NOeSIS 嘘を吐いた記憶の物語
千夜の章(前編)9
cutlass Illustration/cutlass・たぬきまくら
我々の後継者はスマホの中にいました———田中ロミオ 累計50万ダウンロード突破のスマートフォンノベルゲームcutlass自ら完全改稿のうえ待望の書籍化。
玄関の扉を開くと家の中はしんと静まりかえっていた。夜の冷たい空気が扉から吹き込み、虚ろに開いた廊下の口へと吸い込まれていく。物音一つしない暗がりの中、靴を脱いでリビングへと向かう。
こよみは、真っ暗なリビングの中でソファーに腰かけていた。
どうやら無事だったみたいで、オレはほっと胸をなで下ろす。
「何だこよみ、そこにいたのか。別れぎわに変なこと言うから、オレ……すごく心配したんだぞ……」
ちりちりと、かすかな音が聞こえた。灰皿の上で、写真が一枚燃えていた。
紙の焼ける焦げた臭いが、オレの鼻を刺激する。
こよみは虚ろな瞳で、写真が燃え、くるくると縮むさまを眺めていた。紫とオレンジの炎が糸を引くように立ち上り、こよみの瞳を妖しく躍らせている。
「……こよみ?」
ずぶ濡れになった身体をバスタオルで拭いながらオレは、ソファーに腰かけるこよみに声をかけた。
返事はない。
様子は変だけど、こよみは無事だった。全身から力が抜ける。
燃えつきたあとも、こよみは写真を眺めつづけていた。暗闇に覆われ、こよみの身体は灰色に染まっていた。
「……? ……ただいま」
声をかけても、俯きつづけるこよみ。さすがに様子がオカシイ。
「…………」
無言のまま動かず、燃えつきた写真を見つめつづけている。
もしかしたら、写真なんて見ていないのかもしれなかった。
顔の正面にたまたま写真があっただけで、きっとその姿勢が、写真を見ているように映るのかもしれない。
抜け殻のように放心しきったこよみは、不気味だった。
いま話しかけるのは、良くないのかもしれない。オレはそう思いなおし、首にかかったバスタオルを洗濯機に放りこむため、リビングをあとにした。
事情は、あとで聞けばいい。
リビングから廊下へ抜けると、オレは手探りで電灯のスイッチを見つける。パチンと乾いた音が響くが、数秒待っても電気は点かなかった。
訝しみながら、オレはパチンパチンとスイッチを押しつづける。
「そう言えば、リビングの中も暗かったし……停電でもしてるのかな……」
家の中の様子がオカシイことは、薄々気づいていた。
意を決して足を踏み出すと、板張りの廊下がぎぃと音を鳴らす。
電気の消えた真っ暗な廊下。その床には、こよみのカバンがうち捨てられていた。
中身が床一面に散乱し、廊下の奥に向かって教科書やシャープペンシル、タオルが点々と転がっている。
どうしたんだろう、こよみは廊下で転んだりでもしたのだろうか?
カバンからはみ出た手帳に、目がとまる。
躊躇しながら引きあげると、表紙イラストのパンダと目があった。何だか後ろ暗い気持ちになりながら、スマートフォンのライトを頼りにページをめくる。
それはこよみの日記帳だった。青いポールペンの、柔らかい文字。それが次第に、黒、赤へと、文字の色が変わり、筆跡も乱れていく……。
『時雨、今日も帰りが遅い。
今までの自分が何だったのか、すごく惨めになる。
どうして私は、こんな男のために料理を作って、待ってなきゃいけないんだろう……』
日記をめくる速度が速くなる。ドクドクという心臓の鼓動が、やけに大きく頭に響いた。
『時雨はあの人と手を握っていた。
雨に濡れる私を見かけたはずなのに、追いかけもしなかった。
もういい。
こんな人間、もういい。
憂姫ちゃんがひどく、あの男をかばう。
何でかばうの?
かばう価値なんて、あるの?
みんな嫌い。
みんな消えちゃえばいい……』
硬直する身体、さらに鼓動を速める心臓……。それでも、ページをめくる手は止められなかった。
『本気になってた私が、バカみたいだ――。
いままで死んできた子たち――、人選を間違えていると思う。
死ぬのは、あの男だったらいいのに――』
廊下に立ちすくんだ自分、最後の一行を読み終えると手のひらから手帳がこぼれた。手帳は落下の衝撃で転がり、脱衣所へとつづく廊下のすみで動きを止めた。
脱衣所の奥に目を走らせると、何か白いものが暗闇の中に浮かんでいる。視線が定まり、それが何かがわかると……オレの身体は完全に硬直した。
額に浮かんだ汗が一筋、頰へとたれる。
それは、バラバラに切り刻まれた憂姫の死体だった。腕や足が無造作に投げ捨てられ、恐らく解体場所として使われた浴室には、どす黒い血だまりができていた。
いったい、どうして憂姫は……。
「―ッッッ!?」
闇の中に、もう一つの影を感じた。それは冷たい視線をこちらに向け、じっと気配をうかがっている。
「憂姫ちゃんは残念だったよ。でも、そのおかげで……自分の中の枷を一つ、はずすことができた気がするんだ……」
リビングの扉の向こうから、こよみの影が現れる。
手には、赤く発光する包丁が握られていた。ヌラヌラとした妖しい輝きを暗闇の中に反射させ、こよみは冷たくオレを見ていた。
こよみの右手には、赤い指輪が嵌まっている。指輪は不気味に赤く輝き、包丁の直線的なシルエットを浮かび上がらせていた。
オレは情けなく尻餅をつき、じりじりと後ずさり、こよみから距離をとる。
何とか……何とかして、逃げださないと……。
後ろに伸ばした腕が、冷たくて細い木の枝のようなものに触れた。恐る恐る振りかえれば、それは変わり果てた憂姫の手首だった。
「オマエがやったのか……こよみ……」
「…………」
こよみはただ無言で、冷たくなった憂姫を見下ろしていた。暗闇の中、鋭い剃刀が線を引くように、唇が開いた。
「私じゃないって言ったって、どうせ時雨は信じてくれないよね。ずっと疑ってたんでしょ、私のこと……」
「…………ち……違う……っ」
声がうわずった。
言いわけがこよみの耳に届くと、悲しそうに彼女は俯いた。こよみの表情に哀しみの色が増すたび、赤い指輪は強く発光した。
ロウソクの炎がふっと消えるみたいに、こよみの瞳の輝きが失われる。
くすくす……くすくす……。
こよみは、嗤った。
「くす……ふ、ふふ……くすすす…………。時雨が私のこと信じてくれないなんて、そんなのわかってるよ。ほら、制服も包丁も、綺麗なままでしょ? でも、こんなの着替えちゃえばいくらだって、ごまかせるもんね……。そうだよ、いいんだよ、信じてくれなくったって……。もう……そんなの……どうだっていいよ…………。ふふ、ふ……ふふふ……」
悲しげな笑いが、地獄から聞こえる歌のように流れている。淀んだ瞳は徐々に焦点を取り戻し、射るような視線がオレを見つめた。
「もう、やり直すことが、できないなら……。大切なものが、他人の手にわたるくらいなら……。いっそ自分で…………」
緊張が走った。憎悪が広がり、長くのびるこよみの影が、オレに重なる。
「こ、怖いこと言うなよ、こよみ。オレ、信じてるから……さ……」
ちっ――という舌打ちのあと、侮蔑の眼差しをこちらに向けるこよみ。
「怖いなんて言われたら浮かばれないよ、こっちは本気なのにさ……。もういいよ、もう終わり。話すことなんてない。終わろうよ――」
こよみは右腕を高く掲げる。嵌まった指輪はこれ以上ないくらいに、輝きを増幅させていた。
「じゃあね時雨。私も、すぐにそっちに行くから――」
振り下ろされる包丁――。
オレは、弾かれたように駆けだしていた。
――ダンッッッッッッ!!!!
刹那、行く手を遮るように包丁が投げられ、オレの前髪をばっさりと奪う。切れた額から血がこぼれ、左目をチクチクと刺激する。
玄関は、無理だ……。
オレは急いで方向を変えると、リビングへとその身を投げた。
転がる身体はキャビネットにぶつかり、ようやく停止する。
その衝撃でガラス戸は開き、中に収まったいくつかの小物を床にぶちまける。
霞む両目の先に、壊れたオルゴールが映った。
中に収められていたはずの写真は抜き取られ、オルゴールの残骸だけが残っている。
先刻こよみが燃やしていたものは、あの写真だったのだろうか……?
こよみの手で焼かれた、子供のころの記憶。
ぎぃ……。
床が軋む。
振りかえると、こよみが後ろに立っていた。玄関に刺さった包丁は、いつの間にかこよみの手に戻っている。ゆっくりとオレに近づく、こよみの影。
手が震え、起きあがることはできない。
自分の心に諦めの色が広がったそのとき……、小さい金属音が響いた。
「…………な……んで……?」
壊れたはずのオルゴールが、落下の衝撃で回転を始める。小さく、懐かしいメロディーが、遠い記憶を呼び起こす。
三人とも子供だったあのころ……将来の不安や、諦めなんて何もなかった、懐かしい記憶がよみがえる。
「―ッッッッ!!!!」
こよみは顔を歪めていた。胸の底を、懐かしさと寂しさが覆っていく。
「嫌だよ――。思い出だけが、いつもいつも私を苦しめる――。私……私は…………」
ちゃりんと乾いた音が響き、彼女の右手から指輪が落ちた。包丁は握りしめたままなのに、いったい……どうやって……?
暗いリビングの中、荒い呼吸が響く。
「いつか言わなきゃって……思ってた……」
そう、こよみは憔悴しきった表情で切り出す。
「でも、時雨がこのことを知ったら、きっと巻きこんでしまうだろうから――。だから黙ってた。自殺事件のこと、時雨の耳に入らないようにしてたの、私だったんだよ。迷惑……かけたくなかったからね」
「なあこよみ、オレは――」
「いいの、言わないで時雨。色んなことに負けたの、私は……。そして、自分の気持ちに、正直になることすらできなかった。だからかな、こんなに悲しいのは」
「何が言いたいんだよ、こよみ」
「あっ。時雨の口癖が出た、最近あんまり……ソレ言わなかったよね? そう、千夜先輩に会ってから。昔に戻ったみたいで、少しうれしいよ。私がいったい、何を言いたいかって? それはね……」
『――お別れだよ――』
そう、こよみの唇は動いた。
くすりと微笑むこよみが、強く包丁を握り直す。ゆっくりと腕が動き、禍々しい輝きがオレの喉元を捉えた――すると――。
―ガシャンッッッッ!!!!
衝撃とともにリビングの窓ガラスが割れ、人影がもう一つ、躍り出る。
雨に濡れた黒髪を靡かせ、その人物はオレとこよみとの間に割ってはいる。赤い瞳と長い髪、現れたのは……千夜先輩だった。
「ごめんなさい、時雨君。少しばかり交代に、手間取ってしまったの――」
しゅるりと先輩はカバンから銀色に輝くナイフを引きぬき、こよみの眼前に突きつける。千夜先輩の顔を見つめるこよみの瞳の奥には、暗い憎しみの炎が宿っていた。
「今ならまだ引き返せる。早まった真似はやめなさい」
……まずいと思った。どうして、先輩とこよみが戦わなきゃいけないんだ……。じりじりと間合いを詰める二人を横目に、オレはどうにかして止める方法を考える。
重苦しい沈黙のまま、先輩は一歩、また一歩とこよみに近づいた。オレは身体を翻すと、キッチンに走った。壁に備えつけられた消火器を手に取り、思い切りあたりにぶちまける。
瞬時にあたりは白い噴煙で包まれ、オレは二人の影を見失った。
「……けほっ……けほっ……。派手にやらかしてくれるわね、時雨君」
咳き込みながら、千夜先輩が消火剤から這い出し、イラついた表情をこちらに向ける。
ダメだ先輩、喋ったらこよみに居場所が――。
「―ッッッ!?」
間髪いれずに白煙の中から、影が飛び出した。右手に包丁をかまえた、こよみだった。その姿はみるみる大きくなり、千夜先輩に接近していく。
銀色の塊が先輩の頭上に振りおろされる――。
キィ――ンと、鋭い金属音と火花が飛び散った。
大丈夫、先輩は無事だ。こよみの包丁は、先輩をかばうため伸ばした消火器を突き破ったところで、停止していた。
びりびりとした衝撃が伝わり、オレの腕はしびれた。
ぽたぽたと、血の雫が腕を伝わる。消火器を貫いた包丁の切っ先は、ぱっくりとオレの左手を引き裂いていた。
足下に広がる血だまり。
こよみはそんなオレの姿を見ると、瞳孔をすぼめた。
「何……で……。何で…………時雨は……そんな女……選ぶんだよ……」
虚ろな瞳でそう呟くと、こよみは白煙の奥へと消えていった。
数秒間の沈黙のあと、オレはようやく消火器をおろす。
「どこに行ったんだ……?」
夜風が割れた窓から吹き込み、視界を徐々に取り戻させる。白煙の流れたリビングに、こよみの姿はなかった。
疲労感がどっとあふれ出る。オレは悪戯な感傷に浸り、こよみを止めることのできなかった自分を恨んだ。
鎖のように、罪悪感が心を締め付ける。その重圧に、オレは……。
「追わ……なきゃ…………」
気づくとオレは、走りだしていた。雨はいつの間にかやんでいて、夜の街をふかい霧がつつんでいる。
乾き始めたアスファルトを踏みつけ、オレは夜霧の中に駆けだした。
***
こよみの姿は、どこにも見当たらなかった。
今日と言う日はもう、数時間しか残っていない。そんな焦りといら立ちが、胸を焦がしていく。
肩で呼吸を繰り返すオレの肩を千夜先輩は強引に摑んで、停止させる。立ち止まったのは、小さな公園の片隅だった。
先輩はハンカチを取りだすと傷口に押しあて、きつく縛る。直後にじわりと、ハンカチに血が滲んだ。
「バカ――ッッッ!! あなた大バカよ――ッッッ!! どうしていつも私をかばって、ケガをするのよっ!?」
「……そんなん、ドMだからに決まってんだろ。言わせんなよ」
包丁が掠っただけだ、大したケガじゃない。止血しようと力をこめる先輩の手を、オレは振りはらった。
「なあ、先輩。自分の番だって、こよみは言っていた。でも、それは変だ。オレはこよみのことを、犯人だと疑っていた。犯人なら殺されなきゃいけない理由なんてないし、そもそも憂姫は……。 ああ、ちくしょう。わけわかんなくて、頭が……オカシクなりそうだ……。これが夢なら、早く覚めて欲しい」
先輩は何も答えず、ばつが悪そうに俯いていた。
「なあ先輩、この前も……六人目が学校にいるのはオカシイとか、変なこと言っていたよな……。どこまで……知っていたんだ……」
「それは――」
言い淀む先輩。
「ごめんなさい――知らなかったの…………」
噓だと思った。先輩はきっと、噓を吐いている。心の中に、黒いインクが一粒落ちた。その黒は少しずつ波打ち、オレの内側を灰色に染めていく。
長い沈黙のあと、先輩は嚙みしめるように言葉を紡いだ。
「ねえ、時雨君。あなたも――私に隠していること、あるんじゃない?」
「……ねーよ」
「こよみさんの包丁は、確かに私に突き刺さる軌道だった。六人目の子の爆発のときも、そう。時雨君の位置からじゃ、かばうなんて間にあわないはずなのよ。でもあなたは……私を助けた……」
オレは吐き捨てるように呟く。
「奇跡でも、起こったんだろ」
「いいえ、あなたは奇跡を起こす力を持っている。でも、それだけじゃない。あなたは力を持ってしまったがゆえに、見てはいけないものも――見えてしまうようになった――」
オレは静かに、首を振る。
「だから、買いかぶりすぎだよ。そんなの、全部先輩の妄想じゃないか」
「私と最初に出会ったとき、時雨君はずいぶん息が荒かった。あのときは、あなたが何をしていたのかわからなかったけど、この事件の終末に携わってようやく理解したわ」
薄暗い闇のなか、街灯に照らされた先輩の影が、長く延びる。
「あなたやっぱり――見えるんでしょう――?」
オレは、逃げだしていた。
クソ――ッ!! クソ――ッ!! クソ――ッ!!
先輩が、怖い。
ずっと隠し続けてきた秘密を、彼女は……もしかしたら……。
後ろから、先輩の声が響いた。投げかけられた全ての言葉を無視して、オレは走り続ける。
ああ……でも、これじゃあ――。さっきまでのこよみと、一緒じゃないか……。
捜さなきゃ。
こよみを、捜さなきゃ。今の自分を理解してくれるのは、きっと――アイツしかいない。
オレは歯を食いしばりながら、荒い呼吸で走り続ける。
こよみを見つけられたところで、憂姫や自殺事件のことを、どうやって切り出せばいいのだろうか。関係は壊れたままだ、もうやり直すことなんてできないだろう。
それでもオレの足は止まらず、ただ、走り続けた。
***
カンカンカンカン――。
けたたましく鳴り響く踏み切りの警鐘。遮断機がゆっくりと降下し、オレの行く手を遮る。
急ぐ足を止められたオレは、舌打ちをしながら電車が通り過ぎるのを待っていた。
下りきった遮断機の向こうに、何かが蠢く。
「…………?」
甲高いサイレンが響いている。
目に映るのは、黒々とした蠢く人影。それが何なのかは、自分でもよくわからなかった。
もう片方の遮断機も、下りた。
ああ……、今度ははっきり見える。黒い影は起き上がるように上方へと伸び、伸びた二本の腕と、足。そして、異様に長い頭が胴体に据えられていた。
ニタニタと気味悪く笑う、化け物。
『オイデ――オイデ――』
不気味な影が、ゆっくりと手招きする。いくつもの棒を組み合わせたような、不格好な腕。軋むようにカタカタと動き、オレを誘う。
自分の顔は、これ以上ないくらい青ざめていたと思う。
異様に重い空気と、心を押しつぶすようなサイレンに包まれ、オレはただ、恐怖で顔を引きつらせていた。
まるで金縛りにあったみたいに、身体はピクリとも動かない。しかし……足は……。足だけは……。
『オイデ――オイデ――』
ヤツが手招きするたびに、一歩ずつ……踏み切りに向かって歩み始める。
止まれ――ッ!!
お願いだ……止まってくれッ――!!
カンカンカンカン――。鳴り続けるサイレン。それに合わせて、大量にかいた汗が頰を滝のように流れ落ちる。足はまだ……動き続けていた。そう、これは自分が一番恐れていたことだ。そして、いつかこんな日が訪れるのではないかと、予感してもいた。
影が見える。見えない糸で身体を縛られたように、ヤツの手招きに合わせて足が動く。
『オイデ――オイデ――』
瞬きするたびに、轢断され、散乱した肉塊が頭に浮かぶ。オレの、将来の姿だ。
ぴとりと冷たい遮断機が胴に当たり、今度は動かないはずの右腕がするすると伸びて、それを押し上げる。
ああ、もう終わりだ……。憂姫はバラバラにされて殺されて、こよみは姿を消した。もしかしたらこよみは、自殺事件にも関わっていたのかもしれない。ここで生き延びても、きっと平穏な日々は戻ってこない。
なら、もうここで、いっそ――。
諦めとも後悔ともつかない感情が押し寄せ、恐怖という疲労に耐えきれなくなった理性が、徐々に崩壊していく。気がつくとオレは、自らの手で遮断機を押しあげていた。
もうこれで……自分と線路とを遮るものは……何もない……。
『オイデ――オイデ――』
影が不気味に、表情を歪ませる。それは新しい仲間が加わる喜びを表していたのか、口もとがひどくつりあがっているように見えた。オレもぴくぴくと頰の筋肉を痙攣させながら、それに応える。
たくさんの腕に摑まれ、引っ張りこまれるように……足が、持ちあがる――。
「――時雨君、止まりなさいっ!!」
背中に怒声が響くのと同時に、オレは腕を摑まれた。そのまますごい力で踏み切りから引きずり出される。
そこには、緊迫した表情の千夜先輩が立っていた。
「いったい――何を見たの――」
オレは千夜先輩の顔を見ることが、できなかった。疲れた心が、惰性のまま奈落へと落ちようとしていた。
――パシンッ!! 先輩の平手が、頰を叩いた。虚ろに生を諦めていたオレの瞳がその一撃で、ふっと我にかえる。
「いい加減に……冷静になって…………」
声を絞り出し、千夜先輩はオレの胸に顔を埋めた。彼女の両手が肩にかかり、強くオレを抱きしめた。静かな嗚咽が、鳴り響くサイレンの隙間から心に沈みこんでいく。
「千夜……先輩……何で泣いているんだ……」
先輩の頰を、生暖かい滴が伝っていた。気の強い彼女が見せる、一瞬の弱さ。それがなぜだかすごく希薄なものに思えて、抱きしめるのにひどく、躊躇した。先輩の腰に回した腕からは、夜風に吹かれて冷え切った体温が伝わってくる。
「私を……おいていくのかと思った……。変――よね――。私は、死にたがってばかりいたのに――。でも、嫌……なの。自分が大切だと気づいた人は、いつもいつも私をおいていこうとする――。それが、すごく悔しいの……」
先輩の言葉が、鋭く胸につき刺さる。先輩が小さく思えた。このまま消えてしまうのではないかと不安になるくらい、小さく。
「自殺するヤツ……止めるつもり……ないんだろ?」
「違うわ……。それは、どうでもいい人にだけ。あなたは、私の……家畜でしょう? 刹那的な衝動で、勝手にいなくならないで。ふふ、家畜に好きなんて感情抱くなんてね」
こぼれた涙を、オレはそっと指ですくい取る。
「らしくないぞ、先輩。血迷ったのかよ、好きだなんて冗談、言うなんて」
「私は……好きでもない人に、好きだなんて言わないわ……」
虚勢を取り戻したオレの表情に安堵したのか、先輩は頰を染めながら俯く。だからオレは――思い切り先輩を抱き寄せた。華奢な先輩の身体がびくりと震え、おずおずとすがるようにその手を背中に回した。彼女の呼吸が、胸の中で聞こえる。
「時雨……君。――あのね――その――。ありがとう……」
最後のお礼の言葉は、消え入りそうなほど小さい。俯く先輩の顔が、耳までまっ赤になっているのがわかった。
カンカンカンカン――。
赤と黒の点滅が、オレと先輩を現実へと引き戻した。遮断機はまだ閉じたままで、狂ったように鐘を打ち鳴らしている。
「この踏み切り……いくら何でも長すぎない……?」
ああ……。心の中で、オレはため息を漏らした。先輩のその言葉で、すべてがまだ終わっていないことを悟る。だって……あの踏み切りには……。
「そういえば、さっきはいったい何を見ていたの……? ねえ時雨君、聞いてる?」
先輩……見てはいけないんだ……。
「この踏み切りの向こうに、いったい何があったの……? まさか――」
お願いだ……先輩……。オレの祈りも虚しく、先輩はゆっくりと視線を移した。
そう……踏み切りの……その真ん中へ……。
「……ひ……っ!?」
先輩は短く悲鳴を上げる。
「……人が……!?」
……人? 先輩は、何を言っているんだろうか。あれはどう見ても、人なんかでは……。胸騒ぎがした。とても悪い予感が、頭の中を渦巻く。
カンカンカンカン――。
赤く点滅する光に照らされて、踏み切りの中央には――こよみの影が延びていた――。
「こ、よみ……どう……して……?」
寒気がした。目を閉じることも、足を動かし救い出すこともできずに、オレはただ……こよみの冷たい視線をその身に受けていた。赤く光る信号機の光が、こよみの表情を一秒ずつ変えていく。それは影でできた怨嗟の念のように、オレの心に爪を立てて、えぐる。
『―バ―ダヨ…………』
踏み切りの中に立つこよみ、その唇がかすかに動く。
虚ろな瞳はどろりと溶けていて、こちらを力なく眺めていた。彼女は何かを呟いているが、踏み切りのサイレンに搔き消されて聞こえない。
こよみの唇の動きにそろえて、口を動かす。
『……シネバ……イインダヨ…………』
『オマエラナンカ……シネバ…………』
憎しみの言葉を投げかけ続けたまま、こよみは電車に撥ね飛ばされた。赤い血の柱が上がり、凄絶な光景がオレの頭を揺すった。ぱくぱくと金魚みたいに口を開閉しながら、オレは手を伸ばす。弾けたボールみたいに民家の壁にバウンドする、こよみの頭。
凄惨な状況が飲みこめたとき、オレは先輩を突き飛ばし、悲鳴を上げながら逃げ出した。