ジハード
第二回
定金伸治 Illustration/えいひ
聖地イェルサレムに迫る十字軍10万を撃退せよー! 定金伸治が描く歴史的名篇、ここに再誕。
5
その夜――
タキ=アッディーンとともに、ヴァレリーはサラディンの帷幕をはじめて訪れることとなった。そばには例によって、エルシードが見張りのごとくついてきている。やはり、よそよそしい態度だった。
幕舎に入った。
薄灰色の布で覆われた広い空間の奥に、おだやかな眼をした初老の男性が座っていた。高座にあるそのすがたは、帝王の名にはそぐわないと思えるほど、どこまでも静謐だった。威信も威風も威光もなく、しかしヴァレリーはそこにこころ奪われるような美しさを感じた。美しい。それだけをかれは思った。
「エルシード、無事でなによりだった。しかし、もうこのような独断はならぬぞ」
少女は畏まって頷く。このやんちゃな少女も、聖将サラディンの前では素直であるようだった。
そしてサラディンは、その静かな目をヴァレリーへと向けた。
「ヴァレリーどのか」
緊張でかたまるヴァレリーを気遣うように、サラディンはおだやかに続けた。
「妹が世話になったと聞く。礼儀を知らぬ妹にかわって礼を申し上げる」
タキ=アッディーンとおなじく、完璧なギリシア語だった。かれらの教養の深さがうかがわれた。間違いなく、プラトンやソクラテスなどは読んでいることだろう。イスラム学者によるアリストテレス研究の素晴らしさは有名だ。
「そちらのお言葉でかまいません。私の発音はお聞き苦しいかもしれませんが……」
サラディン周辺の側近たちに、くすりとした笑顔が浮かんだ。自分ではかなりまともな正則アラビア語を操ったつもりだったが、やはり相当におかしなことばづかいになっているようだった。
「ふふ、なるほど、フランク人にはめずらしい方だ」
サラディンは軽く頷いた。東方に伝わる像のような笑みが、口もとにあった。
齢四十九歳。しかし、この美しさはなんなのだろうと思う。むろん若々しいうるわしさではない。積み重なりからにじむものの美しさだった。
タキ=アッディーンにはじめて会ったとき、その人物の大きさにおどろいた。しかし、人間の奥深さというものには際限がないものだと思う。ごくおだやかに座しているだけのサラディンに、ヴァレリーはいまやたじろいでいた。
――とても私のおよぶところではない……。
ことばが出て来なかった。部下に加えてほしいなどと申し出るのは、厚顔なように感じた。
「ところで……文官か、幕僚か、武将か。どれがいい」
「え……」
「どのような任が自分に適していると思うか。我がもとに加わるならば、存分の働きをしたいであろう」
こころを読まれたと思った。配慮されたのだ。その経験と人間の深さは、そうした部分にもあらわれていた。
「陛下、査問も吟味もなさらぬまま、配下に加えるというのは……」
エルシードが抗議の声をあげた。ことヴァレリーに関して、かの女は妙にかたくなだった。態度もとげとげしい生来の頑迷さによるものばかりではないように見受けられた。
「ウマルから話はすべて聞いた。此度の戦いでも、損害をおさえられたのは、かれの功績だ。配下として報いるのに、なんら問題はない」
「しかし、かれは……ムスリムではなくキリスト教徒のいのちを救おうとしたのかもしれませぬ!」
ヴァレリーはまなざしを下に落とした。戦いの中で、敵を斬るのを躊躇ったところを、エルシードに見られた。あるいはそれゆえの、かの女のかたくなさなのかもしれなかった。
「ふむ」
サラディンは特にエルシードをことばで押さえつけたりはせず、整った髭をなでながら微笑した。大人の微笑だ。エルシードの葛藤も、ヴァレリーの思い悩みも、かれはすべて見抜いた上で、それをほほえましく見つめているようだった。
年齢と器の厚みが、端然として目の前に座している。
「では、ひとつ訊こうか」
サラディンは微笑を崩さぬまま、ヴァレリーに目を向けた。
「此度の戦いで、私はイェルサレム国王ギイと、トランス・ヨルダン領主ルノーのふたりを捕虜とした。ヴァレリー、そなたはかれらをどのように遇するべきと考えるか。帝王たる身の私は、いかなる態度で、いかなる処裁をなすべきであるか。考えをのべよ」
すでに、父が息子に問うような口調だった。しかし、そのおだやかさに、ヴァレリーはかえって緊張が身に走るのを感じた。自分はいま、試されている。
「ルノーに関しては、これまで多くのムスリムをあやめてきたその罪あまりに重く、一死はまぬがれないでしょう……他のムスリムや遺族の感情を思えば、赦して解き放つわけには参りません」
「……うむ」
「しかし、かれは他国の重臣です。これを裁く悪を背負うのならば……陛下が御みずからその手でなさることが肝要かと存じます。もし陛下が、みずからの居合わせぬ場において部下に処刑をおこなわせるのならば、帝王たる資格はないと申さねばなりません」
そばにあるエルシードとタキ=アッディーンの雰囲気が強張ったのを感じた。サラディンの周囲を固める側近たちも、表情を変えていろめきたった。
「干渉する悪を負うというのは、そういうことだと私は思います。陛下はこれからも、多くのひとびとをころし、そのよろこびもかなしみも壊してゆかれることでしょう。その自覚なき者、その悪に耐えられぬ者、ともに王者であるべきではないと存じます」
ヴァレリーは、自分のことばが思い上がりであることをよくわかっていた。子どもが大人に向かって説法をしているようなものなのだ。しかし、自分のこころを理解してもらうために、思うところをそのまま述べる以外の方法は思いつかなかった。
サラディンのような、何も言わずとも相手に理解させる人格の深みは、自分にはない。ヴァレリーはそのように思う。それに、さまざまな人間の集まる場所では形式が必要なこともあるだろう。この場合、主君に諫言する客人という構図だった。
「若いが、よきことばである」
サラディンはやはりすべてを察していた。
「王者として、そなたの諫めを肝に銘じておこう」
そのようにだけ、かれはヴァレリーにこたえた。諫められるまでもなく普段からこころに刻んでいることでありながら、である。
ヴァレリーはその配慮に感謝した。
そして後日サラディンは、イェルサレム国王ギイを「国王が国王を裁く法なし」として釈放するとともに、ルノーをみずからの手で処断した――と史書に記述されている。
ここでサラディンは、ヴァレリーとエルシードのふたりを見やり、ふたつの表情を眺めてから、さらに問いを投げかけた。
「しかし、ヴァレリーよ。そなたはその諫言をみずからおこなうことができるか。ルノーをその手で斬れるか。そなたは王者ではないが、祖国にそむくという悪を背負うことでは、おなじだ」
ヴァレリーのためらいと思い悩みを正確に見抜いた指摘だった。そしておそらくは、エルシードの反感も。ひとを見るかれの眼は、タキ=アッディーンとおなじく、どこまでも鋭敏だった。
「……できると思います。いえ、そうしなければならないと理解しています」
「偽りじゃっ!」
エルシードが横から口を挟んだ。
「陛下。この者は、此度の戦いで、キリスト教徒を斬ることに尻込みしました。まだ故国にこころを残しているのです。信じるには足りませぬ!」
「ひとならば、それは当然の迷いであろう。躊躇なく斬れる者のほうが、私は信用できぬ」
「し、しかし……」
「どうした。妙にかたくなではないか。もう少し、柔軟に考えられる者だと思っていたぞ」
「それとこれとは、話が別ですっ!」
言いつのるエルシードに対して、サラディンはあきれたような嘆息をもらした。どのようにしたものかという仕草で、頰に軽く手をやる。
「……よかろう」
若者たちへのほほえましさを隠さず、サラディンは言った。無理解、衝突、おおいに良し、といった表情だった。
「ヴァレリー、そなたにはエルシードの補佐役となってもらおう。この面倒な妹とともにタキ=アッディーン・ウマル配下に加わり、我が力となってくれ。頼んだぞ」
エルシードがことばをうしなった。苛立ちで顔色が変わるほどだった。
こうしてヴァレリーははじめて――
サラディンの末妹エルシードの副将として、イスラム軍の中に加わることとなったのだった。そして、この後かの女が大将軍となって国家の支柱となるに至っても、その関係は変わらず続くことになる。
「承知いたしました。ありがたい仰せです」
不本意そうに顔を横に向けてしまったエルシードにヴァレリーは気づいたが、何も言わなかった。いまは嫌われているにしても、いずれはなんとかなるだろうと楽観することにしたのだった。
6
どうしてこれほど妙に腹が立つのか、ということをエルシードは思った。武人たる者、泰然とあるべきだとこころがけているつもりなのだが、かれに関してはどうも別だ。
それは、あの男がやたら陛下に似ているためでもある、と思われた。
そのひとつひとつを、こころの裡で数え上げる。
まず、顔が似ている。陛下の若い頃は、間違いなくかれのようなすがたをなさっていたことだろう。声もそうだ。話し方もそうだ。まなざしも仕草も、みんなそうだ。あまりにも共通点が多い。あやしすぎる。偶然、として片付けるべきではない。
これは詐術に違いないと思った。ヒッティーンの戦いを見破ったことなども、すべて詐術に決まっている。かれはわたしたちを惑わし、何かをたくらんでいる。それがかれの本性に違いないのだ。
そう、思う。
「みな、騙されている。ウマル先生ほどの方までも……何が『この顔は、噓を言おうとするとすぐに不自然になる顔だ』じゃ! 見る眼がない!」
我知らず駆けだして、かれのすがたを探していた。夜陰にまぎれて誅してやる、とまでは思わないが、それなりのおこないで遇する必要を感じた。
「陛下に代わって、わたしが査問してやらねばならぬ」
かれの本性をいちどきに見抜くことができる手段を、エルシードは持っていた。なぜこの方法をウマル先生も陛下もとらなかったのか。これほど簡明で決定的な方法は、他にない。
自賛のこころもちだった。
「いた!」
闇に隠れるようにして、かれは石の上に腰を下ろしていた。宴の酔いを醒ましている様子だった。タキ=アッディーンに、相当飲まされたらしい。
「酔っているところ悪いが、話がある」
エルシードはかれのそばに立って、見下ろすように話しかけた。かれは、やはりサラディンにどこか似た眼で、相手を見あげた。
「なんでしょうか」
「陛下はおまえを認めたが、わたしはそうではない」
エルシードは威儀をただして言ったが、ヴァレリーの反応は鈍かった。狼狽する様子はなく、あくまでおだやかなのだった。
「どのようにすれば、信用してもらえるのでしょうか」
「おまえは、フランク人の敵として、フランク人を斬れると言った」
むやみに声がとげとげしくなっているのは、わかっていた。しかしなぜか、そうなることを止められないのだった。
「……はい」
落ち着いている。すぐにでもおろおろとしそうな顔だちのわりには、肝が据わっているようだ。そう言えば、追手に取り囲まれたときもそうだったような気がする。
「しかし、おまえは此度の戦いで、キリスト教徒を斬れなかったではないか」
「……すみません。できるつもりでしたが、からだが動きませんでした」
「ではやはり、おまえは陛下に仕えるにはふさわしくないということじゃ」
「あれは許していただければ幸いです。もう、あんなことはありません。覚悟が足りませんでした」
稚拙なアラビア語で、かれは丁寧に謝った。誠実なことばのように聞こえた。しかしそれは、まやかしであるに違いないとエルシードはかたくなに思うのだった。
「いまはその覚悟があるというのか」
「……そう思っています」
「決してわれわれを裏切らぬと誓えるのか」
ヴァレリーは頷いた。態度や仕草に、変化はなかった。
「ならば、わたしが試してやる」
エルシードはふところに手を入れると、そこから十字架を取り出してかれに見せた。先の戦いで、敵兵から奪っておいたものだった。このときのために、奪ったのだ。イエスが磔刑に処されているところをあらわした小さな十字である。
「……それは」
「決して故郷にこころを残さず、決してわれわれを裏切らぬと誓えるのなら……」
エルシードはイエスの十字架を、ヴァレリーの足もとに投げ落とした。乾いた砂が十字の端をわずかに覆った。イエスは、かれを哀しく見下ろすようにしてそこにとどまっていた。
「誓えるならば、ためらいなくこれが踏めるはずじゃ」
はじめてヴァレリーの表情にうろたえの色が浮いた。とまどいと躊躇いがあるのは明らかだった。それだけでも、十分な裏切りだとエルシードは思った。
「……踏めぬのか」
ヴァレリーの足が動いた。覚悟をしめそうとしている様子だった。しかし、ついにかれはそれを踏みしだくことができなかったのだ。
エルシードはくちびるを嚙んだ。
「やはりおまえは、裏切り者じゃ」
裏切られたことへの衝撃が胸にあることに、エルシードはみずからおどろいた。それは、嫉妬のような気持ちだった。
自分の感情がよく理解できず、かの女は逃げるようにその場を走り去った。
いまだに杯を傾けて上機嫌に話しているタキ=アッディーンに、エルシードは駆け寄った。わからないことがあれば、すぐにかれに聞きに行く。おさない頃からの習慣だった。
駆けこんで、訴えた。
「先生、あやつはやはり、裏切り者でした」
「……ほう」
酔った眼を向け、タキ=アッディーンは興味深げにエルシードを見あげた。
「どういうことだ」
「かれは、いまでもフランク人そのものなのです。われわれにこころを許してはいません。かならず、われわれに害をもたらすでしょう」
「誹謗中傷を口にするのは、おまえらしくないな」
言われてはっとなったが、エルシードはさらに続けた。
「決定的な証拠があるのです」
誇るように言った。こればかりは、完全な根拠であり、だれをも納得させうるものだった。このことを聞かせれば、先生の考えも変わることだろう。そう信じた。
「証拠?」
「はい。かれは、イエスを踏めなかったのです」
「……なに」
タキ=アッディーンの目の色が変わった。ここぞとばかりに、エルシードは息をはずませて説明した。
「裏切らぬと誓えるなら踏めるはず、と言って、わたしはかれの前に十字架を置きました。踏め、と何度も強いました。しかし、かれはそれができなかったのです。かれは、明らかに裏切り者です」
すぐにはタキ=アッディーンはこたえず、かれは手にした杯を静かに台においた。ことり、という硬い音が、一瞬の静寂をより強めた。
そして――
「この、大馬鹿者が!」
大音声とともに、いきなり拳で殴られた。からだが後ろに飛び、地面に背が叩きつけられる。息が詰まった。口もとと鼻から、血が流れた。タキ=アッディーンに殴られたのは、ずいぶんと久しぶりのことだった。
「何をなさるんですか!」
「まだ言うか!」
髪を摑んで引き起こされ、ふたたび容赦なく殴られた。どこまでも厳しい師だった。
まわりのひとびとが止めに入る。しかしそれを振り払い、タキ=アッディーンはさらに叱責を浴びせた。
「おまえがしたのは、決してやってはならないことだ!」
何度も頰を打たれた。しかし、それは妙に懐かしく、心地よくもあるのだった。打たれ続けながら、この殴られる心地よさを知る自分は大いに男子であるのに違いないと、なんとはなくぼんやりと思った。
「わかったか!」
「わかりませんっ! なにが、やってはならぬことと仰るのですか!」
「聖都を征服したフランク人とおなじことを、おまえはやった!」
「……!」
息をのんだ。あの残虐なフランク人と、おなじだと言われたのだ。納得できるはずはなかった。
「どこがおなじだと言うのですか! わたしは公正です!」
「ならばおまえは、陛下を踏めと言われて、そのようにできるのか」
「それとこれとは……!」
「おなじだ! おなじくかれがこころにだいじに抱えているものだったのだ。おまえは、それを踏めと言った」
残酷で野蛮なおこない。ほんとうは、自分でもわかっていた。そんな気がした。
「おまえはかれのこころをころそうとしたのだ。おまえはかれに死ぬことを強制した。フランク人のおこないと、どこが違うと言うのか」
「わたしは……」
「言いたいことがあったら、言ってみろ」
反論できなかった。
タキ=アッディーンがいつもただしいと信仰しているわけではない。ただ、いまこのときだけは、口ごたえをするのもはばかられた。
「来い。詫びにゆくぞ」
髪を根こそぎ引っ張られて、そのまま幕舎を出た。素直にしたがうほかはなかった。
「ど、どうなさったんですか!」
目を見開いてヴァレリーがあわてた声をあげた。
蜂の群れに襲われたように腫れあがった顔を見て、かれは面白いぐらい狼狽した。エルシードには、それがすこし可笑しかった。確かにもとがわからないぐらいひどい顔になっていることとは思うが、追手に囲まれてもおだやかにしていた者にしては、みごとなほどのうろたえようだったからだ。
おかしなやつだと思う。
それと、こんな顔を見られるのが、やけに恥ずかしくもあった。
「詫びにきた。この馬鹿者が、迷惑をかけたようだ」
「まさか、将軍がこれを……?」
「不心得な息子を糺すのは、親の義務というものだ」
有無を言わさぬ勢いでタキ=アッディーンは言い放ったが、ヴァレリーは納得していないようだった。言い争いになる前に、エルシードは口を挟んだ。
「いいのじゃ。わたしが間違っていたのであるから」
「でも……」
「よいと言っておる!」
つい感情を乱してしまうのは、変わらなかった。これではいけないと反省し、エルシードは軽く首を振った。
「わたしが悪かった。おまえのこころをころすようなつもりはなかった」
頭を下げると、ヴァレリーは困ったような顔をして、口もとをゆがめた。どう応じればいいのか戸惑っている様子だった。煮え切らなさに、なんだか苛立った。
「おまえ、このわたしがせっかく謝っているのに、何か気の利いたことは言えぬのかっ!」
結局、かれにはこうして怒ってしまうのだった。
「この馬鹿者!」
頭に拳を落とされた。ヴァレリーはあわてて、タキ=アッディーンの腕を止めた。そのうろたえようが妙に可笑しいのはおなじだった。
「エルシードさまは何も間違ってはいません」
ヴァレリーはタキ=アッディーンを責めるように言った。
「私に、覚悟が足らなかっただけなのです。私のためらいは、確かに私の裏切りでした。エルシードさまのことばによって、それをはっきり知りました」
「ムスリムは決して強制しない。こころにあるものを捨てる必要は、ないのだ」
「……いえ。そうした厚意に甘えていては、十字軍と対することはできないのです」
ヴァレリーは足もとの十字架を見た。その目がゆらいだのが見えた。かれはいまや、こころを支えるいのちまで抛とうとしていた。
「ヴァレリー……」
タキ=アッディーンがうめいた。ヴァレリーの足は、すでにイエスの上にあった。かれは、キリストを踏みしだいたのだった。
「これでいいんです」
かれは微笑したが、人間のこれほど悲しい表情というものを、エルシードはいままで見たことがなかった。自責で胸が痛んだ。
「このひとは、踏まれるために生まれてきたのです……私もできれば、そのような人間になりたいと思います」
自分の苛立ちは、イエスに対する嫉妬ではなかったかとエルシードはふいに疑った。なんにせよ、かれにはこのような顔をさせてはならないのだと感じた。人間のこんな表情は、もう見たくない。かれは、うろたえていて可笑しいのが似合っている気がした。
そして――
ベイルートで出会ってから、ヒッティーンの戦いまで丸一日。そのあいだ、たどたどしいアラビア語を使って懸命に話していたかれを、少しばかり気に入っていたのだということに、エルシードはいまになって気づいた。
みずからの補佐役として、ヴァレリーを王妹エルシードがはじめて認めた瞬間だった。
7
ヒッティーンの戦いののち、サラディンは一気呵成に動いた。
十字軍が西洋で編成されるまでに、戦略的要地となる地中海沿岸諸都市を平らげておく必要があったためだ。
それまでの慎重な姿勢とは一転して、かれは野火のごとく地中海沿岸都市を次々と席捲していった。七月九日にアッカを攻略すると、兵を分けてカイサレヤ、ティブニン、ハイファ、シドンなどを奪還、同時にみずからヤーファを攻囲してこれを征服、それにつづいて南方のアスカロン、北方のジュバイル、ベイルートなどを一挙に手中にした。
この間、約二ヵ月。まさに疾風の動きだったが、その背後にはヴァレリーの働きも隠れていた。ヒッティーンの戦いでの全貌を、外から見抜いたかれの目。それが、この神速をもたらす力のひとつとなった。諸将もそれを認め、いつの頃からかかれを『公正』と呼んで、人柄や能力に信頼をおくようになっていた。
たとえば、ティール――
この都市は地中海沿岸の要地の中でも、特に難攻不落で知られていた。遠いむかし、かのアレクサンドロス大王も、攻略に手こずったという城砦都市である。
アレクサンドロスの時代では、この都市は陸から約一キロのあたりに浮かぶ海上城砦だった。これを攻略するために、大王は陸から島まで長い堤を建設し、陸続きにして攻め込んだ。それをきっかけにして、島は半島となり、北・南・西を海に囲まれた堅固な都市となった。
半島とはなったものの、くびれの部分を南北に掘割が通じており、そこには海水が導かれていて、城砦が陸と分離されていることはいまもおなじだった。むろん、攻略の難しさも変わっていない。
「ふっふ、ここばかりは、もうさすがにおまえも無理じゃろう」
どこか自慢するように、エルシードはヴァレリーに話しかけたものだった。これまで何度もかれの提出する案に目を瞠らされ、いい加減いやになっていたのだ。ねたみとまではいかないが、なんだか悔しい、というのが正直なところだった。
「この海上城砦は、さすがに落とせまい。まいったと言うのじゃ」
「……なんか、落ちないほうがいい、というような言いぐさですね」
「そういうわけではないが、おまえみたいなやつが偉そうにしているのが気に食わぬ」
「別に偉そうになんてしてないですよ」
会話を交わしながら、かれはティールの城壁を掘割越しに眺め歩く。それにエルシードはついて回る。
攻めづらい。エルシードはあらためてそのように見て取った。話に聞いていたよりも城壁までは遠く、堀も深い。
「おそらく、このときに備えて敵は、取り急ぎ掘割を掘り下げ、幅も拡張したのであろうな」
「……なるほど」
ヴァレリーの目が細まった。何ごとか思い至ったようだった。
「これはうまくいけば、すぐにも落とせるかもしれませんね」
「ふん、偉そうに……無理に決まっている。大口をたたくな」
「いやいや」
あいまいに手を振って、ヴァレリーはタキ=アッディーンの幕舎に向かった。その背をエルシードは追う。
タキ=アッディーンは、幕僚のひとびととともに、地図を取り囲んで呻吟していた。
難攻不落の海上要塞。
はるかなむかしから、ティールという都市はそう呼ばれてきた。それはいまも変わらない。
投石機で城壁に穴を開け、そこに向かって突撃する、という戦術が一般的に考えられる手段だった。しかし、掘割を渡らねばならないのがやっかいで、大盾をかざして矢を避けつつ攻撃を加えたとしても、相応の損害を覚悟せねばならなかった。
海と陸の両方を封鎖して、衰弱と降伏を待つという手もある。実際にいまのところは、陸海の補給路を遮断して待機している状況にある。
とはいえ、持久戦も避けたい。イェルサレム王国に回復のときをあたえることになるし、兵をまとめたかれらに背後を衝かれる可能性もある。小さな一都市に、長くかかずらっている時間はないのだ。かといって放置すれば、つぎにイェルサレム王国と戦うとき、うしろに危険な敵を残すことになる。
苦吟して唸るほかはない状況だった。
そこへ、ヴァレリーは入っていったのだ。
「あのう……」
タキ=アッディーンをはじめとする面々が、一斉に振り向いた。
「おお、アル=アーディル」
ヴァレリーを『公正』と呼ぶその声もまた、みな同時だった。待ちわびていたという顔をしている。ヒッティーンよりこれまでの戦いで、ヴァレリーはそうした信頼を得るに至っていた。アッカを落とした。ヤーファを落とした。アスカロン、ベイルート、ジュバイル……それらみな、かれの案が突破口となった。むろん実行するのはムスリムのひとびとの力であり、ヴァレリーは何をしたわけでもなく、何の腕前も持ってはいなかったが、しかしかれの物を見る目には、糸口を生み出す力があった。幕僚たちがこのような顔になるのも当然のことか、とエルシードはわずかばかりのねたみとともに嘆息する。
「何か良い案はあるか」
「ええ、ひとつだけ……」
確信があるときにも、口調はどこか自信なさげに話すヴァレリーだった。そのかれを一同は急かすような目で見つめる。
「海上を封鎖しているルルー提督の艦隊を、こちらに回してはいかがでしょうか」
ティール海上にはいま、エジプト方面艦隊司令フサーム=アッディーン・ルルー率いる船団が展開して、ティールへの補給を断っている。その封鎖を解け、とヴァレリーは言うのだった。
エルシードは不満の声をかれの背に飛ばした。
「こちら、とはどういうことじゃ。陸のこちらに船を呼んでどうする。わけのわからないことを言うな」
「いえ、陸ではなくて」
いまだに慣れぬアラビア語で、ヴァレリーはとつとつと続けた。
「あの掘割のほうに……」
「どういうことだ?」
タキ=アッディーンがせき立てる問いを発する。エルシードももどかしく思いながら、かれの背を見守っていた。
「敵は備えるために、堀を深くしました。これを逆用しましょう。いまなら、船が堀に入り込めます。座礁してうしなわれる船がでるでしょうが、それでもかまいません」
「む……」
「要するに、船を橋として一挙に堀を渡り、総攻撃をかけるのです。ティールを守る兵は少数ですから、たやすく落とすことができるでしょう」
「……船と勝利を引き換えにするということか」
「兵のいのちと引き換えというよりは、いくらかよろしいでしょう。兵を小出しにして堀を渡っていても、その都度全滅させられるだけです」
ヴァレリーの献策はサラディンに伝えられ、すぐに実行に移された。サラディンはルルー提督に連絡を送り、掘割に向かって船を突進させたのだ。
このとき、首将としてティールを守っていたのは、ヒッティーンの戦いから這々の体で逃げ出していたトリポリ伯レイモンだった。良将というほどではないが、勇猛な武人だ。常識の範囲内にある攻撃なら、よくこの城砦を守っていたことだろう。
しかし、ムスリムはかれの予測にしたがわなかった。
レイモンのもとに一報が飛び込んできたのは、かれがまだ朝食のパンを口にする前のことだったという。
あわてて前線に走ったときには、すでに崩れた城壁にイスラム兵がとりついていた。それも一ヵ所ではなく、東の城壁全面にいたる攻撃だった。船を燃やす火矢の指示をくだしたが、すでに遅かった。イスラムの兵はほうぼうの城壁を制圧し、市内へとなだれこみだした。
とても守りきれる状況ではないとレイモンは判断し、いさぎよく降服の意志をイスラム側にしめした。
サラディンはこれを受け入れ、降服した市内の兵のいのちを保証し、これと引き換えにしてティールをほぼ無血のうちに掌握したのだった。
ヒッティーン以降、ヴァレリーがかかわった戦いはおおよそ、こうした形で決着がついていた。
そして――
敗れ、ティールから北へと退去してゆく市民と兵士たちのすがたがあった。北のトリポリ伯領やアンティオキア公領に移るひとびとの群れである。
街道の左右を固めるイスラム兵のあいだから、ヴァレリーはかれらを見ていた。そのかれをさらに後ろから、エルシードは見つめていたのだった。
ひとびとはすでに、サラディンのもとでイスラムのために献策を続ける西洋人がいることを知っている。そして、かれの策によって、地中海都市が次々と攻略され、いままたこのティールを奪われたということもよくわかっていた。
通りゆくひとびとのヴァレリーを見る目は、行き場のない激昂にどれも満たされていた。
「恥知らずめ!」
多くの罵りとともに石が飛んだ。石はヴァレリーの額を割って、地面に落ちた。血のしずくがその石に落ち、赤い点を足もとにえがいた。
「裏切り者!」
「それでも人間かっ!」
あたりが急速に騒然となりはじめた。
イスラムの将兵が、ひとびととヴァレリーのあいだに割り込んでかれを守った。かれは動かなかった。エルシードはかれの背に手をおいたが、かけることばがさすがに見当たらなかった。
ヴァレリーは振り返って、黙ったまま微笑を浮かべた。イエスを踏んだときとおなじ笑みだった。「踏まれるために生まれた」ということばを、いまになってエルシードは思い出した。
「わかっていても、なかなか慣れないものですね」
頰を伝う血を袖口でぬぐってやると、かれは妙に嬉しそうな顔をした。こんなちょっとした好意を受けるのにも、やはり慣れていないようだった。十年以上も人質として暮らしてきたためであろうと思われた。
こちらに気をつかったか、ヴァレリーは話を変えた。
「ところで、絶対に無理と仰ってましたが、なんとかなりましたね。少しは認めてもらえましたか?」
「む……」
エルシードはこたえに詰まって押し黙った。むろん、おどろきもし、感嘆もしていた。なんとなく鈍くさいやつのくせに、なぜこんなことができるのかと問いたくもある。見当違いなところをのそのそ歩いて迷子になったりしそうな感じのくせに、なぜこのようなことができるのか。ただ、それを素直に口にできるような性格ではないのも自分でわかっていた。
しかし、かれが悲しそうな顔をするので、エルシードは何か言わねばならない気分になった。
「少しだけ……」
「はあ」
「少しだけなら、感心してやってもよい」
頰が熱くなった。それを見られるべきではなかったので、すぐにエルシードは横を向き、かれの前から走り去ることにした。
8
ヒッティーンの戦いから二ヵ月半。
一一八七年九月二十日、サラディンの軍勢はついに、聖都イェルサレムの城壁に迫った。約九十年前の第一次十字軍によって血の征服を受けて以来、この都にムスリムが踏み込むことは一度もなかった。
ムスリムの永い宿願が間もなく果たされようとしていたのだ。
サラディンは、ヒッティーンの戦いからここまで一度たりとも敗れることなく聖地に到達した。その陰に、ヴァレリーのすがたもあった。いまやかれは、帝王サラディンに直接策を献じることまでを許される存在となっていた。
ムスリムではない自分がそのような立場を許されることに、ヴァレリーは最初、多少のあやぶみをおぼえていた。嫉視を受けるのではないかと思ったのだ。
しかし、そういったことにはほとんど遭遇しなかったのが、おどろきだった。むろん、サラディンと話せるというだけで、なんらの身分をあたえられているわけではないということもある。私財もなく、つつましい生活をしているということもあろう。
ただ、理由はほかにもあった。サラディンの徳によってひとびとに浸透しつつあった寛容性、そういったものも確かに存在していた。
また、サラディン配下には、西洋人ひとりなどあまり目立たぬほど、雑多なひとびとが集っていたという理由もある。
黒人奴隷兵出身の将軍もいた。東方の遊牧民族出身の武人もいた。はるか遠い東の国から亡命してきたという目の細いひとびとのすがたもあった。ヴァレリーひとりぐらいを受け入れても違和感など生じない多様性を、かれらは備えていたのだった。
そうしてサラディンのもとに受け入れられたヴァレリーは、いま聖都の城壁を、遠く北東のスコープス山から見下ろしていた。地面に座るかれの淡い髪を、乾いた初秋の風が包んでいる。
先日来、すでに聖都への攻撃は開始されていた。北と東の双方から、攻城櫓や投石機が城壁に迫っている。
「こんどこそ……こんどこそ、おまえの悪巧みも到底通用せぬじゃろう。この堅固な城壁は、くだらぬ奇策など受けつけまい」
ヴァレリーを相手にひどいいやみを浴びせつづけているのは、やはりエルシードだった。
「どうじゃ? まいったと言うか? この先十日で落とせなければ剣の鍛錬の相手をつとめる、という約束は、守ってもらうぞ」
不謹慎なことに、ふたりは聖都攻略をだしにして、ちょっとした賭けをしているのだった。このことは一部の兵士たちのあいだにも知られていて、どちらが勝つかが賭博の種にもなっていた。賭け率はほぼ五分五分であったようだ。ちなみに、賭博も飲酒とほぼおなじ理由で、ムスリムの中でもさほど厳しく禁じられてはいなかった。
「残念ながら私の勝ちですね」
ヴァレリーはいつものように微笑してこたえた。
「たぶん、十日も必要ないでしょう」
「あいかわらず、大言をたたくやつである」
「そんなつもりはありませんけど……。それより賭けというのは、こちらにも得るものがなければ成立しませんよ。私が勝った際は何をいただけるのですか」
「そうじゃな。ではわたしがおまえの鍛錬の相手をつとめてやろう。名誉なことであるぞ。感謝するがいい」
「……とにかく陛下に献策申し上げるとします」
立ち上がると、ヴァレリーは逃げるようにして山を下りはじめた。なだらかな低山なので、サラディンの帷幕まではすぐである。
歩きだし、しかし前方に思わぬ人影を見出して立ち止まった。
「陛下……」
ヴァレリーが見たのはサラーフ=アッディーンそのひとであった。厚い薄灰色の外套をなびかせるそのすがたは、やはり一個の像のようにうつくしかった。
「わざわざ御みずから御足労いただかずとも、私が参るつもりでしたのに……」
「いや、ただの散策だ」
気をつかうなと言うサラディンだったが、護衛も連れずにみずから足を運んできた帝王に対して、ヴァレリーが恐縮しないわけがなかった。
こうした気さくさと寛容さはサラディンの特徴のひとつだった。が、かれの特殊性はそれだけにとどまらない。
このサラーフ=アッディーンというひとは――
奇異な英雄だった。過去をたずねたとき、かれのような『偉人』ならばほかにも例はあるだろう。しかし、かれのような『英雄』はまずもっていない。その理由は、ただそこにあるだけでかれはかれとなった、という一点にある。
かれの経歴からは、みずからの意図で王者への道を切り開いた跡を見て取ることができないのだ。野望とともに道を進んだ様子が、見られない。
弱小豪族の子だったかれは、父アイユーブの才覚により、シャーム(シリア)の王者ヌールッディーンに仕えるようになった。
そして叔父シールクーフに無理やりエジプト遠征に連れて行かれ、ファーティマ王朝の滅亡に立ち会った。有能で勇猛なシールクーフは、エジプトの宰相にまでのぼりつめた。
が、そのシールクーフが急死し、のぞみに反してサラディンは自分が宰相となるはめになってしまった。
部下であるサラディンの強大化を恐れた主ヌールッディーンは兵を派遣したが、あろうことかかれも急死してしまい、そのままサラディンはシャームとエジプトを治める帝王に推されてしまった……。
文官として平穏な生活をおくることをずっとのぞみながら、おのずと周囲から王者として押し上げられてしまった男なのである。
周りの人間が、何故かそのように動いてしまうひととなり。
それがすべてなのだ。かれはただそこにいる。周囲の野望渦巻く中、かれはただ座している。しかしいつの間にか、自身ものぞまぬうちに至尊の地位に押し出されてしまった。
そして、のぞまぬ王者の地位だったが、いまはそれを懸命にまっとうしている。ひとから押しつけられた義務を果たすため、ひたすらつとめつづけているのだった。
かれはそうしたひとなのだ。それが王者として善というわけでも悪というわけでもなく、かれはただそうした奇妙なひとなのだった。
そんなサラディンがヴァレリーは好きだったし、むろんかれを尊敬もしていた。
「それより、おまえにはすでに、必勝の自信があるようだな。ぜひ聞かせてくれ」
「……お聞きでしたか」
「うむ。しかし『公正』よ、あまり一命にかかわる危険な賭けはせぬようにな。おまえがいまいなくなると、困る」
これに対して頰をふくらませ、一言二言文句らしいことをつぶやいたエルシードを見て、サラディンは愉快そうに笑った。
「ふ、冗談を楽しんでいるときではないな。アル=アーディルよ、思うところがあれば忌憚なく話してくれ」
「……はい」
ヴァレリーは説明するまえに、まずサラディンに向かって尋ねた。
「ただし私の案は、聖都にいるキリスト教徒を陛下が釈放なさることを前提としています。それでもよろしいですか」
「もとより、かれらに危害を加えるつもりはない」
「ところが、聖都にいるひとびとは、陛下のそのおこころを知らないのです」
その一点に、ヴァレリーの策は集約されていた。
「占領されればムスリムに皆殺しにされるという恐怖感が、あの城壁をいっそう堅固にしているわけです。まずはこれを取り除かねばなりません」
ヴァレリーの言う通り、聖都イェルサレムの守備部隊は、首将バリアン以下、決死の覚悟で城壁の防備にあたっていた。一身を鎖で壁に結びつけ、死してもその場から動かぬ、という姿勢まで見せている者もあった。
「そうした覚悟はもちろん、信仰ゆえのものです。しかしその下には、恐怖が流れています。かつて十字軍がおこなった残虐に対する復讐を受けるに違いないと、かれらは信じているのです」
「……愚かしいことだ。復讐を繫ぐ愚というものを、われわれは知っているのだが」
「そのお気持ちを、かれらは知らないわけです。それをかれらに伝えれば、かれらの戦意は一気に失せるでしょう」
「そして城門は内側から開かれる、か?」
エルシードがすかさず横から口をはさむ。
「しかしそううまくいくであろうか。かえって罠ではないかと警戒されるのがおちではないか? かれらは、わたしたちを信用してはいない。生かして逃がしてやると言っても、信じるわけがない」
「でしょうね。ですから、ひとつ信用させる手をうたねばなりません」
「……そんな都合のいい手だてがあるものか」
たしなめる口ぶりで、エルシードは反論した。
「向こうにとってみれば、降服すれば無償で解放される、ということのほうが、『あまりに都合のいい話』でしょう。現実味がない。だから、信じてもらえないのです。となれば、解放するための条件を提示するのが上策です」
「条件?」
「はい。たとえば、各自金貨数枚の身代金を払えば解放する、というような。そうした条件は、取引に現実味を持たせます。かれらも信用するでしょう」
「しかし、それでは裕福な者のみが救われることになるではないか」
不服をあらわにして、エルシードが抗議する。サラディンは何も言わず、かれらしい静かなまなざしでヴァレリーに説明をうながした。
「いえ……これは恥ずべきことですが、イェルサレム総大主教をはじめとする高位聖職者は、巨万の私財をたくわえています。かれらは日頃神の愛を説いてまわっている立場上、その宝庫を開放して貧しい者に身代金を払ってやるはずです。よしんばかれらが恥も外聞もなく自分たちだけ逃げ出したとしても、後にはかれらのためこんだ金が残るでしょう。それをもって貧しき者の身代金となせばよいのです」
「……なるほど、よくわかった」
サラディンはしばらく黙って心算をととのえたのちに、頷いた。
「おまえの策を採用することにしよう」
しかしこのとき、この場にいた三人はヴァレリーの策に重大な欠陥が存在することに気づかなかった。かれらのような人間には理解できぬ感情や行動というものが、地上には確かに存在するのだ。そこをかれらは推測できなかった。かれらは、そのことをこの直後に身をもって知ることになる。
「ひとつ訊きたいことがある」
山をくだる途上で、サラディンが尋ねた。
「なぜ、いまなのだ。戦端が開かれてより、約十日。伝える機会はいくらでもあったはずだ」
「戦いが開始された時点では、まだかれらに敗北の意識はありませんでした。敗れることは避けられない、と感じはじめたいまが、最善の頃合いなのです」
「……なるほど」
「結局のところ、陛下のかたちづくられたムスリムの勢いが、この聖都を奪還させた第一の理由なのです。私の策は付け足しにすぎません。ここに至るまでの戦いも、すべておなじです」
謙虚で言ったのではなかった。それが、まったくの事実だったからだ。自分の提案によって、ことが円滑に進んだ部分は確かにあると思う。しかし、それがなかったとしても、いずれおなじ結果に行き着いていたはずだった。
聖将サラディンによる聖都奪還という結果に。
「よろしい、分をわきまえているようであるな」
意に反して、エルシードはヴァレリーのことばを謙虚ととらえたようだった。訂正しようともヴァレリーは思ったが、かの女が上機嫌の様子だったので、余計なことはしないでおくことに決めた。
9
一一八七年十月二日、金曜日。すなわちイスラム暦五八三年ラジャブ月二十七日。
ついに聖都イェルサレムの城門はムスリムに対して開かれた。
しかし――
この地に来てより一度も的を外したことのなかったヴァレリーの予測が、はじめて誤算をあらわにした。かれにはまったく想定できなかった事態が生じていたのだ。
門を開いたのは、民衆や兵士ではなかった。
城門からぞろぞろとあらわれでたのは、財宝を荷車に山と積んで会心の笑みをもらしている聖職者ばかりだったのだ。イェルサレム総大主教エルキュールをはじめとする、裕福な高位聖職者たちだった。
かれらは自分自身の身代金である金十ディナールだけを支払うと、私財を貧しい者に分けあたえもせずにすべて車に積ませ、一片のやましさも後ろめたさも感じることなく、ただみずからとみずからの財の無事に大笑しながら、恥じらいもなく堂々と聖都をあとにしたのだった。かれらがやましさを持たなかったのは、かれらは、かれらの知るただしい行いをしていたからだ。かれらは神に愛された人間であり、その財は神の愛のたまもの。であるから、我が身と財を第一に守り通すのが、神の意志に寄り添ったただしい行いであるのだ。
ただしさ、には多くの形があることに、ヴァレリーらは考えがおよんでいなかったのだった。
「やはり、主はただしきものを守護してくださる。われわれの日頃のおこないを、主がお認めになってくださったのでしょうな」
「まったくですな。不測の事態に備えて、まず力ではなく金を蓄える。まさにわれわれの知謀の勝利というべきでしょう」
そのような会話が、豪華な車の上で明るく交わされていた。
イラン出身の書記官、イマード=アッディーン・アル=アスファハーニは、その義憤から、このときのありさまを次のように書き留めている。
――私はこのとき帝王に対して、「かれらは私財に加え、教会および修道院の宝物までを運び出しています。われわれは私財の持ち出しは認めましたが、建築物に付属する宝物までは許可していません。この点をとがめ、かれらをおとどめおきくださいませ」と奏上したのであった。しかし、スルタンは「十ディナールを払えば解放するとした合意文書に、私は署名した。契約というものは、厳格に守られなければならない」と仰せられ、あの聖職者たちにも一切手をだすことはなかった。
実際に、サラディンは部下に対して、市内のキリスト教徒にほんのわずかでも害をなしたものは重罪に処す、というきわめて厳しい命をくだし、聖職者をふくめたキリスト教徒すべての安全を保証した。市民に対する暴行や掠奪は、一切おこなわれなかった。九十年前の第一次十字軍のときとは、正反対の寛容さであったと伝えられる。
しかし、かれのその寛容に、聖職者たちはつけ込んだのだった。いや、つけ込んだという意識はなかっただろう。かれらは正義をおこなっただけのことであるから。かれらにとって、この世の悪という悪はすべて外にあった。
これがただしい、と他者が感じるものごとを、ヴァレリーは想像できていなかった。大きな失策だった。
勝ち誇ってサラディン軍のあいだを行く高位聖職者たちは、イスラムの中にあったヴァレリーのすがたを発見して、あざけりと呪いのことばを同時に浴びせた。
「おお、かの醜悪な裏切り者がここに!」
「なんと、おのれに恥じるところはないのか! まったくもっておそろしい……」
かれらは悪を恥じてそのように呼ばわっているのではなく、まったく自分が正義をなしていると信じて疑っていないのだった。こころに屈折している部分は、一片も見られなかった。
財宝とともに、かれらはそれを当然のこととして悠々と去ってゆく。
生まれてはじめて感じるおそるべき怒りが、ヴァレリーを襲った。視界がゆれて、赤く染まった。
しかし、その感情はすぐに自責に取ってかわられた。誤った、と思った。自分の愚かな提案が、このような事態を導いたのだ。
聖職者たちに続いて、金銭的余裕のある市民が聖都をあとにしてゆく。
記録によれば、六万を超えていた聖都の市民のうち、一万六千人が十ディナール(女は五ディナール、子どもは一ディナール)の身代金を用意することができず、捕虜として残されたと伝えられている。
さすがに守備隊長のバリアンが金策に走り、国庫を開いて約三万ディナールを用立てたため、残っていた市民の多くも無事に城門を出ることができた。しかし、それでも全員に身代金が行き渡りはしない。後には七千人程度の貧しいひとびとが、死へのおびえとともに聖都に残されたのだった。
夕刻に至って、ヴァレリーは剣を抜いた。暗殺、ということを考えた。怒りが目を眩ませていることはわかっていたが、動かずにはいられなかったのだ。聖職者殺し。それほどの邪悪を背負う覚悟も、すでにあった。
「行きたければ、ムスリムのだれかに斬りかかり、罪人となってから行け。わたしでもよい」
ふいに背後から飛んできた冷やかな声は、エルシードのものに違いなかった。
「おまえが勝手に破滅するのは、わたしの知ったことではない。しかし、陛下の御名を汚すようなことは、このわたしは許さぬ。陛下は、すべてのキリスト教徒の安全を保証した。傷つけることは決して許されない。それでも行くのならば、陛下と無関係の人間となったことを示してからにせねばならない」
エルシードのことばには一片の容赦もなかった。少年の清冽さがこころを貫く。しかしそのことがかえって、ヴァレリーの怒りにとっては涼風となった。
「……すみません」
聖職者たちが去って行った方角を見つめたまま、ヴァレリーはこたえた。
「陛下に二度も迷惑をおかけするわけにはいきませんね……」
エルシードは何も反応しなかった。苛立ちも哀れみもあらわさず、ただ黙っている。
ややあって振り返ると、すでにかの女のすがたはそこから消え去っていた。
翌日、サラディンと重臣が閣議を開いて、今後のことについて論を交わしていた。議題は市内の秩序回復や、『聖なる地区』のモスク等の改修、キリスト教建築物の学院への改変など多岐にわたった。今後の十字軍に対する戦略も話し合われなければならない。
しかしその前にやはり、聖都に残された七千人もの捕虜の処遇を、早急に取り決める必要があった。
「われわれにはあれだけ多数の捕虜を養うことは不可能だ。即刻解放すべきであろう」
諸将に先駆けて口を開いたのは、黒人奴隷から将軍にまで出世したレワニカという壮年の男だった。その勇猛さと、それにつりあう冷静な判断力は、他の将軍からも一目置かれている存在である。
「だがすでに、身代金をもって解放するとの布告をわれわれは出している。のちにそれを翻して無償で解放すれば、あなどりをもってフランク人に見られる結果となろう。かの国には、捕虜を維持する余裕もないのか、とな。そうなれば、われらはイスラムの盟主たる信頼をうしなってしまう」
その後は議論百出、到底結論は得られそうになかった。
いつ果てるともしれぬその会議に終止符を打ったのは、それまでまったく発言をしていなかった王妹エルシードだった。
「陛下、わたしにひとつ考えがあります。捕虜はすべてわたしにおまかせいただけませぬか」
サラディンはややおどろいた様子で、かれの若すぎる妹に目をやった。普段のエルシードに似ず、そのすがたにはなんの感情も宿ってはいなかった。
しかしサラディンは何か思い当たるところがあったらしく、妹の申し出を無言で受け入れた。
閣議はそこで終了した。重臣や諸将は広間を下がっていく。聖都を解放した喜びに浮かれている者は、少ない。すでにみな、この先の苦難に目を向けているのだ。捕虜の処遇。治安の回復。十字軍の反攻。対応すべき課題は多い。
そのかれらにまじって、エルシードも沈黙したまま広間を立ち去って行った。
「よろしいのですか、陛下。あれはおそらく、ひとりですべての悪を背負うつもりのように見えますが」
タキ=アッディーンが忠告した。おさない頃からエルシードを見守ってきたかれには、かの女の考えそうなことがおおよそ推測できたのだった。
「わかっている」
そのようにしか、サラディンはこたえなかった。悪を背負うという妹を、かれはあえて止めなかった。それは、見捨てたとも言えるおこないだった。
王者はそれをなさねばならないのだった。
10
ながい会議に疲れたのか、月光の射し込む廊下でエルシードが外を見つめてたたずんでいた。
初夏の太陽のような、独特のみずみずしい躍動感は鳴りをひそめている。あるのは月の光を集めた彫像の静けさだけだった。そのすがたに、ヴァレリーはとまどいをおぼえた。あるいはこれがかの女の本来のすがたなのかもしれないと感じられたからだ。
そうした思いを振り切って、ヴァレリーはかの女に歩み寄った。かなりの勇気が必要だった。
「会議のことはうかがいました。しかし、王妹であるあなたが罪をかぶっても、国家の体面というものに傷がつかないわけにはまいりませんよ」
問う必要はなかった。なぜそのような発言を、などと問い詰めるのは、粗略なことだと思った。
「べつに国の体面などというものを考えたわけではない。一応言っておくが、おまえをかばって言ったわけでもないぞ。おまえなど、自分の失策にこの先ずっとうじうじと悩んでおればよいのじゃ。ただ……」
エルシードは遠い方角にひとみを移した。そちらには捕虜が集められている地区の一角がある。
「われわれの都合や思惑などは、かれらには無関係のものである」
ヴァレリーには意外だった。そのようなあわれみを示すひとではないと思っていたのだ。どこまでも厳しく清冽で、悪を燃やし尽くすことに全力をそそぐ。そればかりのひとだと感じていた。しかし、それは大きな誤りであったようだった。
「……すみませんでした」
「なんじゃ、なぜ謝る」
「いえ」
「ふん……おおかた、ひとを悪魔のように見ていたのであろう」
エルシードは責める笑みを見せて言った。
前日、聖都に入城したとき、かの女は捕虜の集団に近づいていったことがあった。孤児の集められた区画だった。人種は雑多である。西洋人もいれば、ネストリウス派キリスト教徒(景教)らしき東洋人もいる。しかし、歩み寄るムスリムの少女に向けられたまなざしは、敵意とおびえによって暗く彩られ、そればかりはみな一様だった。
ため息とともに諦め、エルシードはその場を去ろうとした。自暴自棄に陥っていた孤児たちから、かの女の背に石や汚物が投げつけられた。ヴァレリーはどうすることもできず、物陰からそれを見ていた。
そのときもヴァレリーは、エルシードが義務感からかれらに近づいたものだと思っていた。誇りと自尊心で、投石を甘んじて受けているのだろう、と。
大きな間違いだった。もっと深く誠実な部分の感情で、少女は孤児たちに近づいたのだ。いたたまれず、何もできないと知りながら、それでもなんとかしたいと思って近寄っていったのに違いない。
ティールで自分が石を投げつけられたとき、エルシードはこちらの背に手を触れた。自分はそれができなかった。みずからの狭量をヴァレリーは恥じた。
「それに、じゃ。わたしであれば、悪を背負っても陛下にご迷惑があまりかからない」
「……どういうことでしょう」
「わたしは、陛下のじつの妹ではないのじゃ」
口を開いたのとおなじさりげなさで、エルシードは打ち明けた。あわれみを乞うことばではなかった。
「おまえは、ヌールッディーンという人物を知っているか」
「はい。陛下の前にこの地を治めておられた方です」
「わたしは、その先帝ヌールッディーンの末子である」
やはり、声に悲壮を装った色はない。ただ事実を述べているだけだった。
「わたしがおさない頃住んでいたダマスカスは、先帝ヌールッディーンに治められ、平和そのものの美しい町となっていた。しかし、先帝がなくなって事情は変わった。後継を狙う者が次々とあらわれ、不穏な雰囲気に包まれた。フランク人も、隙を狙っては攻め込もうとしていた……」
「その緊迫を取り除いたのが、陛下だったということですね」
「そうじゃ。しかし、そんな事情が、当時まだ四歳だったわたしにわかろうはずもない。ダマスカスになだれこんできた兵士たちの群れを、わたしはにくんだ。無血入城だったはずなのに、わたしの住んでいた館は掠奪され、母は焼かれたためじゃ。わたしは、自分の無力を感じた」
先帝ヌールッディーンの子アル=サーリフを廃したのは、サラディンである。そしてかれは、みずからが王位についたのだ。エルシードがヌールッディーンの子であるなら、にくんで当然のことだったろう。
「あとで知ったことであるが、館を襲ったのは、掠奪を厳に禁じた命にしたがわなかった者の仕業であったし、その者はすぐに陛下の手によって首を斬られた。とはいえ、そのような事情も、四歳のわたしにはやはり無関係であった」
「……そのとき、はじめて剣を取ったのですね」
「わかるのか。……わかるのじゃろうな、おまえなら」
エルシードは苦い笑みをたたえて、かすかにうつむいた。
「その通り、わたしは剣を手にして陛下を襲った。当然、わたしはすぐに取り押さえられた。そのわたしに向けられた陛下の悲しげな目は忘れられぬ」
「陛下の妹となられたのは……」
「さまざまな政治的意図もあったろう。何しろ、先帝の娘なのであるからな。あるいはわたしに、一種の才気をお感じになったのかもしれぬ。しかし何より、おさない少女が処断されることに耐えられなかったのであろうと思う。帝王としては誤っているのかもしれぬが、そういう方じゃ。矛盾しているからこそ、わたしは陛下を敬愛している」
それはヴァレリーもおなじだった。そうした矛盾に苦しむ人間としてのサラディンのすがたが、目に見えるような気がした。
エルシードは一瞬だけヴァレリーの顔にひとみを向け、すぐにそれをそらすと、そのまま立ち去っていった。ヴァレリーは立ち尽くした。
――じつの妹ではないとはいえ、王妹であることには変わりはない。
決意はすぐに固まった。迷う必要はないのだった。
――陛下の愛される妹君であることには変わりがないのだ。しかし、かかわりのない一介の客であれば……。
それがさしあたっての結論だった。捕虜が集められている区画に、かれは迷わず向かった。
明けたその日の朝、エルシードを除いた腹心を集めた席で、サラディンは静かに言った。
「こうなることはわかっていた」
苦悩をあえて取り払おうとする声だったが、それは成功していなかった。深刻さが端々ににじみでていた。
「エルシードの発言を伝え聞けば、かれはかならずそうする。わかっていて、私は止めなかった」
かれとは、むろんヴァレリーのことだった。ヴァレリーは、聖都内の一地区に集めておいた捕虜の集団を、許可なく解放したのだ。しかも、サラディンの命を偽るという、悪質な手段だった。
サラディンのもとにいたフランク人が、こころがわりをして捕虜を逃がした――これなら、国の体面はたもたれる。
「あえてお止めにならなかったとおっしゃるならば……陛下はかれをお赦しになるおつもりですか」
黒人将軍レワニカが問う。謹厳なかれは、普段から信賞必罰を旨としている。簡単に罪を赦すのには反対であるようだった。
「いや」
サラディンは首を振った。
「罪はかならず罰せられなければならぬ。かれを罰せねばならなくなるということも、はじめからわかっていたことだ……」
わかっていて、あえて止めなかった。これは、かれが常にかかえる矛盾と同じ性質のものだった。そこにはサラディンのくるしみが凝縮されている。
「しかし、かれの才知は惜しい、あまりにも惜しいものです。そうは思われませぬか」
タキ=アッディーンがある種の思い入れとともに発言する。はじめてヴァレリーという男を認めたのは、かれだった。サラディン配下の中でも、ずっとヴァレリーを擁護する一番の立場にあった。思いの深さは、他の者とは異なっていた。
「惜しいから赦すというのでは、秩序が保たれぬ」
将軍レワニカが重い口調で言い放つ。感情のない声だった。ただ、惜しむ気持ちはかれにもあるらしく、面持ちには困惑があった。
「将軍のご意見はただしい。しかし、かれには功績もある。聖都をこれだけ素早く奪還できたのは、かれの力によるところが多い。それは皆もわかっていよう。本来なら、大アミール(大名)として領地をあたえられてもおかしくないほどの功績だ」
タキ=アッディーンの声には、義憤があった。
「今度のことも、われわれの問題をかれが解決してくれたのだ。捕虜の処分に困っているところを、かれが罪を背負って解放した。その男に対して制裁で応じるというのは……漢としての信義にもとる。おれはかれに申し訳がなくてならぬ」
だれも反論することができなかった。かれの歎きは、反響となって灰色の壁へと吸い込まれていった。
沈黙が室内によどんだ。
「ウマルよ、論ずる必要はないのだ。私はすでにこころを決めている」
重く口を開いて、サラディンは宣告した。
「『公正』を、聖都イェルサレムより追放する」
腹心らのあいだに凍った嘆息がもれた。あまりにも厳しい処分のようにかれらには感じられたのだ。タキ=アッディーンの歎きに触れるまでもなく、みなヴァレリーの功は認識している。感謝の思いもむろん持っている。
そこへ、サラディンはさらにことばをつけ加えた。
「同時に、エルシードをアッカの守備隊長に任命することとする」
なるほど、というかすかな安堵が腹心らの表情に浮いた。かれらは、主人の決断した意図をその場で感じ取ったのだ。
サラディンは、ヴァレリーの処分をエルシードにまかせたのだった。
「おまえ、またもや国を追われる身となったそうじゃな」
そのように話しかけるエルシードの顔は、すでに陽光の色合いを取り戻していた。深刻癖に陥らないかの女の長所だった。
「嫌われ者も、ここまでくればいっそ見事というものである」
「……殿下も、聖都を追い出されようとしているじゃありませんか」
「何を言う。わたしはアッカの守備を正式に命ぜられただけじゃ。おまえとは立場が天地ほどもちがう」
いやみっぽく告げたあと、エルシードは急に話しづらそうになって声を途切れさせた。
「ところで」
「……なんでしょう」
「これからどうするつもりじゃ、おまえには行くところもなかろう。フランク人に見捨てられた。陛下にも見放された。このまま野垂れ死ぬか」
「はあ……」
こたえに困って、ヴァレリーはあいまいに頷いた。
「アッカに連れていってやってもよい」
エルシードは妙に勇気をふるった様子で告げた。ありがたい申し出だった。
「……追放された者を連れていってもよろしいのですか?」
「自由の身となった者をわたしが個人的に雇うのは、なんの問題もない」
「そうですか……ありがとうございます」
「ふん、感謝など。おまえは白人奴隷として雇うのだ。むろん給金も休みもないぞ。わたしの奴隷として、死にたくなるぐらいこき使ってやるのである。それでもいいのか」
「そちらのほうが嬉しいので構いませんよ」
「ふん……へんなやつめ」
面白くなさげな顔になってエルシードは眉目をしかめた。つとめて表情を消そうとしているように見えた。
可笑しかった。
「ところで、雇い主にひとつだけ訊いておきたかったことがあるのですが」
「なんじゃ、唐突に」
たいした疑問ではなかったが、以前から訊きたいと思っていたことだった。
「殿下は、先帝ヌールッディーンの末子だと仰いましたね」
「うむ」
「そして、陛下がダマスカスに入城したとき、殿下は四歳だったと仰いました」
「うむ、間違いない」
「でも、陛下がダマスカスに入ったのは十三年も前のことなのですが……」
だが、目の前にある少年のすがたはせいぜい十三、四のあたりに見える。矛盾があると思ったのだった。
「どこがおかしいというのか。何も矛盾はない。わたしはいま十七歳である」
沈黙した。
「なんじゃ、なんか文句でもあるのか」
「文句はありませんが、問題はあるかと……」
話を続けようとしたが、少女に睨まれてヴァレリーは押し黙った。
「おまえはどうなのじゃ。言われてみれば、訊いていなかった」
「もうすぐ二十三になりますが」
「……普通じゃな。面白くないやつである」
あなたと較べられてはと言いたかったが、ヴァレリーは反論しないことにした。
「まあ、よい。なんにせよ、アッカではこき使ってやるから覚悟しておくように」
「確かに、アッカの守備はかなり大変な任でしょうからね」
「そうなのか」
「あそこは地中海随一の要衝ですから、キリスト教徒側が真っ先に狙ってくることは間違いありません」
そして、さらにその先の困難をヴァレリーは思った。
聖都を奪還された現地キリスト教徒の勢力だけならば、さほどの脅威はないと言える。しかし問題は、その背後に控える大国の存在だった。
いや、正確には、その大国を率いる人物ということになるかもしれない――。
イングランドのリチャード獅子心王。
神聖ローマ帝国(ドイツ)のフリードリヒ赤髥王。
フランスのフィリップ尊厳王。
いずれも、のちの世に名を残すであろう英雄だった。偶然にも三人が並び立ったがゆえに三国は三国として存在しているが、この中のただひとりだけが生を受けていたならば、おそらく三国は一国となっていたことだろう。
そのことをヴァレリーはエルシードに告げた。
「三人とも、いずれ伝説として語られる王者です。それを、陛下はおひとりで相手になさらなければならない」
「ふん。名の華美な者ほど、中身は薄いものである。えらそうな名前に似合うような人間かどうかはわからぬ」
「いえ……私は向こうにいましたから、三人の勇名はよく耳にしていました。無から生じた名声とも、故意に作りあげられた評判とも思えませんね。かれら三つの名は疑いなく、千年後もひとびとに語られるものです」
「……よかろう。ならば」
エルシードは有無を言わせぬ勢いで続けた。
「おまえがふたりぶん働けばよい。わたしがひとりだけ相手にする。それで陛下は何もなさらなくてもよくなるわけじゃ」
「いや、ひとりでも私にはちょっと……」
正直なところだった。英雄に対抗できると信じるほど、思い上がってはいないつもりだ。戦えばかならず負ける。いかに戦わずにすませるか、それを考えなければいけないと思っている。
「できぬと申すのなら、おまえには奴隷として生きる価値もない。首輪をつけて、畜舎で山羊として飼うこととする」
「どちらかと言えば、そちらのほうがまだ楽で嬉しい気がしますが」
「……よかろう」
腰紐の一本を取ると、エルシードは真剣な顔つきで輪を作った。そしてそれを投げ縄のように投げてヴァレリーの頭に通し、首を絞め上げる。
「外すなよ。勝手に外したら肉にする」
「……冗談ですよね」
「何を言うか。わたしは常に本気である」
「家畜扱いはちょっと……」
「もう遅い」
紐の一端を握ってかれを引き連れ、エルシードは館を出た。無益で無害な口論を続けながら、かれらは城門の方角に向かう。
そうしてふたりは、聖都を去っていった。
11
三年半――
それだけの月日が、一挙に流れ去っていった。
すべて、備えるための時だった。むろん、第三次十字軍に対する備えだ。
現地キリスト教徒軍に関しては、ヴァレリーの予測どおり、ほとんど問題にはならなかった。かれらはヒッティーンの戦いによる後退から回復することができず、サラディンに対抗する力を持たなかった。
唯一の反撃は、ビザンツ帝国から乞われてこの地にやってきたモンテフェラート侯コンラードという人物による、要衝ティールの奪回だった。かれはサラディンの隙を巧妙に衝き、きわめて大胆な奇襲を加えてティールを奪ったのだ。そしてそのままかれはティールの領主となって、その地を治めていた。
現地キリスト教徒諸侯の意向により、元イェルサレム国王ボードワン四世の妹イザベル(当時、正当な王位継承権を持つ人物であった)と結婚したこのモンテフェラート侯コンラードは、次のイェルサレム王国の国王として嘱望されていた。それだけ現国王のギイが諸侯から愛想を尽かされていた、ということでもあるが、同時にあの難攻不落のティールをあざやかに落とした才もあなどれないところだった。
ただ、そうしたことは国家の対処するところであって、アッカという一都市を守るエルシードらにはあまりかかわりのない話だった。三年半のあいだ、とるに足りないいくつかの小事件をのぞけば、かの女らはきわめて平穏な日々を送っていたのだ。しかもそうした小さな事件は、何かと騒ぎの中心になりやすいエルシードとなまけものの白人奴隷が引き起こしたものであって、副官のトルコ人宦官カラークーシュなどは、いつも頭を痛めていたものだった。
ただし。
副官カラークーシュをはじめとするアッカ守備隊の面々は、いまやヴァレリーの一党であるかのようにかれにしたがっていた。一介の白人奴隷であるかれにだ。
その理由は、アッカ城壁の外にあった。
南と西を海に面している要衝アッカはいま、現地キリスト教徒軍によって攻囲されている。これは、二年前から続いている状況だった。小競り合い程度ではあるが、かれらの攻撃を幾度となくアッカ守備隊は撃退した。それはやはりヴァレリーの力によるものであることをだれもが認識していた。
三年半の平穏は、「かれさえいれば、絶対にこの地は落ちない」という信頼が形づくっていたものだったのだ。
そのため、アッカ城内が悲壮な緊張に包まれることはなかった。敵との小競り合いはあっても、平穏だった。なまけているヴァレリーの尻を蹴るエルシードを見て、酒の肴にする。そんな平和が続いていたのだった。
また、状況的に、実際に包囲されているのは現地キリスト教徒軍である、という事実も、城内のなごやかさの一因となっている。サラディン軍が、現地キリスト教徒軍の攻囲陣を、さらにその外から包囲していたのだ。その上、アッカには海上からの補給路が存在し、いざとなればそこから脱出することもできる。悲壮に陥るような情勢ではなかった。現地キリスト教徒軍は、塹壕を深く掘って、むしろ守りに力を注いでいたのだ。
そうした包囲と逆包囲はこの二年にわたって続いており、膠着した状況に双方飽きつつあるこの頃となっていた。気晴らしの催し物として、両陣営の少年の代表がひとりずつ選出され、格闘試合をおこなったという記録も残されている。
そんな中――
「……そろそろだな」
露台から地面に釣り糸をたらしていたヴァレリーは、閉じていた目を開いて低くつぶやいた。四月のおだやかな陽光が、かれの身を包んでいる。
地面に釣り糸をたれるというこの奇妙なすがたに対して、エルシードは当初は文句ばかり言っていたものだ。しかし、これが兵士を安心させるひとつの力になっているのを知って、いつからかそのことに関しては何も言わなくなってしまった。
また、ぼんやりとしているときのかれのほうがかれそのものであり、敵を撃退するかれのすがたはかれの一部であることを、エルシードはすでに理解していた。
「何がそろそろであると言うのじゃ」
「数日中にも、この包囲陣は崩れると思うんだ」
こたえることばからは、すでに謙譲の態度が消えていた。平穏で、かつ騒がしかったこの三年半のあいだに、すっかり磨耗してしまっていたのだ。
普通ならこうした態度は、王妹に取り入る得体のしれない男として周囲から警戒される原因となっていたことだろう。
しかし、そうはならなかった。
かれは栄達を得ず、奴隷として貧しい生活を送っている。しかも、かれの力で守備隊の自分たちは生命を救われている。そして何より、あの気難しくて面倒くさく、謹厳で怒りっぽい姫の相手をしてくれるのは、たいへんにありがたい……。
そうした意識が、すべての将兵のあいだにあったからだ。救いつつ、奴隷の身分を受け入れている。逆に多くの将兵が連名して、かれに正当な地位と俸給があたえられるよう嘆願したほどでもあった。
もちろん、それはエルシードによってその場で却下されたのだが……。
「でも、問題はその後だな」
「第三次の十字軍、か」
「ああ。陛下からもたらされる情報によれば、リチャード獅子心王とフィリップ尊厳王が、陸路ビザンツ帝国からトルコに入ったそうだ。ひと月後ぐらいには、このシャームに入るだろう」
「うむ、いよいよか……。フリードリヒ赤髥王のときは何ごともなく過ぎたが、こんどばかりはそうもいくまい」
神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒは、リチャード獅子心王やフィリップ尊厳王に先行して、一昨年の五月、十五万というおそるべき兵力の軍団を率いて出発していた。かれは順調に進軍してセルジューク朝トルコの首都コンヤを陥落させたのだが、しかし、昨年の六月にサレフ川という場所で不慮の溺死を遂げたのだ。
それはいかにも不可解な死であり――
政治力に長けたサラディンの手が背後に伸びていたとも考えられる出来事だった。
とにかく、神聖ローマ帝国軍は、一部が王子ハインリヒに率いられてこの地までやってきたものの、ほぼ自然消滅といってよい状態となっていた。
だが、そのあとに控えるイングランド王リチャード獅子心王とフランス王フィリップ尊厳王の存在こそが問題なのだった。
要するに、いまのかれらを取り巻く状況は。
現地キリスト教徒軍の攻囲。これは取るに足りない。
ただしその中にも、モンテフェラート侯コンラードという優れた人物が存在する。
神聖ローマ帝国の脅威はすでに去った。
しかし、獅子心王と尊厳王による英仏連合軍の足音が、近づいている。
そういったところとなる。
「なんにせよ、私たちにできることは、この地を守ることだけだ。国家の戦略を考える立場にあるわけでもないし」
「おまえの場合は、単に考えるのが面倒というだけじゃろうが」
首の紐を引っ張って、エルシードはヴァレリーの喉を絞め上げた。三年半のあいだ酷使されてきた紐は、すでにぼろのようにいたんでいる。
「私たちが頭を悩ませても、しょうがないことだよ」
「おまえは悩まなさすぎじゃ」
きつい声で、たしなめるように言う。
三年半の月日が過ぎて、もうすぐ二十一歳になるエルシードだったが、その性格やすがたは以前とあまり変わっていなかった。いや、気難しさが薄くなってむしろ、かえっておさなくなっている。少年のように見えるからだはいまだに女のうるわしさを持たなかったし、さらにはずっと近くにいるヴァレリーの知るかぎり、どうも月の障りなどさえない様子だった。ふしぎなひとであり、ふしぎな女性であり、あるいは女性ではなく、あるいはひとでもないのかもしれなかった。
そのとき、唐突に瘦せた壮年の男が駆け込んできた。
副官カラークーシュだった。
「殿下、大変なことが……」
「なんじゃ、騒々しい」
機嫌を損ねた顔になって、エルシードは部下を睨んだ。理不尽な怒りはいつものことなのだが、これにたじろがない人間はヴァレリーぐらいのものだ。副官カラークーシュは一瞬ことばに詰まったあと、気を取り直して報告を続けた。
「海上に、フランス軍と思われる艦隊があらわれたのです」
第三次十字軍の到来だった。一一九一年四月二十日のことである。