金の瞳と鉄の剣
第四回
虚淵 玄 Illustration/高河ゆん
竜と剣、そして目くるめく魔法の世界。ファンタジーの王道中の王道に颯爽と挑むスーパータッグ、虚淵玄×高河ゆん! 2010年、ファンタジーの歴史に新たな一章が刻まれる……。最新&最高の“バディもの”がここに!
ここ四ヵ月、ブラウスと胴衣のボタンの多さは常にタウの頭痛の種だった。
こんなにも着るのに手間のかかる衣装しか持ち合わせがないとあっては、寝込みを敵に襲われた際などは裸で逃げ出すしか他にない。具足の数に入らない着衣など寒さと衣擦れの防止さえ果たしてくれればよく、脱ぎ着を面倒にするような凝った意匠など愚の骨頂――というのが以前のタウの信条だった。
が、所変われば木の葉も変わると言うように、今のタウにとってはこの無意味に豪奢な飾り服こそが鎧となり籠手となる。そもそも彼が今いるのはいつ敵が攻め寄せて来るか知れぬ野営地などとは程遠い。――ここは、戦場ではないのだ。
「……ねぇ、次はいつ来てくださるの?」
そそくさとタウが着衣を整える一方で、寝台の婦人は床に転がっているコルセットに手を伸ばす素振りさえ見せず、白く豊満な柔肌をしどけなくさらけ出したまま仰臥している。
「さていつになることか。この身は漂泊の素寒貧。再び奥様の笑顔を賜る喜びは、或いは来世の夢かもしれません」
毎度お馴染みの定型文である夜の終わりの口上は、半ば条件反射のようにタウの舌から滑り出た。こんな役者まがいの言い回しがよく身についたものだとタウ自身も呆れ半分だが、目新しい武器の扱いを速やかに習得するのは昔から得意である。そして今、彼の得物は手で柄を握る類のものでなく、口先で囁き操るものなのだ。
「そんな不吉なことを仰有らないで!」
血相を変えた――かのような声色を装ってタウの腰に手を廻してくるキリアン夫人の口元には、気怠く艶然とした微笑が浮かんでいる。ここでは言葉は言葉通りの意味を伝達しない。誰もがその裏に別の真意を潜め、お互いにそれを探り合うために、また心ない言葉を紡ぎ続ける。結局、何を語るにも婉曲な言い回しが必要になる。
「この私に一言もなく再び冒険の旅に出るなどと、許しませんことよ。私の可愛いツバメさん」
「ああ奥様、いかに名残惜しくとも、左様、私は渡りの鳥です。不肖の剣を手に執る他に方便なき身にとって、都の暮らしは平穏に過ぎます。んんん……」
扱い慣れない長台詞に舌がこんがらがりそうになったのを、タウは咳払いを装って誤魔化した。
「ぇ、と……今でこそ奥様の温情を賜って生き存えているとはいえ、ここは餌場なき冬の都。いずれは戦場という春を、血塗られた陽射しのぬくもりを求めて旅立たねばならぬのです」
「まぁ、まぁ、まぁ! おぞましいことを仰有らないで!」
震え上がってタウの背に抱きつくキリアン夫人の怯えようは、毛虫一つで卒倒しかねない乙女の如くであった。それでいて、豊かすぎる乳房をいかにも蠱惑的な按配であざとく押しつけてくる辺りは、やはり年増女の手管である。
「ツバメさん、あなたの身体に染みついた血の匂いも、逞しい傷跡も、大好き。枕語りに聞かされる龍退治や怨霊の物語も大好きよ。でもそれは過去の思い出だからこそ愛でられる。今また再びあなたが、あのような危険な日々に命を賭するだなんて、ぞっとするわ。私が心細さに震えて待つ夜を、いかに堪え忍べというのです?」
「ああ、奥様。願わくば貴女の籠の鳥となって生涯を過ごせたならば、どれほどの至福であることか……」
既に地位も権威もある夫を摑まえて放蕩三昧の既婚者が相手だからこそ口に出来る言葉だよなぁ、と、タウは憂い顔の裏側で苦笑した。
「――そうだわ、ならばお別れの前に、これをお持ちになって」
そう言って、夫人はサイドテーブルから大粒の黄玉が嵌ったネックレスを取り出し、タウへと差し出した。ここぞというタイミングでそつなく切り札に訴える素早さは、予めそのつもりで用意してあったものなのだろう。
待ってました! と胸の内で快哉を叫ぶのとは裏腹に、タウは大袈裟に恐縮してかぶりを振る。
「そ、そのような畏れ多い! 斯様な施しは、私ごときの分際では……」
「いいえ差し上げるのではありません。これはあなたにお預けするの。あなたが軽々しく死地へと踏み込まないように」
タウを見つめるキリアン夫人の眼差しは、ひたむきで健気で、そして絶対の自信に満ち溢れていた。これほど高価な財宝をあっさり手放すほど気前の良い女は、余所で見つかるものではないという自負があるのだろう。
「このネックレスは夫から結婚記念日に贈られた、大切な品ですの。決して無くす訳にはいかないわ。だからツバメさん、どうかお願い。必ず大切に取っておいて、再び私の元に届けて頂戴な」
「ああ、なんという心遣い……奥様、貴女こそは渡り鳥を癒やす春の季節の女神です」
タウは感極まってネックレスを握りしめながら夫人の耳元に囁いた。実際、大いに感激していたのは事実である。まさかこんな大粒の獲物にありつけるとは期待していなかったのだ。一夜の狩りの成果としては破格の収穫といえよう。
思いのほか冷え込む夜風も、浴びるように飲んだワインで火照った身体には心地好い。
日中の賑わいが噓だったかのように静まりかえった街路だが、冷たい夜気にはやはり都市ならではの独特の匂いがする。山河ではまず嗅ぐことのない煤煙の匂い。側溝に澱んだ汚水の匂い。人の営みの気配が濃密に圧縮されると、空気の質までもが変わってしまうのだ。
これだけ広大に思えるリルボスの都も、そこに集う莫大な人々の数を思えば、あまりに狭く窮屈なのだ。都に出て数ヵ月も経つというのに、今なお驚きの念は霞まない。
ここには森の木の葉のように大勢の人間がいる。その比喩を逆に辿るなら、すべての木の葉が喋り、移動し、商いやら遊興やらに終始明け暮れているような、そんな森を想像してみればいい。その囂しさ、目眩く変化の速さは気が遠くなるほどだ。
このリルボスのような大都市には、旅の途中で逗留することはあっても、腰を据えて生活の場としたのは初めての経験だった。
生き馬の目を抜くような場所ではあるが、生き抜く上で過酷な土地かといえば、必ずしもそんなことはない。凍てつく氷原も、灼熱の砂漠も、毒虫の這い回る熱帯雨林も経験してきたタウである。新しい環境では新しい掟と法則に従って行動する、という当然の覚悟さえあれば、この都市というシチュエーションも、冒険の舞台としてはさほど艱難に富むものではない。
タウの見出した新たなルール、それは“虚飾”だ。
繻子の胴着にフロックコート、流行の帽子と磨き上げた靴まで揃えれば、つい数ヵ月前まで食うや食わずの傭兵稼業に身を窶していた流れ者が、舞踏会を渡り歩いて貴族の女と艶話を交わしている――そんな変転さえあり得るのが都という場所なのだ。
野の獣が飢えに駆られて行動するように、遊び呆ける貴族たちは“倦怠”に駆られて動く。そんな彼らから“富”という名の収穫物を剝ぎ取るためには、流行の話題や会話の機知が、仕掛け罠となり釣り針になる。
今夜もまんまと手に入れたキリアン夫人からの贈答品を、タウは月明かりに透かしてじっくりと値踏みした。台座の意匠といい、鎖の装飾の仰々しさといい、素人目にも決して趣味の良い装身具とは思えない。どうにもキリアン伯爵という人物は審美眼にやや難があるようだ。が、嵌っている黄玉の大きさは中々どうして悪くない。これなら売値は一〇〇ザーフを下るまい。
通り一遍の娯楽に飽きたご婦人方の火遊びの相手として、幾人もの伯爵夫人や豪商の奥方の間を渡り歩いているタウだったが、これほどの成果を挙げたのは初めてだった。いよいよ愛人稼業も板についてきたのかな――と、タウは独り得意顔で夜空に笑いかける。
切った張ったしか能がないとばかり思っていた己に、こんな小器用な世渡りができるなど、都に着く前はタウ自身も想像だにしなかった。
何より大きな要因は、放蕩貴族たちの好奇心がタウの理解を超えて貪欲だった点だ。貴人の雅さや聡明さに飽き飽きしていた彼らは、異邦人がもたらす新たな刺激に飢えていた。無知と粗暴さを付け焼き刃の礼節で覆い隠した傭兵上がりの田舎者、という闖入者は、彼らにしてみれば猿が服を着て踊る見世物のように滑稽で興味深いものだったのだろう。
退廃した夜の社交界には、格式や伝統など必要とはされず、むしろ奇抜さや目新しさが偏重される。そういう場所でまずタウは、驚きと嘲笑の相半ばする歓迎をもって迎えられた。
大都市で安穏と代わり映えのない享楽に浸る貴族たちにとって、タウの語る遍歴と武勇伝の数々は、吟遊詩人の百物語も同然に興を誘うものだったらしい。わけても手足に刻まれた傷跡や、剣帯に挿した龍の角の短剣といった“証拠”の品は、逸話に色を添えるものとして大いに好評を博した。そうするうちにタウの若さと、表の社交界に何の縁故もない後腐れのなさに、食指を動かす物好きなご婦人方が幾人も現れるようになった。
黒髪に碧眼という、この辺りでは希な組み合わせの風貌が、物珍しさに拍車をかけた部分もあるだろう。加えて浅黒く日焼けした肌と、修羅場で鍛え上げた肉体は、乗馬と狐狩りぐらいしか覚えのない貴族の御曹司たちと一線を画していた。安物ながらも見栄えだけを取り繕った衣装を買い揃え、見様見真似で身嗜みを整えてみると、これが中々の伊達男として通用したのである。
未だに姿見の前に立つと、我が身の滑稽さに思わず噴き出したくなるタウである。だがその滑稽さこそが自らに“珍獣”としての価値を付加しているのだから是非もない。
道化とも男娼ともつかぬ現在の境遇を惨めだと恥じ入る心境など、およそタウには皆無であった。そんな吞気なプライドを養えるほど安穏と生きてきた彼ではない。泥と血飛沫にまみれながら命を削って生きる糧を得る傭兵稼業に比べれば、虚言を弄して女を抱くだけで宝石が転がり込んでくるという生活は、むしろ快適すぎて笑いが止まらないほどだ。それこそ何かの冗談ではないかと思えるほどの“ボロ儲け”である。
不満らしい不満といえば――服の脱ぎ着の面倒さもさることながら、頭髪をべったりと撫でつけるための整髪料がしばしば痒くて仕方ない点。あとは剣帯に吊った細剣の心許なさぐらいなものか。
どちらかといえば実用的な武装というより装身具としての意味合いが強い得物だが、重さに任せて振り回す幅広剣の方が扱い慣れているタウにとって、この細剣は殊更に扱いにくかった。軽すぎて頼りない重心のバランスは、剣というより無闇に刀身を伸ばしたナイフのようだ。いざ抜く羽目になっても、対にして腰に挿している龍の角の短剣の方が、よほど頼みになりそうに思えた。
まぁ、そういう物騒な心配とは当面のところ無縁な暮らしである。治安の行き届いたリルボスの夜道には追い剝ぎが現れることもなく、せいぜいが正体を無くした酔漢に絡まれる程度のトラブルしかない。
腕っ節だけを頼みにのし上がろうとしていた自分が、腰の剣の軽さを良しとする日が来るなどとは思ってもみなかったが、命懸けの博打を打つまでもなく前途が有望だというのなら、それはそれで願ってもない話である。このまま貴族連中の間で上手く立ち回り、より上を目指して渡りをつけていけば、いずれはさらに有力な人脈のコネクションに取り入って、あわよくば騎士見習いの座を手に入れることも夢ではないかもしれない。
怨霊の犇めく古城から持ち帰った財宝を元手にして始めた都暮らしではあったが、まさかこんな将来の展望が見込めるようになるとは、つくづく運の巡りとは奇異なものである。
上機嫌のまま歩くうちに、気がつけばタウは塒のある通りにまで戻っていた。目抜き通りを外れた路地の、ひなびた雑貨屋の二階部屋にいま彼はキアと二人で居を構えている。未だに雨が降るたび水漏れに悩まされる粗末な住居だが、厩で寝るのに比べれば住み心地は段違いである。定期収入の当てがつくまでは質素倹約を心がけようと値切りに値切って見繕った物件なのだが、今のまま景気の良い懐具合が維持できるなら、そろそろもっと快適で見栄えの良い拠点を考えてもいい頃合いかもしれない。
時刻はまだ夜半を廻ったばかりで、宵っ張りのキアが眠るには早すぎる筈なのだが、窓には明かりが灯っていない。今朝はキアの姿を見かけなかったので、昨夜は部屋に戻らなかったのだろうが、さては未だに帰宅していないのだろうか。念のため中を確かめても、やはり部屋はタウが出かけたときそのままの状態で、同居人が帰宅した様子はない。
別に幼い子供でもあるまいし、いちいち二日続きの外出程度で心配するには及ばない――などと相棒を信頼できたなら、どれだけタウの日々の心労は軽く済んだことだろう。ことキアに関する限り、その非常識な危なっかしさは子供と大した違いがない。
一夜の勤めでそれなりに疲弊していたタウだったが、先に就寝して帰りを待つ、という選択肢をここで選ぶわけにもいかなかった。幸いにして、キアの行く先に心当たりはある。
溜息をついて、タウは港湾区画の方へと足を向けた。
世間との折り合いのつけ方について、キアは大抵、ひとまずはタウの立ち振る舞いを手本として模倣する。ところがタウも聖人君子とは程遠い人間であり、倫理的、常識的に必ずしも正解とは言い難い処方の世渡りを、持ち前の如才のなさで何とか取り繕いつつこなしているのが実際のところだ。その辺の機微を正しく理解できていないが故に、しばしばキアが思いもよらぬ奇行によって大混乱を引き起こすのだとしたら――結局のところ、キアを正しい人道に誘導できていないタウの不徳にこそ実は元凶があるのかもしれない。
近頃の都暮らしにおいても、キアはキアなりの方法で日銭を稼ごうという熱意を見せ、それはそれでタウとしても大いに喜ばしい意気込みではあったのだが、どうやらキアはタウの“ツバメ稼業”を観察するうちに、「人の情欲は金になる」という芳しからぬ教訓を得たらしく、その結果始めた商売が、なんと媚薬の売人という、あまり褒められたものではない生計の立て方であった。
とはいえ咎めようにもタウとて決して真っ当とはいえない方法に金策を頼っている以上、どう説法したものか言葉も見つからず、何よりもキアの持ち帰る売上は、月産で比較するとタウのそれよりも安定した高額となったため、結局、難癖のつけようがないまま今に至る。
取り敢えずは恨みを買うような競合商売が他にないか探りを入れてみたものの、そんな心配も杞憂に終わり、あとは地元の錬金術組合に睨まれないよう細々とつましく商いをするよう言い含めるぐらいしか、タウが口を挟む余地はなかった。
キアによると、商売は季節外れの漁船を格納している船揚場の倉庫で行っているという。その所在こそタウはきちんと把握していたものの、直に足を運ぶのはこれが初めてだった。
入り江の反対側にある商用港の側には夜っぴて営業する酒場などもあるが、休漁期の漁港の方には人が立ち寄る道理もなく、まして夜ともなればその静寂と闇の濃さは墓地も同然である。具体的にどの倉庫をキアが商いに利用しているのかは現地で確かめるしかなかったが、外から人の気配を探って歩くだけで容易に特定できるだろうとタウは楽観していた。
実際、戸口の隙間からランタンの淡い光が漏れ出ている一棟を探し当てるのに、さして時間は要さなかったが――中から聞こえてくる人の声は、それなりの覚悟を決めてきたつもりのタウでさえ、しばし絶句させられる類のものだった。
果たして、それを人の声と形容して良いのかどうか。獰猛な唸りと苦しげな喘ぎ、そして切迫した激しい息遣いは、むしろ檻の中に閉じこめられた無数の獣たちが荒れ狂っているかのようだ。いったい中で何が起こっているのか、疑念や警戒もそこそこに、タウは思い切って倉庫の中へと踏み込んだ。
まず鼻をついたのは濃密な焚香の匂いだった。甘く艶めかしい、花の蜜と獣臭が入り交じったかのような奇怪な臭気。一息嗅いだだけで頭痛を催しそうになる。
人々のあられもない嬌声は今やはっきりと聞き取れるようになったが、倉庫の入り口からでは収納された漁船の船体に遮られて奥の様子が見通せない。不穏な予感に胸を騒がせられながら、タウは漁船の背後に回り込んだ。
そこでは一五人余りの老若男女が、一糸纏わぬ裸体のままで、互いの肌を絡ませ合い、貪りあっていた。その表情、その声に、羞恥、あるいは自尊といった理性の証は、わずかな残滓すら残されていない。誰もがただ飽くなき欲望の光のみに目をぎらつかせながら、相手構わず荒々しい交合を繰り返している。もはや男も女もない。おそらくは相手の顔どころか性別すら認識できているまい。この有様に比べれば、獣の行いですらまだ摂理の片鱗があろうというものだ。
ここまで徹底した乱行は、人として持って生まれた肉体を、ただ快楽を堪能するためのみの器官と割り切って貶めた果てのものだろう。その口すらも言葉を紡ぐ役目を忘れ、卑猥な呻きや奇声を涎とともに垂れ流すばかりである。自らの被造物がここまで穢されていると知れば、神の悲嘆は如何ばかりのものか。
貴族たちの夜会でも多種多様な背徳を見届けてきたタウだったが、ここまであからさまに瀆神的な行いを目の当たりにするのは初めてだった。もはやこれは明らかに、貴婦人たちが退屈しのぎに興じるスリル目当ての退廃などとは訳が違う。より破滅的で末期的な、人間としての尊厳の最後の一線を踏み越えた堕落であった。
そんなおぞましい光景の最奥に、キアの姿があった。束にして床に堆く積み上げられた投網の山に身を預け、気怠げに片肘をついて半身を起こしながら、狂乱のまま絡まり合う裸体の群れを眺めている様は、まるで後宮の寝台に寛ぐ冷酷な王が、床で道化が演じる無様な芸を漫然と見下ろし、慰み者にしているかのようでもあった。
この、どう控え目に評価しても問題のありすぎる状況の直中に、相棒が身を置いているという事実――否、そもそも察するまでもなく、この状況をもたらした元凶がキアであろうという疑う余地もない推測。それだけでもタウを絶句させるに余りあったのだが、しかし何にも増してタウを慄然とさせていたのは、この堕落の光景を見守るキアの表情、その目付きだった。
嫌悪でもなく、侮蔑でもなく、まして羞恥や興奮の眼差しですらない。そこにある感情を強いて言葉にするなら“好奇”だろうか。まるで珍種の昆虫を詰め込んだ虫籠を覗き込み、その蠢く様を観察して目新しい発見を探しているかのような、どこまでも冷徹な傍観者の視線。この有様が倫理的にどれほど許されざる光景なのか、おそらくキアには一片の理解もない。健常な人間であれば生理的に忌避して当然の行為を前にして、ここまで何の動揺も狼狽も示さないその姿勢は――取りも直さず、キアの心の在り方がいかに余人のそれを逸脱しているかを雄弁に物語るものだった。
「――おや、タウ。どうしたんだい?」
ようやくタウの闖入に気付いたキアは、まず気安く手招きしようとしてから、相棒が床で縺れ合う裸体を前にして躊躇している様子を見て取ると、投網の山から立ち上がり、足元に蠢く四肢や腹をぞんざいに踏み分けながら近寄ってきた。狂乱の宴を傍観するのみで自らは加わっていなかったキアは着衣のままだ。それも以前のような襤褸ではなく、聖魂教の修道士が身につける深紅色の長衣姿である。さすがに都暮らしで路傍の物乞いより見窄らしい格好をしていてはむしろ余計なトラブルを招くと、タウが口を酸っぱくして説得し納得させた末に古着屋で買い求めてやったのがこの服だった。聖魂教会の本山に程近いこのリルボスの都では、深紅の僧形もさほど珍しいものではなく、街頭で人目を惹く気遣いもないのだが、今この退廃の極みのような場所に清廉を旨とする聖職者が笑顔で佇んでいるという倒錯した組み合わせは、もはや罰当たりを通り越してあからさまな聖性の冒瀆であった。加えてキアの幼くも人間離れした美貌が、その悪魔的な趣によりいっそう拍車をかけている。
「あ、そうか。昨夜からずっと部屋に戻ってなかったっけね。心配させてたようなら、ごめんよ」
「いや、その……」
この異常に過ぎる場の空気と、それを一顧だにする様子のないキアの平然たる態度に、タウは何をどう話して良いのやら分からず口籠もる。
「……こいつらは、まさか、お前の売ってる薬のせいでこんなザマに?」
詰問すべき数多の点の、まず一つをようやくタウは言葉にできた。が、キアはさも心外そうに肩を竦めてかぶりを振る。
「まさか。そこまで無茶な薬は作ってないよ。……確かに僕が売ってる薬は、一時的な精力増進の代わりに理性を減退させるけれど、だからってここまでの効き目はない」
「ああ、なんだ。なら……」
「うん、薬と一緒に催眠術を使ってみたんだ」
自らの売り捌く薬の効能についてはきちんと弁明したキアだったが、だからといって結局この人々の狂態が彼の仕業であることに違いはないらしい。大仰に溜息をついてタウは頭を搔く。丹念に整えた髪形が台無しに乱れ崩れるのも、もはや構ってはいられなかった。
「……だからさ、お前、ただ媚薬を売ってるだけじゃ飽き足らなくなったのか? いったい何やってんだ?」
「もちろん、この人たちを理解するためだよ。いつだって他人の心を推し量るのが大事だって、教えてくれたのはタウじゃないか」
「……」
まるで悪びれた風もないキアは、どうやらタウに事の善悪でなく、行いの詳細について質されているものと勘違いしたらしい。普段通りの落ち着き払った口調で、蕩々と説明を始める。
「人間の精神って、つまりは蚕の繭みたいなものだよね。大本の動機や志向性は絹糸のように細くて単純だけれど、それが複雑に絡まり、縒り合わさってひとつの形を成している。繭をほぐすには、まず煮て柔らかくするだろう? 薬の役割はせいぜいがその程度までだ。実際に糸の形に紡いで解体するのは個別の手作業になる。まぁ使うのは指でなく言葉と暗示なわけだけれど――」
「ここまで頭の中をバラバラにされちまった人間から、いったい何を理解するってんだ?」
「人間の欲望ってものをどこまで純粋な形で抽出できるか、試してみたくてね。――要するに、繭をほどいて中の蛹を取り出してみようとしたわけさ」
事も無げに語るキアの口調に、タウは背筋がうそ寒くなる。それが人間の魂と蚕虫を同列に語るキアの不遜さ故であると、気付いたのはやや遅れてからだった。
「僕はね、人と獣とを分かつのは理性の有無かと思っていた。実際、これまで辺境の土地を旅しながら出会ってきた人々については、あながち間違ってない認識だったんじゃないかな。彼らのように自然の中で限りなく純朴に、狩猟生活や小規模の農耕生活を営んで暮らすぶんには、そうそう天然の性質が損なわれることもないんだろう。――でもね、都市生活者はまったく違う。彼らは日頃の複雑な生活様式から来る重圧で精神を拘束し続けられた結果、その根底にある欲望をも変質させてしまっているんだよ。窮屈な靴が足の形を歪めてしまうようなものだね」
自らの発見がよほど嬉しいのか、キアはさも自慢げに床で蠢く裸体の群れを指し示す。
「御覧よ。あそこにいるのは聖魂教の司祭さんなんだけど、昨夜からずっと飲まず食わずであの調子だ。よほど普段の生活に鬱屈があったんだろうね。獣として当たり前の欲望なら、ある程度のところで満足し、それよりも疲労の回復が優先されるものなのに……つまり生物としての本能を欲望が凌駕しちゃってるんだ」
「……」
タウとて実体験として、純朴な村娘と淫蕩な貴婦人とでは、閨房の乱れ方もまるで違ってくることは弁えていたが、それをまるで学舎での講義のように理路整然と解説するキアの口ぶりには、ただ心騒がされる違和感しかない。
「凄いよね。彼らは理性の殻を脱ぎ捨てても、もう当たり前の獣に戻ることすらできない。社会の仕組みが発達すると、人間はここまで複雑怪奇な生き物になってしまうんだね。――いや、欲望が歪められているという表現も的外れかな。過密な集団生活による鬱屈は、より倒錯した新しい欲望を次々と生み出し続けている。精神を掘り返せば掘り返すほど、また違った形の欲望が際限なく見えてくるんだよ」
倉庫内を照らすランタンの淡く微妙な光源のせいだろうか――喜色満面で語るキアの双眸が、まるで尋常ならざる奇怪な色味を帯びているかに見えて、思わずタウは視線を逸らす。
「ああ、本当に――人間というのは面白い。つくづく興味が尽きないね」
そう嘯くキアの目を、なぜ直視していられなかったのか。その本能的な忌避感は、当のタウ自身をも困惑させるものだった。改めて相棒の貌をまじまじと観察すれば、キアの薄緑色の目は普段とどう違うわけでもなく、ただ無邪気な好奇心に輝いているだけだ。
ついさっき、その瞳が金色の異様な光を放っているかに見えたのは、きっと目の錯覚だろう。
「こいつら……これからどうなっちまうんだ?」
訊かずに済ますわけにはいかない懸念についてタウが問うと、キアはきょとんと目を丸くした。
「いや、勿論、いずれ目が醒めれば元に戻るよ。時間に個人差はあるけれど……酷いなタウ。まさか僕がこの人たちを廃人にしているとでも思ったのかい?」
「いや、それはないが――」
「彼らにとっても、こういう体験は充分な対価に値するみたいでね。大方の人が再びここに戻ってくる。友人や伴侶を連れてくる人もいるから、人数は増える一方だ」
一旦安堵しかかった自分の甘さに、タウは苛立ちを交えて嘆息する。
キアに“弄られた”人々の症状が一過性のものだとしても、そこに常習性があるとなれば、長期的に見れば彼らが壊れっぱなしであることに違いはない。ただの酒浸りなどとは訳が違う。この痴態に味を占めて二度三度と繰り返すようになったら、それはもう廃人と何が違うというのだ?
「キア、これ以上は顧客を増やすな。そろそろ商いは畳みにかかった方がいい」
「え、どうして?」
低い声で戒めるタウに、キアは小首を傾げる。
「ただ薬だけ売るよりも、この催眠処置はかなり好評なんだよ。昨日と今日の稼ぎだって、ほら」
キアが僧衣の懐から取り出した革袋は、中に詰まった金貨の重さでずっしりと膨れている。連日続けば確かにそれは、タウが貴婦人から巻き上げる宝石の売値より遥かに割の良い稼ぎになることだろう。だが今回ばかりはタウも、強欲より慎重さの方に天秤の針が傾いた。
「ボロい儲けは大歓迎だがな、ボロすぎるのは考えものなんだよ。何事にも限度ってもんがある。気付かないうちに恨みを買いすぎると、いずれ見えない敵から不意打ちを食らうことになる。金儲けにだって用心は必要なんだ」
「……タウも、その辺は心がけているのかい?」
「あ、ああ。まぁな」
参加する夜会はなるべく常連が被らないものを選び、違う女を口説いた噂がなるべく広まらないように、そして間違っても閨で相手の名前を取り違えないように……気を遣うポイントは数多ある。とはいえタウの場合、もし仮に下手を打ったとしても、せいぜいがパトロンの悋気を被るぐらいのものであり、彼女らとて徒に騒ぎを大きくして不義の事実が夫の耳に届くような展開は望むはずもない。いざとなってもリスクの程度は高が知れているのがツバメ稼業の最大のメリットだった。
だが翻ってキアの商売はどうか。――正直なところ、事態はタウの裁量で判断できる域を超えている。
そもそもキアは、何処かで攫ってきた犠牲者を無理矢理薬漬けにして洗脳しているわけではない。キアの言葉を信じるならば、今この倉庫で人事不省に陥っている連中は、自ら望んでキアの催眠処置を受け、こんな有様になったというのだから、自業自得といえばそれまでだ。どう贔屓目に見ても真っ当な商売とは言えないが、双方合意の上ならば傍からとやかく言われる筋合いでもないのではないか……
タウはかぶりを振って、妙な思考の迷路に陥りかかった自分を戒めた。どうにも奇怪な香の匂いとキアの説法に化かされて彼自身も混乱しているらしい。道理の在処などこの際、取り沙汰している場合ではない。キアのこんな商いがトラブルを招き寄せるとしたら、それは間違いなくタウに収拾できるような類のものではない。それが判っているだけでも、キアに自重を促すには充分な理由だ。
「ともかく、だ。薬を売るだけならまだしも、この催眠術ってのだけは程々にしとけ。つまり、その……そう、面白半分でやってる、ってのがまずいんだ。仕事は仕事、遊びは遊びできっちりとけじめをつけろ」
キアは相変わらず釈然としない様子だったが、タウの剣幕を前にして、ひとまず理屈は差し置いて是非についてのみ納得する気になったらしい。
「うん、タウがそこまで言うなら、そうするよ。……さて、じゃあ帰ろうか」
「おい、ちょ、ちょっと待て!」
言うが早いが、後は倉庫の中を一顧だにせずさっさと出て行こうとするキアを、タウは泡を食って呼び止めた。
「このへべれけの連中はどうすんだ!? まさか、このまま放っとくのか?」
そんなタウの狼狽に対し、やはりまたキアは些事だとばかりに肩を竦める。
「うん? ああ、大丈夫。みんな意識を取り戻したら、めいめい勝手に解散するさ。遅い人でも夜明け前には催眠から醒めるはずだよ」
「……」
この危機意識の欠落ぶりは、やはり放っておくわけにはいかない。あらためてそう痛感するタウだった。
タウが毎度の収穫物の換金に繁く利用している宝石商は、いくら彼が常連になろうとも、一向に愛想を見せる様子がない。いつもタウが持ち込む商品について、その褒められたものではない入手経路を無言で詰るかのように顰め面を向けてくる。
だが、元よりそんな当て擦りを意に介するタウではない。曰くあっての品だと弁えた上で買い取ってくれるならそれに越したことはないのである。そのまま表の陳列棚に飾って売りに出されでもしたら、巡り巡って元の贈り主の目に触れることがないとも限らない。タウもまだ面と向かって質したことはないが、おそらくここの店主なら故買品の商談にも乗ってくるだろうと睨んでいる。魚心あれば水心、朗らかな笑顔の商談なぞお呼びではない。
「今回もまた……商いづらい品を持ち込んでくれたもんだね」
キリアン夫人の黄玉のネックレスを子細に検分しながら、店主は毎度のごとく苦虫を嚙み潰したかのような面持ちである。
「確かに凝った造りではあるが、如何せん品位に欠ける。こんなものを身につけて着飾ろうなどと思うご婦人はいないだろうね」
「造作なんかどうだっていいさ。嵌ってる宝石はそれなりのもんだろう?」
「ううん……そもそも、特注の一品物のようだが……本当にこれは売りに出して問題ない品なんだろうねぇ?」
「そりゃあ、あんたが問題のない買い手を探せるかどうか次第じゃないかね」
タウとて、そんな勘繰りに弱気を晒すほど渡世に不慣れなわけではない。足元を見られないよう不敵な笑みで余裕を装う。
「手に余るってんなら無理に、とは言わない。余所を当たらせてもらうさ」
「ふむ……」
あくまで強気なタウを相手に鼻白みつつ、それでも店主は値切る口実を探し出そうと、しきりにネックレスの細部を点検し続ける。
「大粒なのはいいんだが、石の真ん中に妙な曇りがあるんだよねぇ。大袈裟な細工で誤魔化してはいるけれど、これはあまり高値にはならないよ」
「曇りなんてあるか? 全然見えないぞ」
「素人目にはそうかもしれないがね。光に透かしてやれば影が出て一目瞭然――」
そう難癖をつけながら、店主はランプの台座を手にとって宝石に近づける。石を通してカウンターに落ちた琥珀色の影には、確かに微妙な翳りがあった。――が、それは曇りというには妙に形の整った、規則性のある形状をしている。
「……これ、本当に曇りか?」
「……」
店主も訝しく思ったのか、ランプと宝石の距離をずらして影の焦点を調整する。すると不意に、琥珀色の影の中央に絵柄のようなものが浮かび上がった――おそらくは花か何かを図案化した紋章のようにも見える。
「……狼茄子党……」
驚きに息を吞みながら店主が漏らした呟きを、タウは聞き逃さなかった。
「狼茄子がどうしたって?」
店主は失言を悔いるかのような狼狽を一瞬だけ垣間見せてから、再び仏頂面の仮面を装って一切の表情を遮断した。
「ああ、なるほど珍しい石だ。普通の売り物にはできないが、好事家相手には高値がつくかもしれん。二〇〇ザーフで買い取ろう」
「な、何ィ?」
今度はタウの方が度肝を抜かれる番だった。大凡見当をつけていた買取額の倍額である。まさかこの曲者の店主が、そんな法外な好条件の交渉を持ちかけてくるとは思いもよらなかった。
「ただし条件がある。この宝石は所縁も含めて価値を持つ品だからな。元々の持ち主が誰なのか、その名前も込みにした上での買値だ。それが明かせないようなら、曇りのある屑石として扱うしかない。まぁせいぜいが三〇ザーフというところだな」
「……」
キアは素早く脳裏で計算を巡らせる。確かに来歴を明かすのは憚られる品ではあるが、なにも盗品ではないのだからタウに咎が及ぶことはない。このネックレスがどういう経緯で売りに出されたか、知る立場にあるのはただ一人、他ならぬキリアン夫人その人ということになるが、これで彼女との逢瀬が御破算になったとしても、次にまた一〇〇ザーフ以上の宝石をせしめる機会があるかどうかは、案外怪しいところかもしれない。それを思えば――そろそろ彼女とは手を切る潮時、と割り切ってしまうのも手ではなかろうか。
「……そいつはセオジュール・ラング・キリアン伯爵が夫人に贈ったネックレスだ。が、それがどうして俺の手に渡ったか、なんて野暮まで聞き出すつもりかい?」
「そんなこと、聞きたくもないし興味もないよ。どうせ道端で拾うか何かしたんだろう?」
「ああ、道端で拾ったのかもな」
悪びれもせずにんまりと笑うタウの前に、店主は分厚い二〇ザーフ白金貨を一〇枚、重い音を立てて積み上げた。
懐に入った大金の手応えに意気揚々となりながら、タウは昼下がりの活気に湧く市場を通り抜ける。
陸路と海路の双方で通商の要となっているリルボスの都は、連日の市場の賑わいがまるで祝祭か何かのようだ。山海の珍味や遠い異国からの舶来品、いずこかの秘境で捕らわれた檻の中の珍獣など、店の軒先を覗いて歩くだけでも時を忘れているうちに日が暮れる。さらに商用の客足を見込んだ酒屋や屋台、講談師や大道芸人といった見世物の喧噪に、飛び交う歓声や相の手は異国の言葉さえ珍しくもなく、辻ひとつ通り抜けるだけでも世界を一巡りしたかのような錯覚を懐いてしまう。
目を惹くような驚異も、華やかさも、こんなにも昼間の街路に溢れているというのに、どうしてキアの関心は“心の闇を暴く”などという卦体な方向に逸れてしまうのか――そこに想いが至った途端、儲けに浮ついたタウの気分も消沈してしまう。
リルボスの都に着いた当初こそ、キアは昼の市場の賑わいを物珍しそうにひやかし歩いていたが、翌週にはもう「見るべきものは全て見た」と嘯いて、驚くほどあっさり関心を失ってしまった。
なるほど子供でもあるまいし、いつまでも物見遊山の気分を引っ張って遊び呆けていられる筈もないものの、それよりもタウと一緒に金策に励む方が良いとキアの方から申し出てくれたのは、タウとしても喜ばしいような、残念なような、やや複雑な心境だった。キアが都市の空気を満喫し、その生活に馴染めるようになるまでの間、養ってやれるぐらいの甲斐性は見せるつもりでいたのだ。
とはいえ、稼ぎが増えるならそれに越したことはない。いずれ充分な元手が整えば、キアならば練金学院に入学して真っ当な学究の道を進むこともできるだろう。否、キアが果たして今更“普通の”魔術の知識など必要とするかどうかは甚だ疑問だが、学院の図書館に出入りできるようになれば、彼の知的好奇心を満たす蔵書はいくらでもある筈だ。
そういう思惑で容認したキアの稼業が、どういうわけか、ここにきて俄に雲行きが怪しくなってきている。大勢の人間に囲まれながら都の文化に触れてみれば、きっとキアの価値観ももう少し普通の方向に矯正されるのではないかという期待があったのだが、そんな見込みが甘かったとでもいうのだろうか。むしろキアを巡る都の住人たちの方が、彼にあてられて異常な世界へと誘われている有様だ。
キアは――このまま変わることもなくキアのままなのだろうか。
誰にも理解されず、誰を理解することもなく、ただ持ち前の異能を持て余したまま荒野を漂泊し続けるしかない――それが彼に課せられた宿命だとでもいうのか?
胸の内に沸々と湧き上がる苛立ちで、タウの耳から周囲の雑踏の音が遠ざかる。
こんな世界でも、キアの居場所は必ず何処かにあるはずだ。そう信じればこそタウは彼と二人で旅を続けてきた。そして今この都に腰を据えているのも、日々千変万化する混沌の坩堝のような場所だからこそ、或いはキアの求めるものが見つかるかもしれないと期待しているからだ。
そう――願わくばそれが、昨夜の船揚場の倉庫で目にしたようなおぞましい光景であってほしくないと、それが今のタウを苛む葛藤なのだろう。
諦めるのは早い。タウもキアも、まだこの広大な都市の隅々にまで足を運んだわけではないのだ。きっとこれからもまだ新しい発見が、新しい機会があるはずだ。まだもう暫くはここでの新しい生活に可能性を託していい。
二〇〇ザーフの収入に懐を潤して以来、タウはキリアン夫人の交友範囲から身を引き、彼女と出会す気遣いのない夜会ばかりを選んで渡り歩くようになった。結果、さっそく新たに羽振りの良い貿易商の夫人と懇意になり、今後の金蔓についての不安が解消された時点で、早くもあの大粒黄玉のネックレスの件はタウの記憶から薄れつつあった。
今夜も不埒な“狩り”に備えて、タウは整髪と着衣の選択に勤しんでいる。近頃は資金繰りも順調になってきただけに、衣装戸棚の中身も中々の充実ぶりだ。そのくせ雨漏りのする天井と虱だらけの寝台は相変わらずの有様だが、今はまだ稼ぎの術である身支度への投資に出費を集中させなければならない時期と諦めて、辛抱を通している。
「女性の好意を得る上で、服装っていうのはそんなに重要なのかい?」
胴着の色と飾り帽子の組み合わせが決まらず難儀しているタウを眺めながら、キアがさも不可解そうに問いかける。
「まぁ、ご婦人方の頭の中身といえば――ファッションが四割に食い意地が三割、さらに流行りのゴシップが二割を占めて、残り一割は禁じられた色事への期待、ってとこか」
「……思っていたほど複雑な組成じゃないんだね」
「お前の調薬に比べりゃ、そうだろうさ」
キアが調合する媚薬の材料は四種類ではとても収まらず、配合の割合も一〇等分で割り切れるほど単純なものではない。それに比べれば女心をいなす手管など簡単なものだと日々放言しているタウである。
「お前も女を口説きたくなったら、いつでも相談に乗ってやるぜ。俺様秘蔵の殺し文句を直々に伝授してやるよ」
「薬で酔わせてから催眠術にかければ、深層心理まで支配できるけど」
「おい――」
色を失うタウに、冗談だよ、とキアは悪びれもせず笑顔を返す。
「あれきり催眠の施術はやってない。薬の商いもしばらく休んでいたしね。今夜からまた様子見も含めて再開するつもりだけれど……お客さんも相当減ってると思うよ」
別段キアには残念がっている様子もなかったが、それもこれもタウの諫言を素直に聞き入れたせいだと思うと、良かれと思ってのこととはいえ、タウも忸怩たるものを感じなくもない。
「まぁ、その……そろそろもっとマシな商売を考えてもいいんじゃないか? 売るにしても風邪薬とかさ」
「そうだね。どのみち漁の季節になれば、あの倉庫は使えなくなるし」
だがキアに露店を構えさせるとなると、今度は地回りの連中に話を通す算段をつけなければならない。前途多難だな……などと胸の内で嘆息しているうちに、姿見で検めるタウの出で立ちもようやく及第点に達する。
「さて、じゃあ行ってくるぜ」
「僕も夜中よりは早く戻るつもりだけれど。タウの帰りはもっと遅いよね」
「ま、上首尾に事が運べば、な」
商品の小瓶を籠に詰め込んで支度するキアを残して、タウは一足先に部屋を出た。
今夜、タウが目星をつけている宴席には、おそらくリンゼント伯爵夫人が顔を出している筈だ。タウが情夫を務めるご婦人方の中でも一番の古株であり、火遊びの熱も冷めて久しいが、それでも一夜の相手を務めればそれなりの布施にはありつける。貴婦人にしてみれば小遣い程度の施しであっても、タウにとっては馬鹿にならない稼ぎだ。
はてさて、しばらくご機嫌伺いに馳せ参じなかった言い訳をどう捻り出したものか――そんなことを思案しながら道を急ぐうちに、ふと、ささくれだった直感の警告が、タウの面持ちを引き締める。
尾けられている。
夜の盛り場を目指す雑踏の中に、タウとはやや距離を隔てて、黒い長衣に身を包んだ男が一人。目深にフードを被って面を伏せた風体も、修行僧が珍しくもないこの都では、道行く人々に訝られることもない。だがただ一人タウだけは、その男が四辻も前からずっと彼に歩調を合わせている違和感に気付いている。
掏摸に目をつけられた――などという安穏なものとは違う、紛れもない殺意の視線を感じ取り、タウの体内でかっと血が滾る。切った張ったの戦場からは暫く離れていたとはいえ、こういう肝心の勘働きは衰えていなかったらしい。
さてはタウの浮ついた格好を餌食と見定めた追い剝ぎか何かか。なるほど今、腰に提げている細剣の華美な拵えは、いかにも飾り物然としてなまくらに見えることだろう。
“舐められたもんだな……”
胸の中でそう独りごちた途端、説明がつかない程の獰猛な怒りがタウの胸中に湧き上がった。窮地に臨んでの防衛本能としては過剰に過ぎるそれは、きっとこの数ヵ月の間に、タウの内側で密かに育み募らされてきたものだったのだろう。優男の仮面を被り、ただ貴婦人の顔色を覗うことにばかり専念してきた日々の中で、タウ自身すら気付かぬうちに蟠らせてきた鬱憤が、久々に察知した暴力の予感によって一気に破裂しようとしている。
これだけ早々に気付いたならば、降りかかる火の粉、などと観念するまでもない。今すぐ最寄りの衛兵詰め所にでも駆け込めばそれで避けられるトラブルだ。馬鹿らしい、と、自嘲の笑みを口元に刻みつつ、それでもタウは大通りを外れて人気のない路地へと足を運ぶ。
もう少し器用に自分を騙していられる程度の小賢しさは備わっているものと自負していたのだが――結局、剣で身を立てるなどと息巻いていた愚かしさは、一朝一夕に抜け落ちてくれるものではないらしい。
俺を侮るというのなら、いいだろう。その見当違いについては、たっぷり悔い改めさせてやる……
沸々と闘志を滾らせながら、それでも努めて平易な足取りを装い、タウは無人の裏路地を進む。既に人目を憚る必要もなくなった追跡者がぐんぐん距離を詰めてくるのを気配で察する。
次の曲がり角で仕掛けよう、とタウは決めた。角を曲がると見せかけて振り向きざまに剣を抜く。こちらが既に戦意を固めていると気取られていなければ、相手の不意を衝いて先手を取れる。
だがそんなタウの目論見も、目指す曲がり角の向こうから、更にもう一人の黒い長衣が姿を現したことで、あっけなく瓦解した。
待ち伏せの罠――誘い込んだつもりが、むしろ誘導されていたのはタウの方――こんな奇策を講じる奴がただの追い剝ぎである筈がない――背後の男はもう――
一度に押し寄せる諸々の思考。渦を巻き混乱するそれらを、整理しようなどと思うより先に、まず身体を動かすという戦士の本能。それがタウの命脈をすんでの所で繫ぎ止めた。
鞘走らせた細剣の刃を振り向きざまに突き上げる。もはや経緯も事情も慮外のまま、問答無用で背後の“誰か”を刺し殺すという一念が、間一髪で敵の機先を制した。黒衣の暗殺者は既に長衣の下に隠し持っていた片刃剣を抜き放っていたものの、その切っ先は僅かに必殺に及ばず――タウの刃に胸板を貫かれながらも繰り出した斬撃は、標的の首筋でなく、そこを庇った左前腕を切り裂くのみに留まった。
まず一人目を仕留めたとはいえ、タウにとっては防戦の第一手。続けて正面の行く手を塞いでいた二人目の敵に向き直ろうと、即座に踵を返す。だがそこで焦りと習慣が裏目に出た。一人目の心臓に深々と突き刺さっていた得物を抜く際に、かつて愛用していた幅広剣と同等の強度を刀身に期待してしまったが故に、無理な撓りのかかった細剣はあっけなく根本から折れ、タウは瀟洒な飾り籠手の柄だけが残った右手を構えて新手と正対する羽目になってしまった。
二人目の暗殺者はむしろ余裕さえ覗かせながら大きく片手剣を振りかぶる。だがここで観念するタウではない。左手の傷の出血が飛沫を散らすのも厭わずに腰から短剣を引き抜きざま、頭上に迫る白刃を真っ向から食い止める。
大上段から振り下ろした一撃ならば、短剣での咄嗟の防御など勢いで押し潰せるものと暗殺者は見込んでいたのだろう。だが龍の角を研ぎ上げて拵えたタウの短剣には、鋼の刃に数倍する硬度と鋭さがあった。しかもタウは攻撃を受け流すのでなく、もとより敵の剣を砕き折ろうと渾身の力で叩きつけている。結果、暗殺者の片手剣は敢えなく真っ二つに砕け散り、横合いの壁に突き刺さって果てた。
まさかの顚末で暗殺者が怯んだその隙に、タウは右手に残った飾り籠手を、力の限りに相手の下顎へと叩き込んだ。贅を凝らしておきながら強度はてんでからきしの籠手は木っ端微塵に砕け散ったものの、殴られた方の顎も粉砕してのけたことで、一応は武器としての面目を保てたといえよう。
辛くも死地を逃れた興奮と戦慄で、タウは呼吸を荒らげながら、左腕の傷の状態を確かめることも忘れて暫し立ちつくす。が、呆けている猶予はさほどなかった。路地の奥の闇の中から、さらに二人の黒衣の影が足音を殺しつつ駆け寄ってくるのを見咎めて、タウは脱兎の如く大通りへとまろび出る。
四人の徒党……否、或いはそれ以上。恫喝もなければ威嚇もなく、ただタウの命を奪うことのみを狙っている。断じて行きがかりの暴漢の類ではない。いま彼はもっと厄介な脅威に晒されている。
落ち着いて思考を整理するか、或いはただひたすら駆け足に専念するか。――当然ながら、今この場では選択の余地などありはしなかった。
夜会は宴もたけなわの頃合いと見えて、来客者たちは杯を手に思い思いの場所に散っている。リンゼント伯爵夫人は人いきれにでも当てられたのか、庭園の外れの植木を巡らせた四阿で独り、徒然と酒気の酔いを醒ましていた。
タウにとっては願ってもない状況である。血染めの袖をぶら下げたままでは表門から入るわけにもいかず、裏の勝手口からこっそりと忍び入ってきた身であった。人目につかない場所で知己の顔に頼る必要が、今の彼にはどうしてもあった。
「ああ、親愛なるマダム。今夜はまた一段とお美しい――」
ふらりと植木の陰から現れたタウに、リンゼント夫人はまず驚いて身を竦ませ、そして彼の蒼白の顔色と深紅に染まった左腕の有様に、続けて悲鳴を漏らしそうになった。
「あ、貴方は、まぁ、一体……まぁまぁ! どうしたこと!?」
「驚かせてしまい申し訳ありません。不肖この身は……えぇと、その……」
さんざん練習して鍛えた弁舌も、さすがにこの有様で発揮できるほど堂に入ったものではない。タウはぞんざいに溜息をついて気取った口調をかなぐり捨て、平素に要件だけを述べることにした。
「火酒と……それから針と糸を用意していただけますか? できれば人目を忍んだ上で……」
夫人は口元を押さえてしばし瞠目していたものの、そもそも野人まがいの傭兵なぞと遊んでみようと思い立つだけあって、気丈な性根の持ち主でもあった。「暫し、お待ちになって」と言い残し、足早に館の方へと引き返す。
いったん無人となった四阿のベンチにタウは腰を下ろして、ようやくありついた休息に安堵の吐息を漏らした。取り急ぎ肘を縛って止血しただけの左腕の傷を、改めて子細に調べる。幸いなことに、骨や腱にまで刃は届いていない。頸動脈の対価に片腕を差し出すぐらいの覚悟でいただけに、持ち前の悪運には感謝してもしきれない。
「――これで、宜しいかしら?」
思いのほか早く戻ってくれたリンゼント夫人は、火酒のボトルと、裁縫道具の小箱をタウに差し出した。懐疑と怯えにやや顔色を無くしているものの、その瞳にはありありと好奇の光を宿している辺り、つくづく有閑貴族の倦怠というやつは根深いのだなとタウは呆れて笑いそうになる。
「忝ない……この先は、いささかご婦人には刺激の強すぎる見世物になりますが、失礼……」
先にそう詫びてから、まずタウはいったん口に含んだ火酒を左腕に噴き掛けて浴びせ、そうして洗浄と殺菌を済ませた傷口を、針と糸で縫い合わせにかかった。
この程度の傷の処置は傭兵稼業で慣れているが、だからといって痛みにまで慣れるというものではない。歯を食いしばり、痛覚からつとめて意識を余所に向けるためにも、タウはそれまで据え置きにしていた疑念の数々をまとめて思案しにかかった。
兎も角、今夜の自分は命を狙われている。それも襲撃者は手並みから察するに、その道の専門家に違いない。そういう手勢を雇って差し向けるほどの富と権威を持つ何者かから不興を買った、と考える他ない。
心当たりはいくらでもある。タウに愛妻を寝取られた亭主たちなら、誰しも彼のことを八つ裂きにしても飽き足らぬと思うことだろう。だが――日頃荒事には無縁の貴族たちなら、せいぜいがゴロツキを雇って袋叩きにする程度の発想が関の山ではないのか? そもそも命まで奪おうと思うほどの憎しみがあったなら、まずは捕らえて拷問するとか、もっと違う報復の段取りがあったはずだ。そこに違和感がある。タウの直感するところ、あの暗殺者たちはまさにタウを殺すためだけに殺しに来た。その大本の狙いは、おそらく怨恨とは別のものだ。
そこで自らの近況を顧みて、腑に落ちないもの、奇妙な事柄、不可解な謎がなかったかと検証する。――まず真っ先に思い当たるのはキリアン夫人の黄玉のネックレスだ。あの法外な買取額と宝石商の奇妙な態度、そして彼が漏らした謎の言葉。
ひとまず傷の縫合は終わった。気も漫ろに針を扱ったにしてはまずまず上等な仕上がりである。痛々しいその行程を最後まで悲鳴も漏らさず――むしろ淫靡な興奮すら覗わせつつ――見守ったリンゼント夫人に、タウは力のない微笑みを贈る。
「斯様な血腥い場面から目を逸らすこともないとは、流石にマダムは気丈な御方だ。貴女には冒険家の素質がありますね」
「まぁ」
空々しい賞賛の言葉を真に受けて気を良くする夫人に、タウは重ねて質問を続ける。
「……マダム、唐突で恐縮ですが、『狼茄子党』という言葉に心当たりは?」
日頃からご婦人との話題には事欠かないよう、世間の風聞には努めて耳を澄ましているタウではあるが、それでも都暮らしはまだ日も浅く、そこまでの事情通を自負しているわけでもない。ひとまず気の置けない相手なら訊くだけのことは訊いておこうと、無駄を覚悟で発した問いだったのだが――忽ちリンゼント夫人が忌まわしそうに眉を顰めたのには、むしろ驚かされた。
「そんな不穏な言葉を軽々しく口にしてはいけませんわ! 誰の耳に届くか知れたものではありませんことよ!」
そわそわと周囲を見回して、すわ盗み聞きしている手合いはないものかと探すリンゼント夫人だが、しかし危険な秘め事とあっては尚のこと喋りたくなってしまうのが、噂好きな女性の常である。タウが無言の眼差しで切望すると、さも仕方がないと言いたげに深い溜息を吐いてから、夫人は声を潜めて語り始めた。
「狼茄子といえば、かの王弟殿下が好んで使われた紋章ですわ。先頃の動乱で王位簒奪を目論んで追放の憂き目を見た御方ですからね。それはもう不吉な図案として、今では何処の家紋でも狼茄子を飾ることはありません。ところが……噂によると、今なお王弟殿下の復権を目論む忠臣たちが、国内に隠れ潜んで蜂起の機を窺っているとも言われていますのよ。それが『狼茄子党』と名乗る秘密結社ですの」
「……」
話を聞いてみたものの、タウにはその内容をすんなりと吞み込むことは出来なかった。なにも夫人の説明が難解に過ぎたわけではない。その意味するところがあまりにも重大すぎて、まかり間違っても関わり合いを持ちたくないと思うが故に、意識が理解を拒んだのである。
「その隠れた王弟の一派というのは……その、もし実在すると仮定して……何か、見分ける方法などはあるのでしょうか?」
目を白黒させているタウの有様が、聞き手としては大変に好ましいものだったらしく、リンゼント夫人はいよいよ快調な饒舌ぶりを発揮する。
「これまた諸説あるのですけれど、例えば――彼らは秘めた忠誠の証として、互いに特別な宝石を分け持っているとか。魔術で石の内側に狼茄子の家紋を焼き入れておき、光に透かした時だけ見える仕組みになっているんですって。各々身分を秘している同胞同士が、そうやってお互いを確かめる手段にするんでしょうね」
「……はは、は……」
平静を装って笑おうとしたタウだったが、掠れきったそれはもはや呻き声と大差がなかった。
「はは、何ともはや……まるで芝居の台本のように凝った道具立てですね」
「まぁ、一時期は大層持て囃された風聞ですからね。色々と尾鰭もついたのではないかしら?」
そんな時代遅れのゴシップでも、都に来て間もない田舎者ならば大層恐れ戦くものだという発見に、夫人はまんざらでもない様子だった。勿論、タウが戦慄に身を凍らせている理由など、彼女の想像の及ぶところではない。
「はは、まぁ、その……もし仮にですよ? その王弟派の不埒者が高い地位を得ていたとして……そんな危険な宝石を、一体どうやって衆目から隠していると思われますか?」
「そうねぇ……」
愉快な謎かけ遊びに興が乗り、リンゼント夫人は唇に指を当てて考え込む。
「……そう、木を隠すには森の中、とも言いますし……たとえば贈り物とでも名目をつけて細君の宝石箱に忍ばせてしまうとか? 女なら宝石なんて幾ら持っていても不思議はありませんものね。まさか一つ一つ検分していたらきりがないでしょうし。もし万が一疑いをかけられて捜索される羽目になったとしても、滅多なことでは見つからないのではなくて?」
「……陰謀に奥方を巻き込む、と?」
「まぁ、口さがない女性は秘めた企てには不向きかもしれませんが。それならいっそ何も教えずにおけば良いのです。ただの宝石だと思わせておけば……ええ、そうね。いっそ台座から装飾から、身につけて歩くには憚られるほど悪趣味な拵えにしておけばいいわ。そうすれば宝石箱に秘蔵しておくしか他にないですものね」
――待て。ちょっと待ってくれ。
夜の街路を駆け抜けながら、タウは何処に居るとも知れぬ運命の女神に抗議する。
俺はただ単に、好色な年増女の火遊びに付き合って泡銭を稼いでいただけの筈だ。危ない橋を渡る謂れなどこれっぽっちもありはしない。それがどうして、いったい何処をどう間違えば、国家を揺るがす陰謀劇なんぞに首を突っ込む羽目になるというのだ?
かつての王弟の謀反など、辺境の戦地を這い回っていたタウにとっては雲上の出来事だった。その詳細な経緯などまったく知る由もない。狼茄子が王弟ゆかりの紋章だというのさえも初耳なのだ。いきなりそんな大それた騒動に巻き込まれたところで、泡を食って逃げまどうしか他にない。今のタウの心境は、地表で象が喧嘩しているとはつゆ知らず巣穴を這い出てしまった蟻のそれだった。
タウを襲った暗殺者たち――そしてその黒幕であろうキリアン伯爵こと王弟派秘密結社『狼茄子党』の狙いは、伯爵夫人からタウに託された黄玉のネックレスにあると見て間違いない。だがその肝心の切り札は、今のタウの手元にはない。それは即ち、自らの命を繫ぐ頼みの綱を手放しているも同然だ。
故にタウが夜の静寂を踏み荒らし、息を切らせながら馳せる先は、他でもない宝石の在処――彼から二〇〇ザーフでネックレスを買い取った宝石商の店である。もちろんとっくに店仕舞いしている時刻だが、もとより穏便に買い戻すつもりで向かっているわけではない。いざとなれば強盗の真似事をする羽目になったとしても、あの黄玉は奪還しなくてはならなかった。さもなければ『狼茄子党』の魔手から身を守る術は何もないのだ。
ようやく目指す商店の前まで辿り着いたところで、タウは周囲を見回し、辺りに人気がまったくないことを確かめる。この後の顚末の如何によっては、この静寂が心強い味方になってくれるかもしれない。
店内の明かりは当然ながら消えているが、建物の造りからして、この商店は住居も兼ねているはずだ。扉をノックしようと拳を上げたところで、タウは一旦思い止まった。
もしも店主が就寝しているなら、このまま密かに忍び入って事を済ませてしまうのも手だ。だがもし仮に――考えたくもない話ではあるが――店主が既に件の宝石を転売してしまった後だとすれば、押し込み強盗は徒労に終わる。その場合は店主から直々に売り先を聞き出さなくてはならず、ならばあたら無断で押し入って相手の心証を損ねるのは悪手でしかない。
悩んだ挙げ句、まずは玄関の鍵が簡単に破れるほど安易なものか検めるところから始めようと思い立ち――そこでタウは、扉が施錠されていないことに気がついた。
悪い予感が群雲のように胸の内に拡がる。
そっと足音を忍ばせて店内に踏み込み、人の気配がないか探る。タウを迎え入れたのはいかにも空き家然とした静寂だった。声を上げて呼びかける代わりに、タウは窓からの月明かりを頼りに火打ち石で卓上のランプに火を灯す。
顔馴染みの店主はそこにいた。
おそらくは死後一両日といったところか。首に残った細く目立たない絞殺痕は、玄人の暗器によって刻みつけられたものだろう。店内に争った形跡はない。きっと故人には抵抗する暇さえ与えられなかったのだろう。
遺体の両手は後ろ手に縛られ、その指には明らかな拷問の痕跡があった。それが物語る事態の真相に、タウはいよいよ暗澹たる気分になる。
そもそもタウが襲撃を受けた際、宝石の在処を問うことすらせず即座に命を狙われたことから察しがついて然るべきだった。そして店主が買取の折、宝石の来歴にこそ価値があると言い張っていた意図も、よく考えていれば見抜けたはずだ。
おそらくこの店主は、あの宝石を使ってキリアン伯爵を恐喝しようとしたのだろう。そして愚かな心算の報いをこうして受ける羽目になった。狼茄子党は既に宝石の奪還を済ませているのみならず、それが流出した経路についても把握している。店主は指を一本ずつ潰されながらも秘密を守り抜こうと思うほど、タウとの間に深く麗しい友情を築いていたわけではない。
つまり、タウが襲われたのはただの事後処理――証拠隠滅のための口封じだ。
リンゼント夫人から情報を得るや否や、必死でここに駆けつけたものの、全ては完全な無駄足だった。既にタウには活路などないのである。
尚も生き存えようとするならば、あとは一切合切をかなぐり捨てて行方を眩ます以外にはない。狼茄子党が追跡を諦めるまでにどれだけの距離と期間を要するかは知れたものではないが、一刻の猶予すらないことだけは歴然だ。
この都に来て以来の稼ぎはすべて住居に残したままだ。が、今から取りに戻るなど愚の骨頂でしかない。どうせ追っ手はタウの塒の所在も突き止めていることだろう。我が身の不幸に頭を搔きむしりたくなるタウだったが、それよりもまず先に考えるべきことは他にある。
時刻はまだ夜半には至っていないが、あと少しすれば何も知らないキアが帰宅してしまう。まず間違いなく待ち伏せされている部屋に、彼を一人で戻らせるわけにはいかない。
既にもう精も根も尽き果てそうだというのに、まだまだ今夜は走り続けなければならないようだ。今いる街区から港の船揚場までの距離を思うと、それだけで目の前が暗くなるタウだった。
疲労困憊の態で何とか港まで辿り着いたはいいものの、予想と異なる船揚場の雰囲気に、タウは眉を顰めた。
またしても倉庫の中からは、数人以上の人間が集まっている気配がする。ただ薬を買いに来ただけの客をそのまま返すことなく留め置いているのだとしたら、キアはまたぞろ何か妙な悪巫山戯を始めているのだろうか。もう徒に人を惑わす乱痴気騒ぎは慎むとキアは約束していた筈なのだが。
だがすぐに、タウは事態がそう単純なものではないらしいと気付いた。確かに倉庫の中は騒がしいものの、大勢が無闇にざわめいているのではなく、誰か一人が朗々と声を張り上げて説法らしきものを打っている。それもキアの声ではない。
嫌な予感はしたが、刻一刻と迫ってくる追っ手の影を思えば、悠長に様子を窺っていられる状況でもない。たとえキアが不在だったとしても、その行方についての手がかりを得られるのは此処しかないのだ。意を決し、タウは小さく開けた扉の隙間にそっと身を滑り込ませ、手前にある漁船の陰に身を潜めたまま、倉庫の奥の様子を窺った。
驚いたことに、そこに集まっている人数は前に来たときの二倍を優に超えていた。みな全裸ではなく着衣のままなので、今度は各々の身分、素性がありありと見て取れる。商人や職人、何処かの館の奉公人の他に、明らかに貴族とおぼしい身なりの者も大勢いた。キアの媚薬がどれほど幅広い層に普及していたのかを物語る光景である。
人々は装いがまちまちなだけに、むしろある一つの共通点が否応もなくその異様さを際立たせていた。――全員が全員、揃いの白い覆面を頭からすっぽりと被って顔を隠しているのだ。
そんな不気味な集団が、押し黙ったまま一人の男の演説に聴き入っている。木箱を積み上げた急拵えの演台の上で、その人物だけが皆と同じ白覆面の他に、覆面と揃いの誂えの長衣を纏っていた。純白の布地の胸には、金糸で何やら円形の大仰な紋章が刺繡されている。堂々たる語り口と芝居がかった身振り手振りは、聴衆を前にした説法によほど慣れ親しんでいる人物と見える。
「――よって衆生は虚飾の帳に目を曇らされた蒙昧に過ぎぬ。かつての諸君がそうであったように、この私もまた然り。三〇年に亘り聖魂に仕え、ただひたすらに修道に努めた日々からは、ついぞ真実の光などもたらされはしなかった。……だがしかし、金瞳の御子との出会いが全てを変えた! かの眼差し、かの御言葉によりもたらされた魂の解放と法悦は、諸君に! そしてこの私に! 永遠の楽園への道標を指し示すものだった!」
察するに、どうやら男は聖魂教会の司祭か何かであった様子だが、その常軌を逸した説法の内容は明らかな異端、否それどころか信仰の破棄を堂々と公言するものだ。とても正気の沙汰とは思えないが、覆面の聴衆はそれに異を唱えるどころか、口々に賛同の声を上げている。
「もはや真実の世界は我らの前に、偽らざる姿を詳らかにしている! ならばこの期に及んで塵世の規範に、倫理に、徳性に、どうして省みるほどの価値があろうか! さらなる真理の探究、さらなる魂の解放を求めて道を説く天命を授かった私は、今ここに『黄金瞳教団』の開闢を宣言するものである!」
熱を帯びた快哉の声は、ここに集う群衆が一人残らず、演壇上の司祭と同じ狂気を共有していることを物語っていた。そのおぞましさに、覗き見しているタウは総毛立つ。
キアの興味本位によって精神の暗部を暴かれた人々が、以後の日常に支障をきたす可能性について、タウはつとめて考えまいとしていたのだが……果たしてそれがここまで逸脱した思考を育むに至るなどとは、どうして想像できただろうか。
「我らに啓示をもたらした金瞳の御子は、明らかに人知を超えた超常の存在である。人語を解し人の似姿を装ってはいても、その正体は人ならざるもの。かの御子を生贄に捧げ、その生き血を神と分かち合うことで、我らはさらなる法悦の境地に至るであろう! よって信徒たる諸君に命ずる――彼の御子の居所を探し出し、我らが祭壇の上に饗すべし!」
「おおおおおッ!」
応じて威勢を放つ白覆面の群衆は、それぞれ手に包丁やら棍棒やら、思い思いの得物を携えている。どういう発想の飛躍か知れないが、彼らは自らを導いたキアを殺めることで教義の礎を固める気でいるらしい。
もはや用心も忘れ、ただ呆気にとられて立ち竦むタウの姿に、そのとき、振り向いた一人の信徒が気付いた。
「誰かいるぞ!」
警告の声に応じて、既に血の衝動を喚起されていた群衆の凶相が一斉にタウを注視する。
万事休す――そうタウが慄然となったとき、頭上から慣れ親しんだ声が降りかかった。
「タウ、“光”だッ!」
閃光の魔術による目眩まし――そうキアの意図を汲み取ったタウは、咄嗟に目を瞑る。次の瞬間、眩い光が立て続けに倉庫の中で炸裂し、居合わす人々の視野を焼き尽くす。
苦悶の呻きと混乱の悲鳴が荒れ狂う背後に一瞥もくれず、脱兎の如く倉庫の外へと逃げ出すタウ。その隣に、倉庫の屋上から飛び降りてきたキアが合流する。
「な――何やってんだお前は? つうか何やってたんだあいつらは!?」
「話は後だ! ともかく逃げよう!」
ああ、まだ走るのか……
もはや駆け足には辟易していたタウだったが、今夜リルボスの都には、タウとキアが吞気に歩いて渡れる路地など一つとしてないだろう。夜闇に乗じて動けるうちに、走れる所まで走り抜くしか、破滅から逃れる術はない。
後になってキアが語るところによると、彼が船揚場の倉庫に着いたときにはもう、白覆面たちの集会は既に始まっていたらしい。
徒ならぬ雰囲気においそれと踏み込むわけにもいかず、かといって事情が分からないまま撤収するのも気が引けて、ひとまず密かに倉庫の屋根に登り、天窓から中の様子を窺っていたのだそうだ。
だが人数はその後も続々と増え続け、やがて三〇人を超える頃にはもう、勘付かれないように屋根から降りる手段がなくなってしまった。事を荒立てるのも気が咎め、仕方なくキアは為す術もないままに破戒司祭の演説をただ眺めていたのだが、後から駆けつけたタウの身に危害が及びそうになったところで腹を括り、魔術の行使に踏み切ったのだった。
「……どうして、あんなことになったんだろう?」
小高い丘の上から、朝焼けの光を浴びる都を遥か彼方に遠望しつつ、キアはそう困惑しきった態で呟きを漏らす。
全部お前のせいだろうが、と言いたいのは山々のタウだったが、キアにはきっと事の始まりと終わりを結ぶ因果関係がまったく見えていないのだろう。玩具がいずれ壊れるものとは知りもせずに遊んでいた子供のようなものだ。
「お前は人間を舐めすぎた。たった一つしかない林檎の実を齧って味をしめたら、次は自分で林檎の木を植えようと考えるようになるもんさ」
「……どういうこと?」
「お前に解放してもらった欲望を、今度は自分たちの力だけで解き放とうとして、連中なりに工夫した結果が“あれ”なんだよ」
「そんな……あんなの、見当違いにも程がある」
キアは深く溜息をつき、悲しげにかぶりを振る。
「僕は、いっとき自意識の枷を外すことで精神を自由な形に戻してあげただけなのに。彼らのあんな方法論では、ただ新しい自意識で新しい枷を自らに嵌めているだけのことだ。結局みんなあの演壇の男に支配されてたじゃないか」
「まぁ、仕方ないわな。つまりは誰も林檎の種がどこにあるのか知らなかったってことだ。何か得体の知れない種を林檎と勘違いして植えちまったわけだな」
タウの比喩に納得がいかないのか、キアは眉根を寄せて考え込む。
「……その喩えは、よくわからない。なんで林檎の種だと確信が持てないものを植えて育てようなんて思うんだ?」
今度はタウの方が溜息をつく番だった。
「それが人間ってもんだよ。種だと見たら、ひとまずそれを手当たり次第に植えてみる。『これが林檎でありますように』と願いをかけながら、な。――他人のことを理解しろ、っていうのは、そういう些細なことについて弁えられるようになれ、ってことさ。何も頭の中身を覗き込めなんて言ってるわけじゃない」
「そうか……」
難しいんだね、と呟きながらも、キアは感慨深げに頷いた。
「あの街では大勢の人間を観察してきたけれど。それでもタウと話している方が、結局は余程多くのことを学べる気がする」
「……まぁ、お前には馴染まない場所だった、てことなんだろうな」
憂い顔でそう漏らすタウに対し、申し訳なさそうに俯くキア。
「君はけっこう居心地好さそうに、上手くやっていたよね。タウ」
「いや、だったら良かったんだがなぁ……」
タウは一旦言葉を濁し、彼は彼で街から逃げ出さざるを得ない境遇に陥ったという、その経緯についてどうキアに釈明したものか、暫し思い悩んだものの、考えれば考える程に自分が惨めになってきて、すべて棚上げにすることにした。
「……つまりその、俺もな、やっぱりああいう生き方は性に合ってないらしい。色々と思い知らされて、な……」
「なんだ、そうだったのか」
タウが都を去ることに不服を持っていないと知るや否や、キアはあっけらかんと笑顔になった。
「だったらまた旅を続ければいいじゃないか。二人が二人とも馴染まない場所なら、長居する理由なんてないよね」
「……お前、いま幾ら持ってる?」
「金貨が五枚と、銀貨が――えぇと、一二枚かな。売るはずだった薬と一緒に釣り銭の小銭も持ち歩いてたんだけど、まとめて倉庫の屋根に置いてきちゃったしね」
悲しいかな、タウの手持ちはそれよりも少ない。二人合わせて一〇ザーフにも満たないとは、手元不如意にも程がある。
今は戻る望みすらない雑貨屋の二階部屋には、現金と宝石をひっくるめれば五〇〇ザーフ以上もの貯えがあった筈なのだ。古城の探索から持ち帰った財宝を元手に、粛々と育ててきた財産が、一夜のうちに露と消えてしまったのである。
「……こんなのって、ありかよ」
痛恨の思いに呻くタウを気遣うように、キアがその肩を叩く。
「ねえタウ、僕のこの服、質屋で適当な襤褸と交換してもらえたら幾らかにはなるんじゃないかな?」
「……そんな質屋がある街まで旅するのに、まずは路銀で手持ちが消し飛ぶ計算だよな」
「しばらくは節制するしかないね。まぁ、昔から野宿の旅には慣れてるじゃないか」
取り敢えず街道筋を目指そうか、と、足取りも軽く歩き出すキア。タウはその背中を追う前に、一旦立ち止まり、ありったけの未練を込めて都の方角を一瞥すると、あとは振り向きもせずに先を急いだ。
× × ×
聖魂教会の総本山において礼讃式典に臨んでいた国王に対し、暗殺者の凶刃が向けられた事件は、宮廷の諸公を大いに震撼させた。
企ては未遂に終わったものの、関与が明らかな者たちは残らず縛につく前に自害して果て、真相は今もなお謎のままである。が、すべては御代を脅かす王弟殿下の陰謀であろうという憶測は、半ば公然のものとなりつつある。
事件の現場に程近いリルボスの都には、王弟奉戴を悲願とする秘密結社『狼茄子党』の一派が隠れ潜んでいるものと噂されているが、懸命なる捜索にも拘わらず、今なおその実態は明らかにされていない。
さて件のリルボスの都といえば、いま巷を騒がせている『黄金瞳教団』の拠点としても不名誉な風聞を立てられている最中だ。善良貞淑なる紳士淑女を薬で惑わし、肉欲の虜に貶めるという淫祠邪教の輩について、聖魂教会は仮借なき審問と弾圧を行っているものの、その根絶までの道程はまだまだ遠い、というのが実情のようである。
邪教徒たちが喧伝する『金の瞳の御子』の噂は依然、密やかながらも怪異なる伝聞として各地へと伝播し、様々な噂や怪談となって民草の安息を脅かしているという。