那由多の軌跡

第1章 船上にて

土屋つかさ

ゲーム×出版×Web 魅惑のトライアングルに、綺羅星の如き豪華執筆陣。ここから、ノベライズの“新たな地平”がはじまるーー。

僕が生まれるよりずっとずっと前、今から約一五〇〇年の昔。

後に〝大洪水〟と呼ばれる天変地異てんぺんちいがこの世界を襲い、人間というしゅは一度ほろびかけた。

実際に何が起きたのかについては、おとぎ話みたいな伝聞でんぶんが残っているだけで、正確なことは分かっていない。

当時、最も文明が発展し栄華えいがほこっていた大陸、レクセンドリアが、ある日、突如とつじょ消滅した。地面が崩れて海に沈んだとも、火山が噴火して爆散ばくさんしたとも言われている。いずれにせよ、それが原因で巨大な津波が発生し、世界中を飲み込む〝大洪水〟になったという。

人間が住んでいた土地の多くが海の底に沈み、同時に、今よりもはるかに進んでいたと言われている沢山の技術や知識が失われた。洪水をまぬがれたわずかな土地にも、魔獣と呼ばれる異形いぎょうの怪物が発生し、生き残った人間の天敵と化した。

レクセンドリア大陸の周辺海域は常に荒れくるい、船が近寄ることさえ出来ない〝世界の果て〟と化した。〝世界の果て〟の向こう側、かつて大陸があった場所は、いつしか〝失われた楽園ロストヘブン〟と呼ばれ、人間の立ち入ることが許されない神聖な領域となった。

決して辿たどり着くことのない〝失われた楽園ロストヘブン〟は、〝大洪水〟後の世界を生きる人間にとって、願望と夢想の地となった。

運良く〝大洪水〟から生き延びた人々も、その後、長い長い苦難の時代を過ごす事になった。文明は大きく後退せざるを得ず、その上、地上を跋扈ばっこする魔獣とも戦わねばならなかった。飢饉ききん疫病えきびょうに襲われた時代もあったし、人間同士で血を流し合うことも数え切れない程あった。そしてそれらは、今もなお、続いている。

人間同士で争っている余裕なんかなかったはずなのに、まるでそう宿命づけられているかのように、人間は多くのおろかなあやまちをおかし続けた。

そうして、〝大洪水〟から一五〇〇年以上が経った、現在。

新暦一五七九年。

相変わらず地上には魔獣がいて人間の生活を脅かしているし、かつて人間が手にしていたという技術や知識は未だにその一部しか再発見されていない。にもかかわらず、人間同士の争いはいまだ絶えることがない。

最近では大陸最大の領土を持つ帝国が、隣国りんごくに侵略戦争を仕掛けるのではないかといううわさまで流れていて、どこの街でも不安と不穏の空気に包まれていた。

人間は、また間違いを繰り返そうとしているのかもしれない。

それでも、ただ一つ言えるのは、人間は過ちを犯しても、その度に反省し、互いに助け、はげまし合い、決してあきらめず、今日までやって来たということ。

人間は、数限りない物を失ったこの世界で、それでも、したたかに生き続けている。

きっと、この先も、ずっと。

大陸の港町サンセリーゼより南西約九八〇セルジュ。

シエンシア多島海の海上。夜。

小童こわっぱども! せめて酒が美味うまくなるような勝負をしろよな!」

バップス船長がそう叫ぶと、僕たち二人を取り囲んでいる大人たちがどっと笑った。

皆、蒸留酒があふれんばかりにそそがれたジョッキを豪快にあおって、気持ち良さそうにしている。楽器が得意な男が搔き鳴らす弦の調べと、それに合わせた男たちの歌が、少し離れた所から聞こえてくる。陽気な歌声が、甲板を照らす松明の炎を揺らしていた。

帆船はんせんが大陸を出て二日目。夜の沖合をゆっくり進んでいる。天気も良く、波も穏やか。目的地到着を明日に控え、甲板では宴会が行われている。

二つの大きな月が浮かぶ満天の星の下、乗組員のほとんどが甲板に集まり、音楽に合わせて歌い、踊り、そして浴びるように酒を飲んでいた。

そして、十分に出来上がってきた頃、恒例の余興よきょうが始まっていた。

「ナユタ・ハーシェル! 俺はお前に賭けてんだ! 簡単に負けるなよ!」

クラック副船長が楽しそうに叫ぶ。名前を呼ばれた僕は、しかし反応せず、木剣もっけんを両手で握り、足を半歩出して構え、無心で相手の出方を待っている。

三歩前方にいる対戦相手、シグナ・アルハゼンは、僕とほとんど同じ構えで対峙たいじしている。ただし、口元には笑みを浮かべ、こちらを楽しそうに見返している。

「何ちんたら見つめ合ってんだよ! お前ら伸びたのは背丈だけなのか?」

誰かの野次を、別の誰かが受ける。

「いや、ナユタはともかく、シグナは背丈も対して変わってねえな。小童のままだ!」

どっと笑いが起き、その度にまわりはジョッキを呷っていた。

シグナは、「けっ」と笑い、こちらを見たまま観客に向かって叫ぶ。

「黙って見てやがれってんだ飲んだくれども! あと小童って言うんじゃねえ!」

「生意気なことを言うじゃねえか、小童!」

船長が叫び返すと、更に大きな笑いが起きた。

僕とシグナは二人とも、今年で十六になる。わらべと言われるほどには、もう、幼くはない。それに、学者志望の僕は置くにしても、自警団に入ってみっちりきたえられているシグナは腕や脚が太く筋肉質になっていて、肌は日に焼けて浅黒く、顔だって童顔の僕よりずっと大人びていた。元から、背だって僕より高いし。

とはいえ、ジョッキを握って取り囲んでいる船乗りの男たちは、僕らと比べて十も二十も年上ばかり。そんな人たちから比べれば、そりゃあ、僕らは小童だ。

けれど、シグナはそう言われるのが嫌みたいで、キッと船長の方に視線を向け、言い返した。

「だから、小童じゃねえって言ってる

「とりゃあっ!」

シグナが見せた格好かっこうすきを貰うべく、僕は素早く一歩前に踏み込み、胸元めがけて木剣を突き出した。

っと」

けれど、シグナは瞬時に僕の動きに反応し、剣の腹で僕の一撃を軽々と受け止める。木剣同士がぶつかって乾いた音が甲板に響き、僕たちは交差させた剣を相手の方に押し込み合う。ようやく始まった試合に、観客がき上がる。

木剣をこちらに強く押しつけながら、シグナが笑いかける。右耳から下がる木彫り細工の耳飾りが揺れ、松明の明かりを反射した。

「こちらが脇見している間に攻めてくるなんて、つまんねえ事するようになったじゃねえか、ナユタ」

僕は、渾身の力で押し返しつつ、それでもなんとか笑顔を返した。

「そっちこそ、師匠の言葉を忘れたのかい、シグナ。剣をまじえている時、よそ見をするのは死ぬのと同じだよ」

「へっ、俺に師匠クソオヤジの言葉を思い出させたかったら、一度でも俺に膝をつかせてみろってんだ、ナユタ!」

シグナが切った啖呵たんかに、大人たちがジョッキを振り上げて乗ってくる。

「そうだ! 今夜こそシグナを負かしてやれ、ナユタ!」

「一度くらい勝ってみせないと、誰もお前に賭けなくなるぞ!」

また笑い声が響き合う。

言われてみれば、宴会の余興として恒例になっている、僕とシグナのこの模擬試合では、僕はまだシグナを負かしたことがなかった。

僕の顔から思いを読み取ったのか、シグナは楽しそうな顔をした。

「ナユタ、お前は弱くはない。覚悟が足りないだけだ。いつかは、俺にだって勝てるさ」

そう言うと、突然合わせている剣に重みが増した。

「けれど、それは今日じゃないけどな!」

一気に剣を押し込まれ、僕は堪らず後ろに飛ぶ。と言っても、半分はシグナに突き飛ばされたようなものだ。

体が宙に浮いた瞬間、顔が天を向いた。

漆黒しっこくの空にちりばめられた那由多なゆたほどもある星の姿が視界一杯に広がる。

こぶしよりも大きく浮かぶ二つの青白い月が、今夜はやけに綺麗に見えた。

「うわっと!」

星空に気を取られ、着地に失敗しかける。もつれそうになる足をなんとか踏ん張って、剣を構え直した。

「おいおい、酒が入ってないのにナユタはもう足下がおぼつかないみたいだぜ!」

「いやいや、あれはもう勝利の美酒を呷った後なのさ! 勝つ気満々だな!」

大人たちが腹を抱えて笑っているのが視界の端に見えた。

シグナだけは笑わず、あきれた顔を僕に向ける。

「おいナユタ。よそ見をするのは死ぬのと同じじゃねえのかよ。星に見とれてる場合か?」

気にしない。気にしない。

戦いは、最後の最後まで分からないんだから。

僕が無心で対峙していると、今度はからかうようにニヤリと笑う。

「それとも、故郷が近づいて気もそぞろか? アーサ姉さんとライラが待ってるもんな!」

半分図星だったけど、認めるのはしゃくだった。笑い返す。

「そういうことを言い出す方が、故郷が恋しいんじゃない? 師匠とクレハに早く会いたいんだろ?」

「はっ! 言うじゃねえか。今度はこっちから行くぞ!」

シグナが走り込んでくる。振り下ろされる一撃を頭上ずじょうで受け、真横に打ち払う。

再び大人たちの喝采かっさい野次やじに甲板が包まれる。

「まだまだあ!」

僕は叫びながら床を蹴った。

夜も試合も、まだ始まったばかりだ。

僕たちを乗せたこの帆船は、大陸の港町サンセリーゼから出港し、二泊三日をかけてシエンシア多島海に到着する。大陸から物資と人を山ほど積みこんでいて、多島海に浮かぶ島々を順繰じゅんぐりに巡って交易を行う定期船だ。

その島々の一つに「残され島」と呼ばれる小島がある。小さな村が一つだけあるその小島が、僕とシグナの故郷だった。そこには帰る家があり、帰りを待つ家族がいる。僕には姉が、シグナには妹と父親が。

シグナの父親はかつて大陸で剣豪けんごうと呼ばれた人で、僕らはその人から共に剣術や、心身の鍛え方を学んだ。だから僕にとってシグナは同門であり、親友だった。

十五になった去年、僕は学問の道に進む為に、シグナは自身の剣の力を活かす為に、大陸に渡った。今は港町サンセリーゼに家賃折半せっぱんで部屋を借りて暮らしている。僕は王立学院で天文学と歴史学を学んでいる。シグナは街の自警団でメキメキと頭角とうかくを現し、既に一目置かれる存在になっているようだ。

そして、年に数回お互いの休暇が重なる時、こうして一緒に定期船に乗り、残され島に里帰りしていた。

木剣同士がぶつかる乾いた音が、何度も甲板に響く。今の所、どちらも相手の攻撃を剣で受けるか流すかしている。

両手で木剣を前に向けた状態で、回るように歩きつつシグナが叫ぶ。

「そろそろ息が上がってきたみたいじゃないか、ナユタ! 勉強ばっかしてるから体がなまるんだよ!」

「そういうシグナこそ、汗をかきすぎているだろ! 訓練ばかりで実戦の感覚を忘れちゃったんじゃないの?」

二人のののしり合いに、大人たちがどっと笑う。もちろん、お互いに本気で思ってる訳じゃない。観客へ向けた余技よぎみたいな物。

とはいえ、本当に息が上がりつつある僕には、この休憩の機会は有り難かった。

「しっかし、ナユタも腕をあげたな! ほとんど互角じゃないか!」

「そうだそうだ! 前に見た時よりもずっといい試合になってるぜ!」

「クソッ! 俺もナユタに賭けておけば良かったか!」

大人たちが楽しそうに叫び、その度にジョッキを呷っている。

確かに、今の所勝負は互角だった。

けれど、それはシグナがそう演出しているからだ。

「おりゃあっ!」

シグナが斜め上から大振りに斬りかかってくるのを、内側から外側に向かって打ち返す。硬い音がして、シグナの剣の軌道が逸れる。

体勢を崩したシグナに斬り込もうとするも、すんでの所で体ごと避けられ、今度は僕の剣が空を切った。

「おお!」

派手な打ち合いに、観客が驚き、喜ぶ。

この大振り、シグナはわざとやっている。本当はもっと小さく、速い動きが出来る筈だ。けれど、大きな技を繰り出した方が、大人たちのうけがいい。だから、敢えて隙は大きくなるけど派手な動きを繰り返している。

対して、僕にはそんな余裕はなかった。ずっと全力で戦っているつもりだ。

これが、僕とシグナの実力の差と言えた。

正直に言って、くやしい。これじゃまるで、手加減されてるみたいじゃないか。

多分、シグナにそんなつもりは無い。彼は単に、観客を楽しませようとしているだけだ。けれど僕には、お前には隙を見せても負けないよ、と言われているように思えた。

シグナと目が合う。シグナは、笑っていた。

ふと、その笑顔が、彼の妹のそれと重なって見えた。長い銀髪の美しいあの子と。

その瞬間、胸のずっと奥の方から、勝ちたい、シグナに膝をつかせたい、という気持ちがむくむくと湧き上がってくるのを感じた。

確かに、実力では、僕はシグナに敵わないかもしれない。

けれど、それは毎回必ず負ける、という意味ではない筈だ。

師匠だって「勝負とは、最後には能力ではなく、勝ちたいと思う気迫によって決まる」と言ってたじゃないか。

勝つ。ここで勝って、島に帰った時に「船で君の兄さんを負かしたよ」と言ってやる。

すっと頭の中が締まり、意識が冴え渡る感覚を得る。いける。

シグナが上段に構えた剣を振り下ろそうとする。僕はこれまでと同じように打ち返そうと剣を溜めると見せかけて、すっと体を引く。

「っ!」

突きだした剣を急に引くことは出来ない。シグナは空振りした剣を構え直す為に軸足を床から浮かした。

「今だ!」

通常よりずっと大きく踏み込んで、シグナの体半歩手前の足下に体を潜り込ませた。

文字通り、ふところに潜り込んだのだ。

「おおおっ!!」

決着が付きそうな気配に、大人たちの歓声が大きくなり、緊張感が甲板に満ちる。

シグナはしまったという顔をして軸足を戻そうとするが、その動きを邪魔するように、僕は中段から真横に剣をぐ。シグナは片足を半分浮かせたまま剣を盾にして迎え撃った。

お互いの剣がぶつかり、乾いた音が甲板に響く。

シグナとしては僕の剣を払い飛ばしたい所だろうけど、重心が微妙に崩れている向こうに対して、走り込んだ速度が上乗せされたこちらの剣の方が、力で勝っていた。

「とおりゃあっ!」

叫びつつ、一気にシグナの剣と、シグナの体を斜め前に押し込む。ほとんど片足で応戦していたシグナは、堪らずよろけて、そのまま取り囲んでいる大人たちの方に、倒れ込むかのように体を傾けた。

「いけるか!」

誰かが叫んだ。僕も同じ気持ちだった。いける!

甲板を蹴り、シグナに向かって飛ぶ。空中で構え直し、体重を乗せて切っ先を一点に向ける。狙いは右の太股ふともも、この一撃で勝つ!

ま、こんなもんだろ」

よろけていた筈のシグナが急にくるりとこちらを向き、そして笑った。え?

驚く間もなく、シグナは観客の一人の手から木のジョッキを奪い取り、僕の顔めがけて投げつけてきた!

「ええっ!?」

僕は反射的に、太股から狙いを外し、飛んできたジョッキを木剣でたたき落とした。

しかし、その一瞬が勝負を決めた。

次の瞬間、シグナは体勢を立て直し、僕が床に着地したと同時に木剣を上段から振り下ろし、僕の右手をしたたかに打ち付けた。

「うあっ!」

痛みに思わず声が漏れる。僕は握っていた剣を落として、そして、膝をついてしまう。

「勝者、シグナ・アルハゼン!」

バップス船長が高らかに宣言し、歓声と怒声どせいが夜の海に響き渡った。

余興が終わり、僕は誰もいない舳先へさきのあたりで休んでいた。大人たちは夜通し酒盛りを続けるらしく、酔いの回った陽気な歌声が小さく聞こえてくる。

船縁ふなべりから身を乗り出して風に当たる。海風が汗を冷やしてくれて、気持ちが良い。

海は暗く、空と海の境目は闇の中に溶けている。けれど、星々と二つの月の明かりを受けて、船の周囲は、ぼんやりと光を纏っているようにも見えた。時折高い波が立つと、水しぶきが白く輝いていた。

急に、ほおに冷たい物が当たる。

振り向くと、大きな月の真下に、シグナが立っていた。片手で鉄のコップを二つ持ち、僕の頰に押しつけてニヤニヤ笑っている。もう片方の手は木剣を引きずっていた。

「お疲れ、ナユタ。骨、折れてないよな?」

僕は軽くあざが出来ている手をひらひら振った。

「大丈夫だよ、シグナ。でも、まだヒリヒリする」

海に背を向けて船縁に寄りかかり、シグナからコップを一つを受け取る。中身は水。一気に呷ると、冷たい感触が体中に染み渡った。

シグナも剣を立てかけ、隣で寄りかかる。体をうんと伸ばし、海風に全身をゆだねる。

「なかなか良い試合だったじゃねえか」

ほとんど船縁に寝そべるような格好で夜空を見上げながら、シグナが言う。

「僕は微妙に納得出来ないけど」

コップの中に半分残った水を見ながら、僕はさっきの余興について文句を言った。

「ジョッキを投げるなんて反則だよ。木剣あれが真剣だったらどうするのさ。僕がジョッキを無視して、あのまま剣を突き刺していたら、シグナの右足は膝から下がなくなってたよ?」

体を起こしたシグナは、楽しそうに僕の顔を下から覗き込んだ。

「でもナユタはそうしなかっただろ? ジョッキを意識しちまった時点で、お前は負けていたのさ」

「でも、シグナだって、実戦だったら、あんな戦い方しなかっただろ?」

「当然だ。俺だって、まだ右足はしい」

太ももを平手で叩く。僕はますます納得がいかない。

「じゃあ、やっぱりおかしいじゃないか」

「おかしくはないさ」

そう言って、シグナはニヤリと笑った。彼の真上にある月の明かりが、彼の顔と、円形の耳飾りをゆらゆらと照らした。

「酔っぱらい親父共の前でやる余興だろうが、魔獣と一対一での殺し合いだろうが、剣士が剣を握った時、目指すべきは、常に一つしかない」

「なんだよ」

「勝つこと。勝って生き残ることだ」

「そんなの、当たり前じゃないか」

「いいや、ナユタ。当たり前なんかじゃない。お前は分かってないよ」

シグナは即答した。そして続ける。

「お前はジョッキを無視出来なかった。だから俺に負けた。顔に当たった所であざが一つ出来るだけだ。それでお前は勝てた筈なのに。お前はあの時こう考えた。『せっかく明日島に帰るのに、顔に痣が残ってたらアーサ姉さんが心配する。ライラやクレハにも笑われるかも』ってな。だから構えをいて、ジョッキを叩き落とした。違うか?」

言葉に詰まる。それは図星だった。

シグナは言いよどむ僕を見て微笑み、けれど、その瞳は静かに僕を見つめていた。

「あの時、お前は自分から勝ちを得るのを諦めた。余興だから、木剣だから、負けても死なないから。理由はなんでもいい。お前は勝利を捨て、俺がそれを拾ったんだ」

船の近くで、大きな魚が跳ねた。

「もし真剣を握っていたら、俺はあんな戦い方はしない。けどな、ナユタ。お前はどうなんだ? お前は、生死がかかった勝負でも、ジョッキを叩き落としちまうんじゃないか?」

「そんな訳が

否定するのは簡単な筈だった。けれど、シグナがじっとこちらを見つめていて、僕は何も言えなくなってしまった。どうしてだろう。分からなかった。

シグナはぐいっとコップを呷り、大きく息を吐いた。酒の匂い。僕には水を渡しておいて、自分のコップには酒が満たされているようだ。

「重要なのは勝つこと。勝って生き残ることだ」

同じ言葉を繰り返す。

「その為なら、あらゆる状況を利用する。使える物はなんでも使う。反則だって? 知ったことか。規則を守って死ぬよりも、規則を破って生き残ることを剣士は選ばなきゃいけない。クソオヤジの言葉の中で、俺が従っている数少ない教えさ」

もう一度コップを呷った後、シグナは空になったそれを僕に突きつけた。

「いいか、ナユタ。お前はまだまだ弱い。剣技がどうこう言ってる訳じゃねえぞ? あのクソオヤジの下で修行したんだから、下手な奴には負けやしねえよ。けどな、お前はどこか自分って物を大事にしていない所がある。自分と他人の命を天秤にかけた時、自分の方を軽く見積もってるきらいがある。俺にはな、それがとても危うく見えるんだ」

シグナは酔い始めているのか、いつもより饒舌じょうぜつで、けれど彼の言っていることが、僕にはよく分からなかった。星がシグナの背後を一筋流れ、周囲がぼんやりと青く光る。そのせいか、シグナは影になって暗く見えた。

僕の顔を見て、シグナはほんの少しだけ寂しげな表情になり、そして続けた。

「いいかナユタ。迷った時には戦えばいい。けれど、どんな事情を抱えていようが、剣を交えた以上は、勝って、生き残るんだ。このことを、忘れるなよ」

戦うことが、更に迷いを生むとしても?」

自分で口にしておいて、なんでそんなことを言ってしまったのだろうと驚いた。けれど、それはいつも僕が思っていることだった。

僕は剣士じゃない。僕が師匠から学んだ剣は、魔獣から自分と、大切な人を守る為の剣だ。練習や試合でなければ、人と剣を交えることはない。

だけど、いや、だからこそ、人間同士で命を懸けた戦いをしなければいけないとなったら、きっと僕は迷う。その迷いは、戦ったから、勝ったから消えるという物では、きっとないだろう。

シグナは僕の顔を見て、しばらく黙っていた。二つの月が、僕らを見下ろしていた。

やがて、シグナは相好そうごうを崩した。

「そんな心配すんな。大丈夫だよ、ナユタ。その答えは

立てかけていた木剣を手に取り、空に掲げた。そして言葉を繫ぐ。

その答えは、剣が決める」

そう言ってニッと笑った。

僕は肩をすくめるしかなかった。それじゃあ答えになってない。シグナはやっぱり酔っぱらっているようだ。

「シグナらしいよ」

「まあな」

自慢げなその言い方が面白くて、僕は思わず声を出して笑ってしまった。シグナはコップを握ったまま僕の肩に手を回し、一緒に笑ってくれた。二人の持ってるコップがぶつかって、ごちんごちんと音がして、それが楽しくて更に笑った。

その時、誰かが叫んだ。

「見ろよ! 星が降って来るぜ!」

僕とシグナは肩を組んだまま、舳先の上方を見上げた。

船の進む先、無数の光の穴が空いた漆黒しっこくの空に、まるで誰かが絵筆で描き込んだみたいに、蒼白い光の軌跡きせきが三本、斜めに横切っていた。

三本の切れ目はすぐ光を失い、暗闇に溶けて消えた。けれど、すぐに別の場所に、新しい線が浮かび上がる。一本、また一本と、星々の間を通り抜けるように、光の軌跡が生まれては、消えていく。

夜空に架かる橋、あるいは星々を渡る為の道、そんな風にも見えた。

いつの間にか、喧噪けんそうが収まっていた。海の男たちも、馬鹿騒ぎを中断して、夜空が織りなす演舞に目を奪われていた。それくらい、美しい光景だった。

現れては消えていく無数の軌跡を眺めながら、僕はもうすぐ帰る故郷、シエンシア多島海の一番端にある小さな島のことを思った。

きっと、シグナも同じことを思ってるに違いなかった。僕は聞いた。

「綺麗だね。残され島の周りにも落ちるかな」

「あれだけ降ってりゃ一個や二個、大きいのが島の周りに落ちるかもな。帰ったらまた忙しいかもしれねえ」

「うん、そうだね」

今星空で起きているような光景を、僕たちは「星が降る」と言っている。文字通りそう見えるからだ。けれど、これは正確じゃない。降って来るのは遺跡なんだ。

〝大洪水〟が起きて以来、この世界では、時折、まるで星が落ちてくるみたいに、空から半壊した建造物が落ちてくるようになった。僕たちはそれを遺跡と呼んでいる。

この遺跡がなんなのかについては、未だによく分かっていない。ただ一つ分かっているのは、それらが〝大洪水〟よりも前に造られた建造物の破片であるらしいということ。

学者の中には、遺跡は一五〇〇年前に一夜にして消滅したレクセンドリア大陸の物だと主張している人もいる。

レクセンドリア大陸にあった都市が、火山の爆発によってバラバラになって空高くに吹き飛び、それが何百年も飛び回った上で、また落ちてきたというのだ。僕はその意見にはすこし賛成出来ないのだけど、遺跡が空から降って来るのはまぎれもない事実だった。

なおも光が降り続く空を見ながら、僕は無意識に懐に手を伸ばし、その中にある物を取り出した。手のひらに収まる大きさで、見た目は水晶の原石に似ている。

「ん? ナユタ、お前まだその〝星の欠片かけら〟を持ち歩いてるのか」

「いいだろ、お守りなんだよ」

シグナにからかわれ、ちょっとねた返事をしてしまう。

〝星の欠片〟。それは遺跡の中で時折見つかる工芸品だ。この中には〝大洪水〟よりも前の絵や音が記録されている。星片観測機せいへんかんそくきという道具を使えば、その記録された物を確認出来る。

残念ながら、当時の技術を失っている今の僕たちには、〝星の欠片〟がどんな仕組みで絵や音を記録しているのかまでは分からない。星片観測機だって、遺跡の中から発見した物を使っているだけで、構造を理解しているわけじゃないんだ。

「いい加減、そこに何が映ってるのか、教えてくれよ」

「駄目だよ。秘密だって言ったろ。それに、たいした物は映ってないよ」

僕は手の中のそれを見つめながら、ごまかすように言った。シグナは鼻で息をして、手を伸ばし、〝星の欠片〟を軽くこづいた。キインと、冷たくて心地よい音がした。

「まあいいけどな。〝星の欠片〟をお守りにするなんて、やっぱり変わってるよ、お前は」

「たいした物じゃないから、持っていたくなるんだよ。シグナだって、そのお守り、ずっと身につけているじゃないか」

シグナが身につけている耳飾りを見る。それは、彼の妹が作った物だった。僕は今のお返しに耳飾りに触ろうとして、すっと避けられた。

「これはいいんだよ」

そして笑う。僕も笑い返す。このやりとりは、僕ら二人にとって恒例の儀式みたいな物だった。特に意味のない、けれど、お互いの友情を確認しあう。そんな感じの。

〝星の欠片〟を夜空にかざす。光の軌跡が夜空に一筋浮かぶと、まるでそれが欠片の中に浮かび上がっているように見えた。

幻想的な光景を見つめながら、僕は言った。

「ねえシグナ、〝世界の果て〟の向こうには、何があるのかな」

「あぁ? まーたナユタの病気が始まったな。まだ〝失われた楽園ロストヘブン〟なんて信じてるのかよ」

シグナは呆れた口調で言って、肩をすくめた。

「〝大洪水〟から一五〇〇年。沢山の冒険家が〝世界の果て〟の向こうを目指し、けれど、誰も帰って来なかった。〝失われた楽園ロストヘブン〟なんて存在しない。世界の果ては滝になってて、みんなそこから落ちるだけさ。お前の両親だって

酔いに任せて言いかけて、シグナは急に口を閉じ、頭をく。

すまん」

「いいよ。気にするなよ。親友」

水面の先、暗闇で境目がよく分からない水平線に目を向ける。

そして、この親友の前でだけ、今まで何度も口にしてきた言葉を、繰り返した。

「僕は、〝世界の果て〟の向こうに行きたい。父さんと母さんが見ることの叶わなかった景色を、この目で見たいんだよ」

そうか」

シグナはそれ以上は何も言わなかった。そうして欲しい時には黙っていてくれる彼のことが、僕は好きだった。

もう一度、空を見上げる。光の軌跡は、まだ幾筋も空に刻まれていた。

子供の頃から、ずっと見慣れた風景。

星が降る場所には傾向があって、シエンシア多島海、特に僕らの故郷である残され島の周りに遺跡が落ちてくることが多い。

だから、この風景を見ると、「帰ってきたんだ」って思える。別に帰ったからって何か変わったことがある訳でもないのに、胸がはずんでくる。酒が入った訳でもないのに、頭がぼうっとしてくる。

だから、そんな風に夢中になって空を見上げている僕を、シグナが少し不安げに見つめていたことに、その時の僕は気づかなかった。