那由多の軌跡

外伝 二人の帰る日 第3話 ヴォランス博士と、その教え子の場合

土屋つかさ

ゲーム×出版×Web 魅惑のトライアングルに、綺羅星の如き豪華執筆陣。ここから、ノベライズの“新たな地平”がはじまるーー。

第3話 ヴォランス博士と、その教え子の場合

ヴォランス博士は楽観主義者である。

「昨日だって魔獣には遭遇しなかった。だから今日も遭遇しないだろうさ」

残され島の住民の中で唯一「博士」の称号を持つ彼は、こと自分自身に関しては、科学的、統計学的根拠を勘案しない傾向があった。

「博士もそれなりのお年なのだから、村の中はともかく、外を歩く時は誰か若者を連れるか、せめて武器を携帯した方がいい」

と、いつも村人に言われているのに、今日もいつものごとく丸腰、特別身につけている物と言えば特注の片眼鏡モノクルくらいで、日課である散歩を終えて戻って来た。

木々の間を抜けてつまり、そもそも人が歩く場所では無い所を通りようやく石畳に下りる。右側にはどこまでも続く海が広がり、そして左側は、ヴォランスの長年の夢の結晶があった。

村で一番大きく、そして真新しい建物には「残され島博物館」という大きな看板が掛かっていた。字は村長のサーベントに書いて貰ったものを板に彫り込んでいる。博物館らしくないという声もあるが、ヴォランスはこの看板を気に入っていた。

博物館と海との間は小さな広場になっていて、そこにヴォランスの教え子である女の子がいた。広場の縁に腰掛け、海に向かって遠い目をしている。ヴォランスが近づくと、女の子は気がついて立ち上がり、笑顔で言った。

「こんにちは、博士」

「やあ。遺跡探索に向かったんじゃなかったのかい?」

昨日、残され島のすぐ近くに遺跡が落下した。近年まれに見るほど大きな遺跡だ。こういう時は、剣豪のオルバスが、彼女を助手として探索に赴き、危険が無いかを確認するのが通例になっている。確か、もう出発の時刻だったはずだ。

「ライラに携帯食料をお願いしてたんですけど、お父さんに伝えるのを忘れてたらしくて、今大急ぎで作ってもらってるんです」

特に怒っている訳では無いようだ。まあ、ライラらしいポカではある。

「出来上がったら、ここに持ってきて貰えるように頼んであるんです。オルバス先生の家まで来て貰うのは、大変だから。それに

「それに?」

ここだと、船が戻ってくるのが見えるかもって、思ったので」

「おお、そういえば、ナユタ君とシグナ君は、今日帰ってくるんだったかな?」

「そうなんです。多分、遺跡探索と入れ違いになると思うんですけどね」

そう言って、また水平線の向こうを見つめる。せめて探索の前に、船の影だけでも見たいということだろうか。うんうん。若さというのは素晴らしい物だ。ヴォランスは自身の、情熱に満ちあふれていた若い頃を思い出す。いや、今も情熱だったら誰にも負けない。向ける方向が変わっただけだ。

「ところで博士は、いつものお散歩でしたか?」

それを聞いて、ヴォランスの顔が一瞬にして輝きに染まる。

「そうなんだよ! いや、やはりこの島は素晴らしいね! 動植物の宝庫だよ!」

つい話題を振ってしまい、しまったという顔を教え子がわずかにするも、ヴォランスはまったく気にせず、快活に話し始める。

「一五〇〇年前の〝大洪水〟によって、多くの種が絶滅したと言われている。しかし、ここ残され島を含むシエンシア多島海には、大陸にはいない種が多数生息している。学院の常識に凝り固まった学者どもの反対を押し切って、博物館をここに建てた私の考えは間違っていなかったと、思いを新たにしたところだよ!」

この話を始めるとヴォランスは止まらない。教え子は諦めて聞き役に徹する事にした。

「まだ外見だけで中は空っぽだし、研究員も君を入れて四人だけ。しかしね、いずれは資料も人も増え、研究も進み、ここが生物学研究の最前線になるんだよ。間違いない!」

曖昧な笑みを浮かべて「はあ」と教え子。しかしヴォランスは止まらない。

「確かに、稀少生物を保護し、人工環境下で成育するにはまだ課題も多い。しかし、この一五〇〇年で人間だって多少は進歩している。絶滅の危機に瀕している種を保存する多少の手助けはできるさ。いや、それだけじゃない。生物学の分野に限らず、我々が成長を止めず、知性を前進させ、知見を得て、科学と技術をより発展させれば、いずれは〝大洪水〟前に栄えた文明だって取り戻せるかもしれないじゃないか!」

楽観主義ここに極まれりという晴れやかな演説は、しかし、聞き手の顔が沈んでいることにヴォランスが気づいた為、中断された。

「どうかしたかい?」

「いえその。私達って、本当に成長しているのかなって、ちょっと思って

「ふむ」

その言葉に、ヴォランスは考える。彼は楽観主義者だが、見たくない物にふたをする類の人間では無かった。

「確かに、ただ成長しているだけでは無いかもしれないね。帝国の動きについては聞いたかい?」

「戦争を始めるかもしれないって

「そうさ。愚かな考えだよ。今だって大陸最大の国家だっていうのに、自国の経済の混乱、食料の不足、〝奈落病〟による人口減少という三つの問題を、他国への侵略によって穴埋めしようなんてね。根も葉もない噂であることを祈るばかりだ」

ヴォランス自身は戦争について別の視点も持ってはいるが、ここでは口にしなかった。

「しかし、経済の混乱は数百年に亘る帝国運営に限界が来ているだけなのかもしれないが、残る二つの原因は、帝国だけではなく、世界全体、人間全体の課題だ。食料不足は近年の度重たびかさなる異常気象が原因だし、〝奈落病〟の患者もここ数年増加の傾向にある」

「はい

沈んだ声の後、彼女はヴォランスと目を合わせず、うつむき気味に言った。

「最近、こう思うんです。私達人間は、本来〝大洪水〟で滅ぶ宿命にあった種なのではないかと。それがたまたま生き残り、生き延びてしまっただけなのでは? だから、異常気象や〝奈落病〟が、人間に本来の役割を与えようとしているのではないでしょうか」

どうしたのだろう。いつもの彼女らしくない言葉だ。と、ヴォランスは思う。なにか思う所があるのだろうか。ヴォランスは少しの間考えた後、今、遺跡探索前の彼女にかけるべき言葉は、楽観主義者としての自分の言葉だろうと決めた。

「確かに、人は間違いを犯す」

ヴォランスの言葉に、彼女は顔を上げ、博士の瞳を見た。博士は笑みを作る。

「かつての〝大洪水〟も、おごり高ぶった人間が神の怒りに触れ、起きたのかもしれない。君の言う通り、その時神は、人間を滅ぼすつもりだったのかもしれない。しかし」

「しかし?」

「人間は、罪を反省し、それを償うことができる生物なんだ。これまでも、これからも、我々は過ちを繰り返すかもしれない。帝国は戦争をしかけるかもしれない、別の人間がもっと愚かな行為を選択するかもしれない。けれど、人間という種は、その度に反省し、償い、更に言えばそれをかてにして、前に進むことを宿命づけられた生物なのだよ」

彼女のあどけない顔が、徐々にほころんでいく。

「博士らしいですね」

「そうだろうとも! と、見たまえ、ライラが来ているよ」

博物館の隣にある桟橋さんばしの入り口あたりで、ライラがキョロキョロと見渡している。こちらには気づいていないようだった。

彼女は大きく深呼吸してヴォランスを見た。いつもの、意志の強そうな瞳に戻っていた。

「ありがとうございます。では、行ってきます」

「十分に気をつけて。オルバスさんによろしく」

「はい!」

笑顔で返事をして、まだキョロキョロしているライラに呼びかける。

「ライラ! こっちよ!」

すると、ようやく気づいたライラが、笑顔で手を振って叫び返した。

「ごめんごめん、遅くなっちゃった、クレハ!」

クレハと呼ばれた彼女は、もう一度ヴォランスに礼をした。

そして振り返り、青空にうっすらと浮かぶ、二つの大きな月の下を、走り出した。