ジハード
第五回
定金伸治 Illustration/えいひ
聖地イェルサレムに迫る十字軍10万を撃退せよー! 定金伸治が描く歴史的名篇、ここに再誕。
7
エジプト及びシリアを領するアイユーブ朝の帝王サラーフ=アッディーン。
かれが聖都イェルサレムにて招集した閣議は、紛糾のさなかにあった。今後の方針を決定すべき場であったのだが、重臣の意見が分裂してまとまりそうもなかったのだ。その原因となったのはだれあろう、『公正』ヴァレリーだった。
かれを呼び寄せるか否か。それが論議を呼んだのだ。
「フィリップ尊厳王が去ったとはいえ、敵の兵力は十万をゆうに超えておる。アーディルの力がなくては、少々苦しい戦いになることは明白」
発言したのは、サラディンの腹心かつ相談役であるバハーウッディーン・イブン・シャッダードだった。かれは四年ほど前に乞われてサラディンのもとに加わった人物なのだが、以前のザンギー朝時代から親交があったサラディンの古い友人でもあり、政においてもすでに国老として重臣たちから一目置かれる存在となっていた。そのすがたも国老と呼ばれるにふさわしく、白髪の長老然としたたたずまいを見せている。
「なんら功のない男を登用するわけには参りますまい。しかもかれは罪人なのです」
黒人将軍レワニカがそのように反論する。四角四面といった男だ。
「将軍。おまえさんは、わが国の動員できる兵力がどれほどであるか知っておるのか」
「それは……」
将軍レワニカがことばに詰まる。それも致し方のないことだ。限界まで兵をかき集めたとしても、アイユーブ朝の兵力は十字軍の半数を超えるぐらいにしかならないのだ。たった一国で英仏独その他の連合軍に対処しなければならぬつらさだった。
ただ、それを理由にして国の秩序を乱すようなことを嫌う者が多いのも、確かなことだった。
「しかし、そのこととアーディルの件とはなんら関係はないはずです」
「大ありだわい。あやつがおらねば、おそらく獅子心王には勝てんであろうが」
「しかし、罪人として一度遠ざけた男を登用するわけには……」
つまりこのような議論の堂々巡りを朝から晩まで続けているのだった。
ただ、バハーウッディーンはかつてバグダッドの名門大学で教授をつとめていただけあって、本気で議論をすれば、本来は非常に強いはずだ。いまはどうやら、その強さをあえて発揮せず、わざと意見を百出させているらしい。討議を尽くし、もはや論がなくなるところに至るのを待っているのかもしれない。それは、重臣を完全に納得させるための一手段でもあった。
「アーディルは、アッカにおいて多大な功をあげている。その功をもって罪を赦免する。それでよいのではないか」
サラディンの甥タキ=アッディーンが発言する。かれは終始一貫してヴァレリーを弁護する側に立っていた。サラディンの帷幕において、もっともかれの才を買っているのはやはりこのタキ=アッディーンだった。
「あれは負け戦であった」
「負けにしても、守備隊三千を見事に救っているではないか」
「それはエルシード殿下の働きゆえのものであって、一介の白人奴隷であるアーディルとは無関係のこと。かれのなしたことについて、公式の記録が残っているわけではない」
あくまで謹厳な態度でことにあたるレワニカに、タキ=アッディーンが嘆息した。すでに苛立ちの感情さえうしなわれている様子だった。将兵を率いていたわけでもないひとりの奴隷に、組織全体を救った功績などない。功績は、率いていたムスリムの将らにこそある。そう言われれば、それはまったく正しいのだった。
「さて」
ここに至って、バハーウッディーンがはじめて結論をあたえる意見を提出した。
「アル=アーディルを呼び戻すことについて、それを否とする根拠はいま、二点が挙げられよう。ひとつは、かれの罪。そしてもうひとつは、かれがキリスト教徒であること、じゃな。かれを知らぬアミール(大名)からの反発が強いのが、問題となっている」
異論はなかった。ここにいる者はみな、かれがムスリムにとって警戒すべき人間ではないことをよく知っている。王妹に奴隷としてあつかわれているかれのひととなりを、実際に見ているからだ。しかし、かれを知らない者は、そうではない。そのため、公式には功のないかれを呼び戻して重用すると、国家としての結束と秩序が乱れてしまうおそれがあるのだ。不公平、と感じたアミールらのこころが、サラディンから離れてしまう可能性がある。レワニカなどが危惧しているのも、じつはこの一点であった。
「かれの罪については、この四年を奴隷として過ごしたということで、すでに十分償っていると言える。これはだれをも納得させることができる事実であろう。結局、障害となっているのは、キリスト教徒であるかれに対する眼ということになる。すなわち、これを取り除けばよいわけだ」
「そのような手段があるのでしょうか」
「ないでもない。ひとつは、アル=アーディルに対して、その生活のすべてを監視し、逐一報告する目をつけ、一介の奴隷としてあつかわれていることを示し、地位や権限があたえられることは決してないという信をあたえること。もうひとつは、だれも文句のつけようがない大功をかれにあげさせること。このふたつがあれば、おおよそ納得させることができるであろう。いちど納得させれば、今後の戦いの中でかれ自身が、少しずつ信用を勝ち取っていくに違いない」
すでに反論を持ち出す重臣はいなかった。
あらかじめの打ち合わせ通り、サラディンはバハーウッディーンの意見を採用し、『公正』ヴァレリーに関することのいっさいをかれに任せることを宣言した。
そんな閣議があったとも知らず、当のヴァレリーはエルシードの怒りとさげすみの視線を浴びながら、肩身を狭くして日々を暮らしていた。
そうした中、国老バハーウッディーンがわざわざダマスカスまでかれを訪れてきた。
「バハーウッディーンさまが来た?」
ヴァレリーはめずらしくおどろいた様子でエルシードにこたえた。
「客間でおまえを待っておる。会いに行くがよい」
エルシードの態度はかなりよそよそしかった。よく見ると、怒りからか長い黒髪の端が逆立っている。しかしそれ以上は何も言わずエルシードは立ち去っていった。本気で怒ると、普段は騒がしいかの女もやはり無口になるらしかった。
「あの食えないじいさんが何をしに来たのだろう。苦手なんだけどな……」
ぶつぶつ文句をいいながらもヴァレリーは客間へと足を運んだ。
「おお、久しぶりだのう、アーディル。エルシード殿下と違って、おまえさんは元気そうでなによりじゃ」
「わざわざ健康診断のためにここまでやってこられたのですか」
皮肉ってみたが、経験豊かな国老には通じなかった。
「ほっほ。ところであそこでわしらを監視しておる少年は何者かの?」
バハーウッディーンが自分を指さしていることに気づいたらしく、マヌエル……すなわち暗殺者アル=カーミルは素早くすがたを隠した。
「私の息子ですよ」
「ほう。あれが殿下の仰っておったマヌエルか」
「おぼえて頂かなくて結構ですよ」
ヴァレリーはその話題には触れないよう話をそらそうとした。しかし、バハーウッディーンはそうしたことに気をつかうような人物ではない。
「ほほう。おぬしともあろう者が、あのような暗殺者と自分の子との区別もつかんとはおかしな話だのう」
「……仰る意味がよくわかりませんが」
「とぼけんでもよい。わしはこれでもおぬしの百倍は人間を見てきておる。加えて陛下が暗殺教団を攻撃した頃のこともよく存じておるのだ。あのような物騒な殺気を放っておれば、わしにはすぐわかる。陛下を何度も襲ってきた連中と、まったくおなじ気配だ」
「……はあ」
「まあ、ちょうどよかったわい。わしがここへ来たのもな、おぬしに暗殺教団を討伐させようと思ったからなのだ。向こうが動いているのなら、おぬしも何かと仕事がやりやすかろう」
「何故そのようなことを私に……?」
「おぬしをふたたびこき使ってやるためじゃよ」
ヴァレリーにはバハーウッディーンのことばの意味が正確に読み取れた。なるほど暗殺教団を討つことができれば、以前の私の罪を償ってなお余りあるかもしれない。多くの臣民の納得を得ることもできるだろう。
だが……。
ヴァレリーは思った。暗殺教団はまだ周りの者に傷を負わせたわけでも、ましてやそれらの者を殺害したわけでもない。いくら暗殺を生業としている物騒な集団だからといって、まだ何もしていないのにこちらから壊滅させるというのは、どうも気が進まなかった。
ヴァレリーは考えたことをそのまま、バハーウッディーンに伝えた。
「やれやれ、おぬしはつまらんことまで若い頃の陛下によう似とるのう。陛下もむかし、同じことをおっしゃっておったわ。政敵だの反乱組織だのを討ちほろぼすときには、いつもな。しかし、形にこだわっていては、何も生み出すことはできんぞ。陛下がいまあるのは、そこを乗り越えたからなのだ」
「何を言われても私のこころは変わりませんよ」
「まあ、よいわ。それよりおぬし、あのアル=カーミルという男には苦労しておるようじゃな。明日わしの屋敷に来るがよい。少し手助けをしてやろう」
アル=カーミルという名まですでに知っている。やはり、ここに来るまでにあらゆる調査をおこなっていたようだ。まったく、食えないじいさんだとヴァレリーはうんざりした。
「……また厄介なことを押しつけるつもりではないでしょうね」
「それがいやなら暗殺教団の件を引き受けることじゃな。あのマスィヤードの城砦を攻略できる者がおるとすれば、それはおぬし以外にないのだぞ」
「そんなことはないと思いますが……」
ヴァレリーの意志はバハーウッディーンのお世辞によって変化することはなかった。国老は諦めたようにため息をつく。ただ、そうした態度にも演技がふくまれているのがわかった。
その後しばらくバハーウッディーンはヴァレリーとさまざまな雑談を交わしてから、エルシードの館を去っていった。
翌日の午後、バハーウッディーンの滞在している館を訪れると、すでにかれは客間にいてヴァレリーを待ち受けていた。
「いやに遅かったのう。老人をあまり待たせるものではないぞ」
待っていたと聞いてヴァレリーはとてつもなく悪い予感を持ったものだった。
「老人というほどのお歳ではないでしょうに」
確かにかれの見た目は国老にふさわしい年輪を感じさせるものなのだが、しかしかれはサラディンよりも年下なのだ。いつ見ても十や二十は年長のように思えるのだが。
「世辞はいらんよ、世辞は。最近は少し歩いただけでも息が切れて困る」
「そんな雑談をするために、私を呼んだのですか」
「おお、そうそう」
それを待っていたとばかりにこたえるバハーウッディーンに、ヴァレリーはふたたび悪い予感をこころにおぼえた。
「今日おぬしを呼んだのは、そろそろおぬしも家庭を持つべきじゃろうと思ってのう」
「……それでは失礼します」
そのまま立ち去ろうとするヴァレリーを、バハーウッディーンが呼び止める。
「誤解するな、おぬしに結婚せいというのではない。じつはわしの知人が病で亡くなってのう、その孫娘をおぬしの養女としてひきとってもらいたいのじゃよ」
「おなじようなものではないですか」
「ただひとりの親類をうしなった少女を憐れむ良心というものを、おぬしは持っておらぬのか」
芝居くさくバハーウッディーンはおどろいてみせる。ヴァレリーは口もとをゆがめたが、それは断るのが苦手な自分をよく知っているからだった。
「何もわざわざ私に押しつけなくてもいいことではありませんか。それに今日の用件はアル=カーミルに関することではなかったのですか」
「あのような少年はの、同年代の娘に相手させるのが一番よいのじゃよ。まあ、どう転ぶかはわからんが、興味ある展開が期待できるだろうて」
「……はあ」
「それにおぬしはわが国の法を知らぬとみえる。二十五歳以上の男は孤児を引き取って養育する義務を持つという法をな」
それは現実に当時、サラディン治下の地で布告されていた法律だった。
「どうせ、あなたが制定した法律なのでしょう?」
「さすがはアーディル。こころを見抜くことに長けている」
「……勘弁してくださいよ」
特に深い理由などなかったが、ヴァレリーは実際勘弁してほしいと思った。アル=カーミルの場合のような特別な事情があるのならまだしも、だ。バハーウッディーンの言うように養女をとることは本当の親になるということなのだ。
しかし結局バハーウッディーンに押し切られ、ヴァレリーはその娘を引き取ることに合意させられたのだった。押しに弱い自分を嘆く。
「名前はシャラザードといってな、まだ十一歳の少女だ」
私が二十七歳になるところだから、そのぐらいの娘がいてもおかしいことはないな。そう思ってヴァレリーは少しだけ納得することにした。実際にはもっと年上の方が手間がかからないのだが、そうした功利的なことでヴァレリーは承諾をしぶっていたのではない。
「明日殿下の屋敷に行かせるゆえ、楽しみに待っておるがよい」
そのようにだけ告げると、国老バハーウッディーンは、白い髭に囲まれた口を開いてからから笑うのだった。
8
「ヴァレリーさま、女性の方がお見えです」
侍女の声は事務的で、あいかわらずさげすみの翳が色濃く残されていた。最初ヴァレリーは何故隠し子が見つかっただけでここまで嫌われるのか理解できなかったのだが、バハーウッディーンにその理由を聞かされて、すでに納得がいっていた。つまり、イスラム世界においては男性には女性を守るべき強固な義務が存在し、子どもを生ませた女性を捨てて省みることもない男というのは鬼畜以下の存在と見られても仕方がない、ということらしい。そして男女間の規律の厳しいその世界で、エルシードも育ってきたのだ。
ただヴァレリーは、そうした軽蔑を意に介してはいなかった。むろん侍女などに嫌われてもどうということはない、などと考えているわけではない。みずからに恥じることがなければそれでいいと思っているのだった。それに何より、十年以上にわたるキプロスでの生活で、さげすまれることには慣れていた。ひととしてあるべきこころが一部、すり切れてしまっているのだ。かれの欠陥だった。
「……あの」
考えごとをしているといつの間にかひとりの少女が客間にあらわれていた。音もない、ふしぎな現れ方だった。
「シャラザードと申します。アル=アーディルさまにはご迷惑をおかけすることになりますが、以後よろしくお願い致します」
ヴァレリーはその少女を見ておどろきを隠しきれなかった。
少女のすがたはどう見ても十代後半のようで、エルシードなどよりもずっと年上に思えたのだ。顔や身体を覆っているヴェールが少女を大人びて見せているということもあろうが、それだけでは説明がつかなかった。少女というよりも、もはやひとりの女性である。若く見られがちな自分とも、そう歳の差があるようには思えなかった。
「シャラザードはいま何歳なんだ?」
「十六歳ですが……それがどうかなさいましたか?」
「……十一歳と聞いてたんだが」
「あっ、そうなんですか。じゃあ、それでいいです」
どうやら、いろいろと裏に事情があるようだった。シャラザードという名も、事実なのかどうかあやしいところだ。いかにも偽名っぽい名でもある。
このときになって、ようやくヴァレリーはバハーウッディーンの意図のひとつを悟った。ようするにこの娘は、異邦人である自分を監視する目なのだ。その報告によって、アル=アーディルが危険のない人間であることを臣民に知らせる。そうしたひとつの手段なのだろう。ヴァレリーは、バハーウッディーンにむしろ感謝した。
ただ、のちにヴァレリーはこのシャラザードがとんでもない人物であったことを知ることになるのだが――それはまたずっと先の話である。
「まあ、いいか」
すべて忘れてしまうことにヴァレリーは決めた。こだわらないことにも、忘れることにも、かれは自信があるのだった。年齢のやりとりからして、誠実で噓をつけない娘であるようだし、それに家族が増えることはいいことだと単純に思った。
「あの……何か不都合でもあるのでしょうか」
「いや、なんでもない」
「それじゃ、これからアル=アーディルさまのことはお父さまと呼ばせていただきますね」
ヴェールをはずして、シャラザードはにっこりと微笑んだ。娘というよりは、すでに母親の笑みだった。
「……私のような青年を父と呼んで、違和感というものはないか」
特に「青年」の部分に力を入れてヴァレリーは尋ねる。
「いいえ、ありません」
「……そうか、それなら仕方ないけれども」
とにかく、ヴァレリーはバハーウッディーンの陰謀によって、妹にしか見えないようなその娘を養女として迎えることとなった。かれを監視する役割を担った娘であることは明らかだったが、その任はさほど大した意味を持たず、かの女はごく自然にヴァレリーの家族の一員となった。そういう娘であり、またそういうヴァレリーであったのだった。
シャラザードはおどろくほど働き者だった。屋敷の中ではヴェールをつけず、一日中掃除だの洗濯だのとくるくる動き回っていた。侍女たちが自分の仕事がなくなるのではと危機感を持ったほどだった。
ギュネメーは、「親がだらしないほどしっかり者の子どもになるんだ」などと言っていたが、あるいはそれもひとつの理由なのかもしれない。
その日もシャラザードは朝食を侍女たちとともに作った後、せっせと働いていた。
「お父さま、お掃除の邪魔になりますから、散歩でもなさってくださいな」
居場所がないとよく庭でごろごろしているヴァレリーは、しばしばこのように追い出されたものだった。奴隷であるはずのかれが、家の中でいちばんだらけている。
「……掃除なんてそう毎日しなくてもいいじゃないか。おまえもそんなことをしていて楽しくはないだろうに」
ぶつぶつ文句を言うヴァレリーに対してもシャラザードは微笑む表情を変えない。
「汚れた所がきれいになるのは、楽しくありませんか」
「どうも理解できないな」
ヴァレリーはその後もしばらくシャラザードには聞こえないような声で不平を洩らしていたが、ようやく立ち上がって館を出て行こうとした。
「ちょっと待って下さい、そのままの格好で出かけるのですか」
「いけないかな」
「夕方になると冷え込みますから、外衣を着ていかないと。ちょっと待っていて下さいね、昨日わたしが仕立てておきましたから」
小走りに去っていったシャラザードは、すぐに羽織のような上着を持って戻ってきた。
「この暑いのに必要ないと思うけど……」
「暑い間は脱いでいたらいいでしょう? 冷えてきてから後悔しても遅いのですよ。内陸の冷え込みを甘くみちゃいけません」
「……そういえば、マヌエルはどこへ行った?」
シャラザードに外衣を着せられるままになっていたヴァレリーは、ふと思い出してかの女に尋ねた。
あの暗殺者は、まだころさない。それ以外の意図を持っている。ヴァレリーはそう気づいていた。だから心配はしていなかったけれども、何か騒ぎを起こしたりはしないよう注意はしておかねばならないと思う。
「さっきどこかへ出かけていかれましたけど。ふふ、私が外衣を着ていくように言ったら、お父さまと同じように嫌がってましたよ。お兄さまは無口ですから、あまり口には出されませんでしたけれど」
シャラザードは幸せそうに屈託のない笑みを見せる。そのかの女に欠伸でこたえておいて、ヴァレリーはすごすごと館を出て行った。
9
ヴァレリーを見送ったシャラザードは、その後もせっせと働いていた。
そのかの女の前にマヌエルは、暗殺者アル=カーミルとしてすがたをあらわした。例によっていきなり目の前に湧き出すようなあらわれ方だったのだが、シャラザードは特におどろいた様子も見せず、いつも通りの微笑を浮かべていた。
「あら、お出かけになったのではなかったのですか」
その問いに、アル=カーミルは衝撃を受けた。いまのすがたは、十八歳の本来の自分にもどっている。髪も黒く、「マヌエル」とはまったくの別人と見えるはずだった。
しかし、そのようなことにはいっさい惑わされず、このシャラザードはこちらの本質を見抜いた。
「殺されたいか」
訊く前に実行せねばならないはずだったが、訊かずにはいられないゆらぎが自分に生じているのも自覚していた。『完全』という名をたえられた自分だが、暗殺者としては完全ではない。むしろ未熟。それはわかっている。
「暗殺者はかならず殺さなければならないのですか」
かの女はやはり、こちらの正体を知っているようだった。殺さねばならない。
「殺すためだけに存在しているから、暗殺者と呼ばれる」
「そんなひとは、世の中にはいません」
シャラザードは断言した。威風さえある自信の持ちようだった。この娘はいったい何者であるのか。気圧されている自分さえ、いまやアル=カーミルは感じていた。しかし、目の前の娘はただ、優しく微笑んでいるだけなのだった。
「アーディルには近づくな。近くにあるならば、殺さねばならぬ」
「そう仰られても、娘なんですからどうしようもありません」
そのこたえが不思議だった。シャラザードにしろラスカリスにしろ、何故あの愚物に危険を承知でみなが近づくのか。
もともとマヌエルを名乗って息子として近づいたのは、アーディルの周辺に亀裂をつくるためでもあった。そして亀裂が生じたあと、かれらがどのように行動するか観察してやろうと思っていたのだ。この行動が醜ければ醜いほどアーディルの仮面が剝がれ、その低能がさらされることになると考えていた。
だが、シャラザードもラスカリスも、まるで動じていない。エルシードだけは動じたが、こころの底では信頼しているようだ。目論見はいまのところ不成功に終わっている。
「おまえはあのアーディルをどう思う?」
そのようにだけ問う。意図を悟られないようにする。しかし、それを見抜いたように、シャラザードは問いを返してきた。
「どうって、どういうことでしょう」
「何故あのような愚かな男の娘で満足できるのかと訊いているのだ」
問われて、シャラザードははじめて少しだけ真面目な顔になった。
「まあ、実際に愚かですものね」
こたえながら、いつもの微笑みを取り戻す。
「でも、おなじことでしょう。愚かだろうとなかろうと。そう、まったくおなじなのですよ。あのひとが立派な方だろうと愚かな方だろうと、いまとおなじようにわたしは娘となり、ラスカリスさまは友人となっているでしょう」
理解の難しいことばだった。かれが愚か者であってもおなじ。若い苛立ちが胸に募った。理解できぬままそれを斬って忘れるということは、できない。どうも自分はそういう性格であるらしい。それをはじめてアル=カーミルは自覚した。
「あのひとは、わたしがここにいることが自然に思えるような方です。いまここにいることにわたしは安心できます。でもそういうことは、才能とは関係ないのではないでしょうか」
こちらの殺気と苛立ちを感じ取っているであろうに、シャラザードに動揺している表情はまるでなかった。もしかするとかの女は、この家に住むひとびとなど足もとにも及ばない大器量の持ち主なのかもしれない。
「ふん、理解できぬな」
「噓です」
きっぱりとシャラザードは言い切った。
「あなたは理解なさっていますわ。ただそれを認めたくないだけなのです」
まるで母か姉のように自分をさとすシャラザードにアル=カーミルは怒りをおぼえた。が、かの女のひとみを見ると、その怒りを外にあらわすことができなかった。
「認めることなど、何もない」
「……そうですね。無理して認めて家族になる、なんていうのもおかしな話ですものね。そのうち自然にそのようになればいいと思います」
あくまでやわらかく受け流し、シャラザードは微笑むのだった。むしろこれこそおそるべき相手だと思われた。
「まあ、そんなことよりも、もうすぐ冷えてきますからちゃんと上着を着て下さいね。お父さまやあなたに風邪をひかれたら困るのは、わたしの方なんですから」
シャラザードの態度はひとを食っているようにも見えた。翻弄して楽しんでいるようでもあった。しかし同時に、アル=カーミルはシャラザードがひとを馬鹿にするような娘でないこともすでに知っている。
混乱し、疲労を感じた。
その後は一言も発することなく、アル=カーミルは館を出た。
目的地があるでもなくぶらぶらとうろつきまわっていたヴァレリーを、アル=カーミルはたやすく発見することができた。
何故自分はかれを探す気になったのか。その問いにアル=カーミルは自分自身でもこたえることができなかった。こたえることができぬまま、アル=カーミルはいまヴァレリーの前に立ち、かれと対峙していたのだった。
「ふたたび私を暗殺する気になったのか、マヌエル……アル=カーミル」
その表情はいつも通りおだやかだった。シャラザードにそっくりだともアル=カーミルは思った。だからこそ、父娘としてすぐに打ち解けたのかもしれない。
「……やはり知っていたのか、あの刺客がおれだったことを」
アル=カーミルの問いにヴァレリーは無言でこたえた。ふたりのあいだを冷気をはらんだ風がふき抜け、わずかの砂塵を舞い上げる。
ここへきてアル=カーミルは目の前の男を見損なっていたことを知った。少なくとも、みずからを襲った暗殺者を目の前にして顔色ひとつ変えることがないというのは、常人の神経ではない。
「知っていながらなぜ、おれをわが子と認めた?」
問いかけながら、アル=カーミルは抜け目なく剣の柄に手をやった。斬るならば、いまほどの機会はありえなかった。
「まあ、なんとなくかな。日々の生活には変化がある方が楽しいしな」
ふざけているのか真剣なのかわからない口調でヴァレリーはこたえる。そこもシャラザードにどこか似てはいる。
ヴァレリーは、以前襲ったときと同様に剣を帯びていない。まったくの愚行と思われたが、かれがまったくの愚物ではないこともすでに知っている。
――理解できぬ。それほど自信があるのか。
そう考えるとアル=カーミルは身動きすることができなかった。畏れに近い感情が生じていることをみずから悟った。それは暗殺教団の長老シナーンに対しているときと似た感情であり、またまったく違うものでもあった。
――剣を抜いた瞬間、逆にこちらが斃されるのではないか。
そうした単純な畏れに、すべてを還元した。相手の剣技を警戒している。それだけのこととして解釈しようとしたのだった。暗殺教団で育ったかれは、これまで迷ったことがない。だから、迷う、ということに対して耐性がなかった。ヴァレリーという人間に対して疑問を持ち、そこから迷いを持ち、そしていったん迷いはじめると、少年らしい苛立ちが前に出て混乱し、暗殺ひとつにこころを向けることができなくなった。かれは、暗殺者として完成されるには、まだ若すぎた。
ヴァレリーはただうすぼんやりと、アル=カーミルの前に立ち続けていた。
それがアル=カーミルには、平然と自信を持って立っているようにも見えた。実際のところ何も考えてはいないに違いないのだが、みずからのこころを読まれているような感覚もおぼえた。底が見えない。実際のところ、アル=カーミルの迷いに対する耐性のなさを、ヴァレリーは感じ取っているのだろう。だからこそ、どこか安心しているのだ。
剣に手をやったまま微動だにしないアル=カーミルに、ヴァレリーは首を傾げた。いつもの癖がそのままでている仕草だった。それは、余裕のなせる業のようにも思われた。
シャラザードにしてもヴァレリーにしても、これまでに遭遇したことのない思いを自分にあたえる存在だった。
「……何故だ、何故剣も持たずに平然としていられる? おれを侮っているのか」
「剣を持っていないのは、ただ重くて面倒だからだよ。というかみんなに言われて最近は持ち歩くようにしてるんだけど、忘れてきてしまった。別に侮っているわけではないし、私もできたら剣を持っていたかった」
大物を気取っているわけではないのはアル=カーミルにもわかった。まったくの本心をかれは語っている。だからラスカリスやルイセなどに叱られた直後は、いそいそと帯剣して出歩くのだ。信念や主義があるわけではない。本当に、単に忘れてきただけなのだろう。しかし、それはなおさら畏れを呼ぶことだった。
感情が、限界に達した。
相手が話し終わらないうちに、アル=カーミルはとうとう剣をかざしてヴァレリーに襲いかかった。
断ち切る以外に、できることが思いつかなくなったのだ。
みずからの胸に向かって突き出された剣を、かれは横に軽く跳んでかわす。
かわされるような一撃を繰り出したつもりはない。見事な体術だった。
「やはり、手強い……何故それを隠す……」
アル=カーミルはうめきに近い声とともに、跳びすさったヴァレリーの方へと向き直った。この期に及んでもまだかれの面には警戒はなく、困ったような苦笑が浮いているのみだった。
「もういい加減にしろ。ただしいとも限らぬ理想に殉ずるっていうのも、ずいぶん分の悪い賭けじゃないか。人生賭けるっていうなら、もっと割のいいものがいっぱいある」
「黙れ。キリスト教徒の貴様などに、シナーンさまの深慮が理解できるものか。目的達成のためならば、うしなって惜しい生命など存在せぬ。このおれも死などおそれぬ」
不安を隠すようにアル=カーミルは強く言い切った。そしていつでも飛びかかれるように剣を構える。
このとき、ヴァレリーのひとみにはじめて怒りの光が宿った。
静かではあるが烈しい怒り。
その迫力にアル=カーミルは気圧された。
「それは、おまえたちが嫌う十字軍とまったくおなじ考え方だよ」
烈しさを眼にとどめたまま、ヴァレリーは言った。
「十字軍も死をおそれない。十字軍もころすことを躊躇わない。何もかも同じだ。たとえ教えが違っていても、その結果生じるものが常にまったく同じであるのなら、それは同質のものということになるだろう」
「黙れ!」
混乱を隠さぬままにアル=カーミルは叫び、ふたたびヴァレリーに襲いかかった。
幻体を放ち、左右からヴァレリーのからだを挟みこむように剣を舞わせる。このふたつの剣を見極めることができる者など地上に存在しないと思われた。月光もおよばぬ冷たい速度で、かれの剣はヴァレリーに迫り、そのからだを薙いだ。
しかし、黒い刀身はむなしく大気を斬るのみだった。剣の軌道を見切られていることがアル=カーミルにはわかった。信じられない思いだった。暗殺教団の中でも、自分ほどの使い手はほとんどいないのだ。若い自負が打ち砕かれた。
そしてアル=カーミルは逃げた。矢も楯もたまらず逃げ去った。畏れ、怯え、苦悩。機械人形のように育てられたかれに、人間の感情が芽生えはじめていたのだった。
走り去るアル=カーミルを、ヴァレリーが見つめる。その後かれは、みずからのからだに視線を落として低くつぶやいた。
「思っていたよりも強いな……。姫との間にいさかいを起こしたりせねばいいが……」
かれの衣は右胸から上腕部分に至るまで一直線に切り裂かれており、しかもその内側では血が赤い線を描いていた。その傷を見て、暗殺者を目前にして眉も動かさなかったかれが、微妙におそれの表情を見せた。だが、その恐怖は自分自身に関するものではない。
それは、もしアル=カーミルとエルシードが戦えばどうなるか、という想像に対する恐怖であったはずだ。
10
無機的な風の中に、マスィヤードの城は以前と変わらぬすがたで高くそびえ立っていた。城内に漂う金属的なにおいもまた、変わっていない。壁の暗灰色、射し込む光の薄暗さ。何も変化しているところはなかった。
ヴァレリーのもとを去ったアル=カーミルは、数日の後この城砦に戻っていた。しかし、以前と変わってはいないはずのこの風景に、かれは何故か奇妙な寂しさと虚しさを感じずにはいられなかった。
それが自身の変化によるものであることに気づかぬまま、アル=カーミルは城砦内の中枢部へと消えていった。
「シナーンさまがお呼びだ。すぐにそちらへ向かえ」
暗殺教団の一員がアル=カーミルに対して強圧的に命じた。腕が立つとはいえ、二十歳にもならぬアル=カーミルの地位はそう高くないのだ。しかしアル=カーミルは、感情がそげ落ちてしまっているかのようなその男の声が癇に障って仕方がなかった。以前はそれが自然なことであったにもかかわらず、いまはそれが気になって仕方がないのだった。アーディルやシャラザードは、このような話し方はしない……。そのような思いが脳裏をよぎった。
「なんだ、何か不満でもあるのか」
「いえ……承知致しました」
簡潔に返事をして、アル=カーミルはその男を追い払った。そしてすぐにシナーンのいる部屋へ向かう。
疲れをとるために少し休みたかったが、ここではそのような気ままな振る舞いは許されることではなかった。そう、ここでは許されない。ヴァレリーのそばとは違って。アル=カーミルは我知らず何ごともあの場所と比較してしまう自分にようやく気づいた。
灰色の空気が淀んでいるような暗い通路を抜け、アル=カーミルは目的の部屋に足を踏み入れた。そこでは以前とおなじように、シナーンがかれを見下ろすようにして立っていた。
「何をしに戻ってきたか! すでに数名が理想のもとに殉じておるというのに、おぬしは使命も果たさぬまま城に入っておる。恥を忘れたか!」
アル=カーミルはこたえられなかった。自身でも、何故ここに戻ってきたのかわからなかったからだ。ヴァレリーを斃す計画を練るのであれば、何もここでなくともできることだった。
ここへきてはじめて、アル=カーミルは自分が助けを求めていたことを知った。そして同時に、ここにはかれが求める救いの手は存在しないことも理解した。
「いますぐここを去れ。そしてエルシードとアル=アーディルの首を刎ねて参れ!」
シナーンの厳命に、アル=カーミルの身体は硬直した。
「抗弁することは許さぬ。おぬしにはただ使命を遂行する義務があるのみだ。わがことばが理解できるなら、ただちにわが前からすがたを消せ」
シナーンの声には取りつく島もなかった。アル=カーミルは黙って部屋を去り、かれにはめずらしいため息をついた。
しかし、任務は任務だ。アル=カーミルは迷いをとどめたまま、ふたたびダマスカスへと足を向けた。
一方、かれが出ていった部屋の中では――
長老シナーンが、アル=カーミルに対する意識を変化させていた。かれは、部下をこころから信頼することはしないのだ。皮肉だが、その傾向ゆえに、かれは正しい推察をくだした。
「やつめ、二心を抱いたな。わしが見抜けぬとでも思ったか」
シナーンはそうつぶやいた後、数人の部下を呼び集めた。
「先ほどわしはアル=カーミルに会って確信した。やつがわしに疑念を持ちはじめておるということをな。いや、すでにわしを裏切ろうとしておるのかもしれぬ。おぬしらはアル=アーディルとエルシードを討つとともに、やつも殺せ」
「はっ」
その部屋に集まった三人の男は、感情のないもののごとく同時に返答した。
「しかしやつを殺すのはダマスカス内でおこなえ。やつの死をアル=アーディルに見せつけてやるのだ」
「しかし……アル=アーディルとは何者にございましょうか。あのアル=カーミルに二心を抱かせるとは」
「どういう男なのかまでは、わしも知らぬ。特殊な幻惑術を身につけておるやもしれぬ。おぬしらも十分警戒するようにな」
「むろん、われわれのこころが動くことなどありは致しませぬ」
信仰の返答だった。アル=カーミルの場合とは微妙に異なっている。長い年月を経て、かれらは疑うことをすでに忘れている。アル=カーミルは、まだ若すぎたと言えるのだろう。
「よいか、繰り返すが、おぬしらはやつに魂をからめとられるようなことがあってはならぬぞ。義務は血よりも重いことを忘れてはならぬ」
「はっ」
「では行けい。行ってわれらの力を示すのだ」
シナーンの表情にはわずかな苛立ちの色があった。
それはまったくめずらしい出来事であり、それゆえに意志を持たぬはずの暗殺者たちでさえ、行く先にたちこめる暗雲を感じとらずにはいられなかったことだろう。
乾いた砂まじりの風の中、アル=カーミルはようやくダマスカスにたどり着いた。
しかし、かれはどこに行けばよいのかもわからなかった。完全に行き場をなくしていたのだ。すでに戻るべき場所はなく、帰る場所もうしなわれていたのだった。
魂の抜けた人形のようにアル=カーミルは歩き続けた。
しかし、呆然としてはいたものの、使命を捨てて逃げるようなことはできなかった。暗殺者に、逃げることは許されてはいない。殺すか、死ぬか、その二者しかかれには選択の道はないのだった。
結局、アル=カーミルは疲れきった足取りでエルシードの館へ向かった。
そこでは、ヴァレリーがいつものようにシャラザードの箒に追い立てられたり、噴水におちてエルシードに怒鳴られたり、ラスカリスと雑談を交わしたりしているすがたを見ることができた。
いつでも飛び出してヴァレリーを屠ることができたのだが、そのたびに時機を逸して動くことができなかった。特に、シャラザードがいるときは行動をおこすことが躊躇われた。
「おれはやつを殺さねばならぬ。かれを殺すことがおれの使命……」
アル=カーミルは繰り返しつぶやいて決意を固めた。
ついに物陰から飛び出し、ヴァレリーの後ろに迫った。突然の背後からの殺気を感じ取ったか、ヴァレリーが振り返る。そのひとみに、短剣を突き出そうとする自身のすがたが像を結んだ。
一瞬の出来事で避けることができなかったのか、それともあえて避けなかったのか。
アル=カーミルは驚きにことばをうしなった。なぜなら、ヴァレリーならばこの程度の攻撃はかならずかわすだろうと信じていたからだ。だが、その確信は裏切られた。
短剣は、いともたやすくヴァレリーの胴に突き立ったのだった。
「何をしている!」
物音を聞きつけたエルシードがすがたをあらわし、暗殺者をことば鋭く咎めた。が、その声も耳には入らなかった。悲しげなひとみで自分を見るヴァレリーを前にして、アル=カーミルはしばらく動けなかった。使命を果たして喜ぶべきであったのに、それが困難であるのを知ったのだった。
アル=カーミルは逃げるように走り去る。
その背後で、ヴァレリーが片膝をついた。エルシードが急いでそばに駆け寄る。もうそこには血だまりが広がっていた。
振り返ってアル=カーミルはそれを見た。
われをうしなってエルシードがヴァレリーにすがりついている。普段のかの女なら決してしないことだった。そのひとみのゆらぎも、かの女にはありえないはずのものだ。しかし、それはいま確かに目の前にあった。あれだけ果断で知られていたかの女が、何をすればいいのかわからないといった狼狽を見せていた。
それは、絶好の隙に違いなかった。
手練の暗殺者がそれを見逃すはずはない。見逃すはずはないのだ。
そのとき、アル=カーミルは気づいた。周囲に数条の剣気が走ったことだ。自分以外の暗殺者。それはアル=カーミルのそばを通過し、ふたりに向かって静かに進んでいった。
終わった、と思った。
ようやくすべての問題が終端されたのだ。アル=カーミルはふたりに背を向けて駆け出した。背後に悲鳴が響いたが、かれは振り返らなかった。
五日後のことだった。
使命を果たし、本来なら称賛されているはずのアル=カーミルは、ダマスカスの郊外、果樹園の森の中で、数人の男に突然取り囲まれた。
「どういうことだ。おれに殺気を向けるとは」
尋ねるが、すでに理解していた。長老シナーンがかれらに命じたのだ。当然のことだろうと思った。自分は、エルシードに手を下すことができず、逃げ去った。それは、罰せられても仕方のないことなのだった。
しかし、確かめるようにアル=カーミルは問いを発した。
「エルシードとヴァレリーはすでに始末したのだろう。そのほかにも、シナーンさまから授かった任があるというのか」
「その通りだ」
暗殺者たちは一歩踏み出して一斉に剣を抜いた。
「どういうことだ」
「おまえはもはや、質問を許された者ではない。おまえに残されている道は、われらに殺されることのみなのだ」
すでにすべてを悟っていたアル=カーミルは、驚かなかった。やはりそうなったか、という感情がこころを包み、かれは当然の結果として現在の状態を受け入れた。
三人の男が同時に飛びかかってきた。素早く剣を抜き、これに応じる。応じることにはもはやなんの意味もないとも思えたが、反射的にからだが動いた。
ただ、奇妙に晴れやかな気分でもあった。呪縛から解き放たれた感覚だった。うしなわれたことが、人間の感覚を得ることに繫がった。皮肉なことだった。
「観念したか!」
緊張に欠けた面を、暗殺者たちは諦念と取ったようだった。
三本の黒い曲刀がそれぞれの軌道をたどって飛来した。ひとを迷わず寸断する暗殺者の速度だった。だが、アル=カーミルの反射能力はその三本の剣の速度をさらに上回っていた。
剣を避け、一瞬の間をおくこともなくアル=カーミルは敵のひとりに向かって駆けた。だが、ほかのふたりの斬撃が飛んで、その動きを遮断する。
敵は三人だ。ひとりに対していかに技倆がまさっていようとも、この数はさすがに荷が重かった。ひとりを攻撃しようとすると他のふたりが隙をついて襲ってくる。暗殺者たちはそれぞれが暗殺教団の一員として、一騎当千の力を持っているのだ。アル=カーミルは次第に押されはじめた。
ひとりの剣がついにアル=カーミルの身をとらえた。左上腕部をかすめた剣が、そこに血の直線を刻む。致命傷とは言えないが、戦いを継続するには深刻な痛手だった。
防御に隙ができたアル=カーミルに対して、三人の男がたたみこむように剣を繰り出す。黒い剣光が風を切り裂く。ときとともに無数の傷が刻みこまれ、生命力をそぎ取ってゆく。かろうじて死命を制されるような攻撃は防いでいたが、それも時間の問題だった。
しかしそのとき、三人の中のひとりが突然、背中から鮮血をふき出してその場に倒れた。
「背後をこうもたやすくとられるとは、暗殺者として失格だな」
一刀のもとに暗殺者を斬りふせたのは、あのラスカリスだった。
卑怯な、と言う暇もなかったのか、ふたりの暗殺者は無言のまま、ひとりはラスカリスに、ひとりはアル=カーミルにそれぞれ斬りかかった。それは、機械的な判断だった。かれらが通常のひとであれば逃走するという選択があったはずだが、かれらはそれをしなかった。
一対一ならばラスカリスも、そして手負いのアル=カーミルも暗殺者に不覚をとるようなことはない。一瞬もたたぬうちに、暗殺者たちは血だまりに沈んでいった。
「……これでわかったか」
ラスカリスは奇妙なことを訊いた。
「なんのことだ」
「シナーンとヴァレリーさまの違いだ。シナーンは、部下であるおまえまでもころそうとした。その一点だけでも、違いがあることがわかるはずだ」
アル=カーミルはうつむいたままこたえなかった。さまざまな要素が胸の裡にあって、それらを合わせて考えることが困難になっていた。
「おまえの妹も心配しているぞ。早く帰ってやるといい」
シャラザードのことであるのは間違いなかった。しかし、それはできない選択だった。
「おれはその父をころしたのだ。会おうとは思わぬ」
それに対して、ラスカリスは余裕のある笑みを浮かべた。
「ふ、残念ながらヴァレリーさまは、あの程度で死ねるほど善人ではないのだ」
ラスカリスのことばに対して、アル=カーミルは声が出なかった。あの日のあと、確かにヴァレリーとエルシードの遺体が屋敷の四阿に埋葬されるのを見た。それを確認して、ふたりは死んだものと理解していたのだ。
「ああ、あれか。あれは擬装だ。暗殺者たちがあまりにしつこいので、この際そうするようにおれが進言したのだ」
あのときヴァレリーがあえて短剣を受けたのは、そのためだったらしい。腹に仕込んでおいた羊肉に剣を巧妙に受けたのだ。ただ、刃が腹部にまで達したことと、ほかの暗殺者にエルシードが襲われたのは計算外だった。なんとか打ち倒しはしたものの、ふたりともかなりの深傷を負った。そういうことであるらしかった。
「そうか……ふたりを襲った者と、今日おれを襲った者は、別であったのだな」
「ああ、ただ、おふたりの傷はかなり深かったぞ。いまはふたり仲良く部屋に並んで安静にしておられる。まあ、そのほうが騒ぎも起こさなくておれは助かるんだがな。傷が浅かったらふたりともすぐにあちこちへ勝手に動いてしまって、暗殺者をあざむくなどできなかったろうしな」
それからというもの暗殺者たちの襲撃はぴたりと止んだのだ、とラスカリスは満足気に言う。確かに、自分もまんまと騙されていたのだ。
「行く場所がないのならヴァレリーさまのそばにいろ。あのひとの寛容はおまえにもわかるだろう。怒られてばかりいるあのひとのすがたが、懐かしいとは思わないか」
「しかし、おれはかれに剣を突き立てたのだ」
「あのひとをころそうとしたことがあるのは、おれも同じだ……おれにおまえほどの腕があれば、傷を負わせていたこともあったかもしれない」
いまのかれを見ているかぎり到底信じがたいことだったが、どうも事実であるようだった。
「まあ、難しく考えるよりも、感情にしたがって行動してみることだな。暗殺者にはそちらの方が難しいのかもしれないが」
「……ひとつ訊いていいか」
「なんだ」
「アーディルに瀕死の傷を負わせたおれに対して、おまえ自身は憎しみを持たぬのか」
「持っているとも。だが、おまえはヴァレリーさまを守るおれ以上の力になるかもしれない。それだけだ」
嫉妬というものをかれは感じていいはずだったが、それは見て取ることができなかった。かれはただアーディルの安全だけを純粋に願っている。そのような愚かさがかいま見えた。
つまり、暗殺者と同様に、報酬を求めるこころがない。有りようは、似ていると言えるのかもしれない。ただ、シナーンはそれらの者をみずからの手で製造していた。アーディルには、この男のような者が自然に周囲に発生している。かれ自身が知らぬうちに、いつの間にかそういった者が集まってくるのだろう。ならそこにはかならず違いがあり、その違いに戸惑った自分は敗れた。アル=カーミルは、そう理解した。
ヴァレリーが愚か者でもおなじ、と言ったシャラザードのことばの意味をアル=カーミルは少しだけ感じ取ることができたように思えた。
11
ダマスカスにおける騒動の中心だった王妹エルシードの館――
そこにはいま、ふたりの若い女性が暮らしているのだ。ひとりは屋敷の主人、ひとりは居候の娘なのだが、このふたりをはじめて見る者は両者を取り違えるかもしれない。あるいは、姉弟と誤解するだろうか。
そのふたりが、このとき館の部屋で楽しげに会話していた。怪我で一日中寝ていることに耐えられない娘が、年上に見える方の女性を呼びつけていたのだった。
治りの早いエルシードの傷は、もうかなり癒えている。が、いのちを落とさなかったのはあの国老バハーウッディーンの力によるところが大きい。かれの持つ医術が、王妹を救ったのだ。それほど、暗殺者から受けた傷は深かった。一ヵ所は腕の骨に達し、もう一ヵ所は脇腹を深くえぐっていた。
「医者を本業にする者の仕事を奪わぬよう、最近は医術の披露を控えていたんだがのう」
そのようなことをつぶやきながら、バハーウッディーンはエルシードの出血をその場で止めて見せたのだった。その止血の処置が的確だったことが、王妹を救った。
当時のイスラム医学は世界でも最高水準に達しており、その知識もバハーウッディーンは吸収していたのだが、そのかれがちょうど館を訪れていたのがエルシードの強運だった。
「それにしてもシャラザード……そんな毎日おなじようなことばかりしていて、よく飽きがこぬな。わたしにはとても真似できぬわ」
自分の寝室を掃除しているシャラザードに、エルシードがあきれたように話しかけた。
「まったく、あの男の娘には惜しい」
エルシードが他人を称賛するのはめずらしいことなのだが、シャラザードはいつもの優しい微笑を浮かべただけだった。
「でしたら、妻にしてもらいましょうかしらね」
冗談なのは明らかな口調だった。しかしエルシードの顔色はその一瞬で変わり、くちびるは銀のように硬くなった。
「そんなことはわたしが許さぬ」
「まあ、どうしてですか」
「……親娘が夫婦になるなど、ひとの道に反するからじゃ」
苦しまぎれの反論をするエルシードをシャラザードはにこやかに眺めていた。その様子はまるで子どもを扱うかのようだ。
「あら、違いますよ。あのひとのじゃなくて、姫さまの、というつもりだったのですけど」
「な、なんじゃ、そういうことか。ならばよろしい。わたしの妻になれ」
「え、そちらもあまり、ひとの道としてよろしくないと思いますけど……」
「そ、そうか」
エルシードはうろたえた様子で口ごもった。それもまたひどくめずらしいことだった。千の騎兵だろうと暗殺者だろうと、かの女はうろたえない。しかし、この少女の前では、母といるかのように無防備になる。そうさせるような特性を、シャラザードは持っているのだった。
むろん、最初のうちはエルシードも警戒していた。しかしそれもほんのわずかのあいだのことで、ふたりはすぐに打ち解けて、本当の姉妹、あるいは姉弟、あるいは母子のようにこころを許すようになった。
「さ、そろそろお父さまとお兄さまの服を仕立てないと」
そう言って、シャラザードは手にしていた箒を置いた。
「仕立て、か……」
せっせとヴァレリーたちの服を仕立てるシャラザードを見て、好奇心あふれるエルシードはそれを教わろうとしたことがある。しかし何度やってもうまくいかず、そのうちに飽きて放り出してしまったものだ。そのとき、エルシードは生まれてはじめて自己嫌悪というものを感じたと周囲の者にこぼした……。
戦いのあいだの平和なひとときだった。
そして、アル=カーミルがこの屋敷に戻ってきたのはこのすぐ後だった。
廊下を歩いているかれと、シャラザードは真っ先に顔を合わせることになった。エルシードの傷とアル=カーミルの関係を、かの女はおおよそ知っているだろう。しかし、その態度に変わるところはなかった。ごく自然に、かの女は変わらないのだ。
「まあ、お帰りなさいと言いたいところですけど、あまり長い留守は慎んでくださいね」
暗殺者の若者は沈黙でこたえる。
「それに怪我までなさっているじゃありませんか。お父さまといい、男のひとは本当に困ったものね」
アル=カーミルの凍結した暗殺者らしい顔だちが、かすかに笑みの形に動いた。うれしさをあらわす表情だったのかもしれないが、慣れていないことなのだろう、それはうまくいっていなかった。
「アーディルはどこだ」
「あのひとなら、庭でごろごろなさってましたよ」
このことばにも、アル=カーミルは奇妙な懐かしさをおぼえたことだろう。
しかしそのようなことをアル=カーミルは顔色にも出さなかった。ただ寡黙に頷き、そのまま歩み去る。その様子をシャラザードがやはりやわらかな微笑で見送る。
そして中庭に出たアル=カーミルは、シャラザードが言った通りのすがたでヴァレリーがなまけているのを発見する。
「なんだ、ようやく帰ってきたのか。シャラザードにはちゃんと謝ったのか」
傷が完全に癒えていないヴァレリーの顔は、まだやや青白かった。が、そのようなことには自分自身も気づいていないような、ゆるやかな表情をしている。エルシードの言うなまけ者の顔つきだ。
「まだなんだったら、急いだ方がいいぞ。ずっとおまえのことを案じていたからな。あのような娘は、いざ怒るとおそろしいものだぞ」
くだらない冗談を自分で笑うヴァレリーを前に、アル=カーミルはやはり沈黙してたたずんでいた。ただ、その寡黙は以前とは性質の異なるものであることは間違いなかった。
「……一応言っておく、おれはそのうち突然気が変わってふたたびおまえを殺そうとするやもしれぬ。それでもよいのか」
「いや、よくないよ。死にたくないし」
ただそのようにだけこたえて、ヴァレリーは笑う。どうも、人格者と感心させるようなこたえはできないらしい。くだらない人間なのだ。
だが、そうしたくだらないことが、アル=カーミルに再度の微笑をあたえた。今度は、先ほどよりは少しだけ形の整った笑みだった。
数日もするとエルシードはもう普段と変わらぬ生活をするまでに回復していた。
それで館の中をうろうろするようになると、当然アル=カーミルと出会うこともある。
かれを見るときのエルシードの顔はいつも不機嫌そのものだった。ヴァレリーに何度も説得されて納得はしていたのだが、いかんせんかの女の場合、感情が理性よりも優先する。
そんなある日、エルシードの鬱積した怒りがついに爆発した。
きっかけは、その前日にかの女がふたたび暗殺者に襲われたことだった。館を出て久々の外出にこころ躍らせていた王妹は、いきなり数人の男に囲まれたのだ。しかもあろうことか、暗殺者たちは欲にぎらついた目とことばをエルシードの身体に向けた。それは、閉鎖された空間に棲む者によくある少年愛のあらわれだった。つまるところ、少年そのもののエルシードに対して、かれらは欲情のあらわな侮辱のことばを発したのだ。
それにもかかわらず、そばにいたヴァレリーが面白がって笑っていたために、話が複雑になってしまった。暗殺者たちのほうは、病み上がりの王妹を侮っていたこともあって、一瞬のうちに打ち倒されていた。
「昨日わたしを襲ったのはおまえであろうが、アル=カーミル! ヴァレリーと違ってわたしの目は硝子玉ではないぞ!」
「……おいおい、姫。昨日の犯人はもう捕らえられたんだろう」
目を硝子玉にされたヴァレリーが、横から口を挟んで反論した。むろん内容は自分の目のことではなく自分の養子についてのことだったが、当のアル=カーミルの様子にそれなりの変化はなかった。
「あの者どもは逃げおったのじゃ。ちっ、まったく」
エルシードは本来なら独特の旋律と響きを持っている声を荒らげに荒らげながら、怒りに燃えるひとみをアル=カーミルに向けた。
「昨日の男を思い出すに、背格好といい、声といい、おまえ以外には考えられぬわ! よくも平気な顔をしてここにいられたものである!」
言いがかり以外の何ものでもなかった。このひとの言動はときどき、理不尽さばかりでできていることがある。
「ふん、欲望の標的にされて動転し、相手の顔もおぼえておらぬ、か。清純で結構なことだ」
アル=カーミルの皮肉に、エルシードは逆上して剣を抜いた。そのまま相手に向けて全力で振り回す。手ごころもいっさいなかった。
しかし大振りの目立つエルシードの剣は、アル=カーミルの動きに追随することができなかった。アル=カーミルは巧みにエルシードの剣のあいだをすり抜け、遠ざかる。そのかれを、獣に近い声をあげて、エルシードが追い回す。
「まあ、私がいつもやらされていることだ、たまにはかれにまかせるのもいいか」
無責任なヴァレリーのつぶやきは、アル=カーミルの耳に届いたようだった。そのため剣への注意が一瞬うしなわれ、エルシードの斬撃がかれの頭上に降りかかった。
アル=カーミルは鞘に納まったままの剣で、それを受け止める。
しかしかれは、いのちを燃料にしたエルシードの膂力を知らないのだ。その力で押しこまれて後ろに下がると、次の瞬間に王妹の蹴りがかれの腹に向かって飛んだ。
アル=カーミルのからだが宙に跳ねとばされた。おそらくは衝撃を減らすためにみずから跳んだのだろうが、少なくとも他者の目には、非常識な力によって後ろに弾かれたように見えた。
着地したアル=カーミルが体勢を立て直すより早く、エルシードはそこへ目がけて突進した。あわててヴァレリーがふたりのあいだに割って入る。
「なんじゃ、きさま、邪魔だてすると生命はないぞ!」
そう叫んだ瞬間にはすでに、エルシードはヴァレリーに向けて剣を振り下ろしていた。興奮状態にある王妹の行動は、いつものことなのだが、完全に無軌道そのものだった。
あわてた様子で、ヴァレリーはなんとかその剣をかわした。しかし、ふたたびエルシードの蹴りが飛んで、かれのからだを宙に舞わせた。
「やれやれ、手がつけられないな、これは……」
何故か自分の方へ向けて猪のように突進してくるエルシードを見て、子象の飼育係のようなことばをヴァレリーは口にした。
エルシードがすぐそばまで迫ってきたとき、ヴァレリーはかの女の出足をさっと払った。顔から落ちる形でエルシードが床に転倒する。そして石壁に全身を強く打ち、しばらくのあいだかの女は床に転がってうめいていた。
「きさま……女性に対して遠慮というものを考えることはないのか」
肘のあたりをさすりながら立ち上がると、エルシードは何のためらいもなく言った。
「よくそんな、とてつもなくわがままなことばを口にできるな……」
あきれを通り越した物言いだったが、エルシードの方は聞いていなかった。
「ふん、今日はこれぐらいにしておいてやるわ! いずれ本気で相手をしてやるからな!」
この王妹にしてはありきたりの捨てぜりふを吐きながら、かの女は剣を納めて足音も高く去っていったのだった。
「やれやれ、おさない暴君というのも困ったものだ」
ヴァレリーがもういつもの調子を取り戻して、ゆるやかにつぶやいた。
むろん、エルシードは翌朝になると、自分がアル=カーミルを犯人扱いしたことすらもすっかり忘れ去って、屋敷中に楽しそうな笑い声を振りまいていた。
12
ダマスカスはイェルサレムよりもさらに内陸に存在するため、日中は暑く夜は寒い。
ただし暑いとはいえ、空気が乾いているため耐え難いほどのものではなく、夕刻ともなれば盛夏のいまであっても外の大気は快適だ。
そうした夕闇の近づく中を、ヴァレリーは剣のかわりに釣竿を持ってぶらりと散歩して回っていた。街を行き交うひとびとの生活を眺めようと思ったのだ。つまりはいつものことだった。
市場ではヴェールをつけた女性や商人たちが入り乱れ、かなりの雑踏となっていた。売り手と買い手の合意で値段が決められるため、あたりの喧騒は凄まじい。
しかしヴァレリーは、賑やかで生活感に満ちたこの場所が好きだった。だから、用もないのに日頃からよくうろついているのだ。
市場の空気を吸いながらしばらく歩くと、人通りは少なくなりはじめる。ヴァレリーがふと横に目をやると、そこには日焼けした薬種商の主人が座っていた。客はひとりもいない。乾燥したダマスカスには病気が少なく、当然客も少なくなるのだろう。
「へっ、さっぱり儲かりませんぜ」
店の主人はそう愚痴をこぼしながらも、満足そうな笑みをヴァレリーに向けてよこした。自分が儲からないことは、この街に病人が少なく、健康な人間が満ちていることの証明だ。かれの笑みはそう主張していた。みずからの職業に誇りと愛着を持った魅力的な微笑だった。ヴァレリーはそれをうらやましく感じた。
「アーディルさまは、どこかからだがお悪いのですかい」
店の主人はヴァレリーのことを知っているようだった。ダマスカスに滞在するフランク人などあまりいないのだから、こういうこともめずらしくはない。この主人も、ひとびとの噂話からヴァレリーの風貌などをしばしば耳にしていたのだろう。
「いや、病気というほどのものではないんだが、このところ夜になっても眠れなくて。いわゆる不眠症というやつだな。悩みごとが多いからなあ。眠り薬はあるのか?」
「あることはありますが、そんなものよりもっといい治療法をお教えしましょう」
「へえ、そんなものがあるのか」
「昼に眠らんことですよ」
どうやら、ヴァレリーが昼寝中に暗殺者に襲撃されたことは、かなりのひとびとの話題の種となっていたらしい。
「私もめったに昼寝なんてしないんだけどな」
ヴァレリーは小声で反論したが、よく考えてみるといつも昼には寝ているような気がして、少しだけ反省することにした。
街の外の果樹園では、木の陰で女性が汗をふきながら一休みをしていた。ヴェールは邪魔になるため、農家の女性はそれを身にまとわないことが多い。
その女性の夫らしい男が一心に雑草を抜き続けている。そして時折、女性の方を向いてにっこりと笑う。それは薬種商の主人が見せたのと同じ微笑だった。
いいひとびとだ。ヴァレリーはそう思う。それにひきかえ自分は、とも思う。あのようなひとびとが必死で築きあげているものを蟻のように食い散らかしている。それだけしかしていないのだ。恥ずかしかった。
ヴァレリーは苦い思いとともに首を振った。そして乾いた地面を軽く蹴りつけた後、ゆっくりと向きを変えてそこを後にした。
しばらく歩き続けてようやく当初の目的地だった川岸に着いた。
ヴァレリーはぼんやりとしながら、餌のついていない釣針を水中に沈めた。むろん、魚はまったく釣れない。ただ、それもいつものことではあった。
――暗殺教団か……。
かれは自分のこころをおそろしく感じた。ふと気がつくとマスィヤードの城を落とす方法を考えている。戦いを好むものが、こころのどこかにあるのかもしれないと思う。
ふいにヴァレリーは、暗殺教団への攻撃を主張するエルシードの顔を思い浮かべた。
「あのような悪の教団を壊滅させるのになんの遠慮がいるのか。やつらにあたえるべきは地獄の火であって、慈悲の水ではない。城ごと燃やし尽くしてしまえばよい」
かたくなに主張するエルシードを前にして、ヴァレリーは危惧の念を抱いたことがあった。それはエルシードの、悪に対する異常なまでの憎悪に対してだった。
――あのひとは、みずから悪と決めつけたものは、有無を言わさぬままそれを殺し尽くそうとするのではないか。
そんなことを考えてしまうのだ。
おさない頃に家族を虐殺されたというエルシードの傷を、ヴァレリーは思い起こさずにはいられなかった。その深い傷がかの女の目を塞ぎ、汚れたものを直視できなくしているのではないか。
そこからは、十字軍や暗殺教団の有りようと共通するものが生まれてしまう気がしてならない。
そういった懸念も、暗殺教団攻撃を躊躇う理由のひとつとしてあった。
しかしエルシードを傷つけた暗殺教団に烈しい怒りをおぼえていたのも事実だった。その感情と理性との矛盾に悩む。
そのときふとひとの気配を感じて、ヴァレリーは釣糸から目を離した。振り返って、後ろに目をやる。
そこにはキリスト教徒らしい少女が立っていた。年の頃は十三、四歳ぐらいであろうか。少女は紫色のひとみでじっとヴァレリーを見つめていた。
「こんなところにフランク人の女の子がいるとはめずらしいな。私に何か用があるのか? でも、私の子どもだとか名乗っても、もうだまされないぞ」
ヴァレリーは何もなかったように釣糸に目をもどしながら、ほとんど独り言のようにぶつぶつと言った。
返事はなかった。ヴァレリーがもう一度左へ目をやるとその少女のすがたは消えていた。ヴァレリーは軽く首を傾げると、ふたたび釣糸へと目を戻した。するとそのヴァレリーの右隣にいつのまにかその少女が座っている。
ああ、これは心象なのだな、と気づいた。うとうととしている自分がなんとなく感じ取れたのだ。しかし、隣に座っている少女にふしぎな現実感があるのも確かだった。
「言いたいことがあるんだったら、目が覚めないうちにしたほうがいいよ」
特にあわてることもなくヴァレリーは話しかけた。少女がはじめて口を開く。
「どうして暗殺教団を討たないの?」
ヴァレリーは首を傾げて少女を見つめた。
この子は暗殺教団に何か特別な恨みでも持っているのだろうか。たとえば姫のように家族をころされたとかいうような……。
「どうして、か……。そうだな、これから悪いことをするかもしれない、というのを理由にはできないってところかな」
「異端であるからと攻撃するなら、十字軍の狂信者たちとおなじになってしまうのではないか。そうなのでしょう?」
何の前置きもなく少女はいきなり核心を衝いた。おどろきを顔にあらわして少女を見つめるほかはなかった。
それにしても、やはりふしぎな感覚があった。見ていると、どうもこの少女のほうがずっと年長のように感じられてくるのだ。
理由は、よくわからない。いや、わざとわからないようにしているような気もする。
「でも暗殺教団は、あなたの家族に等しいひとたちをころそうとしているのよ。そしてかれらはかならず、それをやり遂げる」
ヴァレリーはことばを返さなかった。
「それを防ぐ。わたしはそれだけでいいと思うわ。どの方向にも完全な手段なんて、この世にはないのだから」
少女はさとすように続けた。
「あなたはまだ若いのだから、きっと前を向いたまま走ることも大切なのよ。後悔なら歳をとってからいくらでもできるのだから……。それでもこのようなところで何をするでもなくぼんやりとしていたいというのなら、勝手になさい」
ヴァレリーは黙っていた。むろん、少女がおそらく意識的に単純化して話したことにこころを動かされたせいもある。しかしそれ以上に、その少女の声に奇妙な懐かしさを感じて、戸惑っていたのだった。
「男のひとは無意味な大義名分にこだわります。あなたのお父さまもそうでしたわね」
続けて発せられた少女のこのことばは、ヴァレリーの記憶に決定的な一打を加えた。
「……そうか、ようやく思い出したよ。何故いままで気がつかなかったのだろうな」
「もう二十年近くになるものね……いえ、あなたはみずから思い出さないように封じていたのでしょう」
少女は微笑してこたえた。
「そうか、あれからもうそんなになるのか」
ヴァレリーはもはや遠くなった過去に思いを馳せた。それは滅多にしないおこないだった。そうか、と思った。あたらしい住処を得て、むかしのことを封じなくても苦しまずにすむようになったのかもしれない。だからこうして、まどろみに過去のまぼろしがあらわれる。
「それよりもわたしの言ったこと聞き入れてくれるわね」
「あなたの頼みとあらば、だな」
冗談めかしてヴァレリーは応じる。
「大切なのはわたしの願いではありません。あなたの意志です」
「ああ、わかっている」
少女はヴァレリーの返事に満足したかのように微笑み、立ち上がった。
「でも、戦いの前にエルシード殿下の傷を癒してさしあげるのを忘れないで下さいね」
「それは難しい注文だな」
ヴァレリーは水面を見つめたまま動かない。釣糸が上下に揺れて愚かな魚が釣針に興味を持っていることを示していたが、やはり動かなかった。これは自分が眠っているからなのだろうとヴァレリーは解釈した。
しかし、少女の声は確かに耳のそばにある。
「わたしの死はあなたのせいじゃないわ。気にかけないでね……」
ヴァレリーは少女の方を振り返った。月光を浴びながら次第に色をうしなってゆく少女のすがたが目に入った。
「さようなら、ヴァレリウス・アンティアス。いえ、いまはアル=アーディルでしたわね。次に会う時が何十年も先になることを祈っています。そしてあなたの人生に神の祝福がありますように……」
ヴァレリーの目の前で、少女のすがたは完全に消えた。
「ヴァレリウス・アンティアスか……」
その名の下半分を捨ててからもう十年以上のときが流れた。年月がもとの名を風化させ、ひとびとの記憶から消し去ったのだ。
しかしヴァレリーには、いまさらもとの名を取り戻そうという気持ちはまったくなかった。居場所はいまここにあり、ここにしかない。
深く息をついてヴァレリーはゆっくりと立ち上がると、何ごともなかったかのようにそこを歩み去った。
13
「ラシード=アッディーン・シナーンのひととなりを知りたいのだが」
エルシードの館の中庭で、ヴァレリーはアル=カーミルに質問した。それを訊くということは、それをおこなうということに等しかった。すでに胸には決意があった。
ヴァレリーは噴水の横に腰掛け、アル=カーミルはその前に立っている。
「生じる矛盾をおそれぬことにした、ということか」
聡いかれは、ヴァレリーの決心を悟っていたようだった。悪としてこちらから討つ。十字軍や暗殺教団の有りようを嫌いながら、それとおなじことをおこなう。その矛盾。しかし、すでに決意した。これ以上エルシードらを危険にさらすわけにはいかないと思う。
「ああ、おまえには悪いが、暗殺教団を討つ」
「そのようなこと、おまえの一存で決定できることではあるまい」
兵を動かすのを決める権限など、ヴァレリーにはない。アル=カーミルはそう言っている。
「私自身の行動を私の一存で決定することになんの障害がある?」
「ほう」
青みのまじったアル=カーミルの黒いひとみが、灯火の明かりを反射して光った。
「戦ではなく、暗殺で決しようと言うのか」
「ああ、なんとかマスィヤードの城砦にもぐりこみ、長老シナーンを討てればと思う。そのためには、おまえの協力がどうしても必要だ」
「ふ……暗殺者の頭領を暗殺するか。それほど困難な仕事はないぞ」
確かに難しいことだろうとは思う。できれば、家でなまけていたいところだ。しかし、それはどうしてもおこなわなければならないことだった。自己犠牲に溺れるつもりはないが、暗殺教団を封じるにはこれが最善の手段だと考えている。
そこへ、少女の声が飛んできた。
「暗殺教団の討伐はわたしが以前から決めていたこと、ひとりで乗り込んでよいという許可など、おまえにあたえたおぼえはないぞ」
躍動感にあふれた足どりでヴァレリーに近づきながら、エルシードが詰問するように言った。
「……姫は、暗殺教団との戦いに参加すべきではないと思う」
「なぜじゃ」
怒りの籠もった問いだった。その横で、アル=カーミルがふたりの様子をじっくりと見比べていた。
「姫は暗殺教団を悪の組織と見るか?」
「当然ではないか。あのような悪魔の集団が、わたしとおなじ大地を踏んでいると考えるだけでもおぞましい」
エルシードは語気を荒らげて主張した。それを見たヴァレリーは、みずからの懸念が正しかったことを知った。おぞましい悪魔としてみなされたアル=カーミルは、しかしじっと沈黙を守っていた。
「悪魔を滅ぼすにはみずからも悪魔であると知らねばならない。神のこころで悪魔を討とうとすれば、そこに十字軍とおなじおごりが生まれる」
「な、何を……」
「そして醜悪なものは、それを処分するにせよ、美しく作りかえるにせよ、まずみずからの手でそれを摑まなければいけない」
わざと抽象的なことばでヴァレリーは話し続けた。エルシードは凍えたように立ちつくしていた。
「わずかの汚れも許さずに美しく生きると言う姫には、そのどちらも不可能なことだろう。神として悪を滅ぼし尽くすのは、十字軍の所業だ。つまり、今度の戦いには姫は不適格だということだ」
冷徹に言い放った。冷徹でなければならないのだった。
数瞬よりも長い沈黙の後、エルシードが意を決したようにヴァレリーの方へ向き直った。そして自分の肩を覆っている布を取って上腕部分にある傷痕を見せた。
「わたしには全身にこのような傷がある……。わたしはすでに美しいとはいえぬ。罪のないひとびとすらわたしは数えきれぬほど斬り捨ててきたのじゃからな。わたしは、全き悪魔である」
ヴァレリーのことばの意味を、王妹は正確にとらえていたようだった。ただ、悪を嫌うかの女が悪を宣するのは、だれよりもつらいことなのに違いなかった。
「わたしは自分が薄汚れていることを認める。子どもをころす強盗以下のおこないをしていることを認める。からだを売る女郎も、からだを買う好色も、わたしよりずっと美しいひとびとだということを認める……だから、わたしも討伐に参加させてくれ。わたしはみなをころさせたくない」
エルシードの腕が小刻みに震えていた。自分で自分を貶めるような行動は慣れていないのだろう。当然のことだ。そのようなおこないに慣れている者など、いるものではない。
「……わかった」
その返答だけ聞いて、エルシードは駆けだすようにヴァレリーの目の前を立ち去った。表情を見られないように急いだものらしかった。
胸が痛んだ。
「いいことだ」
アル=カーミルがさらに冷ややかに徹した声を押し流した。
「過去を過去と片づける客観を、持たねばならぬということか」
「姫は母親を悪に奪われたことがある……これでこころに決着がつくとは思わないけれども、悪への感情につき動かされないようになってもらいたいと思うんだ。そうしたことは、かならず姫自身にいずれ危険をもたらすことになるからな」
われながら増長した物言いだとは思った。自分は、ひとの生き方をただせるような人間ではないにもかかわらず。
アル=カーミルは沈黙でこたえた。どこまでもひとに追随しない若者だった。
「まあ、こんなことはもうこれかぎりだ。後味がよくないな。姫は明るく笑っている方が似合ってるよ」
「ふ……しかし、悪として出てくるのが強盗と売淫とはな。二十一歳とは思えぬおさなさだ。清純で結構なことだが、何故あの歳にもなってああなのか」
「それがいいところだよ」
「だが、普通ならもう結婚していておかしくない歳だ。にもかかわらず、あのようなすがたをしている。奇妙なことだ」
「いや、じつは婚約者はいるんだよ」
そのことを本人から聞いて知ってはいたが、口にしてみるとみずから少し衝撃を受けて感情が乱れてしまうのがヴァレリーはふしぎだった。
「本当ならいまごろは、タキ=アッディーンさまと結ばれているはずだったそうだ。先帝の血筋を導入するためでもあったのだろう。でも、姫は子どものころから少年で、しかも少年としてタキ=アッディーンさまに育てられ、才能を見いだされて武人となった。十字軍を打ち払ったら結婚するという予定だったが、アッカ守備隊に追いやられることになって、それも立ち消えになってしまってるわけだ」
「ほう、しかし、婚約自体はまだ生きているわけか」
「ああ。それに、姫のタキ=アッディーンさまへの想いも、残っていると思う。タキ=アッディーンさまは姫を少年としか見ておられないようだが、それを寂しく感じてもいるらしいよ。たまにそういう話も耳にする」
「なるほど……」
アル=カーミルは頷いた後、しばらく間隔をおいてからことばを繫げた。
「しかし、どうでもいいことだ。おれには、な。おまえにはそうではないのだろうが」
「い、いや、そういうわけじゃないよ」
焦る自分がヴァレリーはよくわからなかったが、それはそれとして放置しておくことにした。いま考えるべきことでもなかった。
そしてその後は当初の予定通り、シナーンやマスィヤードの城に関する情報をアル=カーミルから得ることに専念した。
みずからを悪魔と宣して、泣いてしまった。不覚だった。その顔を見られるわけにはいかなかったので、エルシードは全力で部屋まで駆け込み、寝台に飛び込んだ。
悪魔を討つには悪魔であることを知らねばならないと、かれは言った。
わかっているつもりだった。しかし、自分はそれをおこなってはいなかった。いままでのことを思い出すと、恥ずかしさが募る。醜いものを手にとって救おうとしたことは、思えば一度もなかった。醜い、すなわち悪。即、斬る。それが自分のすべてであったような気がする。
それもまたよしという場合もあるだろう。もともと生まれつき自分はそうした性格だ。しかし……泥沼に沈むよごれた人間に、一度も手をさしのべたことがないというのは、人間として欠けていると思った。
慄然となった。恐怖に近い感情を持つ。自分は、怪物になりかけていたのだ。
おそろしかった。
それとともに、強い感謝の思いが湧いた。いま冷徹に言われなければ、あともう少しで自分は、母をころした者たちとおなじ存在になっていた。
「あやつは、それを見抜いていた……わたし自身も気づかなかった病に」
エルシードは顔を上げ、壁を通して遠い向こうを見つめた。
ヴァレリーとわたしの年齢は六歳違う。六年たてばわたしはかれと対等になれるだろうか。いつになればわたしは妹や娘のように見られずにすむのだろうか。
感謝の念ゆえか、六年という差の中に対岸のない大河が横たわっているような気さえしてくるのだった。
「いや、無限の幅を持った河など存在しない。かならず渡りきってみせる……追いつかねばならぬ」
こころに誓いながら、エルシードは寝台に転がった。純黒のひとみは、ようやくかの女らしい生気に満ちた光を取り戻していた。
ややあって、そのうつくしいひとみは閉じられ、王妹エルシードは幼児のような深い眠りに沈んでいった。
14
五日後、エルシードの率いる暗殺教団討伐部隊が、シャーム(シリア)の都ダマスカスを出発した。兵力はおよそ三千強、その多くはアッカでエルシードとともに戦った子飼いの兵士たちであった。
進軍中に暗殺者の襲撃はまったくなかった。それだけ暗殺教団はマスィヤードの城を信頼しているのだろう。そしてその信頼は確固たる事実に基づくものであり、またこれからも永く勝利によって報われるはずのものでもあったろう。
出発して三日の後、エルシードらはマスィヤードの城に到着した。迅速な進軍とはいえなかったが、それは急ぐ必要がないと判断したためだった。
「どんなに急いでも無駄なこと、ダマスカスにいる間者から、すでに情報を受け取って城内は臨戦態勢に入っているはずだ」
アル=カーミルのこの進言にしたがって、兵を疲れさせない速度を保ってエルシードは進軍したのだった。
そしていま、エルシードの天幕において軍議が開かれていた。天幕とはいえ、軍の本営を兼ねているので十分な広さがある。
地図を前に、エルシードは部下の部将らへ手短かに命じてゆく。
「アル=アジーム。ギュネメー。おまえたちは糧秣の警備にあたれ。ラスカリスには投石機による砲撃を一任する。マンスールはわたしにしたがって突入の際の指揮をせよ。ハーゼムは……」
一通り指示を終えたあと、エルシードは反対意見がないか尋ねた。
「あのように多数の投石機は、かえって邪魔になりますまいか」
部下のひとりが質問した。
「あれは敵を眠らせぬために撃つのである。もし敵が業を煮やしてのこのこ城から出てくれば、それこそわれらののぞむところ、それに乗じて城に踏み込んでやればよい。兵力はこちらが圧倒しておるのじゃからな」
この内容は、前日ヴァレリーが述べたものをそのままエルシードのことばに翻訳したものだった。
「出て来なかったときは、いかがなされるのですか」
「そのときは、昼夜を分かたず砲撃と攻撃を繰り返す。やつらの目から血が出るまで眠らせぬようにするのじゃ」
強引に思える説明で部下を納得させ、エルシードは軍議を打ち切った。
ヴァレリーやラスカリスもふくめ、部下たちはみな天幕を出て、それぞれ自分の持ち場に戻っていった。
その道すがら、ヴァレリーは前日エルシードと作戦を話し合ったときのことを思い浮かべていた。
「ほう、おまえにしては平凡な策であるのう。痴人は痴人らしく、変則的な策を考えねば、おまえの存在価値などないぞ」
エルシードはそんな手ひどいことばでヴァレリーの作戦を評価したのだった。結局のところかの女はそれを採用したのだが……。
じつのところヴァレリーは、断崖を登って背後から襲う案や、敵の捕虜に偽情報をあたえて逆利用する案など、さまざまな手段を考えついてはいた。ただ、その中でもっとも平凡な策を選んだのは、エルシードに多くを任せたいと思ったからだった。先日の自分のことばで、かの女が思い悩んでいるのではないかと気にかけていたのだ。
しかし、かれの懸念は外れ、エルシードに苦悩する様子は見られなかった。一晩で気持ちに決着をつけ、明るさを取り戻していたのだ。強いひとだ、とヴァレリーはおどろいたのをよくおぼえている。少年のすがたとの不均衡が、じつに強い光彩を放っているように感じられた。
「ふっ、まあよいわ。おまえはのんびり見物でもしておるがよい。マスィヤード程度の城なら、わたしひとりでも楽に落としてくれるわ」
「……さすがに男らしいな。骨太な考えで結構なことだ」
称賛されたと思ったエルシードは、大笑して機嫌をさらに良くした。勘違いに気づいて激怒しだす前に、ヴァレリーはかの女の前から素早く立ち去ったのだった……。
そうしたことを思い出していたヴァレリーのそばに、いつの間にかラスカリスが近づいてきていた。
「たのみますから、くだらないことで殿下を刺激なさらないで下さいよ」
前日ヴァレリーが逃走した後で、顔を真っ赤にして激怒していたエルシードを懸命になだめていたのは、このラスカリスだった。いつも損な役割をさせられるやつだな、とヴァレリーは自分のしたことながらあわれみを感じもする。
「わかったよ。それよりどうだ、うまくいきそうか?」
むろん、城砦攻略についての話だった。
「まあ、敵が千人以下だという確信と千人以下なら勝てるという自信。これがありますからね」
そしてラスカリスはにこりとしてつけ加えた。
「ヴァレリーさまが、いつもみたいになまけようとなさらぬかぎり、大丈夫ですよ」
そんな無益な会話を交わし合ってからしばらく後に、アイユーブ朝によるマスィヤード攻撃がついに開始されたのだった。
15
五日間は、投石機による砲撃のみに終始した。
エルシードが言った通り、城内の者を眠らせないためだ。外からは効果のほどを窺い知ることはできなかったが、敵を疲弊に追い込んでいるであろうことは間違いなかった。
夜、エルシードの天幕において定例の軍議が開かれていた。ただ、ここのところ敵にも味方にもなんの動きもないので、議論はほとんど雑談の様相だった。天幕のなかには医師として従軍しているバハーウッディーンや、顧問ということになっているアル=カーミルのすがたまでも見られた。ラスカリスがこの場にいないのは、かれが夜間の砲撃も直接指揮しているためだ。苦労性のかれは、ギュネメーに対して、
「戦いの真っ最中に眠れる人間の神経の方がどうかしている。おれは常識人だから、おまえのような猪がいつとてつもないヘマをやらかすかと思うと、心配でならないのだ」
などとよくぼやいていた。
また、そうした話を肴にして、軍議は続いていたのだった。
「うむ、ラスカリスの言はじつにただしい。わたしもヴァレリーの次ぐらいにおまえのヘマが心配である」
「何言ってんだ。おれほど慎重な男はそうはおらんぜ」
こたえながら、エルシードの服装を見つめてあきれたようにギュネメーは声をあげる。
「……それにしてもなんでおまえはそんなに厚着してるんだ、いくら内陸で夜は冷え込むからといっても、まだ九月前だぜ」
「悪かったな、わたしはおまえのように醜い肉と毛に包まれておらぬゆえ、寒がりなのじゃ」
「寒がりにもほどがあるってもんだろう」
「でかくてきたないことにもほどがあるであろうが」
エルシードは憎まれ口で反論したが、寒さから身を丸くしているため、話に威厳が伴っていなかった。
「いま頃からそんなに寒いのなら二、三ヵ月後が楽しみだな。姫が着膨れしているところなど、結構みものかもしれない」
「ふん、たとえ太った羊のようになろうと美女は美女なのである」
ヴァレリーのいい加減なことばにいい加減にこたえながら、エルシードは膝をかかえて丸くなっていた。どうやら寒さに弱いというのは本当であるらしい。この周辺は、ダマスカスよりもさらに昼夜の気温差がはげしいということもある。地中海沿岸のアッカならこうも冷え込むことは決してなかったのだが……。
「美女ね……」
このときに限らずエルシードはよく自分のことを美女と言う。
確かに、うつくしい。だが、だれもが言うように、それは女性のうつくしさではないのだ。そしてそのことを、本人は結構気にかけているらしい。まあ、二十一歳になっているにもかかわらず、いつも少年に間違われるのでは、気にかけないほうがおかしいとも言える。
「どうでもよいが、あのシナーンが、このまま緩慢に滅びてゆく自分をただ見ているとは思えんのだがのう」
バハーウッディーンがゆったりとした声で話を本題の方へ引き戻した。
「そうですね。……たぶん、今晩か明日あたりには、ギュネメーも勤労の義務を果たせることになると思います」
「ふん、一番楽をしている野郎にそんなことを言われる筋合いはねえよ」
ギュネメーは反論したが、それを熱心に聞きとめようとするような者はいなかった。
「シナーンがそろそろ何か仕掛けてくるじゃろうと言うのか」
「そうだ。多分ギュネメーが警備している糧秣か、姫のいのちかどちらか、あるいは両方を狙ってくるだろうよ」
エルシードの問いにヴァレリーはさらりとこたえてみせた。向こうから見れば、もっとも隙があるように映るのが、そこのはずだ。そう映るように、配置に工夫してもいる。隙を狙って暗殺することを生業としているかれらはかならず、そこを狙ってくる。つまり、かれらの身に深く染みこんだ習性を使って、その動きを限定するのだ。
「おいおい、シナーン自身が出て来たら、おれどころかエルシードでもやばいんじゃねえのか?」
「その心配は、ない」
アル=カーミルがはじめて口を開いた。
「シナーンはみずから動くことはまずない。かれの部下はかれの道具、その道具があるあいだは、みずからの身を危険にさらすことはせぬ」
ヴァレリーの方を一瞥しながら、アル=カーミルはそう断言した。
「ほっほ、まあ心配せんでも、首を斬り落とされたというのでなければわしがすぐに治してやるわい」
ギュネメーの半分ほどの背しかないバハーウッディーンが無責任に言い放つ。バグダッドのニザーミーヤ大学で教鞭を執っていたかれの知識は、軍政両面でたいへん役に立つものだった。
「しかし、昼間のエルシード殿下の用兵は見事じゃったのう。砲撃で敵が混乱しているところへ正確に鉤梯子をもって攻撃し、敵が組織的な反抗に出ると見るや、風のごとく退却する。エルシード殿下にしては地味じゃが、あれは凡人のできることではない」
たしかにその通りだ、とヴァレリーは思う。王妹エルシードが率いる兵士は本当に強い。かの女自身の武勇と合わせて、地上最強の部隊かもしれないとさえ思う。
ヴァレリーは欠伸をしながらそんなことを考えていたが、わざわざエルシード自身にそれを伝えたりはしなかった。
「……まあ、今日はこれで解散じゃ。それぞれみずからの天幕なり持ち場なりに戻れ」
エルシードの一声によって、その場にいた者たちはぞろぞろとかの女の天幕から立ち去っていった。それを見届けたエルシードは、ヴァレリーにうつされた欠伸をし、そして寒さに対してぶつぶつと不平を言った後、毛布にくるまってそのまま眠りについた。
『山の長老』ラシード=アッディーン・シナーンは苛立っていた。敵の優勢な兵力による断続的な攻撃に対して、暗殺者の質などあまり物の役には立たないことをここへきて知ったためだった。
――またあのユースフの大軍に囲まれたときのように、みずから危険を冒さねばならぬのか?
過去の例を想起しつつ、シナーンは策を練った。当時のシナーンは、城砦を包囲するサラディンに対し、みずから動いた。深夜にサラディンの枕もとに立ち、脅しの紙片と短刀を残したのだ。殺さず去ったのはむろん慈悲ゆえではなく、長老たるみずからの身を危険にさらさぬためだ。結果、もくろみ通り脅迫は功を奏し、サラディンらは兵をひいたのだった。
――いや、あのときと違って今回は敵中に不確定な要素が多すぎる。アル=カーミル、そしてそれを懐柔したアル=アーディル。エルシードという王妹もかなり手強いようだ。単独行動はあまりに危険が大きい。この身に何ごとかあれば理想の実現が不可能となる。限界となるまではあくまで部下を使う必要がある。
「アミーン、マフムード!」
シナーンはよく通る低い声でふたりの部下を呼びつけた。
「おそばに控えておりまする」
いつの間にやら場にあらわれていたふたりが、落ち着きはらってこたえた。
「おぬしらにはこの戦いの行方を左右する重要な任務を与える。ありがたく思うがよい」
「はっ」
「アミーンは敵の糧秣に火を放て、方法はおぬしに任せる。そしてその任務の成功率を上げるために、マフムード、おぬしは王妹エルシードの生命を狙い敵の注意を引き付けるのだ。おそらく、生きて帰ることはかなわぬ名誉ある任だ。全力を尽くして死んでくるがよい」
このシナーンの指令は、先刻エルシード側の天幕でヴァレリーが洞察していたところと一致していた。敵にも味方にも気づかれぬ眼。アッカで獅子心王と尊厳王を踊らせた見えざる手が、いままたこのシナーンに操り糸を垂らそうとしていた。
すでに糸は、シナーンの身にからみつきつつあった。が、『山の長老』シナーンはわずかの笑みとともに、任に向かう部下のふたりを見送っていた。
「なんでおれについて来るんだ、おれひとりじゃあ心配だってのか」
横を歩くヴァレリーに、ギュネメーが不満の声をぶつけた。ヴァレリーは普段よりもさらに眠そうな顔でのんびりと歩いている。
「おまえでは捕虜にする前にころしかねないからな。ころしてしまっては、城を落とすための足がかりをひとつうしなうことになる」
「へっ、敵を利用しようってか。相変わらず悪党らしい考え方だよ」
これでもギュネメーは褒めているつもりらしい。かれの口の悪さはエルシードに勝るとも劣らなかった。
ただ、そうしたことは耳には入れぬまま、ヴァレリーはあれこれと考えながら歩き続けていた。
「……いや、やはりあちらの方が先かな……」
エルシードのいのちを狙うことと、糧秣に火をつけることのどちらを陽動として使うのか、それをヴァレリーは考えていたのだった。このふたつの行動にシナーンが出るであろうことは、アル=カーミルとの会話のすえ導き出した推論だった。敵がそこに目をつけるように誘いをかけていたこともあって、それはすでに確信に近かった。ただ、どちらが先かということまでの結論は出ていなかったのだ。
シナーンはどちらを陽動とした方が成功率が高いと考えるだろうか。
結局ヴァレリーはその解答に、エルシードの暗殺の方を選んだ。しかしそれを導き出す過程では、どうしても感情の方が優先されていることを否定できなかった。ようするに、安全だと思っていてもやはり心配なのだった。
歩く方向を半回転させて、ヴァレリーはエルシードの天幕へ戻ろうとした。それをギュネメーが怪訝そうに呼びかける。
「おい、どこへ何しに行こうってんだ」
「……ああ、姫に夜這いでもかけようかと思ってね」
ギュネメーの問いに適当にこたえながら、ヴァレリーはエルシードの天幕の方へ向かって歩き出した。
「へっ、あのお姫さまがおとなしく刺客にやられたりするもんかね。そんなかよわい乙女なら、敵もおれも苦労はせんだろうよ」
ヴァレリーの背中にそんなつぶやきを投げかけると、ギュネメーは自分の持ち場へと戻っていった。
――刺客が侵入するとすればこのあたりか……。
目星をつけて遠巻きに見張っていると、案の定、あやしげな小男が闇から溶け出るようにしてあらわれた。
「見知らぬ男がすべて敵だとは思いたくないが……少なくとも、友好的には見えないな」
暗闇からその小男に向けてそのように声をかけた。背中の曲がった小男は、丸い穴があいたような目をヴァレリーに向けた。そこにはわずかばかりの驚きが映っていた。
「こうもたやすく発見するとは……」
「別にたやすく見つけたわけではないのだけど」
限定していたから、見つけられた。それだけだった。
しかし、それを説明する時間はなかった。
ヴァレリーの語尾と小男の剣光が重なった。
剣を抜き、これに応じる。ふたつの剣の残像が交わった瞬間、強烈な金属音が生じた。
「ちっ」
渾身の一撃を受け止められた小男は、舌打ちして飛びすさり、大きく間合いをとった。
そのとき、小男の背後に突然黒い影があらわれた。それは暗殺者にとってかなり危険な存在だったに違いないが、不幸にもかれはそれに気づかなかった。
その黒い影からすらりとした足が伸び、殺人的な威力で小男の脇腹をとらえた。容赦のない蹴りだった。
「……あれは痛い……」
その足の脛は、夜目にもわかるほど暗殺者の脇腹に深くめり込んでいた。内臓をいくつか損傷させているかもしれない。
そして次の瞬間、哀れな小男のからだは、ヴァレリーから見て右の方向へ毬のように飛んで行った。
「ひ、卑怯な……」
「ふん、寝込みを襲うような男が、そんなことばを口にできると思うな」
暗殺者を蹴り飛ばした足の持ち主は、怒りの目で小男を見下ろした。熟睡しているところを起こされて、相当腹を立てているらしい。眉間の筋が不機嫌のかたちに走っていた。
「何をしておる、さっさとその男に縄をかけんか!」
横にいたヴァレリーに、暴君そのものの語気でエルシードは命じた。だが、ヴァレリーが動き出す前に、声を聞きつけた警備兵が飛んで来て暗殺者を縄で縛った。
「この寒いときにあらわれるとは非常識もはなはだしいわ! どうせ来るなら何故昼にこぬのか! まったく、非常識な……」
非難しながらエルシードは乱れた髪をなでている。起きたその場で外へ飛び出して蹴りを入れる、ということのほうがよほど非常識のようにもヴァレリーには思われたが、口にはださなかった。
「……ふ、おれなど捕らえても無駄というものだ。われらの目的は他にあるのだ、貴様らなどには思いおよびもせんような深慮がな……」
小男はすき間の多い歯の間から、空気の漏れるような声を出した。それは勝利を確信している声ではあったが、しかしエルシードの感情を動かすことはできなかった。かの女は捕らわれた小男をまるで無視して、怒りの対象をヴァレリーに向けた。
「今度わたしが寝ているときに騒ぎを起こしたら、いのちはないものと思え! たとえ敵が攻めてこようとわたしの眠りを妨げるな。わかったか!」
それだけさけび終わると、エルシードは足音高く天幕の中に消えていった。そしてそれとほぼ同時に寝息が耳に届く。ヴァレリーはあきれて無言だった。
「貴様らは愚か者か! おれの言ったことを聞いてはおらんのか」
「いや聞いてるよ、確か、われわれの糧秣に火をかけるということだったな」
「お、おれはそんなこと一言も言っておらんぞ」
ヴァレリーは警備兵につながれている小男に余裕のある笑みを向けた。
「……おまえを利用して手っ取り早く城を落とそうと思っていたが……やめよう、おまえのような単純明快な人間を利用するとなると、何か自分がとてつもない悪の親玉のように思えてくる」
さりげなく自分も善良な人間であることをヴァレリーは主張したが、どうもうまくいかなかった。もしエルシードがこの場にいれば、
「何を言っとる、おまえは悪の親玉そのものじゃ! いまのいままで自覚がなかったのか」
と、冷たくそう言い切ったに違いなかった。もしくは、
「まあ、わたしのようなうつくしい善人をいつも間近にしておれば、自分が悪者に思えるのも当然ではあるがな」
などと言って笑ったかもしれない。いや、突然怒り出して剣を振り回しただろうか。かの女の行動は常に非常識なのでだれにも予想することはできない。いろいろと想像して、ヴァレリーはくつくつと笑った。
とにかくヴァレリーは他の方法を考えることにした。相手が動いたのならば、それは乗じる機会だと言えた。
「……そうだ、そうするか……そっちの方がいいかもしれない」
いつものようにぶつぶつとつぶやきながら、考えを伝えるためにヴァレリーはエルシードの天幕に入ろうとした。が、そこで思い出したように足を止める。
「いや、いま起こすのはやめておこう。下手に目を覚まさせたら、冗談ではなく私のいのちが危ないしな……。寝ている猛獣には近づかないのが最上の策というものだ」
自分でもよく意味のわからないことを口にしつつ、ヴァレリーはそそくさとその場を去った。あたりはまだ夜の闇に支配されていたが、すでに明け方独特の香りがただよいはじめていた。
「どうだ、糧秣に火をつけようとするやつは捕まったか?」
ヴァレリーがギュネメーに尋ねる。
「捕らえるには捕らえたがな……」
「捕らえたが……どうしたんだ?」
「おれが目を離した隙に、短刀で喉を突いて死にやがった」
ギュネメーはめずらしく意気消沈していた。別に暗殺教団の一員が死んだのが悲しいわけではなく、当初の目的が果たせなかったのが悔しいのだろう。
「そうか……暗殺教団らしいことだな。そういうのばかりを見せられて、少しうんざりしてしまう」
「まあな。力はおそれんが、これをやる精神ってのはこわいもんだぜ」
「ああ……。あ、それとちょっと思うところがある。これから、二日分ほどの糧秣を残して後は全部燃やしてくれ。なるべく派手にな」
ギュネメーは瞠目したまま、しばらくは声も出さなかった。守るべき食糧をみずから燃やすというのだから、その驚きも当然のことだった。
ただ、エルシードの天幕の方向からぶらりと歩いていたヴァレリーがこれをラスカリスに明かしたとき、かれは特に動揺もせずにこたえた。
「糧秣を燃やして、われわれが混乱していると敵に思い込ませるのですね。そして、向こうから打って出てくるのを待ち受ける、と」
つまりは敵が糧秣を燃やそうとしたことを逆手にとろうということだった。さすがに、ラスカリスはよくこちらの意図をくみ取ってくれる、とヴァレリーはよろこんだ。
「まあ、敵はたぶん出てこないだろうが、一応臨戦態勢は整えておいてくれ」
「出てこなければまずいではないですか。そのときはどうするんです?」
「逃げる」
「……まあ、そのあたりは考えがおありのようですからしたがいますが、もう殿下にお伝えなさったのですか?」
ラスカリスの問いにヴァレリーはめずらしく一瞬戸惑った様子を見せた。
「いや、まだだけど……でも、いま起こしたら、激怒してころされそうだしな……」
「それはまずいですよ。ちゃんと伝えておかないと、あとで結局ころされますよ」
ラスカリスのこういった忠告をいままでなんど受けたことだろうか。思い出すこともできなかった。
「起こしても起こさなくてもころされねばならないとはなあ」
そんな不平を二言、三言つぶやいた後、結局ヴァレリーはギュネメーのもとへ向かったのだった。
とにかく、エルシードが毛布にくるまって安らかな寝息を立てているあいだに、大部分の糧秣は燃えて灰となってしまった。何の権限もない一介の白人奴隷が、無断で食糧を燃やした。まったくありえない話だったし、あってはならない話だったが、であるからこそ、場にいるだれもの予測を裏切ったのだった。
敵中の炎を見て、シナーンはみずからの作戦の成功を知った。勝利を確信し、血色の悪い顔には似合わぬ会心の笑みを浮かべる。
「見たか、アル=アーディルよ、わが神謀とわが部下の練度の高さを。貴様らのような烏の群れなどわれらの真の敵にはなりえぬ」
うたうように言い募るシナーンに、部下が追従に近い問いを発した。
「敵の混乱に乗じて打って出ますか」
しかし、シナーンはさすがに賢明だった。
「無益だ。さすがに獅子心王と尊厳王のふたりを破ったというだけあって、あのアル=アーディルという男、混乱の中でわれらの出撃を待ち受けておる。必勝を期す敵に当たるは愚かというもの、やつらが退却したところを追撃するのが最上であろう。いや、城内の疲労を考えれば、やつらがダマスカスに到着して気を抜いているところを暗殺するか……。いずれにせよ、勝利の手段を選択するのはわれらの側ばかりとなった」
いつになく饒舌になっているシナーンのひとみには、恍惚の色彩が漂っていた。ただ、そうしたこころの状態に導いた者がいるということを、かれはまだ知ることができなかった。
そして夜明けに際し――
エルシード軍は整然として退却を開始した。実質的にラスカリスが指揮を執ったその退却は、まさに一分の隙もない完璧なものだった。敵に対する備えといい、迅速な行動といい、かれ自身以外にはだれも文句をつけることができないと言ってよかった。ラスカリスをヴァレリーが重用する理由のひとつが、遺憾なく発揮された結果だった。
糧秣の大部分が燃えてしまい、しかもそれがヴァレリーの指示によっておこなわれたことを知って、エルシードは啞然としてことばをうしない、次いで人間の域を超えたような怒りを爆発させたものだった。
が、その怒りをなだめるべき当のヴァレリーは、すがたをくらまして消えてしまっていた。その結果としてかの女の八つ当たりの対象となった兵士たちはあわれだったが、半刻もするとエルシードは自分が怒っていたことすらも忘れ去り、機嫌もよさそうに笑っていたらしい。
一方、エルシード軍の退却を目にした暗殺教団の団員たちに、歓喜のさけびは起こらなかった。この数日間の戦いによって消耗しきってしまい、よろこぶこともできなかったのだ。
ラスカリスの昼夜を分かたぬ的確な砲撃と、エルシードの断続的な攻撃。それらによって不眠不休を続けていた者がほとんどだったから、それを責めることはだれにもできない。シナーン自身すら敵の退却と同時に寝室へ向かったほどなのだ。たとえ練度が高いとはいえ、城兵のほぼすべてがその場にへたり込んで、緊張の糸をみずから切ってしまったのは当然の結果と言えた。
そしてその精神の弛緩こそがヴァレリーの狙いだったのだ。が、かれは特に奇をてらったわけではない。優勢な兵力と敵の心理を利用しただけだった。みずからの糧秣を燃やしたのも、そこに至るためのひとつの過程にすぎなかった。
三千の兵を前にして、エルシードは全身をふるわせる旋律でさけんだ。
「これから総攻撃を開始する! 敵の疲労は極度に達しており、わが軍の偽りの退却を目にしてかれらは気をゆるめている。いまならたやすく勝利を収めることができるであろう! 行くぞ!」
エルシードの声に三千の兵士は歓呼で応じた。じつのところ、かの女の述べた内容はすでに、兵士たちの耳にも入っていたことだ。しかし、エルシードのその声が士気を盛り上げる大きな力となったことに変わりはない。アッカからつきしたがってきたかれらは、エルシードへの崇拝のような思いを、それぞれのうちに持っているのだった。
王妹の指揮のもと、兵士たちは人馬の波とり、ふたたびマスィヤードの城に向かって進撃した。そして城壁前で立ち止まることさえなく、神速の行動で城砦に襲いかかった。
「急いで城壁をよじ登れ! こら、そこの男、なまけようとするな!」
エルシードの叱咤をうけたのはやはりヴァレリーだった。が、それがヴァレリーだったと気づくより先に、エルシードはみずから先頭を切って壁を鉤梯子で登っていった。
城壁の上からエルシードに向けて矢が集められたが、かの女の身に矢は近づくこともできなかった。神に選ばれた者が、矢の隙間を進んでいるようにさえ見えた。弓箭兵が何本目かの矢をつがえようとしたときにはすでに、かの女のすがたは城壁上にあった。そしてそのまま城内へひらりと跳んで躍り込み、エルシードは敵兵を次々と斬り捨てていった。
兵士たちが、必死でかの女を守ろうとして、その後を追っている。
「なんとも、まさに闘将ってやつだな。無茶苦茶な行動が、そのまま結果として理にかなうことになる。闘将だよ」
他の兵士たちと同じように城壁から綱を伝って城内に降りたヴァレリーは、感心してつぶやくほかはなかった。
エルシードは城門を内側から開けようとその方向に走る。しかし、その必要はなかった。次の瞬間、ラスカリスの部隊がとうとう、門を突き破ってなだれ込んできたのだった。
「逃げる者、降服する者はそうさせておけ! しかし抵抗する者には容赦するな!」
ラスカリスが叫びながら左右の敵を斬りふせた。暗殺者の手練をほとんど近寄せもしない剣速だった。イスラム世界に身を投じてからエルシードに鍛えられたこともあって、かれは確実に腕を上げていた。
「おい、ヴァレリーとアル=カーミルのすがたが見えんぜ」
ギュネメーがラスカリスに声をかけた。こちらもラスカリスと同様、すでに十人近くもの敵を地に這わせていた。かれの豪剣はラスカリスと違って、斬るのではなく殴り倒すのを目的としていたが。
「心配するな、シナーンを探しておられるのだろう」
「ふん、別に心配なんぞしちゃいねえがな」
大声でことばを交わしながら、ふたりは次々と暗殺教団の兵士に流血を強いていった。ラスカリスの前に立つ者はみずから気づかぬうちに首を斬られ、ギュネメーと剣を交わそうとする者は豪剣に身を砕かれる。
が、不気味だったのは、そうした凄惨な光景を目の前にしても暗殺教団の兵士たちがひるみを見せないことだった。それどころか、なお一層はげしい抵抗を見せてくる。狂信による精神力には、やはり戦闘においては見るべきものがあった。
死の瞬間に恍惚の表情を浮かべて倒れていく暗殺者たちに、ラスカリス以下の将兵は戦慄を禁じえなかった。
ラスカリスやギュネメーから離れた場所で戦っていたエルシードも、それと同じ感覚をおぼえていた。その剣はすでにラスカリスが倒した以上の血を吸っていたが、それでも敵に降服しようという様子はまったく見られない。エルシードは、暗殺教団の兵士たちを嘔吐感をもよおすまでころし続けねばならなかった。胃が縮んできて、涙さえにじんだ。
「あの男ならどうするのであろう。このような状況に直面したら、かれはどのような行動をとるのか」
エルシードはわずかのあいだひとみを閉じて雑念を追い払うように首を振った。長い黒髪が揺れ、わずかな女性特有の芳香が血のにおいの狭間をただよった。
「考えるな! 考えていても追いつけるわけではない!」
ふたたび駆け出し、エルシードはまったく無心に剣を左右に操り続けた。
つい先刻まで難攻不落を誇っていたマスィヤードの城が敵の侵入を許し、そして陥落を間近にするに至って、暗殺教団の頭領たるラシード=アッディーン・シナーンは逃げる以外になすすべを持たなかった。
かれは残るすべての兵にエルシード軍の足止めを命じ、みずからふたりの部下だけを連れて城砦内の通路をひた走っていた。その方向には、断崖の横穴へ通ずる脱出口があるのだ。
石と鉄が交ざり合ったようなにおいがただよう狭い通路を、シナーンとふたりの部下は無言で走り続けた。しかしかれらはそこを走り抜けることはできなかった。影のようなすがたでたたずむひとりの男がかれらの行く手を阻んだのだ。逃走は中断を余儀なくされた。
「ここに来るだろうと思ってはいたが、まさかそのためにすべての部下に犠牲を強いるとはな……」
闇の中に浮かび上がったそのすがたはアル=カーミルのものだった。その剣を黒い血が重く濡らしていた。どれだけの同僚を斬ったのか、あるいは中にはかれの旧友もいたのかもしれない。
しかしアル=カーミルはそういったことをこのときも、そしてこの後も一切口にすることはなかった。
「おれが殺しに飽きるのは、あなたを斃してからにさせてもらおうか」
「黙れ、青二才が!」
シナーンを取り巻くふたりの部下が、同時にアル=カーミルに斬りかかった。しかし通路が狭いためそこにはわずかの時間差が生じる。それを見逃してやるような慈悲深さは、アル=カーミルにはなかった。
最初のひとりがアル=カーミルの剣を首に受けて倒れた。その身体からは鮮血がふき出し、しかしそれを浴びるより速くアル=カーミルは二人目の男の胸を切断していた。その動きはあまりになめらかで、黒い風がただそこを通り抜けただけのようでもあった。
「アル=カーミル、背信者よ。何故その力をただしき道に使わぬ。アル=アーディルはユースフの手下、そしてユースフはわれらシーア派唯一の王朝を滅ぼした憎むべき敵なのだぞ!」
「そのようなこと、おれの知ったことではない」
シナーンの顔が紅潮した。それは、正義の怒りだった。かれにとってシーア派による支配という理想は何にも優先する至高の存在であり、おかすべからざる聖域であったのだ。
「愚かな! われらによる支配があってはじめて、この地上は楽園となることができるのだ。それがわからぬのか!」
「残念ながらわからぬ。いや、正確に言えば忘れたということか……」
自嘲気味のこたえだった。以前の自分のすがたを、ここで思い出していたのに違いない。思い出した上で、かれはそれを自嘲した。
シナーンは剣を抜いた。それを前にしてアル=カーミルが全身を緊張させた。注意深く相手の動きに目を配り、剣を構える。
「おぬしを鍛えあげたのはこのわしだ。わしに勝てる道理はない」
シナーンが言い終わらぬうちに、アル=カーミルは斬りかかった。奇襲だった。しかも、その速度といい、威力といい、申し分のない斬撃だった。
だが、その渾身の一撃をシナーンは片手で軽々と受け止めた。老人とは思えぬ膂力だった。
驚きを見せる間もなく、アル=カーミルはシナーンによって背後に突き飛ばされた。宙を舞ってかれは体勢を立て直し、ふたたび剣を構える。
が、その瞬間アル=カーミルは目を見開いた。
「いない!? ばかな……」
シナーンのすがたが、あるべき場所から消え去っていたのだ。あの一瞬でかれはアル=カーミルの背後にまで回り込んでいたのだ。
しかしそれでも背後の剣気に反応し、アル=カーミルは両手で剣をさし出してシナーンの剣を受け止めた。
「……ふ、よくぞわが動きに気づいたものよ」
息が漏れるような声とともに、シナーンはアル=カーミルを蹴り飛ばした。
前のめりに飛ばされたアル=カーミルが反転したところに、シナーンが剣を躍らせる。
その瞬間に続いて、真っ向からの凄まじい剣技の応酬がはじまった。
銀光が次々と飛び、それとおなじ数の火花を生む。どちらも比類を探すのが難しい使い手だったが、そこには経験からくるわずかの差があり、やがてそのわずかの差が決定的な差となって外に表れた。
応酬の末に、アル=カーミルはついにシナーンの右腕の皮膚を深く斬り裂いた。しかし、その攻撃には大きな代償が伴った。かれが剣を突き出したのと同時に、シナーンはその肩から胸にかけて斬りふせたのだ。深傷だった。致命的とまではいかないが、戦闘を続けるのは困難なほどの傷だ。
鮮血がアル=カーミルのからだから流れ落ちる。だがそれほどの出血にもかかわらず、なおアル=カーミルは床に倒れ込まなかった。
「ほう、それだけの傷を負って倒れぬとはな。惜しい精神力よ。それを地獄へ送り込まれたくなければ、もう一度わしの部下になれ。慈悲のこころをもって、おぬしにはその機会をあたえてやろう……」
アル=カーミルはこたえない。返答の代わりにかれは、気丈にもふたたび剣を構えて応じた。シナーンの灰色の眼が狂気に近い色に光る。
「ならば、死ぬがよい!」
叫びながらシナーンは剣を振り上げたが、しかしその剣はアル=カーミルに振り下ろされることはなかった。ふたりのあいだに他者が割って入ったのだった。
「やれやれ、まさかこの老骨がおぬしのような若者を救うことになろうとはな」
シナーンの剣を受け止めたのはあのバハーウッディーンだった。どうやらこの老人は知識だけでなく、剣にも通じているらしい。万能の識者としてサラディンに礼をもって迎えられたかれのことだ。不得手な分野などないのかもしれない。
そしてまた、アル=カーミルの傍には、ヴァレリーもすでに到着していた。
「バハーウッディーンさま、アル=カーミルの手当てをお願いします。その男の相手は私がやります」
ヴァレリーはそう言ってシナーンがいる空間を斬り払った。バハーウッディーンと剣を合わせていたシナーンは、背後に飛びすさってそれを避ける。
「アル=カーミルを安全なところへ運んでやって下さい」
ヴァレリーがバハーウッディーンに頼んだ。だが、アル=カーミルはそれを拒否した。
「おれは見なければならぬ……長老が死ぬのであれば、おれは見届けねばならぬのだ」
激痛が走っていることだろうに、かれは跪いているだけで、そこに倒れ込もうとは決してしなかった。
「やれやれ、どこの世界でも真面目な男というのは困ったものだのう。死んでもわしは責任をとってやらぬぞ」
文句を言いつつもバハーウッディーンは手早く応急の手当てを施す。
「貴様がアル=アーディルか! わが理想に対する度重なる妨害、許してやるわけにはゆかぬ。生きてこの城から出られぬと思え!」
「ここから出るのを急がねばならないのは、私ではないだろう」
シナーンの剣幕に対しても、ヴァレリーに動じるところはなかった。
「何故貴様はわしの邪魔をする!? わが理想を上回るものを、貴様は持っているとでもいうのか」
「申しわけないが、そんなすぐれたものは持っていない。ただ、のんびり将棋を指していたいだけだ」
シナーンの目が怒りに燃えあがった。そのようなくだらぬことのために! そのさけびが、シナーンの思いのすべてをあらわした。ただしい者による、ただしい怒りがそこにあった。
「そのようなくだらないことを楽しめる世を平和というのなら……ならばそれは、サラーフ=アッディーンというひとでなければ、いまは達成できない。あなたではない」
シナーンはヴァレリーのことばを聞いてはいないようだった。ただ敵意のこもった目でかれを睨みつける。老いゆえの人格の硬化と片づけるにはあまりにもはげしい憎悪だった。永い年月をかけて育んできた聖域を土足で踏み荒らす者、それがヴァレリーだったのだろう。どうやら話し合いの余地は残されていないようだった。
対峙するふたりを、アル=カーミルがかすむ目でじっと見比べている。
シナーンがついに戦いの口火を切った。老人とは思えぬ素早い動きで剣を疾走させ、襲いかかる。一本の剣が、その瞬間光の矢となった。
ヴァレリーとシナーンの影が交叉した。
アル=カーミルにはそれが見えなかった。
次の瞬間には、シナーンが血を肩口から噴きながら倒れた。アル=カーミルには何が生じたのかわからなかった。ただ、かれが気づいたときには、シナーンがみずからの血の海に沈んでいたのだった。
かれが推量することができたのは、シナーンとすれ違った瞬間ヴァレリーが斬ったのだろうということだけだった。何故ヴァレリーにそのようなことができるのか。そこには理由があるはずなのだが、過去を知らぬアル=カーミルに推量の余地はなかった。
「貴様……貴様のせいで……!」
苦痛から暗色となったシナーンの唇から、呪いのうめきが漏れた。それをヴァレリーが、あくまで冷酷に見下ろしていた。
黒い塊のような血を吐きながら、シナーンはむしろ凄絶な笑いを浮かべた。呪いに苦しむヴァレリーのすがたを、脳裏に浮かべたのかもしれない。
灰色のひとみがさらに色をうしなってゆき、からだから流れ出す血の量が減りはじめる。
そして――
『山の長老』ラシード=アッディーン・シナーンのからだはついに動きをやめ、生命をうしなった。
暗殺教団の本拠地、マスィヤードの城は陥落した。
これによって暗殺教団は深刻な打撃を受け、以降しばらくサラディンに危害をおよぼすことは困難となった。背後に蠢く敵を打ち払ったサラディン軍は、こののち、持てる力のすべてを対十字軍に向けることになる。
16
戦いを終えたヴァレリーは川岸に立っていた。
あの不思議な少女が、迷うかれをさとした場所だ。あの日とまったく同じ風景がヴァレリーを包んでいる。ただ、追憶はなかった。そのようなことをしていれば、またあれが出てきて叱られるに違いないと思うのだった。
「おまえが獅子心王の偵察に送っておったルイセが、さっき戻ってきたぞ。どうやら、獅子心王が動きだしたらしい」
後をつけてきていたらしく、エルシードがふいに背後から声をかけてきた。ヴァレリーは頷き、もう聞いたよ、とだけこたえた。
「休日は終わったな」
「……うん」
「いよいよ、おまえの奴隷生活も明日からは最高潮を迎えるということじゃ」
「え、今回の功績で、罪は許されたんじゃ……」
「うむ、許された。しかし、奴隷の身分はそのまま据え置くように、わたしから要請した。そうでもしなければ、おまえはいま以上のなまけものになるのは間違いないからな」
エルシードは悪戯っぽく微笑んだ。ひどいな、と不平を言いながらも、ヴァレリーはそれで満足だった。すぎた贅沢を求めているわけでも、権力をほしいままにしたいわけでもない。いまで十分だった。これまで通りこき使われていれば、それがいちばんの満足なのだった。
「どうでもよいが、食べ物を燃やすとはばちあたりなやつめ。しかもわたしが眠っているあいだに……」
いままでに何度となく聞いた説教をヴァレリーは右から左に聞き流す。サラディン帝国アイユーブ朝はナイル川流域という肥沃な地域を領しているとはいうものの、燃える糧秣を前にして忸怩たる思いが残ったことも事実ではある。
だが、こう何度も責められると罪悪感も薄れるというものだった。もしかするとそれがエルシードの狙いなのかもしれない。
予想通り長くなった説教の後に、エルシードはようやく一息ついた。が、すぐにふたたび話しはじめる。
「ときに、ヴァレリウス・アンティアスというのはおまえの本名か『公正』?」
どうやらヴァレリーがあの少女と言葉を交わし合っていたのを、エルシードは見かけていたらしい。しかし……どういうことなのだろう。まぼろしを共有したということなのだろうか。よくわからなかった。
「そんな偉人のような名はおまえには不相応じゃな。『公正』という名もおまえにはもったいないくらいじゃ」
「……自分でつけたことは一度もないのだけどな」
「そうか……まあ、過去のことは訊くまい。ただ……ひとつだけ訊いておきたいことがある。気になっていたことがあるのじゃ」
「なんだ?」
「あのアル=カーミルがマヌエルという名を名乗ったとき、おまえは一瞬奇妙な戸惑いを見せた。だから、わたしはあれが本当の子ではないかと疑ったのじゃ。いったい、あの反応はなんであったのか」
「それは……」
話すかどうかヴァレリーは迷った。マヌエルという名には確かに、奇妙な偶然の一致があった。しかしそれははるかな過去の話で、いまとなってはもう、何の価値もないことだったのだ。
「……いや、やめておくこととしよう。あれが実子ではないとわかったのだしな……。詮索しているようで醜い」
「うん……まあ、たいした理由もないしね」
いずれ気が向いたときにでも話せばいい。そう思った。
その返答を、エルシードは聞いていないようだった。どうやら本当に尋ねたいことが他にあるらしい。それ以外のことは、じつはどうでもいいといった感じだった。一瞬の間隔の後、エルシードは思い切った様子で口を開いた。
「……で、あの娘は何者なのじゃ。おまえに似ていたような気もしたが……」
そのことだけをエルシードは尋ねた。自分より七、八歳は年下であろう少女を気にかけているなどと思われたくないのだろうか、つとめて平静を装っているように見えた。
が、ヴァレリーの返答は、そうしたかの女の努力を無にした。
「……似ていて当然だよ、あれは私の姉だからな」
ヴァレリーは普段と変わらぬ口調で、受け入れてもらえそうもない真実を述べた。
そして、
「誤魔化すな!」
と叫んでエルシードが怒り出したその顔をきちんと見はからってから、あわててかの女の前から逃げ出したのだった。
了