NOeSIS 嘘を吐いた記憶の物語
千夜の章(前編)2
cutlass Illustration/cutlass・たぬきまくら
我々の後継者はスマホの中にいました———田中ロミオ 累計50万ダウンロード突破のスマートフォンノベルゲームcutlass自ら完全改稿のうえ待望の書籍化。
五月のあたたかい風が、少しだけ開いた窓の隙間から流れてくる。
オレは教科書の全く入っていないカバンを肩にかけ、朝日のさしこむ階段を駆け下りた。
オレの名前は鹿倉時雨。現在高校二年生、両親は長期出張中で不在、家族は下に憂姫という妹が一人、犬や猫はいない。
幼なじみのこよみがこうして毎朝起こしに来てくれなかったら、きっと寂しい家庭だっただろう。
自室のある二階から階段を下り、リビングへ抜ける。
庭に面したひろい窓からは陽光が注ぎ、こぽこぽと沸き立つコーヒーメーカーの湯気がその光を拡散させ、少しだけ幻想的な空間を作っていた。
つけっぱなしになったテレビは朝のニュースを流し、この付近で頻発している連続通り魔事件の報を淡々と読みあげている。犯人はまだ、捕まっていないそうだ。
リビングとつながったキッチンではこよみがお弁当を詰めており、身振りでさっさと朝食をとれと指示を出してきた。
毎日毎日延々と続く、朝の日常の一コマだった。
「あ、おはよう、お兄ちゃん」
入り口横のソファーから、弱々しい声が聞こえてくる。
青く長い髪を頭の上で二つに束ねた、妹の憂姫だった。貧血持ちのせいか、その肌は病的なほど白い。
「おう、おはよう。本の虫」
恐ろしく発育の悪い身体の上にちょこんと載った頭、そこに手を載せてぐりぐりとなでた。
とたんにむっとした表情を浮かべ、抗議の視線を向ける。
「そ、そんなに言うほど読んでないもんっ。ペリー・ローダンだって全巻読んでるわけじゃないし、本棚が重さでたわむくらいぎっしり女の子の漫画詰めてるお兄ちゃんのほうが、読書家だもんっ」
「はいはい、あんまり怒ると牛乳がこぼれるぞ」
「あぅ……っ。わ、わたしが飲んでるのはココアだもん、牛乳じゃないもん」
少し興奮したせいか、右手に持った牛柄のマグカップが傾く。素早く支えると、憂姫は慌てて分厚いハードカバーの哲学書をパタンと閉じた。
あらわれた表紙には小難しいタイトルがならび、著者はヤカンみたいな変な名前だった。
「わたしはもう朝食済ませたから、行くね。それじゃあお兄ちゃん、あんまりこよみを待たせないようにね」
ココアを飲み干すと、憂姫は立ちあがり廊下へと消えた。
直後、背後に気配を感じて振りかえると、そこにはお弁当を作り終えたこよみが腕組みをして立っていた。
「はい、ぼーっとしてないで、ココに座る、そして食べる!!」
強引にテーブルに着かされ、強引に口を開けられ、次々と食べ物が突っこまれる。
「ふざけんなコラ、メシぐらい自分で――わぷ――っ」
「だって時雨食べるの遅いんだもん、大丈夫大丈夫、私が食べさせてあげるから」
皿ごと口に押しこまれかけながら、朝食が詰めこまれるだけ詰めこまれると、ぬるくなったコーヒーで胃に流しこまれる。
「うっえええ……、食べた気がしねぇ……」
「はやく起きない、時雨が悪い。ほら立って、学校行こっ♪」
彼女は明るく笑いながら立ちあがると、オレの腕を引っ張った。
***
ガタンゴトンと電車が揺れる。
時刻は朝の八時ちょうど。この時間に乗れなければ遅刻確定の、常にギリギリを目指す学生たちに愛される電車、それにオレたちは揺られていた。
窓の外には中途半端な都下の街並みが流れている。進めば進むほど家やマンションは減っていって、空き地や畑ばかりがいやに目につく。ここを東京都と言っても、だれからも信じてもらえないだろう。
ラッシュのピーク時間から三十分ほどずれた車内は人もまばらで、乗っているのは近隣にある大学や音大の学生たちばかりだった。
制服を着ているのはオレとこよみだけ、座れはしないが酸欠するほど混んでもいないという、とても快適な空間だ。遅刻寸前だからだけど。
「よっし、今日もあの絶望的な時間からここまで立てなおしたぞっ。本当優秀だねっ♪ 特に私」
電車を降りて駅前のロータリーを抜けると、さわやかな青空がオレたちを出迎えた。
等間隔に並んだモノレールの支柱に沿って、大通りが続いている。
用水路にかかった橋をわたり、新緑に彩られた木々の隙間から漏れた光の上を歩いていく。
何とかギリギリの電車に潜りこめたため、こよみはうれしそうな顔をしていた。目の前で閉まったドアを、コイツは尋常じゃない力でこじ開けて乗りこんだのだが……。
「そういやさ、こよみ。最近オレとおなじ時間に家出るけど……、部活の朝練とかもうないのか?」
快活なこよみは超スポーツ少女なので、毎朝所属する女子バスケットボール部の朝練に出ていた。
そのため、いつもはオレの朝食を作ると、さっさと家を後にしていたのだ。遅刻常連というか、学校に行くこと自体が面倒くさく、定時に家を出ても山手線二周してから学校に向かうというダメ人間ライフからオレが抜け出せたのは、こよみの朝練が消滅したおかげだった。
「あー……、女バスはね……いま、ちょっとね」
急に表情を曇らすこよみ。
栗色に染められた髪を、ぐるぐると人差し指で絡める。こよみの、困ったときの仕草だった。
女バスの一件に触れると彼女はこのところ急に暗くなる。
こよみは明るい性格のため、少し顔を伏せるだけでその陰は大きく地面に広がる。
「何だ、その。おかげで朝はちゃんと起きられるようになったし、少し感謝はしてる。少しな」
何だか触れてはいけない空気が漂っていたので、オレはその話題を遠ざけた。
「ああ、うんうんっ!! そうだよそうだよ、時雨には私がついていてあげないといけないんだからっ!! 時雨はさー、毎日深夜アニメばっか見てるから、朝も起きてこないし……。女の子ばっかりのアニメ見るの卒業しなよ、モテなくなるよ?」
少し励ましたらこの女、アニメを卒業しろだと?
死刑宣告に等しい通告を、オレは手のひらを振って拒絶した。
「いいよ、別にモテなくったってよ。アニメ見ててもこよみは起こしに来てくれるわけだし」
「わ……私は――。時雨の幼なじみだし、ご両親から頼まれてるから――だから――そ、その……」
聞き取れないくらい小さな声。
暗くなったり、赤くなったり、何に慌てているんだろう? オレが不思議そうに顔を覗きこんでいると、こよみは両手を振りまわしてオレを遠ざける。
「みっ、見ないでよ顔――っ!! し、時雨の前にこれから素敵な人が現れるかもしれないんだよ――っ!?」
「いやだから、三次元には興味がねーってあれほど言ってるじゃないか」
「そういう問題じゃないのっ、これから先時雨の前に素敵な人が現れても、時雨がそんなんじゃ嫌われちゃうのっ!! それじゃダメなのっ!!」
こよみはさっきからカバンで顔を隠しているので、コイツが何を言わんとしているのかはわからなかった。素敵な人ねぇ……。
「あーはいはい、漫画じゃねーんだしそんな絵に描いたような出会いなんてな――」
言いかけたところで、脳裏に昨日の出来事がフラッシュバックする。
夕焼けの赤に染まった、髪の長い不思議な少女が映る。
いや……あれは断じて素敵な人ではない。
喩えるなら死神にちかい……何かだろうか。
オレが顎に手を当てて考えこんでいると、びっくりしたようにこよみが立ちどまる。
「え……? どうして、どうして時雨はそこで考えこむの……?」
「オレ、なんかまずいこと言ったか……?」
「ううん、全然そんなことないよっ♪」
瞬きする間にこよみを取りかこむ鋭く尖った気配は失せ、ニコニコとした表情に戻っていた。
こよみは小走りでオレに追いつくと、軽く背中を叩く。
「で、どなた?」
「どなたって、何が?」
「いま時雨の頭の中に浮かんだのは、どなた?」
「ああ、幽霊とか死神のたぐいのものが、頭に浮かんだ」
「……はい?」
「だから、幽霊っぽい何かっていうか――」
「良い天気だよねーっ!!」
こよみはまぶしく輝く太陽を見つめながら、目を細めた。
「期待して損した……」
今日はやたらと浮き沈みの激しいこよみの相手をしていると、いつの間にか高校の前に広がる桜並木を歩いていた。
「―?」
校門を抜けると視界の端に、何かが止まる。
「どうしたの? さっきから変だよ、時雨」
「いや、何でもない」
「――あ」
オレの視線を追って、こよみも声を上げる。
「……行くか」
「う……うん。そうだね」
そう言えば、今日はそういう日だったな。お互いに、今見たものを頭から振り払う。
それからこよみと当たり障りのない会話をしながら、教室へ向かった。会話は、弾まなかった。
『私はね、ここから飛び降りるつもりだったの』
彼女の言葉が、脳裏に浮かぶ。
いや、まさか……そんな……。
オレは右手で高鳴る心臓を押さえつける。努めて、花壇に横たわる黒髪の少女の姿は、考えないようにしていた……。
最初に耳にしたとき、それはウワサだった。一週間に一人、人が死ぬというウワサ。
やがてそのウワサは意思を持ち、動き始めた。
今朝視界にはいった、花壇の上に敷かれたビニールシート。きっとあの場所でだれかが死んだのを、覆い隠すためのものだろう。
さして珍しくもない光景、そうオレたちの中で処理されるくらい、この連続自殺事件は続いていた。
しかし……今日のあの場所は……。
花壇のふちのブロックを中心に、ビニールシートが敷かれていた。普通に考えれば、屋上からだれかが飛び降りたとしか考えられない。
嫌な胸騒ぎが続き、午前の授業はとても長く感じられた。
ヒソヒソと、内緒話が聞こえる。
「……また水曜日……」
「……五人目……」
聞き取れたのは、それだけだった。
***
昼休みに職員室に呼び出されると、オレは昨日の説明をもとめられた。やはりと言うか、昨日の夕方から夜間にかけて、屋上からだれかが飛び降りたらしい。
教師から事情を聞かれたさい、あの電波女のことをどう説明しようか迷ったのだが……。不思議なことに、深くは問いただされなかった。
何でも昨日オレのタンク点検を手伝ったという、心の優しい上級生がいたらしいのだ。
ヤツか……。
結局、無事だったようで内心ほっとする。
「これで……五件目」
ぽつりと教師が漏らす。
恐らく連続自殺事件の件数のことだろう。多い多いとウワサは聞いていたが、具体的な数字を直接聞いたのは初めてだった。
この事件に関しては他言無用との念押しをされ、オレは軽くおじぎをして職員室をあとにした。
「お待ちしておりやしたぜ若頭っ!! お勤めご苦労様でしたっ!!」
十五年の服役を勤めたあとオレは、ついに放免となった。
オレのもとにかけよるこよみが口上を述べ、その労をねぎらう。
「うめぇ……。シャバの空気が……うめぇなぁ――って、させんなよっ!!」
無事に職員室から釈放されたオレを、任俠スタイルで祝福してくれるこよみに、つられるオレ。
「私だって、心配してたんだよ。……で、呼び出しの内容は何だったの?」
「ん? ああ、内容は――」
こよみに目配せをして、そっと耳打ちする。話題が話題だけに、周囲には聞こえないようにする必要があった。
「なるほどなるほど、時雨は昨日の掃除当番だもんね。何か見たの?」
「いや、何も。ただ変な電波女がいただけだ」
「ふーん、そっか。あたたかくなるとそういう人増えるもんね……って、電波女って何? てゆーか見たんじゃん、時雨」
「いやだから違うって、落ちたのはその人じゃないんだって!!」
その人がかばってくれたおかげで、あらぬ誤解を避けられたことを説明する。誤解とは、そう……。
オレが人を突き落としたのではないか、という疑いだ。
「ずっと続いてるからね、自殺ばっか……。殺人かもって、疑う人がいてもおかしくないよ」
「よくわからないんだけどさ、連続自殺っていつからはじまったんだ?」
この自殺事件は、謎が多いものだった。
学校側が自殺の事実を認めていない上に、警察からの発表が何もないからだ。
あることないことウワサが飛びかい、国家権力によって情報は覆い隠されている、だとか、果ては宇宙人が人体実験に使ったらしいと流言飛語だけはやたらおおいのに、信憑性のありそうな話は皆無だった。
「え、時雨っ、この事件を調べると死んじゃうんだよ。やめようよ、そんな恐ろしいこと」
そして目の前に、あることないことのウワサを正直に信じるもの一名。この連続自殺はこのまま、よくわからない事件として闇に葬られてしまう。そう強く感じてしまう。
「みんな面倒なことには巻き込まれたくないんだよ。人の生き死にに関わることなら、なおさら。それに進学校だからね、変なウワサが流れたりすると、学校全体の評判にも関わるし……。だから深く詮索するなって、先生にも言われてるんだ」
「五人目だって、聞いたんだ。それが本当なら、五週間前から事件は続いている、そうだろ?」
決まって同じ曜日に一人死に、それが五人目なのだから、単純計算でそうなるはずだった。
「……違うよ」
……ん? こよみの口から理解不能な言葉が漏れたぞ。
「違うのか?」
「うん……、私が知ってる限りだと、四週間かな」
「それだと計算があわねーだろ」
「いいよそんなの、あわなくたって」
何かこよみは、知っているようだった。ウワサでしか情報が入ってこないのだから、交友関係の広いこよみがオレより詳しいのは、当たり前なのだが……。
それにしても、怖がりすぎなのでは? そう、オレは考えてしまう。
「やめようよ、この話。だってさ――」
こよみはひときわ声を小さくし、続ける。
「まだ、自殺って決まったわけじゃないんだよ」
そうこよみは、またまた引っかかる言葉を吐いた。
彼女の瞳の奥に、不安や戸惑いが覗く。それはどす黒くて、濁った感情だった。
***
日が落ちるのは早かった。
昇降口を抜けると、あたりは黒とオレンジの混ざったそわそわする色で染まっていた。
太陽が沈む直前の、寂しくなる気持ちが混ざる色だ。少しはなれた校庭から運動部のかけ声が聞こえてくるが、校門へと続く道は寂しく、人通りもまばらだった。
「…………?」
視界の隅に、意外な光景が映る。
長い黒髪が特徴的な彼女が、ビニールシートに覆われた花壇に花を供えていたのだ。
「そういうキャラじゃ、ないだろう?」
しゃがみ込んだまま彼女は瞳だけをこちらに一瞬向けると、何ごともなかったように正面を見つめなおす。
「そういうキャラよ」
「…………」
「…………」
そのままお互いに無言で、時間だけが過ぎ去っていく。
「まだ立ちどまっているというのなら、何か私に用があるのでしょう?」
沈む日によって、彼女の髪はオレンジ色に染まっていた。
「人の意思を読んだりとか、アンタは何がしたいんだ? パロールっていうんだろ……そういうの」
くすりと、彼女の唇の端が持ちあがる。
「パロール……ね。昨日帰った後、調べたか……人に聞いたかしたんでしょう、私のこと。でもダメよ、そういうの。知識だけじゃあダメなの、共感する心を持たないとね」
「随分難しいことを言うな。自殺志願者に共感しろだと?」
「そう、人の心に共感するの。大事よ……そういうことは、すごくね」
「共感なんてできない、それにオレが聞きたいのは、そういうことじゃない。何で昨日ここで飛び降りようとしていたんだ?」
彼女はゆっくりと立ちあがる。じっとオレを見つめると、唇を開いた。
「あなたの聞きたいことは、そんなことではないのでしょう? 昨日の夜、この場所でだれかが飛び降りた。……どうして、私たちが帰ったのを見計らったように飛び降りたのか、それを聞きたいのでしょう?」
そのとおりだった。そして、その言葉を彼女に言わせてしまったのを、少し後悔した。
「私はね、あなたの考えていることがわかってしまうの。私は飛び降りなかった……でもこの人は飛び降りてしまった。だから、死んでしまったの。ほんの少しの違い、それだけで人はこの世から消えてしまう。パロール……難しい横文字を出せば、人を理解できると思ったら大まちがいよ。だって、パロールには声という意味しかないんですもの。人が一つの言葉を発するとき、言葉に加えて顔の表情や身振りを幾重にも重ねている。まるで暗号のように複雑な情報を、相手に伝えているの。言葉だけでは伝えることができない、言葉の持つ真の意味、それがパロール。言葉一つですべてが伝わり、理解できると言うのなら……噓なんて存在できないからね。みんなそう、生まれたときから知っているのよ、そんなことは」
夕日は落ちていく。
彼女の唇が言葉を刻むたびに、長い黒髪を染めるオレンジの艶が徐々に徐々にと、地面に引き寄せられていく。
「あなたは今日、この花壇の前で立ち止まった。以前のあなただったら、どうだったかしら……。ちゃんと、この花壇の前で立ち止まった?」
何を、この人が何を言いたいのか……オレにはわからなかった。
「オレが立ち止まったのはアンタがそこにいたからだ。てっきりあのあと、死んだのかと思ってたから」
「ふふ、そう。もしかしたら、私はもう死んでいるかもしれないわ。そして、見えているのはあなたにだけ――。もしそうだとしたら、あなたはどうするの?」
「幽霊だとか笑わせんな。しゃがんでいる上にガード甘いからパンツ見えたぞ、水色のパンツ穿いた幽霊がこの世にいてたまる――ぐおふっ!?」
言いかけたところで、脇腹にもろに蹴りを食らう。
彼女はどうやら幽霊じゃなかったらしい。パンツ見られて恥ずかしがっている幽霊がいたら、それはそれで萌えだが。
「パンツパンツってあのねぇっ、あなたは一日の大半パンツのことしか考えてないわけっ!?」
「ふざけんな大半じゃねぇ、二十四時間年中無休で頭の中パンツ一色だ。夢の中でも考えてるからな」
「こっちは……真剣に話をしてるのよ……っ」
「なーにが幽霊だ、アンタ高三だろ? そういう私って実は……系の妄想膨らませていいのは中二までだ。そこまでは魅力的だからな」
「ふっ、ふんっ、私は幽霊よ。だから死者の声が聞こえるの。あなたからはそれも、ふざけてるように見えるのでしょうけどね」
悪趣味だと思った。
飛び降り自殺のおこった現場で、死者の声を聞く少女。
昨日はオレの心を読まれた。噓を吐いているようには思えない。
「噓だと、思うわけ?」
彼女がオレの瞳を覗きこむ。
冷たい腕で胸の内がわをまさぐられるような、不気味な感覚がオレを襲った。
「そう……。家では妹さんと、二人暮らしなのね……。ご両親の心情を察するに、勘当されて当然だと思うわ」
「ちょっと待て、海外赴任だ、決して家だけのこされて勘当されたわけじゃない。てゆーか人の心読むなよ」
「なら、もういいでしょ。私のことは、ほうっておいてほしいと言っているのよ」
「ふざけんな、だれがほうっておけるか。こんな不吉な場所で花束供えてて、かまってくれって言ってるようなもんだろ」
「私は、感情の痕跡を追っているの。この場所で死んだ人間の記憶を辿って、探しものを見つけたい――それだけ」
「昨日も、そんなこと言ってたよな」
昨日の屋上でのことを思い出す。いったい、あのあとだれが飛び降りたと言うのだろうか?
「きっと見られていたのでしょうね。夜中まで待っているつもりだったけど、ふと疑問に思ってしまったの。飛び降りるなら、この場所じゃなくてもいいんじゃないかって。結局見つけられずじまいで夜が明けたら、すべてが終わっていたの。この人は、私が殺したようなものだわ……。だから今日、話をしにきたの」
暗いヤツだと思った。発想すべてが暗い。
「もう遺体だってかたづけられてる。どうやって話なんかするつもりなんだ?」
「少し難しいわね……だから、今日は残念な気分よ。でも、どうしてあなたはこの場所で人が死んだとわかったの?」
「そりゃ……屋上から飛び降りれる範囲にビニールシートがしかれてたら、普通そう思うだろ」
「あなたはこの場所で、人が死ぬかもしれないことを知ってしまった。知ってしまったのならばもう、無関係でいられない。あなたは受けとったのよ。この花壇に飛び降りて死んだ人間の、パロール……いえ、死者の意思を……。だからこの場所に吸い寄せられた……、何も知らなければ素どおりしていたでしょうにね。例えば、毎日通る道路や交差点にある日花束が供えられていたら、凝視し、ここで人が死んだんだと嫌悪してしまうでしょう。花束、それがパロールというものよ。人はね、自分に向けられた意識に、吸い寄せられてしまうの。吸い寄せられた……とは、只のやじ馬とは違う、もっと深い意味を持つわ。あなたの生存本能……そういうものに、共鳴したはずよ」
「オレは、死んだ人間の声なんか聞こえない」
「ふふ、そう、それは良かった」
彼女の顔が少し……ほんの少しだけほころぶ。
「死者の声はね、聞こえないほうがいいの。聞こえてしまったら、もう無関係でいられなくなる。あなたも余計なことに、巻き込まれたくないでしょう? 私はね、そういう余計なノイズが聞こえてしまうタイプの人間なの。この場所からは、救いをもとめる声が聞こえるわ。でも、私にはどうすることもできない。できることと言えば、死んだ人間を慰めることくらい……ふふ、無力なものね」
「だから、花を供えたのか?」
「半分はね、それに礼儀もあるのよ。この人は……私が殺したようなものだもの。一週間に一人、人が死ぬ。聞いたことくらいは、あるでしょう?」
――そんなウワサ――。
冷たく、彼女の口もとが躍る。
「生きるというのは、死ぬ順番待ちの列に並ぶこと。死というのは平等よ、あなたにもかならず、そのときが訪れる」
彼女の顔を見つめていると、ぞくっとした寒気が背中をつたった。まるで氷で背中をなでられたみたいだった。
「自殺事件のこと、教えてほしい」
「関わったら死ぬわ、それでも? 私は自滅を願っているけど、あなたはそうじゃないのでしょう?」
一歩オレに近づく彼女。黒髪がさらさらと肩口を流れ、その深紅の瞳がオレを見つめる。つぅ――と、持ちあがる唇。彼女がオレの眼を覗きこむたびに、胸のうちを素手で触られるような感覚が食い入ってくる。
「そう……。幼なじみの子から警告を受けたのね。ならあなたは、関わらないほうがいいわ」
彼女は立ちあがり、オレの頰を右手でなでる。温かいその皮膚の感触が消える前に、いつの間にかあたりを染めた闇の中へと消えてしまった。
彼女が立ち去ったあと、オレはただぼんやりと、日の沈んだ花壇を眺めつづけていた。
本当に、あの女は何なんだろうか。彼女の存在自体が、死を呼びよせている、そんな気がした。
結局彼女のこと、何一つ聞けないままだった。そう、名前さえも……。
「もしかして……時雨?」
声の方向に振りむくと、先ほどの彼女とおなじように花束を抱えたこよみが立っていた。
***
夜空に浮かぶ星々が、宝石みたいに輝いていた。
「私も、落ちた子の名前を聞いてびっくりしちゃった。時雨はさ、もしかして、あの子の知り合いだった?」
ぽつぽつと点滅する街灯のもと、オレとこよみは駅に向かって歩いている。
花を供えたあとのこよみは、不思議なほど冷静だった。
「いや、会ったこともないし、いまだにだれが落ちたのかも知らない」
「そっか。私はね、結構……友達だったんだよ」
なぜオレがあの場所にいたのか、こよみから聞かれることはなかった。自殺事件は、表立って学校側から発表されていない。恐らく、こよみは夕方オレと別れたあとに、だれが死んだかを聞かされたんだろう。
「どうしてだろう私、悲しいはずなのに涙が……流れないんだよ。だって――」
――やっぱり、五人目だったんだね――。
そう、こよみは呟いた。
その言いかたに、オレは少し引っかかりを覚える。
この事件について、こよみは何かを知っている。
目の前にあらわれたミステリアスな電波女、そしてこよみ――。何も知らないのは、自分だけなのではと考えてしまう。
「なあ、こよみ。この事件のこと、知ってるだけ教えてくれないか?」
「嫌だよ……」
予想通りの返答だった。
「私だって、知りたくて知ったことじゃないもん。それに、この事件は首を突っこんだらいけないんだよ」
「死ぬからか? でも、ウワサだろ……」
「ウワサでここまで自殺続いたらたまんないよ。時雨、今日は変だよ。何で急に、自殺事件のことばっかり聞いてくるの?」
「まあ、何だ……現場を見て、ウワサが真実に変わっちまったって、いうか……」
歯切れの悪い返しかただと、自分でも思った。そう、何でオレはこんなに、この事件に心が惹かれてしまうのか。
「さっき話してた女の子と、関係ある?」
「何で、アイツが出てくるんだよ……」
「ふぅーん……それでこの事件調べようと思ったんだ?」
一瞬でこよみに見抜かれてしまった。
オレが関心があるのは事件ではなく先輩に、ということを……。言葉というのは口だけではなく全身から発せられる、憂姫はそんなことを言っていた。
つまり、わかる人から見ればバレバレなのだと、自分の隠しごとのヘタさに絶望した。
「五人も死んでるんだもん、たくさんの人がこの事件を調べてる。だけどね、余計なことに首を突っこまないほうがいいよ、時雨。関わる距離が縮まれば縮まるほど、何かに巻きこまれるリスクは高くなると思うんだよ。だから、私もこの事件のことを深く知りたくない。時雨にもね、あまり関わってほしくないんだ。その……さっきの先輩と、事件を調べるつもり?」
こよみはどうして、アイツが上級生だと知っているのだろうか。
「いや、全然知らないヤツなんだ。一緒に調べるつもりなんて、ないよ」
オレは噓を吐いた。こよみに変な心配をかけたくない、その一心で。
「ふーん……。全然知らない……ねぇ。時雨はもっと自分のことを大切に思わないとダメだよ。簡単に人を信じてホイホイついていったら、きっとヒドイ目にあうんだからね」
「そんな人を犬みたいに」
「ほら、そこにもちゃんと書いてある!!」
こよみの指差す方向には、『気をつけよう、甘い言葉と暗い道』と書かれた看板がおいてあった。
「甘い言葉って、何だよ?」
「時雨も年ごろの男の子だからね。下心があると高価な壺買わされたりとか、怪しい宗教に入ったりしちゃうんだからね。本当に気をつけなきゃダメなんだからねっ!!」
こよみはぷりぷりと怒りながら、オレの太ももを思いっきりつねる。
痛いと抗議の声をあげると、なぜかこよみはそっぽを向き、早足になってしまった。