NOeSIS 嘘を吐いた記憶の物語
千夜の章(前編)5
cutlass Illustration/cutlass・たぬきまくら
我々の後継者はスマホの中にいました———田中ロミオ 累計50万ダウンロード突破のスマートフォンノベルゲームcutlass自ら完全改稿のうえ待望の書籍化。
「昨日はいったい、どこ行ってたんだよ?」
眠たくなるような授業が終わると、不機嫌そうな顔をしたこよみに背中を突っつかれた。六時間目が終わり、部活に急ぐクラスメイトが慌ただしく席を立ち始める。
「昨日の夜話しただろ、その話」
「もっと詳しい説明を要求するーっ!!」
「だーかーらー、こよみと話しているときに拉致られたんだよ、あの電波女に」
「生徒会長さんに?」
「そう、生徒会長さんに」
生徒会長、その単語がこよみの耳に届くと、少し意外そうな表情を浮かべる。
「ほへー……。そんなにアグレッシブな人なんだ、おとなしいのに」
「うーん、昨日あの後話した感触だと、一応同一人物っぽいんだけど。いちいち謎が残るんだよな、千夜先輩って」
「ちょっと待って、先輩の名前……今なんて言ったの?」
がたんと机が揺れた。昨日の千夜先輩と同じように、千夜という名前が気にくわないようだった。
「鷹白千夜だよ、ち・や――」
「そんな名前だったっけなぁ、生徒会長さんって」
人差し指をおでこに当て、考えこむこよみ。彼女の髪を結ぶ桜色のリボンが逆立ち、思考を巡らせているのが見て取れた。
「もうちょっと柔らかい響きだったような……。ねえ、漢字はどういうやつ?」
「数字の千に、昼夜の夜だよ」
「名字は鷹白……、名前は……数字と……夜……ああ、うん!! そうそう、そんな感じの名前だったよっ!! 生徒会長さんって」
彼女は深く考えることを放棄したらしかった。結局こいつも、はっきり名前を覚えていなかったようだ。
「いやー、名字飛ばして名前で呼ぶ仲とはねぇ。感慨深いよ、私は。式には呼んでね、時雨」
「はえーよ。てゆーか、そういう関係じゃねーよ」
そう、先輩との関係はなんというか、蜃気楼のようなものだった。確かに目の前には存在するが、進めど進めど追いつけない。いずれ彼女の真実を知る日が来るとすれば、きっと、千夜という少女はそのときに霧散してしまうだろう。だって、彼女は幽霊みたいなものだから。
「生徒会長さんと会話してるところ、実はこっそり覗いてたんだよ。まんざらでもなさそうだったけどな。時雨は、あの人のこと好きじゃないの?」
生徒会長。千夜先輩から、ドッペルゲンガーと呼ばれていた人のことだ。
「ああ、あの千夜先輩ソックリな人のことか」
「また、わけのわからないことを真顔で言う。今時長い黒髪の人なんて、滅多にいないよ。他にこの学校にいるなら、私が知らないわけないもん」
「生徒会長か。確かに、かわいい人だったよな」
気が動転していてあまり多く喋れなかったが、かわいくて何より優しい人だった。
そう、今一歩踏み出せない、こんな戸惑いさえも。オレはいったい何に、こんなに警戒しているのだろう? 千夜先輩のことを深く知りたいその行動と感情こそが、彼女を遠くへと追いやってしまう。そんな予感が邪魔をして、今一歩踏み出せないでいたのだ。
「おーう、悩んでるね少年〜。自分の感情には正直になっちゃったほうが、いろいろと楽だよ〜」
「やかましい」
「生徒会長さんは競争倍率高いからね。それでも、そんなウワサ全く聞かなかったんだよ。つまりだよ、近づく男は情け容赦なくごめんなさい、してたのっ!! 時雨はレアケースだよ」
結構こよみは顔の広い人間……というか、女子特有のネットワークを持っていた。生徒会長と仲が良いとは今まで聞いたことがなかったが、口ぶりからしてそれなりに知っているのだろう。
「あの人男嫌いで有名なんだよ〜。生徒会絡みの仕事以外は、口すら利いてもらえないんだから」
意外な言葉だった。生徒会長、彼女のほうからオレを見つけ、名前を呼び、手を握ってきた。男嫌いとは、とても思えない。
「何でオレは生徒会長と初対面で会話できたんだろうな? 名前だって向こうは知ってたし」
「だーかーらー、初対面じゃなかったんだよっ!! いいっ、仮にだよっ、別人だったとしても、それ以前に面識あったんじゃないのっ!?」
そうだ、こよみからすれば、オレの考えのほうがきっと支離滅裂に見えるのだろう。だって初対面のはずの生徒会長はオレの名前を知っていて、それなりに親しく接してくれている。頭がオカシイのは客観的に見れば、オレのほうだった。
「以前会ったことがあるかは、次に見つけたときにでも聞いておくよ」
「次と言わずに今日行きなよ。生徒会の開催は毎週金曜日、それ以外はあの人、一人で生徒会室にいるよ。続報、期待してるからねっ?」
ニンマリと気味の悪い笑顔を浮かべるこよみから、ぷいと視線を逸らす。でも何だ、こよみには、今度何か奢ってやらないといけないな。そう考えながら、オレはカバンをつかんで席を立った。
***
「来ると、思ってたわ……」
傾いた日に染まった生徒会室には、黒髪の先輩が佇んでいた。開かれた扉から彼女の後ろ姿を確認すると、振り向いて確認することなくオレの存在を当ててみせたのだった。
「驚いた? 私はね、後ろに目がついているの」
「べつに。死人と会話できることに比べたら、全然」
「そう、それは残念だわ」
言葉とは裏腹に、無表情の先輩。彼女はオレの存在を気にすることなく、そのまま歩き出してしまった。
「どこに行くんだ? 先輩」
歩みはとてもゆっくりとしたものだった。そう、それはまるで、何かを探しているように――。
「探しものか?」
ぴたりと、先輩の足が止まる。彼女の長く美しい髪が優雅に弧を描き、後ろを振り向く。
「ふふ、わかったのかしら……?」
彼女は微笑んでいた。周囲のもの全てを凍らせてしまうような、冷たい微笑み。先輩が何を探しているのか、それはきっと……。
「死体探しだろ」
先輩は死者と会話ができると言っていた。だから死体が必要なのだ、先輩が会話するために。
「近からずも遠からずな答えね。時雨君あなたは少し、勘違いをしているわ。私は確かにあなたと初めて出会ったとき、その日のうちに人が死ぬということは知っていた。だけどね、だれが、どこで死ぬかなんて、私にはわからなかったのよ。先週は惜しかったわ、だけど今日は違う」
邪悪な微笑みが、つぅと先輩の唇を歪ませる。生徒会室を抜け階段を下ると、夕闇に染まった昇降口に並ぶ靴箱の影がオレたちを包みこむ。
「行きましょう。首を吊るのに、良い塩梅の場所へ――」
オレは黙って、先輩の顔を睨みつけた。
「あ、塩梅と言うのはね、塩と梅酢を合わせた調味料のことよ。塩とお酢、塩基と酸がちょうど良い具合に混ざり合った、お互いを中和させる場所。転じて、物事の絶妙なバランスのことを指す言葉」
「だれも聞いてねーよ、そんなこと」
「あらごめんなさい、つまらない話で……」
おいしさを科学する調味料の話ではなくて、その前の発言がとても気になった。
「何だよその……首を吊る場所って――」
「言葉通りよ。今日はだれかさんが首を吊って死ぬの。ねえ時雨君、あなたはもうすぐ自殺するとしたら……今、どんな気持ちになっているかしら?」
先輩の質問は、悪意に満ちている。今日、どこかでだれかが死ぬとわかっていて、その質問を投げかけてきているのだ。
「そうよ、今日は水曜日ですもの。ウワサどおり、だれかが自殺する。でもね、私たちにはどうすることもできないわ」
「オレは、この事件は自殺だとは思えないんだ」
差しこむ夕焼けは閉じる瞼のように、稜線の向こうに赤い一文字を描いていた。長く延びた影は徐々に薄まり、蛍光灯の冷たい明かりがオレたちを照らし始める。
「この話、長くなるわよ……」
自殺事件。ことの発端は、四週間前の水曜日の夜に起こった。一人目は学校にほど近い、住宅地の道路で発見された。自分の首もとを果物ナイフで刺し、出血多量で死亡。血痕は道路ぞいに点々とつづいていた。
喉元に何度か刃物を突き立て、そのまま数メートル移動したところで事切れたようだった。
つまり……逃げていたのだ、何か――から。
二人目は最初の犠牲者の地点からほど近い、国道で発見される。
歩道橋の欄干を自ら乗りこえ、そのまま地面に向かって落下。しかし、高さが足りずに片足を骨折しただけのようで、そのままよろよろと車道を歩く姿が目撃されている。
二人目もまた、何かから逃げるように数メートル移動していた。その直後避けきれなかった大型ダンプに轢かれ、絶命している。
三人目は学校付近の一級河川から、水死体となって発見。検死の結果死後数週間たっていたとみられ、順番的には三人目こそ最初の自殺者だと推測された。物証が乏しく自殺と判断されたが、喉には搔き毟ったあとが残っていた。
特に思いつめたような様子もなく、取り立てて問題のなさそうな生徒たちが、ある日冷たくなり無言の帰宅をする。自殺者はお互いに別のクラスの生徒で、事件は偶発的な発生に思えた。
しかし、死ぬ間際に取る自殺者たちの不可解な行動。それは死ぬことへの躊躇いと違う、恐怖、そのようなものが感じられた。
「四人目は自殺事件のウワサが流れた当初から、探偵気取りでいろいろと嗅ぎまわっていたと言うわ。交友関係からその日の足取りに至るまで。だからかしらね、四人目に選ばれたのは。口を塞ぐように、自宅のガレージのシャッターで顔をひき潰されて死んでいたそうよ。その事件からみんな口を閉ざし、迂闊なことを喋らなくなった」
ひとしきり喋ると、先輩は背中を廊下の柱にあずけた。
長いもみあげをくるくると指先で弄び、ふぅとため息を吐く。
「四人目以降からは、詳しい内容のウワサは出なくなってしまったの。恐らく今まで出た信憑性のある話の出所は、彼女だったのでしょう」
会話の内容に、ふとした違和感を覚えた。
「なあ、先輩――」
「ふふ、勘が鋭くなってきたわね、時雨君」
悪戯っぽく、先輩は微笑む。オレの考えは少し、正しかったようだ。
「よく考えたら、今までの自殺者の性別を聞いていなかった。でも、なんとなく思うんだ。全員女……なんだろ?」
「ええ、そうよ。全員あなたと同じ二年の女子生徒……不思議ね。実はね、学年性別、交友関係、全部繫がりそうなのよ、この連続自殺」
「でも、なぜかそういう詳しい話は表に出てこない、そうだろ?」
憂姫の言っていたとおりだった。学校も警察も、やはりただの自殺とは考えていないのだ。
「表に出てきている部分もあるわよ、でも大量にある関係ないウワサで埋もれてしまっている。それこそ、だれかが意図的にそういうことを流しているとしか思えないくらいに、ね」
何がこの事件をここまでややこしくしているのか、それは人の繫がりの薄さだった。オーバーに危機を煽るチェーンメールや、真偽の疑わしいウワサで面白おかしく情報が攪乱されていく。
SNSや通話アプリなどで情報が拡散するスピードが大幅に向上しているにもかかわらず、この世界には手の届きやすい情報と、そうでないものがある。
UFOやら妖怪やらの噓の画像はすぐに手に入るが、自殺した少女たちの本名等、こちらが真に欲している情報にはなかなかたどり着けない。
呟きや掲示板の書き込みを丹念に調べても、出てくるのは全く関係ない他校の生徒のプリクラ画像や住所だった。
そう、ネットなんて便利なようで全然便利じゃないんだ。まるで事件を調べる人間を騙し、あざ笑うかのごとく、デマや怪聞があふれていた。
高度に情報化したのは社会だけで、使う人間が頭の悪い高校生ならば、そういう偏りもしかたないのかもしれない。
そして、情報……いや、この危機的状況を共有しなければならないはずの二年の横の繫がりは、死ぬほど薄い。こそこそウワサ話をするだけに終始していて、本当に薄情者だらけだった。
そんなオレの顔をちらりと眺めると、先輩はくすりと嗤う。
「あなただってそうじゃない? 人のことを薄情だと、言えるのかしら」
「薄情者って呼ばれるのはべつにかまわないが、これだけ死んでいて、自殺ってことでかたづけられたら……オレは納得しないぞ。この事件の真相ぐらいは知りたい。これじゃまるで、殺人事件として捜査させないために、自殺に偽装してるみたいじゃないか」
「ふふ、だれが調べようとも、殺したなんて証拠は出ないわよ。たとえそれが、警察でもね……」
人気のなくなった廊下のすみで、オレたちは壁に寄りかかりぽつぽつと言葉を交わしている。一階の窓から覗く外の世界は黒く塗りつぶされていて、その中に淡く街灯の灯がつらなっていた。
「この自殺はね、不安や恐怖とおなじように空気をつたわり、広がりつづけるの……」
千夜先輩の顔を見つめると、彼女はこちらから視線を外し窓から外を眺める。先輩は無表情に、淡々としゃべりつづけた。
「警察は、殺人事件として捜査しているわ。毎週水曜日、この近所をパトカーがうろうろしている。たとえ犯人を捕まえられたとしても、この自殺は終わらないでしょうけどね……。大人同士の足の引っ張り合いにも利用されているそうよ、この事件。いろいろと圧力がかかってきている。怖いわね、大人の世界って。だって、学校には通っている子供の倍の、親と言う名の大人がかかわっているのだから。世間体を気にして、情報を開示させないように働きかけているんですって」
先輩の言っている意味がわからなかった。人ごとのように斜めから世界を見て、軽くあしらう。彼女はそんな人だった。
「気にいらねぇ、そういう言いかた。アンタ、この事件のこと何か知ってるんだろっ!? なら、どうして人が死ぬまで待ってるんだよ!!」
特に臆することもなく、先輩は窓の外を眺めつづけていた。先輩の髪は深く湿った夜の色に覆われ、表情は氷のように冷たかった。
「……それで?」
「それで? じゃねーよ。この学校の生徒が死んでるんだぞ、生徒会長だろ、事件解決させろって言ってるんだよ」
「あなたがやったら、良いんじゃない?」
ほら、まただ。相手を常に下に見て、手のひらで転がすように命令を与えてくる。そこに自分なんて、いないみたいに……。そこに責任なんて、ないみたいに。
「ふふ、私は正義なんてこれっぽっちも望んでいない。死んでいった人々の亡骸を踏みつけて、私は生きているの。だって自分が悪いことをしていると、きちんと理解しているのだから。自分の分というものを、わきまえているつもりよ」
何がおかしいのか、先輩は乾いた笑みを浮かべていた。オレは、拳を握りしめる。
「……かっこ悪いことだと思ってたんだ……」
オレの言葉を聞くと、先輩は怪訝な表情を浮かべる。何を言っているのかわからない、そんな顔だった。
「正義感とか、不正を許さないとか、そんなの古くてかっこ悪い考えだと思ってた。でも、今アンタを見てて、オレはすごくムカついている。自分さえ良ければ他人がどうなろうと知ったことじゃないなんて、そんな考え間違ってる。アンタが事件を解決する気がないなら、オレがやる」
「……私はね、できもしないことを軽々と口にするような人間、嫌いよ」
先輩はかすかに開いたオレの唇に、指を押しあてる。
「いますぐ口を噤みなさい。時雨君、あなたは私とおなじ目をしていると信じているわ、無理に格好をつけることはないのよ」
オレは塞がれた口を開き、先輩の腕をはらう。
「嫌だ」
「……意固地ね、呆れるわ。この世の理をわかっていない。他人なんて助ける必要はないのよ、現に――この学校の人間全員、自殺者を助けていないでしょう? 関わらない、それが一番賢くて正しい選択なのよ」
「納得いかねーな、宇宙の真理は金髪ロリ巨乳だけだ。おい、高二病こじらせた電波女、アンタも自殺したいとか寝言抜かしてたな。もったいぶってないで理由を説明しろ、聞くだけは聞いてやる」
「理由なんて、あなたに伝える必要はないわ。私はただ、羨ましいのよ。先に自殺していった子たちがね……。でも時雨君、カッコイイセリフを吐いたつもりでも、関わると死ぬのよ。あなたは……どうするつもりなのかしら?」
「死んでるのはみんな女だ。命の心配をするなら、先輩、アンタのほうだろう? もっとも、自殺したがってるみたいだし、ちょうど良いじゃないか。さっさと六人目になってこい、電波女」
オレはぷいとそっぽを向くと、先輩はわざとらしく足音を立ててちかづいてきた。
むぎゅううううう――。
先輩の足がオレの上履きを踏みつけ、ぐりぐりと指の一本一本をばらすように丁寧に体重を乗せてくる。
「痛っああああああ――!!」
悲鳴に似た呻きを漏らすと、先輩は満足そうな笑みを浮かべた。
「あなたは私を不快にさせた。その代償は悲鳴と、苦痛でもって払ってもらうわ」
「……はんっ。上等だ、来いよ電波女。痛いってのは気持ち良いってことだ。でも一つだけ納得いかないことがある。オレはなぁ、これやっときゃ受けるんだろ的な、そのテンプレツンデレキャラが気にくわないって――」
ふいに足下の激痛がやみ、離れた彼女の足がオレの身体に絡む。抱きしめられる自分の身体、彼女のぬくもりが制服越しに皮膚に伝わってくる。コイツは、何をするつもりだ……?
先輩は左手で窓を全開に開け、その開いた窓枠にそっとオレの右腕を添える。手首は彼女の右手で、がっちりと捕らえられたままだ。右手の甲にくっついた指の数本から、アルミサッシの冷え冷えとした温度が伝わってくる。悪戯っぽく微笑む千夜先輩は、耳元でこう囁いた。
「閉めてあげましょうか?」
「いえ……結構です……。風が、とても気持ち良いので……」
「あら残念、せっかくあなたの右手から、指をいくつか解放してあげようと思ったのに」
「ば、ばか――ッッッ!? 閉めるな――ッッッ、指が潰れ――」
すんでの所で窓を停止させる、先輩。オレはぜぇぜぇと荒い呼吸を繰り返しながら、その場にへたりこむ。
「今日は私につきあって、少し遠い場所まで行きましょう。そこで私たちは、首吊り死体の少女を見つける。あなたに拒否する権限はないの、おわかり?」
ニコニコと微笑みながらオレを見下ろす先輩の足。彼女の両足の隙間から覗く廊下の奥を、二つの影が横切った。
「あれ……?」
一人は俯いたまま歩く、顔色の悪い女生徒。そしてその隣を歩いているのは……。
立ちあがって走り出そうとするのを、千夜先輩が制止する。
「どこへ行こうというのかしら?」
「放せよ、先輩。なんだか嫌な予感がするんだ――」
赤い瞳が、オレを見つめる。彼女の眼が胸の内をまさぐり、オレが先ほど捉えた光景を追想させていく。気持ちの悪い、吐き気を催すような感覚だった。
「……オカシイわね。あの子がこの場所にいるだなんて――」
「何言ってんだよ、最初からオカシイことだらけだろ。てゆーか頭オカシイ女がオカシイって言うな、混乱する。とにかく追うぞ――っ」
オレは先輩の手を引っぱり、彼女たちの後を追った。
***
階段を駆けあがっていくと、かすかに残っていた夕焼けの残り火が、ふっと消えた。うすら寒い不安を抱え、速く走れと先輩の腕を強く引っぱる。
「もし自殺を止めたいと思うのなら、急ぐことね」
「だから走ってんだろっ。アンタ確か、今日は首吊りで死ぬって予言してたな。本当なのかっ!?」
「さあ? 知らないわ」
その無責任な発言に腹が立ち、オレは階段を駆けあがる足を止め、振りかえる。
「ふざけんな、てめぇ。先週の飛び降り当てただろっ!! さっきまでは、まるで自分が神様みてーに、先のことがわかるって抜かしてたくせに」
「事情が変わったのよ。あの子は……この場所にはいないはずだったのに……。ちょっと今日はオカシイの、だから……本当に首吊りで死ぬかも……わからない」
オレは最悪な方向に考えを巡らせる。もし自分が首吊り自殺で死ぬとしたら、どこに向かう? 彼女たち二人はただならぬ表情で歩いていた。二人同時に……首を吊るなんて……そんな、まさか。
「迷っているヒマはないわよ、時雨君。あの子たちは階段を上っていったのでしょう? 追いかけることね」
「――そうだな」
オレはうなずき、階段を再び駆ける。東西に延びた校舎の廊下を見わたすため、角を曲がったそのときだった。
「――わぷっ!?」
小さい人影にぶつかり、オレは動きをとめた。
「あれ……お兄ちゃん……?」
二階の廊下には、妹の憂姫の姿があった。いったい、どうしてこんな時間に学校にいるのだろうか。
「図書委員の友達が今日午前中で早退しちゃってね、図書室の鍵締めを代わることにしたんだ。ほら、今日水曜日だから、先生がバタバタしててなかなか摑まらなくて。鍵を受け取るのに時間がかかって、こんな時間なんだ」
「そ、そうか。もう日も暮れたし、だれもいないと思ってたから憂姫が出てきてびっくりしたよ」
「そうかな? まだ委員会で遅くなった人とか、運動部の人も残ってる時間だよ。でもどうしたの、すごく急いでるみたいだけど」
「い、いや……何でもないんだ」
歯切れ悪くごまかす。と、憂姫はオレの隣に立つ人物に目を移した。じーっとその視線が、オレの右手を見つめている。オレの右手は、千夜先輩の腕を摑んだままだった。
間髪いれずに先輩が、オレの腕を振り解く。そして憂姫に向かって、皇族のような微笑みを向けた。コイツ、知らない人の前だと猫かぶりやがって……。
「あ、あはは――。なんだかわたし、お邪魔しちゃったね」
「いや、コイツはただの……えーっと、友達が全くいない可哀想なヤツで――」
思いっきり千夜先輩に脇腹をつねられる。クソッ、マジでこの女容赦ないな……。
くすくすとそんなやりとりを見て、微笑む憂姫。
「てっきりお兄ちゃんは、こよみと一緒に帰ると思ってたよ。さっき階段上ってくの見かけたから。でもそうだよね、こよみの横にお友達がいたし、勘違いだったみたい。じゃあねお兄ちゃん、生徒会長さんと仲良くね」
こよみ……。憂姫の口から飛び出たその名前は、言い知れぬ焦燥感をオレに与えた。
「ちょっと待て憂姫っ!? こよみは顔色の悪い女と、階段を上がってったのか?」
「え? あ、うん。もう一人の人はよく見えなかったけど、確かに階段を上がって行ったよ。薄暗いから……もしかしたらわたしの見まちがいだったかもしれないけど」
憂姫の頭を、ぐしゃぐしゃとなでた。そのまま早く帰れと促し、オレは階段に向かって走り始めた。
こよみが……まさか……な。不安はこぼした水のようにオレの心を伝わり、重く侵食していった。
重い足を引きずるように、三階へ上がった。廊下を見わたしても、あの二人の影はない。
ぽんと、肩に先輩の手が載った。
「あなたの幼なじみの子は、こよみさん――と言うのね。だからさっき、薄暗い顔をしたお友達の子と階段を上がる姿を見て、正常じゃいられなくなった」
「こよみは……自殺するような性格じゃねーよ」
薄ぼんやりとした蛍光灯に照らされた廊下が続いている。まっ暗闇になった窓にはオレの姿が映っていて、そこには眉間に皺を深く刻んだ顔があった。
はやる心を抑え、廊下を駆けた。
手分けをして、一つ一つ教室を確認していく。廊下の端までたどり着いた先輩が、両手で大きくバツをつくる。あと、残された場所は……。
「……ここのようね」
薄く蛍光灯の光で照らされる女子トイレ。そこに、オレと先輩は立っていた。スマートフォンで時刻を確認すると、七時を少し回ったところだった。
四つ並んだトイレの個室は一つだけ、扉が閉まっていた。胸の鼓動はドクドクと、早鐘を打ち続けている。オレはただ、その中に収まっているものが、こよみじゃなければいいと祈りつづけていた。
「…………」
「…………」
先輩に視線で合図を送る。
ひゅぉおおおおおおおお――。薄く開いたトイレの窓、そこから呻くような風が漏れて、オレと千夜先輩の髪をはためかせた。
キィィィィ―。
風にあわせて金属を引っかくような、嫌な音が響く。個室の中で、何かが擦れているんだ。
オレはごくりと、つばを飲み込んだ。
千夜先輩は指紋を残さないように、手にハンカチを巻きつけてノックをする。
トントントン――。規則正しく三回。しかし、ドアの向こうから返事はなかった。
彼女はポケットから十円玉を取り出し、刻まれたマイナスの溝に沿って回す。それによって、鍵は外側から解除された。
カチャン――、小さい金属音のあとに、視界は四角く開けた。まるでオレたちを、迎え入れるかのように。
先輩の視線の先には、少女がいた。こよみじゃない、頭にヘアバンドを着けた、ショートカットの少女だった。先ほどこよみの隣を歩いていた、少女だ。彼女は地に足を着け、虚ろな瞳でオレを見据えている。
不気味な立ち方の、少女。今にも動き出しそうなくらいに、彼女の存在というものは自然だった。
しかし何だろう、この拭い難い違和感というものは。
自分の視線を、足から上へと持ちあげる。首もとから天井までは、白い直線が伸びていた。それは仏様が盗賊カンダタに伸ばした救いの糸のように、真っすぐに少女の首へと絡みついていた。
ほっと胸をなで下ろした瞬間、オレの胃袋の奥で強烈な不快感がわき起こった。
「……オレは……最低な人間だ……」
千夜先輩はオレの肩を抱き、頭を優しくなでる。
「あなたの幼なじみじゃ、なかったのでしょう? 自分の親しい人を大切に思う、それは人間として当たり前の心理だと思うわ」
「まず初めに頭に浮かんだのが、こよみじゃなくて良かった、そんな言葉だった……」
「落ち着いて、時雨君」
「六人目か。首吊りだなんて、シャッターに潰されたり、飛び降りるより、自殺らしい死に方だな……」
「自殺、確かに自殺としか考えられない。けれどね、警察も学校も、本当にそれだけとは考えていない。その答えがこれよ――」
女子トイレの個室には、文字が刻まれていた。死ぬ間際に最後の力を振り絞って書かれたメッセージ、それは……。
――ちがう――
血で書かれた三文字、しかし、それは強烈なインパクトだった。少女の口もとからは赤い血糊がたれ、制服をどす黒く染めていた。指先は赤く濡れている、流れた血をつかって文字を書いたのだろう。事切れる瞬間、彼女はいったい何を否定したかったのだろうか?
ちらちらと不規則に歪む薄暗い蛍光灯に照らされ、その四角く切り取られた空間は怪しく生との境界を不確かなものにしていた。
個室の中のつい先ほどまで少女だったソレは、化粧箱に収められた冷たい人形のように美しい。喜怒哀楽という人形にとって不要な感情を捨て、朽ち果てるまでのほんの一瞬の間、彼女は清らかな水のように透明な心を得た。笑いもせず、泣きもせず、ただそこに存在するだけの、一切のムダがない美しい存在へと昇華されていた。その身体は妙に艶かしく、オレは視線を逸らしたのだ。
「死体を見て、どう思った?」
顔をしかめるオレを、千夜先輩は冷静に見つめていた。
命が失われたばかりの身体、境目があるとすれば、起きているか、二度と起きないかだけ。いまにも口を開き、しゃべり出すような空気すら感じられるが、彼女は既に死んでいる。人そっくりの人形、完成された美しさを持つ少女は、こう表現するしかなかった。
醜く歪んだ大人に変化する前にはさみで、その一瞬を永遠として切り取られてしまったかのように、少女の儚さだけが箱の中に残っている。
この、自分自身が顔を覆いたくなるような、ぞわぞわとした感情。その内側を、先輩の二つの目は見とおしていた。まるでオレの心を探るように、深淵を覗きこむ……。
「死体ってこの世で一番美しいと思うわ」
不適切だった。とても先輩の口から出る言葉とは思えない、人間の尊厳を踏みにじる発言だ。
「いい子ぶったってダメよ時雨君。あなたが私と一緒に自殺事件を調べ始めたとき、もう既に魅了されていたのよ。死者からの誘惑、そういうものに、あなたは搦め捕られてしまったの」
優しく肩にかけられた、先輩の手。
「パロール……いいえ、死者の意思をあなたは受け取ってしまった。死者の声を聞けるからではない、それは新しい世界を発見してしまったから。あなたの心はね、とても歪んでいる。私にはわかるの。時雨君、この死体を見て、美しいと思ったでしょ?」
必死に先輩から目を逸らすオレの顔を、先輩は手のひらでつぅ――となでる。
「もう逃げることはできないわ。だってあなたはもう、普通じゃないんですもの。死に魅了された人間にはね、破滅しか、待っていないのよ。でもね、私が助けてあげる。あなたのその醜くヒトから離れてしまった心も、私は肯定してあげる」
先輩の顔が、近い。言葉が紡がれるたびにオレの耳たぶをを掠める、彼女の吐息……。それは自分の胸を深々と抉るように、心に染み渡っていく。
「時雨君を救えるのは私だけ。怖がることは無いのよ。あなたの内面に生まれた新しい世界。それはね、生と死の中間の世界。そのあやふやに、あなたは引きこまれてしまったのよ……」
言い終わると先輩は、優しくオレの頭を撫でた。先輩の深紅の瞳はオレのすぐ近くにある。
ヘビみたいだった。
皮膚を通して伝わる温かさも、心地よさも、すべては歪んだ彼女の心にオレを引きずりこむためだけに存在する、偽りの優しさだ。
先輩の目が、オレに訴える。目の前に存在する背徳的な状況を、肯定しろと。彼女の瞳の冷たさは、背筋が凍るほどに恐ろしいものだ。
死者と生きる者とのあわいに立つ彼女、その場所は、幽霊の住む世界そのものだった。
オレは拳を握りしめ、先輩を拒絶した。
「だれが……」
口の中が渇いて、上手く言葉が出ない。
「だれが……こんな死体、美しいなんて感じるか」
この電波女の考えにはついていけない、そう思った。
ひゅぉおおおおおおおお――。
風が流れる。開いた窓から吹きこむ風で、少女の身体が左右に振れた。キィ……広がる金属音、その耳障りな音でオレは心を覆う薄い膜が弾け、冷静さを取りもどす。
「とにかく、コイツを下ろさないと」
動き出そうとするオレの身体を先輩は強く抱きしめ、制止した。
「ダメよ、うかつに死体を動かしてしまったら、あらぬ疑いをかけられてしまうわ。だから、ダメ――」
「妹にも見られてる。校舎には監視カメラもあるんだ、ばっちり録画されてるじゃないか。ここで立ち去ってしまったら、オレたちは……」
静かに、千夜先輩は微笑んだ。
「ふふ、大丈夫よ。この学校の監視カメラは旧式だから、夜中に忍び込んで日付を偽装したテープにすり替えてしまえば、証拠を消すことが――」
ジリリリリリリリリ―ッッッッ!!
先輩が言いかけたそのとき、静寂を破るように非常ベルが鳴り響く。廊下に反響する甲高い警報音と、赤いランプの光。
「相手もきっと、おなじ考えみたいね」
――相手って、だれだよ。それを問いただすヒマを与えずに、千夜先輩はオレの腕を引っ張り進み始める。この混乱に乗じてテープを回収しようとする人物を、突き止めるつもりなのだろう。
「…………」
「……どうした?」
ぴたりと足を止め、首を吊ったままの少女を眺める先輩。
「さよなら――」
別れの挨拶を告げると、先輩はぴしゃりと個室の扉を閉めた。けたたましい警報音の響く中で、少女の眠る空間だけが、静寂の中に取りのこされたような気がした。