NOeSIS 嘘を吐いた記憶の物語
千夜の章(前編)7
cutlass Illustration/cutlass・たぬきまくら
我々の後継者はスマホの中にいました———田中ロミオ 累計50万ダウンロード突破のスマートフォンノベルゲームcutlass自ら完全改稿のうえ待望の書籍化。
「で、時雨ぇ……、さっきは生徒会長さんから何を受けとったんだい?」
教室に戻った後、こよみは悪戯っぽく微笑みながらオレに話しかけてきた。
「……? 受けとるって、何を?」
「私の目はごまかせないんだからねっ。別れぎわ、あの人が時雨の胸ポケットに手紙を忍ばせたの、ちゃんと見てたんだから」
オレはそっと右手でシャツの胸ポケットを触る。そこにはこよみから指摘されたとおり、ハート折りされた手紙が差しこまれていた。生徒会長がオレと別れるとき、突っついた場所だ。指に力をこめるとかさりと乾いた音が響き、オレはそれをつまんで引っ張りあげる。
出てきたのはかわいい花のイラストがあしらわれた便箋で、その絵柄のチョイスが生徒会長というものを強烈にあらわしていた。
綺麗に折りたたまれた便箋を広げると、それは『千夜ちゃん攻略法』と書かれたメモだった。
「書かれた方法を順番に消化すると、隠しキャラ出るとかか?」
「もーう、違うでしょ。違う違う。奥手で、深夜アニメというブタの餌貪る系男子の時雨のために、生徒会長さんが攻略法記してくれたんだよ。ダメだよ、ちゃんと攻略してあげなきゃ」
「その肉食なのか草食なのかよくわからない呼称やめろよ……。しかしコイツ、自分の名前にちゃんづけでかなりの地雷臭がするぞ。ドン引きだぞ、おい」
「リアルの女の子が絡むときだけ冷静になるのやめなよ、時雨。そういうときは熱に浮かされてるくらいがちょうどいいんだよ。大体時雨がいつも見てる深夜アニメだって、どこか世の中をナメてる鈍感主人公に、積極的な女の子がやたらとちょっかい出してくるのばっかりじゃん。何で現実だとダメなんだよ」
「こよみよ、最近そういうアニメは卒業したから。いまは微百合だぜ、微百合」
「なら、もっと時雨好みじゃん。ああ、そうだそうだ」
じゃっじゃーん、とわざとらしく効果音をつけ、カバンから何かを引っ張り出すこよみ。その手の中には短冊形の紙切れが二枚、ひらひらと躍っていた。何なんだ、コイツは。
「どうよ? 水族館のチケットとか」
「魚を眺め放題だな」
「そうそうそう、素敵な日曜日になると思わない?」
「そのまま良さそうなのを貰って、すし屋か。うむ、いいな」
「って、ばかぁ―っ!! 食べないでよっ!!」
まじまじと、こよみの顔とチケットを交互に眺めた。すると彼女の顔は急に真顔になり、その口もとが大きく吊りあがった。気味の悪い笑顔だった。
「へっへっへー。煮え切らない時雨に、ちょっと遅いクリスマスプレゼントだよ」
「クリスマスは半年前に終わったぞ」
「いや……その、あまりモノというか、引き出しから発掘されたというか……」
こよみの手の中にあるチケットには、見覚えがあった。オレの家でこよみと憂姫とでクリスマスパーティーをやったとき、プレゼントを買う金惜しさに金券屋で一枚三百円で仕入れたものだ。箱だけはやたらと豪華なものに詰めたのだが、即開けられてこよみからグーで殴られたのは言うまでもないだろう。
「お帰り、水族館チケットよ」
懐かしいチケット二枚が、半年振りに手の中に帰還した。
「あ、やっぱり覚えてた――?」
確か、購入したときは三枚だったのだが……。一枚はこよみが使ったのだろうか。
「それで、これをどうするんだ」
「誘っちゃいなよ、先輩」
「――は?」
予想外の返答に、戸惑いを隠せなかった。こよみは、千夜先輩というものを理解していないようだ。
試しに彼女に水族館チケットを差し出した様子を、想像してみる……。
『水族館……? 何、時雨君はカジキマグロにおでこをつき刺されたいわけ? それとも作業時間が延長する安全装置は何故かすべて故障している工場で、一週間ほど働かせてあげましょうか? あなたは二次元が好きなのだから、テレビの向こうに行けるように、プレス機で挟んであげるわ。ふふ、労働災害を高校生のうちから経験できるなんてね。潰されたあとは、ばれんで更に平らになるよう撫でてあげるわ。うれしいでしょう?』
と、大体こうなるだろうなとのシミュレーション結果が浮かび、ぱちんと弾けた。無謀だ、あの人を遊びに誘うなんて無謀すぎる……。
「ばれんとか、大人になったら絶対つかわない」
「な……何を想像したんだよ、時雨ぇ……」
「いや、あの人がそういうところに行くシチュエーションが思い浮かばない。誘ったらきっと、電源の二重切りと安全札外されてプレス機作動させるに決まってる……」
「いやだからぁー、プレス機って何さ? 水族館といったい何の関係があるんだよ」
「オレはっ、業務用トマトジュースになるなんて絶対イヤだからなっ!! この若さでまだ死にたくないっ!!」
「一緒に出かけるの誘うくらいで、何を言ってるんだよ……。大丈夫だよ、生徒会長さん優しいし、いつも向こうから時雨に話しかけてくるんだから、誘われたらきっと、うれしいと思うよ」
「うれしい……? 先輩が? 水族館を?」
『水を泳ぐ魚って美しいわよね。人間に囚われた哀れな下等生物ですもの。私、自分よりも下の生き物を見ていると、最高に澄んだ気持ちになれるの。ねえ、知ってる? シャチって、かわいいアザラシをいたぶり殺してから、その肉を食べるのよ……。だってシャチの学名は、冥界の魔物なんですもの。ロマンチックだわ――』
ぶんぶんぶん――。オレは左右に大きく首を振った。やっぱりダメだ、先輩と水族館に行けたとしても、オレをすぐにサメの水槽にでも放りこむに決まってる。
というか、小さいお子様もいる場所で、あの人を出してはダメだ。絶対新聞沙汰になるようなことをしでかす。
しかし、こよみもこよみだ。先輩の前では沈みきっていたのに、笑顔で水族館のチケットを渡してくるなんて、どういう風の吹きまわしだろう。こよみの考えがさっぱりわからなかった。
「ああ、そうか。水族館か――」
こよみから受け取ったチケットを手の中で弄びながら、オレはぽそっと呟く。
「こよみ、日曜日にデートに行かないか?」
とりあえず、こよみを誘ってみることにした。
「……な――え、わたっ!! 私だ……よ……っ!?」
こよみの顔は一瞬で、まっ赤に染まった。
「私なんだよっ!? わかってないよ、時雨――っ!? わわわわわわ私なんか誘っても――私だよ!?」
よほど予想外な展開だったのか、壊れ始めるこよみ。
「べつに――い、嫌ってわけじゃないけど……まだ、早いかなー……て。そっ、そういうのは……ちゃんと、つきあってからじゃ……あれ??」
「ちょっと面白かったぞ、こよみ」
「―!?」
ようやくからかわれているのに気づいたのか、こよみは、そのまま三十秒ほど固まっていた。
「――時雨。あのさ……」
すぅっとこよみの顔を覆う紅の色がひき、妙におとなしい笑顔になる。そういうときは大抵、死ぬほど怒っているときだった。
「こよみっ! 宇宙よりひろいものは――人の心だぞっ!」
「うるさいうるさいうるさーいっ!! 時雨うるさーいっ!! 吐いて良い噓と悪い噓の区別もつかないなんて――っっっ!!」
そのまま、こよみはイスを天高く振り上げた。この人は、怒ると手近なモノで殴りかかってくるのだ。オレは迫りくる鉄パイプと板で作られた凶器から、必死で身体を翻した。
***
白い世界がひろがっていた。目の前にある机に突き刺さる、鈍く銀色に輝く鉄パイプ。それは、五分ほど前までイスだったものだ。
鉄の塊と化した机やイスの数々。木製の天板は蒸発し、金属部分だけがのこっていた。打ちのめされ、マルテンサイトまで結晶構造を変化させた鉄塊は、午後の日差しを受けて青く輝く。そう、オレはまだ、この世界に生きている。一撃でもこよみの攻撃が当たっていたのなら、いくつもの真っ二つになった机たちと同じ運命をたどったであろう。
「はぁ……。時雨をからかうつもりが、何で私がからかわれているんだろう?」
バタンと、こよみが机に突っ伏す。自分の机は無傷でのこしていたことから、ギリギリで理性を保っていたのだろう。全弾躱せたのはオレがこよみの攻撃を読んでいたのもあるが、あいつも加減していたのかもしれなかった。
「じゃあ、空き教室から新しい机をとってくるよ」
ぐちゃぐちゃになった机を、交換しなければならない。いつものことなので、さほど苦労はしないが……。そろそろ空き教室の机とイスも無傷なもののほうが、すくなくなっていた。
二学期までに足りなくならないだろうかと、性に合わない心配をしてしまう。
「やっとくよ」
突っ伏したまま、こよみはオレに声をかける。
「行って来なよ、生徒会長さんのところに。それは私がやっておくから――」
しっしっ、と手で払いのけるような仕草をする。こよみなりの、気の遣いかただった。
「悪い、こよみ」
「世話を焼くのは、幼なじみだからだよ。気遣いはいいよ……」
――つらくなるだけだから。最後にそう、呟いたように聞こえた。思いすごしだろうか?
聞こえなかったふりをしてオレは、教室をあとにした。
***
「……水族館?」
いつものように生徒会室に佇む先輩に声をかけると、ゆっくりと振り向きながら彼女は答えた。窓からこぼれる新緑と空の青とで、先輩の長い髪は深い緑のグラデーションを描く。その優しい色は、先輩の髪が揺らめくたびに、オレの目を心地よく刺激した。
「ふふ、あなたは昨日首吊り死体を見たばかりだというのに、遊ぶことしか考えていないのね。時雨君のそういう神経の図太いところ、嫌いじゃないわよ」
そう、オレたちはどこかオカシクなっていた。昨日の少女の死体と、奪われた監視カメラの録画テープ、そして……得体の知れない犯人。どれ一つ、解決した問題はない。しかし人とは不思議なもので、強烈なストレスというものを味わいつづけると、どこか麻痺して、安楽な精神の逃げ場所をもとめてしまう。
「テストが近くなるとオレ、掃除したり、ゲームのレベル上げやめられなくなっちまうんだ。この事件のことは、まだまだわからないことだらけだけど、知りあいにすごくよく知ってそうなヤツがいるんだ。親しくなったら、ポロッとでもこぼすかもなって」
窓から外を眺めていた先輩は、急に表情をこわばらせる。
「私も知ってるかもね、その人。ふふ、でも……いまのあなたの無遠慮な発言で、神経を逆なでされたそうよ」
「そんなんでいちいち怒ったり傷ついたりしてるから、面倒くさがられて友達が離れてくって伝えとけ、ソイツに。仲良いんだろ?」
先輩はオレを、無言で蹴ってくる。
「市中引きまわしのうえ打ち首獄門くらいで、今回は手を打ってあげるわ」
「それぶっ殺すって言わねーか? てゆーか、先輩はこれから……どうするつもりなんだよ」
「私も自殺事件に、関わっていくつもりよ。この事件をきっかけにして、私は自分の命というものを終わらせたいの……」
冗談なのか本気なのかは、わからなかった。でも彼女の言葉は最初に出会ったときとは違い、そこにある種の期待がこめられている……そんな気がした。
「昨日で、六人死んだ。わざわざ血文字で、ちがうって書かれてた。そしてカメラのテープまで盗まれて、オレたちが扉を開けるってことまで予想してた……。そして学校側の対応もクソだ。あれだけ大きな騒ぎになったってのに、全校集会はおろか、ウワサすらぴたりとやんじまった、気味が悪いぜ」
「大きな騒ぎになったから、ウワサすら出せなくなったのよ。目撃者もすくない時間帯だったけど、その少しの情報すら遮断しようとしている。学校側はSNSやネットの掲示板を片っ端から閉鎖させて、情報の根絶に全力を挙げてるわ。そこに一言でも書き込んだ生徒を特定して、無期限の停学処分……。これじゃあ、皆が口を噤むわけよ」
「なるほどな、昨日は先輩と一緒で良かったよ。こよみだって、女バスの部長と一緒に帰ってなかったら、どんな疑いをかけられてたか……」
「火災警報器の誤作動と停電、そして監視カメラのテープ盗難。自殺事件に便乗した、悪戯として処理された。意地でも、学校側はただの自殺ってことにしておきたいみたい。警察もそろそろ、そんな隠蔽体質の学校を野放しにはしなくなるでしょうけどね」
オレの頭を覆う、一つの疑問を先輩は見抜いていた。
「ときおり、人は人を疑ってしまう。何故なら、人は噓を吐くからよ。他人にだけじゃない、自分自身にさえ……その記憶にまでも噓を吐いて、本当だと、ありもしない妄想を信じてしまうことがある。あなたは、その人を信じてあげられるかしら? ふふ、私にとってはどっちでもいいのだけどね。この事件に犯人がいようが、いまいが……」
千夜先輩はオレの瞳をじっと、覗きこんでいた。心をまさぐられる、心臓を素手で摑まれるような冷たさ。人の記憶を見つめる、彼女の忌ま忌ましい能力。オレは吐き捨てるように、言った。
「アイツは女バスの部長と、停電前に合流してる。三階に上がったっていうのは、憂姫の見まちがいだ。第一、アイツが人を殺す理由なんてない」
「理由があったら……殺すわけ? ふふ、冗談よ。そんな目で私を見ないでほしいわ。六人目の子はね、ここ数日塞ぎこんでいてずっと家に閉じこもっていたの。私が犯人なら、そこを狙うわ。でも彼女は学校に出てきて……校舎内で首を吊った」
「アイツはまだ校舎に生徒が残っている時間に六人目に声をかけて、二階で別れている。監視カメラのテープを気にしてあとで回収するくらいなら、最初から校内で犯行はおこさない。疑ってくれって言ってるようなもんじゃねーか」
「でも、事実として今まで六人死んでいる。最後の相手に死の恐怖……そんなものを与えるために、手の内をあかしたのかもしれないわ」
「最後の相手って、何だよ?」
オレの瞳を見つめる千夜先輩。冷たくて、その感情は氷でできたみたいに色がない。
「一週間に一人、死んでいる。この自殺の連鎖って、どこで終わると思う?」
オレは静かに首を振った。
「七日間で一人、そして昨日で六人死んだ。来週の水曜日、七人目で……すべてが終わると思わない?」
「何もおこさせない。それがアンタの仕事だろ、サボんな、真面目にやれ」
先輩はくっつきそうなほどオレに近づき、頰を撫でた。温かい彼女の指先。この人は冷たいフリをしているだけ、そう思った。
「あなたはまた、自分の疑問から目を逸らして、ごまかすのね。ふふ、自分を知るというのは、大変な作業よ。私にはできなかったわ。だから時雨君も、自分に噓を吐いたことを恥じることはない。現実というものから逃げ出すというのも、一つの選択だと思うもの」
「アンタ見てると、本当にイライラしてくるぜ。人を信じない、だから友達もいない」
「ええ、そうよ。私は他人を信じていない、だから、記憶を見つめるの。噓やごまかし、他人の汚い部分から自分を守って、綺麗なままでいたいの。幻滅したかしら?」
オレは無言で、うりうりと先輩のほっぺたを引っぱる。ぽかんとした彼女の顔が、みるみると赤く染まっていく。
「寂しいヤツだ。きっと今までに、だれ一人信頼できる友人がいなかったんだろ。他人の生の感情を見ないで、過去どうだったかで、信頼できる人間かどうか決めてやがる。大した記憶持ってるヤツなんていねーよ、でも、それで十分だろ」
「……記憶というのは、お墓よ。人は自身の亡骸の上にしか、自分というものを構築できない。私から言わせてもらえば、骨がしゃべってるようなものだわ。信頼しろなんて、無理よ」
この電波女の過去に、いったい何があったのだろうか? 彼女の心の深淵に触れたような気がして、オレは苦笑する。
「そうやって自分は賢いんですよー、客観的に物事見れるんですよー的な態度とりながら、肝心のアンタはだれからも尊敬どころか、相手すらされてねーじゃねーか」
千夜先輩の顔に影が落ち、フルフルと肩を震わせる。怒りが臨界点を超えたみたいだった。
「殺すことに……決めたわ。できるだけ、残忍な方法でね」
最初に出会ったときは、冷たい氷だった彼女の顔。いつの間にか隙だらけになっていて、先輩の感情というものに触れていた気がした。
「友達がいないアンタを、オレがかまってやろう。日曜日、遊びに行かないか?」
「――嫌よ」
ふりほどかれる腕、離れる身体。彼女はオレと一歩距離を置き、冷たくこちらを睨む。
「あなたに少しでも気を許した私が、愚かだったわ。時雨君は私とおなじ、冷たい心を持ってるのかと思ってた。死……そういう黒い感情にしか、興味が湧かないと思っていたのに……」
「オレのノートの余白は、オリジナルの滅びの呪文でいっぱいだぞ」
「下らないのよっ!! 遊びに行くだなんてっ!!」
オレは先輩の頭をぽんぽん撫でた。
「アンタみたいな高二病ぼっち、ほっとけねーんだよ。つべこべ抜かすな、日曜日は絶対に来い」
ツン――と、横を向く先輩。オレは胸ポケットから紙片を取り出し、ふてくされた態度の先輩の前に突き出す。
「な、何よ……そのメモ」
かわいい花のイラストがあしらわれた便箋を、オレは淡々と読みあげた。
「最初の注文はビスマルク……、カリカリベーコンの上にとろ〜り半熟卵、チーズはダブルモッツァレラ……ほかほかもっちもち……」
「…………」
意味不明な文章をたった一行読みあげただけで、なぜだか千夜先輩の頰が薄紅色に染まっていく。何なんだ、このメモ? 先輩は気恥ずかしそうに顔を俯かせながら、こちらをちらちらとうかがい出す。いつもの千夜先輩らしからぬ、浮ついた態度だった。
不思議なメモだ。かつて魔神を操ったといわれる、ソロモン王の指輪みたいだった。オレはさらに、記述された内容を読みあげる。
「デザートはストロベリーパフェ。ムースの上にはバニラアイスとパンナコッタ、天辺を飾るのはたっぷりいちごにベリーのソースをたぱたぱ〜……」
「…………行くわ」
「はい……?」
今この人、なんて言ったんだろう? 千夜先輩は赤らめた顔でそっぽを向きながら、スカートの前で組んだ指をもじもじと動かし、唇を嚙みしめている。
「行くって、言ってるのよっ!! 全く、どこに耳が付いてるわけ? 水族館に男が一人なんて寂しいでしょ。か、勘違いしないでよね、別にビスマルクの上に載った半熟卵に、心を動かされたわけじゃないんだからねっ」
「なあ、びすまるくって、何だ?」
「ピ……ピザの名前よ。何で知らないのよっ、それくらい覚えておきなさいよっ」
「ス……スミマセン……」
「そういうの誘われるの初めてなんだから、私だって戸惑うに決まっているでしょ。言っておくけど、デザート食べたらすぐに解散だからねっ」
メモは恐ろしい破壊力を有していた。何だかよくわからない方向に、クールなはずの千夜先輩が壊れていく。彼女の性格というものを、少しばかり修正しておく必要があった。まさか、ピザとパフェという少女チックな食べ物が死ぬほど好きだったなんて……。
ビシッ――と、思考を中断させるように、先輩のデコピンがおでこに刺さった。
「まだ何も言ってないだろっ!? 何で攻撃してくるんだよ」
「今、失礼なことを想像しそうだったからよ。全く、私のことを今までどう思ってたわけ? 妖精のようにふわふわ舞うクリオネが食事のときだけ頭を開いて、その凶悪な触手で餌を捕食する様をうっとりと眺めてる根暗女とか、ろくでもないイメージ抱いていたんでしょ?」
全くそのとおりだった。
「さっき会ったときは、女バスの子もいたし……いろいろと邪魔されたからね。たまには二人っきりでゆっくり話をする機会があっても、いいと思うわ。もちろん、食事をしながらね」
「ん――? 何だ、アレは……やっぱり先輩だったのか」
「そうよ、私は女子が好きなの。有名な話だけど、ご存じなかったかしら?」
いや……しかし、あの壊れっぷりは――。とても目の前の先輩と同一人物とは、思えなかった。深く悩んでいると、先輩の手のひらが頰をなでた。あの人と同じ、温かい皮膚の温度……。
「勘違いしないでよね、私はだれとでも出かけるってわけじゃないのよ。ただ……」
「ただ?」
「時雨君、あなたがそんな性格だからよ。人のことばかり考えていて、自分を幸せにしようとしない。だから私が、あなたの面倒を見てあげようと思ったの。だってあなたは、私の家畜だからね」
「ちょっと待てコラ、面倒見てるのはこっちのほうだ!!」
「日曜日は、少しだけ気分を弾ませて過ごしなさい」
そこで言葉を句切ると、千夜先輩の顔がオレに近づく。耳元に唇を寄せて、彼女は冷たく囁いた。
「あなたの日常というものは――もうすぐ、終わるのだから――」
それがどういう意味かを尋ねる暇もなく、彼女はくるりと踵を返し、生徒会室を出て行った。結局、彼女は冷たいままだった。まだぬくもりの残った頰を、オレは片方の手でなでる。皮膚の温度は上書きされて、彼女の存在は霞のように消えていった。
***
ガラン――。わざと大きな音を立てて、オレは教室の扉を開ける。
「…………?」
こよみは、まだ机に突っぷしたままだった。オレもこよみの席の隣に座り、顔を上げた彼女を眺めた。窓から夕日が差しこみ、こよみの髪を赤く染める。
「……何? 結局どうなったの?」
ゴシゴシと目元をこすりながら、こよみもオレの顔を覗きこむ。きっとこよみのことだ、あのまま寝てしまったんだろう。
「日曜日に出かけることになった」
「そう、よかったじゃん」
「でも、さっきの生徒会長と同一人物かどうか確認しようとして、失敗した。一応同じ人だと言われたけど、どうしても腑に落ちないんだ。最後のあの人は何だか、すごく冷たかったし……」
「あはは、怒らせちゃったんだね。でも、生徒会長さんが怒ったところって、だれも見たことがないんだよ」
「―?」
「私、今日のことは一生忘れないと思う」
俯いたこよみの見せる、一瞬だけの大人の表情。
「最近、昔の夢ばかり見るんだ。私と時雨が子供のころの夢……。でも、時雨は違うでしょ。時雨は、自分の大切な人を見ていればいい。さ、帰ろう……もう遅いから」
オレはこよみに、一言も返せないでいた。なぜ彼女はこんなにも、寂しそうな微笑みを浮かべるのだろうか。窓から差しこむオレンジの光は緩やかに途絶え、オレとこよみの間に濃い闇の影を落とす。彼女は静かに立ち上がると、カバンを肩にかけて廊下へと進んでいった。
***
「相談なんか、乗らないもん」
コッチコッチと、リビングに掛かった時計の秒針の音が響いていた。憂姫はリビングに入ってきたオレの姿を見つけるなり、ボールペンを走らせていたルーズリーフをひっくり返し、更にその上に分厚い哲学書を重ねた。彼女の表情は少しむくれていて、ぷいとそっぽを向く。
「そもそもさ、自殺事件の次は自分の意中の人が二人いるかも――って、普通なら専門の病院を紹介するところだよ? お兄ちゃん……」
相談に乗らない、という割には話は聞いてくれるみたいだった。
「意中の人が二人なら、今ならもう一つおつけしてお値段据えおきっ♪ みたいでお得だよ、何が問題あるの?」
憂姫の言葉にはところどころトゲがあり、何やらひどく不機嫌なようだった。いったい何にたいして怒っているのだろうか?
「やめてくれよ憂姫、テレビの通信販売じゃないんだから」
「やめないんだもんっ。お兄ちゃん少し前に、そんな感じのゲームやってたもんっ。そういう都合のいい美少女しか出てこないゲームっぽい展開にワクワクするんでしょ?」
「ちょっと待て、ギャルゲーじゃなくてホラーだろこれ。どうせ増えるんだったら、先輩じゃなくて萌ゆる妹が――」
「な……なら、わたしじゃ――ダメ? かな……お兄ちゃん……。――ってっ!! 何を言わせるんだよっ」
バタバタと慌てながら、憂姫はオレの胸を叩いた。こよみとは大違いの非力な腕が、細くオレの体をぽそぽそと流れた。それはもう何年も昔の話、憂姫が事故にあってから変わらず、腕の力は弱いままだった。
「すまない憂姫。お前の気持ちも考えないで、こんなことを聞いちまって――」
か細い腕を優しく絡めると、手のひらを包んでやる。憂姫の顔は名前のとおりの透きとおるような雪の白から、沸騰する水のような赤に変わっていった。
「え――何で――。いつもドンカンなのに、こんなとき……だけ……。わ――わたしが寂しいわけなんて、ないもんっ!! 勘違いしすぎだもん、もーっ!!」
慌てながら、襟を正す憂姫。ふんっと腰に手をあて、居直った。
「いいよ、聞いてあげる。ドッペルゲンガー、それはもう一人の自分だよ。自分といっても、かなり霊的な側面が強い……未来や過去の自分だったりする。年齢や、顔、体格、たとえ違う性別でも、全く別の姿かたちでも、自分だとハッキリわかるんだって、不思議だよね」
「なあ憂姫、先輩が言いかけてたんだが、ドッペルの迷信って何だ?」
オレから先輩の言葉を遮ってしまったから、詳しく聞けないまま終わっていた続きが気になっていた。確か縁起でもないことを言っていた気がするが。
「死んじゃうんだよ、もう一人の自分に出会うと」
冷酷に、憂姫は言葉を発した。
「でもさ、怪談として昔の人が話のツマミにしていたのなら、おかしな話だよね。怖がらせるだけなら、ホッケーマスクの殺人鬼や、五本の鉤爪男でも出せばいいのに。でもそうじゃない。人間は本能的に自分自身が目の前に現れると、たとえようのない恐怖に襲われる。何故自分という存在は、死に直結するのか。それはさ、きっと、人間が死んだら、そうなってしまうからなんじゃないかな。よく言うでしょ、死後の世界で……自分の葬儀を上から眺めていたとか。だから、もう一人の自分に出会ってしまうときそれは――」
「既にその人は死んでいる、そういうことか?」
「うーんと、もっと薄くてもいいと思うよ。生きているのか、死んでいるのか、曖昧なときとか。寝ているときとか、ぼーっとしているときとかね。とにかく自分の境目が曖昧になるとき」
「幽霊だな……」
ぼそっと、オレは呟いた。千夜先輩、彼女は幽霊みたいにあやふやで、捉えどころがない。この世にいるのか、いないのか。それすら、自分にはわからなかった。
「cogitoって言うんだよ、そういうの。我思うゆえに我在り、ってね」
悩んだオレの顔を見つめながら、妹はまたいつものように、難しい横文字を持ち出す。
「疑っても疑っても、疑っているという自分の心、自分の存在自身は疑えない。すべてを疑っても、疑っている相手がこの世にいるということは疑えない。いるんだよ、千夜先輩は……間違いなく、お兄ちゃんの前にね。例えば、今お兄ちゃんの目の前にいるわたし。わたしって――いるのかな? どう思う?」
「いるだろそりゃ、目の前にさ」
「どうしてそう思うの?」
悪戯っぽく、憂姫の目は細くなった。
「見えてるからだよ、目で。そして触ることもできる」
ぽん――と、憂姫の頭に手を置く。みるみる赤くなっていく、妹の表情。
「あっあの、お兄ちゃん……。つ――つづきが、これじゃ……話せないよ……」
「ああ、すまん」
すっと腕をどける。憂姫は名残惜しそうに、その腕を視線の先で追っていた。
「お兄ちゃんの目はかならず、前を向いている。人間の構造上、かならずそう。つまり人間は、一方からしか物事を見れない。じゃあ、わたしの後ろ半分はどうかな? いつもとおなじで、わたしには背中があると思う?」
「背中無ければ死んでるだろ――いや。憂姫が聞きたいのは、そういうことじゃないか……」
言いかけた途中、憂姫から非難のパロール、そういうものを受けとった。
「いつもの背中の部分も、何か今日だけは違うところがあるかもしれない。お兄ちゃんには黙っていたけど実は、背中にモノを隠しているんだよ」
両腕を背中に回し、何かをかばうような仕草をする憂姫。
「実はわたしの背中には、猫ちゃんがひっついているのでしたっ。にゃ―♪」
猫のマネをしながら、憂姫はその場でくるんっとターンした。背中には、何もいなかった。
「どういうことだ?」
「にゃー?」
「猫はもういいから」
「生徒会長さんに毒されちゃったみたいだね、お兄ちゃん。いつもみたいに、何がしたいんだ? って言うと思ってたよ。小さなことだけど、だいぶ違う。お兄ちゃんはオカシイことを、なぜオカシク思うのか……そこに疑問を持つようになった。そのとおり、わたしの背中には最初から、何もいないよ。お兄ちゃんの大好きな二次元美少女もそう、背中なんか最初から描かれていない。でもわたしたちは行くことすら敵わない遠い星でさえも、それが丸いと直感できる。与えられた断片的な情報から、その裏側を創造することができる。生徒会長さんが二人いるか……、そんなことはありえない。お兄ちゃんも確信しているはずだよ。わたしの背中は、わたしがターンしないとお兄ちゃんには――見えない――。見えないのならば、そこに猫がいるかいないかはわたしの――前半分で判断するしかない――。そしてお兄ちゃんは、生徒会長さんの背中……後ろ半分を、見てしまった。でも不思議なことに、もう一度正面に戻って、後ろ側を想像しようとしている。だから……二人いるって考えちゃうんだよ。後ろの正面だーあれっ♪ ――てね。そこにいる生徒会長さんと、お兄ちゃんの想像してしまった生徒会長さん。それが、二人目の正体だよ」
オレは先輩と初めて顔を合わせた、あの夕焼けの日を思い出す。現実感がなくて、冷たくて、透明で……。水鏡越しに存在するような、彼女たち。生徒会長と呼ばれる優しい彼女がいる前では、千夜先輩は絶対に姿をあらわさない。コインの表と裏のような存在だった。
はたして、日曜日にオレの前にあらわれるのは……どちらなのだろうか?
「お兄ちゃん、変な顔してるっ」
フガーッと、猫が威嚇する真似をしながらオレに詰めよる憂姫。妹もこよみとおなじで、オレの顔色を見るだけで何を考えているのかを当ててしまう。憂姫には先輩と日曜日に出かける話は、してなかったが……もしかしたら……。
「今までは美少女アニメの映画でフィルムのおまけ貰えなかったとか、美少女アニメの舞台になった場所に出かけてくるとか、人生の中のほとんどを美少女アニメが占めていたお兄ちゃんが、いきなり美人の生徒会長さんと親しくなったらそれはもう勘ぐるよ。さっきだってカレンダーの日付じっと見ていたし。それに、深刻そうに生徒会長さんのこと考えこんでた。日曜日に、一緒に出かけるんでしょ?」
超バレバレだった。憂姫はオレの顔をじーっと見つめていたが、ふっと頰の筋肉を緩める。そして背伸びをして、オレの肩を右手でぽんぽんと叩く。
「行ってきなよ、お兄ちゃん。最近こよみもちょっとおかしかったし、自殺事件とか嫌なことばっかりだったからさ、少しだけほっとしたんだ。このまま緊張がつづいて、みんなの関係がギスギスしてきたらどうしようかと思った」
「ただ、メシ食いに行くだけだぞ」
「だ、だからー、どうしてこうお兄ちゃんは……あーもういいよっ、行ってきなよ」
憂姫はふたたび怒りだして、すぐにまた風船が萎むように落ちこむ。千夜先輩、彼女の名前が出てくるとこよみも憂姫も、決まって感情が昂ぶるのだ。
「わたしはお兄ちゃんを見つめてるだけでいいんだ。それが半分でも、四分の一でも」
「……? どういう……意味だ……?」
「たとえどんなかたちになったとしても、お兄ちゃんはお兄ちゃんだもん。でも、お兄ちゃんはこれから大変だろうね、一クセも二クセもある女の人を相手にしなきゃいけないんだから」
「まあ、自分で自分のことドッペルゲンガーとか言ってる中二女だからな。友達と思われるのは嫌だけど、まあ、うまくやるよ」
「お兄ちゃんは生徒会長さん、あの人の裏側を覗いてしまったんだ。もう一人のあの人に、どれだけ必要としてあげられるかがきっと、鍵になると思う。いつまでもドッペルゲンガーのままだなんて、可哀想だからね」
私はね、ここから飛び降りるつもりだったの、そう千夜先輩は言った。何故、あんなことを言ったのだろうか。そして、彼女はどうして二人いるのだろうか。
「それは、探していたからだよ。自分という理解者を……。人の行動ってね、すごく環境に影響されるんだ。自分の意思で決めた、なんて大噓でね、右と左どちらの扉を開けるかなんて、その扉の前に立った段階で決まっているんだ。だから自分を変えたいと思うなら、周りの環境を変えなければ、絶対にそんな願いは叶わない。お兄ちゃんを必要としているのは、そのためだよ。そして最終ヒントです、生徒会の会報って、読んでる? あの、難しい四字熟語の」
「ああ、なんかたまに配られるよな。カバンの底でぐちゃぐちゃになってて、こよみにゴミ箱送りにされてたぞ、たしか」
「はあ、とてもお兄ちゃんらしいと思うよ。その自立できそうのなさ」
苦笑いの憂姫に、軽くたしなめられる。
「うーん、でも……わたしのを見せるのも面白くないね。生徒会長さんという人が知りたいなら、生徒会室を調べてみるといいよ。きっと、会報のバックナンバーがファイルされているはずだから。その中身を見れば、お兄ちゃんの探していた答えが見つかると思う。本当ならそれはこよみがお兄ちゃんに教えているはずなんだけど、きっと生徒会長さんってイメージしかなかったんだろうね。こよみは細かいところには無頓着だから」
そう、ずっと引っかかっていたこと。それを、憂姫は言いたかったんだろう。
「名前か……」
そう、名前だ。千夜、その名前に先輩自身も……そしてこよみも疑問を抱いていた。
「千夜、その名前は生徒会長さんにとって、特別な意味があるんだと思うよ。言葉ではない、もっと上位のメッセージ。それに応答できる人間は、きっと世界中にお兄ちゃんたった一人しかいない」
彼女の名前に隠された秘密、その閉じられた蓋を開くとき、オレは人の内面というものを覗いてしまうのだろう。その聖域に土足で踏みこむことに関して、あの人は……許してくれるだろうか。
「ねえ、生徒会長さんは、人の記憶を読めるんだよね?」
質問は唐突だった。いつになく神妙な表情で、憂姫は俯いたまま彼女のもう一つの秘密を尋ねる。
「そうだけど……どうして、そんなことを聞くんだ?」
くすりと、不気味なほど冷淡に憂姫は微笑み、視線を上げた。
「ううん、何でもない。ただちょっと、気になったから……。不思議な人だね、生徒会長さんって。でもね、こよみのことも少しは、気にかけてあげてね」
こよみ、その名前を出されると、オレは何故だかうしろ暗い気持ちにつつまれる。こよみは表立っては平穏だが、胸の中に不安やいら立ちの感情を抱えているのを、薄々ながら感じていた。すれちがう、ふとした瞬間に、こよみの鬱屈した感情が頭をもたげているのを感じる。
胸の内に押し込めた、こよみの暗い憤りを何とか抑制しているのにも、オレは気づいている。ふとした瞬間にその枷がはずれ、危うい事態がおこるのではないか……そんな不安ばかりが、オレの恐怖を煽りつづけていた。
「アイツ、このところ変なんだ。急に落ちこんだり……明るくなったりさ」
「お兄ちゃんはね、選ばなければいけないよ」
オレの不安を感じとったのか、ぽそっと、憂姫が呟いた。その呟きは、池に落ちた小石のように……オレの心に波紋をひろげる。
「血の絆は切れないけど、それ以外の親しさは……途切れてしまうこともある。お兄ちゃんがこよみに優しさをかけたいなら、なおさら、どちらかを選ばなければいけない。大丈夫っ!! 最後はきっと時間が解決してくれるよっ!! 頑張れお兄ちゃんっ!!」
先ほどまで書き進めていたルーズリーフをくしゃくしゃと丸め、ゴミ箱に捨てると、憂姫はリビングを出て行った。たった一人残された薄暗いリビングの中で、オレはただ、この数週間に起こった出来事を反芻していた。