NOeSIS 嘘を吐いた記憶の物語
千夜の章(前編)4
cutlass Illustration/cutlass・たぬきまくら
我々の後継者はスマホの中にいました———田中ロミオ 累計50万ダウンロード突破のスマートフォンノベルゲームcutlass自ら完全改稿のうえ待望の書籍化。
夜が終わって、その次の日もずっと夜だったらどうしようかと、オレはいつも心配になる。
でも世界というのはそんな心配をする暇を与えてくれるはずもなくて、目を覚ますたびに朝は訪れる。
朝の訪れも色々で、たとえばそう、こよみが思い切り吹き飛ばした扉を、頭が潰れる寸前でかわしたりだとか……。
「だああああっっっ!? オマエの起こしかた毎回毎回寿命が縮むんだよっっっ!!」
枕元に突き刺さった扉を蹴りたおし、オレはあっけらかんとしたこよみに抗議の声をあげる。
突きだした右腕をぼんやりと眺め、こよみは考えこんでいた。
「ちょっと扉押しただけだったんだけど……。壊れちゃった」
「なんつーか、ドンとかバンとかの音の前に扉飛んできたぞ。ちょっと押しただけで音速超えるとか、そういうのねーだろっ」
「ごめんごめん、でもほら、いつもよりかなり早く起きられて良かったじゃん」
「いや、本能の鳴らす警鐘にしたがって起きてなかったら、頭潰れてたっていうか……」
こよみはオレの抗議を無視して窓ぎわにすすむと、シャーッとカーテンを開く。
「いい天気だよ。布団を干すには絶好の朝なのだーっ」
手元の目覚まし時計を手繰ると、七時ちょうどで動きをとめていた。
いつもより三十分ほど早い時間だった。せっかく買い直したというのに、すぐに機能停止に追いこまれるとは可哀想な時計だ。
こよみはベッドに突き刺さった扉を引きぬくと、布団をはぎ取る。
「時雨は、ドアを直しておいて。私はこの布団をはこぶから」
もふっとした塊を両手に抱え、器用にベランダへと続く窓を開けるこよみ。じめじめとした空気が流れていき、五月の終わりの暖かさが部屋へと注ぐ。新緑の芽吹く木々の、爽やかな匂いが鼻腔をくすぐった。
「んーっ、快晴快晴。これなら、夜は気持ちよく寝られるね」
たぁっとかけ声をあげて、こよみは物干しに向かって布団を投げる。
直後にバキンと、物干しは真っ二つに折れた。スチール製のパイプですら容赦なく折るとは……恐ろしい女だ……。
オレはこよみの肩に手をかけ、静かに首をふる。
「ね、ねえ……。部屋からすごい音が聞こえてきたんだけど、大丈夫……?」
廊下から、小さい声が聞こえた。妹の憂姫が、壊れた扉の向こうからこちらを心配そうに窺っている。
「憂姫ぢゃぁあああああん。扉に続いて、物干し竿も壊しちゃったぁあああ。どーしよう……」
一瞬ベランダの柵に干せばいいのでは、と言いかけたが、オレはその発言を飲みこむ。
最悪柵まで破壊される恐れがあったからだ。
憂姫はおずおずと、紐の束を取り出す。
「この前物干し竿折ったときにつかった、洗濯紐が残ってるよ」
「あ、ありがとう。……でもダメだ、中途半端に長さが足りない」
以前こよみが物干し竿を破壊したとき、洗濯紐で代用した。
だが、その後紐を撤去するときに結び目が解けず、仕方なく切断したのだ。そのために紐は、寸足らずになってしまったのだろう。
憂姫は再び部屋から出て行き、今度は少し短い洗濯紐を取ってきた。
「おい憂姫、もっと短いの持ってきてどうする。全然長さが足りないぞ」
「大丈夫大丈夫、紐と紐の端を本結びにしちゃえば、じゃーん!! 長ーい一本の紐になるのでしたー♪」
こよみが得意そうに、わっかとわっかを重ねたような結びかたを披露する。その結びつきは強固で、掛け布団を干すくらいではびくともしなかった。オレが不思議そうな顔でそれを眺めていると、こよみはふふんと鼻を鳴らす。
「私と憂姫ちゃんはね、昔ガールスカウトでいろいろ結びかたを習ったんだよ。もやい結びとか、避難用ロープ、反対から引っ張ったら解ける結びかたとかもできるんだからねっ」
ガールスカウト、それはまだコイツらが小学生のころの話だった。憂姫は事故に遭う前で、そのときは持病の貧血もなく、こよみと一緒に快活に遊んでいた。
「いやー懐かしいよぉー、時雨家に引き籠もってゲームばっかやってたころだよね。私と憂姫ちゃんはちゃーんと、お外で遊んでたってのに。ね、憂姫ちゃ……って、あれ? 憂姫ちゃんは?」
こよみがきょろきょろと、部屋の中を見わたす。
そう、コイツは動きが止まった目覚まし時計を見ていたのだろう。つまり、偽物の時刻だ。
「憂姫ならとっくに学校行ったぞ」
こよみは腕時計に視線を落とすと、すさまじい絶叫を上げた。
***
午後の暑い日差しが、窓から差し込んでいる。
廊下には四角いかたちをした光のあつまりが点々と続き、オレとこよみはそれを避けながら歩いていた。
「羊ってさぁ、かわいいよね。毛がモコモコしててさぁ、私一度で良いから羊をあつめてベッドを作りたいんだよ。メーメー楽しく鳴きながら、私を色んなところへ連れて行ってくれるの。寝ながら移動できるんだよ? 最高に便利でかわいいベッドだと思わない? あ、別に、ベッドとペットをかけてるんじゃないからね」
「そうかそうか、ついでに朝学校まで連れて行ってくれるといいな」
「間にあったんだから、いいんだよ。てゆーかその話やめてよ。時雨はどう思う? 羊ベッドについて」
「オレはアルパカ派だな」
右手人差し指のささくれを引っ張るか、引っ張らないかを悩みながら、オレは適当に相づちを打つ。
「えー……あいつ、唾を吐くんだよ? いいのそれで」
「ならアルパカに円陣を組ませて、嫌いなやつの家に押しかけるな。寝ながら相手に唾を吐ける、とても便利だ」
「時雨の大好きな二次元キャラにも、唾を吐けばいいのに……」
「それはそういうプレイがあると知っての発言か、こよみ」
「知るわけないよ。てゆーか、今の言葉を頭から消し去りたいよ」
がっくりと肩を落とすこよみ。おでこに手を当てて、首をぶんぶんと振るう。
「そうだな、逆だな。むしろ二次元キャラに唾を吐きかけられたいよな、蔑むような目で見られなが――」
ドンッ、という音と共に、こよみの横のコンクリート支柱が弾けた。
恐らくこよみのグーパンが炸裂したのだろう。パラパラという砂塵の中から、青筋をうっすら浮かべたこよみの顔が現れる。
顔には影がかかり、彼女の瞳は沼の底のように淀んでいた。
「私が……蔑むような目で見てあげようか……?」
「いえ、間にあってます」
蹴られながら見下されるのはむしろご褒美だが、こよみにやられた場合は入院か葬式の二択だった。
とはいえ、さすがに壁を破壊したのはマズイ。素手でやったと言ってもだれも信じないだろうが、とにかくその場から逃げるようにこよみの腕を引っ張った。
そのとき、直線で延びた廊下の先に、見覚えのある顔を見つける。
長く伸びた黒髪に深紅の瞳、そう……あのミステリアスな先輩が、事もあろうに友人にかこまれながら歩いているのだ。向こうも同じ学校の生徒なのだから、よく考えれば今まで出会わないほうが不思議だったのかもしれない。
彼女が明るく周囲の仲間と談笑する姿を見て、オレは少し戸惑いを覚える。
あんな性格でも、きちんと友人がいるなんて。しかも、その輪の中心にいるとか、ちょっと信じられなかった。
どちらかと言えば日陰を好み、世間からも隔絶され、人の幸せに呪いの言葉を投げかけるような人物かと思っていた。
腫れものに触るようなあつかいを受けることはあっても、微笑みを絶やさず、爽やかに友人と学生生活を送るなんてできないはずだ。
猫を被っているか、もしくは、隣を歩く友人の腹にナイフを突きつけているか、それかお友達料を毎月払っているか……。
いや、全部という可能性もある。
相手の弱みに付けこんだり、それでもダメなら家族を誘拐して、危害を加えられたくなければ友達になれと迫ったのかもしれない。
オレの胸の内を、もやもやとした違和感が覆っていた。遠目から眺める彼女の姿はとても明るく、輝きに満ちていた。夜の闇と人の死を纏った少女、そのイメージからは遠く、まるで明るい太陽だ。
この違和感の正体を確かめてみる必要がある、そう、オレは心に決めた。
「なあ、こよみ。オマエ、三年の知りあいっているか?」
「うーんと、部活関係で顔あわせていれば、少しはわかるよ。文化系の人だと、さっぱりだけどね」
「じゃあ、あの髪の長いヤツの名前って、わかるか?」
後ろ姿を指差すと、すぐに彼女は階段に消えてしまう。
「黒髪の人? 長い黒髪の三年生なら、生徒会長さんだよ」
これだけ距離が離れていても、後ろ姿で一瞬で当てるこよみ。
「あ、でも、もと生徒会長さんだね。任期が今月頭までだったから。時雨、あの人が送辞とか読んでるのぜんっぜん聞いてなかったでしょ……」
かなりの有名人なのか、どうしてあの人がわからないのかという冷ややかな視線が、こよみから送られてくる。
「しょうがねーだろ、知らないもんは知らねーんだから。で、名前はわかるか?」
にたぁ……と、こよみが悪戯っぽく微笑む。まるで新しいおもちゃを見つけた、子犬のように。
「何――なになになになに――? 時雨君は、ああいう人がタイプなのかな? タイプなのかな?」
アニメキャラと声優以外の女性の話題を振ったのが珍しかったのか、こよみは身を乗り出しながら食いついてくる。
「ほらほら〜、正直に話しちゃいなよ〜。こよみお姉さんが相談に乗るからさぁ〜」
こよみの目は好奇心で満ちていた。
パンチラ報告以外で三次元の女に興味を持ったのを、恋と勘違いされたらしい。コイツに聞かなければ良かった……と、オレは後悔する。
「違う違う、勘違いだったんだ。自分の知ってる人と似ていたけど、よく見ると違うことあるだろ?」
実際、彼女が明るく談笑する姿など、想像がつかなかった。いや……確かに先刻、明るく笑ったらこうなるという、彼女の姿はあったが。
しかしいったい、どうしたことだろう? 人違いか?
「うーん、人違いだなっ!! そう決めた、いま決めた。おっし、教室戻るぞ」
「え〜〜〜〜っ!! ちょっと、詳しく聞かせてよ―っ!!」
適度に無視されたこよみが、後ろで駄々をこねる。シャツを思い切り摑まれるが、オレは気にせずにこよみごと引きずっていく。
「……私も、髪伸ばしてみようかな――?」
最後の言葉は、聞かないでおくことにした。
***
彼女は本当に、人違いだったのだろうか? あんなにソックリな外観の人間が、この世に二人いるのだろうか?
オレは教室の窓から外を眺め、先ほどの彼女を思い返していた。
同じ人間として考えるには何か……纏っているオーラみたいなものが、違いすぎるんだよな。
「ねーねーねー」
後ろの席に座るこよみから、背中をつつかれる。オレはぷいと窓から顔を背け、口を閉ざす。
「こよみちゃんとお話ししよーよー」
「するわけがない」
「そんなこと言わないでよー。洗剤もつけるし、あっ、野球のチケットもあるよっ?」
「新聞屋かよオマエ……」
「私はね、時雨。別に君たちをからかおうって言うんじゃないんだよ? この前だって夕暮れどきにお話ししてたよね? よね?」
やはりだった。
こよみは度々オレとあの電波女が出会っていることに、気づいている。そして関係を聞き出し、あることないこと付けくわえて、仲間うちで笑い話にするつもりだった。
絶対に口など割らぬと、心に決める。
「あ、そうそう時雨。さっき名前を知りたがっていたよね? もし生徒会長さんとの関係を、きちんと詳らかにしてくれるんなら――。いろいろと私からもあの人のこと、教えてあげたっていいんだけどなー」
心が動いた。いやしかし、ここで自分があの生徒会長とやらに関心があると認めてしまうと、毎日のようにこよみのおもちゃとして扱われる可能性がある。
提案は魅力的だが、ヘタすると今後五年ほどからかわれる恐れが……。
「あーあ、深夜の美少女アニメばっか消化して、これから先一生彼女できなくて、あのときに生徒会長さんと仲良くなっていれば……もしかしたら時雨の人生というものも変わっていたかもしれないのに、って将来しみじみと語られることを恐れてるんでしょ。大丈夫だよ、そんなこと言わないから」
「いや、ただの知り合いだから。勘違いすんなよ、その部分」
「なら、教えてくれたっていいじゃん」
そう、よくよく考えてみれば、オレとあの女の関係はただの知り合いってだけだ。今までだって、特に何かあったわけでもない。
「わかる、わかるよ時雨っ!! いやいや隠さなくったっていいんだよ。あの先輩とお話ししたい気持ちは、ちゃーんとこよみお姉さんわかってるから。生徒会長さん優しいから、ブタが餌を貪るように時雨がアニメ消化してる姿見ても、きっと人間として扱ってくれるよ。あ、でも時雨はブタって呼ばれるほうがうれしいんだっけ?」
「ブタ呼ばわりにも作法がある、冷たく睨んでからのブタ以外は愛がこもっていないんだぞ」
「そんな細かいことは、どうでもいいのだー。生徒会長さんって男子から人気あるんだよ〜、かわいいことで有名だからねっ!!」
……はい? こよみの吐いた理解できない言葉を、オレは頭の中で咀嚼する。
「冗談だろ。あれが、かわいい?」
百歩譲って綺麗というのなら話はわかるが、かわいいというのはあり得なかった。
「え――っ!? ちょっ、時雨……理想高すぎだよぅ……」
こよみはオレの発言を、顔面偏差値が足りていないと解釈してしまったようだ。いらぬ誤解だった。
「ちょっと待て!! なんかお互いの認識にズレがあるぞ」
「待たないよ……。時雨、最悪すぎ」
見下すようにオレを蔑むこよみ。
「ちがうちがうっ!! 綺麗とかならわかるけど、かわいいはちがうだろっ!!」
そう、彼女からは死の匂いしかしない。色とりどりの花より、首筋に毒蛇が似合うような電波女だ。
どうしてそんな人物から、かわいいという単語が出てくるのか。こよみも、そして世の男子の目も、節穴なのだろうか。
「ああ、話したことがないとそうかもね。ちょっと取っつき難いところありそうだけど、話すとかわいい人だよ」
オレの訝る表情からすべてを察したのか、こよみはすかさずフォローを入れてきた。
「――で? 会いに行くのかい?」
半信半疑になりつつも、オレは彼女の正体という誘惑に負け、こくんとうなずいた。
***
三階の隅にある、人々の記憶から忘れ去られたような空き教室。
傾いた日が窓から差しこみ、その中で佇む少女を薄くオレンジに染めていた。
艶やかな黒髪、絹のように白い肌、人形のように美しい彼女が、オレを見つける。
二つの宝石がオレを見つめると放課後の喧噪は噓のように静まり、自分というものが校舎から切り取られたかのように、外界からの情報が遮断されていく。この世界にはオレと、この人形のように美しい少女しかいない。そんな錯覚にとらわれるくらい、彼女には存在感があった。
「お久しぶりです、時雨君――」
温かい言葉。全ての氷を溶かしてしまうくらい温かな、彼女の微笑み。ひどく懐かしい感傷が、オレを揺さぶる。
違う……、この人の物腰と温かさは、絶対に彼女とは違う……。それにどうしてこの人は、オレの名前を知っているんだ?
「ふふ、知っていますよ。あなたの名前は……昔から」
一歩踏み出すたびに、彼女の黒髪が躍るように撥ねる。そっとオレの手を取る彼女。腕はとても温かく、そして柔らかかった。
オレは、彼女の腕を払った。とっさの出来事に彼女は面食らい、瞳孔が窄まる。
「いくら払ったっ!?」
「え……?」
「毎月、いくら払っているのかと聞いているっ!!」
「え? ふぇ? い、いくらって……な、何の話ですか……?」
「根暗女のオマエに、友達などできるわけがない。お友達料を払ってるんだろっ!! 金で買った友情はまだ許すが、それを見せびらかして歩くなんて……。人として間違ってるぞっ!!」
ぽかーんという擬音が頭の上に浮かぶくらい、彼女はあっけにとられていた。
「何故だ、何故ここまでコケにされて、オレを蹴らない?」
「い、言ってる意味がわからないんです。私がどうして、お友達をお金で買ったり、時雨君を蹴らないといけないんでしょうか……?」
「かわいい生徒会長に蹴られたいのは、ただの性癖だ。蹴られたり踏まれたりは後で絶対にしてもらいたいが、今はどうだっていい。一番の問題は、アンタがいったいだれなのかってことだ。絶対に、この前あったときと違う。猫を被ってるとか、そういうレベルじゃないんだ。もっと根本的に、アンタは――」
彼女は人差し指をオレの唇に押し当て、口を塞ぐ。
真っすぐな瞳が彼女の芯の強さを表してるように思えて、オレは口を縫いつけられたように、何も言えなくなってしまう。
「試したんですね、私の冷たい部分が表に出るかどうか。ふふ、時雨君。あなたは期待通りの人です。私が思っていた通りに、ね♪」
柔らかく微笑む彼女。その温かさは、まるで別人のものだった。
「私の名前は千夜って言うんですよ。ちゃんと覚えていてくださいね」
千夜と名乗る少女はご丁寧に、黒板にチョークで自分の名前を書く。数字の千に、昼夜の夜。名字は鷹白と言うらしかった。
先日の彼女とのギャップがある。こんなに物腰が低くて、そして、優しかっただろうか。彼女の周囲に漂う温かさは五月の空気に触れると、甘い香りを残して飛散していった。それはオレが彼女に抱いていたイメージもろとも、細かく砕けた。
***
「どうだった? かわいい人だったでしょ?」
空き教室からオレが出てくるのを見つけると、こよみが廊下の隅から駆け寄ってきた。話が終わるまで待っていたのか、コイツ。生徒会長がとてもかわいかったことに関しては、異論はなかった。それだけははっきりしたのだが。
「この前までオレと会話してたのは、だれだったんだろうなぁ」
打ちひしがれたオレは、生徒会室として使われている空き部屋を振り返る。まだ中に、生徒会長が残っているはずだった。結局あの人の気迫に負けて、名前しか聞き出せなかったが。
「平気で人の顔面に唾吐きかけてきそうな、あの性格悪そうな感じが良かったのに、これじゃ……これじゃ……」
こよみはかわいそうな人を見る目で、オレを眺めていた。
「上級生で長い黒髪の人って、生徒会長さんしかいないよ? 時雨と会うときはたまたまお酒でも飲んでたんじゃないの?」
「キッチンドランカーじゃないんだから、こよみ。ますますあの人の性格が、わからなくなってくるじゃないか。確かに、やたらとストレス溜めこみそうな人だったけどさ」
「ああ、ごめんごめん。ストレス解消ならタバコだよねっ!!」
「学校来れなくなるぞ。生徒会長なのに……」
「てゆーかさ、時雨。向こうは時雨の名前知ってたよ。仮に人違いだったとしても、会ったことないって言うなんて、失礼だよ」
「そうか、人違いってこともあるのか。オレあの人に、いつもの電波女ですか? って聞いてないし」
「人違いだなんてそんなこと、絶対ないと思うけどね」
冷ややかに、こよみの視線が刺さる。
「いやほら、この世には同じ姿の人間が三人くらいいるって――」
言いかけたとき、オレは後ろから襟首を摑まれて強烈な力で引っ張られていくのを感じた。こよみの後ろ姿が、とんでもないスピードで前方へと流れていく。
気がつくとオレは、生徒会室に立っていた。目の前には黒く長い髪と、赤い瞳を持つ電波女がオレを見つめている。冷たい表情、射るような視線、間違いなくヤツだった。
「あら、偶然……。こんなところで会うなんてね」
今しがた形容し難い方法で拉致られたのは、偶然だったらしい。
「偶然なわけねーだろ。さっき話が終わったはずなのに、どうしてまた生徒会室に連れてこられてるんだよ」
「口が減らないわね、あなた。せっかく廊下の端で見つけたから、退屈しのぎに話でもしてあげようかと思ったのに」
……なんだ? その言いかたに、オレは少し引っかかりを覚える。とりあえず先刻きちんと確認できなかったことを、聞き出してみる必要があった。
「なあ、千夜先輩。あなたはいつもオレと会ってた人と、同じなんだよな?」
その瞬間、彼女の顔は怪訝なものへと豹変した。
「ちょっと待ちなさいよっ。今何て言ったの?」
「いつもと同じ先輩なのかって意味だが」
「違うっ!! その前っ!!」
「千夜先輩……? 名前、そうなんだろ?」
ふるふると肩が震え、彼女の顔は怪訝から鬼へと怒濤の変化をとげる。
「何であんたが知ってるのよ私の名前っ、ありえないわっ!!」
やはり先ほどの生徒会長とこの人とは、違う人物なんじゃないだろうか? 本当に、そう思えてならない。
「ココで生徒会長って人が教えて……くれたんだが……」
彼女の剣幕に押されていた。名前を知っているのが理解できない、そういう素振りを見せながら、彼女は長い髪を払うと、こう言った。
「生徒会長は、私よ。まあ、任期は少し前に切れたけどね」
ほんの数分前の出来事を忘れてしまうような人物には、見えなかった。今時珍しい黒髪のストレート、そんな目立つ外見の人間が二人もいるとは思えない。
「オレの名前って、わかるか?」
本当に生徒会長ならば、オレの名を知っているはずだ。何故なら、向こうから時雨と言い当ててきたのだから。
オレの質問が耳に届くと、千夜先輩は表情を硬くする。
「あなたの名前? そんなの、知るわけ無いでしょ」
知らないって、何だよ……。全くもってよくわからない展開に、閉口するしかなかった。いったい全体、この人は何がしたいのだろうか。
「何だよ、さっきは聞かれても無いのに当ててきたじゃないか、オレの名前」
「さっき……?」
「そうだよ、オレの目の前にいたじゃないか。忘れたのか?」
先輩は腕組みをして少し考えこんだ後、制服の胸ポケットをちらりと眺めた。とたんに皺の寄った眉間は緩み、くすっとした微笑みが漏れる。彼女はいったい、何を確認したのだろうか?
「ごめんなさい、少し取り乱したわ。そう、私の名前は、千夜よ」
「何なんだよ先輩、本当に生徒会長なのか? 別人だったりしないよな? 性格さっきと全然違うぞ?」
「ふふ、そう思う? それじゃあ、その人はきっと――」
不敵な笑みをたたえながら、先輩の真紅の瞳が揺らめく。ゆっくりと落ちていく日が、深く深く教室を紅に染めていった。
「ドッペルゲンガーってヤツかもね」
ゾクリと、背筋が震えるような冷たい声だった。彼女の言葉が、理解できなかった。この人は本当に、理解できない人だ。
「それとも私が――。その人のドッペルゲンガーなのかも」
「ドッペルゲンガー?」
「ドッペルゲンガーとは分身、もう一人の自分という意味よ。本人が自分のドッペルを見た場合、近いうちに死んでしまうという迷信が……」
「――オレが聞きたいのはそういうことじゃないっ!!」
彼女の言葉を、オレは強く遮った。そして、自分の内側にあるこの制御できない感情に、戸惑っていた。
「冗談、ごめんなさい。からかってみただけよ……時雨君」
急にしおらしくなった先輩が、心細そうに呟く。この人はオレの名前をやっぱり、知っていたのか?
「本当に、ごめんなさい。そんなつもりじゃ、無かったんだけど」
ぽん、と先輩の手のひらが頭をなでた。温かい指先。このぬくもりは、先ほどの生徒会長と全く同じものだった。
「次からは特別に、先輩と呼ぶのを許してあげるわ。私を名前で呼んだら――コロスからね」
ぱっといつもの気迫を取り戻した彼女が、語気を強める。ほんの一瞬だけど、先輩の優しい部分に触れられたような気がして、オレは不思議な気持ちに包まれる。一応、親しくなったのだろうか?
「ああ、わかったぜ。千夜先ぱ――」
言いかけた途中、人差し指で唇を塞がれる。少しでも力を強めれば、口を覆う筋肉を爪で切り裂くくらいの躊躇のなさだった。
「名前の部分、いらないから」
声が殺気立ち、髪が逆立つ。よっぽど名前で呼ばれるのが嫌なのだろう。
「……先輩?」
「ふふ、そう、素直でよろしい」
彼女は少し寂しげに微笑むと、優しくオレの頭をなでた。その笑顔はとても冷たくて、オレはやはりこの人たちが同一人物だとは、思えなかった。
***
冷たい風がざわついていた。すっかり日の落ちた住宅街には街灯すらなく、オレは真っ暗な夜道を早足で帰っている。
風が吹き抜けるたびに木々は呻くように葉を震わせ、凍えるような寒さが頰をなでた。
「雨が降ってるわけじゃ無いのに、今日はやけに冷えるな……」
そんな小さな独り言さえ、冷たい風は無遠慮にかき消していく。夜空を見あげると、どんよりとした厚い雲に覆われ、余計に気分が滅入った。
この道は、あまりなじみがない。少し足を延ばしてふだんは行かないような大型書店に寄り、それからスマートフォンに表示された地図を頼りに駅へ向かっていた。
大きめのマンションの角を曲がると、長く続いた暗闇の先に明かりが見えた。オレは吸い寄せられるように、その光に向かって歩いて行く。
冷たい風はまだ吹き続けていて、街路樹を揺らし、葉を落とす。
星一つない闇に包まれた世界。その視界の中心に、四つの街灯に照らされた公園が見えた。
中心には、少女がたたずんでいる。冷たい色の街灯に照らし出され、彼女の影は長い十字を描いていた。
「…………?」
公園の前にたどり着くと同時に、風はぴたりとやんだ。浮かんだ木の葉が空中で動きを止め、舞い落ちる。それは緑のカーテンみたいで、なぜだか彼女をとても儚く映した。
俯いたまま地面を見つめ、無表情に立ち尽くしている彼女。クセの多い髪は首もとまでのショートカットで、左右に撥ねた毛先が犬の耳を想像させる。
幼い顔立ち、彼女の身体は憂姫と同じくらい小さく、可憐だった。身につけた制服は自分の通う高校の女生徒のもので、その特徴的な髪型から……彼女には見覚えがあるような気がした。
だけど、名前までは出てこない。
じっと顔を見つめるオレの視線に気づいたのか、彼女は俯いたまま唇を開く。
「……帰って…………」
弱々しい、拒否の言葉。オレは気にせず、公園の中へと足を進める。青白く輝く街灯の下、その輪の中へ足を踏み入れると、細長い影が広がった。
「知り合いかと思った。髪の長さも身長も全然違うけど、地面を見つめる表情が似てた」
「……人違い? なら、さっさと帰りなよ」
無機質だった。人形の口が開いて、機械的に出てきたような言葉。内にこもる感情を意図的に隠しているみたいで、そこが少し……千夜先輩に似ていた。
「帰ってもいいぜ。でも、何見てたのか教えてくれたらな」
「君には……関係ないよ……」
再び落ちる視線。少女が見つめているのは公園の中央の、何もない地面だった。点々と枯れ草が広がるだけの、灰色で、乾燥した砂の塊。踏みしめるとじゃりっと音を立てて、靴底の跡が残った。
「―そこは踏まないでッッッ!!!!」
俯いたままの彼女が、一瞬で豹変する。感情に任せて叫び、髪の毛を逆立てた。
「すまん……なんか……わかんねーけど」
背の小さい少女と距離を置くと、ようやく彼女は肩の力を緩めて、こちらに向きなおる。
「君のこと知ってるよ。こよみの幼なじみの、時雨君でしょ?」
……どこかで見覚えがあると思った理由は、こよみだったようだ。この少女は度々、こよみを訪ねて教室までやって来ていた気がする。それが確か一年のときのことで、二年になった今ではめっきり見かけなくなっていた。
オレは彼女にかける言葉も見当たらず、こくんと、首だけを動かした。ふっと表情が和らぎ、彼女は寂しく微笑んだ。
「ここで何をしてるか――って? 自分の行いが正しかったかどうかの、確認だよ」
彼女はしゃがみこみ、慈しむように地面をなでた。彼女の影で覆われた手の中で、砂粒の山がさらさらと崩れる。
「……ただ、だれかの望んだ自分を演じ続けてたんだ…………。そうしたら何だか、私というものが壊れて、なくなってた……。もうすこし、自分というものを強く持っていれば良かったと思うよ。まあ……今更そんなこと言ったって、どうなるって……わけじゃないんだけどね…………」
さらさら、さらさら――。指と指の間から、砂粒がこぼれる。
「夜は好きなんだ。こんな自分でも許してくれるみたいで。昼なんて、なくなっちゃえばいいのに――。でも、そんなことしか考えられない自分は、悲しいヤツなのかもね……」
「――そうか。話してくれて、ありがとうな」
「私は、君の質問に対して何にも答えてないよ。でもそれだけで―は―そう、私のこと、感じとったんだね。―が―なったのも、わかる気がする」
揺らいだ空気が葉と砂を巻き上げて、彼女の言葉を奪った。小さい声は風に遮られ、ところどころ聞きとれない。
オレは彼女の真横に立ち、そのまま一緒に地面を眺めていた。お互いに無言だった。横にしゃがみこむ少女は唇を嚙みしめ、何もない地面に顔を向けている。ざりざりと砂に指を食いこませ、地面に爪の跡をつけた。オレからの視線を逃れるように俯いた彼女の顔は、髪で隠され、どんな表情かはわからない。
オレは彼女に背中を向け、暗闇に向かって話しかけた。
「まあ、何かに悩んでいるのはわかるよ。それも、結構重要な悩み。嫌なヤツがいるなり、環境が許せないならさ……そんなのと口利く必要ないだろ、虚勢張って留まることもないだろ。少なくとも、オレならそうするぞ。追い詰められるくらいなら、逃げ出すな」
「逃げるなんてできないよ、弱みなんか――見せたくないよ――。自分が嫌なヤツになるのは……許せないから…………。でもそうしたら、もっと自分が追い詰められてた」
「そうか……」
「全然わかってなんていない癖に、わかったような顔をするんだね。時雨君なんて…………嫌い…………」
弱々しく、彼女は立ち上がる。その指先から砂が舞い落ち、足と靴を灰色に染めた。
「時雨君……。君のその優しさが、苦痛に歪むのを願っているよ―」
言い終わると彼女は歩き出し、ぽっかりと口を開けた闇の中に溶けていく。その小さくなっていく背中に影が重なり、彼女の髪が長く伸びた気がした。
「つくづく、あの人に似てるよな……アイツ……」
彼女の背中に黒髪のあの人を見た気がして、オレは不思議な懐かしさに包まれた。そう似ているんだ、何かを憎んでいるところとか……。氷で包まれた彼女の内側を見られた気がして、オレは顔を綻ばすと、駅に向かって歩き始める。夜はその影を一段と濃くしていて、踏み出した足から色素が抜けていくような気がした。