金の瞳と鉄の剣
第一回
虚淵 玄 Illustration/高河ゆん
竜と剣、そして目くるめく魔法の世界。ファンタジーの王道中の王道に颯爽と挑むスーパータッグ、虚淵玄×高河ゆん! 2010年、ファンタジーの歴史に新たな一章が刻まれる……。最新&最高の“バディもの”がここに!
白い霧は先を進むほどに濃くなり、タウとキアの行く手を阻むようになった。周囲に水気は全くないというのに、まるで沼地に迷い込んだかのようだ。
この霧が、普段は遥か頭上に「雲」として仰ぎ見ているものなのだと思うと、タウは不思議な感覚に囚われる。山岳を越える旅では、いつものことだ。
「――引き返す気は、ないんだね?」
背中にかけられたキアの言葉に、いい加減タウはうんざりきた。もう何度同じ遣り取りを繰り返しているか知れないというのに。
「そこまで嫌なら、お前一人で帰ればいい」
「嫌、か。……うん、確かに嫌ではあるんだが」
そうは言いつつ、淡々たるキアの口調には感情の色がない。山歩きに疲れた気配もなければ、行く手に待ち受ける冒険への畏怖もない。嫌がっているというよりも、買い物で釣り銭の間違いを指摘しているかのような、そんな口ぶりだ。
まず疲労の度合いについて言うならば、真っ先に音を上げるべきはタウであってキアではない。食料や装備品といった荷物の大方を担いで先を行くタウに比べれば、キアは手ぶらも同然だ。とはいえ、その分担自体が不公平というわけではない。二人のチームワークにおいて、タウは鍛え上げた肉体の膂力とスタミナを発揮するのが役目だし、華奢なキアの身体は力仕事に向かないぶん、その細い指先から炎や稲妻を紡ぎ出すことができる。だがキアが得意の魔術を振るって活躍しているわけでもない現時点において、黙々と労役に徹しているタウより先に疲労を訴えるというのは不公平であろう。
そしてもう片方、畏怖の念については、勘繰ることさえ意味がない。キアとは付き合いの長いタウだから知っている。――キアが何事かに対して『恐怖』の念を懐くことなど、たとえ世界の終焉が訪れようともあり得ない、と。
「なぁタウ。君が退治したがっている龍が、本当にこの山にいると仮定して――」
物分かりの悪い弟子を教え諭す師匠のような粘り強さで、キアはなお異を唱え続ける。
「そいつは麓の村を脅かしているわけでもないし、賞金がかかっているわけでもない。殺して腑を抜き取れば霊薬が手に入るとか、そういう噂を聞きつけたわけでもないんだろう?」
「そうさ。だから競争相手もいない。今あの龍を狙ってるのは俺たちだけだ。そこがチャンスなんだよ」
タウがこの山の龍を狩ろうと決意したのは、たまたま発見した足跡の寸法が原因だった。キアがそれを龍のものだと鑑定するまで、タウにはそれが何の動物の足形なのか見当もつかなかった。それほどに――小さかったのだ。
未だ実物の龍を目の当たりにした経験のなかったタウは、聞きかじっていた伝聞や噂話から、もっと途方もない怪物の巨軀を想像していた。だが今回見つけた足跡は、歩幅から推算するに大きく見積もっても体長は一五フィート程度。タウにとってそれは、『猛獣狩り』の獲物と想定しても充分に現実的な数字だった。戦場ではもっと巨大な『象』とかいう獣を倒したこともある。
念のため博識なキアにも相談し、『まぁ、やってやれなくもないだろうけど』という返答を得た時点で、タウの腹は決まった。即刻、最寄りの村に立ち寄って装備を調え、再び山中に踏み入って今に至る。
「――たしかに僕は、あのとき、さも勝算があるかのような返事をしたけれど」
今更ながらもキアは、迂闊な返答を悔いている様子だった。
「君がむかし倒したっていう象と比べても、龍は格段に危険な相手だ。図体の寸法だけで判断するのは愚かだよ」
「でも、倒せるんだろう? 俺とお前の二人なら」
「……可能か不可能かを問うなら、希望はあるだろうさ。でも危険性についての話はまったく別だ。いつもタウは僕に言ってるじゃないか。リスクと実利の兼ね合いを考えろって」
事実、キアは時としてタウですら理解に苦しむような奇行をしでかして大騒動を引き起こすことがある。万事において世間知らずで常識外れなキアに対する諫言は、もはやタウの日課と言ってもいい。
「お前が俺の説教をちゃんと記憶に留めておいてくれたとは嬉しいね、キア。……だったら今回の件は、その応用編と考えてくれよ。目先のことだけ考えれば無意味な只働きかもしれないが、長い目で見ればリスクに見合うだけの実利はあるんだ」
「ふむ、どんな?」
ずばり、名声が狙いだと――そう一言で説明するのは容易いが、果たしてキアは『名声』という概念を的確に理解しているだろうか。龍の足跡を見分けたり、見たこともない野草から軟膏を作ったり、そういう知識ばかりは異常なほど豊富なくせに、人の世の常や習いについてはとんと疎いキアである。
「たとえばな、先月の商隊の護衛。あのときの報酬額を憶えてるか?」
「二人で二四ザーフだったよね」
「そうだ。こっちの一人二〇ザーフって言い値を、値切りに値切られて四割引だ」
「でも実務の割には充分すぎる稼ぎだったじゃないか。九日間、僕らはただ荷馬車の後ろについていっただけなのに」
「そうさ。退屈にも程がある。まぁ荷馬車二台に護衛ばっかり八人も連れ歩いてる商隊なら、大概の山賊は手出しを控えて当然だがな」
さて、そこでだ。と語調を改めてタウは続ける。
「もしも街道一帯に、俺とお前が龍を倒したっていう噂話が広まってたらどうなってたと思う? 想像してみろ。その名も高き『龍殺しのタウとキア』のお通りだ。街道筋を縄張りにしてる山賊はどうする?」
「……まぁ、警戒して手出しはしないだろうね」
「そうさ。追い剝ぎだって馬鹿じゃない。厄介な相手は見過ごして、もっと簡単に襲える獲物を探すだろう。だったら商隊のリーダーも有象無象を六人も余計に雇ったりしない。たとえ一〇〇ザーフふっかけられたとしても言い値で契約しただろう。俺たち二人だけと、な」
「……」
タウの背後で、キアはさも不可解だと言わんばかりに黙り込む。
「……なあタウ、もし仮に山賊たちが勇気と職業意識に溢れた勇者たちで、龍殺しの噂なんか気にかけずに襲いかかってきた場合、君は僕と二人だけで二台の荷馬車を守り通せたかい? 六人ぶんの味方を抜きにして?」
「――はぁ」
キアの奇天烈な反論に、タウは深々と溜息をついた。
「勇気も職業意識も持ち合わせていないような奴が山賊になるんであって、だな。……いや、まぁ、仮定としてあり得ないとは言わんが。そんな不幸中の不幸は確率としてゼロみたいなもんだ。一〇〇回のうち九九回は、名前の箔だけでボロい儲けが転がり込んでくるものなのさ。あとは不運を踏まないよう、用心深く立ち回ればいい」
「うぅん……」
ここまで説明しても、キアはなおのこと納得しかねる様子だった。
「噂話って、そこまで都合がいいものなのかい? 逆の解釈をされたりしないか? たった二人で倒せる程度なら、意外と龍なんて弱いんだ、とか」
「そこはそれ。舌先三寸さ。なにも立会人に見届けられて決闘するわけじゃないんだ」
事実としてタウは、『二人だけで倒せそうな小物の龍』を見つけたから躍起になっているのである。そしていざ倒してしまえば龍は龍だ。武勲の証拠として遺骸の一部を持ち帰るだけで、あとはどうとでも言い繕える。たとえば切り落とした尻尾が多少貧相だったとしても、これは一〇本生えていた尻尾のうちの一本だと言い張れば、後から見た者は信じるしかない。そもそも龍という生き物の正確な容姿をきちんと把握している者などごく希だ。極端な話、明らかに平凡な生物のものでないと見て判る遺骸さえあれば、それを龍のものだと言い抜けることすら可能なのだ。
実際、タウは傭兵時代に、龍殺しの功を吹聴する同業者を何度か見かけたことがある。たしかにそういう連中は証拠として、見たこともないほど奇怪な角や牙、鱗や骨といった品を持ち歩いていた。そういう装身具をひけらかす者は、同じ部隊の中でも、報奨から待遇に至るまで何もかもが段違いだった。いざ戦闘となれば注目され、標的になって危険の度も増すが、ちゃんと名声に釣り合うだけの手練れであれば、むしろさらなる武功を狙い、敢えて戦局の焦点に立とうとする。龍殺しの逸話とその証拠があれば、そういうことが可能になるのだ。
倒すまでには至らなくとも、角の一本もへし折って拾ってこられたなら、それでいい。大方、龍殺しで名を馳せた他の連中もそうやってきたのだろう。実際の手段がいかに卑劣な詐術であろうと、もたらされる成果に変わりはないのだ。
「なぁキア、俺たちと野良犬の違いは何だと思う?」
「え?」
「チンケな日銭を稼いで、次の仕事が見つかるまでを食いつなぐ……こんな暮らしは、残飯漁りの野良犬と大差ない。計画が、必要なんだ。明日のための計画、そいつがヒトと犬とを隔てるものなのさ」
「それが――君の言う『噂話』かい?」
あくまで得心がいかないのか、キアは溜息混じりに問い返してくる。
「わからないよ。僕にも君にも、名前はただ一つあるだけで間に合ってるはずなのに。この上どんな呼び名が欲しいっていうんだい?」
「『知られた名』だよ。都の貴族や大公たちの耳にまで届く名だ。そうやって知れ渡らない限り、俺たちは、連中にとって『居ないも同然』なんだからな」
「……」
背後から伝わってくるキアの沈黙の気配は、まるで不条理劇の結末を見届けて途方に暮れているかのように、どこか虚ろで寂しげだった。
龍退治、とあっては人間相手の戦とは違った支度が必要になる。
まずタウは商売道具として持ち歩いていた盾と革鎧、そして兜は今回まったく用を成さないものと見限った。それらの防具は、あくまで人間の腕力で振るわれる得物から身を守るために設計されたものだ。龍などという想定外の猛獣の爪や牙に対処出来る保証はない。完全装備の重歩兵が、丸太のような『象』の脚に踏み潰される光景を、タウは目の当たりにしたことがある。ああいう獣を相手にするならば、まず絶対に相手の攻撃の及ぶ位置に身を置かないよう立ち回ることが前提だ。そう考えれば装備は身軽さが第一であり、防具の類はいっそ潔く諦めた方がいい。
もちろん、ただ逃げ回ればいいのではなく攻撃の手段も必要になる。相手に不用意に近付くことなく、安全な距離を保った上で手傷を負わせられる得物――となれば剣や斧では論外だ。幸いタウには槍の用意があったが、長さ六フィートの短槍ではいかにも心細い。そこで鍛冶屋と交渉し、長さ八フィート余りの樫材の竿だけを買い取って、そこに自前の槍の穂を付け替えた。これならば、どれだけ敏捷な獣だろうと機先を制して突き刺すことができるだろう。
さらにタウは、防具を質に入れた金で弩を買い入れた。狙いを定める瞬間に腕力だけを頼みにして弦を引き絞らなければならない普通の弓とは違い、弓を台座に固定して、弦を引いた状態のまま携行できる弩は、予め弦を絞っておく際に脚や腹筋、さらには器具の力を借りることもできるため、より強力な力で矢を撃ち放つことができる。
わけてもタウが購入したのは、滑車を使って弦を巻き上げるという最も強力なタイプだ。滑車を回すのに時間がかかるため、一度撃ったら戦闘中の再装塡はまず見込めないものの、今回タウは連射を諦めてでも初撃の威力を優先したかった。まず奇襲を掛けて弩の一撃で深い手傷を負わせ、そうして弱ったところに槍で攻めかかろう、というのがタウの算段であった。
さて、鎧兜は不要と割り切ったものの、目指す場所が高山である以上、別の脅威から身を守る必要がある。それは冷気だ。獣相手の狩りともなれば、まず間違いなく待ち伏せが戦略の要となる以上、いざというとき身が凍えて動きが鈍るようでは話にならない。そこでタウは毛皮の内張りを施した防寒具を一式買い揃えることにした。動作の機敏さはある程度損なわれてしまうものの、こればかりは止むを得ない。
タウはさらに愛用の幅広剣を質草にしてキアのぶんの防寒具も用意しようとしたが、キアはそれには及ばないと断った。魔法で暖が取れるから寒さは気にならないというのが理由だった。そういうことなら、とタウは幅広剣を担保として質屋に委ね、他の質草が流れるまでに二週間の猶予を確約させた。
このまま冬山の猟師に転業するというのなら今のままでも問題ないが、再び傭兵稼業に戻る気なら、預けた質草を買い戻す算段は必須であった。傭兵は戦場に持参した装備がどれだけ揃っているかによって契約金に雲泥の差が出る。キアが装備代を倹約してくれたおかげで、質流れのリスクを軽減できたのは大きな安心材料だった。
ところが――今になってタウは、キアが出費を抑えようとした意図を勘繰るようになっていた。彼はまさか、端から龍殺しの計画が失敗するものと見越して守りに入ったのではあるまいか? あんなにも無気力で非協力的なのも、そういう思惑があってのことなのか?
霧の中を抜けた後、しばらくは渓谷の跡とおぼしき枯れ谷を辿り、きつい斜面を登るのに専念する行程が続いた。疲労を意識から追い払い、努めて先に進むことにばかり意識を向けていたタウは、ふいに目の前の視野が開けたことでようやく、山頂へと続く尾根の上にまで到達したことに気付いた。
今朝方に通り抜けてきた雲の層は、乳白色の雲海となって眼下に蟠っている。触れば綿毛のように柔らかな手応えが返ってきそうだ。あれがつい数時間前までタウの全身を包み込んでいた、重さも手応えもないただの霧だとは到底思えない。――霧ですら水のように流れ落ちて低所に溜まってしまうほどに、今この高さの空気は軽く、澄み渡っているということか。
空の青さは限りなく透明で、まるで群青の色そのものが光を放っているかのように、明るく、眩い。雲すらも届かぬ高みの空がどんな色をしているのか、タウは初めて知った。
雲の海の彼方は茫洋と霞んで空の青色と溶け混じり、何処からが境目なのかすら定かでない。そんな中に、かろうじて輪郭として見て取れるのは、薄くぼやけた遠い山々の稜線だ。何処の何という山なのか、見当さえつかない。もしかしたらそれは、タウが一生涯知ることもない遠い異国の山なのかもしれない。
「……」
不意打ちも同然に訪れた歓喜で、タウの魂は打ち震えた。
これまでにも旅の途中で山越えを余儀なくされたことは何度かある。が、こんな高所までの登山を必要としたことは一度もない。故にタウにとって、そこは未知の異境だった。
今日この日までタウが見届け、経験してきた諸相だけが、決して世界の全てではない。未だ見ぬ驚異が、神秘が、何処かに待ち受けているのだという想い――それこそがタウを旅に駆り立てる理由の全てだ。
血みどろの戦場の光景がどんなに凄惨であれ、人の世の欲望と裏切りがどれほど卑劣で非情であれ、ただそれだけで絶望するには及ばない。かつて、この世界はただそれだけの場所ではないと知ったとき、タウの人生は新しい意味を得た。その理解をもたらした友が傍らにいればこそ、今のタウが在るのだ。
いつの間にか、後から来たキアもタウの隣に腰を下ろして、見渡す限りの雲海の広がりを眺めていた。どのみち小休止を取るには程良い頃合いでもある。二人はしばらく座り込んだまま、時を忘れて目の前の雄大な美観に見入っていた。
「……素晴らしい景色だね」
「そうだな」
それ以上は、言葉が出なかった。この圧倒的な眺めを前にすれば、ちっぽけな人間がどんな言葉を紡ごうとも、虚しいものにしかならない。
「この景色を見るためだけにここまで登ってきたと考えても、充分に元が取れてると思うんだ」
タウは放心状態のまま頷きかかり、その間際で、キアの語る言外の意味を汲み取った。
「――満足して、引き返せと?」
キアは眼下の眺望に背を向けて、タウに向き直った。やや色味の薄い緑の瞳は、一見穏やかそうに見えて、しかし確たる意志を秘めている。不平不満や愚痴ではない、今度こそ本気の反駁として、キアはタウに異を唱えているのだ。
「嫌なら戻ればいい。俺一人でやる」
前にも言ったのと同じ殺し文句を、再びタウは口にする。
「僕が同じ事を言ったとしたら、タウは承諾するかい?」
キアからの予想外の問いに、タウは逡巡するよりまず先に反射で返答してしまった。
「いいや」
そう――もし仮にキアが望ましからぬ道を選んで、どんなに説得しようとも折れないとなったら、そのときはタウも不承不承ながらついて行くだろう。理屈ではない。二人はそうやって今日までコンビを組んできた。ただそれだけのことだ。
「時には別行動が望ましいときもある。君が僕に強要をしないのも判ってる。でも、違うんだ。僕が行きたくないわけじゃない。君を先に進ませたくないんだよ」
「……」
親身な心配を喜ぶべきか、お節介だと苛立つべきか、舐められたものだと怒るべきか――俄には判断しかねる警句であった。
「俺が死ぬとでも?」
「君は不死身なのかい?」
ここまでキアが強情なのは、ひょっとすると予知夢や占いといった手段で不吉な運命でも察知したのかもしれない。だがタウはキアがその類の魔術までも扱えるとは聞いていないし、それならそれとキアははっきり根拠を説明するはずだ。
そしてもし仮に『未来の運命』などというものが示されたとするならば――タウは、断固としてそれに抗うだろう。たとえそれが破滅を意味しようとも。
「……命がけでも、やるしかない。俺は龍殺しの名を手に入れる。お前にその価値が判らないとしてもな」
「僕には価値が判らないし、タウは意味が解ってない。龍と戦うというのがどういうことか」
小さくかぶりを振りながら、キアが立ち上がる。議論をしているうちに、気がつけばもうそろそろ休憩を切り上げる頃合いだった。
「ねぇタウ、怪物はね、ヒトでは倒せないから怪物なんだ。……もしも怪物を超えてしまったら、そいつはもうヒトではない。その向こう側の何かになってしまう」
再び歩き出したキアの足取りは、だが明らかに稜線の傾斜をさらに上へ、山頂に至るルートを辿っていた。
「……」
遅れて立ち上がり、後を追いながら、タウはその背中に言葉を投げかける。
「なぁキア、お前は俺を相棒にして、後悔してるのか?」
「いいや。君に導かれたから僕は、今ここにいる。――君は、後悔しているのかい?」
「……そんなわけ、ないだろ」
そんなわけがない。今ならばタウはそう断言できる。だが三年後、五年後。胸を張ってそう答えられるのかといえば――自信がない。そしてそんな自分が許せない。
キアの言うとおり、彼を冒険の旅に連れ出したのはタウだ。故郷の村でキアが受けていた仕打ちを思えば、それは間違いなく正解だった。
だが果たして、キアの先導者としてこの自分が最適任であったのかと考えると……タウの胸中には、やるせない焦りが湧き起こる。
キアは卓越した魔術師だ。――否、卓越しすぎていると言っていい。彼が駆使する魔術の凄まじさは圧倒的でありながら、さらになお底知れぬ力を秘めている。あれほどの力量があるのなら、一国一城の主となるのも、さらには天下を狙うのも夢ではないのではと思えてくる。
なのにキアは、そういう野望に想いを馳せようとしない。明日に希望を懐くこともなく、それどころか今日という日に刹那の喜びを見出すことすらしない。
例えば服だ。食うや食わずの傭兵稼業なら豪奢に着飾るのは無理としても、ある程度までなら清潔で快適な衣服は手に入る。だがキアはそうしない。擦り切れた穴だらけの麻布一枚と、腰帯代わりの縄ひとつという、まるで巡礼中の苦行僧のような格好で通している。
ボロボロに摩耗したサンダルは既に履き物の役割を果たしていない。凍えるほどの冷気に晒され、硬く尖った岩を踏みしめて歩いてきた素足は、汚れきり、明らかに傷だらけになっている。鞣し革の長靴ひとつ履くだけで事情はまったく変わるだろうに――それでもキアは自分の防寒具を買い入れようとしなかった。買い込んだ食料も、干し肉はすべてタウに譲り、キアは黒パンしか食べようとしない。魔法使いにはそれで充分、と笑って辞退する。精をつけなきゃならないのは身体を動かすタウの方だと言い張って。
出会った頃は人の社会の営みについてまったく無知だったキアに、金銭という概念を教え込んだのはタウだ。だがその結果キアは、快楽の対価、あるいは寒さや空腹を凌ぐ手段として金を消費することを拒むようになった。
吝嗇家なわけではない。タウがいかに馬鹿げた浪費をしようとキアは文句一つ言わない。ただ、そういうものは魔法使いには必要ないと――それがキアの決まり文句だ。
冗談ではない。魔法使いなら痛みを感じないとでも言うのか? 酒を飲んで憂さを晴らすことも、女の肌に慰められる必要もないと?
どんな魔法を使えるのであろうと、自分自身を粗略に扱っていい理由になるわけがない。
タウが思うに、キアは自らに人間としての尊厳を認めていない。きっとその意識は、故郷の村で虐待を受けていた頃から、一歩も進んでいないのだろう。これだけ長く一緒に旅を続けていながら、タウはキアのそういう諦観や厭世観を覆せずにいるのだ。
このままではキアは生涯、ただ「生きる」という要件だけを満たして事足れりとしながら、野の獣のように暮らしていくことだろう。誰一人として及ばぬ力を持ちながら、誇りとも栄華とも無縁なままに。
それがタウには、悔しくてならない。
この世界には、未だ見ぬ歓喜と栄華が満ち溢れているのだと――タウはそれをキアに理解してほしかった。壮麗な服を着て、豪放に喜びを買い漁り、尊敬と羨望の眼差しを一身に集めて、その手応えに酔いしれてほしかった。
そのためにはまずタウが、野良犬も同然の生活から脱しなければならない。隣にいるタウがただの流浪の傭兵であり続ける限り、キアは決して目を覚まさないだろう。キアはタウの生き方を規範とし、それを見習って生きている。なればこそ現状のタウの境遇を、人間として『満ち足りたもの』だと誤解させてはならなかった。
名を上げること、威名を以て知れ渡り、新たなチャンスを摑むこと。それはタウ自身のためでなく、キアのためにこそ必要だった。
今はまだ、理解できなくてもいい。ただ先に進み続けるだけでいい。
キアと組んでいる限り、二人は決してこの程度で終わらない。いつかは必ず、世界が目を疑うような壮大な舞台で、最高の栄誉を摑み取る日が来るはずだ。
かつて荒みきった戦場の暮らしに、心枯れさせていた頃のタウならば、そんな夢想を懐くことはついぞ有り得なかっただろう。キアという相棒を得たからこそ、彼もまた、明日という日に想いを馳せるようになったのだ。
山頂に近付くにつれ、明らかにそれと判るほど、空気の質が変わっていった。
日暮れとともに急速に冷えていく気温のせいもあるだろう。だがそれだけではないと、タウの直感は告げていた。
何かが……おかしい。
まるで矢を番えた弓に狙われているかのような、えもいわれぬ不安感。こういう勘働きのおかげで、タウは過去にも幾度か敵の待ち伏せの罠を察知し、窮地を逃れた経験がある。こんなときは慎重の上に慎重を期して動くに限る。
だが、何を警戒しろというのか? 旅人が山越えに使うようなルートはもう遥かに下だ。こんな標高に山賊の類が隠れ潜んでいる筈もない。狼や山犬でさえ、こんな不毛の岩場を縄張りにはしないだろう。見渡す限り岩と氷しか目に入らない、一切の生命の気配が途絶えた場所だった。こんな過酷な環境に住まう獣がいるとするなら――それこそ、龍のような幻獣の類ではあるまいか。
もちろん、目指す獲物の姿はまだ影も形もない。それこそ人間ではあるまいし、まさか忍び込む賊に備えた落とし穴や虎鋏が仕込まれている筈もない。にも拘わらず、この説明のつかない危機の予感は何なのか。
まるで先刻からずっと何かに監視されているかのような……妙な圧迫感が肩にのしかかってくる。
単に気が急いているだけで神経が過敏になっているのだろうか。確かに焦りの意識はある。タウとしては日暮れより先に山頂に至り、まだ明るいうちに周囲の地形を検分しておきたかった。龍を待ち伏せするのに格好の場所を見定めてから、最寄りの割れ谷か何かに身を潜めて一夜を過ごし、翌朝から狩りを始める計画だったのだ。
が、思ったよりも早く陽は雲海の果てに沈みつつあり、東の空は既に夜の色を濃くしつつある。今はまだ西の夕焼けの残滓が岩肌を赤々と染めているものの、それも消えれば周囲は闇に閉ざされる。まかり間違ってもそんな状況で龍と対峙するのは願い下げだった。闇は常に人でなく獣を利する。
或いはキアの魔術があれば闇による視界の不利を覆せるかもしれないが、それでも遭遇戦を避けたいという想いは強かった。龍などという得体の知れない存在を相手にする以上、せめて可能な限り不確定要素は排除して事に臨むべきだ。ならば先回りをすることで地の利だけでも確保したいというのが、タウの切実な要望だった。明るいうちに地形を把握して作戦を整えることが不可能ならば――万全を期していったん引き返し、既に通り過ぎた道程の途中にあった待避場所を探すべきだろうか。
だが記憶を顧みても、夜を過ごすのに適当と思える岩陰は、既に通り過ぎてから大分経つ。あそこまで引き返すロスを考えると、まだしも運を頼みに先へと進み、他に露営向きのポイントを探し出す方が前向きではないのか。
「……なぁ、タウ。あれを」
キアの呼びかけに思索を中断されたタウは、相棒が指差す頭上に目をやった。
遥かな上空、緋色が藍色へと変わりゆく境目の中天に、夕日を浴びてきらめく小さな翼が見て取れた。鳥ではなく蝙蝠に似た、鋭角的な膜状の翼。だが距離感すら危うくなるほど遠くにありながら、その輪郭がこうも明確に見て取れることから、対象のサイズが蝙蝠なぞ比較にならないほど巨大なものなのは歴然だ。
「あれが……龍?」
天空の影は鳶のように輪を描いて遊弋している。その輪の中心は明らかに――タウとキアの立っている位置だった。今ではタウも、さっきまでの奇妙な不安感の正体について確信を得ていた。
ずっと、見られていたのだ。猛禽が野鼠に狙いを定めるかの如くに。
「くッ……」
無駄なこととは判りきっていたが、それでもタウは周囲を見回し、すぐに身を隠せそうな場所がどこにもないという非情な現実を再認する。状況はきわめて不利だが、やるしかない。即座に背中の荷物を下ろし、弩の滑車のハンドルを回して必死に弦を巻き上げにかかる。油断なのか余裕のつもりか、龍はまだすぐに襲いかかってくる気配はない。それとも未だに眼下の小さな生物を、餌なのか外敵なのか、判じあぐねているのだろうか。
「……やる気かい?」
「今更、逃げるにしたって手遅れだ。いざとなったら陽動を頼む。合図していつもの『閃光』だ。矢をブチ込む隙さえ作ってくれればいい!」
キアが魔術で目眩ましの閃光を焚き、それで相手が怯んだ隙にタウが襲撃を仕掛けるという連携は、二人がしばしば頼みとする戦法だった。お互いにタイミングは万全に心得ている。
滑車を回す手を休めることなく、タウは頭上を見上げ――既に二〇〇フィートかそこいらの近距離にまで龍が高度を落としていることに慄然となった。
鳥とも蜥蜴とも違う異形のフォルム、その後肢の鉤爪や、鰐を思わせる顎にずらりと生え揃った牙の禍々しさが、いまやはっきりと観察できる。
相変わらず直滑降で襲いかかってくる素振りこそないものの、こちらに視線を据えたまま悠然と輪を描くその飛翔には、威嚇の意図がありありと窺えた。
今になってタウは、自らの想像力の安直さを身につまされて痛感していた。たしかに『アレ』の図体は、象よりは一回り小さい。だが――たかだか象より一回り小振りだという程度の『巨獣』が、悠々と風を切って居丈高に頭上で羽ばたいているというのは、ただそれだけで恐慌に陥りそうになるほど圧倒的であり、まるで空そのものを敵に廻したかのような絶望感があった。
そして、大粒の瑪瑙を思わせる一対の目……眼下のタウを凝っと見据えるその視線こそ、何よりも雄弁に『アレ』がただの猛獣ではないことを物語っている。獣は人間を睨んだりしない。さもなくばそれは獣以上の『何か』だ。そして今、虚空からタウを見下ろす龍の眼差しには、明らかな威嚇と、侮蔑と、そして激しい怒りの念が秘められている。
そして――天翔る巨獣は口を開け、喉の奥底から猛々しい咆哮を放った。
その音圧は鼓膜を痺れさせるのみに留まらず、大地を、大気を、そしてタウの骨という骨を割り砕かんばかりに震撼させた。一心不乱に弩の弦を巻き上げていたタウが、辛うじて滑車のハンドルから指を滑らせずに済んだのは、ただの僥倖だったかもしれない。
「タウ!」
「――判ってる!」
タウが滑車の最後の一巻きを回し終えるのと、龍が直滑降を開始して一気に距離を詰めてくるのは、ほとんど同時だった。
タウは走った。もはや振り向くまでもなく、鷹のように後肢を振りかざして舞い降りてくる龍の姿が、すぐ背後に迫っていると気配だけではっきり察知できる。だが彼には確信があった。ここで下手を打つキアではない。そう相棒の手並みを信じればこそ、タウは後ろを見ることもなくただ走った。龍の意識が『逃げる獲物』に釘付けになるよう期待して。
――果たして、キアが放った『閃光』の魔法は絶妙のタイミングで龍の眼前に発動した。
逃げるタウを狙って龍が滑降の角度を変えようとした直前、その鼻先で炸裂した目眩ましの閃光に、龍が驚きと怒りの嘶きを放つ。視力の麻痺は、あるいは一瞬だけのものだったかもしれない。だがそれでも効果は覿面だった。タウを後肢で捕らえようとして地面すれすれまで急降下していた龍は、そのぎりぎりの瞬間で体勢を引き起こす機を逸し、滑降してきた勢いのまま大地に激しく激突する羽目になったのだ。
その激しい地響きでキアの術が功を奏したことを知ったタウは、即座に振り向いて片膝を突くと、弦を引ききった弩に特製の矢を装塡する。極太の鋼材を鋭く研ぎ上げたそれは、『矢』というよりもはや『銛』に近い。これを滑車式弩の威力で撃ち出せば、たとえ防御姿勢の重歩兵だろうと盾ごと串刺しにしてやれるだろう。鋸歯状のかえしがついた鏃は肉に食い込んだが最後、暴れるほどに体内から傷を拡げてダメージを累積させていくはずだ。
距離は一五フィート強。加えてあの図体の標的ならば目を瞑っていても当てられる。龍に墜落のダメージから姿勢を立て直す暇を与えず、タウは引き金を絞る。
風切る唸りも猛々しく撃ち放たれた矢は、龍の左脚の付け根付近に突き刺さった。荒ぶる巨獣の唸りに今度こそ苦痛の色が混じる。
本当は腹を射貫きたかったタウだったが、龍が激しく身を捩りもがいていたせいで狙いが逸れた。――が、脚ひとつ封じられたなら動きを鈍らせるには充分だ。タウは即座に弩を放り出して得物を槍に持ち替えると、のたうち回る龍の巨軀めがけて突進する。
肉薄すると尚更に、その桁外れの大きさと激しい動きはタウを圧倒した。まるで岩の塊を思わせる重々しい四肢の動作は、象の動きとは比較にならないほど俊敏で獰猛だ。一体どれほど強靭な筋肉の束がこの巨体を駆動させているのか。
考えるだに空恐ろしくなる想像を封殺し、タウは渾身の力で長槍を突き入れる。
重さ、角度、タイミング、すべて万全の一撃――そう自負して繰り出した刺突だけに、穂先があっさりと鱗に弾かれて逸れた途端、タウは慄然となった。
“今のが通じないって……ッ!?”
誤って石の壁にでも切っ先を当ててしまったかのように、突きの威力がそのまま竿越しに跳ね返って腕を痺れさせる。間違いなく穂先の刃はこぼれただろう。甲冑なぞ比較にもならない途方もない強度だった。
よしんば人間の甲冑ならば、装甲の分厚い部分を避けて継ぎ目や関節を狙うという処方もある。だが一面を鱗に覆われた龍の皮膚には、そんな一目で判る弱点などあるはずもない。
龍が前肢の鉤爪を振りかぶり、足元にまとわりつく小癪な小動物を薙ぎ払おうとする。だがいち早くそれを察したタウは、龍の左側へと転がり込んでそれをかわした。案の定、弩の矢を受けた左脚は反応が鈍い。着実に龍の左後方に張りついていれば、相手の攻撃は先読みできそうだ。
「うおらぁぁぁッ!」
威声を張り上げつつ、タウは立て続けに槍を繰り出す。探りも兼ねた刺突のうち、明らかに刃が肉を抉る手応えを返したのは三撃目――膝裏を狙った攻撃だった。やはり関節の内側にあたる皮膚は他よりも薄くて柔軟らしい。手持ちの槍が通用する狙い目は、そこしかない。
再び、タウの背後で閃光が炸裂。相変わらず援護のタイミングを心得ているキアの魔術だ。視界の外での目眩ましだからタウには何の影響もないが、折しもタウの方を向き直ったばかりの龍は今度も直視を余儀なくされた。またしても視界を奪われて怒号する龍の内股に、タウが狙い澄ました槍の一撃を見舞う。浅いなりにも鱗を貫通。こうして執拗に脚の内側を攻め続ければ、いずれ動脈の一つも穿つことができるかもしれない。
攻略について光明が見えたかに思えたその時、いきなり龍が勢いよく身体を旋回させ始めた。咄嗟にその意図を判じかねたタウだったが、龍にとってそれが逃避でも防御でもなく、攻撃に類する動作であることを直感で察知する。
前肢でも後肢でもなく、長い首を巡らせて嚙みついてくるわけでもない。目が見えないまま無差別に足元を一掃する攻撃法――
“尻尾かッ!?”
閃くと同時にタウは回避を試みる。地表ギリギリを水平に薙ぎ払う尾の一撃は、屈もうが退がろうが避けきれない。唯一の活路は――上。
咄嗟の判断で、タウは槍のけら首を両手で摑みながら石突を大地に突き立て、力の限りに大地を蹴った。いわば即興の棒高跳びの要領で倒立しながら空中に身体を放り投げる。間一髪、猛烈な勢いで眼下を奔り抜ける龍の尾。直撃していれば一撃で両脚を砕かれていただろう。
タウは危なっかしくバランスを保ちながらも着地し、さらに転ぶまいとたたらを踏みながら数歩後退する。一か八かの軽業で九死に一生を得たとはいえ、その対価として龍との間合いが開いてしまった。その隙に、龍は首を巡らせて頭を左脚に寄せると、なんと突き刺さっていた矢を器用に顎で咥え、易々と引き抜いてしまった。
あまりにも的確なその処置は、明らかに獣程度の知能の及ぶところではない。いよいよタウは眼前の脅威について認識を新たにする。
こいつは――勝てない。
幾度となく戦場で死線をかいくぐってきたタウは、こと命の遣り取りにおいては冷徹であり現実的だった。いざ勝算なしと判断がつけば意地も矜恃もありはしない。いかにして撤退すべきかを見積もることに全霊を注ぐ。ところが、生憎と状況はあくまで絶望的だ。周囲に待避場所は見当たらず、翼を持つ敵は機動力でも圧倒的に優位。ただ走って逃げたところで助かる望みはない。
“ここを死に場と観念しろ……ってか?”
自らの分析が導き出した冷酷な解答に、タウは凄絶な笑みを口元に刻む。それはそれで馴染みの覚悟だ。久しく絶えて無かったとはいえ、過去には幾度か経験がある。命そのものを質に入れて死神と競り合う商談だ。
捨て身で挑めば、脚一本――既に傷を負わせている左脚を完全に潰すところまでは届くかもしれない。たとえ翼が健在でも、片脚を奪われれば無事に着陸できなくなる。あの龍とてそんな容体で空を飛ぼうとは思うまい。そこでようやくこちらも、『走って逃げる』という選択に望みを託せるようになる。
死ぬ前提で逃げる算段をする矛盾を、だがタウは些かも理不尽とは思わなかった。龍の片脚を奪い、その対価としてタウが命を落としたとしても、もたらされた逃亡のチャンスはキアに与えられることになる。ここまでジリ貧の商談にしては、悪くない取引といえよう。
決意を新たに、タウは槍を構え直す。龍もまた二度目の目潰しから回復したのか、怒りを込めた眼差しで凝っとタウを見据えている。それでいい。タウが仕掛けるのに合わせて今度もキアが目眩ましを講じてくれるはずだ。相棒の援護に望みを託しつつ、タウは一気に突進で間合いを詰めようと地を踏んで――
「タウ!」
鋭く凜烈なキアの叫び。それが普段の静かな声でなく、絶対にまずいと緊急の警告を発する時にのみ発せられるものだと聞き取ったタウは、訝るよりも戸惑うよりもまず反射的に立ち止まり、槍の構えを解いていた。それから遅れて懐疑する。何故だ? どうしてキアは俺を止めた?
龍の口から紅蓮の炎が逬ったのは、まさにその直後だった。
「な――」
あまりの怪異に愕然となったタウの横面に、いきなり猛烈な衝撃が叩きつけられる。
キアの魔術だ。空気に水のような重さを与えて相手に叩きつける呪法である。集団の敵を怯ませるのによく使う便利な技だったが、まさかタウ自らがそれを浴びる羽目になるとは思わなかった。
木の葉のように軽々と吹き飛ばされ、硬い岩肌にしたたかに叩きつけられたタウだったが、予め警戒していたおかげで、辛うじて受け身だけは間に合った。骨折こそ免れたものの、痛みのあまり手足が痺れ、あわや気絶しそうになる。
勿論キアが乱心したわけではない。吹き飛ばされる前にタウが立っていた位置は、その直後に浴びせられた龍の息吹に炙られてドロドロに融解し、灼熱の溶岩と化している。荒っぽい手段ではあったが、あの熱波の直撃からタウを守るための咄嗟の判断としては正解だった。
「……」
命拾いしたという安堵よりむしろ、敵の底力を目の当たりにしたことで、今度こそ掛け値無しの絶望がタウの心胆を蝕んでいく。刺し違える覚悟まで決めて講じていた戦略さえも無惨に瓦解せしめるほどに、いま眼前の光景はあまりにも決定的すぎた。
龍が火を吐く――そう、御伽噺には聞いたことがある。だが真に受けてはいなかった。実際にはそんな真似ができる生物などいるはずがないと高をくくっていた。だがさっきの龍の攻撃は、魔術で火炎を操るなどという生易しいものですらない。炎で岩が溶けるものか。『ヤツ』が息吹を発する肺腑は、火山の底よりなお熱いというのか……
「君が知っているような龍殺しの英雄たちが、何を自慢していたのか知らないけどね……こいつは別物だ。ヒトの手で殺せるようなトカゲの変異種とは訳が違う。正真正銘、本物の龍だよ」
怯え竦むタウとは裏腹に、キアの口調はごく平淡で、何の感情の色も見られなかった。あの灼熱の息吹を浴びせられたらどうなるか、子供でさえ歴然と思い至るであろう想像力すら、まるで持ち合わせていないかのように。
あまつさえ、キアは悠然と歩を運び、龍の真正面へと進み出た。細い体軀が、龍とタウを隔てる障壁を請け負ったかの如く、敢然と立ちはだかる。
「おい、キア……」
「済まない……本当に君の身を案じるなら、こんな所まで来るべきじゃなかった」
謝罪の言葉など――何故この期に及んで耳にするなどとタウが思い至ろうか。
「そもそも最初から、この山に龍がいるなんて教えなければ良かったし、後からだって君を騙してでも諦めさせるべきだった。勝ち目はないとでも噓をつくべきだった」
無防備に佇むキアめがけて、再び龍が灼熱の息吹を吐きかける。だが紅蓮の炎は魔術師の痩身に届く直前で、ふいに空中に開花した紫電の火花に遮られた。――キアが操る電撃の魔術だ。
あの術が敵を感電させるだけでなく、火事場での熱波や毒沼の瘴気を押し返すのに使えることは、タウも過去の経験で知っている。だが火花を散らす放電の触手が、まさか岩をも溶かす超高熱を阻んで止めるほど強靭だとは、想像できた筈もない。
「結局、僕は君の無謀さに付け込んでしまったんだね。今になって解った――ここに来たがっていたのは僕の方なんだ」
キアの口調は、痛ましいほどの後悔と自責を込めた悲しげなものでありながら。
だがその表情は、彼の言葉を真逆なまでに裏切っていた。
目を見開き、口元を吊り上げた凄絶な面持ち……それを強いて形容するならば、『笑い』と呼ぶしか他にない。
「今だって、君を連れて逃げるのが最善なのは判ってる。でも……ああ、ごめん、タウ。僕はこいつと殺り合いたくて仕方ないんだ」
ちらりとほんの一瞬だけ、キアは眼前の龍から視線を外してタウに一瞥を寄越した。僅かに垣間見えた魔術師の瞳の色は、あまりにも鮮烈で――だがそれをタウは、有り得ない錯覚だと自らに言い聞かせる。
キアの目は明るい緑色なのだ。ときどき光の加減でやや違った見え方もするが、ただそれだけのことだ。断じて、金色に輝く人外の瞳などではない。
龍の息吹がなおも勢いを増す。同時にキアの操る電撃の網も厚みを増して押し返す。防壁を支えるのは右手一本。残る一方の左手を、キアは拳に固めて振り上げる。
応じたのは大地だった。龍が身を伏せる足場、罅割れた岩盤の隙間を突き破って、だしぬけに大木ほどもある氷の柱が天空めがけて突き立ったのである。間一髪、龍は機敏に身を翻して避けたものの、氷柱の鋭利な切っ先は、あわや鱗の薄い腹部を刺し貫く寸前だった。
「さあ、霊獣よ……秘峰の主たる鱗の君よ! 御身は顕世と幽世の境界におわせし者。この世の理の際を守護せし者! さればその境目に挑む越境者は見過ごせまい!」
間断なく龍が浴びせる炎の息吹を右手の電撃で完封しつつ、なおもキアの左拳は大地から氷柱を逬らせる。いくら龍が身をかわそうとも立て続けに躍り出る氷の槍。大地の冷気を意のままに操るという極限の呪法を乱発しておきながら、キアの魔力は一向に衰えず、呼吸を荒げることすらない。
永く複雑な詠唱もなければ、触媒の使用もない。魔術師が条理を覆す奇跡を具現させる上で必須とする筈の手続きを、キアは完全に無視している。もはや形振り構っていられなくなっているのだろう。今キアは本気なのだ。
久方ぶりに見るその規格外の脅威を、タウはただ呆然と見守るしかなかった。
そう、キアの名乗る『魔術師』という肩書きは詐称でしかない。
世間には、卑劣なトリックや錯覚を利用して魔術師を騙り、畏怖と尊敬を集めようとする輩がいる。だがキアの詐術はその真逆だ。まやかしの呪文と無意味な媒介を浪費して、その指先から逬る炎と紫電と突風を、さも『魔術』という体系に則った技術であるかのように装っている。
キアには解っているのだ。――それだけが、自らの異能を人の世に馴染ませる唯一の処方だと。
「……我はヒトの似姿に生まれ落ちた、ヒトならざる者。望まれずして生を受け、何処より来たるか知れず、やがて何処に至るやも知れず……」
凄絶なる死闘の中、キアの嘆きの声を聞きつつも、タウの意識は次第に遠退いていく。息が、苦しい。きっと龍が吐き散らす炎のせいだ。電撃の障壁に阻まれているとはいえ、その熱は着実に周囲の空気を焼き尽くして枯渇させているのだろう。
轟、と天のどよめきが耳朶を打つ。見上げた空で、分厚い暗雲が渦巻き、雷鳴を響かせている。
その真下、今や無数に林立した氷柱は鉄格子さながらに龍の動きを封じ込め、その退路を塞いでいる。
「故に、今ここに身命を賭して問う! 我は魔なりや? ヒトなりや? さぁ確かめさせてくれ……最果ての霊獣よ、我が臨界は御身を凌駕するのか否か!?」
キアの叫びに呼応するかのように、白熱の閃光が雲を裂く。天と地を激震させて降臨する落雷の業火。それを招き寄せたのは、ずらりと尖塔のように高く聳え立った氷柱の頂だ。
耳を聾する轟音は、鳴神の怒号か、或いは龍の絶叫か。――それを確かめるより先に、タウの意識は闇へと呑まれた。
烈しく唸る風の音に、タウは目を覚ました。
すぐ目の前に、柔らかい橙色に照らされた岩肌がある。鋭利なほどに乾いた高地の冷気とは違う、暖かく静かな空気。だがそれでも突風の唸りは延々と耳に届いてくる。
ややあってタウは、そこが山の岩肌に穿たれた割れ目の中だと気付いた。外は夜の闇の中、激しい吹雪が猛威を振るっている。だが割れ目の開口部に、赤熱化するほど加熱した石をひとつ据え置いてあるせいで、寒気は中にまで侵入してこない。キアが野営のときによく使う魔術だ。火を焚くのと違って空気を汚さないし、薪を必要とすることもないのですこぶる重宝する。
キアはすぐ隣にいて、どうやらタウの目覚めをずっと見守っていた様子だった。が、声を掛けてくる素振りは見せない。まるでタウの表情を窺うかのように無言のまま、薄緑色の瞳でじっと見つめてくる。キアにしては珍しい、どこか不安げな脆さを感じさせる眼差しだった。
ああ、そういえば――と、タウは合点がいく。彼が意識を失ったのは、ちょうどキアが久々の『本気』をさらけ出している最中だった。あの光景がタウを怯えさせたのではないかと、キアは心配しているのだろう。
水臭い話だ。もうどれだけ長い付き合いだと思っているんだか。
ふとタウは、キアが手にしている棒状のものに目を惹きつけられた。長さにして一フィート余り。一端が鋭く尖り、形状としては氷柱か筍石を連想させる。
「それ……龍の、角か?」
目覚めてからの第一声には相応しくないなと自覚しつつ、やや気の抜けた声で問うタウに、キアは小さく頷いた。
「結局、命の取り合いになる前に、向こうが折れてくれたよ。角一本と、あとはこの山の縄張りを全部譲って立ち去るってことで。僕としても、べつにあの龍に恨みがあったわけでもないし。何も殺すには及ばないかな、って」
「山の縄張り、ってお前……どうすんだ? そんなの貰って」
「さて、困るよね。住むにはちょっと不便な地所だし……でも、ここの霊脈は結構変わってて面白いよ。掘ったら案外、大層な鉱物とか見つかるかもしれない」
「でも採掘場を建てる元手がないだろ、俺たち」
「それも、そうだよね」
キアから手渡された龍の角に、タウはしげしげと見入った。この世のいかなる獣の角と比べても、似ても似つかぬ異質な質感と形体。――だがそれも、あの壮絶を極めた体験の名残としてはあまりに軽薄で、素っ気ない。
「……そうか」
途中からはただ見守るしかなかった異境の死闘に、タウは想いを馳せる。
決着を見届けるまでには及ばなかったものの、いま手の中にあるのは、その結末がいかなるものであったのかを物語る明確な証拠の品だった。
「『アレ』に勝った、のか。お前」
「……」
意識が朦朧としていたせいもあり、まるで夢でも見ていたかのようだ。あの光景のどこまでが真に現実だったのか、今となっては心許ない。
だがそれでも、あのときキアが吼え糾した痛ましいまでの声は、しっかりと耳に残っている。この物静かな魔術師が、薄い胸板の奥底に秘めている底知れぬ渇望と嘆き――果たしてそれは、いつまでキアにつきまとい、彼を責め苛み続けるのだろうか。
戦いの前にキアは言っていた。
その手で怪物を倒した者は、もはやヒトですらいられなくなるのだ、と。
「なぁ、キア。……あれで何かを確かめたつもりなら、馬鹿げてるぜ」
「……そうかな」
ややあってから問い返してきたキアに、タウはきっぱりと頷いた。
「ああ。何の答えにもなっちゃいない」
馬鹿馬鹿しい。誰がそんな理を定めたというのか。ヒトがヒトである証を、そんな物差しで決められてたまるものか。
「空を飛んで火を吐くトカゲがいたっていいし、それを電撃でぶちのめす人間がいてもいい。そんな事柄で、自分を量るなんて馬鹿げてる」
「……」
「まぁ、確かに証明できたことがひとつあるとすれば……」
タウは手の中の龍の角を握りしめ、その感触に己を奮い立たせる。
「俺たち、これからは『龍殺し』を名乗って歩けるってことさ。こいつが何よりの証拠だ」
「……いやだから、殺してないって。本当に殺す殺されるに至るまで続けてたら、先に倒れてたのは僕の方かも」
「いいんだよ細かいことは。ともかく、これから先は忙しくなるぜ。名うてのコンビともなれば仕事は引く手数多だからな」
「うん……そういうものなのかね」
キアは苦笑して、どこか遠い彼方へと視線を投げる。
その瞳に何が映るのか、タウは知りようがない。だがそれでも彼は信じている。二人は同じ物を見つめ、同じ夢を見て、いつか同じ場所に辿り着くのだと。
吹雪もきっと夜が明ける頃までには止むだろう。そしたらさっそく下山して、次の冒険に繰り出そう。当面の目標は……質に入れた武器と防具を買い戻すための金策だ。弩と防寒具の買取値との差額があればいいのだから、大したことはないのだが、むしろ残り十日足らずのうちに用立てなければならないのが厄介だ。この際、荷運びだろうが皿洗いだろうが何でもいい。『龍殺しの英雄』の初仕事にしては甚だ情けない話になるかもしれないが、贅沢は言っていられない。
「ねぇ、タウ。僕は――いったい何者なんだろう?」
吹雪の向こうの闇を見据えながら、そう所在なげに呟いたキアの問いを、タウは鼻で笑い飛ばした。
「決まってる。俺の相棒さ」