金の瞳と鉄の剣
第二回
虚淵 玄 Illustration/高河ゆん
竜と剣、そして目くるめく魔法の世界。ファンタジーの王道中の王道に颯爽と挑むスーパータッグ、虚淵玄×高河ゆん! 2010年、ファンタジーの歴史に新たな一章が刻まれる……。最新&最高の“バディもの”がここに!
追っ手の足音と話し声は次第に遠ざかり、やがて木立の彼方にまぎれて消えていった。
それでもタウは大事を取って、息を殺し、全身を強張らせたまま身じろぎひとつせず辛抱を通す。
「――もう大丈夫。動いても構わないよ」
すぐ隣にある立ち枯れた古木がそう呟き、ぐにゃりと歪んで人間の姿を取り戻した。
幻影の魔法を解除したキアに倣って、タウもまた大きく息を吐きながら身体の力を抜き、傍らの大木に寄りかかる。ついさっき通り過ぎていった兵士たちには、タウの姿もまた何の変哲もない灌木に見えていたはずだ。
「今のは、危ないところだったね」
幻影で姿形を誤魔化して静物になりきるというのはキアの得意技で、彼は一〇分だろうが二〇分だろうが同じ姿勢を維持して身動きせずに過ごすという離れ業をやってのける。しかし平素から凝っとしているのが苦手なタウにとって、これはかなりの苦行だ。以前も狩りで獲物を待ち伏せるためにキアの幻影の助けを借りたことがあるが、そのときはくしゃみ一発で全てを御破算にしてしまった。
「お前の使う幻影ってさ……もっとこう、便利にならないもんか? 姿を透明にしちまうとか」
「君の身体を光が素通りするように変成させる手もあるんだけど、それだと君自身も光を受け止められなくなるから、周囲の様子を目で見ることが出来ない。それはまずいだろう?」
「うぅん……例えばだが、あいつらの目にだけ俺たちの姿が見えなくなるような呪い、とかはないのか?」
「そういう能動的な幻覚って、難儀でね。知覚に干渉するだけなら簡単でも、なおかつそれを本人に自覚させないようにするのが難しい」
「だってお前、似たようなことやってたじゃないか。鉢合わせした熊を素通りさせたり、とか」
「あれは熊が僕たちを探してたんじゃなくて、ただの突発的遭遇だから出来たんだ。あの熊だって、僕らを認識することは出来なかったけど、“何かがいる”っていう気配だけは感じていたんだよ」
魔法の術理についてはとことん疎いタウに、キアは辛抱強く説明する。
「あの兵士たちの目を完全に騙すためには、まず“敗残兵を捜索している”という意識そのものから刈り取らないといけない。まだしも受動的な幻影の迷彩で誤魔化した方が、安全だ」
「ままならねぇもんだな……」
「すまない。幻覚の類はまだ研究中なんだ。今すぐ実用的に使える術には限りがある」
キアを責めたところで始まらない。まさかここで人目を欺く魔術の類に望みを託すような有様になるなど、タウとて想像だにしなかったのだから。
災厄の始まりは、何のことはない儲け話である。
隣国でまたぞろ戦の狼煙が上がると聞き及び、勢い込んで馳せ参じたはいいものの、生憎と与する側を間違えた。運の巡りもあるにはあるが、何よりも編入された部隊の運用と指揮があまりにも拙すぎた。結局、二人はろくな武功を立てることもままならず、深い森の中を敵方の残兵狩りから逃れて彷徨い歩く羽目に陥っている。
「それにしたって、連中どうしてああもしつこいんだ? 一晩明けた後ならもう諦めたって良さそうなもんだろうが」
「スラグルス伯爵の軍に『龍殺しの戦士』が加わったって噂が、ちゃんと先方にも広まってたってことじゃないかい」
別段キアの言葉に皮肉の含みはなかったのだろうが、それでもタウは憮然となって、腰に差した短剣に手を添える。剣帯を飾る一際異様な拵えのそれは、以前屈服させた龍の角をキアが研ぎ上げて作った代物だ。ただでさえ並の鋼より遥かに強靱で硬質な龍の角を、刃の分厚い『鎧通し』として仕立てたため、これがタウの腕力で振るわれると、まず大抵の甲冑ならば易々と穴を穿つほどの威力を発揮する。
尋常な武器でないことは一目見れば明らかなぶん、それが龍殺しの噂話と相俟って、まず一流の傭兵としての押し出しは充分である。以前に比べれば破格といえる契約金を提示され、つい数日前までのタウは有頂天だった。
だが名うての勇者として戦列に加わることは、同時にその首級を挙げて武功にせんとする敵兵たちから真っ先に標的にされるリスクも伴う。
悲しいかな、いかに『龍殺し』の謳い文句があろうとも戦場に於いては一介の兵。指揮する者が用兵を誤れば活躍の場さえも与えられない。
今回、タウとキアが配属された部隊はまんまと敵の奸計に嵌り、行軍中を奇襲されるという無様を晒して反撃の暇もなく瓦解してしまった。遠路はるばる稼ぎに出向いた二人は、むざむざ人狩りの獲物になりに来たようなものである。
「せっかく手に入れた“風聞”だけど、どうやら裏目に出たみたいだね」
「……まともに合戦の場で戦ったなら、誰であろうが返り討ちにしてやったさ。なのに何だよこのザマは? 戦う前に負けてるなんて馬鹿な話があるもんか!」
遣り場のない怒りに声を荒げて、タウは手近な樹の幹を殴りつける。あまり大騒ぎをすれば敵の追っ手に気付かれるやも知れず、ただ喚いて憂さを晴らすというわけにもいかない。
「本隊とは別に伏兵を敵陣の背後に回り込ませて挟み撃ち、ってのはまぁいいさ。だったら別働隊は精鋭だけに絞って編制するのが当然だろ。頭数揃えるためだけに農兵まで加えたってのはどういう了見だ? おかげで統率もへったくれもあったもんじゃねぇ!」
ろくな訓練も積んでいない農兵たちの中には、先を急ぐ強行軍に堪えかねて途中脱落した者も何人かいた。大方そのうちの誰かが敵の斥候に捕まり、別働隊の居場所が露見したのではないかとタウは睨んでいた。
「ああ、クソッ! スラグルスがこんなに間抜けと解ってりゃあ、もう少し足を伸ばしてオゥラ側に付いたってのに……」
「後悔したって始まらないよ、タウ。ともかく今は生きて逃げ切ることを考えないと」
普段のキアなら、この程度の窮地は何処吹く風とばかり平然として気にも掛けないところだろうに、今回はやけに神妙だ。心配させてしまっている――そうひしひしと感じるタウは、焦りと不甲斐なさに歯嚙みするしかない。
タウの左足首には添え木が当てられ、帯紐で固く縛られている。敵の奇襲を受けた際の乱闘による負傷だった。初めはただの捻挫に過ぎなかったが、戦線を離脱するために無理をしたせいで相当悪化してしまい、もう引きずるだけでも激痛に歯を食いしばる有様だ。
今は鞘込めの剣を杖にしなければ、満足に歩くことも適わない。武功を狙って持参した得物がこんな形で役立てられるとは、あまりにも皮肉に過ぎる話だった。
いかに修羅場慣れしたタウとはいえ、こうなると素早く駆け足で安全圏まで逃れることも、敵の追っ手を斬り伏せて強行突破することもままならない。ただ小動物のように木陰に隠れ潜みながら逃避行を続けることだけが、今の二人に与えられた唯一の活路であった。
「なぁタウ、ひとつ提案なんだが」
「ん?」
「連中が追っているのは『龍殺しの英雄』なんだから、今のうちにその短剣を捨てて、農兵くずれに化けるのも手だ。僕らの噂は広まっていても、まだ人相までは知れ渡っていないと思うし」
そう言ってタウの腰の短剣を指差すキアの、あまりにも未練のない口調に、タウは鼻白む。
「おいおい……それじゃあ、あの雪山で龍と戦った苦労が水の泡になっちまうだろうが」
「この場を切り抜けるためなら、それも仕方ないんじゃないかな」
どこまでも冷淡なキアの諫言に、しかしタウは断固としてかぶりを振る。
「心配するな。まだまだそこまで追い詰められちゃいねぇよ。あんな連中、どうとでも出し抜いてやれるさ」
なおも何か言おうとするキアを無視して、タウは歩き始める。一歩ごとに身体の芯を突き抜ける左足の痛みも、圧し殺して表情に出すまいと堪えた。これ以上キアに余計な気遣いをさせるわけにはいかない。
どうあっても腰の短剣を手放すつもりはなかった。立身出世の梯子を登る上で、まず最初に足をかけるための階が、『龍殺し』の証明であるこの短剣なのだ。たしかに一段目にしていきなり足を滑らせた感はある。が、ただそれだけのことで、ようやく手に入れた足場を無駄にしてしまうわけにはいかない。さもないと全てが振り出しに戻ってしまう。
ここが意地の通しどころ――と、キアに説いたところで通じるまい。成り上がるのに必死なタウの胸中を、未だにキアは理解しようとしない。不思議と思うなら、それでいい。今はタウの虚勢と無謀を、ただ首を傾げながら目に焼き付けておけばいい。
いずれ高みに登り詰め、この辛酸の日々が過去のものになった後で、キアも顧みたときに解るだろう。えてして一廉の人物というものは、数限りない愚行と蛮勇を礎にしてその地位を築いているものだ。
キアの先に立って進もうと思うなら、タウには痛みに顔を顰めている余裕などなかった。
「……蛇苺か? これ」
そこかしこに目に付く小さな赤い果実を、タウは訝しげに眺めながら呟く。
蔦は地を這うだけでなく木々の幹にまで絡みつき、一面に繁茂している。ただの群生、というだけでは説明がつかないほどの密度は、何やら不自然な、妖しげなものを感じさせた。
「こんだけ鈴生りになって獣に食い荒らされてないってのは……毒でもあるのかな?」
「変だよね。普通の蛇苺なら無毒のはずだけど」
応じるキアの面持ちは、心なしか強張って見える。薄緑色の瞳をせわしなく動かして周囲を警戒する様子は、むしろ追っ手の兵士たちと遭遇したときよりも緊張しているかのようだ。
「何か気になるのか? キア」
「……さっきから、鳥や動物の気配を感じない。ここは絶好の餌場のはずなのに」
「俺たちが近寄って逃げた、ってわけじゃ……ないのか?」
「だとしても虫さえ見かけないってのは奇妙すぎる。あまり長居したくない場所だね、ここ」
とはいえ、先を急ごうというのも酷な話だった。足の怪我を押して歩いているタウの疲弊の度合いは目に見えて深刻だ。むしろ叶うならこの辺りで一度休憩を取らないと、先が続かないかもしれない。
相棒への気遣いと、本能的な警戒心の板挟みに眉根を寄せながら歩くキアの行く手で、ふいに木立が開ける。
深い森の中に忽然と現れたのは、楚々と澄んだ水を湛えた池だった。対岸までの距離は大凡三〇〇フィートほどだろうか。見たところ渓流の出入りはなく、ただ湧き水が溜まっただけのものらしい。
流れのない水場だというのに、沼のように澱むでもない清水は、見るからに不自然だった。そもそも沼沢につきものの蜻蛉が見当たらない。湧き水が鉱毒でも帯びているのかと疑いたくなるが、それにしては岸辺に青々と茂る緑の瑞々しさがそぐわない。大地は絨毯のように分厚く柔らかい苔に覆われ、相変わらず我が物顔で繁茂する蛇苺の蔦が、赤い実をたわわに実らせながらそこかしこを這っている。
「……」
キアは用心深く岸辺に近寄り、池の水にまず杖の先を浸し、それから手に掬い取って子細に観察した。探知の術で水に魔力を通してみても、反応には何の変哲もない。――ごく普通の、ただの水だ。毒どころかむしろ、若干ながら草を育む類の滋養を多めに含んでいる。この辺りの奇妙な植物の茂りようは、この池水が原因のようだ。
「――ここいらで、いったん休憩にしようか」
「いや、だが……」
キアの提案に、タウは不安そうに周囲を見渡す。身を隠すのに適した場所だとは、お世辞にも言えない立地だ。
「大丈夫。辺り一帯がこれだけ静かなら、誰か近付いてくればすぐ判る」
適当に言い繕うキアだったが、本音のところはタウの容体が最大の理由であった。強情なタウは弱音こそ漏らさないものの、その苦痛の程は蒼白の顔色のせいで訴えるまでもなく歴然だった。
タウもまた、目の前の池が湛える澄んだ水に喉の渇きを堪えきれなくなったのだろう。キアが思っていたより素直に折れて、頷いた。
「座って、足を見せてくれ」
キアはそう促し、タウがそっと用心深く腰を下ろすのを待ってから、左足の添え木を外して包帯を解き、傷の状態を検める。さすがに腫れが酷い。これ以上の移動は諦めざるを得なかった。
「……周囲を確認してくる。問題ないようなら『警報』の要石も置いてくるよ。すぐ戻るから」
「ああ、済まねぇな」
ようやく苦痛から解放された安堵に深く吐息をつきながら、タウは柔らかい苔の上に背中を投げ出して寝転がった。キアは少しだけ逡巡した後、空になっていたタウの水筒に池の水を汲んで手渡すと、再び森の中に分け入っていった。
独り残されたタウは、改めて周囲の景観に見入り、耳を澄ます。静寂を乱すのは、風にそよぐ梢のざわめきだけ。キアの指摘した通り、鳥の囀りも、虫の羽音も、まったく聞こえない。水面に細波を刻む小魚さえ、この池にはいないらしい。
曇天の彼方にある陽は高さすら定かでなく、地に影を落とすこともないため時刻を推し量ることもままならない。夜通し歩き続けて迎えた朝から、一体どれほど時が経ったのだろうか。
キアが汲んだ水筒の中身に口をつけ――その冷たく爽やかな喉越しに目眩さえ覚えながら、タウは貪るように飲んで渇きを癒やす。そうして人心地ついた途端に、ここまで無理を強いて歩いてきた疲弊が、どっと押し寄せてくるのを実感した。
確かに妙な場所だとは思いつつ、タウは背中を包み込むかのような苔の柔らかさに抱かれて、猛烈な眠気に囚われる。キアは何かが引っかかっている様子だったが、タウには何故か、ここが何の危険もない安息の場所だと、半ば確信めいた直感があった。警戒は必要ない。ここにいれば何者に脅かされることもなく、ゆっくりと休息できる筈だと……
抗いようもない睡魔に流されて、やがてタウは安らかな寝息を立て始めた。
――眠りの中でどの程度の時が過ぎたのか、茂みを踏み分ける物音に、ふとタウは覚醒する。空の明るさは依然として変化なく、してみると寝入ったのはほんの僅かな時間だったのだろうか。
半身を起こして振り向くと、森から姿を現したのはキアだった。なぜか妙に表情を欠いた思案顔のまま、手にした薬草を掲げて見せる。
「――途中で薬草を見つけた。湿布を換えるよ」
「ああ、頼む」
キアは鞄から取り出した乳鉢で手早く薬草を磨り潰し、調薬を済ませると、再びタウの足の包帯を解いて古くなった湿布を交換する。
「……驚いたよ。わりと珍しい草の葉だってのに、この一帯には雑草みたいにいくらでも生えてる」
「やっぱり何かおかしいのか? ここは」
「まあ、何故おかしいのかはもう解ったけどね」
淡々と素っ気ないキアの口調は、言葉とは裏腹に喜色など微塵もなかった。
「解った……って?」
「タウ、別に僕はね、こんなにさっさと戻ろうと思って引き返してきたわけじゃない。ずっと真っ直ぐ歩いていただけなんだ」
キアの言葉が意味するところを、タウはしばらく判じかねた。
「――方角を、間違えた?」
「そこまで方向音痴じゃないよ。多分、この池を中心とした周囲の空間が歪んでる。僕らは閉鎖された結界に閉じこめられてるのさ」
あっさりと途方もない事を言い捨てるキアに、タウは開いた口が塞がらない。
「おい、それって――」
「ここは幽世、おそらく妖精郷の一種だろうね。僕らは『神隠し』に遭ってるんだよ、タウ」
幸いなことに――と口先では言いながら、キアは状況を歓迎すべきか危惧すべきか悩むかのように、複雑な面持ちで先を続けた。
「こういう呪的に閉鎖された空間に外部の者が迷い込むっていうのは気が遠くなるほど希少な事故だ。虫や鳥さえ入ってこれないんだから、ただの偶然で侵入するのがどれだけ確率的に難しいか解るだろう?」
「まぁ、それは……だが幸い、ってのは何でだ?」
「僕らは追われる身だったわけじゃないか。オゥラ侯爵の兵士がこの妖精郷に踏み込もうと思っても、それこそ森にいた鳥や虫と同じ数の兵を揃えたって無理だってことだ」
成る程、ただ追っ手をかわすためだけの逃避場所と考えるなら、ここは絶好の隠れ家と言える。
「しかし、偶然とはいえ、よくもまぁ――」
「短絡的に考えるなら、僕らは途方もなく幸運だったってことになるけれど。でもそれも、この妖精郷から出て行く方法をきちんと見つけ出せた場合の話だよね」
「……解らないのか? お前でも」
う〜ん、とキアは悩ましげに唸りながら、慎重に言葉を選んで返答する。
「もっと詳しく調査してみないことには、何とも言えないところだね。どういう現象が起きているのか解っている以上、魔力の起点を探し出せば対処はできる。――理屈の上では、ね」
「時間をかければ、どうにかなるってことか?」
「保証の限りじゃないけれど、努力はするよ。……いや、そんな顔をしないでくれ。別にまだ悲観するほどの材料なんて何もないんだから」
そうは言われてもキアの話に楽観的な部分は何一つないのだが、タウは喉まで出かかった難癖を堪えて吞み込んだ。何が相手に不安感を与えるかという会話の機微について、キアは疎い。そもそも彼自身が不安や恐怖といった感情に不感症気味のところがあるだけに、他人のそれを慮れと言われても、さぞや難儀なことなのだろう。
「たしかに時間はかかるかもしれないが、それは君にとって好都合とも言えるんじゃないか? タウ」
「あん?」
「ここは怪我の療養にはうってつけの場所だよ。外敵の心配は皆無だし、原則としてすべてが停滞する場所だから、天候や気温の変化もないはずだ」
言われてみれば、薄曇りの空の明度は、ここに来てから一向に変化する様子がない。むしろ雲の向こう側に太陽があるのかどうかすら、こうなってみると怪しい限りだ。
「だけどな、いくら安全だからって、食料は――」
言いさして、タウは周囲のそこかしこに実をつけている蛇苺に目を留める。
「毒がないのは確認したし、栄養価も充分だ。これだけあったら飢える心配はないさ」
「……こんなチンケな実だけで食い繫ぎながら、療養もへったくれもあるかよ」
ぼやきながらも、タウは手近に生っていた実のひとつを摘み取り、口に運んで――そして愕然と目を見張る。
「う……旨ぇッ!? 何だこれ、本当にただの蛇苺か!?」
「まぁ、妖精郷の果実なんだから、普通の野生のものとは質が違って当然だけど……あー、タウ? いくら毒性がないからって、あんまり一度に食べ過ぎると身体に障ると思うけど」
がつがつと手当たり次第に辺りの実を食い貪りはじめたタウを、さすがに見かねて諫めるキア。
「こりゃあいくら食ったって食い飽きないぜ。キア、お前だって食ってみたんだろ?」
「まぁ、必要量だけね」
さらりと返すキアの淡泊さは、相変わらず衣食住や性欲といった肉体的な欲求にまるで無頓着な彼ならではのものだ。
「ともかく、僕もしばらく腰を据えて調査に当たるつもりだ。タウ、君は君で傷を癒やすのに専念するといい」
「なんか……退屈しそうだな」
そう漏らしたタウのぼやきが、何故かキアにはいたく面白かったらしく、彼は朗らかに相好を崩した。
「退屈なんて、君にとっては滅多にありつけない贅沢じゃないか。タウ」
「――まぁ、それもそうか」
敵襲を警戒することも、路銀の目減りに神経を尖らせることもなく、ただ漫然と寝て過ごすだけの時間――思えばどれほど久しいことだろう?
キアの言う通り、漂泊の傭兵稼業にあっては決して望むべくもない休息を、彼らは得られたのかもしれない。
すべてが停滞するというキアの説明通り、その森には夜が訪れなかった。
どれだけ経っても、薄曇りの空の明度には僅かな変化すら生じない。時の流れは引き延ばされているのですらなく、完全に静止しているかのようだった。
だが一方で、タウの肉体の時間は確実に経過していた。蛇苺で得た満腹感は次第に薄れてやがて空腹へと立ち戻り、漫然と過ごすうちに眠気も訪れる。そして何より、あれだけ悪化していた捻挫の症状も確実に快方に向かっている。
この森は時の流れが止まっているのではなく、ただ変化のない環境を維持しているだけなのだろう。
静止や停滞といった言葉に伴う、“死”を連想させる負の印象は、ここにはない。木々は瑞々しく茂り、優しくそよぐ風が、空気を澱ませることなく常に新鮮で清浄に保っている。ただほんのいっとき動物が姿を消した瞬間を、永遠にそのまま保っているかのような――まるで終わらない白昼夢を見ているかのような場所だった。
野営など慣れたもので、体内時計の精度にはそれなりに自信があったタウだったが、ここまで異常な環境で時間の感覚を保つのは難しかった。そもそも何か目安になるような作業をしていたのならまだしも、ただ傷の養生のために横になって過ごしていたのだから尚更だ。
その点キアは相変わらずというか流石というか、何か魔術的な手段で正確に時間を計ることができたらしく、いま結界の外が何時に当たるのか、いつタウに問われても即答できた。
「――そうか、不安だよね。じゃあこうしよう。僕はこれから森を四時間調べた後、ここに戻って休憩を二時間、のサイクルで生活する。朝、正午、夕方、真夜中に君と顔を合わせることになるから、それで時間の感覚を摑むといいよ」
傭兵稼業の生活は、眠いときに眠れるようなものではない。休眠のリズムを切り替えて活動の時間帯をずらすのはタウとて日常的にやっていることだが、それを時計の歯車のような正確さで長期間維持し続けるのは至難の業である。
だが果たしてキアは、それをいとも簡単にやってのけた。四分割された小刻みな睡眠で、ちゃんと熟睡など出来るのかと心配になったタウだったが、平然とそれを繰り返して眠気など片鱗も見せないキアの様を見ているうちに、タウの心中は驚きと、そしてある種のやるせなさへと変化していった。
たしかに昼も夜もない環境ならば、いつ寝て起きようと構わない道理ではある。八時間まとめて寝るという生理的欲求も、それなりの期間をかけて慣らしていけば覆すことも可能だろう。だが一夜で切り替えるのは間違いなく身体に無理がかかる。
そういう苦痛に感じて然るべき行いを、キアは苦もなく平然とやってのける。それもタウに時間の感覚を維持させるという、実に些細な動機のために、だ。
キアは苦楽や快不快についての感覚が、常人と大きく隔たっている。今にして解ったことではないが、やはりそれを再認させられる度に、タウは胸の内に苦いものを感じずにはいられない。
キアが自ら時計の役を買って出てから、二日が経過した。捻挫を治す上での安静期間はもう充分だ。以後はむしろ可能な限り動かすよう努めていかないと、逆に筋が硬くなって後遺症を残す。
鈍りきった身体の怠さを堪えて、タウは池の周囲を巡って歩く運動を開始した。半周するごとに休息を入れ、冷たい池の水に左足首を浸して熱を取る。こんなにも吞気な療養など、戦場では望むべくもない。鎧を脱いで肌着一枚で過ごせるというだけで、まず有り得ない贅沢だ。
夜も昼もない池の畔の気温は暑くもなく寒くもなく、そもそも獣すらいないのだから火を熾す必要さえない。手を伸ばせばそこいら中にある蛇苺を摘み取って、腹を満たすことができる。
ただ森を彷徨い歩いていただけで迷い込んでしまった場所とはいえ、タウにはここが、かつて彼が必死で生き延びてきた日常と地続きの場所にある世界だというのが信じられなかった。――否、地続きというのは語弊があるのかもしれない。かくも隔絶した世界に徒歩で踏み込んでしまった無限小の偶然こそが、信じがたい奇跡なのだろう。
なぜこんな場所が存在するのか、キアが語っていた説明を思い起こす。
「蛇苺を食べた野鼠を狐が食い、その狐の骸が土に還って再び蛇苺の種を芽吹かせる。森の中のあらゆる諸相はそういう循環に囚われているんだ。人間の社会のように、富や権力を備えた者が一人勝ちする、ってわけじゃない。……でもね、蛇苺だって野鼠を養うために生えてくるわけじゃないんだよ。草花だって出来ることなら、誰にも邪魔されることなく存分に葉を茂らせたいと願ってる。そういう祈りが積もり積もって、円環の巡りを逸脱し、閉じた世界を形成すると、こういう場所が出来上がるんだ」
草木にも意志や願望があるというキアの言説は、タウには俄には信じがたいものだった。そんなタウに、キアは辛抱強く説明を続ける。
「命あるものには自ずと生きる上での指向があり、それは魂と呼んで差し支えない。獣にも草木にも魂があり、ヒトの意志に似たものを秘めている。人間には理解も認識もできないけれど、古来から人々は、そこに何かがあることを知っていた。そういう不可思議なものを称して、彼らは『妖精』と呼び習わしていたんだよ」
だがそんなものが、まるで魔術師の如く結界を操り、自然の法則を歪めたり改変したりできるのか? そう問うたタウに、キアは肩を竦めてこう返した。
「人間が普段暮らしている世界だって、あれはあれで結界のようなものだと思うけどね。さっきも言った通り、循環を基本則とする自然界の構造からは大きく逸れた、独自の秩序で成り立っているんだから。本当の意味で自然な環境と比べたら、人間の文明世界も、ここみたいな妖精郷も、あまり違いはないんじゃないかな」
……成る程、そういうものと説かれれば納得するしか他にない。が、だとしても疑問は残る。ここが草花の夢見た世界だというのなら、なぜ蛇苺を喰らう人間であるタウたちがこうして居座っていられるのか?
「うん、そこは僕も不思議なんだ。本当ならこういう結界は、万が一の事故で外界からの侵入を許しても、すぐに異物を排斥する防衛力が働くはずなんだけど……その辺の原因が解明できたら、出口を探り当てる術式もすぐに導き出せる筈なんだけどね……」
キアはタウの疑問に答えるにあたって、自らも思索に耽りながら、さらに先を続けた。
「まぁ、あくまで仮説だけれど……結界もこの規模になると、生き物ふたつぐらいは許容量、と見過ごされているのかもしれない。両方とも雄だから繁殖もしないし。まさか僕ら二人だけでここの蛇苺を絶滅させるまで食べ尽くすことなんて不可能だろう?」
それもそうだ、とタウは周囲の夥しい果実の量を眺めて、あらためて納得する。以前たしかに実を摘んだはずの場所に、今見ると既に新しい実が生っている。あくまで状態を変化させまいとするこの森の魔力は、こんな形でも働くらしい。
それにしても――また新たに一つ摘んだ実を口に運んで、タウはその瑞々しい味に溜息をつく。この味わいは何なのか。いくら食べても飽きるどころか、嚙み締めるほどにまた新しい旨みを発見する。かつて口にした肉や酒、どれほど美味だった食い物の記憶さえも薄れてしまう。きっとこれはこれで魔性のものなのだろう。とても尋常な果実とは思えない。
スラグルス伯爵も、オゥラ侯爵も、奪い合っている領土の片隅にこんな場所があると知ったらどんな顔をするだろうか? この不思議な実が生る地所を貴族どもに売りつけることが出来たなら、一体どんな値がつくだろうか……
「足の具合、だいぶ良いみたいだね」
「……ああ。まぁ、な」
曖昧に返事をした後で、もっと嬉しそうに答えるべきだったか、と、タウは気まずい想いに駆られる。
足首の痛みは殆ど消え失せ、もう歩くだけなら何の支障もない。試してはいないが、その気になればかなり激しい運動でもこなせるだろう。
これが戦の真っ最中なら、とっくに兵舎を飛び出して戦列に加わり、戦功を求めて躍起になっている頃合いだ。――そのぐらい、タウ自身も充分に承知していた。
「僕の方はまだなかなか芳しくない。結界の起点らしい場所はいくつか見つけたんだけど、組成となるとまださっぱり……」
「まぁ、焦ることもないんじゃないか? のんびり進めればいい」
申し訳なさそうに苦笑いするキアに、タウは歯切れ悪くもそう返す。
「……うん、そう言ってもらえると正直、助かる。君には急かされるかもしれないと思ってたから」
「そんなわけ、ないだろ。俺はただ待ってるだけしか出来ないんだし」
事が魔術とあってはタウの出る幕などあるはずもない。一切がキア任せである。
だが思えば、むしろ門外漢だからこそ、都合の良い無理難題をキアにふっかけるのが以前のタウではなかったか。
「……さて、じゃあそろそろ、続きに取りかかろうか」
休憩を切り上げて立ち上がるキアに、なぜかタウは訳もなく引け目じみたものを感じ、思わず声をかける。
「もし俺で手伝えるようなことがあるなら――」
「いや、大丈夫。ただ歩き回って調べるだけの繰り返しだから。むしろ一人の方が集中できて好都合なんだ」
「……そう、か」
そうしてまた森の中に消えていくキアの背中を見送りながら、タウは説明のつかない胸中のざわめきに苛立ちを懐く。
座り込み、腫れの引いた足首を撫でながら、タウはその苛立ちの元が何なのか自省しようと努めた。差し迫った問題など何もないというのに、一体、自分は何をこんなに焦っているのだろうか?
暫く身体を存分に動かしていないから、鬱憤が溜まっているのかもしれない。そう思い至ったタウは、立ち上がり、久しく放置してあった幅広剣を拾い上げる。思いのほかずっしりと腕にかかる重さに、どれだけ身体が鈍っているのか改めて痛感させられる。
「……参ったね、しかし」
苦笑とともに独りごちてから、ウォーミングアップを兼ねた素振りを数回。そこから慣れ親しんだ訓練の演武へと動きを繫いでいく。
流石に、急に遠慮のない動きをこなすとなると、左足にはまだ鈍痛が滲む。気にかける程ではないはずなのに、それでも意識せずにはいられないのは、やはり本調子ではないのか――或いは、精神的にも弛みきっているせいなのか。
どんなに強がって息巻いていたところで、人間の身体というやつは、捻挫一つでここまでままならない。
筋どころか骨をやられていたらどうなっていたか。とてもあの乱戦の最中を切り抜けることなど不可能だったし、もし運良く生き存えたとしても、傷が癒えるまで二ヵ月は身動きもとれない。その間の宿代は? 食費は? この池の畔で、ただ寝転がって蛇苺を摘んでばかりいた日々も、外の世界で享受しようとするなら相応の対価を要求されるのだ。
まして骨どころか足を斬り落とされていたら? ――もし仮に生き残ったところで、その先はどうする?
片足ではもはや傭兵稼業など望むべくもない。そして今更タウには他に手に職をつけられる見込みもない。物乞いでもしながら翌日までの命を食いつなぐ、そんな惨めな生活だけが待っている。
それがタウの人生の現実だ。他人がしでかした不始末のために、ただ使い潰されるだけの命。いくら腕っ節を高値で売り込んだところで、傭兵の身に甘んじる限り、それは免れようのない末路だろう。
いつか雇われるのでなく雇う側に立つ――そう志していればこそ明日に望みを託すこともできた。だがそこに至るまでに、彼はあとどれほどの幸運に恵まれなければならないのか? 負け戦から捻挫一つで生還し、さらにこんな絶好の隠れ家に転がり込める程の剛運が、あと何回巡ってくるというのだろうか?
振りかざす剣の切っ先が、やけに虚しい。
怒りに任せて、タウは振り上げた剣先を、手近な所に立っていた樹木の幹に突き立てた。刃は深々と食い込んだものの、そのまましなやかな繊維にがっつりと固く咥え込まれて抜けなくなる。
「……」
微動だにしなくなった剣の柄、それを摑んでいる両手を通して、タウの身体からどっと力が抜けていく。気がつけば彼は剣を樹の幹に刺したのか、樹の幹に刺さった剣にぶら下がっているのか、それすらも判然としない心地になっていた。
微風に揺れる梢のざわめきが、まるで声を潜めた嘲笑のように聞こえる。ちっぽけな人間の非力に呆れ、哀れんでいるかのように。
貼りついたように動かない指を苦労して剣柄から剝がし、ふらふらと池の畔まで戻って座り込むと、堪えきれずにそのまま仰臥する。柔らかい苔の感触が、どこまでも心地良い。もう二度と起き上がりたくないと思うほどに。
習い性となったかのように手を伸ばし、いつでもそこにある蛇苺の実を摘んで、貪り喰う。途端に口の中に拡がる甘さと芳しさに、頭の芯までも痺れそうになる。
そうだ、俺は、ちっぽけで――無力だ。
それから何度キアが池端に戻っては去るのを繰り返したか、タウはもう数えるのをやめていた。何かあれこれと問われた気もするし、適当にはぐらかす返事をしたような気もする。憶えていないほど些細な、取るに足らない事柄だったのだから、無理に思い出す必要もない。
ここで幾日を過ごしたのかなど、そもそも計る必要もなかったのだ。この森では時の経過に意味はない。樹に突き刺さったまま放置された剣の刀身には、既にもう蛇苺の蔦が絡みつき実をつけている。それを速すぎると訝ったところで何になるというのか。ここは、そういう場所なのだ。
今にして思えば、焦燥に突き動かされ、せわしなく生き急いだ過去の日々こそが、まるで狂躁の夢のようだ。かつて自分は何を畏れ、何に駆り立てられて、ああもがむしゃらに戦い続けてきたのだろうか。
身を立てたい、出世したいと切実に願いはしたが、それはあの出口のない日々から抜け出す方法がそれしか思い当たらなかったせいではなかろうか。
名声から地位を得て、地位によって領地を得て、そして領地から富を得て――その果てにいったい何が手に入ると思っていたのか。
暑さ寒さと無縁の宮殿に暮らし、万軍の警護に守られて、尽きせぬ富を費やしながら生きる個人。それがタウの夢想する王侯という存在だ。限りない欲望を叶える上での対価が、限りなく無に等しい人生。それはきっとヒトとして得られる究極の栄達だろう。
だが空想をシビアに突き詰めていけば、そんな憧憬は幻想でしかないとすぐに知れる。城壁では防ぎ得ない暗殺者、財貨では贖えない嫉妬、軍勢では抑えられない陰謀……多くを得た者は、保身のためにより多くの心労を迫られる。焚火で野犬を遠ざけながら野宿する一夜に比べれば、それはたしかに苦難の度合いとして安易なものかもしれないが――決して安い対価ではない。
翻ってこの森はどうか。いかなる外敵も拒むあやかしの結界と、無限に供される食料。どちらも妖精郷という不可思議な世界の法則に従って養われ、維持されているだけの現象だ。そこにタウの労役は何一つ伴わない。
たしかに世界の何処かには、この池の畔より豪奢な庭園もあるだろう。柔らかい苔よりもなお勝る寝心地の羽布団だってあるだろう。ここの蛇苺よりも素晴らしい悦びを舌にもたらす山海の珍味もあることだろう。
だがそれらを手に入れるために支払う代償が、苦役が、どれほどの危険と犠牲が要求されるのか、考えるだに恐ろしい。翻って、いまここに漫然と寝転がるタウが支払っている対価は――ゼロだ。まったくの無だ。
比率によって何かを測ろうとする試みも、ゼロなどという数字が入ってくれば全てが破綻する。どれほどの富と権勢を抱えた帝王ですら、無償の楽園だけはいかに切望しようとも叶わない。今タウが身を置いている境遇がそれだ。
もしかしたら自分は、人間の社会で望みうる栄華の極みを勝ち取るより前に、さらにその向こう側の願望を叶えてしまったのではないか? ――そう考えると、出口を求めて躍起になるキアの探索が、ほとほと虚しいものに思えてくる。
なぜキアは外の世界に戻りたいと望むのか? あれほどに彼を排斥し、孤独に追い込んだ冷たい場所に?
ここにはキアを迫害する人間など一人もいない。もう二度とその異能を畏怖され忌避されることなどない。ただ無言のままに実を供し続ける蛇苺があり、それを喰い続けるだけの生がある。何一つ悩む必要のない単純さ。何一つ脅かされることのない安息。これ以上何を望むというのか?
この草花の夢見た永遠の世界に、その実りを喰らう捕食者が紛れ込み居留するならば、それはもう絶対的な支配者に他ならない。そう、タウたちはこの森に君臨する王であり、この池端は彼らの王宮だ。無意味な虚飾をすべて剝ぎ取った、究極の幸福のカタチだ。
頰張る蛇苺の甘みに酔い痴れながら、タウは夢見心地のまま夢想を続ける。ヒトの世界の王宮にあって、この妖精郷に代替のないものは何か?
強いて言うならば――後宮だろうか。
最後に女を口説いて抱いたのは、そういえばいつだったか。余裕のない日々の中ではついつい後回しにしがちだが、あれはあれで、人生に欠かせない潤いではないか?
そんなことを漫然と考えたタウの目の前で、たぷん、と池から漣が涌き起こる。
水面に浮かび上がった女の顔は、まるでふいに開花した大輪の睡蓮のようだった。波に揺られて拡がる長い髪も、そういえば蓮の葉を思わせる。この世のものとは思えぬ美貌が、優しく、艶やかにタウに微笑みかけてきた。その美しさに見惚れるあまり、タウはまともな思考を巡らすことすらできなかった。
女がゆっくりと岸辺に歩み寄るにつれ、水面の下から白く完璧な肢体が露わになる。濡れそぼった裸身を隠そうともしない。言葉はなくとも、その妖艶な笑みと奔放な仕草から、すべてを無償で差しだそうという提案を、タウは過たずに理解した。
「……はは、は」
目の当たりにしている事象がひどく滑稽なものに思えて、タウは気の抜けた笑い声を漏らす。どうやら望めば何であろうと叶うとみえるこの森の理は、出鱈目に過ぎるあまり驚きを通り越して陳腐ですらあった。そしてその陳腐さに呆れる想いすら、笑いの形でしか発散できない。もう何もかもが冗談としか思えなかった。
女は岸に上がり、仰臥するタウの上に覆い被さるようにして跪く。その微笑みに誘われるがまま、タウは重く張った女の乳房に手を伸ばし――その柔らかさが、紛れもない現実であると思い知る。
こんな馬鹿げた出来事が、冗談事ではないというのなら――女の濡れた裸体を抱き寄せながら、タウの脳裏を皮肉じみた感慨が過る――きっと今日まで現実だった筈の諸々こそが、冗談だったのではあるまいか。
気がつくとタウの右手には、龍の角から研ぎ出したあの短剣が握られていた。
隣にはついさっきまで身体を重ねていた女が、安らかな寝息を立てている。記憶の断絶や間隙はないはずなのに、なぜこの短剣だけ手元にあるのだろうか。剣帯は革鎧もろともどこか適当な所に脱ぎ捨てて放り出してあった筈なのに……
タウは気怠げに半身を起こし、思い出深い短剣の意匠にまじまじと見入る。
並の鍛冶屋の治具では切削すら困難な龍の角を加工するにあたって、キアが手ずから魔術の技を駆使して拵えた短剣は、たしかに意匠の面ではあまり褒められたものではないかもしれないが、その切れ味は充分だし、何より元の素材の面影を残した造作が、あの龍退治の記憶をまざまざと胸に蘇らせる。
何を差し置いても手に入れたいと願った『龍殺し』の威名と、その証拠。こんな不格好な短剣が、以後の自分の人生を切り開き、彼方へと――此処ではない何処かへと導いてくれるはずだと、彼は信じていた。偶像を崇めるかのように、その可能性に縋り、全てを賭けていた。
そんな虚しい崇拝も、今となっては過去のものだ。
もう何も望むものはない。此処以外の何処を目指す必要もない。旅は終わった。闘争と無縁のこの場所では、刃など無用の長物。ただ蛇苺を嚙み潰す歯があれば事足りる。
こんなものは、もう、いらない。
動かすのも億劫な腕を振りかぶり、タウは手にした短剣を池の中に投げ捨てようとして――その前に、誰かに肩を摑まれた。
「その短剣を捨ててはいけない」
耳元に囁きかける、キアの声。どうして? と問い返すより先に、なぜか不思議な睡魔が意識をずるずると吞み込んでいく。
「タウ、君はいま悪い夢を見てるんだ。だから改めて、ぐっすりとおやすみ。夢も見ないほど深く眠るといい」
「俺は――」
反駁も、最後まで言葉にならなかった。何が起こっているのか理解することも適わず、タウの意識は虚無の底へと沈み込んでいった。
暗示によって深い眠りに落ちたタウを、どこか申し訳なさそうな悔恨の面持ちで見守るキア。そんな彼の目の前で、タウの隣に身を横たえていた女が起き上がる。
妖しく微笑むその美貌を、キアは無感動な眼差しで見返した。
「ようやく姿を現したんだね……君がこの森の『意志』だろう?」
女は艶然と頷き、言葉ならざる声をもってキアの問いに応じる。
『はじめまして、賓の御子。このような姿でお目にかかるのは、本意ではないのだけれど』
祈りと願望で世界を変える、ヒトならざる者の意志――
目に見えず、耳に聞こえず、だがその兆しだけは察知できる存在。認識も理解も適わぬ『それ』を前にして、ヒトはこう名状する――『妖精』と。
「どうしてこんな、手の込んだ真似を?」
『だって貴方、わたしの誘いを袖にして、素通りしてしまおうとするんだもの。どうしてわたしを無視なさるのか、とても理解に苦しんだわ』
媚を含んだ女の拗ね言に、キアは昏々と眠るタウへと視線を落とす。
「……彼の目に留まらないものとは、あまり関わり合いを持たないことにしてるんだ。大概はろくなもんじゃないからね」
『不思議ですわ。貴方ほどの偉大な御方が、たかが人間風情の顔色を窺うだなんて。……まぁ、子細を問うたりはしませんわ。貴方がその男を気に掛けるならば、諸共にわたしの内側へと取り込んでしまえば良いだけのこと』
キアはさも呆れたとばかり嘆息しながら、タウが食い荒らした蛇苺の茂みを見遣った。実が摘み取られた空隙には、既にもう新たな実が生りつつある。
「何故そこまでして僕に拘るんだい?」
キアの問いに、女はさも愉快そうにケラケラと笑った。
『まぁ、ご謙遜を。この世の理の外からお越しになった賓の御言葉とは思えませんわ』
立ち上がった女は、細くたおやかな両腕でキアの肩を搦め捕り、淫猥な腰使いで彼の身体に下腹を擦り寄せる。
『貴方のお力添えがあれば、この森の生命はもっと逞しく強壮に咲き誇ることでしょう。そしてやがては、外の世界を覆い尽くしてしまえるほど繁り栄えることも夢ではない』
「……買い被りすぎじゃないかな」
キアの昏い眼差しは、しかし女ではなく、依然としてなおタウの安らかな寝顔へと注がれている。そんな鰾膠ない態度にも、女はさほど気分を害した風もなく、余裕じみた笑みを翳らせることはない。
『もう、そこの人間には心を煩わさずとも大丈夫。わたしが終わりない悦楽の中で飼い殺して差し上げますわ。たかがヒト一人の寿命など、木々の暦の中では蜻蛉に等しく儚いもの。この男が歓喜のままに朽ち果てた後で、御子よ、どうかわたしと共に永遠の時間を分かち合いましょう』
白魚の如き指がキアの顎を挟み、その視線の先を女の貌へと向け直す。キアは抗わない。それを同意の表明と解釈して、女の赤く熟れた唇がキアの口を吸う。
静かな、だが激しく情熱的な接吻。法悦に呻く女の喉が――ふいに激痛の悶絶へと変わり、弾かれたようにキアから身を離す。怒りと恐怖に一変した女の口元からは、滝のような鮮血が流れ出ていた。
「――よく囀る舌だと思ったが、血の味まで蛇苺と一緒とは呆れたもんだ」
嚙み千切った赤黒い肉片を忌々しげに吐き捨ててから、キアは氷の如き声音で呟いた。
何故――と眼差しで糾す女に、今度はキアが笑みを投げ返す。仮借ない残忍さをもって両端を吊り上げた口元は、およそヒトの感情の表象とは思えない。
彼は未だ人間の情緒に疎いが故に、怒りを示すのに相応しい表情というものをきちんと弁えていなかった。そこで取り敢えず笑ってみたものの、それがどれほど凄惨な面持ちなのか自覚すらなかったに違いない。
「たかが人間風情と、蜻蛉にも等しいと、そう嗤うオマエには、決して解る筈もあるまいさ。――その健気な生命の在り方を、この僕がどれほど羨み、憧憬していることか」
女を見据える双眸は、黄金の色に燃えていた。この世の理を逸脱した力、森の妖精が請い求めた魔性の力が、いま灼熱の猛威を孕んで白い裸体に突き刺さる。
やめて、と哀願する声なき声に、だがキアは冷ややかにかぶりを振る。
「いいや駄目だね。たかが雑草風情に、憧れたモノを辱められたとあっては……いかに僕でも寛大ではいられない」
女の肌が炎を噴いた。声にならない絶叫とともに、豊かな乳房が、長い髪が、一斉に紅蓮の炎に包まれる。
次いで炎は森中に繁茂する蛇苺の蔦に引火し、瞬く間に燃え広がった。緑の平穏に包まれていた景観が、紅蓮の地獄絵図へと変転する。全てを焼き尽くす炎は、哄笑するキアと、その足元に眠るタウだけを避けながら荒れ狂い、閉ざされた世界の万象を悉く破滅させていく。
「ははッ、永遠の生命が聞いて呆れるね。燃えてしまえば蜻蛉よりずっと儚いよ。オマエ」
炎はなおも勢いを増し、冷たく澄んでいた池の水すらも沸騰して枯渇する。
空間を歪める魔力の組成も、解きほぐすとなると手間ではあったが、ただ滅ぼすだけならば造作もない。森の意志に対する配慮を切り捨てたキアの前には、木々が祈った久遠の繁茂など、まさに泡沫の夢でしかなかった。
妙に寝覚めの悪い夢を見た気がする――と、目を覚ましたタウは開口一番にそうぼやいた。
「よほど消耗していたんだろうね。でも休憩した甲斐はあったと思うよ。足の捻挫、かなり好転してる様子だから」
「ああ……」
曖昧に頷いてから、タウは傷を負っていた足首を検め、そして恐る恐る動かしてから、やや戸惑い気味に首を傾げた。
「好転どころか……治ってないか? これ」
「おや、さすがはタウ。身体の頑丈さにかけては人一倍だね。それとも湿布が効いたのかな」
「……俺はどのぐらい寝てたんだ?」
「一晩だけだけど、憶えてない?」
タウはやや薄気味悪そうに、一夜の休息を過ごした場所を見渡す。森の中に拓けた殺風景な窪地は、まるでそこだけ瘴気にでも見舞われたかのように不毛のかさついた地肌を晒していた。窪地の底にはかつて湧き水でもあったのか、岩に浸食の跡が刻まれているものの、今はもう干上がって久しい様子である。
「何でまた、こんな無防備な場所で野営してんだよ、俺たち」
鎧も何もすべて脱ぎ捨て、武器すら方々に放り捨ててある有様に、タウは今更ながら慄然となった。剣に至ってはどういうわけか、窪地の縁に生えた樹の幹に突き刺さっている。
唯一、キアの作った短剣だけは、寝ている間も肌身離さず握りしめていたらしいが、さすがに護身の備えとしては心許ないにも程がある。
「オゥラ侯の追っ手から逃げ出すなら、いっそその短剣を捨ててしまうのが一番の近道だと思うけど」
しれっと言い放つキアに、タウは露骨に顔を歪めた。
「馬鹿言うんじゃねぇ。あれだけ苦労した龍退治をチャラにしろってのか?」
憮然としてそう返したタウの、いったい何が可笑しかったのやら、キアは妙に皮肉めいた苦笑を浮かべて――
「なぁタウ、僕たち、君の計画通り有名になったはいいけれど、なんだか以前にも増して苦労してないか?」
そう、陽気な声で混ぜ返す。
相変わらずこの相棒の心境は量りがたいところがあるが、タウにしてみれば、それもこれも昨日今日に始まったことではない。
「こういうのは有名税っていってな。仕方ないもんなのさ。まあ気にすんな。いずれは元が取れるぐらい美味い目も見られるさ」
そうでも思ってないと、やってられないからな――と、それは口に出さず胸の内でのみ付け足しながら、身支度を終えたタウは、樹に刺さっている剣の柄に手をかける。
「……?」
ふとタウの目に留まったのは、刀身に引っかかっていた紐状の炭化物だった。
まるで剣に絡みついていた蔦だけが焼け焦げて消し炭になったかのような残滓。だが勿論、そんな奇妙な出来事があったなら記憶に残らない筈がない。
「どうかしたかい?」
「……いいや」
ともあれ、今は追っ手をかわしてオゥラ侯の勢力圏から脱出するのがまず何よりも優先だ。
龍殺しの功の証である貴重な短剣を捨てろなどと促すあたり、キアも相当参っているのかもしれない。さっさと窮状を脱して安心させてやらなければなるまい。
そうと決まれば、余計なことを気にしている余裕などタウにはない。彼は黒い消し炭を払い落とすと、樹の幹から剣を引き抜いた。