にしないでください、時雨君。私の言いかたが……悪かったんですから」
お互いに俯き、視線を背ける。
「会報には、あなたの本当の名前が書いてあったんだ。でもそれを見たとき、なぜあなたが最初に千夜と名乗ったのかわからなかった。同じ顔の人間が二人いて、千夜先輩がイレギュラーな存在ならば……。両方とも、一夜と名乗るはずだ――と」
「あなたに千夜と名乗った後……、千夜はカンカンに怒っていました。最初から一夜と伝えておけば、もうすこし波風も立たない終わりかたができたでしょう。でも、私は気がついて欲しかったんです――他のだれでもない、あなただけに……。私たちにとって、時雨君は特別な存在……だったから。千夜と名乗ったのは、二人の私に気がついて欲しかったからです。もっとも、こよみちゃんが私の名前を忘れていたのは、予想外でしたけど」
「はっきりさせたいんだ――」
「ええ、最初から覚悟はしています」
「千夜とあなた、二人は……同一人物なんだよな?」
「他人ですよ、身体を共有しているだけ。時雨君のようなノーマルなかたから見れば、それは二重人格と言うんでしょうけど。性格も違うし、記憶も共有できません。食べ物の好みも、服の趣味も、好きなテレビも……全て違う。それだと日常生活にとても差し支えるので、極力似せる努力はしていますけど。時雨君は見ませんでしたか、胸ポケットに入っている記憶共有用の手帳を」
ああ、一つだけ謎が解けた気がした。千夜先輩が慌てたときに確認していたのは、それだったのか。
「千夜は滅多に表に出てきません。私が精神的に追い詰められたときや、生徒会長として演台で話をしなければいけない、張り詰めたときのための防御人格なんです。時雨君、あなたはきっと、私にとって危険な人物なんでしょうね。そうでなければ……千夜がこれだけ表に出てきた理由が、説明できません。いえ、それとも……。そうだとしたら……ちょっと抜け駆けされた感じです」
一夜先輩が千夜の話をするときの表情、それは懐かしい旧友の思い出を見ているようだ。彼女にとって別の人格とは、そういう存在なのだろう。今となっては、会うことも敵わない遠い遠い昔の面影。
それを指でなぞるように、ぽつぽつと紡ぎ出される言葉。
「自分が自分にもう一つ名前をつける、というのは変な話ですけど……。千夜は、私が作ったもう一人の私なんです。昔から人に言われたことしかできなかったんです、私は……」
先輩は窓を眺め、語り始める。その声は雲雀のさえずりのようで、オレの心を優しく、切なく、なでた。
「周囲からの期待に応えるのが私の喜びだったし、それが重荷だったんだと思います。だから、私のできない……ことを……」
一夜先輩は拳を握り、顔を伏せる。その言葉は少しだけ、熱を帯びていた。
「人に文句を言ったり、ケンカしたり、とにかく自分の思ったことをハッキリ喋る。そのために千夜は生まれたんだろ?」
「ふふ、何でもお見通しなんですね……。私は人から嫌われることを極端に恐れていた、だから人も怖かった。友達……なんて作れなかったんです。怒らせたり、悲しませたりして失うのが……とても怖かったから……」
人が変わることは、勇気がいる。そのためにこの人は、もう一つの人格を用意した。
「千夜は蝶なんですよ。そして醜い芋虫は私、一夜。私は変わりたいとずっと願い続けていた。消えるべきだったのは、私のほうだったかもしれません……。実際、千夜にはお友達ができたんです。あなたのような、とても素敵な人が……。私は望んでも、きっと一生手に入らなかったと思うもの……。だから、千夜のほうが……よっぽど魅力的な人間だって……。そう、思ったんです」
「それは、違う」
「いいんです、慰めなんて。自分のことは、自分が一番わかっていますから。自殺できる人たちが、とても輝いて見えていました。行動の是非はどうあれど、あの人たちは閉塞した世界を突破しようとする行動力があったんです。正しい行いができる人がいるならば、失敗する人も同じ数だけいると思っています。それでも……間違っていても、自分の思うとおりにできるなら……。私のように何もできないで……、外の世界を怖がっているよりは……。一歩を踏み出せる……勇気が……ほしかったんです……」
ぽろぽろと、一夜先輩の頰に涙がつたう。彼女が荒く呼吸を繰りかえすたびに美しい黒髪がこぼれ、その顔を覆った。
「でも……。こんな弱い自分を置いて、千夜は消えてしまった……。醜いさなぎのまま、私は蝶として羽ばたくことができなかった……」
千夜先輩の存在した理由が、わかった気がした。
「自分の卑しい感情の捌け口に、彼女を利用していました。こんな自分に、きっと彼女は嫌気が差したんです。当然の罰……ですよね……。私は千夜のようには素直になれ……ないから……。えっと……その……。もし、時雨君が……よけれ……ば……」
一夜先輩の手が、オレの手に重なる。温かくて、柔らかい手だった。
「一夜先輩。オレは、千夜の代わりにはなれない」
重ねた手が、オレの言葉に反応してびくんと跳ねたのがわかった。残酷な言葉だと思った。オレは今ヒトとして、最低のおこないをしている。
でも……。次の言葉、千夜先輩ならなんと言っただろうか。
「もし心の支えとしてだれかにすがろうとするなら、それはきっと間違いです。だれも、自分の代わりにはなれません。一夜先輩は、自分の力で強くなるべきです。だれの力も借りず、あなた自身の足で歩いてみるべきです。そうしなければ――、きっと――、おなじことの……繰りかえしなんです」
言い終えて、オレは重ねた手のひらをゆっくりと離す。
一夜先輩の手のぬくもりは、離してもなお、皮膚の奥に残りつづけている。
「……うん、よくわかった。こういう振られかたもあるんだね」
一夜先輩は笑顔を向けてくれる。とても寂しそうな、諦めたような笑顔を……。
「あははははっ。やっぱり千夜は偉大だったんだね、私の思い描いた理想どおりだった。だって、あなたが好きだったのは、千夜だったんだもの。噓ついたって、ダメだよ。時雨君の顔を見ればわかるんだから」
「な……先輩、ソレは――」
「少し自分自身に嫉妬しちゃうかな。だけどね、時雨君。私は本当に、君に感謝しているんだよ? 私はね、きっと人が怖かったわけじゃなかったと思うんだよ。だれも、必要としなかっただけなんだよ。自分一人だけで生きて行こうとか、そんな傲慢な心しか持っていなかったんだよ……。笑っちゃうよね? だけど……今は……。今は、違うんだ。だって、私は心の底から手に入れたい人ができたんだもの。だからね時雨君……。いつかきっと、君を……振り向かせて――見せるんだからっ――!!」
ドキドキしていた。自分の心が躍っているのがわかる。普通なら、こんなうれしい誘いを断るバカはいない。だけど……オレは……。
「先輩……」
「うん、わかっているよ。だって時雨君、泣いているもの。私が千夜を失って悲しいのとおなじように、時雨君にも心を整理する時間が必要なんだと思う。だけどね、いつかまた心の整理がついたとき。今度はね、一夜として会って欲しいの。きっと次に出会うときは、あなたが何もかもから逃げ出したいと願ったときだろうけど……」
「…………?」
「ううん、いいんだ、忘れて……。聞いてくれてありがとう、君と話ができてよかったよ」
オレの胸に添えられた一夜先輩の手、そっと押し出すように力がこもる。
「――さよなら」
俯く一夜先輩。小刻みに震わせた唇から、別れの言葉が漏れる。
オレは一夜先輩から離れると、彼女の腕は力なく落下していく。長い髪で覆われた彼女の顔は、もう、どんな表情をしているのかもわからない。
彼女の泣きはらした顔が、まだ、目の中に残っていた。オレは未練を振り払うように別れの言葉を彼女にかけ、保健室をあとにした。
***
足下の砂粒が、さらさらと音を立てて崩れていく。
廃墟ビルにかこまれた人気のない公園で、オレはベンチに腰掛け、虚ろな瞳で蟻地獄に沈んでいく昆虫を眺めていた。
今の自分は、空っぽだった。
一夜先輩はきっと強くなれるだろう、千夜先輩も……それを望んでいたんだ。彼女が独り立ちできたことが、唯一の慰めだった。
なのに……オレは……。
弱い心に決心なんてつくわけがなかった。もうすこし早く自分の気持ちに気がついて相手に伝えていれば、こよみを失うことはなかっただろう。そして憂姫も、千夜先輩も守れたかもしれない。
すべて遅すぎたんだ。今の自分には、何も残っていない。こよみはきっと……だれよりもオレのことがわかっていた、だからきっと……。
『言われなくても、わかるんだよ』
声が聞こえる。
『時雨とはつきあい長いもん、何考えてるかわかるよ。
たとえ時雨自身が気がついていなくても、私にはわかるんだよ』
夕焼けに照らされた、長い長い影が延びる。その影が音もなく広がり、自分の足を飲み込んだとき……オレの心臓は、早鐘のように脈打った。
『あなたの心が、私にないことも気がついていたんだよ……』
継ぎはぎだらけのこよみの身体が、闇夜の訪れとともに形成されていく。強引に針で縫われ、傷口を覆う包帯はじっとりとした赤黒い血液が滲んでいた。
『時雨は、自分自身の気持ちにまだ、気がついてなかったみたいだけど。
そういう鈍感なところ、女の子はとっても残酷に感じるんだよ。
だって……私だって……。
時雨からお別れを告げられるのは辛いもの、だから私は……。
時雨と千夜先輩から逃げ出したの』
轢断され、肉の破片になったはずのこよみの身体。押しつぶされた箇所は、妙に歪み、オレは目を見開きながら……それらをずっと眺めていた……。顔の筋肉はこわばり、視線をそらすことは、できなかった。
『でも……今考えてみれば、逃げ出すべきじゃなかった。
私がこんな身体じゃなければ、時雨を慰めてあげられたもの……。
ねえ、もう一度、やり直そうよ……』
ああ、そうか。コイツはこうやって……人の弱みにつけこむのか……。ぼろぼろに朽ち果てたこよみの肉体。その内側に、どんよりとした影が浮かんでいた。物憂げに蠢き、彼女の皮膚の下を這い回っている。
『ねえ……時雨……?』
違う……。コイツは……こよみじゃない……。
『千夜先輩は、消えてしまったんだよ』
優しく、甘く、すべてを影で覆うように、ソイツはオレの耳元で囁いた。
『残っていたのは、何の役にも立たない肉体と人格だけ。
時雨には、もうだれもいないの。
だから、私が連れて行ってあげるよ』
怪物の手が、オレの頰に優しく触れる。手は、雪のように冷たい。
『黄泉の――世界にね……』
その死骸は、オレを抱き留める。重苦しい沈黙に包まれた、冷たいこよみ。その冷たさの中にオレは……虚ろな死を感じていた……。
次巻につづく
続きは書籍にてお楽しみください。
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