NOeSIS 嘘を吐いた記憶の物語
千夜の章(前編)1
cutlass Illustration/cutlass・たぬきまくら
我々の後継者はスマホの中にいました———田中ロミオ 累計50万ダウンロード突破のスマートフォンノベルゲームcutlass自ら完全改稿のうえ待望の書籍化。
電波女と出会った。
真っ赤に染まった放課後の屋上で、彼女は物憂げにたたずんでいた。
今どき珍しい黒髪のロングストレート、端整な顔にはまった瞳は沈みかけた夕日よりもなお赤い。
彼女は美人だった。
でもそれ以上に、纏っているオーラが普通と違っていた。触れたものすべて切断してしまうような、そんな尖った気迫に満ちている。彼女は伏せた目をゆっくりと持ちあげると、オレにむけた。
「……台なし」
呟いた一言と、冷たい視線がオレを射貫く。
全力で階段を駆け上がって来たせいか、オレの呼吸はまだ荒いままだ。
上下する肩。自分の呼吸音だけが、やけに大きく聞こえる。
いや……音が、消えている気がする。
見えない手で耳を塞がれたみたいに、何も聞こえない。
校庭から流れる生徒たちの声、遠くを走る車のエンジン音、そして風の音……。彼女の瞳に魅入られただけで、周囲を取り巻く音が、消失していった。
不思議な感覚だ。屋上だけが世界から切り取られたみたいに、静寂につつまれている。
「台なしだと言っているのよ。そこのあなた、聞こえてるの?」
長いまつげに細い眉、彼女の不機嫌な表情すら、美しく感じられる。
「私はね、ここから飛び降りるつもりだったの。一人でひっそりと、この世から消えるつもりだった。でもね、そこに邪魔が入ってしまった。あなたに見つかったせいで台なしよ、どう責任とってくれるつもり?」
――でも、彼女はやっぱり電波だった。
オレはいま、史上最大級の難癖をつけられている気がする。
彼女に近づくと、オレは思いっきりほっぺたを引っ張った。
「ちょっと――っ!? 何するのよっっっ!!」
「オマエがまず正気に戻れ」
変なことさえ言わなければ、黒髪でミステリアスでドSで最高なんだよ。変なことさえ言わなければ。
ツンと、彼女は肩をそびやかす。
「私は最初から、正気よ」
これで正気なのかよ……。妖精とか見えてたりしないよな、大丈夫かよ。
「邪魔されてるのはこっちだ、オレはただ掃除当番で、屋上にある給水タンクの点検に来たんだよ。ジャンケンに負けて、嫌々な」
屋上には先客として、彼女がいた。
「……そう。ならさっさと、点検してくればいいじゃない」
吐き捨てるように呟くと、彼女はツンと横を向いてしまう。自分から話しかけてきたくせに、何だこの女。
オレは呆れて、首を振った。
言われたとおり、給水タンクに向かって歩きはじめる。
彼女は歩き去るオレから目を離し、フェンスの向こう側を眺めていた。
死ぬ気はあんまり、ないみたいだった。
やっぱりただの電波だったか、とオレは胸をなで下ろす。
さっさと終わらせて、今日は真っすぐに家に帰ろう。録りためている深夜アニメをいい加減消化しないと、HDDレコーダーが臨月を迎えてしまうし。
周囲を遮るものが存在しない屋上はひどく開放的で、そして見晴らしが良かった。
学校を取りかこむ住宅地と、遠くにそびえる急峻な山々、その上に潰れたモチみたいに夕日がへばりついていた。
ところどころひび割れ、雑草の生えた屋上を上履きで踏みしめる。煤けた給水タンクの真下にたどり着くと、オレは大きくため息を吐いた。
タンクから延びる蛇口は老朽化しているのか、ぴちゃぴちゃと水滴をしたたらせ、地面に水溜まりを作っている。
水溜まりは鏡のように夕焼けを反射し、オレの仏頂面を映していた。ああ、何だかオレの表情、さっきの女に似てるよなと少し悲しくなる。
顔を上げると、巨大なタンクが視界を覆った。はしごを登って中を確認するのは骨が折れそうだし、とりあえずぶら下がっているノートにチェックだけして帰ってしまおうか。
いや……後ろにはあの女がいるわけだし、ここまで来てサボったと言いふらされるのも癪だ。
しかたない、ここは諦めてはしごを登るか。でも、蓋を開けて死体が浮いてたら嫌だな、とか――そんな妄想を浮かべてしまうくらい、夕焼けに映る給水タンクは巨大で不気味だった。
「バカじゃないの、死体だなんて。そんなの、入ってるわけないでしょう」
下らないオレの思考に応えるように、背中から声がかけられた。
……ん? オレ、無意識のうちに声が出てたのか?
慌てて振り返ると、彼女が立っていた。
長い黒髪と特徴的な深紅の瞳が、手を伸ばせば触れられるほど近くにあった。さっきまでフェンスにもたれていたはずなのに、いつの間にこっちへ移動したんだろう。
彼女は微笑む。
「私はちゃんとあなたの背後にいたわよ、ふふ、見えていなかったのかしら。でもあなたは、だれの許可を得て二本足で歩いているの? ブタはブタらしく、四本足で歩くべきだと思うわ。地面をはいずるようにね、お似合いよ」
オレ、この女に恨まれるようなこと、したっけ?
掃除当番で屋上までやって来ただけなのに、この仕打ち。しかも初対面。
奴隷になりたい。彼女のみごとなSっぷりに、オレは心の中で歓声をあげていた。
「へぇ、あなたはブタじゃなくて変態だったの、どっちにしろ下等であることにはかわりないわ。跪きなさい、ヘ・ン・タ・イ」
困った、跪くことには抵抗はないが、それだと角度的に彼女のパンチラを拝んでしまうことになる。パンツはギリギリ見えない派の自分としては、飲めない提案だった。
「な……っ、何考えてんのよ――っ!?」
彼女はとっさにスカートの裾を押さえて、オレから距離をとる。
……ん?
さっきからこの女、どうして。
改めて彼女を観察する。長い黒髪がさらさらとなびいていて、雨上がりの干上がったミミズを見る目でオレを眺めている。上履きの色的に上級生で、つまり三年だった。ダブってなければ。
「さっきからあなた、失礼だと思わないの? 初対面で、なおかつ上級生に向かってダブりだなんて」
いや、アンタが失礼とか言うか。お世辞抜きに綺麗なのに、頭が可哀想な人だなんて、残念だった。
「へぇ、あなたは私が、頭の変な人だと思ったわけね?」
「思ってはいたが言うわけがない。そんな失礼なこと」
怪訝な表情の彼女。
自殺したがってたり、難癖つけて絡んできたり、とにかく忙しい女だった。
「口の利きかたには気をつけなさい、下級生君。あなたは見ていてヒドくイライラするわ、とても不愉快よ。あなたが私を見て神秘的なイメージを抱いていたように、私も少し、あなたに期待していたの。放課後の屋上に現れた男の子なんて、期待するでしょう? それがフタを開けてみればドラマティックさの欠片もない、ただのブタだったなんて……。失望だわ」
何このボロクソな言われよう。オレ、本当にこの女になんかしたっけ?
それよりも何よりも、さっきからオレ、心を覗かれてる気がする。
「私は相手の考えていること、記憶、すべてを読み取ることができる。隠しごとなんて、ムダよ」
夕焼けの屋上に、長い影が延びていた。
落ちる夕日に背を向けている彼女、その微笑みがオレンジと紫の空に混じって、不気味な色に染まる。
「私はだれの意思でも読み取ることができる。そう――たとえ相手が、死んでいてもね――」
ざわざわと、冷たい風が吹いた。
木々を揺らした風は校舎にぶちあたると上昇気流となり、屋上に張られたフェンスをがたがたと揺らす。
目の前の彼女の長い髪が、風で持ちあがる。コウモリの翼のように大きく広がった黒髪が、オレに迫った。
「私は死人の声ですら聞くことができる。だからね、あなたが今何を考えてるかだって、手にとるようにわかるのよ」
彼女の言葉が、心をかき乱した。死人の言葉を聞くことができる、どうして彼女はそんなことが言えるのだろうか?
彼女はオレの手をがっしりとつかむと、妖しく瞳を輝かせた。
「日常なんて下らないわ。こんな退屈な世界を見つづけていたら、両目が腐ってしまいそう。だから私と一緒に死んで、新しい世界に行きましょう」
本格的に頭のヤバい人なんだなと思った。あたたかい季節になると、増えるらしいし。
彼女はじーっとオレの顔を覗きこむと、ぽいと腕を放り投げる。
「あなた、ビックリするぐらい瞳に輝きがないわね。閉店間際のスーパーで売られている、サンマ以下よ。濁ってるわ。本当に死ぬ気はあるのかしら?」
「いやだから掃除当番で来たんだっつーの」
「そんなこと知っているわ、私は心が読めるもの」
……ケンカ売ってんのかな、コイツ。
「ふふ、少しからかっただけよ。ケンカなんて売っていないわ」
ぽんとオレの肩をたたくと、彼女は階段に向かって歩き始める。
「私はね、探しものをしていたの。すごく大切なものよ。待っていたら……あなたが現れた。私はね、あなたを見ているとどこか懐かしい気持ちになるの。きっと、私の知っているだれかと面影が似ているのね。あなたがそばにいてくれたら、私の探しものもきっと見つかる、そんな気がするの……。今度は掃除当番じゃなく、私を目当てに追ってきて頂戴ね。そうしたら一緒に死んであげるのを、考えてあげたっていいわ」
「冗談だよな、死にたいだなんて。死ぬなんて全然いいことじゃないぞ、腐るし、臭いし、醜いし、かたづける人間にも文句を言われる。発見が少しでも遅れたら、ウジの山だ。そんなことわかっているはずだろ」
少し寂しそうに、彼女は笑う。
「――ええ、冗談よ。本当に……からかっただけ」
噓だと思った。彼女は噓を吐いている。
「給水タンクの点検なんて、サボるつもりだったんだ……」
「心配しないで、だれかからあなたのことを聞かれたら、ちゃんと仕事をしていたと答えてあげるわ」
「…………」
「……どうしたの?」
変な電波でも受信したのか、オレは何故か……彼女に心惹かれていた。
「なんでもない」
いや……そんなの、間違いだ。
オレは真性のロリコンだし、年上だなんて……やっぱり間違いだ。自分の思考を払うように、オレは首を振った。
その様子をじっと眺めていた彼女が、寂しそうに肩をすくめる。
「そう……。今日は引き留めてしまって、ごめんなさい」
彼女の足が、ふたたび動き始めた。流れていく、長い黒髪。
心が何故か、ズキズキと痛む。
オレは拳を握りしめ、歩き去る彼女の横顔に向かって、叫んでいた。
「勝手に去っていくなよ。ファッション感覚で自殺企図とか、ふざけんな。理由くらい教えろ」
ああ――全く。
つくづく自分という人間は、面倒くさい相手に興味を抱いてしまうのだと思う。放っておけばいい、こんな情緒不安定な電波女。だけど……。
オレは彼女の内面に、翳りを見いだしていた。
「ファッション感覚で、ね。そうね、強いて理由をあげるとするなら、ここには皮膚の感覚があるの。夕闇で照らされた屋上の端に、フェンスで線が引いてあって、そこまでが私の皮膚。だけどね、ときおりそれを引き裂いて、その向こう側に飛びだしたいという欲求が、抑え難い衝動が、私の内側を走るの……」
「そうか」
「本当に理由だけしか、聞かないのね。もう少し私のこと、心配してくれたっていいじゃない」
「オレは毎日忙しいんだ。今期見るアニメが二十六本もあって、毎日最低三つ四つは消化しないと間にあわない。声かけてやっただけでも、ありがたいと思えよ」
ふっと、何かに気がついたように、彼女はオレを見つめる。
「アニメを見続ける……ね。あなたには、それをしなければならない理由があるのかしら?」
「オタクだからだよ、文句あっか? ああ?」
「ふふ、ごまかすのね。言いかたを換えましょう。あなたは部活にも所属せず、家に閉じこもってミミズみたいな生活を送っている」
「ああ、オレ、泣いてもいいかな?」
「――とぼけないでっ!!」
真剣な表情だった。彼女の視線が、ナイフのようにオレの胸を突き刺す。皮膚と肉を切り裂き、その内側に秘めた記憶をのぞこうとしている。
「大抵の人間なら、あなたのその曖昧な態度でごまかせるでしょうけど、私は別よ。今日私とあなたが出会ったのは、偶然じゃない。あなたが私を――呼び寄せたのよ」
「だから、屋上に来たのは掃除当番だって、言ったろ」
くすりと、微笑む彼女。
「それにしては、ずいぶん遅いじゃない」
「べつに、遅く来るくらいどうだっていいだろ。アンタこそ、言ってることがオカシイ。自殺しに来たんだろ、なら……どうしてオレがアンタを呼び寄せたことになんだよ」
ぷいっと、彼女はそっぽを向いた。オレからの質問には、答える気がないみたいだった。
「あなたが世間一般から蔑まれる趣味を貫いているのには、理由があるはずだわ。家の中にいてもおかしくない……、それにもっともな理由をつけるためには、アニメやマンガ好きを装うのが一番都合が良かった」
「オタクになるのに、理由がいるなんてな。それじゃ、引きこもりは全員アニオタじゃねーか。そもそも、どうしてオレが家にずっといるってことに――」
「――外に出たくない理由が、あるからよ」
ぴしゃりと、オレの言葉がさえぎられる。
コイツ……記憶を読んでやがるのか……。
「見えてはいけないものが、見えてしまうのでしょう? だからあなたは、虚構のなかに逃げこんだ」
オレは、唇を嚙みしめる。
「――そんなこと、ねーよ」
「私はね、幽霊なの。でも、そんな私をあなたは見つけ出してしまった。あなたも、不思議な力を持っているのよね?」
オレは、彼女の顔を直視できなかった。
無茶苦茶なこじつけだと思った。ただ、電波女と話をしただけで、こっちまで変な能力を持っていると思われるなんて。
これじゃあ、ただのラノベ好きの邪気眼同士の会話じゃないか……。
ただ、オレは……。
「ふふ、そう……。ごめんなさい、私の勘違いだったみたいだわ」
オレの思考をさえぎるように、彼女は会話を切った。
日が沈む。
山の稜線の向こう側に、太陽の滴がちらちらと瞬いている。周囲はオレンジから紫へと染まり始め、影は気持ち悪いくらいに黒く世界を侵食していった。
「ねぇ……。また、会えるかしら……?」
湿り気を帯びた、冷たい風が吹いている。風に身体を預けるように肩の力を抜くと、オレは唇を開いた。
「次からは掃除当番も確実にサボる。だから、もう会うこともないだろうよ」
彼女の憂いを帯びた瞳が、オレの顔に向けられている。
ああ、クソ、どうしてコイツはこんなに、放っておけない表情を浮かべるんだよ……。
「でも……そうだな。考えとく」
「ふふ、今のであなたは私の機嫌を損ねたわ。今度会うときは、三跪九叩頭の礼でもって私の気持ちを静めてもらうからね」
「九回ヘッドバットで土下座するヤツだろ、それ。中国の皇帝かよ、アンタ」
「私は武則天の生まれかわりよ、知らなかった?」
彼女らしい冗談をとばすと、くすりと微笑む。
お互いに名前すら知らなかった。
線を一本引いたみたいに距離を取って、近づかない。同じ学校にいながら、この一年以上出会うことはなかった。
また会えるかなんて、そんなのわからない。
「また会えるわよ、そんな気がするの」
冷たい扉が閉まり、彼女は去っていった。
オレは彼女の存在を頭から振りはらうと、給水タンクからぶら下がるノートにチェックをつけ、帰路についた。
***
「それはparoleってヤツだよ」
遅くに帰ってきた妹の憂姫は、電気ケトルからカップ麵にお湯を注ぎながらそう答えた。
両親は現在長期海外赴任のため、この家にはオレと憂姫しか暮らしていない。家事全般は世話焼きで幼なじみのこよみが全て担当しているため、ヤツの帰りが遅い日は二人とも仕方なく、夕飯をカップ麵と総菜で済ませるのだ。
カップ麵を作るあいだに、オレは憂姫に今日のできごとと電波女の話を振った。関係を勘違いされると面倒くさいので、電波女の性別に関しては伏せておいたが……。
憂姫はモーリス・ブランショ、ミシェル・フーコーと書かれた、分厚い二冊の哲学書をカップ麵のフタの上に置き、とてとてと小さい身体でテーブルに運ぶ。
オレは憂姫よりも一足早くソファーに座り、少し伸びた麵を啜っていた。
「自分自身の理解をこえたものから、直接語りかけられることがあるんだって。レヴィナス思想の中核だね、すごいことだよ。その人、知識のはじまりがどこからかが感じられて、わたしは好きだけどな。覚醒と悟り、その二つをもって初めて人は知性の側からの呼び声を聞けるって言われてるけど、お兄ちゃんはそんなものを待たずに引き当ててしまった、本当、すごいよね」
「…………」
「う、うーんと、わかりやすく言うと、メッセージのやりとりをどのレベルで行うかってことかな?」
妹の理解不能の言葉が耳に刺さってから、オレは伸びた麵を空中で静止させていた。
自分の発した言葉が難しいことに気づいたらしい憂姫は、もうすこしだけレベルを落として語りかけてくる。
それでも、十分難解なのだが。
「全くこよみも憂姫も帰りが遅いぞ、特にこよみだ。部活もあるんだかないんだかわからないのに、どうして水曜日だけ帰りが遅いんだよ」
「ご、ごめんねお兄ちゃん。わたしがごはん作れていたら……」
憂姫の頭をぽんぽんとたたき、そういうことで落ちこむなとメッセージを送る。憂姫が落ちこむのには理由があって、オレは彼女の手料理を食べたせいで、何度か意識を失ったことがある。
妹は何をするにも几帳面だった。フランス語で書かれたレシピを読み、厳選した食材を用い、湿度変化による水分量まで完璧に計算し、圧力鍋を爆発させたあと、炭化した食品を作りだした。それを食べたオレは当然、入院した。
ちなみに作った料理を炭化させる行為はカーボンと呼ばれていて、立派な萌えスキルの一つである。
萌えスキルは萌えスキルでも、実際に食べさせられると生死の境目を拝むことになるので、危険極まりないのだが。
ぽんぽん、ぽんぽんぽん――。
頭を軽くたたきつづけていると、憂姫は顔を赤くしながら俯いてしまう。
「あ、もしかしてこれがパロールってことか?」
憂姫はオレより断然頭が良かったから、今日みたいな意味不明な相手に出会ったときは、頼りになる。
なるのだけれど……、話す言葉の大半が難しすぎて理解するまでに時間がかかるのだ。
「うん、そういうことだよ。厳密に言うとパロールは声という意味しかないんだけどね。パロールの交換が、会話になるんだよ」
「アイツ、確実に心読んできやがったんだ。こっちが言葉にしてないことまで……。何考えてるかがなんとなくわかるってことはあっても、考えている内容まで当ててくるって、できるのか?」
「うーん、なんて言うんだろ……? それをやっちゃうのが人間のすごいところなんだ。人の会話って、実は話している内容に全く意味がないもので、極端に言うなら、最初の一語が口から出た瞬間、会話というものは意味の交換を終了している」
憂姫はカップ麵のフタの重しに使っていた哲学書を取りだし、オレに見せる。
「わたしの中の他者の声、それを示したのがモーリス・ブランショという人なんだよ。話す相手が口を開く前に、わたしの中の他者は話を終えている、そういうこと」
「そうか、憂姫は頭が良いんだな」
ぽんと妹の頭に手を載せ、ぐりぐりと撫でる。
「えへへ。お兄ちゃんに、褒められちゃったよ」
「話わかんねーし、風呂入ってくるわ……」
オレは会話を切り上げ、カップの底にたまった濁りきったスープをシンクに流す。
今日の妹の話は一段と難しく、オレにはついていけそうになかった。
やっぱり話を振る相手を、間違えてしまったのだろうか?
「ま、ま、待ってよ〜お兄ちゃんっ、話まだ終わってないよ〜っ!!」
半分泣きだしそうになりながら、憂姫はオレの腕を引っ張る。
華奢な身体の憂姫は、オレの歩みに勝てずズルズルと引きずられていった。
「ああ、もう。聞いてやるから、まずは落ち着け」
ぜぇぜぇと肩で荒く息をしながら、憂姫は呼吸を整えていた。
少しオレの腕を引っ張っただけで彼女がバテるのは、持病の貧血のせいだった。
「会話は声の送受信が必要だけど、必ずしも相手の声で応答する必要がないんだよ。だから、お兄ちゃんが相手の話をちゃんと聞いてあげてれば、その表情だけで十分目的が果たせる。例えばアイコンタクト、なんとなく意思が伝わってくる、それがコミュニケーションってこと。その感覚を鋭敏化させることができれば、相手の考えをピタリと当てることが可能かもしれない」
「ふむふむ、コミュ力があれば例えば――死人とでも会話ができる――と?」
「できると、思うよ。優れた法医学者、検死する人のことね。そのお医者さんはね、死んだ人間の顔を見ただけで、どうやって死んだか当てられるんだって。つまり、死者の表情を通して、パロールを受けとったんだね。死人が最期に残した言葉、ダイイングメッセージを聞くことができるのかもしれない。推理小説なんかで使われてるのとは、また少し意味の違ったものだけれどね。ソシュールというより、ラカンっぽい感じ……かな?」
最後の一行は意味不明だから握りつぶすとして、死人が何を言いたいのかわかる……薄気味の悪い話だった。
憂姫はオレの顔をじーっと眺めると、ニヤニヤと微笑む。
「それ――で、お兄ちゃんはそのミステリアスな人物に対して、興味を抱いてしまった――と?」
「いやほら全然そんなことねーって、人の心読んでくるとか、ちょっとキャラ中二じゃん。どういうカラクリなんだろうなーってさ」
「人というのは声だけを聞いているわけじゃない。ふとしたときに見せる表情の変化や、指先の動き、その全てを敏感に感じとって、噓や真実を見抜くことができる。だからその人はお兄ちゃんに、わざと自分の能力を明かした……」
「わざと……? いったい、何のために?」
「わざとややこしい話しかたや答えられないような質問をして、それに応答できる人の出現を待っていた。会話の内容自体に意味があるのではなく、そんな少しオカシイ自分をきちんとした人間として扱ってくれるか、それを試していた。お兄ちゃんは優しいからね、そういう不思議な力を持っているがために不幸な人生を歩んじゃう人を、引きよせちゃうんだよ」
「つまりソイツは、ただの電波ってことか? そうだよな、普通生まれ変わりで武則天って単語出てこないよな。毘沙門天だよな、普通」
「それだと、上杉謙信だよ……。女性説あるから、お兄ちゃんは好きなんだろうけど」
「まあ何考えてるかわからんヤツってことなら、あってる」
「ふーん……。でもちょっと楽しみだな、お兄ちゃんとその電波さんとの関係」
うん? コイツは何だか、変な方向に話を持っていってないか?
「お兄ちゃんの幸せを願うのは、妹として当然のことだよ♪」
「おい、なんか明後日の方向に話を持っていってないか……」
「全然全然っ。わたしがお兄ちゃんの話しぶりから、相手の人がきっと綺麗な女の人なんだろうなぁ〜とか、全然気づいてないか――わぷっ」
電子レンジ横におかれたバターロールを一つ、憂姫の口に突っこむ。
「断じてそんなことはない」
何だか面倒くさい方向に話が転がりそうなので、オレはそのまま風呂に向かった。
***
瞼の裏を、優しい光が刺激していた。
あたたかい布団に包まれた身体は重く、意識はまだ覚醒とはほど遠い場所にある。
ちゅんちゅんとスズメのさえずりが耳をくすぐり、階下からはベーコンを焼く香ばしい匂いがかすかに届いてきていた。
ジリリリリ―。
大音量で目覚まし時計の音が響くが、その程度の音量では自分の眠りを覚ますのは不可能にちかい。
もっとこう、強い刺激が……。
タンタンタンタンタン―。
扉越しに、軽やかに階段を駆けあがる音が近づく。
――グシャン!!
関取がリンゴを張り手でたたき潰すような鈍い音が響くと、うるさい目覚ましはぴたりと鳴きやむ。
……いや、ちょっと待て。
その目覚まし止める音おかしいだろ……。
「はれれ? 軽く押したつもりなのに、目覚まし潰れちゃったよ。ま、いっか。おーいっ、時っ雨ーっ!! おっき――」
オレは勢いよく掛け布団を撥ね飛ばすと、振り上げた少女の腕を押さえつける。
ぱちくりとこちらを見つめる青い目と、茶色く染められた肩までのウェーブヘア。その両サイドに結ばれた桜色のリボンが、オレが彼女の腕を押さえつけた反動でぱたぱたと揺れる。
「わわっ、びっくり。何? 時雨起きてたんなら、ちゃんと目覚まし止めといてよ。私握力強くて、よく物壊しちゃうんだから」
「いや、いま起きた。こよみ、オマエの握力はちょっと強いくらいじゃねぇ、かすっただけで骨折だ」
「もーう、小学生みたいな冗談言わないでよっ。ちょっと当たったくらいで、骨が折れるわけないでしょ?」
目の前の女はオレの発言を冗談と捉えたのか、右手首を振り上げてツッコミを入れてくる。
とっさに床に転がったダンベルで受ければ、ぽろりと、重しの部分がちぎれて落ちた。
そう、するのは骨折ではない、複雑骨折だ。
慣れというのは恐ろしいもので、人間離れした怪力を発揮する彼女でも長年一緒に暮らしていると、不都合なく生活できるようになってくる。
それは千歳市に住んでいる人間が、道路に戦車が走っていても全く疑問に思わないように……。
彼女の名前は千代田こよみといい、長期出張中の両親のかわりにオレたちの面倒を見てくれるという、すばらしく助かる幼なじみだった。
こよみとは生まれた日付も、病院も一緒という語ると長くなる話があるのだが……。
「おきようよっ。ぼーっとしてないでさっ!!」
「ふん、タダじゃおきれんな。もっとあるだろ、幼なじみの女の子独特のおこしかたというものが。お玉でフライパンをガンガン鳴らしたりとか」
「じゃ、バールかバットで頭をガンガン鳴らそうか?」
なかなか布団から出ていかないオレを見下ろすこよみ。こめかみには数本、青筋が立っていた。
今年に入って既に五台ダメになった目覚まし時計の仲間に加わりたくはないため、しぶしぶとおきあがる。
「ああ、あと百年遅く生まれていれば猫耳の二次元美少女ロボットがやって来て、学校を跡形もなく粉砕してくれる道具を出してくれるというのに……」
「いや、そこは未来の力で学校に行きなよ……」
「問題は百年後にちゃんと、猫耳美少女ロボットができているかだな」
「その百年のあいだに、いろいろこじらせすぎでしょ人類」
「発売延期はなれている。発売が数年遅れで、更にパッチあてなきゃマトモに動かないゲームなんてザラだ。大丈夫、何百年でも待つさ……」
「時雨が毎日やってる女の子しか出てこないゲームの話は、もういいからさぁ……。って、もうこんな時間じゃん!? すぐに着替えて下りてきてよっ!!」
バタンと、乱暴に扉を閉めてこよみは部屋を出て行った。
その衝撃で、棚の上に載った大量の美少女フィギュアがグラグラと揺れる。
オレはぽりぽりと後頭部をかくと、ハンガーにかかった制服に手を伸ばした。