ジハード
第三回
定金伸治 Illustration/えいひ
聖地イェルサレムに迫る十字軍10万を撃退せよー! 定金伸治が描く歴史的名篇、ここに再誕。
12
一一九一年四月。
フランスのフィリップ尊厳王に先を越されたイングランドのリチャード獅子心王は、しかし、先に行かねばならぬ場所があった。
キプロス島である。
理由は、妹のジョアンナと婚約者のベレンガリアのふたりを救うためだった。リチャードに先行して四月十二日にシチリアを出発していたふたりは、悪天候に見舞われてキプロス島に流れ着いた。そこでキプロス総督イサキオスに助けを求めたのだが、あろうことかイサキオスは船に積まれた財物を差し押さえたうえ、ふたりの乗る船を沖合に抑留したのである。
女性ふたりがこの地にあったことには、それぞれ事情がある。シチリア王妃である妹のジョアンナは、シチリア王グリエルモの死後、簒奪者によって幽閉されていたところを、リチャードによって救われた。また、婚約者ベレンガリアは、フランス王からの影響を断つために、少しでも早く婚儀をおこなう必要があって連れられた。かつてリチャードは、イングランド王として即位するためにフランスのフィリップの助力を乞い、そのあかしとしてフィリップの姉であるアレー姫と婚約していたのだ。助力を得るために、誇り高いリチャードがフィリップの前で膝をついた、とも伝えられている。その屈辱を、戦いの前に断つ目的があったのだろう。
そうした複雑な事情が背景にあったのだが、それはまた別の話である。
いま語られねばならないのは、リチャードの怒り――
かれは進路を転じて、キプロスに向かった。
翌月の六日に港町リマソルに到着したリチャードは、ありとあらゆる物資を海岸に積んで防備を固める街のすがたを見ることとなった。
「……なんという無軌道か」
炎のような紅眼に、リチャードは哀れみすら籠めてつぶやいた。赤髪紅眼。異相だ。しかし、見る者に強烈な記憶をあたえる強靭さを持っている。美しい、とさえ言えた。
「あのような壁で、おれを防げるとでも思ったのか」
左右に部下をしたがえて、リチャードは船上から岸を眺めている。
敵は、扉だの椅子だのといった街の資材をそのまま高く積んで、防壁となしていた。以前から備えていたという様子はまったく見られない。恐慌に陥った子どもが、手当たり次第に物を振り回しているような印象だった。まさしく、児戯である。
「おれに楯突くとはなかなか肝が据わっていると思ったが、どうやらただの無計画であったらしいな。無駄足だった」
妹や婚約者を救うことなどは大した動機ではない、といった言いようだった。戦いを愛するかれは、同時に才を愛する王でもあったのだ。かれにとって、女などは二の次の存在にすぎなかった。興味は皆無であったといってもよい。三十四歳になろうとするいまも独身であることが、それに対するひとつの証明でもあった。世間やのちの世で、男色を噂されてさえもいる。
「相手にするのも愚かしいですな」
部下のひとりが、嘆息とともに首を振った。あまりの水準の低さというものは、ひとの精神を疲労させる。
リチャードは、沖合に抑留されていたジョアンナとベレンガリアの船を救うと、総督イサキオスに対して使者を送った。こちらを迎え入れ、今後歯向かわぬことを約束するなら、今度のことは不問に付すという申し出である。
しかしイサキオスの無軌道、支離滅裂ぶりは、とどまるところを知らないようだった。その理由を窺い知ることは到底できないが、かれはリチャードの申し出を拒否したのだ。一連の行動から推測するに、その財が少しでも減ってしまうということが我慢できなかった、という可能性がもっとも高いようである。
ここにきて、リチャードはついにキプロスを征服することを決意した。
物資を積んだ防壁など構いもせず、かれは全軍を一挙に上陸させた。烈しい戦闘が水際でおこなわれ、防壁が双方の死体で覆われていった。
栄光ある十字軍の緒戦がこのようなくだらない戦いとなったことに、リチャードは強い怒りをおぼえた、と言われている。
戦闘となった段階に至って、総督イサキオスはようやく、自分の財物をまったく減らさずにリチャードを去らせる、ということが不可能であることに気づいたらしい。この段階に至ってようやく、だった。
恐慌に陥ったかれは、それでも街中の財を急いで車に積ませ、リマソルの街を脱出した。
金銀を積んだ荷車が、次々と北に向かって運び出されていく。
――なんて、似ていることだろう。
キプロスの騎士ラスカリスは、奇妙な感慨さえおぼえていた。
――聖都の聖職者たちは、これとまったく同じことをしたという。市民を捨てて、財物だけを積んで逃げ出した。なんて……醜い。
若いかれは、そうした美しさに欠ける人間の有りように、胸が悪くなるような嫌悪を感じた。理想が高いほど、あるいは真面目であるほど、醜さというものに許しがたさをおぼえるものだ。ラスカリスのこころはいま、そうした感情に満たされていた。
――世の中にはもう、こういうひとしかいないのだろうか。
こうしたときに何故かいつも脳裏をよぎるのが、四年近く前に別れたあのひとのことだった。かれなら、どのように対処しただろうか。あるいは、かれらを見て何を思っただろうか。そうしたことをつい、考えてしまう。
要するに、幻想に身をゆだねたくなるほど、いまが嫌いなのだろうとラスカリスは思った。
しかしそれでもあるじを裏切ることはできない。
「申し上げます、積み荷はすぐに放棄なさってください。たとえいま運び出しても、すぐに発見されてしまうことでしょう。いまなさねばならないのは、一刻もはやく逃走し、態勢を立て直すことです」
総督イサキオスの前に進み出て、ラスカリスはそう進言した。
「何を言うかっ」
イサキオスは高い声をさらに高くして、かれをなじった。
「この不忠義者め……そもそも、おまえたちの力が足りぬから、このような事態になったのではないか! にもかかわらずなぜ、この予の方が財を捨てねばならぬのか」
そのあとは、もはや無意味な空論を繰り返すばかりだった。
正論が通じる相手ではないことは、わかっていた。皇帝を僭称した時から、すでに。義務として進言しただけだったのだ。そうせずにはいられない性格であることを、ラスカリスは自分でもよく知っていた。
イサキオスは、まだ怒鳴り散らしている。イェルサレム総大主教エルキュールという人物も、さぞかしこれに似ているのだろうなどと、ぼんやりと思った。
結局イサキオスはだれのことばも聞き入れず、リマソルの北、およそ八キロの地点で野営を張った。危険を進言する部下はあったが、やはりイサキオスは聞き入れなかった。
「たとえ今日リマソルを落とすことができても、街全体の鎮定にはしばらくの時間がかかるはずだ」
得意顔で、イサキオスは説明した。ラスカリスは思った。能なしほど自分の才能を信じていることが多いものだ。このひとはその典型だ。
そして案の定、破滅はその夜に起こった。
大量の財物を抱えて野営をしていたために、リチャード側の斥候によってその場所をたやすく発見されてしまったのだ。
そののち、イングランド陣営において――
斥候の報告を受けたリチャードが、号令を発するよりも先にみずから馬に飛び乗り、敵地に向かって駆けた。
将兵があわててその後を追う。
まさに電光石火の急襲となった。
二千のイサキオス軍に対して、リチャードはみずからの一身を先頭にして突撃したのだ。
このときのリチャードにつきしたがっていた騎士は、驚くべきことにわずか五十人であったと伝えられている。部下にして書記官のヒューゴ・ド・ラマールという人物が、さすがにその危険を諫めたのだが、リチャードは確信を持った声で、
「書記官よ。おまえのなすべきは、戦うことではない。戦いを記すことだ。おれのなすことを、すべて見ておけ。そしてそれを、正確に記述せよ」
と応じたという。一喝された書記官ヒューゴだったが、かれも逆に鳥肌のたつような興奮と憧憬をおぼえたと記されている。
一方のイサキオス側陣中は、そのたった五十の兵によって大混乱に陥った。
ここに至ってまだイサキオスは積み荷を運び出す指示をさけんでいたが、そのような命令を聞く者はすでにいなくなっていた。将兵は我先に逃げ出そうとし、後ろから押されて倒れ、後続の兵士たちに踏みつぶされた。もはや、組織は成立していなかった。
――もう、だめだ。
ラスカリスはこころにそう洩らした。むしろ清々しい気分になって、かれはさけびのたちのぼる戦場を眺め見やった。声の大きさから、リチャードらの居場所をおおよそ感じ取ることができた。
そこに向かって、走る。
すでに義務感はなかった。義憤も忠義もない。おそらくは、自暴自棄と言えた。そうしたことを考える気力もなく、ラスカリスは無思考のままに敵のもとへと走った。
兵の波をかき分けた。
散ってゆくその波の中心に、敵はいるはずだ。そして、おそらくはリチャード獅子心王自身も。ラスカリスは途中で馬に飛び乗り、英雄として名を馳せる王に一刀を浴びせようと、中心に向かって突撃した。
ほどなく、赤い髪の男が見えた。長身で、雄大だった。敵を左右に斬り伏せ、なお動じることなく直進している。敵陣を切り裂く赤い光。
「リチャード王かっ!」
ラスカリスは叫んだ。獅子の緋いひとみが、かれをとらえた。心臓が跳ね上がった。
「おれはあなたに挑むっ」
ほう、という動きとともに、唇に微笑が浮いた。かまえる様子も見せぬ余裕だった。明らかに愉しんでいる。侮辱を感じるよりも先に、圧倒された。
ラスカリスは馬を突進させた。一撃に懸けるつもりだった。王の部下たちは、だれもあいだに割り込もうとはしなかった。王の実力への信頼があるのだろう。あるいは、一騎打ちに水をさして、王の怒りに触れるのをおそれているのかもしれない。
リチャード王の前まで進んだ瞬間、馬の背から跳んだ。まともに剣を合わせてもかなう相手ではない。全体重を乗せた一撃で、かれを鞍上から突き落とす。それが目的だった。
リチャードの頭上で、剣が嚙み合った。夜の闇に火花が散った。いきなり跳びかかるなど、予想外であるはずだった。しかし、王の剣はラスカリスひとりの体重を支えてなお、不動だった。
「よい目論見だ。力もある」
微笑を崩さず、リチャードはそのようにつぶやいた。そしてそのときにはすでに、ラスカリスはかれの力によって弾き飛ばされていた。地面に頭と背を打ち、息が詰まった。
イングランドの騎士たちが、周りに駆け寄る。
「捕らえておけ」
リチャードはかれらに命じた。
「この者以外は、生かしておく必要はない。すべてころせ。鏖にせよ」
そのことばじりは意識へと溶け込み、ラスカリスはそのまま気をうしなった。
ふたたび目を開いたとき、前にはあの獅子心王が静かに座していた。薄暗い天幕の中だった。蠟燭の明かりが、獅子のたてがみをさらに赤く映していた。
ラスカリスの左右にあった騎士が下がった。気をうしなったかれをここまで運んできたかれらは、任を果たしたといった様子で背後に佇立した。
「予はひとを求めている」
イングランド王リチャードは、刺し貫くように言った。
「おまえは優れた騎士だ。島に埋もれさせるのは惜しい。わが軍に加わり、聖都を奪回する戦いにのぞむがよい」
相手の意志を確かめることもしない強靭さが、語気にあふれていた。燃える烈火の清冽な美しさをラスカリスは感じた。
しかし、かれはそれに反発した。どこか違和感があった。自分の裡にあるくるおしい隙間を埋めてくれるひとは、この王者ではない。そんな確信めいた感覚があった。
「……申し訳ありませんが」
ほとんど無意識のまま、ラスカリスは即座にことばを返した。
「おれはこれからも、あなたと戦うことになるでしょう」
自分でも、意外に感じた返答だった。おれはいったい何を言っているのだろう。みずからの意志やのぞみを、正確に摑むことができなかった。
「なおこの上、予に挑み続けると言うか」
「……はい」
「何故だ。イサキオスへの忠義か。騎士としての矜恃か」
どちらも正しくないことは明らかだった。忠義、矜恃――そうしたわかりやすい思いがあるのなら、もっと気が楽だった。
けれども、違う。
ならば。その理由はひとつとなるのに違いなかった。
「サラディンのもとに、あなたを倒す意志を持ったひとがいる」
思えばこの四年近くのあいだ、考えていたのはそのひとのことばかりだった。ただ一度の出会いと、ほんのわずかの会話。それだけをあいだに持っただけの関わり合いだった。しかし、残った印象はどこまでも深かったのだ。そのことばやすがたは夢の中まで反響し、いつも耳やまぶたに寄り添っていた。忘れようとするほど、こころを占める思いは大きくなった。
「そのひとは、あなたを倒すだけの力も持っている。おれは、そのひとのところに行きます」
かれに関する情報は、日頃から集めていた。聖都を落とすまでの活躍。またそれ故に、現地のキリスト教徒から、非道と裏切り者として罵られていること。不徳の象徴として、ひとびとの間でにくしみとともに語られていること。すべて、耳にしていた。
そしてその戦いぶりを分析して、自分の印象が誤っていなかったことも確信していた。かれはおそるべき非凡を持っていた。サラディンという英雄の力を借りれば、かならずリチャード王とも渡り合うことができると信じている。
だが、寂しげな目をしたひとだった。ラスカリスは思い出す。自分に拒まれて、かれはひどく悲しい顔をしてこの地を去って行った。そういうひとだった。謝らなければいけないと、ずっと思っていたのだ。
「ほう。おまえほどの人物にそれだけのことを言わせる男が、まだいたのか。何者だ」
「かつてキプロスの痴人と呼ばれてさげすまれていた人物……あなたとは、正反対の生きかたをしてきたひとです。いずれかならず、あなたと対立することになるでしょう」
「……よかろう」
獅子の王は、激することもなくこたえた。
「ありきたりだが、面白いと言っておく。予はサラディンと闘うためにこの地に来た。なお人物がいるのならば、感謝せねばなるまい。好敵手はなかなか求めがたいからな」
リチャードは魂の愉悦を味わっている。それがラスカリスにはわかった。やはりかれは、闘争のみを愛するひとだった。
「ひとつの面白みを予にあたえた褒美として、そののぞみはかなえてやろう。本来ならば、拒めば斬っているところだ」
言うと、かれは背後の騎士に対して目配せした。天幕の入り口を開けさせ、そしてラスカリスをうながす。
「去れ。そしてその男に、このリチャードの印象を伝えておくがよい」
ラスカリスは天幕を出た。覇王であると伝えねばならぬ義務が生じた。伝え、危険を知らせなければならない。
しかしその義務は逆に、はじめてかれによろこびをもたらすものでもあった。
13
イングランド王リチャードとナヴァール王女ベレンガリアとの結婚式は、島内の制圧がほぼ完了した五月十二日より執りおこなわれた。当初は、聖都イェルサレムを奪回したのちに、その地でおこなわれる予定だった式である。しかし、アレー姫との婚約破棄によるフランス王フィリップとの関係悪化を考え、シリアに赴く前に済ませておくことをリチャードは決断したのだった。フランス王の影響は排除したいが、必要以上に感情を刺激することも避けたい。そうした事情が背景にある。また、ちょうど四旬祭の斎も終わった頃で、式を挙げるにはよい時機でもあった。
三日間にわたった挙式は、王者にふさわしい華やかなものだったと伝えられる。リチャードは薄桃色の外套をまとい、金の鞍を乗せた軍馬に騎乗して式場のセント・ジョージ教会に入った。そこで白銀のドレスを身につけたベレンガリアを迎え、神の前で婚姻の契約を交わした。
ただ、両者とも、その表情によろこびの感慨が浮かぶことはなかった。リチャードには配偶者への愛というものに興味がなかったし、また、妻となったベレンガリアもそれは同じであるようだった。実際に、このふたりのあいだには、この先も子が生まれることなく終わるのである。
結婚式のあと、リチャードは妻の寝所を訪れることもなく、島内を平定する戦いに駆け回り、そしてそれが完了するや、すぐにシリアに向けて出発した。かれにとって、興味の対象は闘争のみだったのだ。
よって、かれがはじめて妻ベレンガリアとまともにことばを交わしたのは、あろうことか、挙式から一ヵ月近くも経った船上でのこととなった。船上ではさすがに戦闘に赴くことはできないため、そのときになってようやく妻のことを思い出したらしい。
定員が千人を超える巨大なドロモンド船の一室で、リチャードは妻ベレンガリアと対面していた。これが妻の寝所を訪れたはじめての機会ということになる。
ベレンガリアはこのとき十七歳で、ちょうどリチャードの半分の年齢だった。整った顔だちをしているが、肌はやや浅黒く、目は半眼で、どこか薄暗い雰囲気をまとった娘だった。冷たく、黒い大気をまとわせているような印象がある。
「そなたのおかげで、シリアに上陸するのが二ヵ月ほども遅れた」
女に言っても詮ないことだが、とリチャードは容赦なくつけ加えた。そういう男である。かれにとって、妻の寝所を訪れることは義務以外の何ものでもなかった。
だが、ここで王女ベレンガリアは、リチャードがまったく予測していなかったことばを返した。
「わざと遅れていただきました」
「……なに」
獅子心王の紅眼が光った。屈強な騎士もたじろぐ炎をふくんだまなざしだ。しかし、ベレンガリアは静かに椅子に座ったまま、髪の端をゆらがせることもしなかった。
「イサキオスに抑留されたとき、その気になれば逃走することも不可能ではありませんでした。しかし、わたしの意見で陛下をお待ちすることにいたしました」
「どういうことだ。白馬の王子に救われることでも期待していたのか」
ベレンガリアはゆるやかに首を振った。肌と同じ色の髪が、無表情の横顔をわずかに覆い隠した。
「陛下が十字軍を率いられるにおいて、いまキプロスを押さえておくことは必須と思われたからです」
ああいうことがなければ、陛下はそのまま通過してシリアに向かわれていたでしょう。そのようにベレンガリアは、その低く暗い声で説明するのだった。
「女が戦略を語るか」
しかし、リチャードは興味をそそられた様子でベレンガリアを見やった。女は愛さないが、才は愛する。そういうことだった。
「考えるところを申してみよ。何故、あえておれをキプロスに呼んだ」
「キプロスをそのまま通過していたならば、陛下は確実に敗れていたことでしょう」
リチャードの怒りを誘うようなことばを、まったくの無表情で王女ベレンガリアはつむいだ。まとっている薄暗い雰囲気が、ますますその黒ずみを濃くしていた。
「どういうことだ」
「ヴェネチアなどの北イタリア都市からの補給は、信頼するべきではありません」
知識を誇るでもなく、ベレンガリアはごく日常のことのように淡々と話している。
「サラディンはかれらにも手を回しています。資材の輸出入に関して便宜をはかり、かれらとひそかに通じようとしているのです。やはり一級の政治家と言えるでしょう」
「通じた上で、わが後方を遮断しようとしている、か」
「情報を得るという目的もあるでしょう。そしてイタリア諸都市は、二重外交でそれに応じているのです」
先年のフリードリヒ赤髥王の死もそのあたりと関連しているのかもしれない、とベレンガリアは静かにつけ足した。
「キプロスを落として足場を固めておけば、さしあたって補給の心配はなくなります。そうした理由で、二ヵ月の時間をいただきました」
リチャードはいまや身を乗り出して、この年若い王女を見つめていた。
「面白い女だ」
ベレンガリアはこたえなかった。即物的なことにしか興味がないようだった。
「しかし何故、おれの手助けをする。妻の義務か。愛とでも言うか」
「いいえ」
明確に語尾を区切って、ナヴァールの王女はそれを否定した。表情のひとつも動かさない暗闇は、やはりそのままだった。
「わかりきった理由でわかりきった結末となるのは、面白くありませんから」
意外なことが起こったほうが面白い。そのように十七歳の王女は言うのだった。聖都の奪還もひとの愛も目には映さず、ただ闘争を愉しみ眺めやるその態度は、人間として失格であると言えた。しかし、その異様な人格の欠け方が、リチャードは気に入った。
かれは妻に告げた。
「おれは決めた。これより、おまえは男子となれ」
はじめて、ベレンガリアの眉目にかすかな動きが生じた。不審を示す表情だった。
「常に男のすがたをせよと言うのではない。鎧を纏って戦場について来いということだ。おまえは、おれに欠けているものを持っている。戦略だ」
「それは別に構いませんが」
ベレンガリアはおどろくでもなく応じた。すでに顔は無表情に戻っていた。
「後世に、リチャード王は男色に溺れていた、などという記述が残ることになるかもしれませんよ」
「のちの世の評判まで心配していて、大事がなせようか。騎士の誇りは、みずからの裡に持っておればよい。ひとに動かされるのは真の誇りではない」
ベレンガリアの口もとに、ほんのわずかの微笑が浮いた。あきれでもありさげすみでもあり、あるいは愛でもあるような、やはり薄暗いほほえみだった。
翌日の六月六日、リチャード獅子心王は妻ベレンガリアを伴ってアッカ北方のティールに上陸した。そしてその後フランス王フィリップとあらかじめ打ち合わせていた通り、素早くアッカ方面に南下して包囲軍に加わった。
アッカ周辺におけるキリスト教徒側の陣容は以下のようになった。
フランス軍はアッカの東から東南に伸びる道を遮断し、現地キリスト教徒軍はアッカ北に陣取る。リチャード獅子心王は、東と南に位置するサラディン軍と対峙し、その突入を防御する。さらには、アッカが面する西と南の海には英仏の艦隊があって、アッカへの補給を断っている。
第三次十字軍によるアッカ攻囲陣が、これにより完成した。
14
「商人というのは、なかなかえげつないものだな」
城壁から敵の攻囲陣を見下ろしながら、ヴァレリーは傍らのエルシードに向かって言った。この期に及んでまだのんびりとした話しぶりだった。
「なんのことじゃ、だしぬけに」
「いや、フィリップ尊厳王やリチャード獅子心王が、海路を来たことだよ。われわれは陸路を来るという情報を得ていたのに、騙されていたわけだ。北イタリア都市の商人にね。しかし、フリードリヒ赤髥王のときは、おそらくは正確な情報をこちらに手渡して、かれを暗殺させた。なんていうか、見事なものだと思うよ」
「何を言っているのか、さっぱりわからん。なんでそんなややこしいことを、イタリア商人がするのか」
「かれらは基本的に、戦争が泥沼化して長引いてほしいわけだよ。そうなると、物資を売る者は儲かるからな。いつの世も同じことだ。でも、十五万もの兵を率いるフリードリヒが無事この地まで来てしまっては、あっという間に戦争は終わってしまう。かれには死んでもらわねばならなかったわけだ」
「……イングランドとフランスなら戦いは長引くだろう、ということか」
「戦力的にはそういう評価をくだしたということだろう。けれど、それは尊厳王と獅子心王の能力を低く見積もりすぎだと思う。フリードリヒの十五万よりも、フィリップとリチャードの十万のほうが、よほど手強い」
攻囲陣の完全さを評するまでもなく、その目算は正しいと言えた。いや、たとえ率いる者が尊厳王と獅子心王でなくとも、十万の兵を相手にするのは難しいことだった。サラディンの動員できる兵力は、多く見積もって五万ほどである。おそらく北イタリア諸都市は、戦闘には強いが戦略的思考に欠けるリチャードがキプロスを征服する可能性というものを、考慮していなかったのだろう。すなわち、背後を遮断されたリチャードの十万とサラディン軍が拮抗する、と計算していたのだ。
だが、リチャードはキプロスという格好の補給地を入手した。
背後を遮断される危険がなくなった。
この一点で、サラディン軍は一挙に窮地に陥ったとさえ言えるのだ。サラディンの深慮、イタリア諸都市の計算、それらの前提がいきなり壊された。天秤の拮抗を崩したのは、ヴァレリーらはまったく与り知らぬことだが、リチャードの妻となったひとりの王女であった。
「そうか……面倒なことになったな。しかし、過去の分析などはもはや、どうでもよい。商人の目論見など気にしている場合ではなくなった。これからのことを考えねばならぬ」
「そうだね」
「軽くこたえている場合か! なんとかしろっ!」
「と言われても、俸給もなし、休暇もなしじゃ、やる気がでないってもんだよ」
エルシードが冷やかにかれを睨んだ。問答無用の顔つきをしている。奴隷あつかい、家畜あつかいの待遇は、どうやら変えてもらえそうになかった。
「もうすでに何か考えがあるのじゃろう。話せ」
「いや、具体的なことはまだ何も考えてないんだけど」
「では抽象的なところを話せ」
「うーん……敵がひとりではなく、ふたりであるということかな」
確かに抽象的なことばだったが、エルシードはすぐに理解した。獅子心王と尊厳王の仲は、決して親密というわけではない。その狭間を利用する。そういうことだ。
「イングランドのリチャードとフランスのフィリップは、潜在的な敵同士じゃ。それが手をつないでいるように見せかけているだけであるから、つけ込む隙があるかもしれぬというのはわかる。しかし、ふたりのあいだの溝は、守備隊の兵三千が通れるほどに広いであろうか」
「それを広げる方策を、これから考えるのだよ」
なんとかなる、という口調だったが、そうした態度ほどの余裕はないようだった。当然のことだ。ふたりの英雄を相手にしてもなんら不安に思わない、というのであれば、それは余裕ではなく、ただの無思慮だ。
しかし、それをヴァレリーは面には一度も出さなかった。演技はできないかれだが、覆い隠す巧みさは具わっているようだった。
都城の城砦へとふたりは道をたどる。
城門近くまで戻ったとき、ひとりの兵士がかれらに駆け寄ってきて報告した。
「アル=アーディルさま、ビザンツ帝国の使者という者が訪ねてきております。お会いになられますか」
一介の白人奴隷に敬語を使うというのも、客観的に見れば奇妙なものだった。何しろ、首輪をつけられて引き回されている身分なのだ。しかし、かれらのあいだではそれが日常となっていた。
「ビザンツの?」
「はい、ラスカリスと名乗っておりますが」
ヴァレリーの口もとが奇妙な形に動いた。それまでには見せたことのないかれの表情だった。
狭い一室に通されたあと、ラスカリスははじめて何を話せばよいのか迷った。
自分は、この四年のあいだずっと、あのときに投げかけられたことばのことを考えてばかりいた。しかし、向こうはそうではないわけで、自分のことなど憶えていないかもしれないのだ。そう思うと、自分がここに来た理由を説明するのは非常に難しいことのように感じられた。疑われるに決まっている。
何せいまは、戦いの直前だ。間諜だと決めつけられても仕方がない状況なのだ。アッカは厳重に包囲されていて、ほんのわずかな失策も許されない状態となっている。そんなところに、四年もむかしのことを持ち出して、そのときのことばが忘れられませんでした、などと告白してどうなるものか。信用されないのは当然のことだ。
ただ。
それでもいいと思った。あのひとはたったひとりの理解者を自分に求めようとして、しかし自分はそれを冷たく拒んだ。それを素直に謝ることができれば、十分だと思う。自分は謝りにきたのだ。あとのことは、なんとなくどうでもいいように感じられた。
扉が開いた。
隠者のようなムスリムの長衣を身につけたかれが、ひとりの少年を伴って部屋に入ってきた。服装からして、少年はかなり高い身分にある人物と思われた。
「ラスカリス……」
戸惑いが語尾に含まれていた。どう話しかければいいのかわからずにいる様子だった。しかし、自分の名前を憶えていてくれたという一点で、ラスカリスは安堵の吐息をついた。
「お久しぶりです」
「……ああ」
何者であるか、と少年がヴァレリーに尋ねた。キプロスで世話になっていたひとだとかれがこたえると、少年は生返事とともに不機嫌そうな表情を見せた。どうも、子どもが親戚の青年になついていて、その青年が他人と仲良くしているとそれだけでたちまち気分を損ねるような、そんな印象をラスカリスは受けた。
「ビザンツ帝国の使者と聞いたが、どういうことだ?」
「それは、ここに入るための方便でした。申し訳ありません」
ラスカリスは詫びたが、どのように説明すればいいのか困った。ヴァレリーは少し首を傾げて、よくわからない顔をしている。何故か、ふしぎな微笑ましさがある。かれが持っている独特のやわらかい雰囲気だった。緊張が和らいだ。
「あなたを追ってきたのです」
ことばを少し誤った。ヴァレリーはぼんやりとしていたが、傍らの少年の方が身を硬くした。脱走したヴァレリーを暗殺する使命を受けている、と思われたのだろう。
「いえ、その……おれもあなたとともに、サラディンに仕えたいと思ったのです」
「え……」
おどろきの反応は、やはりおだやかだった。
「キプロスが滅んで、自暴自棄になっているわけではありません。リチャード王に復讐したいと考えているわけでもありません。ただ、あなたの仰ったことが、頭に残って離れなかったのです」
正確に言うならば、ことばよりもその声とすがたのほうがより強く残っていた。おどおどとしておびえながら、なお行くとかれは言った。そのおびえと、拒まれたときの寂しげな表情が、ずっと罪悪感とともにこころに浮いていたのだった。
「……ありがとう」
疑うことをしらないおさなさ、というふうにラスカリスには聞こえた。見れば、愚かにもぼろぼろとひとみからよろこびを零しているではないか。
ああ、だめだ、とラスカリスは思った。このひとはだめだ。こんなに簡単に信じるようではいけない。キプロスのときと同じように、自分がそばについていなければ……。そんな奇妙な義務感がたちのぼった。
そばにいる少年の顔色が、少しだけ変化した。
「この者を登用しろと言うか」
機嫌の悪そうな語気はもとのままだった。
「ああ。最初は兵卒として働いてもらう」
「おまえが決めるな。ただの白人奴隷のくせに」
事情はよくわからなかったが、このひとは奴隷として働かされているようだった。それはあまりにひどい待遇だと思った。聖都を落とすまでの活躍も、アッカ防衛における尽力も、情報としてキプロスまで伝わっていた。そうしたひとが、奴隷として扱われるのは理解できない。
とはいえ、ヴァレリー自身はどうもそれをよろこんで受け入れているようにも見えた。
「だが、確かにおまえよりは使えそうなやつじゃ。剣は得手とするか」
少年はギリシア語でラスカリスに尋ねた。なまりもない美しいことばづかいだった。
「一通りは使えると自負しています」
「……よかろう。このあとわたしが試験をしてやることとする」
「ありがとうございます」
自信と、少年へのあなどりとともにラスカリスはこたえた。
かれが自負の鼻を折られ、少年がじつは王妹であることを知り、そしてサラディン軍の兵卒として登用されることが決まったのは、この直後のことだった。
15
露台から釣り糸を垂れるかれを見て感じるのは、どういうわけか懐かしさなのだった。以前、かれがキプロスにあった頃、同じように意味なく釣り糸を垂れているすがたをラスカリスはよく見かけた。そのとき持っていた感情と、いまの思いとはまったく異なっている。しかし、やはり懐かしいのだった。
「キプロスでもよく、そうしてましたね。針もつけずに糸を垂れたりして」
「ああ。こうしていると、いろいろと考えがまとまって便利なんだ」
だが、ぼんやりとしているかれの表情は、どうも何かを考えているようには見えない。不安にもなる。
「獅子心王と尊厳王のあいだの隙を利用する、とのことですが、何か案は浮かびましたか」
「いや、難しいね。というかやっぱり無理かもしれないな」
ゆるやかにそうこたえるのだった。ラスカリスは、少しずつわかってきた。痴人と呼ばれてぼんやりとした生活を送っていたこのひとだが、あれは演技であって演技ではなく、確かにこのひとの有りようの一部だったのに違いない。だから、懐かしさを感じる。
そもそも、こういうひとなのだ。
「では、どうなさるおつもりですか」
心配性のラスカリスは少し問い詰めるようになって、かれに尋ねた。状況は、日に日に逼迫してきている。食糧の備蓄も、多く残っているわけではない。
「どうしようもないときは、何もしない。ただ、獅子心王と尊厳王のあいだのほかにも、隙はもうひとつある。何かほころびや動きがあったときに、そういったものを衝く。考えているのは、それだけだよ」
「もうひとつの隙、とはどのようなものなのでしょうか」
「尊厳王も獅子心王も、英邁なひとだ。だが、北を押さえている現地キリスト教徒軍は、そうではない。智の差は、そのままで隙となる」
このひとは、何も考えていない顔で急に鋭い指摘をする。だから驚く。ずるい、ともラスカリスは思う。
「なんにせよ、これだけの包囲陣を相手に、この先ずっと持ちこたえることは不可能です。少なくとも、食糧の補給をどうにかしないと……」
「いや、持ちこたえる必要はないな」
やはり唐突に、奇妙なことを言うのだった。それをたどることは容易ではなかったが、愉しいことでもあった。
「アッカを死守するつもりはない、ということですか」
「そうだね」
なんでもないことのように頷いた。つまり、アッカを何がなんでも守るということはせず、守備隊を脱出させることを目的とするということだ。人道的な判断ではある。しかし、サラディンに託された義務を、そう簡単に放棄していいものだろうか。こうした場合、王は厳しい罰をくだすことが多いだろう。
「陛下は、ひとつの土地よりも、守備隊の命を優先する方だ。死守して全滅するのは、その御心にかなうことにならない」
「……そういう方なのですか」
「そういう方だよ」
ヴァレリーは遠い東のかなたを見やってこたえた。このひとにそう言わせるサラディンという人物を、ラスカリスは一度見てみたくなった。
「守りきることは無理だ。でも、逃走するだけなら、何か方法があるに違いない。何か動きやほころびがあれば、ね」
そこまで言ったところで、ひとりの兵士が部屋に入ってきて報告した。
「アーディルさま。先ほどあやしげな侵入者を発見し、捕らえたのですが……いかがいたしましょうか」
「まあ、侵入者というものは、たいていあやしげだろうとは思うけれども……。どういう者なんだ?」
「いや、その……まあ、直接お会いになったほうが早いと思いますので、お連れします。ヴァレリーに会わせろと言うばかりで、それ以外には何も口を開こうとしないのです」
「なるほど」
ヴァレリーはラスカリスの顔を眺めやって、首を傾げた。何かあると少しばかり首を傾げるのは、かれの癖のひとつだった。
「じゃあ、連れてきてくれ。怖いひとだったら嫌だから、ちゃんと用心してくれよ」
意気地のないことを言って笑わせるのも、やはりかれの癖だった。このひとが剣を使えるのを知っている者は、守備隊の中にはおそらくいないのではないかと思う。
「だいじょうぶですよ、たぶん。あなたも、そこまでダメじゃないと思いますし」
そう言い残して出て行った兵士が連れてきたのは、西洋人の少女だった。旅装をした民間人と見える。年齢は十五歳ぐらいだろうか。確かに、警戒は必要ないかもしれなかった。
「わたしはヴァレリーというひとに会わせろって言ったのよ! こんな弱そうなやつに用はないわ!」
ふたたび首を傾げるヴァレリーを見て、ラスカリスは笑いを誘われた。
「どうも私は、こういうはねっかえりと関わりあいになるよう祟られているのかもしれないな」
耳打ちするようにヴァレリーが感想を洩らした。エルシードが聞いたら、その場で激怒しただろう。たまたま席を外していて幸いだった。
「ヴァレリーというひとがここにいるはずよ! 会わせて」
「……私がそのヴァレリーだ。いまはアル=アーディルと呼ばれている。で、なんのためにわざわざ、危険を冒して私に会いに来たんだ? 私はきみの顔も知らない」
少女はあからさまに疑わしげな視線をヴァレリーに送り込んだ。無理もない。ヴァレリーという人間についての噂は、キリスト教徒のあいだで装飾が過剰となっていて、すでに現実とかけはなれてしまっているのだ。悪鬼。鬼畜。そうした噂は、キプロスにいたときにラスカリスもよく耳にした。
「ヴァレリーというひとは、雲をつくような巨漢だと聞いている。本人を出して!」
想像以上のはねかえりぶりだった。エルシードとはまた違った元気さと騒がしさだなとラスカリスは苦笑を胸に押し隠しながら思った。
「ヴァレリーがそのような巨漢であれば、私のような者を影武者に選ぶわけがないだろう。それに、このアッカに西洋人がそう何人もいるわけはない」
「噓よ、あなたのようなボケッとしたひとが、ヴァレリーであるはずがないわ」
「……まあ、私が影武者だとしても、そっくりそのまま伝えるから、本人と話しているのと変わらないだろう。そういうことにしてくれ」
「絶対に、わたしの言うことをそのままヴァレリーに伝えてくれる?」
「……確かに伝えるよ」
説得することの無駄を感じたらしく、ヴァレリーは諦めたように軽いため息をついた。
「じゃあ、話すわ」
そして、このエメラルドのひとみをした娘のことばが、憂いを開くきっかけをヴァレリーにあたえたのだった。かれが待ち続けていた動きとほころびが、ようやく訪れたのだ。
「そうか、よくわかった。では二日後の夜、ヴァレリーさまにそちらへ伺うよう、私から申し上げておくよ」
ヴァレリーは満足そうに冗談らしいことを言い、女を帰らせた。そしてふたたび露台に出て、釣り糸を地面に向かって垂れるのだった。考えをまとめている様子だった。
深夜に至るまで、それが続いた。具体的な話をようやく聞くことができたのは、もう朝も近い頃のことだった。
二日後の深夜、アッカの城門からこっそりと出て行こうとする二個の影があった。言うまでもなくヴァレリーとラスカリスである。
「あれからよく考えてみたのですが、やはり罠ということは考えられませんか」
「いや、それはないだろう」
ヴァレリーの声はかなり自信ありげだった。
「その自信の根拠を教えていただければありがたいのですが」
「なんとなくそんな気がする」
「……智者とか鬼畜とか言われるようなひとのことばとは思われませんね」
ラスカリスは常識を述べてみたのだが、かれ自身、罠の可能性を心中では否定していた。そのため、それ以上問うつもりはなかった。ヴァレリーが娘ひとりの虚実を見抜くことができない、などとは、いまのラスカリスにはどうも考えられないのだった。信頼というよりは思考停止だな、とは反省する。
「それにしても、深夜に女性に会いに行くなどとエルシードさまに知られたら、たいへんなことになりそうですね。やっぱりこのことは話されなかったのですか」
「いや、じつは今日話した。不義だなんだとなじられて大変だったぞ。そのうち自分も行くと言い出したり……。でも、いろんな意味であれほど目立つひとはいないから、時間を偽って逃げてきてしまった」
そういえば、首につながれた紐がない。想像するに、勝手に外出しないよう柱にでもくくりつけられていたのを、自分で外して逃げ出してきたのだろう。
これはえらいことになりそうだ、とラスカリスは思った。
「あとで血の雨が降りそうですね」
「ああ、いまごろはさぞかし激怒しているだろうな……。あとのことはきみに任せるよ」
「そんな。怒らせたのはヴァレリーさまなのですから責任をとって下さいよ。おれはあなたのように、殴られることに慣れてませんし」
ラスカリスはかなり本気でおびえていた。アッカに来て間もないのだが、エルシードがヴァレリーのことで怒ったときの怖さは、すでによく知っている。少し前のことだが、何かのきっかけで激怒した王妹が素手で何本もの剣をへし折っていたものだった……。
そんな会話を交わしながら、闇夜を北に進む。
ほどなく、キリスト教徒側の兵およそ二百ばかりの集団が野営をしているところに近づいた。現地キリスト教徒軍の本陣からは、しばらく離れた位置である。
あの少女の話に噓がなければ、この小隊の隊長は……。
「よう、久しぶりだったな。やっと借りを返すときが来たようだ」
顔を覆い尽くすような髭の下から、豪快な笑い声が湧いた。男なりの歓迎のことばであるらしかった。四年前、ベイルートから脱出したヴァレリーとエルシードを襲った、あの巨漢ギュネメーだった。
「モンテフェラート侯コンラードの密命により、おれとおれの手下二百人。揃ってあんたのために働かせてもらう」
モンテフェラート侯コンラード。
ヴァレリーがギュネメーに一時身を寄せることを勧めたビザンツ帝国の臣。
そしていまは、現地キリスト教徒軍に招かれてティールを奪い、そのあるじとして治めている男だった。イェルサレム王国の次期国王として、諸候から期待されている人物でもある。
ヴァレリーはかれを知っている。敵ではない。しかし、味方でもない。かれがこちら側と直接のかかわりを持つことになるのは、しばらく後のことになるだろう。そうした事情の一部はラスカリスもすでにかれから聞かされていた。
また、一部の現地キリスト教徒諸侯がイスラム側に協力するというのは、じつはさほどめずらしいことではない。権力争いの中で、近い敵を倒すために遠い敵と結ぶことは、よくある構図だからだ。過去にも、かつてのイェルサレム国王アモーリーが、サラディンを抑えるためにエジプト・ファーティマ朝と手を携えて戦っていたことがあった。
モンテフェラート侯コンラードという男も、それに近い意図を持っているのだろう。何かの目論みのもとにかれは、ギュメネーらをこちらに送り込んだ。ラスカリスはそのように理解した。
「おい、ルイセ。ぼうっとしとらんで、挨拶ぐらいしたらどうだ」
ギュネメーの隣で呆然としているのは、二日前ヴァレリーのもとにあらわれたあの少女だった。ヴァレリーが本物であったことを知って、混乱しているらしい。
「ひどい、お兄ちゃん。ヴァレリーというひとは噂どおりのすがただから、会えばすぐにわかるって言ってたじゃない」
どうやら、このふたりは兄妹であるようだった。その後もルイセと呼ばれた少女はかなりあわてた様子で兄を糾弾していたが、それをぼんやりと見ていたヴァレリーに気づいて真っ赤になり、しどろもどろの口調で言った。
「あ、あの、この前は失礼しました。あなたがヴァレリーさまだとは知らなかったものだから……ごめんなさい」
狼狽して頭を下げているすがたがなんともほほえましかった。ヴァレリーも同じだったらしく、いたずらをふくんだ笑みを浮かべてかれは少女をからかった。
「私の名前は何度か言ったはずなんだがな……」
「……ごめんなさい!」
「ふふ、冗談だよ。それよりも本題に移ろう。ラスカリス、頼む」
「はい」
ラスカリスはヴァレリーに代わり、ギュネメーらに対して説明をはじめた。
「まずおまえたちにやってもらうのは、偽の情報を流すことだ。五日後の夜に、アッカにいるキリスト教徒の捕虜が脱走し、城内に火をかける、ということをな。おまえたちのうちだれかがアッカから脱走してきた捕虜を演じてくれ。そして、城内はすでに疲弊し、秩序がうしなわれつつあって、脱走は容易な状況だと信じさせろ。東を守るフィリップ尊厳王にも同じ情報を流してくれ」
「それはたやすいことだが、わざわざ両方に知らせてやらねばならんのか」
「ああ。ただし、尊厳王の方には、情報を信じさせないようにする。烏合の衆である現地キリスト教徒軍に偽の情報を信じさせるのはたやすいが、尊厳王をあざむくのは困難だ。ゆえにこれを逆手にとるわけだ」
「それでその後おまえたちはどうするんだ?」
わかっているのかわかっていないのか不分明な顔つきでギュネメーは尋ねた。ラスカリスはやや心配になる。
「……北の現地キリスト教徒軍が、情報に踊らされて城門に殺到した際、これを混乱に陥れる策については、すでにこっちで用意してあるので心配しなくていい。東の尊厳王は情報の虚偽を確実に見抜くであろうから、まず罠を恐れて、東門に襲いかかることはしない。しかし北門における敗北を知り、それに乗じてわれわれが脱出することを予測したならば、急ぎ北に直行することは間違いない。そこでわれわれは尊厳王が去った後東門から突出し、かれが残しているであろういくらかの兵を一挙に突破し、脱出する」
「なるほど、な。まあややっこしいが、要するにおれたちは、もうすぐ城内で一騒ぎ起きるんだって噓をつけばそれでいいんだな?」
この男、おそろしく端的にしか理解してないな。そのようにラスカリスは感じたが、ヴァレリーは何も心配はしていないようだった。単純な理解があればそれでよいと見ているらしい。だが、心配性なラスカリスは、とりあえずもう一度だけ注意をあたえた。
「その通りだが、おまえたちが注意すべきことは、その噓を尊厳王に見抜かせようとして噓を噓っぽく話してはならないということだ。北の現地キリスト教徒軍と東の尊厳王、そのどちらに対しても、同じくらい信憑性の高そうな情報を流してくれ。これは両者の智力の差を利用する策だ。変に尊厳王を疑わせようと努力すれば、逆にこちらの意図を感づかれるおそれがある」
「わかってるって」
楽観的な返事を聞くと、胃が痛くなった。が、ヴァレリーの方を見ると、やはりあまり心配はしていない様子だ。うらやましいとさえ思ってしまう。だが、ラスカリスは、かれらほど気楽に物事を見るということができないのだった。
「だといいのだがな……」
不安を洩らしたが、ヴァレリーのほうは、にこりとしてルイセに声をかけた。
「あとはきみに頼んだぞ。しっかりこの男を監督しておいてくれ」
「え、あ、はいっ!」
兄よりは理解力がそなわっていそうな妹に、かれは任せたらしい。ルイセはそれを想像以上によろこんでいるようだ。意気込んだ表情を見せている。
しかし、その程度のことで安心していていいのだろうか、ともラスカリスは思うのだった。
「それにしても、まったく変わったやつだ。得体のしれんやつの言うことをあっさり信じてのこのこやってくるとはな。馬鹿じゃないのか? まったく変なやつだ」
ギュネメーは豪快に笑って言った。ことばとは裏腹に、ヴァレリーという人間のことをかなり気に入っている様子だった。かつて、モンテフェラート侯コンラードのもとに行くよう勧めたのは、ヴァレリーだった。どういう根拠があり、どういういきさつがあったのかはわからないが、その勧めのおかげで、かれらは命拾いをした。恩義は感じているらしい。
ただ、ルイセはそんな兄の照れ隠しが許せないらしく、真剣な顔をして怒りをぶつけていた。
「もう、助けてもらったくせに!」
そんな剣幕は、そもそもヴァレリーのことばから生まれているのだ。ラスカリスは、そのふしぎなつながりにおどろきと感慨を持った。自分も、かれの声、かれのことば、それだけでこの地にまでやってきたのだった。
ふたりと別れ、ラスカリスらはアッカの城門に戻った。
「この姦夫め、どの面をさげてここに戻ってきたかっ!」
城壁の上から、烈しい怒声が降り注いだ。この先しばらくは止みそうもなかった。ヴァレリーとラスカリスは顔を見合わせた後、すぐにその場から逃げ去ったのだった。
16
多少のいざこざのほかは順調にときは過ぎ、ついに決行の夜が訪れた。
ラスカリスや副官カラークーシュあたりなどはわざわざ新月を計算してこの日を選んだのだが、空は見事に曇っており、かれらの努力は結局むだになってしまった。しかし行動を起こすのに好都合であることに変わりはない。
「よし、打ち合わせておいたとおり各所に偽火を起こす。そののち内側から北門を開け」
うたうようにエルシードは命じた。美声とは言えないが、独特の旋律と響きがあって、聞く者に強い印象をあたえる声だった。
「しかしおまえの言うとおりに事は進むじゃろうか。わたしは尊厳王のことについてはあまり知らぬが、ひとびとから称賛される才知の持ち主であることは確かであるはず。そのかれが、おまえのそれを下回っているとは考えにくいぞ」
エルシードは兵士達の耳に入らないように小声でヴァレリーに尋ねた。熱しやすく冷めやすいかの女は、すでに先日の怒りなどは忘れてしまっている。便利な性格とは言えた。
「それでいいんだよ。私の能力が尊厳王に及ばないことを利用した策なんだから。こちらが考えをつくして流す情報の虚偽を、尊厳王はかならず見抜く。そこさえうまく通過すれば十分だ。それに……」
「それに、なんじゃ?」
「私は陛下に仕えてから二度にわたる失策を重ねている。これ以上迷惑をかけるわけにはいかない」
ひとつは聖職者たちの正義に想像がおよばず、聖都に多くの捕虜を残してしまったこと。もうひとつは、十字軍が海路を来ると読めず、守備隊を脱出させるのが難しくなってしまったこと。このふたつをかれは言っている。
ただ、失策と言うのは厳しい自己評価ではないかともエルシードは思うのだった。聖都を落としたのは確かにかれの策であったし、海路を来ると読めなかったのはかれが責を負うことではない。
本心から、エルシードはそう思っているのだ。
が、それでも何故か、口はこころと正反対のことを言ってしまうのだった。
「その通り、これ以上の過ちは許されぬぞ。もう、いまよりさらに格下げにするのはむりじゃ。奴隷以下の身分などないのだしな。あ、家畜だったか」
「……そうだね」
ヴァレリーがめずらしくまじめな顔をすると、エルシードはそこから目をそらして北門の方に向きを変えた。このヴァレリーの顔を、エルシードはなるべく目に入れないようにしている。かなしみでも同情でもない思いがこころの平静を乱すのだ。
北からの喊声が聞こえる。
偽の情報に踊らされた現地キリスト教徒軍が、北門に攻めかかっているのだ。考えと準備をつくして流した情報、それに現地キリスト教徒諸侯は、なんとか引っかかってくれた。
市内各所から、煙がたちのぼっている。情報どおり、脱走者が火をつけて回ったもののように見える。現地キリスト教徒のひとびとは、さぞかし勇気づけられていることだろう。応戦するムスリムの兵らも、混乱に陥った様子を見せている。
それらを報告する声が、エルシードの周辺を行き交っている。さすがに、余裕はない。みな、額に汗を浮かべていた。
喊声がさらに拡大した。ついに、城門からキリスト教徒の兵士と軍馬がなだれこんだのだ。現地諸侯によるこの混成軍は、功を焦るがゆえに、統制がまったく取れていない。それもヴァレリーの計算のうちに入っていた。
内から開かれた門に一挙に兵が殺到したため、城門付近はおそろしいほどの混雑を示した。予想通りの事態だった。
せめぎあうひとびとのすがたを、北へ駆けつけたヴァレリーとエルシードのふたりは高所から眺め下ろす。
「なるほど、おまえの詐術もときには貴重なものであるな。これほどすばやく勝利が得られようとは」
市内へとなだれこんできた兵士らが、目前でひとの海となりつつある。だが、エルシードとヴァレリーの顔色に変化はなかった。次に起こることがすでに見えていたからだ。
ふいに、波が止まった。
ひとの海に、よどみが生じた。
さけびと喊声が交ざりあう中、かれら兵士たちは――
何も見ることができなかった。暗闇のせいではない。そこには、文字通り何もなかったのだ。逃げ回る敵兵も、砦や宮殿もなく、ただ闘技場のような広場がひろがっていた。
そして前方には、たいまつの明かりにぼんやりと浮かぶ城壁が見えた。城門から中に入ったにもかかわらず、前にふたたび城壁を見たのだ。左右に注意を向けると、やはりそこには高い壁があった。つまりかれらは、城門の内側にあらかじめ作られた広場に、誘い込まれたのだ。
「まさか、罠……」
そして兵士が騒ぎだしたのは、一個の警告があってからのことだった。
「油だ! ナフサ(粗製石油)が地面をぬらしているぞ! たいまつを消せ!」
そのさけびが兵士たちを恐慌に陥れようとしたその瞬間、壁上にムスリムの弓兵がすがたをあらわし、かれらの頭上に矢の雨を降らせた。
「罠だ! 戻れ!」
各所から上がる指示の呼び声も、ほとんど意味をなさなかった。城門には後から後から兵士が突入し、戻ろうとする者と交ざりあって大混乱となった。味方同士で斬り合うすがたまでが見受けられた。ひどいありさまだった。
「それにしても火矢を使えばもっと効果的であろうに。おまえも脆弱な男である」
「目的はほろぼすことじゃないからね。混乱させて足止めしておけばそれでいい。焼きつくしてしまったら、足止めにならないよ。そんなことより、急いで東に移動しよう。尊厳王の動向も気にかかる」
話を聞いてふいに、エルシードはひとつの反論を口にしたくなった。ほんとうに、ふいにだ。
「ころせば足止めにならぬ、か。正直に、むやみにころしたくない、とは言わぬのか」
「え……いや……」
「おなじキリスト教徒をころしたくはない、という気持ちはあるのじゃろう。おまえはそれを隠したな。わたしに知られたくない、か」
ヴァレリーは、返すことばをなくして戸惑いの色合いをひとみに浮かべた。
エルシードははっきりおぼえている。会ってまもないころにも、おなじ表情をかれは見せた。そしてかれは、意を決して十字架を踏んだのだった。
「……よい」
あれから三年以上もたった。もうすべて、理解しているのだ。自分で分析してみるに、おそらく少しばかりの嫉妬から出た冗談だった。
「おまえは、それでよい」
エルシードは意味ありげな微笑を浮かべてから、兵士を集めて東へ向かって移動をはじめた。ものの数分もあれば、東門には到着する。あとは、尊厳王が北へと移動した隙を狙って脱出すれば、この地での戦いは終了するはずだった。
そのとき、徒歩で走るヴァレリーとエルシードの前に、ふいにひとりの少女があらわれ出た。いったいどこから侵入を果たしたのか、それはギュネメーの妹ルイセだった。どうやらかの女は、こういうことにかけて一種の特別な才能を持っているらしい。
それはともかく、かの女のもたらした情報は深刻なものだった。
「ヴァレリーさま、あの、大変です!」
「大変なことは、きみの顔を見ればわかる。まあ落ちついて話してくれ」
奴隷の身でありながら、あろうことか自由に女と話している。それを見てエルシードはいろいろと問い詰めたくなったが、いまはとりあえず、そのようなことをしている場合ではないようだった。あとでじっくり詰問せねばならないとエルシードは記憶した。
「あの、獅子心王が……」
リチャード獅子心王はいま、サラディン軍と対峙していて動けない状態にあるはずだった。すべて、それを前提とした作戦だったのだ。しかし……。
「獅子心王がこちらへ向かおうとしてるんです!」
「なに」
さすがのふたりも、これにはにわかに二の句をつぐことができなかった。
「そうか……。陛下の思いが裏目に出たということか」
「なんと卑劣なやつであろう。陛下の慈悲を利用しようとは」
ふたりの洩らしたことばは同時だった。同時におなじことを察して、違った感想をいだいたのだった。
いずれにせよ、これが三度目の失策となった。
ヴァレリーとエルシードが同時に推察した事情は、次のようなことから生じていた。
一昨日の夜。
数度にわたるサラディンの突撃を単独で防いでいた獅子心王のもとを、血色の悪い瘦せた青年が訪れていた。
瘦せていること以外、特徴の見当たらないすがただ。どこにでもいる陰気な文官のように見える。とにかく、何か特異な才を感じさせる風貌ではなかった。持っている雰囲気がとにかく薄暗い。そのあたり、リチャードの隣に立っている王女ベレンガリアと、共通するところがあった。
ただ、少しでもひとを見る能力を持つ者なら、その尋常ならぬ鋭い眼光に注目するだろう。かれこそがフランス国王フィリップ尊厳王そのひとなのだった。
「何故このようなところまで足を運ばれたのだ? アッカはいまだ陥落してはおらぬが」
リチャードの語気には好意というものの一片もなかった。実際のところ、かれは何から何まで自分と正反対であるフィリップが、個人的に好きではなかった。
「ほう、随分な言いようだな、獅子心王よ。サラディンを相手に苦戦を続けていると聞き、わざわざ助言をするべく駆けつけたものを」
「苦戦などしてはおらぬ。ただアッカが落ちるのを待っているだけだ」
「なるほど、確かに。しかし、容易に勝つ手段があるならば、それを使うべきではないか。私はサラディンと戦わずにすむ手段を持っている」
尊厳王のひとみが冷たい光を放った。見る者を凍らせるような妖しい光であり、相手を燃やし尽くすようなリチャードの紅眼とはまさに対照的だった。
「ふん……」
むろん、リチャードは喜ばなかった。それどころか、かれはその場で唾をはいた。あまりにも失礼な態度だった。が、フィリップはまるで動じるところを見せなかった。薄い笑いをうかべているのみだ。
リチャードは、戦って勝つことを至上の名誉と考えていた。策略と陰謀を好むフィリップとは生き方が異なっている。ただ、それだけが嫌悪の理由ではなかった。フィリップには策を弄ぶ傾向があって、結果を求めるために策を用いるのではなく、操ることを愉しんでいる気配があるのだった。
それが、リチャードのような者にはどうも気に食わない。
「まあ、よかろう。尊厳王の御忠告だ。謹んで拝聴しようではないか」
「では申し上げよう。しかしその前にひとつ確かめておきたいことがある。リチャード殿にはサラディンがいま何を目的に戦っていると思われるか」
「知れたこと、アッカを守るためであろう」
戦略などは顧みず、闘争のみにしか興味のないリチャードらしいこたえだった。フィリップは冷笑で応じた。
「違うな。サラディンにとってアッカという地はどうでもよいのだ。かれの目的は唯ひとつ、アッカを守る者どもの生命のみだ」
フィリップの尊大な態度を、リチャードは気にかけぬよう努めた。以前かれは、イングランド王位を得るために八歳も年下であるこのフィリップの前にひざまずき、臣従を誓ったことがある。言いようもない屈辱ではあったが、かれが王となれたのもフィリップの助力があったからであり、いまはまだ怒りを抑えざるを得なかった。
「それがどうしたと言われるのか」
「まだわからぬか。アッカ守備兵三千人の生命と引き換えに、サラディンにいったん兵を引くことと、アッカの支配権を要求するのだ。ひとの命を条件にすれば、サラディンはかならず要求をのむ。そののち、リチャード殿は兵をアッカに向けられるがいい。ちょうどその頃合いに、アッカ守備隊の者どもが最後の脱走戦を仕掛けてくるだろう」
「……何故そのようなことが言える」
「かれらが策を使ったからだ。かれらは偽りの情報を流し、このフィリップには虚偽を見抜かせ、現地諸侯の無能どもだけをだまし、そのふたつのあいだに生じた隙をつこうとしている。イスラムにもなかなかの智恵者がいるらしいな」
「知っていて、あえてのるのか」
「そうだ。とにかく、サラディンをいったん引き下がらせさえすればよい。そしてアッカに向かわれよ。脱走戦をしかけたアッカの守備兵どもは、運悪くそこへ突入することになる。これを殺すのは正当防衛であり、サラディンも文句はいえまい」
騎士であることを決して捨てぬリチャードは、義憤に駆られた。なんと卑しい手段であろう、人の寛容の精神を利用しようとは……。闘争は、あくまで清冽でなければならない。それは獅子心王の美意識だった。
「サラディンに一時休戦を申し入れることには賛成できる。しかしわざわざアッカの兵士を討ち果たす必要はなかろう。かれらに意向を伝え、約を違わず解放する方が上策であるとは思われぬか」
「そのようなことはわかっている。しかし……おお、ちょうどおいでになられたようだ」
騒がしい追従の喋り声が耳に届いた。
その中心に、血色良く太った老人のすがたがあった。フィリップとは対照的な、健康そのものといった身体つきだった。
きらびやかな衣裳をまとった聖職者たちに囲まれ、悠然とふたりの王に近づいてきたその男は、旧イェルサレム総大主教エルキュールだった。『総大主教』をいまも名乗っているかれだが、すでに聖都はサラディンのもとにあるため、その肩書きに実質はない――とはいえ、現地キリスト教徒たちにとっては、いまも信仰をとりまとめる最高位の存在であることに違いはなかった。
むろん、王であるフィリップやリチャードにとっても、丁重に扱わねばならない人物である。
アッカ守備隊の死をのぞんだのは、どうやらこのエルキュールであるらしかった。リチャードは苛立ちの息をついて目を細めた。フィリップは総大主教ののぞみを策の愉悦に利用した、ということか。なんというけがらわしさが、ここにはあることか。
総大主教エルキュールは、威を振りまきながらリチャードの前に進むと、開口一番に言った。
「リチャードどの、わかっておろうな」
周囲の聖職者たちが一斉に追従の頷きを合わせた。リチャードの背後で、鼻から洩れるような失笑が聞こえた。ベレンガリアであろう。滑稽さをあざける笑いが、つい洩れてしまったらしい。かの女らしいといえば、かの女らしい。しかし、笑いを催すような滑稽さも、それが行き着くところまで行き着くと、おそるべき虐殺を生むのだった。
その失笑は幸い聞こえなかったらしく、総大主教はふたたび芝居がかった仕草とともに口を開いた。
「アッカにはヴァレリーという名の鬼畜がいる。これを生かしておくことは、主が許されぬであろう」
かれのために権力の座を追われたことをエルキュールはにくんでいるのだろう。だが、そうした個人的な感情を、かれは見事に神の教えに転化している。
「裏切り者に罪ありと仰せのことはよろしいが、他の守備隊の面々までころし尽くすというのは、非道とは言えませぬか」
「何を言う!」
急に癇の気を起こしたように、総大主教は高い声をあげた。
「異教徒に罪なし、とでもリチャード殿は仰せか! なんというおそろしい背徳の言! 異教徒は死なねば、その罪から解放されぬのですぞ! われわれには、慈愛をあたえる義務がある!」
ふたたび、背後でかすかなベレンガリアの失笑が聞こえた。可笑しくてならないらしい。常に薄暗い雰囲気を纏っているかの女が可笑しがっているさまを、リチャードは振り返って眺めてみたくなった。
しかし、笑ってばかりもいられない。この滑稽な狂気はかれらの正義であり、それはまた十字軍にいるほとんどの者にとっても同じなのだ。
「それは理解しているが、契約というものがあろう」
「ふっ、異教徒との契約など、動物との約束を語るようなもの。ましてわれらは、死によって罪から解放させてやろうとしているのだ。愛をあたえるに、多少の方便を気にすることなどない」
リチャードはそれに反論したりはしなかった。面倒だったからだ。
「よろしいか、アッカ守備隊はひとりたりとも決して逃さぬよう、繰り返し申し上げる。神の御心にしたがわぬと仰せなら、話は別だが」
「……承知」
嫌悪感はあったが、リチャードとてみずからの地位を捨ててまで敵を救う気はなかった。また、闘争さえ目前にあれば、ほかのことは基本的にどうでもよいことでもあった。守備隊三千人が死につくそうが、なんの感情もわくことはない。魂をかけた戦いが、そこにありさえすればよいのだった。
「ただ、あのヴァレリーという背教者だけは、生かして連れてきていただきたい。ゆっくりと生き皮を剝いでやらねばならぬのでな。あのような鬼畜には、それほどの愛がどうしても必要であろう」
欲をふたたび見事に信仰へと転化して、総大主教エルキュールは念を押すのだった。ひどくゆがみはじめた聖職者の、ひどくゆがみはじめた肉欲の声としてリチャードには聞こえた。
さすがに、疲労感が残った。かれらが去った後、リチャードは重い嘆息を洩らしてつぶやいた。
「キプロスの痴人とやらも、ここまでだな。戦闘を愉しむには至らなかった」
「……そうでしょうか」
ベレンガリアが静かにことばを返した。
「ほう。異論があるか」
「獅子心王と対立できるほどの命を持っているのなら、あれほど滑稽なひとびとがえがく線には乗らないでしょう」
「なるほど、な。具体的ではないが、面白い話だ。期待しておくとしよう」
「わたしも、そちらの方が愉しいですから」
策略を好むフィリップとも似た言いようだった。だが、リチャードはこの妻には嫌悪ではなく美しさをおぼえた。違いは、リチャードにも自明だった。かの女には、ひとびとの動きを空から淡々と眺めているようなところがある。が、フィリップのように他者を弄んで愉しむといった部分はない。そのためだろう。
「もしこの状況を覆すとすれば、いかなる手段があるか」
「わたしには思いつきません」
ベレンガリアは正直にこたえる。
「ただ、どのような人物であるのか、この戦いで測ることができるでしょう」
「なるほど、闘争の愉悦は、それを見極めて味わえということか」
「ご随意に」
やはりどこまでも冷ややかにベレンガリアはこたえるのだ。
17
「リチャード獅子心王がこちらに向かっているのならば、急ぎ脱出せねばなるまい。かれが到着するまでに東門から出て、突破せねば」
エルシードが城門から突出する指示をくだそうとする。しかし、ヴァレリーはそれを制して言った。
「ちょっと待ってくれ、様子がおかしい」
城壁上から東方を眺めやりながら、ヴァレリーは口もとを迷う形に曲げた。
「何がおかしいと言うのか」
「フィリップ尊厳王が残した兵がいるはずの陣に、ひとの気配が感じられない。篝火の光がゆらめきもまたたきもしないのは、行き交うひとがいないからだ。火がありながら、ひとはいない。となると、おそらくは罠がある」
「ひとがいなければ好都合ではないか。単に、尊厳王は兵をまったく残さず北に動いたのではないか? 北での騒動に急いで駆けつけるため、あわてて火もそのままにしていったのやもしれぬ」
「いや、それはない。尊厳王はその程度の人物じゃない。だから考えられることはひとつ。北へ向かったという尊厳王の行動が偽りだったようだ」
「む……」
「尊厳王の軍はいま、闇に潜んでわれわれが飛び出すのを待っているに違いない……私の策を、さらに尊厳王は上回っていたのだ。すべて読み切った上で、かれはこちらの意図を利用した」
自分の計画を完全に看破されたということになるのだったが、衝撃というものはなかった。もともと、尊厳王や獅子心王に自分がおよぶとヴァレリーは思っていない。策自体ももともと、自分が尊厳王に及ばぬということを前提とした策だった。
「つまるところ……おまえは噓の情報を北の現地フランク軍には信じさせ、東の尊厳王には見抜かせようとした。しかし尊厳王はそのおまえの悪巧みをさらに上回り、われわれが東門から脱出することを予見していた。そういうことじゃな?」
「そうだね」
「つまりおまえの能力は、尊厳王に遠く及ばぬということじゃな?」
「まあね」
「よろしい。おのれの分がよくわかっておるようである。おまえなど、たかだかその程度の男じゃ。奴隷の身分が似合っていることがよく理解できたであろう」
むしろ明るい声で、エルシードは言った。危機にあるほど昂って笑うのは、この王妹の特徴だ。男らしい部分だった。
「しかし、自尊心に欠けるのもおまえの欠点であるぞ。愚かさを認めるのはよいがな」
「……私の性格がどうこうというのは、いまはおいておこう。あとでゆっくり聞くよ」
「よかろう、この戦いが終わったら、じっくり講義してやる。男のありようというものをな」
この状況にありながら、どこか楽しげにエルシードは語るのだった。肝が据わっているという一言では表しがたい性格だなと、いまにしてヴァレリーは感心した。
エルシードが考えをのべた。
「まあ、獅子心王がこちらに向かっているのは、おそらくかれがわれわれの生命とアッカの支配権を取り引きしたが故のことであろう。となれば、わたしたちにもまだ幾分かの光明が残っている。こちらが動かなければ、向こうもこちらを攻撃することなどできまい。取り引きにしたがって、われわれを解放することであろう」
「ああ……」
エルシードの意見に口では納得していたが、ヴァレリーはすでに別の可能性について考えていた。
尊厳王が本当にこちらをころしたいならば、もっと巧妙にこちらをおびき出し、脱走戦をしかけさせるような策を練るはずだ。しかし、かれは私に看破される程度のことしかしなかった。つまり尊厳王には本気でわれわれをころすつもりはないということだ。あるいは、他者にころすことを譲っているのだ。
一方獅子心王の方だが、こちらにはわざわざ自分の兵を使ってアッカに向かわねばならない理由などなかったはずだ。たとえ獅子心王が異常な戦い好きであったとしても。とすれば、獅子心王にはわれわれをころさねばならない『理由』が存在するのだ。政治的な理由なのか宗教上の理由なのかはわからないが、それは確かに存在する。どうも、大軍で短時間のうちに殺戮しつくさねばならないような、そうした強い意図のにおいがする。
だとするなら、ここでのんびりしているのは得策ではない。
ヴァレリーは素早くみずからの考えをまとめ、対策を練り、そしてラスカリスを呼んだ。自分の思考をすぐに理解してくれるのは、エルシードのほかにはかれぐらいのものだった。
「少々深読みしすぎではありませんか」
「私もそう思いたいのだけど……」
自分の意見が考えすぎであり、獅子心王が取り引き通りこちらを解放するのなら、それが最善である。だが、どうしてもそのようになるとは思えないのだった。
「また、『なんとなくそんな気がする』ですか」
冗談めかした問いだったが、信頼と聞こえた。
「ただ、もし仰る通りだとしても、その対策がなければ……」
「もう、考えてある。すべての可能性について対策を立てることができればいいんだけど、この状況では賭けるしかないと思う。いやな言いかただけれども」
そして、ヴァレリーは腹案をラスカリスに明かして説明した。ラスカリスはそれを聞いて唸り、具体的な修正を加え、次いでようやく感想を洩らした。
「大博打ですね」
「……ああ。いのちをチップにしておこなう博打だよ」
自分をさげすむことばを口にした後、ヴァレリーはルイセを呼び、策を言いふくめて城外へと差し向けた。
その後もしばらくヴァレリーは考えこんでいたが、そのかれの前にエルシードが、怒りを全身で表現しながら飛んできた。ひとつところに留まっていることができないこの王妹は、兵士たちを激励してあちこち飛び回っていたのだった。
「またわたしに内緒で話を進めていると聞いたぞ」
「別に内緒というわけじゃない。来たら伝えるつもりだった」
「ふん、あの娘は自分から呼んで伝えたくせに……」
憤慨している理由の子どもっぽさに、ヴァレリーは思わず苦笑した。このような状況も、大した危機とは見えていないらしい。
「……とにかく、いま大事なのはここから脱出することだ。陛下に託された町を捨てねばならないのは遺憾だけれども」
ことさら真剣な口調になってヴァレリーは話題をそらせた。この王妹の怒った顔を、町の外でもう一度見たいものだ。そう思うのだった。
その直後――
ヴァレリーは、無断ではないものの了承は得ぬまま、闇にまぎれて門の外に出た。
兵を直接率いるのはエルシードであり、さしあたって自分になすべきことはない。また今回の計略には守備隊の用兵よりもむしろ、外にいる集団の行動の方が重要となる……。そう考えてのことだったが、エルシードはそれを認めなかった。
「まさか戦いの前に女に会いにゆこうというのではあるまいな。なんと不謹慎な男であろうか。だめなものはだめである。他人が許してもわたしが許さぬ」
矢継ぎ早にことばを発してエルシードはヴァレリーを脅したものだったが、結局かれは隙を見てこっそりと出てしまったのだった。
なんにせよヴァレリーは、普段のかれからは想像もつかない駿足でギュネメーのもとへ急いだ。かれが到着したのは、ちょうどルイセがかれの計略をギュネメーに伝えおわった直後のことだった。
「ヴァレリーさま! どうしてここへ……」
おどろきに緑の眼が見開かれた。現地キリスト教徒らしい焼けた肌と、深緑のひとみ。健康的な少女だとヴァレリーは思う。
「ああ。今度ばかりは失敗は許されないからな。みんなの能力を信頼しないわけではないけれども、今回は私の指示にしたがってくれないか」
「ごめんなさい。あの、謝るのが遅れてしまったけど、せっかく信頼してもらっていたのに、尊厳王をあざむく役割が果たせなくて……」
兄に代わって、という口調でルイセは謝罪した。ヴァレリーは首を振ってこたえる。
「いや、あれには少し無理があった。つまり私の力が尊厳王に届かなかったのであって、おまえたちに罪はない。けれど、負けたまま終わるのは悔しいからな」
「面白いやつだ。この状況からまだ、あの尊厳王にひと泡吹かせてやろうってのはな」
ギュネメーの態度は、あきれたといった調子だった。
「このおれでも、大それたことだと思うぜ」
「断るか」
「まともならな。だが、あんたには恩がある。それに、面白い。面白いことは基本的に断らん」
「よし」
ヴァレリーは感謝とともに頷いた。
「では、あの篝火のもとへ急いでくれ」
「おう、行くぞ!」
号令とともに、二百の兵が動いた。
どちらかと言えば無頼者の集団だ。しかし、ヴァレリーの指示通り、かれらは音もたてずに尊厳王の陣地に近づいていった。罠が仕掛けられているであろう場所である。
ヴァレリーの予想は誤らなかった。そこには落とし穴や自動の投石機、弓などさまざまな罠が残されていたのだった。アッカから出撃してここに突入していれば、混乱から足止めを受け、伏せている尊厳王の本隊に全滅させられたことだろう。
「よし、大声で叫びながら篝火をたたき消せ。三千の兵が罠にはまって混乱に陥っているように見せかけるのだ。くれぐれも罠には注意しろよ」
しかしヴァレリーの懸念は無用だった。この二百人ほどの集団を構成する中に、誤って罠を作動させてしまうような者は存在しなかったのだ。全員が見事なまでに、『混乱に陥りながらもそれを隠そうと必死で篝火を消す兵士』を演じている。鍛えられた集団だった。それだけで、あるじであるモンテフェラート侯コンラードの能力が窺い知れた。あるいはもしや、こうした事態の可能性をもあらかじめ看破して、モンテフェラート候という人物はこの二百名を差し向けてきたのかもしれなかった。
「どうだ、こんなもんで」
ギュネメーは得意そうに笑った。自負の笑みだった。
「十分以上だな。いい部下を持っている」
「まあな。このおれを使っているあんたほどじゃないが」
ギュネメーがさらに豪快な笑い声をあげようとしたとき、かれらの前にルイセがあらわれて声をあげた。
「ヴァレリーさま、敵がすぐそこまで迫っています。早く逃げないと!」
夜目の利き、耳の良さ、そうした感覚の鋭さがこの少女にはあって、それが偵察や潜入という任に関する特殊な才をかの女に与えていた。いまも、周辺を走りながらだれよりも早く敵の位置を察知して、それを伝えにきたのだった。
「うむ、あともう少しだな。ぎりぎりまで待とう」
ヴァレリーは次第に大きくなる人馬の足音を聞きながら、いつもと変わらぬおだやかさでルイセの報告に応じた。最善となる時機を見はからっていたのだった。
「ふん、聖都を落としたキプロスの痴人とやらも、たいした男ではなかったらしい。噂とは誇張されるものだ。少し、見誤ったわ」
闇の中で、フィリップは唾とともにことばを吐き捨てた。かれは自分以上の才能の存在を信じず、しかも自分以下の能力しか持たぬ者を軽蔑していた。操って愉しむ以外には使い途がないと考えている。
しかし今回、目算を誤った。その苛立ちがフィリップにはあった。キプロスの痴人という男が、もう少し智恵のある人物だと思っていたのだ。しかしその男は、あまりに愚かであるがゆえに、自分の意図から外れた行動を取った――とフィリップは見た。
「わざわざ予みずから、貴様らが助かるよう手を打ってやったものを」
腹立たしげに唇をゆがめて、フィリップは濁った声を押し流した。
のこのこ出てこなければ、最近増長しているリチャードを陥れることができたのだ。
この戦いにおいて、フィリップには裏の意図があった。姉であるアレー姫との婚約を破棄し、フランスの影響を排除しようとしているイングランド王を、なんとかして貶めねばならない。そうした意図から、かれはきわめて精巧な策をこのアッカ攻防戦に織り込んでいた。
リチャードがサラディンとの約を違えてアッカを攻撃し、その捕虜を殺戮した際には、その非を鳴らして勇名を汚す。リチャードの人気は、かれの騎士道精神ゆえのものだ。それがただの残酷な無法者であったと知られれば、そうした人気は失墜する。
逆に、約を守って捕虜を解放したなら、総大主教エルキュールにリチャードへの強い悪感情をいだかせることができる。うまくことがすすめば、教会による『破門』にまで追い込めるだろう。そうなれば、もはやかれは王として君臨し続けることが不可能となる。
フィリップは憤りとともに考える。
アッカ守備隊が愚かにも突出してこなければ、そのどちらかの罠が作動していたのだ。
しかし、かれらはあろうことか、偽りの誘いに乗って飛び出してきた。これでは、リチャードと衝突してかれらが全滅したとしても、それはリチャード側による正当な防衛戦の結果であり、勇名を汚すことができなくなってしまう。
こうなった以上、部下や総大主教の手前、攻めかからぬわけにはいかない。
芸術的な策略を、愚に貶められた怒りは大きかった。
「殲滅せよ」
病んだような小声で、フィリップは部下に命じた。
「混乱したあの敵に向かって、突撃する。一兵も逃すな」
ときを置かず、尊厳王の部隊は闇の中を動きだした。向かう場所は、ヴァレリーらのいる篝火のもとだった。
「あのような見え透いた誘いにおびきだされるとは……。おれの見込み違いであったか」
獅子心王リチャードは、むしろ落胆の嘆息を洩らした。強敵を欲してやまぬかれである。相手が尊厳王とはいえ、その罠にかかるような者を好敵手と認めることはできないのだった。
ただ、そうした感慨を表情に浮かべたのは一瞬のことで、かれはすぐに気を取り直し、篝火のもとへと兵を向けた。
ベレンガリアは闇に溶けこむようにそばにあって、やはり無言だった。
闇から闇へ浸透する低音から、敵との正確な距離を測っていたヴァレリーが、このときようやく指示の声をあげた。
「よし、逃げるぞ。ただし一ヵ所にかたまらず、四散しろ。その後のことはそれぞれの才覚にまかせる」
ヴァレリーの指令は一瞬もかからぬうちに全員に伝わった。闇に散る飛沫のように、かれらは素早く拡散をはじめた。やはり、鍛えられた動きだった。
「ルイセ」
ヴァレリーは、かれの後ろに当然のようについてきていた少女に声をかけた。
「おまえは急いでアッカに向かい、エルシード殿下に尊厳王の背後を衝くよう伝えてくれ。まああのひとのことだから、すでにこちらの成功を察知して兵を動かしているかもしれないけれども」
「はい、でも……」
心配して見あげる眼を見て、ヴァレリーは苦笑を浮かべた。すがたがこのようであるだけに、自分が不安を感じられがちであることはよく知っている。
「大丈夫だよ、私は自分を犠牲にして女性を助けるような立派な男じゃないし。それとも、ひとりにしておけないほど頼りなく見えるのか」
「はっきり言わせてもらえれば、見えます」
失礼なことを言うと思ったが、そのように見えるのなら仕方がない。ヴァレリーはため息をついて頷いた。
「わかったわかった、そんなに気がかりならルイセには私の護衛を頼むよ。向こうにはラスカリスもいる。万が一にも戦機を逸するようなことはないだろうし」
「はいっ」
うれしそうに元気な声をあげて、ルイセは東へ向かうヴァレリーの後に続いたのだった。
このときのヴァレリーの時機の見はからいは、この地にいる者はだれも気づかず、だれにも評価されることはなかったのだったが、ぎりぎりの限界をつくきわめて巧みなものだった。かれは、リチャードとフィリップが闇の中でお互いをこそ敵であると誤認する時機を、正確に測っていたのだ。リチャードもフィリップも、混乱した敵を逃さぬよう暗闇の中を行動していた。かれはそれを逆手に取った。
智略が、ふたりの英雄を同時に襲った。
すでにもぬけの殻となっていた戦場に獅子心王と尊厳王が到着し、突入するその勢いのまま先陣が衝突、そして同士討ちがはじまったのだ。リチャードとフィリップが同時に到着するように、ヴァレリーは正確に両者の動きを予測してこの場所での騒ぎを起こし、逃走した。その技巧が、いま英仏の英雄ふたりを飲み込んだのだった。
両陣営に無数の矢が降り注いだ。両者とも、この一撃で相手を全滅させようとするような烈しい弓撃だった。これに命を奪われる者も数しれず、かれらは神に呼びかけながら暗い赤の砂に沈んだ。馬を射られた騎士は地面に落ち、後から続く軍馬に押しつぶされて肉のひとかたまりとなった。
想像以上に頑強な抵抗をリチャードは不審に思ったが、しかしそれまでの考えを急転換させるには至らなかった。
「突撃!」
獅子心王の号令一下、全軍が闇に砂塵を舞い上げて尊厳王の軍に向かって突進した。いや、しようとしたというべきか。リチャードは、フィリップの仕掛けた罠はすでに死んでいるものと理解していた。いまだに仕掛けられたときのまま残されているとは知りようもなかったのだ。
かれの軍は戦わずして血を流すこととなった。無数の罠に惑わされ、前衛の秩序が一挙にうしなわれた。
それでもさすがにリチャードは歴戦の勇士だった。乱れたつ兵士を叱咤し、支え、持ちこたえたのだ。態勢を整え、ふたたび敵に向かう意志をかれは全軍に伝える。
しかし、そこへ突入してきた強固な軍勢があった。尊厳王のフランス軍だった。相手をアッカ守備隊と信じて、かれらは無分別に突っ込んできたのだ。濁流がイングランド前衛の秩序を押し流した。
リチャードはこの危機にも冷静に対応し、周辺の部隊を集結して反撃に転じた。戦闘の王者と世に評される手腕は、その名に偽りのないものだった。
「おかしい。敵はこれほどの兵力をどこに隠し持っていたというのだ」
サラディンか? そのことばをリチャードは吞み込んだ。それはありえない。サラディンは盟約を破るような男ではない。それではいま戦っている敵は一体何者なのか。
「ならば、こたえはひとつでしょう」
ベレンガリアが淡々として言った。すでにリチャードも察していたことだった。
「フィリップか」
「はい。同士打ちでしょう。まあ、同士とは言えないでしょうけど」
フランスは潜在的な敵であることを皮肉ることばだった。一時の怒りに意識を燃やそうとしていたリチャードだったが、それで冷静さを取り戻した。
「してやられたか、キプロスの痴人に」
「いえ……」
ベレンガリアは気をつかうでもなく応じた。
「こちらは向こうの能力を知らなかった。その上で戦ったのですから、こんなものでしょう」
「それを知ったこれからが、真の闘争となるということか」
「ええ……。まあ、いまここでできることは、あまり残っていないでしょうけれど」
十七歳の王女の、戦闘を前にしたことばがこれだった。どんな凄惨な光景も、ただそれを淡々と記憶に記述していくような気配がかの女にはあった。
「しかし、フィリップの愚か者め……。まだ気づかぬのか」
「つまるところ、陛下ほどの眼は持っておられないということでしょう」
ベレンガリアのその推測は――
しかしこのときだけは正鵠を射ていなかった。
フィリップもすでに、事実に気づいてはいたのだ。しかしそれに対する反応は、リチャードと違って負の方向を持っていた。かれは、みずからの解釈を信じることができなかった。
「まさか……そんなはずはない」
才能を持つ者にとって、その才能への拘泥は理性を上回るものであることが多い。フィリップもおなじだった。受け入れることができなかったのだ。
「敵兵は少ないはずだ! たちの悪い詐術によって、多く感じさせられているにすぎぬ。一気に蹴散らしてしまえ!」
しかしかれがそう叫んだ瞬間、さらなる異変が後陣に生じた。かれは完全に時機を逸してしまったのだ。
「陛下、後ろからも敵が! こ、これは一体……」
フィリップに報告する兵の声も、抑制をうしなっていた。
「……ばかな、そんなところに敵が存在するはずはない!」
実際に生じている状況に対して「はずはない」ということばで応じる。それは愚者のなすことに違いなかったが、フィリップはすでにそうした判断を客観的にくだすことができなくなっていた。衝撃が理性を奪っていたのだ。
「そうか! 後背にあらわれたのは、サラディンの援軍に相違ない。サラディンめ……約を違えて襲いかかってきたか」
誤断だった。
「この上は致し方ない。前面の敵のほうが弱っているはずだ。全兵力を前面の突破にたたきつけろ」
いつのころからか尊厳王は、掌の上で踊らされていた。
当然ではあるが尊厳王の背後を扼したのはサラディンではなかったのだ。
その小さな軍勢を率いていたのは、かれの末妹――
アッカ守備隊のエルシードだった。
「神算鬼謀、というやつか……」
鞍上から指揮をとりつつ戦場の動きを見つめていたかの女は、我知らず感嘆の息をついていた。ヴァレリーがこの場にいないからこそ見せた態度だった。
「なんとも、おそろしい男を味方にしたものである」
敵に回していれば、ということばをエルシードは発しなかった。いろんな意味で、そのようなことは考えたくもなかった。
「あのすがたで、よくこんなことができるものですね」
ヴァレリーの代わりにそばに控えていたラスカリスの感想だった。エルシードは同意するしかなかった。その同意も、本人の前では決して表さないものだった。
「それにしても、まったく反撃がない。尊厳王は、前面を突破しようとして全力をあげているらしい。完全に取り乱しておるな」
「ヴァレリーさまはおっしゃっていました。『おそらく、遠巻きに矢を射かければ相手が勝手に誤解し、狼狽してくれるだろう』と。あの人には尊厳王がどういう心理に陥るかということまで読めていたのだと思います」
「かもしれぬ。しかし、おそるべき男というのは前言撤回であるな。かれのすがたを思い出すと、とてもそのように高く評することはできぬ」
「……同感です」
敬愛しているはずの人間をだしにして、ラスカリスはひとしきり笑った。ヴァレリーとはそのようにさせる男なのだろうとエルシードは思った。
「さて、そろそろ立ち去るべき頃合いでしょう」
「うむ、今回はこの程度でよかろう」
もとより、強大な敵を全滅させることなどできはしない。そもそも、ほんの少し出鼻をくじいて、今後の戦いを有利にすることを考えた攻撃だったのだ。それに、いま目前にあるのは獅子心王と尊厳王の軍勢の一部であり、また混乱に陥っているのも全軍ではないはずだ。こちらがもぎとったのは、ほんの短い時間のみ。長く留まっているのは危険だった。
「むっ」
エルシードはふいに側方の闇を睨むように見つめた。同じ動作をラスカリスも同時におこなっていた。
まったく唐突に、一団の兵気が側面にたちのぼったのだ。鋭く、烈しい兵気だった。
「おかしい、いまこのときにこんな兵があるわけは……ヴァレリーさまでしょうか」
「いや違う。敵じゃ。わたしは尊厳王とおなじ過ちはせぬぞ。備えよ!」
ことばじりが敵の剣気で覆われた。まったく強引な敵の突撃だった。しかし、その有無を言わせぬ鋭さは、いまの状況の中ではもっとも的確な手段でもあった。複雑を、単純で貫く。その有りようは、ひとりの英雄の名を連想させた。
「あるいは、獅子心王か」
そのように推測したが、いまはそれを確かめようもなかった。奔流の勢いを持った人馬の群れが、アッカ守備隊の脇腹をえぐった。抵抗力は次第にうしなわれていく。このままでは尊厳王の部隊とのあいだで逆に挟撃されるおそれがあった。
闇がすこしずつ白みはじめた。空を染める炎はやがて、血に沈む肉の塊ひとつひとつにひとしく光を投げかけることだろう。
喊声が近くなった。エルシードは不利を悟り、みずから乱戦の中に躍り込んだ。手には二本の軽槍があった。ムスリム騎士は剣と弓という印象を持たれがちだが、実際には出身地や好みによって他の武器を得意とする者も多い。槍や戦斧、メイスなどは一般的な主戦武器だった。エルシードは子どもの頃から空間的な感覚に優れていたため、二本の軽槍を同時に操るのを得意とした。
自身の体長を超える双槍を手にし、手綱を口にくわえ、かの女は戦場を駆けた。二本の槍が同時に予測不能な方向に躍り、左右に死を生んでいった。朝日が映すそのすがたは、死の舞踏を演じてむしろ優美だった。
一閃、一刺突ごとに、重装のキリスト教徒兵士が、正確に急所を断たれて斃れてゆく。
しかし、無意味な武勇でもあった。ひとりの力で戦況が一転するはずはない。アッカ守備隊の陣容は次第に薄くなり、エルシード自身も無傷とはいかなくなりはじめた。からだを染める朱に、返り血によらぬものが増してゆく。
その動きを見つめる一対の眼が、戦場にあった。
「あの少年は何者か。子どもとは思えぬ武勇よ。アッカにはあのような勇者がいたのか」
泥の上を舞う蝶を見る表情だった。イングランドのリチャード獅子心王そのひとだった。
エルシードの直感は正しかった。かれはフィリップとの泥沼のような戦いを部下に任せ、みずからわずかの精鋭を率いて離脱し、敵側面に急行して突撃したのだ。戦場におけるかれは、やはりまぎれもない天才だった。
「しかし、こちらの兵力も少ない。あれひとりに多数の兵士を割くわけにはゆかぬ。射落とせ」
リチャードの命にしたがって、弓兵が周囲に集まった。直後、十数本もの矢がエルシードに向かって同時に放たれた。それらはすべて正確に、糸に引かれるようにしてエルシードのからだに集中した。
槍をひとつは閃かせ、ひとつは回転させて、エルシードは矢を打ち払った。しかし、これだけ多数の矢をすべて打ち落とすことは、さすがのかの女にも不可能なことだった。数本がその身をかすめ、そして一本がついにかの女の左腕を捉えた。
「くっ……」
くるしみを滅多に面には出さないエルシードが、はじめて顔をしかめて低くうめいた。しかしそれでも、かの女の動きは衰えなかった。おそるべき体力というよりは、おそるべき精神力と言えた。生命を燃やして動いているような異様さが、いつにも増して少年のすがたを厚く包んだ。
槍を捨て、腰の剣を抜きはなって、なだれかかる敵兵を斬る。左腕に突き立つ矢はそのままだった。
深い手傷を負いながらなお混戦の渦を縦横に駆け抜ける少年の動きに、元来好戦的なリチャードの血が燃え上がった。
「このおれを必要とするか、小僧」
リチャードはダマスカス鋼の大剣を手にするや、馬を走らせてエルシードの行く手を塞いだ。その赤髪紅眼のすがたは、見る者の意志をそのままくじくような威圧に満ちていた。
「……獅子心王か」
いままで出会ったことはないにもかかわらず、エルシードはそう相手に対して問いかけた。それほど、目の前にある雰囲気は圧倒的だったのだ。
「名を聞いておこう」
リチャードは母国語のフランス語で短く問うた。男子が剣を合わせるにおいてことばなどは必要ない、といった態度だった。リチャード獅子心王とは、実際にそうした人間であった。
「サラーフ=アッディーンの末妹エルシードである」
やはり女であることを隠しはしないエルシードだったが、こたえることばは男の剣を奉じる獅子心王に伍していた。リチャードは驚きを見せなかった。正則アラビア語の女性名詞が、正確に伝わらなかったのだろう。
「神の国で、わたしの名を唱えるがよい」
はげしく乱れる髪と息の中で、エルシードは昂然と言い放った。どのようなときも、その美しい傲慢を見せる人間だった。
リチャードは応答せず、無言のまま大剣を振りかぶった。そして振り下ろす。エルシードはそれに反応する。
二条の剣光が激突した。朝日を打ち払うほどの火花が拡散した。その一合は互角と見えたが、しかしそれは持てるいのちのすべてをエルシードが一撃にたたきつけたからだった。
全力を注いだ剣を止められ、エルシードは為すすべをうしなった。限界に達しているからだは思うように動かず、それ以上の攻撃を加えることは不可能だった。守りに徹したが、それも長くは続きそうになかった。
「何をやっているのか、あのうすのろめ……。わたしの危機に、颯爽とあらわれるべきではないのか。この戦いが終わったら、制裁を加えてやる」
毒づく余裕もなく、剣を振るうことも億劫になりはじめた。出血から、視界に靄がかかる。そのからだに、岩をも斬る剣の雨が降り注ぐ。
それでもなお、しばらくのあいだエルシードは耐え抜いた。
はじめて、リチャードの面に感嘆の色が浮いた。目の前の少年を部下として欲したような、才を愛する者の顔だった。それがかれの剣に緩みを生み、そして戦機を逃す結果に繫がった。かれの軍の一角が、このとき突然崩れはじめたのである。
ヴァレリーらがここへきてようやく、モンテフェラート侯の一団をふたたびまとめて到着したのだった。
かれに率いられた無頼者の集団が、戦場を切り裂いてゆく。それぞれが一騎当千とも見える鍛えられた強さだった。イングランドの精鋭にもかれらは劣らず、その勢いのままにリチャード親衛の陣列を崩していった。
尊厳王の背後をアッカ守備隊が働き、その側面を獅子心王が衝き、さらにその背後から現地キリスト教徒の一団が衝くいう、むしろ愚かなほど複雑な戦いとなった。しかし、それを最後に制する人物がようやくここに定まりはじめていた。
「遅いではないか、愚か者め……。また会えるか……よかった……」
音を聞いたのみで確信し、エルシードは戦いながら眠るように気をうしなった。張りつめていた精神が弛緩したのだろう。
同じ過ちを繰り返すことなく、リチャードは即座に剣を振り下ろした。その一撃は、失神したエルシードのからだを容易に両断するはずだった。
しかし、剣の軌道は大きく逸れて横に流れた。
飛来した矢が剣の平に命中し、側方にはじかせたのだった。
「間に合ったか。別に劇的な効果をねらっていたわけではないのだけれども……。まぁ、このひとでも寝ているあいだは静かで助かる」
戦場には似合わぬ若い男の出現に、リチャードは戸惑いの表情を見せた。かれの大剣を動かした弓勢。その正確さ。それをこの隠者のような長衣をまとった男が放ったとは、にわかに理解できなかったのだろう。
「ヴァレリーさま!」
すぐ近くで同じく奮戦していたラスカリスが、よろこびの呼び声をあげた。かれも、全身を返り血とみずからの傷で真っ赤に染めていた。
キプロスで自分に挑んできたラスカリスのすがたを確認し、リチャードはすべてを悟った声を発した。
「ならば、そなたがかれの言うキプロスの痴人か」
「……私などをご存じとは光栄です。しかし、いまはことばを交わしている時間はありません」
まったくおだやかなまま言い放ち、ヴァレリーはエルシードのからだを抱いてそのまま去ろうとした。獅子の王に対してごく自然に背を向け、馬を進める。
リチャードは斬りかからなかった。
おそらくそこにあった感情は、直感からのよろこびと畏れ――
「……そうか、これか」
喧騒の中、リチャードはすでに闘志の炎を消してヴァレリーの背を見つめていた。
「ベレンガリアはただしいことを言った。たしかにここには、おれによろこびをあたえる者がいた」
すなわち、闘争の愉悦。才を感じる勘というものに、この獅子の王は自負を持っている。それゆえのよろこび、それゆえの畏れに違いなかった。
「それを御しえる者が、このイスラムに存在するか、『公正』よ。それがサラディンか」
リチャードは知らない。その『公正』の腕の中で寝息をたてている少年が、そのひとりであることを。
そしてヴァレリーは、そのまま巧みに兵をまとめ、乱れたつイングランド軍から離脱していった。
「逃しましたか」
すべてが終わった後、アッカ城砦の一室で、ベレンガリアが確かめるようにそれを尋ねた。逃してくれていたほうがいい、とでも言いたげな口調だった。つまりかの女は、好敵手が残ることをのぞんでいるのだ。才能のある敵がいるほうが面白いと考えているのだ。そうした気質は、リチャードに似ているとも言えた。
「リチャードどの、このような場所で何をしておられるか! 鬼畜を逃してそのまま安穏としているなど、いかに罪深きことかご理解の上か」
血相を変えて部屋に飛び込んできた旧イェルサレム総大主教エルキュールが、リチャードを強くなじった。リチャードは燃えるひとみをかれに向けたが、総大主教はまったく態度を変えようとはせず、はげしい非難を獅子の王に浴びせ続けた。
ベレンガリアが、以前と同じ冷笑を口もとに浮かべた。
すなわち、愚者をあざける失笑だった。
いまこの城砦にあるのは、イングランドの手兵のみ。ほかに見ている者はいない。ここで起きたことはだれもほかに話すことはなく、漏れることもない。
その危険を、エルキュールは察知することができずにいる――
そうした滑稽さを、ベレンガリアは笑った。聡明なのか邪なのか。かの女の笑みを目にして、リチャードはめずらしくわずかに表情を崩した。いまややるべきことはひとつだった。
「ご心配にはおよばぬ」
リチャードはもはやひとみを燃やすことはせず、むしろおだやかに話しかけた。かれなりの鎮魂であったのかもしれない。
「アッカ守備隊は補給路を断たれ、糧食が尽きてついに降服、このすべてにリチャードは死を与えたが、その折にひとりの聖職者の尊い生命が事故により犠牲となった……。これを歴史の真実として、年代記作家に語らせる所存だ」
「……?」
意味が理解できず目を白黒させていた旧イェルサレム総大主教の首は、そのままの表情を保ったまま、からだに別れを告げた。
「……おしいことです」
ベレンガリアが静かに言った。
「珍妙な見せ物がなくなって、ひとつ愉しみが減ってしまいました」
虚空を見あげる総大主教の生首を静かに見下ろして、ナヴァールの王女ベレンガリアはやはり淡々と感想を述べるのだった。
18
朝日をその長い睫に受け、ようやくエルシードが目を覚ました。
「なんじゃ、これは。まるで死人の扱いではないか」
自分が即席の荷車に寝かされているのを見回し、かの女は起きた早々からヴァレリーに対して文句を言った。だが完全に手当てされた左腕の傷にも目が行った。
「……おまえが手当てをしてくれたのか。礼を言う」
荷車の横で馬を歩ませていたヴァレリーに、エルシードは素直に感謝する。
「しかし、来るのが遅れたことについては、後でじっくり糾弾してやるから覚悟しておくように」
声の方向を一瞥して、ヴァレリーははじめて安心したように微笑んだ。
「……まあ、なんにせよ、これでしばらくはゆるゆると暮らせるようで、結構なことだと思うよ」
「何を言っておる。戦いはまだこれからだ、だとか、そういういじらしい科白を口にしようとは思わぬのか。なまけものめ」
「なまけものか」
ヴァレリーはゆるやかにこたえた。
「まあ、のんびりしていたい者はのんびりでき、働きたい者が働ける世界が私ののぞみなのだから、ほっといてもらうということにする」
言い訳がましくヴァレリーはつぶやき、ふたたびエルシードの怒りを買うのだった。しかし、かの女のその表情をヴァレリーは太陽を眺めるように目を細めて見やった。
それはかれがあのときのぞんだ、怒った笑顔だった。
のちのひとびとは、キリスト教徒とイスラム教徒の双方とも、この戦いを聖戦と名づけてみずからを正当化しようとした。むろん、だれにとっての聖戦かをこたえうる者はいない。ただわかっているのは、サラディンもヴァレリーも、みずからの戦いを聖戦などとは考えていなかったということのみだった。
「何故わたしがこのようなことをせねばならぬのであるか!」
「まったくですね。今日という今日はこっぴどく叱ってやって下さいよ」
ラスカリスはエルシードの声に応じながら、かれの敬愛する青年を探しつづけた。
「ちっ、あんな男がどうなろうと知ったことではないと言いたいところじゃが……。まったくどこへ行ったのか、あのなまけ者は」
エルシードがそう毒づいているのを聞いて、ラスカリスは妙な既視感を持った。キプロスにあったときに、おなじようなことを自分が言っていたような気がするのだ。しかしたとえこのようなことが以前にあったとしても、いまの生活の方がよっぽど明るい光彩に満ちていることをラスカリスは確信していた。
「でも、あの方がなまけておられるのは、何か深い考えがあるんじゃないかって思うんですけど……」
ただひとりルイセだけが、ヴァレリーを弁護している。かの女と、かの女にまるでつり合わない大男の兄もいまや、ヴァレリーの家族を形成していたのだった。かれはモンテフェラート侯の治めるティールへは戻らず、そのままエルシードらのもとに居ついていた。
「甘いぞ。ああいう男は甘やかすとつけ上がるのじゃ……。む、いたぞ!」
エルシードは川に釣り糸を垂らして座っているヴァレリーのすがたを発見して、そこに猛然として駆け寄った。
「おい! このようなところでのんびりしているとはいい身分であるな! 人が働いているのを見ても、おまえの良心は痛まぬのか」
問い詰める声をエルシードはヴァレリーの背に突き刺した。しかしかれはその声に気づかず、あろうことかそれを心地よく耳にしながら安らかに寝息をたてていた。
「起きぬか!」
かれの耳をつまんで、エルシードはその脳天に怒声をたたきこんだ。心地よい眠りから無理やり引き戻されたヴァレリーは、しかし、なぜか妙に機嫌のよさそうな顔をしてこたえた。
「ああ、姫か。今日は面白いほど魚が釣れたんだ。みんなで焼いて食べるとしようよ」