ジハード
第四回
定金伸治 Illustration/えいひ
聖地イェルサレムに迫る十字軍10万を撃退せよー! 定金伸治が描く歴史的名篇、ここに再誕。
第二話 小憩ダマスカス
1
青銀の月が、そびえ立つ断崖のすがたを闇に浮かびあがらせていた。岩の絶壁は月明かりの中で青い陰影を持ち、まばらに生える木々もまた、無機的な青をあたりに溶け込ませている。風化をはじめた岩からは時折小石まじりの砂がすべり落ち、この世界からときがうしなわれていないことを示そうとする。
それは見る者に寒気を起こさせるような異観だった。むろん、見る者がいればのことではあるものの……。
だが、その冷徹な断崖も、高さには限りがある。垂直に伸びる岩壁が水平に方向を変える近辺、本来ならば青い月光を通過させているはずの空間に、ひとつの城砦があった。
三方を断崖に囲まれた位置である。居住性を無視して築かれているのは明らかだった。つまり、戦うことを第一の目的に持っている。
敵に対する守備力のみを極端に高めた建築物、まともな意図で築かれたとは思えぬ城ではあったが、難攻不落であることは間違いなかった。おそらく、どのような大軍もこの城砦の前ではなんの力も持たないだろう。
マスィヤードの城砦。
城はそのように呼ばれていた。イスラム暗殺教団の本拠地だ。
暗殺教団。その兇刃によって斃れた人物の名は枚挙にいとまがないほどだった。アイユーブ朝の創始者、聖都イェルサレムの奪回を指導した英雄サラーフ=アッディーン・ユースフ・イブン・アイユーブ、通称サラディンも、暗殺教団による襲撃を幾度となく身に受けている。それへの対策としてかれはマスィヤードの城砦を攻撃したのだが、ある日、かれはみずからの枕もとに置かれた毒の短刀と一枚の紙片を見ることになった。紙片には、次のような一文が記されていた。
――ユースフ、そなたの生命はわが手中にあり。
これ以降、サラディンは復讐をおそれて、決して暗殺教団に手を出そうとはしなかった、と同時代の伝記には記されている。
その暗殺教団が十年近くの沈黙を破ってふたたび蠢動をはじめていた。それは、マスィヤードの城砦を、かの策謀家フランス王フィリップ二世、すなわち尊厳王の遣わした部下が訪れたことがきっかけとなった。
尊厳王の部下は、この薄暗い灰色の城砦内で、老いた暗殺教団の頭領と面会した。
「つまり貴殿は、われらに王妹エルシードおよび『公正』ヴァレリーを討ってほしい、と申されるのだな、ブルゴーニュ公?」
『山の長老』の名で知られる暗殺教団の頭領ラシード=アッディーン・シナーンが、相手のことばを反復して確認した。言語の違いを埋めるための反復だ。そうした慎重さと計算高さは、老人とは思えぬ活力に満ちた鋭い目にもあらわれていた。
「仰る通りだ」
たどたどしい正則アラビア語とともに、尊厳王配下の武将ブルゴーニュ公は頷いた。かれはフィリップがもっとも信頼する部下のひとりだった。その寡黙でひとを裏切ることのない廉潔な性格を、フィリップは買っていた。
「よろしい、お引き受け致そう」
自負の仕草とともに、『山の長老』は王妹らの暗殺を承諾した。
ブルゴーニュ公は武人らしい注意深さであたりを見回した。視線の先には、かれ自身を抜け目なく注視している暗殺教団の団員が並んでいた。
薄暗い。血色の悪さという点ではみなが統一されていた。闘争するという面での力量に、ブルゴーニュ公は疑念をおぼえざるをえない。
「ふ、どうやらブルゴーニュ公には、われらの力をお疑いのようだ……よかろう、我が統率力の一端をお見せしようではないか」
言うが早いか、シナーンはひとりの部下の名を呼び、その者に対して、
「死ね」
とだけ命じた。
次の瞬間、ブルゴーニュ公は息をのんで凍りついた。その男はあろうことか、なんのためらいもなく剣を抜き、そしてみずからの首をみずからの手で刎ねたのだ!
鮮血が飛び散り、首が床を転がる。そしてその面には恍惚の表情が浮かんでいる。なんというおそるべき信仰。先鋭的な十字軍戦士も、さすがにここまでではない。
顔色も変えず、シナーンが同じことを他の部下にも命じようとする。しかし、ブルゴーニュ公はそれを止めた。
「シナーン殿のもとに教団が統一されていることはよくわかった。しかしそれが実力の証明となるとは言えぬ」
努めて冷静にブルゴーニュ公は評した。気圧されていることは明らかだったが、それを認めてはならなかった。
「よかろう。『完全』。おぬしの力の断片を、客人の前に提示せよ」
「……はっ」
アル=カーミルと呼ばれた男が返事をした方向に、ブルゴーニュ公は目を向けた。その男は黒い布を目深にかぶっており、その顔をうかがうことはできない。ただ、ブルゴーニュ公の見たところ、まだ二十歳を出でぬ若者のようだった。
観察しているその視界の中で、アル=カーミルはまったくの不動だった。しかし……ブルゴーニュ公はみずからの五感を疑った。そのままかれは動くこともなくブルゴーニュ公の視界から消えてみせたのだ。
いや、消えるというより闇に溶け込むような……。そうした印象をこころに浮かべる間もなく、アル=カーミルはゆらりとブルゴーニュ公の前にふたたびすがたを現した。消えたときと同じく、まったく突然の出現だった。
まったく反射的にブルゴーニュ公は剣を抜き、紫電を一閃させた。が、その剣に肉を斬る手ごたえは伝わらなかった。蜃気楼のようにたたずむアル=カーミルの身体を、剣はむなしく通過したのだ。
「……幻か」
ブルゴーニュ公はようやくアル=カーミルがみずからの背後にその実体を現していたことに気づいた。幻惑の匂い。薬品。周辺の音と光。そうしたものが、意識にまぼろしを与える……そうした幻術であろうと思われた。
暗殺者によって喉もとに剣を突きつけられ、ブルゴーニュ公は死を覚悟した。
「アル=カーミルよ、客人に対して無礼な行為は慎め」
シナーンの声によって、ようやくブルゴーニュ公は死地から解放された自分を知った。あのような若者までが、このような術を心得ているとは。しかもあの一瞬でわが背後をとるとは。その力量は、人智を超えている……。
ブルゴーニュ公は戦慄し、暗殺教団の実力を認めざるをえなかった。
そしてかれはありきたりの外交辞令をすませると、素早くマスィヤードの城砦を去ったのだった。忌まわしさを打ち払おうとするような、いかにもあわただしい逃走だった。
そしてかれは見たことをありのままに、尊厳王へと報告することだろう。
また、それをもとに尊厳王は、何らかの謀をめぐらすに違いなかった。
一方、ブルゴーニュ公が去った後の城砦内では――
長老シナーンが、アル=カーミルを咎めていた。尊厳王の依頼、すなわちエルシードとヴァレリーの暗殺を引き受けたとき、かれが一瞬不服そうな表情を見せたことに、シナーンは気づいていた。それを問いただしたのだ。
「不服があるのではございませぬ。私はただ、われらがフランク人どもの道具となることをおそれているのです」
アル=カーミルの声は若かった。十代であることは確実だろう。黒い布から量の多い黒髪があふれ出し、その若さを如実に示していた。
「おぬしは、何故わしがユースフを生かしておいたのか知っておるか」
ユースフとは、サラディンの本名だ。それはいわば幼名のようなものでもあり、あえてその名でサラディンを呼ぶことにシナーンの自負と尊大が表れていた。
「この十年来わしがやつを生かしておいたのは、やつの力をおそれたのではない、わしがおそれるのはやつの声望だ。それ故、やつを殺すことはフランク人どもに任せるのだ。フィリップ尊厳王が依頼してきたことは、王妹エルシードとそれを背後から操る『公正』ヴァレリーという男を斃し、ユースフ軍を弱体化させるということだった。つまりわれわれがエルシード、およびアル=アーディルを殺せば、弱体化したユースフをフランク人どもが討ってくれるというわけだ。その後、われらはフランク人どもを追い出す。そしてこの地に理想を実現するのだ。シーア派による支配という偉大な理想をな」
シーア派とはイスラム教の宗派のひとつだ。イスラム教は大きく分けてスンナ派とシーア派のふたつに分かれている。スンナ派は「予言者ムハンマドのスンナ(言行)を重んずるひとびと」を意味する。かれらはアブー=バクル以降、ウマル一世、ウスマーンといったカリフ(代行者)をムハンマドの正当な後継者とする立場をとっている。二十世紀においては、かれらが全イスラム教徒の九割を占めている。また、シーア派とは「シーア=アリー」(アリーの党派)の略称であり、かれらは前述の三カリフの正統性を否定している。すなわちムハンマドの娘ファーティマを娶ったアリーとその子孫こそが正統なカリフであると主張する一派なのだ。ちなみにアリーはスンナ派においては第四代カリフということになっている。また、このアリーの息子がササン朝ペルシア皇帝の娘と結婚したため、イランのひとびとの支持をシーア派は得ており、のちの世においてはシーア派はイランの国教ということになった。
そしてこの時代、サラディン帝国アイユーブ朝はスンナ派を支持しており、暗殺教団はシーア派に属していた。しかもシーア派唯一の王朝であったエジプト・ファーティマ朝を滅亡させ、みずからの王朝を建国した人物が、だれあろうサラーフ=アッディーンそのひとなのだ。暗殺教団がサラディンの生命を狙うのも、当然のことではあるのだった。
「得心がいったか、アル=カーミルよ、わしが尊厳王の依頼を引き受けた理由を」
アル=カーミルは納得した様子で頷いた。
「ならば、おぬしが遂行するべき指令がなんであるか、いまやおぬしも理解できるであろう。王妹エルシードとアル=アーディル。これをおぬしが斃せ。やつらはいま、先のアッカの決戦で受けた傷を癒すためにダマスカスにいる」
「……承知いたしました」
「しかしこころするがよい。われらの調べたところ、やつらの周囲には軽視できぬ強者が揃っている。決して油断せぬがよいぞ」
シナーンのことばにアル=カーミルは冷たい笑いを浮かべた。どこまでも凍結した笑みであり、ひとが放つようなものではなかった。
「私以上の力を持つ存在は、アッラーとシナーンさまの他にはありえませぬ」
「ふ、ではゆくがよい、『完全』よ。良い知らせを期待しておるぞ」
シナーンがそう言い終わったときには、すでにアル=カーミルのすがたは闇に溶け込んで消え去っていた。
ヴァレリーとエルシードがひとときの休日を楽しんでいる、ダマスカスへと向かったのだ。
2
この当時におけるイングランドの王、リチャード一世――。
かれは『獅子心王』の名で知られる通り、長い歴史の中でも戦場において最強の武将のひとりとして教えられている。獅子の心をもって敵と戦い、獅子の力をもって敵を打ち破る。戦術的なひらめきに関してはまさに天才であり、しかもその武勇は無類、闘争という一面において、同時代の人間の追随を許すことは決してなかった。
しかし戦いの場でそれほどの力をもつリチャードにも、致命的な欠点があった。それはかれが政略や戦略に対する関心をまるで持たなかったということだ。
戦術において天才でありながら政治や外交に不足があったという点では、のちの世のナポレオンなどに似ているとも言える。ただ、リチャードがそれらと決定的に異なっているところは、かれにはみずからの国に対する執着がほとんどなかったということだ。ナポレオンはフランスを世界帝国とするために野望を燃やし力を用いた。かれにとって戦争は少なくとも、みずからの理想を実現させるための道具だった。が、リチャードは違う。この奇妙な獅子の王は、戦争の資金を得るためになら、みずからの国を売り渡しても構わないとすら述べた。つまり、かれにとっては『戦争をすること』のみが人生の目的であったのだ。
武人としての矜恃、そして勝利に対する執着。そういったことのためにかれは戦い、そしてそのためにのみ生きたのだ。
リチャード獅子心王とは、そのような男だった。
そのような男であったから、リチャードはアッカを陥落させた戦いの後、すぐに聖都イェルサレムに向かうことをのぞんだ。
それを止めたのは、十七歳の王妃ベレンガリアだった。
以前、キプロスを落とすことによって補給を確保させるという手段をリチャードに取らせたかの女は、このときもリチャードにひとつの戦略的手法をあたえた。
「進路を、ご変更なさいませ」
かの女は、夫のリチャードへとそう進言した。リチャードはアッカから内陸路をたどって直接聖都イェルサレムを落とす算段をたてていたのだが、ベレンガリアはこれに対して異見を述べたのだ。
「海上からの支援を期待できる沿岸ぞいを進軍なさるべきです」
正論だった。フランスや現地キリスト教徒軍の信義は、疑ってかかるべき状況だ。この情勢で一挙に聖都を衝くのは危険にすぎる。むろん、すべてがうまくいけば、サラディン側の態勢が整わないうちに戦端をひらき、短期間で聖都を落とすことができるかもしれない。戦いが長引けば、敵地に侵入した側のほうが次第に不利になるというのは常識だ。しかしそれらすべてを考慮にいれたとしても、いまはまだ、のるかそるかの賭博にでるべき時期ではない。こちらは優勢であり、追い込まれているわけではないのだ。そこでベレンガリアが述べたのは、地中海沿岸都市を順次攻略して足場を固め、そののちにヤーファから東に折れて聖都に向かうルートを取るべきだ、とする意見だった。
「……考えておく」
獅子の王は、普段のかれからは考えられないような素直さで、王妃の忠告を耳に入れたものだった。かれは、自分が政略や戦略に対する眼というものに欠けていることを、みずから知悉していたのだ。それ故に、かれはベレンガリアを参謀のような存在として重用した。
以上のような理由から、リチャードはまず十字軍内の問題を片づけ、周辺の都市を攻略して足場を固めるところからことを進めることを決定した。
そうした問題の中で、かれがもっとも烈しく怒りをあらわしたのは、フランス王についてのことだった。フィリップ尊厳王は、アッカを攻略した時点で満足し、本国フランスに帰還することを申し出たのである。
その理由は、病だった。しかし、王不在のイングランドにフィリップが食指を伸ばそうとしていることは、あえてベレンガリアに諮るまでもなく明らかだった。
いま、リチャードの前には当のフィリップからの使者が跪いている。
「貴様などに用はない。いますぐフィリップのもとに戻れ。そしてやつに告げよ。サラディンの次は貴様の番だ、とな」
リチャードはもはやフィリップを敬称付きで呼ぼうとはしなかった。そのことでかれの怒りのほどが知れ、使者は縮みあがった。
「お、お怒りはごもっともと存じまするが、なにぶんわがフランスは、いまだ貴国のごとく安定してはおらず……」
「いますぐ去れといったはずだ。それ以上いらぬ舌を動かそうとするならば、貴様の命の保証はないぞ」
リチャードの怒声は部屋中に響きわたり、あたりの者を竦みあがらせた。平然としているのは、半眼で薄暗く立っているベレンガリアぐらいのものだった。
「し、しかし……」
「どうやら貴様のからだは、その首を必要とはしておらぬようだな」
噴火の前の震動を思わせる声だった。リチャードはみずからの剣を鞘から抜き放つ。どこまでも本気であるようだった。剣先を使者の喉もとに突きつける。だれも止める者はいなかった。
「消えろ。それともここで首足ところを異にされることを欲するか」
使者の喉から赤い血が流れた。使者はリチャードの脅しが噓ではないことを悟り、ほうほうの体で逃げるようにしてその場を去った。
「いまいましいフィリップめ! あの瘦せ狐の首は、いずれかならずこのおれが胴から引き抜いてやるわ!」
リチャードの烈しい怒りはこの後もしばらく続き、かれの部下らはおそれるばかりだった。誰も、王の怒りを積極的に鎮めようとする者はいない。みずからに怒りの矛先を向けられるのをおそれたためだ。
「……ひとつ言えるのは、陛下も本国に戻られるのが最善であるということです」
ベレンガリアが怒りの暴風をさらりとかわすようにして、そのように進言した。その内容はまったく、最善の選択ではあった。この地での戦いは、いわばキリスト教徒を救うための『義戦』であって、たとえ勝利してもイングランドに直接的な利益をもたらすものではない。
だが、リチャードは拒んだ。
「そのつもりはない」
かれの気性にとっては、それが当然のこたえだった。かれは闘争こそがすべてなのだ。サラディンとの決戦に至らず去ることは選択肢にはなかった。聖地を奪還するに最善の努力をしなかったという不名誉も、かれには我慢ならないことだった。
「でしょうね」
ベレンガリアは顔色も変えずに応じた。
「わたしもそうです」
この、異様な人格の欠けよう。これを感じるときリチャードはいつも、みずからとの共通点をかの女の中に見るのだった。それはやはり、妻というよりは、同志に近かった。
とにかく、リチャードはその後しばらくの期間を、十字軍内の調整のためアッカですごさねばならなかった。そしてサラディンはその間に対策を練り、なんとか迎撃の態勢を整えることができたのである。
リチャードのもとから逃げ帰ってきた使者の報告を、フィリップは冷やかな笑いを浮かべながら聞き流していた。
「ふ、せいぜい怒るがよいわ。愚かな犬ほど吠えるというものよ」
フィリップの表情は満足気だったが、そばにいたかれの部下、ブルゴーニュ公はいぶかしげな様子をその顔に浮かべていた。暗殺教団の城砦で、長老シナーンと面会した男だ。
「どうした、ブルゴーニュ公。何か納得いかぬことでもあるのか」
フィリップは自分からは決して口を開こうとしないブルゴーニュ公に話しかけた。この初老の武将の冷静さをフィリップは信頼しており、かれに五百の騎兵と一万の歩兵を預け、十字軍中に残すことを決めていた。むろん、世間の目を意識してのことではあったが。
「は。されば唯一お伺い致したく存じまする」
武人らしい古風な言いまわしにフィリップは苦笑しながらブルゴーニュ公に話を続けさせた。
「陛下には何故暗殺教団などに王妹エルシードらの退治を依頼なされましたのか。それがしには、陛下がリチャード王を助けようとなさっておられるように見えまする」
かれの疑念ももっともなことだった。
フィリップの目的は、あくまでリチャードの権威の失墜と、イングランドに対するフランスの覇権だ。エルシードらの暗殺は、その意図に反する行為と言えた。
「そなたの疑問は妥当だ。だがな、サラディン側にあの『公正』らがいる場合、リチャードが早い時期に敗れる可能性も考えられる。おれの見たところ、リチャードとサラディンのふたりが同等で、このふたりのみであれば天秤が均衡し、戦いは長期化する可能性が高い。が、その天秤の上にさらに乗る者がいると、均衡が一挙に崩れることもありうるわけだ。リチャードが敗れて死んでくれればよいが、イングランドに帰還してくるおそれもある。それではまずいのだ」
自分を手玉に取ったという一点から、フィリップはヴァレリーという男を過大に評価せねばならなかった。自負を守るためだ。ただ、このときはそれがうまく嚙み合った。
「なるほど……」
「すべては、リチャード軍とサラディン軍の力の均衡を崩さぬための布石だ。サラディンではなくアル=アーディルとエルシードを殺せとしたのもそのためだ。よいか、そなたをリチャードの下に置いてゆくのは単に世間体のためだけではない。リチャードとサラディンの戦いが長引くよう努めるのが、そなたの役目だ。リチャードが有利となればかれの足を引き、不利となればかれの力に加わって、容易に決着をつけさせるな。わかったか」
「……御意にございまする」
フィリップはブルゴーニュ公の返答に満足気に頷いた。
かれは考える。少なくとも二年はほしい。それだけあればなんとかイングランドに内乱をおこし、そこに介入することもできよう。
それは願望ではあったが、、フィリップはすでに、この戦いが長期化するであろうことを確信もしていた。敵地での戦いという不利も矮小化するほどの兵力的な差が、十字軍とサラディン軍のあいだにはある。しかしイスラム側には、かつての第一次十字軍のときとはちがって、陣営内の固い結束があり、難攻不落の聖都がそう簡単に落とされることはないだろう。自然、戦いはさまざまな条件を複雑にふくんで長引くことになる。フィリップはそう目算した。
ゆえに暗殺教団を利用して策を弄したことも、かれにとっては単なる趣味にすぎないとも言えた。そうでなければ、実力も定かでない集団を利用しようなどと考えるはずもない。
そしてフィリップの予想通り、この戦いは長期化することになる。
三日後、フィリップ尊厳王はアッカを去った。この後かれはフランス王領の拡大に努め、『カペー家のシャルルマーニュ』と呼ばれる偉大な王となる。そしてついには教皇とも対立するまでに至るのだが、それはのちの世の話である。とにかく尊厳王は、二度とふたたびこの地に戻ってくることはなかった。
尊厳王が去り、獅子心王が残った。第三次十字軍はその一角が崩れ、弱体化したように見えた。しかしイスラム世界の、あるいはサラディンの苦難の道はまさにここからはじまったのだ。
そして、これからはじまる暗殺教団との衝突はそのくるしみの序章となった。
3
ダマスカスはイェルサレムの北北東約二百キロメートル、アッカの北東約百キロメートルの位置に存在する大都市だ。同時代、ほぼ同緯度に存在する都市としては、鎌倉時代の幕開けを待つ日本の平安京がある。当時のシリア最大の都市であり、歴史と文化を誇る美しい都でもあった。
乾いた土壌に灌木がまばらに生える不毛の地の中に存在する都だ。しかし、高地からの運河が引かれているため、街自体は非常に水が豊富である。そうした水を利用した果樹園が街の西に鬱蒼と広がり、森となって城壁の代わりをなしている。
その美しい都ダマスカスに、旧アッカ守備部隊の面々は滞在していた。先の戦いで受けた傷を癒すための休暇ということだったが、このように将兵が活力を回復する時間を得ることができるのは、領土がすなわち戦場となっている国の皮肉な利点といえた。
回復力の著しいエルシードは当初、休暇など必要ないと言い張っていたものだが、いまはおとなしく自分の館でひとときの平和を享受していた。
ヴァレリーはというと、これは過去に捕虜を脱走させた罪人であるので、ダマスカスに住居をあたえられることもなく、行き場所をうしなっていた。結局アッカにいたときと同じく白人奴隷としてエルシードの館で養ってもらうこととなり、自由や人権などは軽く召し上げられて、おおむね柱に首輪でつながれている日々を送っていた。獅子心王と尊厳王を敵に回して一歩も引かなかった功を持つ男には、到底見合わない生活ともいえた。
ただ、本人はそれをよろこんでいるようでもある。
休暇中とはいえ、エルシードはダマスカスの警備等の仕事を処理しなければならなかったのだが、そんなある日、退屈な役所づとめから戻ったかの女を、侍女たちが待ち受けていた。
「どうした、何かあったのか?」
「はい、先ほどフランク人の女の方が突然見えられまして……」
「ルイセじゃな。いまここにおるのか?」
ルイセ……エメラルドのひとみを持つこの娘も、旧アッカ守備隊の一員としてこのダマスカスにいる。間諜としての能力に長けていて、何かと使いでのある娘である。
「いえ、すぐに立ち去られました」
「何か伝言でもあったのか?」
「はい」
「さっさと申せ。わたしは時間を無駄にすることがもっとも嫌いなのじゃ」
もっとも嫌いなものをたくさん持っているエルシードだったが、待たされることが嫌いなのもまた事実なのだった。
「はい。その女性が言われるには、このダマスカスに数人のあやしげな男が入りこんでいるとか。しかしこの街には、何十万ものひとびとが行き来しています。なのにそのようなことを言われても、にわかには信じ難いと存じまして……」
「いや、あの女がそういうのなら確かであろう。気にくわぬ女であるが、そうしたつまらぬことに関してはやけに通じておるからな。明日からは警備の目を少し厳しくするとしよう。ところであの居候はまだ帰っておらぬのか?」
周囲を見回したエルシードは自分から話題を変え、勝手に怒りはじめた。いかにも暴君のかの女らしいが、周囲の者はいい迷惑だった。
「ここ数日戻っておられないのは、やはり何か事故にでもあったのでは……」
「あのような悪党が事故などに遭うものか。女郎屋ででも遊び呆けているに相違ない! 相違ないのである! 足かせでもはめて、もっとしっかりつないでおけばよかったわ!」
「そ、そのようなこと……」
「だまれ! それより、おまえたちは何をこのようなところでなまけておるのじゃ! さっさと働かんか!」
理不尽な言いようだ。しかしかの女の場合、その理不尽さを理不尽と感じさせぬような奇妙な可愛らしさがあって、奴隷や使用人までも、子どものわがままを見守る親のような気持ちになるようなのだ。それもまた、人徳というべきものなのかもしれなかった。
「まったく、あの男は許しがたいな。今度戻ってきても、絶対この屋敷には入れてやらぬ!」
怒りの声とともにエルシードは地面を蹴りつけた。が、次にヴァレリーがこの屋敷に帰ってくると、エルシードは文句をいいながらもうれしそうな顔をしてかれを迎えるのだった。
正反対の性格を持つふたりの人間が友人同士になることはそう多くない。が、その少ない例のほとんどは周囲が不思議に思うほど気の合った親友同士となる――という。
ラスカリスとギュネメーのふたりが、まさにそれだった。洗練された容姿を持ち、実務にも長けた真面目な青年のラスカリスと、鬼面獣のような風貌と怪力を持つ無法者のギュネメー。かれらに共通するものは、ヴァレリーのことばに導かれてイスラム世界に身を投じた、という経験のみだった。それ以外に、かれらが共有しているものは何もない。が、ふたりは何故か話が合い、ともに連れ立ってダマスカスの街を徘徊することが多かった。この日もおなじく、かれらはともに街をあてもなくぶらぶらとしていたのだった。
「大体、こんなところになんの用があって侵入したっていうんだ? サラディンが滞在してるわけでもなし。狙って得するようなものなど、何もないだろうによ」
いかにも無法者の言いようだったが、ラスカリスは咎めなかった。そうした物言いに、すでに慣れてしまっているのだった。
「ヴァレリーさまがいるではないか」
「あんな遊び人を襲って、なんの得があるんだ? あれと同じ重さの羊肉の方が、まだ高い値段がつくぜ」
「エルシード殿下もいる」
「あんな非常識な女、刀で突き刺しても死なねえよ」
普段からヴァレリーが口にしているようなことを、ギュネメーは口ばしる。ラスカリスはそうしたことを聞いたときのエルシードの反応を脳裏によぎらせて、苦笑した。
「そんな話をあのひとに聞かれたら、ころされるぞ。あのひとは怒ると残忍だからな。いつも、ヴァレリーさまがどれだけおそろしい扱いをされているのか、知らないのか。ヴァレリーさまだからこそ、死なずにすんでいるが」
「へっ、あいつはそれをよろこんでるじゃねえか。おれはあんな変態じゃねえよ」
そんな会話をだらだらと続けながら、かれらは街の中心からやや離れた人通りの少ない路上にさしかかった。
唐突に、ギュネメーが声の調子を落として注意を促した。
「おまえも結構有名人じゃねえか。刺客に狙われるようになりゃあ、まあ一人前だぜ」
「なんでおれが狙われていることになるんだ。おまえの方かもしれないだろう」
「ふっ、むかしから、正義の殺し屋に狙われるのは悪者と相場が決まってるんだよ」
「……やれやれ」
ラスカリスはため息をついた。そして反省した。こうした状況でどこかのんびりとしてしまうのは、あのふたりの悪影響に違いない。そんなことをみずから思った。
「ほら、おいでなすったぜ」
ギュネメーがそう言ったとき、目の前にふたりの男が物陰からすがたをあらわした。見た目はごく普通の商人である。
「貴様が、ラスカリスだな」
そのことばは確認などではなく、単に襲撃の合図にすぎなかった。
二人組は同時に刀身の黒い曲刀を抜き放ち、ラスカリスに斬りかかった。ラスカリスは左右からの攻撃を後ろに跳んでかわし、すばやく剣を抜く。右側の男に跳びかかる。その連続した動きに、相手の目はまったく追いつかなかった。反応が総身に表れるよりも早く、ラスカリスは背後を取り、喉もとに刃を突きつけて相手の動きを封じた。
そこではじめてもうひとりの男の方を見やると、すでにかれはギュネメーに打ち倒されて地面に伸びていた。
「さあ、だれの命令でなんのためにここにいるのか言ってもらおうか」
尋ねると、横からギュネメーがちゃかしたことばを投げかけてきた。
「まったく、ありがちな訊き方しかできんやつだ」
「非常識の塊から見れば、そうなるだろうよ」
しかしラスカリスの尋問も益はなかった。かれの目の前で男はみずから舌をかみ切り、みずから口を封じたのだ。毒のような血がふき出した。そして横たわった男の目は、そのまま灰色と化していった。
「ちっ、狂信か……。くだらないことでひとは死ねるものだ」
ラスカリスは舌打ちしながら、もうひとりの男を調べた。その男は白目をむいて横たわっており、ざっと観察したかぎり、この先三日は目が覚めそうになかった。
「馬鹿力め、手加減というものを知らないのか」
「どうするんだ、この男は? 起きるまで待っているのか?」
「ほうっておこう。そのうち警備の者が来て処理するだろうしな。それより、急いでヴァレリーさまを探すんだ」
「それとこれとどう関係があるってんだ?」
すでに歩きはじめたラスカリスの後ろからギュネメーが尋ねた。
「これだけの狂信を示すからには、それなりの組織が背後にあるはずだ。つまり、こいつらは単なる捨石だろう。ならば、いまごろはさらに腕の立つ者がエルシード殿下かヴァレリーさまを襲おうとしているに違いない」
男らは、黒い刀を手にしていた。それは光の反射をおさえるためのものだろう。相手に気づかれる危険を極力なくそうとしているのだ。そうした武器を手に、殺意をもって相手に近づく必要のある者――それは、すなわち暗殺者だった。
「なるほど、お姫さまは屋敷にいるからまだ安心だが……」
ギュネメーの声も聞かぬまま、ラスカリスは道を急ぎだした。相変わらず苦労性だとヴァレリーが見れば笑ったかもしれない。
しかし、このときばかりはその不安が的中していたのだ。
4
そして、危機にあるべき当のヴァレリーは――
周囲に流れはじめた妖しい空気にも気づかぬ様子で、街はずれの木陰のもと、うたたねをきめこんでいた。本当に眠っているのかどうかは当人以外知りえぬところだったが、その弛緩した顔つきからすると、眠ったふりをしているとは到底見えない。
すでに黄昏の時刻も近い。しかし、ヴァレリーは一向に目を覚まさないのだった。時折頭をかくように手を動かすが、すぐにその手を下ろして動かなくなってしまう。なんにせよ、とにかく無防備極まる状態だった。
そのかれのそばに、黒い布をかぶった男が近づいた。いや、近づいたというよりは、その場に唐突に出現したのだった。闇に溶けていた液体が凝固したかのようなあらわれ方だ。それを目撃した者はいなかったが、目撃者がいようといまいとその男にとってはどうでもいいことのようだった。それほど、その男の若くほっそりとした総身からは自信があふれていた。
「このような場所で帯剣もせず眠るとは……。罠でも敷いて安心しているのか?」
その暗殺者アル=カーミルは、警戒の足取りで標的にゆっくりと迫ってゆく。しかし、刃でとらえることのできる間合いに入っても、かれは暗殺者に気づいたふうもなかった。
「よほどの大人物か、それとも救いがたい愚物か……」
それに対するアル=カーミルのこたえはすでに出ていた。しかしそのことはかれにとってなんらの意味を持たぬものでもあった。いずれであろうと、すべては目の前の男を殺してしまえばそこで終端されることなのだ。
「いつの世も噂と実像とは遠く離れるものだ。死ぬがいい、イスラムに巣食う蛮族。神の国とやらで永劫に悔いよ」
アル=カーミルは短刀を抜いてヴァレリーの方に一歩踏み出した。長刀を抜く必要もないと判断したのだ。
が、かれは誤った。そのとき、やや離れた場所からアル=カーミルに向けて一本の矢が射られたのだ。アル=カーミルは任務を中断してその矢をかわすことを強いられた。
「それ以上そのひとに近づいてみなさい。矢があなたの喉を射抜くわよ」
声の方向を見て、アル=カーミルは驚きを禁じ得なかった。弩を手にして立っていたのは、十代半ばと見える少女だったのだ。自分はこのような小娘の気配も感じ取ることができなかったのか。その感情が、面にほんのかすかの動きをあたえた。
「やっぱりヴァレリーさまを狙っていたのね。でも気をつけなさいよ。そのひとに怪我でもさせたら、少なくとも三千のひとがあなたを襲うわよ」
矢の先端を向けたまま、少女はアル=カーミルを脅した。確か、これはルイセとかいう西洋人の娘だったか。間諜としてすぐれた感覚を持っているとは聞いていたが、なかなかのものだとアル=カーミルは納得した。
すぐに決断した。二個の敵がある場合、手強い方に対して先に衝撃をくわえる。そうした戦闘の常道を、アル=カーミルは選択した。ルイセに向かって疾走したのだ。
ひとの感覚では捉えられぬ速度だった。ルイセに矢を射る暇をあたえはしない。かの女は賢明にも即座に背後に跳んだが、それもアル=カーミルにとっては緩慢な動きにすぎなかった。
空中で回転してルイセが着地しようとしたとき、かれはすでにその位置に立って、かの女を待ち受けていた。
だが、ルイセは長刀で串刺しにされはしなかった。それはかの女の能力によるのではなく、アル=カーミルが他の殺気を感じて、一瞬そちらへ注意を向けたためだった。ルイセはそのほんのわずかの隙を利用して、かれからふたたび跳びすさったのだ。
「また邪魔者か」
そう吐き捨てると同時に、アル=カーミルは視覚の端でヴァレリーがようやく目覚めた様子をとらえた。
「咄、『完全』の名を持つこのおれが……」
舌打ちとともに、かれはみずからの計画が失敗に終わったことを理解した。かれを狙う殺気がラスカリスとギュネメーのものだと気づいたためだった。
あのふたりは、同僚の暗殺者が足止めしていたはずだった。やはり、あの程度の者たちでは、かれらを止めることはできなかったか。そう考える間もなく、ラスカリスとギュネメーによる二条の剣光がアル=カーミルを襲う。
しかし、そこからが、暗殺者としての力量の一端を見せる舞台となった――。
この間合いなら斃せる!
ラスカリスとギュネメーは同時にそう感じた。そしてその感覚は、まったく妥当なものでもあった。大きさの違う二本の剣は暗殺者の反応よりも早くかれに接近し――しかし、そのからだをそのまま通過した。何かを切断した重みは、まったく剣に伝わらなかった。
「何!?」
ラスカリスらはおどろきのさけびをあげた。暗殺者のからだにまるで圧力が感じられなかったのだから当然のことだった。しかも、からだを両断されて見えるアル=カーミルは血をふき出すこともなく、かれらの目の前で冷やかな笑みを浮かべている……。
「幻術か!」
ラスカリスですらも、そのことに気づくまでに数瞬の時間を要した。そしてその隙を暗殺者たる若者が見逃すはずはない。
かれの黒い曲刀がラスカリスの背を襲った。背後から襲いかかってくる剣気を感じ取り、ラスカリスは自分に憤った。戦いのさなかに、呆然とするなんて!
刃がラスカリスの命をとらえようとする。
しかし、その動きはそこで中断された。かれに向かって放たれた矢があったからだ。ルイセが体勢をととのえ、ふたたび矢を射たのだった。暗殺者のすぐれた体術ゆえにはずれはしたものの、その矢は少女が放ったとは思えぬほどの正確さを見せていた。むしろ、それをさえ回避した暗殺者の力量にこそ、目を見張るべきだった。
「もらった!」
矢を避けて生じた隙を、ギュネメーが衝いた。大剣を振るい、胴を薙ぎ払う。無慈悲な一撃。が、それでもやはり、剣は相手のまぼろしをむなしく通過しただけだった。
ギュネメーの目の前で、暗殺者の幻体は砂漠の蜃気楼のようにゆらめき消えてゆく。
「何故、おまえたちほどの男が、あのような愚物に仕えるのか」
ラスカリスらの前で暗殺者ははじめてひととしてのことばを発した。相手が人間であることを、ようやくにしてラスカリスは知った。それほど、この暗殺者の力量には、人外じみたものがあったのだ。
「ひとを評するのならば、まずみずからを名乗れ」
ラスカリスは暗殺者をなじるように言った。あくまで形にこだわるのは自分の悪い癖だと思った。
「完全」
相手がこたえるとは考えていなかった。それは、青い若さのあらわれともラスカリスには見えた。舌を切ってみずから口を封じた狂信の暗殺者と、どちらが特殊であるのか。見極めはまだ難しかった。
ラスカリスとギュネメー、そしてルイセまでも同時に相手とするのは不利と感じたか、アル=カーミルはそのまま無言ですがたを消した。そのさまはまさに「暗闇に溶け込んでゆくよう」だったとルイセは後になって語った。
その様子をヴァレリーも見ていたのだろう、ラスカリスのもとに歩み寄ってきたかれは、三人に向かってぬけぬけと言った。
「なんだ、いまのひとは。何かあったのか」
この後、エルシードの館に戻るまでのあいだ、かれはラスカリスとルイセのふたりに長々と説教を受けることとなった。
屋敷の前でルイセはもう一度きつく念を押した。
「いいですか、今度から外出する時にはちゃんと帯剣して下さいね。それからどこに行くかかならずだれかに告げること。わかりましたね!」
「……そんな幼児に対するみたいに言わなくてもわかっているよ。何か叱られているような気になってしまう」
「叱ってるんです!」
「……なるほど」
叱責も耳に入らぬげに、ヴァレリーはのんびりとした足取りで館の中へ消えていった。このしばらく後にはエルシードの怒声がふりかかるだろう。最近のかれは、怒られることだけが人生の目的であるように見えた。
「まったく、あんなところで、しかも丸腰で昼寝してるなんて……」
ルイセの声からは、まだ怒りの色が消えていなかった。かの女の兄であるギュネメーは、妹の怒りが怖いのか、すでにどこかに去ってしまっていた。
「いや、あれでいいんだよ、多分……」
さっきまでルイセと一緒になってヴァレリーを責めていたラスカリスだったが、いまになってそのようにつぶやいた。
「何がいいっていうのよ!」
ルイセの怒りを聞いていないかのように、ラスカリスはゆっくりと夜空を見上げた。
「あのひとは多分ここ数日、暗殺者をおびきよせるためにずっとあそこにいたんだと思う。エルシードさまに危害がおよばぬためにな」
「でも、ころされる寸前になっても目を覚まさなかったじゃない」
「それは、待っているうちに本当に眠ってしまったんだろうよ」
「それじゃまるで馬鹿みたいじゃない」
「まあ、遠くの星を見ながら歩いているから、足元の小石に気づかずよく転ぶわけだ。そこを転ばないようにするのが、おれたちの役目だろ」
「そんな頼りない人間が、ひとの上にたっていいわけないでしょ」
「そりゃそうだが、でも、そういう頼りなさの中に不思議というか、奇妙な……」
「奇妙な、何?」
「なんていうか、そう、可愛さがあるというのかな。二十六歳の男に対して使うべきことばじゃないか……」
ラスカリスの妙な表情にルイセは声を立てて笑った。
「そうね、なんとなくわかるような気がするわ。エルシードさまもそんなところがあるし、似た者同士なのかもね」
「普通はそういうのを器量が大きいとかいうのかもしれないんだが、あのひとたちの場合、そういうわけでもないような気がするんだ。ただただ間が抜けて可愛いというのか。こっちついていなければどうしようもないというのかなんというのか……」
うまくことばに表すことができず、ラスカリスはひたすら戸惑っていた。
「それ以上言わなくてもわかるわよ。だってたぶん……」
ルイセは早足になってラスカリスを追い越した。そして――
「たぶん、みんなそう思ってるんだから」
そのようにつぶやいて微笑んだ。
「王手じゃ」
「ううむ、ではここに逃げるとするか……」
「王手じゃ」
「ううむ、もうここしか逃げられないな……」
「王手じゃ」
「……」
暗殺者に襲われた日の翌朝、ヴァレリーは王妹エルシードと屋敷の中庭で将棋を楽しんでいた。中庭には、さすがに王妹の館だけあって噴水だの水盤だのがしつらえてあり、居心地の良い憩いの場となっている。
「これで対戦成績は三十五勝○敗であるな」
エルシードは鼻高々で胸を張った。三十五連勝しているのがどちらで三十五連敗しているのがどちらなのかは、もはや言うまでもないことだった。
「大体、おまえは不注意が多すぎるのである。筋にはそこそこ見るべきものがあるのに、注意力が不足しておるから簡単に顧問官(チェスでいうクイーン)を取られたりする。いい加減な生き方がそのまま駒の動きに凝縮されておる」
将棋ひとつで人生までも否定されるヴァレリーだった。さすがに不満だったが、三十五連敗もしていては反論することもできない。そこでなんとかしてエルシードの鼻を明かすべく日夜努力しているのだが、どうしてもかの女には勝てないのだ。
「ところで、昨日おまえを襲ったやつらじゃがな……」
エルシードは突然話題を変えた。昨晩からそのことで十分にかの女に怒声を浴びていたヴァレリーは思わずため息をつく。エルシードに知られる前に、すべてを片づけてしまうつもりだった。にもかかわらず、いつの間にかぐっすり眠ってしまっていて、一騒動となった。とうとう、エルシードにも知られてしまうはめになったのだ。
「安心しろ。怒りはしない。やつらの正体のことじゃ。かれらはどうやら、暗殺教団の手の者であるらしい」
「ふうん……」
ヴァレリーはとぼけるようにして沈黙を保った。
「どうやら、知っておったようじゃな」
どうも、表情をいくら作っても、エルシードにはたやすくこころの奥を読み取られてしまうらしい。獅子心王と戦った実績も、かの女の前では物の役に立たないらしかった。
「知っていてわざと暗殺者をおびき寄せたのじゃな。なんでおまえはいつもそうやって、わたしに秘密で事を進めようとするのか。わたしはそんなに信用がおけぬ者であるのか」
「そうじゃない。ただ、姫は一国の重鎮だ。そのからだに万が一のことがあれば、陛下が築きあげられたアイユーブ朝の支柱が傾ぐことになる。くだらないことには関わりあいにならないほうがいい」
「しかしやつらの目的にはわたしも入っておるのであろう。そのわたしが何もせぬまま、のうのうとしていてよいものか!」
一度言い出したら聞かないエルシードだ。だからこそ、気づかれないうちに片づけてしまおうと思っていたのだが、もうすでにかの女はすべて知ってしまっている。
ヴァレリーはついに折れた。
「……そうだな。姫の言う通りだ。だけど、当面のあいだは私に対処させてくれ。姫にはいつも通りの生活をしてもらう。姫の前に暗殺者があらわれそうなときにはかならず私もそばにいるようにする」
「そしておまえが襲撃されたときに、わたしは何もできぬというわけか」
心配気な顔を隠さず、エルシードは吐き捨てた。
「まあ、そう深く考えることでもないよ。昨日ラスカリスらが捕らえた男がいただろう? ほかの暗殺者も、たかだかその程度のものだろう、心配するほどのことじゃない」
しかし、そうした物言いによって、エルシードの心配はさらに増したようだった。昨日襲ってきた暗殺者の実力のほどを、ヴァレリーの表情から察してしまったらしい。
「……よかろう。じゃが、これより独断専行は決して許さぬぞ」
それだけ言うと、エルシードは不機嫌そうに長い黒髪をかき上げながら中庭を出ていったのだった。
5
闇の中で生まれ、闇の中で育ったアル=カーミルは、いまも闇の中で蠢動を続けていた。それ以外に、かれは生き方を知らなかったのだ。
「……隙だらけではないか。どう見ても、あれが有能な人間であることはありえぬ」
アル=カーミルはエルシードの館に忍び込み、ヴァレリーを監視していた。同じ屋敷に潜みながら、なお気配を感じ取らせない。高度な暗殺者の技巧だった。
そして、かれは疑う。
何故あのような男に嬉々としてしたがう者がいるのか。
そもそも、ひとにしたがう、とはいったいどういうことであるのか。
『山の長老』に自分たちがしたがっているのとは、何か違う部分があるのだろうか。
違っているようでもあり、まったくおなじようでもあり、結局こたえをアル=カーミルはどうしても導き出すことができず、それが見つかるまでしばらくヴァレリーに猶予を与えてやろうという気になっていたのだった。そしてそれは、理解できぬものの存在を認めようとしない、若さゆえの驕りでもあった。青い拘泥だった。
ヴァレリーを日夜観察していて、アル=カーミルはひとつ気づいたことがあった。それはヴァレリーと会話している者の表情が、ほかとは違っているということだった。馬鹿にしているようにも楽しんでいるようにも見える。どうも、その中間にあるような印象だった。ただ、エルシードから一般市民に至るまで、みなかれの前では寛いだ顔をしているのだ。
評することばは、いくらでもあった。
「ひとを統率できる男ではない。かれは勤勉でない。怠惰な者にひとはしたがわぬ」
そのように見なすべきとも思われたのだが、しかし、だとするとあのラスカリスという青年の忠実ぶりがわからなくなる。アル=カーミルはそのあたりのことが、どうしても理解できなかった。
このとき、アル=カーミルがヴァレリーを怠惰な者と評したことには、じつは多少の誤りがある。
ヴァレリーがダマスカスの市民と話しているのは、かれらの生活における支障を解決する手助けをしているためでもあった。ただ、かれはそれを愉しみとしておこない、愉しみとして話しているので、アル=カーミルの眼には遊んでいるとして映るのだった。そしてヴァレリーにしたがうラスカリスらは、そのしたがう理由をかれの勤勉さの内に認めているわけではないため、結局アル=カーミルの疑問は妥当になっていた。
アル=カーミルはそうした疑問をはっきりと解決しようとせずにはいられなかった。不明瞭な部分を残したまま捨ておくことができなかった。みずからの力で、ヴァレリーという男の無能さをさらけだしてやりたいと思った。
「よかろう、アーディルめ、有能を装う仮面を、このおれが剝ぎ取ってやる」
アル=カーミルは決意をかためて低くつぶやいた。
「真の顔を暴いてのちに屠る。それが、この任には必要だ」
それ以降、アル=カーミルは思考を停止させ、館を忍び出て真夜中の空を静かに見上げた。そのひとみはまだ、広い世界を映してはいなかった。
6
『公正』ヴァレリーが刺客に襲われてから数日たったその日、エルシードの屋敷の客間をラスカリスは訪れていた。特に用事があったわけではない。ただ、何をするでもなくここでヴァレリーと雑談を交わすことが、ラスカリスにとっての日課となっていたのだ。
かれらのいる場所からは、庭で剣の鍛錬に汗を流している少年のすがたをかいま見られた。むろん、王妹のエルシードだ。もう数刻にわたって、一心に剣を振るい続けている。アッカの戦いで受けた傷など、忘れてしまっているかのような熱心さだった。
「まったく、よくも毎日あんな鍛錬を続けることができるものだ。もしかして、本当に不死身なんじゃないか」
「少しは見習おうとは思われないのですか? 今日もちゃんと帯剣していないではないですか。ルイセに見せてやりたいものですよ」
「しかし、不死身の姫というのは想像したくないな。魔神よりもたちが悪い」
「ひとの話はちゃんと聞いてくださいよ」
都合の悪い話は耳に入らないらしいヴァレリーをラスカリスはたしなめる。だが、やはりそんなことを気にするような相手ではないのだった。
「信念があるんだよ。人生を豊かにすることば以外には、耳を傾けないっていう」
「くだらない信念を持たないでください。というより、あなたの人生を豊かにすることしか、おれはまだ言ってませんよ」
「そうかな。帯剣しろとか話を聞けとか、なんか嫌なことばかりじゃないか」
ヴァレリーは平気でそんなことをよく口にする。エルシードが悪党呼ばわりするゆえんだとラスカリスは思った。
エルシードのほうをみやりながら、ヴァレリーはふしぎそうに言った。
「それにしても、あのからだであんな力が出るというのは、どう考えてもおかしいとは思わないか? 前々から感じていたんだが、やはり異常体質なのかもしれない」
「あなたが殿下を怒らせるのは勝手ですが、おれを共犯に仕立てあげようとするのはやめてください」
「おまえ、最近世渡りが上手くなってきたな……」
このような会話はエルシードの耳には入らなかった。しかし自分が話題にされていることには気づくらしく、いつも後になってラスカリスは、何を話していたのかかの女から問いただされるのだった。
「いや、剣術などを少々教わっていただけでして……」
尋問に対して、苦しまぎれにラスカリスはいつもそうこたえる。
「あいつに剣など教わっても無駄というものじゃ。あれは異常体質ゆえの力であるからな。そうでもなければ、あのような抜けた風体の男がわたしに匹敵するわけがない」
エルシードは確固たる信念をもってこう主張するのだ。ヴァレリーとまったくおなじことを言っている。ラスカリスは、他人のふりを見たときはみずからのふりを直そうとこころに誓った。
とにかく、そうやってヴァレリーとラスカリスは休日の午後をくだらない雑談に費やしていたのだが、そこへエルシードの侍女が困ったような表情をして近づいてきた。
「どうかしたのか?」
「はあ……それがアーディルさまを訪ねてこられた方がいまして」
「だれだ? 私の知人か?」
「ええ、まあ……おそらくご存じだとは思いますが……」
「なんだ? そのおそらく、というのは。都合の悪いことでもあるのか?」
「ええ、そのひとというのが未成年のようなのです」
「それがどうしたと言うんだ」
「それが、そのひとの言うには、自分はアーディルさまの息子だと……」
ヴァレリーは少しばかり首を傾げただけだった。さすがにラスカリスも、あまりに荒唐無稽な話なので、さほどおどろきはしなかった。
「まぁ、ここに通してくれ」
特にそれまでと様子が変わるでもなく、ヴァレリーは侍女にそう告げた。
しばらく待っていると、ようやくその自称ヴァレリーの息子が客間に入ってきた。侍女から話を聞いたらしく、すでにエルシードもすがたをあらわしている。ひとみは怒りとさげすみが同居したおそろしい光を放っていた。どうも、こういうことに関しては、理性というものが働かないらしい。
「マヌエルと申します。十四歳です」
ヴァレリーに近い淡色の髪を持った少年だった。マヌエルというその名を聞いた瞬間、ヴァレリーが奇妙な戸惑いを見せたが、その理由はラスカリスにはわからなかった。
顔だちは確かに似ている。年齢も、ヴァレリーがもうすぐ二十七歳になるところであるから、まったくありえない話ではない。しかし、やはりラスカリスはどうも信じることができなかった。女性に関してはまったくだめなこのひとが、そんな若いころに子をもうけていたとは、どうしても考えにくいのだった。
ただ、あえて息子と名乗ったことが、一分の信憑性をかれに与えていた。もし偽りで近づいてきたのなら、弟と名乗り出たはずだ。わざわざ疑われるように息子と称するわけがない。そういうことだ。
「沿岸都市のヤーファがサラディンに落とされてより、アンティオキア公領に避難していたのですが、父がダマスカスにいると聞いてうかがって参りました」
「……なるほど」
「なるほど、ではないっ!」
エルシードがついに怒りを弾かせて声をあげた。くちびるにはわななきがあった。マヌエルとならべて見ると、少年がふたりで言い合いをしているように見えた。
「おまえがこの男の息子じゃと? こいつはまだ二十代なのであるぞ」
冷たい炎のようなかの女の視線を浴びても、マヌエルという少年に竦む様子はなかった。あくまで淡々としている。
「その年齢を、だれが証明できますか? あなたがどちらを信用しようと、事実は変わりません」
王妹を説得しようとするそぶりはなかった。この場にいるだれに信じられなくとも構わない、といった態度だった。その焦りのなさが、かえってまたかれの申し出に信憑性をくわえるのだった。
「まあ、いいじゃないか」
こだわりのないような口調で、ヴァレリーは予測のつかないことを言った。
「本人がそう言うのなら、たぶん本当なんだろう。姫、悪いがかれもこの館に住まわせてやってくれないか。私とおなじ白人奴隷としてでいいから」
怒りというのかおどろきというのか、それに対するエルシードの反応は、ラスカリスにも少し見るに耐えないものがあった。
「……身に覚えがあるとでも言うか」
「うーん、ないこともないというわけじゃないけど……」
「勝手にしろっ!」
言い捨てて、エルシードは部屋を走り去って行った。しかし、ヴァレリーの方は、まあなんとかなるだろう、といった楽天的な顔をしている。何か、見えるものが見えたような顔でもある。
かれは、侍女のひとりを呼び寄せた。
「すまないが、ここにいるマヌエルを空き部屋へ連れていってやってくれ」
「……わかりました」
侍女はこたえたが、その声には軽蔑の色が微妙に混じっていた。そのほかには何も話さず、侍女はマヌエルを連れて部屋を出た。部屋には、ヴァレリーとラスカリスのふたりのみが残された。
「あのう、ひとつ思うのですが……」
ラスカリスはおずおずとして問いを投げかけた。
「なんだ?」
「あの少年、もしかすると先日の暗殺者なのではないでしょうか。髪は染めることもできましょうし、暗殺教団の者は幻術や変装術などに非常に長けていると聞きます。どうも、年若い少年を装っているように見えました」
「……まあね」
「あのときは黒い布をかぶっていましたからはっきりとしたことは言えませんが、特に顎の線に面影があります。おれの眼がただしければ、あの少年は『完全』と名乗ったあの暗殺者ですよ」
ラスカリスが言うと、それに対してまったく予想外のこたえが返ってきた。
「よく気づいたな。さすがだね。その通りだ」
「あ、あなたというひとは……!」
説得するように注意深くことばを選んでいたラスカリスだが、ヴァレリーのこたえを聞いて、一挙にその丁寧さをうしなった。
「何を考えてるんです! バカなんですか! 向こうは、あなたをころそうとしてるんですよ!」
「でも、頼ってきているものをほっとけないだろう」
真面目に言っている。このあたりの微妙なずれ方が、やはりかれなのだった。それはラスカリスもよくわかっている。しかし、今度ばかりは黙視してはいられなかった。
「頼ってきたのではありません! ころす機会を窺うために来たんです! わざわざ身中に虫を飼うようなものではありませんか!」
「そんなに怒らなくても……。虫がかならずひとに害をなすわけでもないだろうし」
「そういう話じゃありません!」
興奮して声がうわずった。エルシードや侍女の白眼にもその原因があったことは、自分でもわかっていた。
「なんでまた、わざわざ軽蔑されるようなことをするんですかっ」
キプロスにあったときのヴァレリーを知るラスカリスは、かれがふたたびだれかのさげすみを受けることに耐えられないのだった。同情やあわれみではない。何か自分がだいじに胸に抱えているものを汚されるような感覚があった。ヴァレリーよりもむしろエルシードらに対する苛立ちがあったのだった。
「でも、あのアル=カーミルというやつ、むかしのおまえに少しだけ似ているような気がするんだよな」
ラスカリスははっとして沈黙した。四年前、ヴァレリーのことばを拒んだ自分を思い出した。そうなってしまっては、反論できなかった。
かれのゆらぎを察知したのか、ヴァレリーは相手の緊張をやわらげるように微笑して続けた。
「このことは姫には内緒だぞ。マヌエル……いやあのアル=カーミルが暗殺教団の一員だと知れれば、かならずころそうとするだろうからな。騒動はもう十分だよ。かれが姫のほうに危害を加えようとすることもあるかもしれないが、そちらは私が目を配っておくから心配しなくていい」
「殿下のことより、おれはあなたのほうが心配です」
帯剣もしていないヴァレリーを見ると、そう言わざるをえないのだった。
「まあ、なるようになるよ」
至極いい加減な調子でヴァレリーはつぶやいた。そのすがたに軽く一礼してから、ラスカリスはその場を去った。
たとえ世界のすべてがあのひとを軽蔑してもおれは尊敬する。おれが守らねばならないのだ。
歩きながら、胸に深くそう刻みこんだ。それは忠誠といったかたちのものではなく、みずからがみずからに課した固い契約となっていた。
「おい、あのマヌエルってガキのことを、おまえはどう思ってるんだ」
斧のような大剣を軽く持って肩をたたきながら、ギュネメーがラスカリスに尋ねた。かれは見かけによらず、感覚鋭い一面を持っている。悟っているところは悟っているようにも見えた。
「どういうことだ」
「とぼけてるんじゃねえよ。あのガキが本当にあの遊び人の子なのかって訊いてるんだ」
「さあな。ただ、あのひとは愚鈍を装っていたのが長かったからな。禁欲が美徳とされる中で、わざとその逆をおこなっていたと聞いたこともある。あの少年がヴァレリーさまの子だということも考えられないことではない」
つとめて冷淡に話そうとするラスカリスだったが、その努力はあまり報われなかった。主人ほどではないが、演技が苦手な人間だった。
「ふっ、やっぱり本当の子じゃねえようだな。何を考えてるのか知らんが、あまり危ねえことはせんことだ」
「なんのことを言っているのかわからんよ」
ラスカリスは反論する。あの暗殺者にも思いを与えようとしているヴァレリーの意志を、壊したくなかったからだ。だが、ギュネメーはラスカリスのそんなすがたを見て、いかにも可笑しげに大笑した。
「噓の下手なやつは、あまりしゃべらねえようにしたほうが身のためだ。ま、心配するな。おれは口のかたさでは天下に名を轟かせたこともある」
「ちっ……」
ラスカリスはむっつりとしてギュネメーの軽口に応じなかった。話せば話すほど言い負かされるのはわかっていた。
すぐに気分を転換させて、問いかける。
「そういえばルイセはどうしたんだ? 最近見かけないが」
「へっ、やっぱり気になるか?」
「……そりゃあな」
ラスカリスはギュネメーから視線を外してこたえた。
「あいつはアッカで獅子心王の動きを探っている。ヴァレリーの指示だ。いまの暗殺者よりも先の獅子心王に対して手を打ったんだろうよ」
「そんな敵地の中心にひとりで行ったのか」
「やっぱり心配か?」
落ち着きをうしなったラスカリスを見て、ギュネメーは愉快そうに笑った。
「心配するな、あいつは偵察するということに特殊な才能を持ってるからな。敵地だろうが、あいつにとっちゃ、庭みたいなもんだ。ヴァレリーはそれを知っているから、先を見越してあいつを送り込んだわけだ」
「しかしな……暗殺者もうろうろしてるいま、ヴァレリーさまの護衛はひとりでも多い方がいいんだが」
「ま、あの男には、暗殺者の相手などは休みの楽しみぐらいに思えてるんじゃねえのか。そういうやつだ」
「……逆だ。それだけ、獅子心王という敵が強大なだけだ。暗殺者の力も、あなどっていいようなものじゃない」
「ははは、まったく、心配性なやつだな。若いくせに白髪も増やしやがって」
こちらの背中を叩いて笑うギュネメーには、悲観的な部分がまるでないようだった。それをうらやましいとはラスカリスは思ったが、そうなりたいと願うことはしなかった。心配性と言われようと、こういう性格でなければ、あのひとを守ることはできないだろう。そのように思うのだった。