ジハード
第一回
定金伸治 Illustration/えいひ
聖地イェルサレムに迫る十字軍10万を撃退せよー! 定金伸治が描く歴史的名篇、ここに再誕。
かなたに燃え立つ火があった。
それは海の果てに広がり、やがて高くたちのぼって空をあかく飲みこんでいった。濃紺を背にかがやいていたあけの明星は、炎の裡に消えた。そして地平を征したあざやかな赤は、勢いを得てますます燃えさかり、空と海をみずからの色に染めあげてゆくのだった。
ありふれた夜明けの赤であるはずだった。
しかしかれのひとみには、それが炎として映るのだ。火は、信仰のよりどころを灰に帰す、にくしみの炎だった。
かれはただ見ている。
若く、おだやかなすがたをした青年だ。丘の上に立ち、静かに空と海を見わたしている。盛夏の風がやわらかい髪をながくたゆたわせる。
炎のみなもとは、東の地にあった。
火はかつてイエスがその地にもたらしたものだった。それはかれが地上に投じた精霊の火であり、ひとびとのこころにあたえられたのぞみそのものでもあった。
しかし、永いときはその火を少しずつ変質させていった。
他のこころをしりぞけることが信仰となった。
異教のものをころすことが道徳となった。
火はやがて戦火となり、イエスのあたえた愛はそのかたちを大きく変えた。ひとびとはその変容に気づかなかった。
そして色を変じたイエスの火は―
十字軍という圧力となって結実したのだった。
かつて聖都イェルサレムを制圧した第一次十字軍の兵士たちは、その地におそるべきいたみの跡をのこした。七万を超えるひとびとをころし、燃やし尽くしたのだ。それはよくある誇大な報告ではなく、キリスト教徒の年代記がみずから、イスラム側とおなじ内容をしるしている出来事だった。
特殊であり、あるいは普遍的な征服といえた。
かれらがころしたのは、愛を教えるためだった。そのため、できるだけいたみをともなう手段を用いて、かれらは異教徒に死をあたえねばならなかった。矛盾してはいない。誤った神を信じた罪をつぐなう、そのための助力をかれらは慈愛でおこなったのだ。おろかな異教の者にさえも、正しい神の赦しをあたえてあげたい―そうした人道的な慈しみばかりがかれらにはあった。
残酷にころすことで、かれらは異教徒に愛を示さねばならなかった。男のからだを剣で裁断した。女のからだを縄で分割した。女を母と呼ぶおさな子にも愛はゆるがなかった。幼児のからだも、また違った方法で切断された。
それをおこなったかれらは、やさしいひとびとだった。父母の死を悲しむこころを持った人間であったのだ。ただイエスの火が、かれらにそれを正義としておこなわせた。家財を掠奪することも、異教徒が飲みこんでいた金貨を腹を割いて取り出すことも、すべて正義だった。これらも誇張ではなく、やはりキリスト教徒の年代記がみずから述べている事実の一部である。
こうしてかれらは、異教徒に愛を教えた。みずからにうたがうところはまったくなかった。かれらは人道の使者であり、慈悲深い神の子だった。多くの作家や報告者はかれらのなした大業を讃え、熱のこもった筆で異教徒の血をえがいた。
キリスト教徒のあいだに大いなる歓喜がみちた。
愛が降り立ち、聖都のムスリム―イスラム教徒はすべて火となった。遺体を燃やす火は三日のあいだ消えることがなかったという。
そしていまにいたっても、やはりその火は東の空をあかく染め続けているのだ。
青年は見つめている。
イエスの火がひとを燃やしていることに、かれのこころはいたんだ。また、そうした思いをかかえているのが自分ひとりであることに、おそるべき孤独を感じていた。周りのひとはだれも、ころせと言うのだ。それはむずかしいことだった。
青年はまなざしを下におとし、そして振り返った。日がのぼりきるまでに帰るのが、かれの日課だった。かれは来た途を歩きだした。
「……帰路についてはならない」
はっとして青年は背後に目をやった。
みすぼらしい男のすがたがあった。いつのまにこれほどのそばまで近づいてきていたのか。気配も感じなかった。
三十がらみの年齢と見えた。しかし、そのくちびるには翳があり、そのひとみにはくるしみの色があって、男をずっと老いたもののように見せていた。
「あなたは……」
青年に対して、うすよごれた男はふたたび口をひらいた。
「東へ行きなさい」
男は火を背にして立っていた。この世のすべての汚濁を引き受けたようなそのきたならしいすがたは、光を背負って、まぼろしのごとく美しかった。
「……私には、その力がありません」
青年はそのようにこたえた。かれはいまや、男が何を自分にのぞんでいるのか、はっきりと感じ取っていた。
「行きなさい。押し黙ることも周りとともにさけぶことも、それらはともに広き門ではあるが、低き場所に通じている」
男の声もやはりまぼろしのように青年には聞こえた。そうした中で、青年の裡にひとつの問いが翳をひいた。
「……なぜ、私なのですか……」
「おまえは、さげすまれるために生まれた」
それが理由であることがわかった。
だれよりも自分は見くだされてこの地に住んでいる。男は自分のそうしたありようを見ている……。
「これからおまえはさらにひとびとから、狗のごとくさげすまれ、石を投げられるだろう」
その途をゆくのだ、と男は青年をさとした。その声はあまりに静かで、ほとんど黙示のようであり、また懇願のようでもあった。
「私には……」
耐えうる自信がなかった。青年は男のまなざしから視線を外そうとした。
しかし、できなかった。強制する力があったわけではない。男の眼に映るくるしみとかなしみが、かれを押しとどめたのだった。
男はじっとかれを見つめている。
ひとみに世界があった。
「これは……」
青年はことばをうしなった。ひとりの少年のすがたが、男のひとみの裡に像を結んだのだ。幻影であると思われたが、青年はそこに引き込まれた。
うつくしいムスリムの少年だった。
ながい黒髪が薄緑の布からあふれ、砂をはらんだ風になびいた。
星をふくんだ純黒のひとみは、いたいたしさをおぼえるほどに澄みきっていた。
少年は青年をまっすぐに睨みすえた。その表情には鬼神のような怒りがあった。独特の烈しいまなざしが、青年のこころをつらぬいた。
周囲には、ムスリムらしき男が幾人も倒れていた。そしてそれらを取り囲むキリスト教徒の兵士が見えた。
「これがあなたがたの神であるか」
少年はそのように言った。声質は詩のようにうつくしく、清冽だった。そしてその声やくちびるの動きから、青年は目の前の少年がじつは少女であることを直感した。
少女はいままさに捕らえられようとしていた。それに対して、少女はあらがうすべを持っていないように見えた。捕らえられれば、ころされるか売られるか、そのいずれかであろう。しかし少女はその場を動かず、ただかれを睨んでいる……。
ふいに像がとだえた。
目の前には、もはやだれも立ってはいなかった。少女の像を見せたあのひとのすがたは、どこにも見当たらなかった。朝の涼風だけが残り、日はすでに高くのぼっていた。
すべては夢まぼろしであったように感じられた。
しかし、そのときかれは決断したのだ。いまや向かうところはひとつだった。
東へ―
第一話 猛き十字のアッカ
1
島を出たとは考えられない。
ビザンツ帝国の騎士ラスカリスは、そう推測した。このキプロス島を出て、いったいどこに向かうというのか。捜索の必要などない。いずれ飽きればもどってくるだろう。その程度のことととらえていたのだった。
キプロス島――
地中海にうかぶ島のひとつであり、古来キリスト教徒とイスラム教徒のあいだで奪い合いの続いていた地でもある。現状では古代ローマ帝国のながれをくむビザンツ帝国の手に帰してはいるものの、面倒なことに、帝国から派遣されたキプロス総督イサキオスが三年前に『キプロス皇帝』を僭称したため、いまもまたさまざまないさかいの渦中に落ちている。
――そんな権力同士のみにくい争いとは、無縁でありたい。
騎士ラスカリスはそのように常々思っていたが、そうした態度がかれを出世から遠ざけていたのも確かだった。皇帝を僭称するあるじにおもねらないかれには、騎士の身分に見合う仕事をあたえられることさえなかった。
いまもかれは、逃げ出した人質を捜索する、というくだらない任務を受けて、その人物をひたすら捜しまわっている。同僚と手分けして島内を尋ね歩きはじめてから、もう二日にもなる。
その人質はキプロス総督にとって利用価値のある存在であるらしく、十年以上にわたってこの地にとどめおかれていた。
そしてその身の回りの世話をするのも、ラスカリスだった。
「あんな男がどうなろうと、知ったことではないと言いたいところだが……」
しかし、言うわけにはいかないのだった。任務は果たさなければならない。皇帝を僭称するあるじの命であっても、それは変わらない。そうした謹厳さが、かれにはあった。
「死なれでもしたら、周りが迷惑する。まったく、いい加減にしてもらいたいものだ」
ラスカリスがこれほど手きびしくこぼすのには、理由があった。
その男をさげすんでいたからだ。
ラスカリスだけではなく、あらゆるひとからかれはさげすまれていた。かれを一言であらわすなら、それは「痴」だった。何を話しかけても目はうつろであり、開いた口に気味の悪い薄笑いを浮かべている。それで屋内にじっとしていてくれればまだよいのだが、時折いまのように外に抜け出し、奇声をあげながらあたりをうろついて、周囲に迷惑をかける。釣りをしているところを発見する日も多かったが、よく見ると糸に針がついていないということもあった。そして、許可なく出歩かぬよう申し述べても、
「釣れなかったなあ……」
などとひとりぶつぶつとつぶやくばかりで、いつも無反応である。
まさに痴人であり、それに敬称をつけて、痴侯などとも世間には呼ばれていた。むろん、敬称に敬意はふくまれていない。小馬鹿にする意図があるばかりだった。そして真面目なラスカリスもみなをたしなめようなどとは思わなかったし、かれ自身、おなじ軽蔑をこころにずっと持っていた。なぜ自分がこのような人間の世話をせねばならないのか、という憤りもある。
――それにしても、これほど見つからないのは奇妙だ……。
ラスカリスはふいにそうした疑問をいだいた。異様な奇声と振る舞いで、どこにいてもすぐに発見できるはずなのだ。しかし、周辺のひとをあたっても、かれのすがたを見たという話は聞けなかった。隠れたり逃げたりするような知性はないはずなので、どこかで事故にでもあっているのではないか、とも思われた。
しかし諦めずに数日間捜し続けた結果、リマソルという町の港ちかくで、かれのすがたをラスカリスは発見した。宿の一階にある酒場だった。商人らしき人物と話している。このようなところまで来て何をしているのか、と苛立った。
「ヴァレリーさま」
呼びかけた声に応じて、かれが振り返った。
一瞬、人違いかとラスカリスは疑った。自分の知っているヴァレリーという男とは、表情がまったく違っていたのだ。いま目の前にいる人物は、痴人ではなかった。淡い色のひとみに光がある。おだやかな容姿に翳がある。
しかし、名を呼ばれて、かれは反応した。ヴァレリウスという名を縮めたこの呼び名が、この島にそう多くいるわけはない。本人であることは確かなはずだった。
「……出よう。迷惑がかかる」
ヴァレリーは静かにうながして、宿のそとに出た。
黙ったまま、ラスカリスはあとに続いた。そのあいだも、目の前の男はいったい何者であるのかかれは考え続けたが、こたえはやはり出なかった。
あるいは、あのさげすむべき男に、いったい何が起こったのか。
路地裏で振り向いた眼に、独特の光彩があった。
その眼光をどのようにとらえるべきか、ラスカリスは迷った。才気の光ではない。圧倒する力がふくまれてもいない。ただ、あらゆることばで語っても、そのどれとも違和を生じるような、ふしぎな存在感があった。
「すぐにお戻りください。イサキオス総督の命です」
『皇帝』と言わず『総督』と言うところが、かれの生真面目なところだった。あくまでビザンツ帝国の騎士であることをかれは放棄していなかった。
ヴァレリーのひとみがゆらいだ。しかしそれは狼狽ではなかった。やはりことばでは違和感があるが、それはあわれみのようなものだった。なぜ自分がかれにあわれまれねばならないのか。ラスカリスはかすかな憤りをおぼえた。
ながいためらいを見せたのちに、ヴァレリーははじめて口をひらいた。
「サラディンのもとに行こうと思っている」
その名に、ラスカリスは息をのんだ。
サラディン。
ムスリムの王、サラーフ=アッディーンの呼称だった。偉大な王であり、セルジューク・トルコやアッバース朝の勢力が地に落ちているいま、かれがキリスト教勢力に対抗する唯一の人物と言ってよかった。十字軍により寸断され、崩壊に直面していたイスラム教勢力を、卓越した政治力でまとめあげた聖将。その徳望には、聖都イェルサレム王国のキリスト教徒も敬意をいだいており、現地ではムスリムに対する態度を軟化させる者も増えはじめていると言う。
サラディンとはそうした男であり、まさしくイスラムの盟主たる英雄だった。
その人物のもとに、ヴァレリーは行くと言う。酒場では、貿易商人の船に乗せてもらえるよう交渉していたらしい。
やはり気が触れたのだとラスカリスは思った。ありえない行動だったし、あってはならぬ行動だった。イエスの愛をうけて育った者が、みずから異教の王のもとに参じることなど、許されるべきではない。大いなる裏切りだった。
「ラスカリス。きみはほかの騎士たちとは違う」
ヴァレリーの声にははっきりとした確信があった。
「きみは薄々感じている。十字軍の所業は主の思いにこたえるものではない。ころせと呼ばわる者を、主は好んでいない。正しさを押しつけることに、イエスの愛はない。それがきみにはかすかに見えている」
かれはおれの中に何を見ているのだろう、とラスカリスは反感を持った。そのようなことなど、自分は考えたこともない。異教とはすなわち邪教だ。イエスの教えをあたえるか、ころすか。いずれかのみが、正しくない教えにこころを奪われた者を救う手段なのだ。そう信じている。信じているはずだ。
「おれを惑わそうとしても、無駄です。あなたが何を考えているのかおれにはわかりませんが、とにかく城に戻っていただきます」
「私は、もう戻ることはないと思う」
「ならば、力ずくということになりますよ」
ラスカリスが身に緊張をはしらせても、ヴァレリーの態度に変化はなかった。ひとみのふしぎな光も、色を変えることなくそこにあった。
相手の腕をうばって取り押さえようと、ラスカリスはかれに向かって摑みかかった。右腕を取る。そして後ろ手にねじりあげようとして、唐突にラスカリスのからだは宙に浮いた。
足を跳ねられたのだと気づいたときには、すでに天地が逆転していた。
背から落ち、呆然となった。
武技には自信がある。ビザンツ帝国の中でも、十指には入るだろうと自負している。にもかかわらず、相手の動きも見ることなく、地に転がされたのだ。屈辱だった。しかし、ここまでたやすく倒されると、いっそ心地よいほどでもあった。
あなどっていた。
よくあることだ。
かれが『痴』であったのは、身を守るための演技だったのだ。
それをラスカリスは悟った。だれも見ていない場所で、かれはひそかに身を鍛えていたのかもしれない。
しかし、自分の知るかぎり、かれは十年以上も前のおさない頃から、いまとおなじようにひとびとからさげすまれていた。その頃からずっとひとりで、みずからのありようを偽ってきたのだろうか。
なぜかれは、そのようなことをせねばならなかったのか。
そのこたえが、『十字軍の所業は主の思いにこたえるものではない』ということばなのか。
地面に転がったままラスカリスはヴァレリーの顔を見あげ、そして問いかけた。
「ひとに信仰をあたえることが、なぜいけないのですか。真の信仰にすべてのひとが目覚めれば、平和で理想的な世界が実現されるはずです」
「ラスカリス……。きみは、おさない頃から教えられたことをそのまま、私に話しているだけだ……」
ヴァレリーには、相手を論破しようとするつもりはないようだった。あくまで正義の押しつけを避けようとしているふしがうかがえた。しかし、それは逃げではないのか。相対的なところに身を置いて安住しようとしているだけなのではないのか。
立ち上がって、ふたたび訊いた。
「それの何が悪いというのですか。教えられたことであろうと何であろうと、正しいことは正しいはずです」
いつの間にか本気で相手に挑んでいることに、ラスカリスはみずから気づいていた。しかし、真剣に問いかけずにはいられなかった。すでに、目の前のヴァレリーというひとがそのような相手であることを、我知らず認めていたのだった。
「きみはそのことばを、自分でも信じていない……。それをひとに信じさせようとしても、それは無理だよ」
やはり押しつけない。にもかかわらず、激論や説得よりも、自分は動かされている。それは、悪魔の所業であるようにも思えた。ラスカリスはさらなる反感を持った。
「しかし……だからといってなぜサラディンのもとへなどと……」
「かれによって聖都イェルサレム周辺のキリスト教徒は、少しずつこころを開きつつある。私はできれば、その手助けをしたいと思う」
かれは続けて言った。
「おそらく、もうすぐかつてない規模の十字軍が、イングランドやフランスを中心にして編制されるだろう。サラディンの願いや、いままでかれが築き上げてきたものは、かれらによって完全に壊されてしまう。それを防がないといけない」
「主を裏切って、ですか」
それは、狗を見るようなさげすみを受けてしかるべき悪行だった。人質として長く隔離されていたヴァレリーでも、そんなことぐらいはわかっているはずだ。もしも捕らえられて故郷に戻るようなことがあれば、ひとびとから唾をはきかけられ、石を投げられて、生きながらその身を刻まれるだろう。
「それでも行くと言うのですか」
ヴァレリーは悲しげに頷いた。ひとみにはおびえがあった。狂気の覚悟はなく、かれはひたすら怖がっているように見えた。そこまでおびえながら、それでもかれは行くと言う。
狂気だ。これは狂気なのだ。
そのようにラスカリスは自分を信じさせようとした。
「行かせるわけにはいきません」
言ってから、かれはみずからおどろいた。本来なら、勝手に行って死ねばいい、と考えるはずの相手だった。けれども自分は、行かせるわけにはいかない、と言った。それは聞きようによっては、相手を保護する、という思いがことばにふくまれているようにも感じられるだろう。
疑念を振り払い、ラスカリスははじめて剣を抜いた。しかし、やはりヴァレリーは身構えなかった。
「したがってください。でなければ、怪我をしますよ」
ヴァレリーは目を伏せた。顔の翳にあるかなしげな色が、さらに深くなった。奇妙な罪悪感を感じ、そしてなぜそのようなものを感じなければならないのかとラスカリスは憤った。
「……したがえないんだ」
相手がうつむいたところに、ラスカリスはとびかかった。剣の柄でなぐって、失神させるつもりだった。
しかし、ヴァレリーの身はゆらめくように横へと動き、かれの攻撃を受け流した。
体勢を崩したが、かまわず第二撃めを相手の腹に向けて打ち込んだ。
その瞬間、自分の鳩尾に衝撃を感じた。逆撃を受けたのだ。
視界が白く飛んだ。
意識の端に残ったのは、心配げにこちらを見おろすヴァレリーのまなざしだけだった。
ふたたび目を覚ましたときには、すでにかれのすがたは消えていた。
2
潮風に、褐色の砂がまじっていた。
キプロス島からシリアのベイルート港までは、ガレー船で一日もかからない。
桟橋に降り立ったヴァレリーは、その足で都城へと向かった。その地下に、ムスリムの捕虜が多く捕らえられていると船上で聞いたからだ。おそらくはこの港から、奴隷として各地に送られるのだろう。
それを救うことができれば、サラディンに面会することも少しはたやすくなるに違いない。ヴァレリーはそう考えていた。
またもうひとつ、気になる話があった。
トランス・ヨルダン領主にしてカラク城主のルノー・ド・シャティヨンなる人物が、ここのところサラディンとの協定に違反してイスラムの隊商を襲い続けており、ついには護衛部隊を率いていたサラディンの親族まで捕虜とした、という噂を商人から聞いた。真偽のほどは定かではないが、伝え聞くルノーという人物の悪名を考慮すれば、かなり信憑性の高い話と言えた。
捕虜となったサラディンの親族がこの地にいる可能性は低い。けれども、居場所の手がかりぐらいは摑んでおきたい。そう考えた。
雑踏をすり抜けて城砦に向かいながら、ヴァレリーはふと、あのラスカリスという若者のことを思い出した。なぜ自分はかれと話したのだろう、という疑問がこころにあった。説得をしても、かえってかれを苦しめるだけなのはわかっていたはずだった。それなのに、自分はかれとの会話にこだわった。
――一緒に行こう。
そう言いたかったのだといまになって知った。かれは、ほかの騎士たちとは違っていた。誠実で、流されない眼を持っていた。
けれども結局のところ自分は、ひとりで行くのがこわかったのだ。
こわくてたまらないから、だれかに一緒に来てもらいたかった。
ヴァレリーは自分を恥ずかしく思った。
ただ、裏切りを強制するようなことはできなかった。それで良かったのだと思う。もしともに来ていたら、不幸にまきこまれることになっていたに違いない。自分は、さげすまれるためにこの地に来たのだ。
こののち敵として出会うことさえなければいい。そのようにだけヴァレリーは願うことにした。
都城の城壁が見えた。すでに暗くなった城に、たいまつの明かりが浮いている。
見た目にも老朽化した城砦だった。かつては栄えたこの地だが、いまはさほど重要な港とはなっていない。都城も、ずいぶんむかしのものを改修して使用しているようだ。つけいる隙はいくらでもあるように見えた。
暗灰色に沈む城壁の外に立った。
登るか、それとも別の潜入路を探るか。いや、行動を起こすにしても、もう少し情報を集めてからにしたほうがいいか。
迷いながらあたりを見まわしていたそのとき――
ふいに上方から、少年の影が襲いかかってきた。
身構えたが、しかし向こうにとってもまったくの出会い頭だったらしかった。少年は剣も手にしてはおらず、腕で衝突から身をかばっていた。子どものように小柄なからだだった。黒い髪が布からあふれて宙に躍っていた。
反射的に抱きとめた。
そして、直後にはげしく突きとばされた。ぶれいもの、とさけぶ子どもっぽい声がそれに続いた。荒れていたが、うつくしい声だった。
顔を見て、はっとなった。
月明かりの中にあったのは、東へ行くことを決断させた顔だった。
ひとみに映ったまぼろしの中の少女と、その容は一致していた。歳の頃は十三、四といったところだろう。まだ、おさない。
少年は、少女であった。だれも気づくことはないかもしれない。が、ヴァレリーにはなぜかそれがわかった。
なるほど、この偶然の縁というものを、あのひとは指し示していたのかもしれない。――ヴァレリーはそのようにも感じた。
「あの……」
慣れぬ口語アラビア語を使って、ヴァレリーは少女に話しかけようとした。しかし、かれに有無を言わさぬまま、少女は襲いかかってきた。
咄嗟に身をかわした瞬間、少女はヴァレリーの腰にあった長剣に手を伸ばして、それを奪い取った。もとより、それが目的であったらしい。
即座に少女は剣を抜いた。
「死にたくなければ去れ」
そう言って剣を突きつけ、少女は脅迫した。だが、ヴァレリーは敵意を持たなかった。どう話せばいいものかあれこれと考える。
緊張感のないかれの態度に、少女は相手の意図を理解できない様子で眉をひそめた。ただ、意図など何も持っていなかったのだから、当然のことではあった。
そのとき、城門のほうに複数の足音が聞こえた。追手であることは明らかだった。少女はうっとうしげにそちらを睨むと、目の前の男には構っていられないという様子で街の外に向かって駆けだした。おそろしく快足だった。
ヴァレリーは急いでそのあとを追う。
「あの……」
少女のすぐ背後にまで迫って、ヴァレリーは声をかけた。少女は黙殺してこたえなかった。
「なんでしたら、加勢しましょうか……」
我ながら間の抜けた言いようだと思った。ことばに慣れていないせいもあるが、実際に自分の言動にかなりまぬけな部分があるのも否めないところだった。
少女のうなじに苛立ちがたちのぼったのが見えた。そして次の瞬間には、鋭い剣光が飛んできた。
首をすくめたすぐそばを、銀の光が通り抜けた。
避けていなかったら、死んでいた。
「さっさと消えろっ!」
少女は振り向きもせずに言い放った。だが、消えるつもりも諦めるつもりもない。ヴァレリーは懸命に追いすがった。全力の走りだったが、少女のほうは息も切らしていなかった。
街のひとびとを縫うようにして走り抜ける。おどろきの顔が左右に流れては、うしろに遠ざかっていく。追手のすがたはさらにその向こうに隠れ、やがて見えなくなった。
途中で、隊商の馬を奪った。ヴァレリーもそれに倣ったが、良心がとがめたのでそれなりの金銭を残しておいた。
ようやく少女が突き進むことをやめたのは、街を出てからややあってのことだった。
そのときになってはじめてかの女は振り返り、ヴァレリーに向かって不機嫌そうな顔を見せた。塵芥を見る眼だった。
「なんじゃ、おまえは」
いま存在に気づいたような口調で、少女は言う。そのことばづかいから、かの女はかなり高貴な身分にあるものとも思われた。
ヴァレリーは名乗り、そして続けた。
「私はサラディンさま……いえ、帝王サラーフ=アッディーン陛下のお力となることをのぞんでおります」
「……ほう」
「失礼ですが、あなたは……?」
こたえにくいに違いないと思ったが、しかし少女はためらいも迷いもなくかれに応じた。
「わたしはサラーフ=アッディーンの末妹である。エルシードという」
隠し立てをすることは何もない、といった態度だった。『正しさに導く者』。男のような名で本名なのかどうかもわからないが、しかしどうやら女であることを隠しているわけではないらしい。ムスリムの中で少女が剣を持つためには、とりあえずそうした名やすがたを選んでおく必要があるのかもしれない。ただ、少年そのものの顔とからだつきは生まれもってのもののようであり、装ってそうしているわけではないように見えた。
「では、ルノー・ド・シャティヨンが捕らえたサラディン陛下の親族というのは……」
「……そのような風聞が流れているのか」
わずらわしいとばかりに、エルシードは髪を手で払って言った。うつくしい顔だちだ。しかし、やはりそれは女のうるわしさではなく、少年のうつくしさだった。
「わたしは捕らえられてなどいない。あの程度の者どもに、身をとどめ置かれたりするものか」
「ここのところ、ルノーがムスリムの隊商を襲っているのは、事実のようですが」
「かれに限らず、フランク人はみなおなじである。いまにはじまったことではない。そういうことがあまりに多いために、護衛の部隊をつけている」
フランク人とは、キリスト教徒全般をさすことばだ。それに対するエルシードの態度は手厳しかった。
「しかしそれでも、わたしが随伴していた隊商は襲われ、積み荷も奪われた。わたしは逃れたが、おめおめと戻るわけにはいかぬ。よって、捕虜を奪い返すべく潜入したのである。が……やはりひとりではどうにもならぬな。身ひとつで逃げ出すのが精一杯であった」
語気やことばから、気性の烈しさがうかがわれた。怒りを燃料にして生きているような、少女らしからぬ雰囲気を感じる。
ただ、その謹厳な口調と容姿のおさなさがいかにも不均衡で、そこには奇妙な可愛らしさもあるのだった。
「すみません……」
ヴァレリーが謝ると、エルシードは不機嫌そうな顔をさらにむずかしくしてかれを睨みすえた。
「兄に紹介はしてやってもよい。しかし、わたしはおまえのような弱々しい男は嫌いである」
そのようにだけ、エルシードはかれに告げた。サラディンにしたがおうとするフランク人などめずらしい。敵の情報を得るのにも役立つかもしれない。おそらく少女は、そう判断したのだろう。
ヴァレリーにとっても、それで十分だった。
ふたたび東へと馬を進めようとして、ふいにエルシードはまなざしを街の方角に向けた。
すでにあたりは暗く、ほの暗い街の明かり以外には何も見て取ることができない。しかし、地響きが伝わっているのをヴァレリーも確かに感じた。馬蹄のひびきだった。
「ひとりに対して十五騎か。器の小さい連中である」
えらそうな口調でエルシードはつぶやく。すでにかの女は、相手の人数を正確に推し量っている様子だった。
「……ふたりだと思いますが」
「おまえなど、数えるに値しない」
後ろを見据える眼が殺気を宿した。ひとみの黒は、月光をはらんでいっそうあざやかとなった。
「……追われていては、ゆっくりと休むこともできぬ。排除しておくものとする」
ほとんど独りごとのようだった。ヴァレリーは苦笑した。どうやら自分は、意識の端にも留まっていないらしい。道ばたの石を拾ったぐらいにしか思っていないのだろう。ただ、それはそれで居心地のいいものではあった。人からの関心には、まだ慣れていないせいだ。
ややあって、一団の騎兵がかれらに追いつき、そして取り囲んだ。エルシードが言ったとおり、その数は正確に十五人だった。
屈強な男が揃っている。なかでも、この兵団を率いているらしい中央の男は、馬があわれに思えるほど雄大な肉体をしていた。周囲の者を圧倒する迫力がある。
男が、無精髭につつまれた口を大きく開いた。
「小僧、手を煩わせるんじゃねえ!」
脅しをふくんだ大声だったが、エルシードの態度に変化はなかった。山河を見わたしているような静けさで、馬上にとどまっている。
「無言で帰るか、詫びて降るか、いずれかにせよ」
エルシードはそのように命じた。まったくもって、この屈強の男たちに対してこの少女は命をくだしたのだ。
一瞬、大男が身じろいだのが見えた。気圧された者の動きだった。
男にとっては、不覚の動きだっただろう。かれは逆上した。
大剣を振りかざし、その剣身を相手に向かって叩きつける。剣の腹を平手打ちのように払って、エルシードを馬上から叩き落とすつもりらしい。
後先を考えず、ヴァレリーはあいだに割り込んだ。
岩を砕く勢いで大剣が迫る。
剣の腹を、素手で受けた。掌の骨がいやな音を立てた。手首から貫くような痛みが走った。
「……ほう」
エルシードの声がはじめて動いた。
「無謀なやつである」
感嘆をふくんだひびきのようでもあった――が、それに喜んでいる場合ではなかった。男は、戸惑って腕を凍らせている。その隙を、逃すわけにはいかない。
剣身を脇にはさみ、それをするどく捻った。男は体勢を崩し、剣から手を離した。
「争っても仕方がない。見逃してはもらえないか」
剣先を男の喉もとに突きつけて、ヴァレリーは頼むように言った。男は敵意をあらわにかれを睨んだ。
無思慮な兵のひとりが、委細構わずかれにいどみかかった。
側方から突進し、剣を振り下ろす。
しかしその剣はヴァレリーが反応するよりもなお先に、月明かりの中へ弾かれて飛んだ。はっとしてそばを見ると、刃を振るったばかりの少女が、やはりどこまでも静かに馬上に座していた。
剣を弾かれた男は呆然となっている。首領の男ほどではないが、身の丈すぐれた巨漢である。その剣を瞬時に弾き飛ばした力。少女が持つにしては、異様なものであるに違いなかった。
ヴァレリーはふと奇妙な危惧をおぼえた。そうした異常な力は、生を凝縮させて燃焼している産物に見えたのだ。
しかし、そんな思いはすぐに首領の男の声によってかき消された。
「てめえから先にやってやるっ!」
隙に乗じて下がっていたかれは、代わりの剣を部下から受け取った。油断さえなければ負けることなどない、という自信が見えた。確かに、それを持つだけの力量がかれには具わっていた。
突撃とともに男は剣を振るった。
背後で、ふたたびエルシードが感嘆の声をもらした。それほど男の剣は速く、力強かったのだ。相手が岩であれば、一撃で両断していたことだろう。下級の将兵としておくには惜しいほどの腕だった。
しかし、その力を、ヴァレリーの技倆は上回っていた。
三合ばかりの剣戟だった。
ヴァレリーの白刃は男の剣を寄せつけぬまま、それを宙に舞わせた。
「もう、やめろ」
疲れのひとみとともに、ヴァレリーは剣を引いた。勝敗が決してもなお諦めぬ視線を向ける男を見て、かれが持つ抜き差しならぬ事情を悟ったのだった。
このまま捕虜を逃して戻れば、厳罰が待っている。多くの部下のためにも、それはできないのだろう。
そう理解したときに、ヴァレリーは目の前の大男を愛した。本来なら相手の力には素直に感嘆する純朴さも、同時に感じていた。数を頼まず、みずからかれは闘った。斃すべき男ではなかった。そんな男をここまで追いつめるような者は、決してひとの上には立ってはならない。ヴァレリーはそう思った。
「やかましいっ!」
吼えるとともに、今度はエルシードに向かって馬上から飛び掛かった。体当たりを食らわせて、摑み落とすつもりらしかった。
「よい判断である」
評するような口ぶりだった。憤怒の形相で襲いくる大男の身を、おもしろそうに見あげている。ほんのまたたく間のことである。そして次の瞬間には――
男のからだは、すでに地面の上にあった。
自分の身に何が生じたのか理解できぬらしく、かれは魂を抜かれたようにぼんやりとあたりを見まわしている。叩き落とされたとかれが知ったのは、ややあってからのことだった。
「まいった。殺すなら殺してくれ」
「ほう。数に頼ろうとはせぬのは、まずまず感心なものである。が……」
エルシードの口もとに、はじめて少女らしいほほえみが浮いた。
「わたしはおまえの髭づらなどほしくはない。であるから、道をあけるのなら、許してやるものとする」
「……わかった」
しかし、それはかれらにとって、厳罰が待つことを意味しているのだ。死をもって報いる、ということでさえあるのかもしれない。察したヴァレリーは、そのことをかれに問いかけた。
悄然としたまま男はこたえた。
「……まあな。だが、あんたらを連れ戻すのは無理だってことぐらいは、おれにもわかる」
うなだれている大男に対して、なんとかならぬものかとヴァレリーは考えた。
「話はついたのか。去るか死ぬか、そうそうに決めよ。もう夜も遅い。わたしはもう、眠くなったのである」
エルシードが小さいあくびを顔にひろげた。遅いというが、まだ日が落ちてそれほど経ったわけではない。そういうあたりは、まだまだ子どもっぽい。
ほほえましい気持ちになるとともに、ふとひとつの案が浮かんだ。
「おまえたち、この地を出て、ビザンツに身を寄せるといい」
「ビザンツ?」
「ああ。ビザンツ皇帝に仕えるイタリア貴族のひとりに、モンテフェラート侯コンラードという人物がいる。そのひとを頼れ。かならず力になってくれるだろう」
「しかし、なんのツテもねえおれたちが行って、どうなるってんだ」
「……向こうに行ったら、ヴァレリウス・アンティアスの名を出すといい。それでわかる」
「ヴァレリウス……?」
「いまはヴァレリーでいい。……いや、キプロスの痴人と言ったほうがわかりやすいかもしれないな」
キプロスの痴人。それを聞いた男の眼に、おどろきの色が広がった。その奇行を皆に嘲笑われていることは、この地にも伝わっている。
「わかった」
おおよその事情を察した様子で、男は頷いた。
「あんたを信じることにする。もしおれたちが生き延びることができたら、そのときはかならず礼はさせてもらうぜ」
男はゆっくりと立ち上がった。だめでもともと、という態度ではあった。
「じゃあな。おれの名はギュネメーと言う。あんたも死ぬなよ。イスラムにサラディンがいるって言っても、所詮ヤツはひとりだ。十字軍の後ろにはいくらでも国がある」
かれの言うことは正確だった。イングランド、神聖ローマ帝国(ドイツ)、フランス、ビザンツ帝国、北イタリア諸都市、南イタリアとシチリア……。そういった強大な勢力が、いくらでも控えているのだ。それらに、サラディンはひとりで立ち向かわねばならないのである。
「……ありがとう。気をつける」
そうこたえると、ギュネメーという名の大男は、部下を引き連れて北へと去って行った。ヴァレリーの忠告どおり、ビザンツ帝国に向かったのだ。
「けたたましい連中であった」
もう眠くてならないらしい顔つきで、エルシードが軽く息をついた。
「ヴァレリーとか言ったな。その程度に使えるのなら、護衛にはちょうどよい。わたしはもう寝るから、朝まで番をせよ」
当然のこととして、少女は命じた。ヴァレリーは頷かざるをえない。
「それと、わたしは虫が嫌いじゃから、一匹たりとも近づけぬように。羽音が聞こえたら、おまえも一緒に斬るからな」
「はあ……」
エルシードは馬上から飛び下りると、そのまま草を枕にして目を閉じた。自信ゆえの無防備なのだろう。
「先のことばを少し訂正しておく」
ふいにふたたび目を開いて、エルシードはつけ加えた。
「わたしは、おまえのような弱々しい顔つきをした男は嫌いなのである」
やはりそのようにだけ、少女はかれに言うのだった。
3
翌日、すなわち一一八七年七月三日のこととなる。
東に向かって馬を進めていたヴァレリーとエルシードのふたりは、キリスト教徒の軍勢、すなわちイェルサレム王国軍と思われる兵団を発見した。ティベリアス湖(ガリラヤ湖)の西、約二十キロの位置にあるトーランという集落の近辺だった。軍は、サフォリからトーラン、ニムリン、ヒッティーンと通過して、ティベリアス湖畔に至る経路をたどっていた。
この動きの直接の要因となったのは、やはりサラディンであった。
かれは正規軍と志願兵合わせて四万五千騎の軍勢を率いて、前月二十七日にヨルダン川を渡ってティベリアス湖西方のナザレまで進出し、その後今月二日、いきなり湖西岸に取って返してティベリアスの街を攻撃した。
そしてこの街には、イェルサレム王国軍の重臣トリポリ伯レイモンの妻が滞在していたのである。
そのためトリポリ伯レイモンはイェルサレム国王ギイ(ギイ・ド・リュジニャン)に出陣を訴え、それに応じたイェルサレム王国軍は、ティベリアス湖畔に向けて急行することとなったのだった。
そうした現状についても、ふたりは周辺のひとから聞いて、おおよそ把握していた。
「……むう、急がねばなるまい。今日明日にも決戦になりそうじゃ」
やはり独りごととしてエルシードはつぶやいた。隣にいるのは人間であると認識していない態度だった。話すに足らぬと思っているらしい。
「殿下がおいでになるまでもないでしょう」
ヴァレリーは確信をもってそのように言った。だが、エルシードの反応はいつにも増して手厳しかった。
「だまれ。世辞やこびへつらいほど、聞き苦しいものはない」
「いえ、そうではなく……」あわててヴァレリーは否定した。エルシードというひとは、いつも核心しか求めていないようだった。ヴァレリーはそれにしたがった。
「サラーフ=アッディーン陛下の狙い通りに、すべては動いているということです。殿下が力を発揮なさるまでもなく、陛下は勝利をおさめられることでしょう」
「……根拠でもあるのか」
「ティベリアスの街を攻撃なさったのは、サラーフ=アッディーン陛下の『誘い』です。相手を誘い出すためにあえて、敵の重臣の妻が滞在している地だけを選択的に攻撃したのです」
エルシードのかれを見る眼が、値踏みするような光をもらした。はじめてひととして認めてもらったような心地を、ヴァレリーは持った。
「イェルサレム王国軍はサフォリの高地を占めて陣を張っていました。それを打ち破るのは容易ではありません。これを動かすために、陛下はもっとも効率のよい挑発をおこなわれたのです。そのようにしか解釈できません」
「む……」
「さらに言えば、敵の進む経路を特定する効果もあります。おそらくヒッティーン近辺にて、陛下はギイ王以下のイェルサレム王国軍を南北から捕捉し、包囲戦にもちこむことでしょう」
確信があった。これまでに得た情報と、現状。それら数多くの要素を合わせ考えると、ただひとつの道すじが見えてくる。サラディンが仕掛けた罠に、刻一刻とイェルサレム王国軍は近づきつつある。そしてそれを知っているのは、サラディンと、かれの重臣ばかりであることだろう……。
「しかし、たとえ包囲できたとしても、勝利できるとは限らぬ。兵力に大差があるわけではない。フランク人の鎧は硬い。そう簡単には撃破できぬ」
「いえ……おそらく、イェルサレム王国軍は決定的な損害を受けて打ちのめされることでしょう」
「なぜおまえがそのようなことを言える」
「……この日差しですよ」
ヴァレリーは空を見上げてこたえた。炎のような陽光が、そこから降りそそいでいる。暑さには慣れているのか、エルシードは汗もかいてはいない。しかしヴァレリーにとっては、じっとしているのもいやになるほどの酷暑だった。
「陛下は決戦の場所を、すでに特定しておられるでしょう。主導権は陛下にあるのです。そのためおそらくは、水場を押さえた形でイェルサレム王国軍を包囲なさることと思われます。ムスリムほど暑さに慣れていないキリスト教徒が、この酷暑の中で水場を押さえられては、士気の低下はまぬがれません。長く持ちこたえることはできないでしょう」
「ぬう……」
怒りをふくんだまなざしでエルシードはヴァレリーを睨んだ。無言のまま、かれの顔を見つめ続ける。
そして何を思ったか、かの女はふいに、手にしていた剣で馬の手綱を切り取った。
なんのつもりかと尋ねる間もなく、少女はその綱をヴァレリーの手首にしっかりと結わえつける。手首の血行が止まるほどの固さだ。
「え……」
かれがあっけにとられている前で、綱のもう一端を、エルシードは自分の手首に結んだ。これでは、ほんの三歩の距離もあけることができない。少女の芳香がとどいて、ヴァレリーは少しばかりうろたえた。
「あの……どういうことなのでしょうか」
「当然であろうが」
エルシードはきわめて冷ややかにこたえた。
「そこまで見抜いている者が、こころ変わりして敵陣に走ったらたいへんなことになる。ころしてもよいのだが、どちらを選ぶか」
「……でしたら、こちらのほうが……」
「綱をほどいたりなどしてはならぬぞ。妙な動きをしたら、その場でたたき斬る」
真剣な顔つきで、少女はそのように脅した。どこまでも本気であるようだった。しかし、本気であればあるほど、ヴァレリーには嬉しいことでもあった。自分の推測が受け入れられたということになるからだ。
「つまり、私の申し上げたことをお認めになってくださったということですね?」
ヴァレリーが尋ねると、エルシードは苛立たしげにそっぽを向いた。
「そんなことは、知らん」
くちびるをとがらせた表情が、一瞬だけかいま見えた。うつくしい少年の顔だちだが、その表情は少女のものだった。
「それよりも、ひとつ理解しかねることがある」
ふたたびヴァレリーのほうに視線をもどして、エルシードは問いかけた。
「なんでしょうか」
「おまえが祖国を裏切る理由は、どこにあるのか。それがはっきりせぬかぎり、決して信用はできぬ」
「理由……ですか」
「そうじゃ。それをいまここにはっきりと言明せよ」
「特にそのようなものはないのですが……裏切るというつもりは、ないのです」
エルシードの眼が烈しい光を放った。剣に手がかかる。やはりどこまでも本気だ。あわてて、ヴァレリーは話を繫げた。
「私は、邪教ということばをなくしたいのです。異教を邪と呼ぶこころは、みにくいものです。サラーフ=アッディーン陛下は、それを照らす明かりとなることをのぞんでおられるように私には見えるのです」
「異を邪と呼ぶのは、キリスト教徒だけじゃ」
エルシードはそう斬って捨てた。
「特にイスラム教はもっとも寛容な宗教である。教えを強制することは決してしない。キリスト教徒だけが、それをする。おまえが、そうしたキリスト教徒のありようを変えたいのなら、おまえたちの中で勝手にやればよいではないか」
挑みかかるようにエルシードは主張した。ヴァレリーは反論しなかった。まったくただしいことだったからだ。
しかし、イエスの火がこの地で戦火となって燃えさかっていることも確かだ。それを抑える力になりたいと思う。
そのことを、ヴァレリーは伝えた。
エルシードはいい顔をしなかった。
「おまえは、おまえの神を捨てる覚悟があるのか」
取り調べるような語気で、かの女は訊いた。
「庶民としてひっそりと暮らすのなら、キリスト教徒のままでもよい。しかし、十字軍と戦うのならば話は違う。おなじキリスト教徒を信用できるわけがない」
こたえることがヴァレリーはできなかった。
「言いたいことは、それだけじゃ」
エルシードはそう締めくくった。しかし、ことばを返さずにいるヴァレリーを見て、かの女はふたたび話を続けた。
「おまえ、いまわたしに対して、『自分がそういう立場だったら、神を捨てられるのか』などと考えたじゃろう」
どこか子どもっぽく、いやみっぽい邪推だった。当然、ヴァレリーは首を横にふる。が、エルシードは話を強引に推し進めた。
「噓をつくな、そうに決まっている! 言っておくがな、わたしは神など……このようなことを言うと皆に叱られるから普段は口にせぬが、わたしは神など信じないのである」
どうも、ヴァレリーが戦いの推測を正確に述べてから、妙に饒舌になっている。もしかすると、少しは相手を気に入ったのかもしれない。興味を持った道具を思い通りに改造したがるような稚気が、ことばの端にたちのぼっていた。
「はあ」
「真理はあってよい。しかし、ひとの命運をさだめる神というものは、わたしは好きではない。みずからの進む道が、そうしたものによってすでに切り開かれているとは思いたくない。神というものを最初に考え出して、ひとびとにのぞみをあたえた者は、偉大であるし尊敬に値するとは思うがな」
なるほどこのひとは勇者だな。ふとそのようにヴァレリーは感じた。寂とした微風がこころの裡をよぎった。
――このひとは弱者のこころを、知識としては理解しているだろう。けれどもそれを、実感として感じることはないのでは……。
そんな思いをかれは抱いたのだ。
しかし――
そうした認識があやまりであったことを、かれはのちに知ることになる。読心術や千里眼を会得しているわけではないかれである。出会ったばかりの人物のこころを、正確に読みとることなどできようはずもない。
かれらが互いを理解するには、まだしばらくのときが必要だった。
「……そうですね。ただしいことだと思います」
根拠のない想像などにはこころをゆだねず、ヴァレリーは微笑して頷いた。
「ふん」
やはり不機嫌そうにしたまま馬首のほうに顔を向け、エルシードはふたたび馬を進めだした。手綱に手を引かれ、あわててヴァレリーはその後に続く。
「む」
ややあってから、エルシードがふいに馬を止めた。
「どうかなさいましたか」
こたえは返ってこなかった。
「あの……」
「……はばかりである」
言って、綱を一旦ほどくと馬を飛び下りた。小用らしい。そのまま草叢のほうに歩きだす。少年の印象があるので、なんとなく違和感があって可笑しい。少女らしい恥じらいが残っているのだな、などと思ったりもする。
「絶対に逃げるなよ。逃げたらころす」
念を押してから、少女は藪の向こうに消えた。かなり我慢していたのか、あわてた様子だった。
「近づいてもならぬぞ。のぞいたりなどしたら、この世ならぬぐらい残酷な方法でころすからな」
すぐにかの女はもう一度藪から顔を出して、ひどく真剣な眼で釘を刺した。その頰に、ほんの少しばかりのあたたかみがさしていた。
4
その夜――
ヒッティーン近郊に野営したイェルサレム王国軍を、南北から挟んで睨む形で、サラディンの軍勢が陣を張っていた。ヴァレリーの推測は、やはりただしかったのだ。サラディン軍の本隊は南のルビヤ村などを押さえ、北のなだらかな丘陵からは、各地から集った志願兵による義勇軍が敵に睨みをきかせている。
決戦前夜の様相だった。
さすがにこの状況では帝王サラディンに面会することなど、不可能である。ヴァレリーはエルシードに連れられ、サラディンの甥タキ=アッディーン・ウマルに会わせてもらうことになった。
「あれは……」
見張りの兵士が声をあげた。手首を綱で繫いだ二人組に、不審げなまなざしを向けている。しかし、その表情はすぐに一変した。
「殿下だ! エルシード殿下がお戻りになられたぞ!」
「なに!」
兵士の周辺が一気にいろめきたった。騒ぎの渦が、すぐに陣中にひろがっていく。だが、エルシード自身は何ごともなかったような顔をしている。
「ウマル先生はどこじゃ」
どうやらタキ=アッディーンという男は、かの女にとって師のような存在であるらしい。血縁的には、エルシードのほうが『叔母』ということになるのだが……。
兵士たちが集まって、かの女を取り囲む。
「殿下、よくぞご無事で……」
涙を流している者までいる。ヴァレリーはすっかり取り残されてしまっていた。
「よくぞというほどのことはしていない。それより、先生はどこにおられるのかと訊いておるのである」
うっとうしげな表情の中に照れを浮かべつつ、エルシードはあたりの者に尋ねた。その口ぶりにもおなじく照れがある。どうやら、そうしたときほど謹厳なことばづかいになるようだった。
「ここだ」
将兵の背後から壮年の男があらわれ、エルシードへ苦笑を向けた。特に体格すぐれたひとではなかったが、まとっている雰囲気には独特の涼やかさがあった。もう少し若ければ、快男児ということばがなじんだだろう。
「まったく、ひとりで敵の拠点に潜りこむとは、困ったやつだ」
自分の息子を可愛がるようなあたたかみのある声だった。一聴してヴァレリーは好感を持った。エルシードが師として尊敬するのもわかるような気がした。
「おことばですが、特に危険なことはしていません」
エルシードは拗ねるようにこたえた。信愛と信頼、そしてさらに憧憬のようなものが、声の中から感じ取れた。つまりは、このおそるべき少女をあこがれさせるだけの大きさを、タキ=アッディーン・ウマル・イブン・アイユーブというひとは持っていると言うことだった。
「まあ、とりあえずそれはよしとして……」
タキ=アッディーンはヴァレリーのほうに視線を移した。楽しんでいるような眼である。不審の色はない。フランク人だからと特別視する様子もなかった。
エルシードが先んじて説明する。
「いろいろと事情があって、連れてきました。フランク人ながら、陛下のもとに加わることをのぞんでいるようです」
「ほう」
面白そうにふたりを視界に入れながら、タキ=アッディーンは薄い髭を指でなでた。
「しかし、なんでまた手をおたがい縄で繫いでいるんだ。おまえにはそんな趣味があったのか」
「ち、違います!」
エルシードは真っ赤になり、あわてて手首の縄をほどいた。
そして、ここに至った経緯を話す。ただ、出会いや追手との一悶着についてはほとんど話さず、ヴァレリーがおこなった推測について、かの女は詳しく伝えた。ティベリアスの街を攻撃したのは、イェルサレム王国軍をおびきだす罠であろうということ。ヒッティーン近辺にて決戦になるということ。水場を押さえた形で包囲戦に持ち込むだろうということ……そうした内容だった。
「ほう……」
話を聞くうちに、タキ=アッディーンの眼が鋭さを増していった。ヴァレリーを見るまなざしに強い光がまじる。
エルシードは言う。
「臣下に加えるかどうかは陛下のおこころひとつですが、とりあえずこの戦いのあいだは、拘束しておかねばなりませぬ。この者がいま敵に走り、考えを伝えるようなことがあれば、われわれは危機に陥ります」
「……なるほど、な」
思慮深い頷きだった。ただ、すぐにかれはなんらかの判断をくだし、ヴァレリーに向かって訊いた。
「失礼だが、名はなんと仰る」
完璧なギリシア語だった。ビザンツ帝国の公用語である。
「ヴァレリーと申します。いままではキプロスに住んでいました」
「どなたかに仕えていたことは?」
「ありません。事情があって、ずっと幽閉されていました」
「キプロスの総督はいま、ビザンツ帝国から独立して皇帝を僭称していると聞く。そのかれのもとに幽閉されていたということは……あなたが、なんらかの利用価値を持つ身であるからと考えてよろしいか」
鋭い指摘だった。相手の危険度をさぐる舌鋒は、機智に満ちていた。
「それは……」
ヴァレリーはこたえに迷って言いよどんだ。自分の出自をまともに明かすと、面倒なことになりそうだったからだ。
睨む視線をエルシードが向ける。
「ふ……まあ、よい」
ここではじめて、タキ=アッディーンは相好を崩した。唐突に口調が切り替わった。
「話したくないことは訊かぬよ」
「しかし、先生……」
エルシードが反論しようとしたが、かれは手でそれを制した。
「たくらみを持った者は、こたえを用意しているものだ。みずからキプロスの名を出して、その後言いよどむようなへまは決してしない。かれは安全であり、われわれの力となりうるだろう」
やはり、機智のひとだった。むろん、こころから信じたわけではないのだろうし、すべての警戒をといたわけでもないのだろう。が、かれは正確な判断をくだした。ヴァレリーには、たくらみを隠してひとに対面する当意即妙の才知はない。タキ=アッディーンというひとは、おそらくそこを見た。
「それにな、四十年近くも生きておれば、見た目でおおよそ人間の判断はつくというものだ。この顔は、噓を言おうとするとすぐに不自然になる顔だ」
「……ありがとうございます」
「ふふ、漢に対する褒めことばではないぞ」
タキ=アッディーンは一笑して続けた。
「むしろ、こちらのほうが礼を言っておかねばならんな。大方、追手に囲まれたというときも、おまえが加勢してくれたのだろう。こいつに代わって感謝する。どうせこいつは、まともに礼も言っておらんだろう」
不満げにエルシードが顔をそむけた。生真面目なよそよそしさだった。
ヴァレリーは、話を移した。
「何か、お力になれるようなことはないでしょうか」
「今回はないな。おまえの推測どおり、すでに勝利は約束されている」
「……はあ」
「ふふ、陛下に目通りする前に手柄を立てさせてやりたいところだがな。まあ、心配するな。この地でただひとり、おまえは陛下の策を看破した。まったくの部外者であったにもかかわらず、策の委細に至るまで完全にだ。おれは、正直おどろいているのだよ。そのような者が唐突に目の前へあらわれたことにな。いずれ、われわれの力になってもらおう」
「わかりました」
ヴァレリーは微笑を返してこたえた。
「微力にもおよばぬかもしれませんが、全霊を尽くしたいと思います」
「ははは、畏まるな。その顔には似合わんよ」
開放的で、気取ったところがない。あっさり相手を信用してしまっているように見える。むろん、その向こうにはさまざまな判断があるのだろう。ただ、かれはそれをいっさい外にはあらわさず、闊達なほがらかさをまわりにしめしていた。
「まあ、今夜は軽く杯を交わそうではないか。本格的に飲むのは、明日のこととしてな」
「え……ムスリムの方も飲まれるですか」
「ははは、飲まんやつは飲まんが、ま、たいていは建前だけのことさ」
かれの言う通り、本来のイスラム教は非常に寛容なものであって、基本的に聖典に敬意をしめしていれば、あとは何をするのも自由という性格を持っている。
当時は飲酒も厳禁というわけではなかったし、豚肉の禁忌についても、寄生虫の危険のためにむかしから伝わっていた生活の知恵を、寛容な教義が取り込んでいった結果のものだった。
西洋よりもずっと高度に文明化されていた当時のイスラムは、きわめて寛容でおおらかな存在だったのだ。
このタキ=アッディーンのように。
「まさか、おれの杯は受けられんというわけではあるまいな」
にやりと笑ってヴァレリーの肩をたたくと、かれは強引に野営の帷幕へと誘った。エルシードがぶつぶつと文句を言いながら、後ろについてくる。
幕舎では、軽くというには無理があるほどの果実酒がふるまわれた。語り合うささやかな宴は、深夜まで続いた。
不機嫌そうにだまって薔薇水を飲んでいたエルシードは、いつの間にかその場で眠ってしまっていた。
のちにヒッティーンの戦いと呼ばれる決戦は、一一八七年七月四日の朝に開始された。
南から圧力をかけるサラディンの正規軍は、右翼にタキ=アッディーン、中央にサラディン、左翼に将軍ケクボリ・ムザッファル=アッディーンを配して、イェルサレム王国軍を包囲する勢を見せた。
サラディンは慎重だった。イェルサレム国王ギイの進路を見はからい、水を求めてティベリアス湖方面に進むことを確認してから、戦端をひらいたのだ。
隙のない用兵だ、とヴァレリーは感心した。
タキ=アッディーン隊の中にあって、かれは戦闘の推移を観察している。見ておいてくれ、というタキ=アッディーンの厚意によるものだった。むろん、手もとで監視する意味もあるのだろう。ヴァレリーはサラディンの作戦を推察した。ほぼ正確に、中身を知っている。そのような者の行動は制限せねばならない。当然のことだった。
「この先どのように展開すると思うか」
エルシードが尋問するように訊いてきた。かの女も、帰還したばかりなので、兵を率いることはせず一剣士としてタキ=アッディーン隊に加わっていた。おそらくは、ヴァレリーの監視役を引き受けさせられたのだろう。
「作戦の内容について、タキ=アッディーンさまからお話はなかったんですか」
「おまえが遅くまで酒を飲んでいたから、聞けなかったのではないか。おまえは聞いたのか」
「いえ……でも、たぶんおおよそはわかると思いますよ」
「……ふん、えらそうに」
やはり不機嫌顔でとげとげしい物言いをする。しかしそのわりに、近くに来ては話しかけてくるのが不思議だった。本人は、『することがないから仕方がない』などとぶつぶつ言っている。
「そこまで言うのなら、予測してみせよ。それが当たるとは思わぬがな。おまえのようなやつが、陛下の深いお考えを読めるわけがないのじゃ」
「私も、そう思いますが……」
「うるさい。追従はいい。思うところを述べよ」
エルシードは強く迫って言った。あざやかなひとみの黒が、砂風の中でいっそうのかがやきを放った。それは胸をつかれるようなうつくしさで、ヴァレリーはそれを見るたびにいつも、こころの中で奇妙な狼狽を感じるのだった。
「まだ動いていない北の義勇軍が鍵になっていると思います」
北のなだらかな丘には、各地からの雑多な志願兵を集めた軍勢があり、レワニカという名の一将がそれを率いていた。この部隊はただ攻撃の機会をうかがって北の丘にとどまっているのではない、とヴァレリーは見たのだった。
「かれらにどのような狙いがあるというのか」
「おそらく、風上になるのを待っているのでしょう」
以前とおなじく、ヴァレリーは確信を持って語った。自分でもおどろいているのだが、こういうことに関しては、はっきりとした自信とともにことばを話せた。
「風上?」
「はい」
頷くと、エルシードは苛立たしさをあらわにして急かす仕草を見せた。ヴァレリーは苦笑してこたえる。
「あの乾いた雑草を利用しない手はありません。今回は、地形も天候も事前に詳しく調査した上での戦いでしょうから」
「……火か」
さすがにエルシードは理解して言った。
「はい……あ、風が動きだしましたね」
朝まではよどんでいた大気が、北から吹きおろす方向に流れはじめた。水の気配をまったくふくまない砂風だった。盛夏の熱気を、汗とともに押し流していく。
「たぶん、もうすぐ煙があがるでしょう」
ややあって、そのことば通りに、北の丘から一斉に白煙があがった。ほとんど、かれの指示が伝わって動いたかのような間合いだった。
「正解でしたね。よかった」
「おまえ……」
わずかのあいだエルシードはことばをなくしていたが、すぐに思い直した様子で首を横に振った。
「どうせウマル先生から、作戦を聞いていたのに違いないのじゃ。これは詐術である」
ヴァレリーは微笑しただけで反論はせず、遠方に目をやって戦いの行く末を見守った。
それまでは半包囲されつつも一進一退の攻防を続けていたイェルサレム王国軍が、背後を火に押されて恐慌に陥りはじめた。もとより水場を断たれて渇き苦しんでいたかれらである。士気というものはもはやなかった。
しかしそれでも、崩れない。
それは、敵将の才というよりは、イスラム側の攻撃力の低さに理由があったろう。文明化されたかれらは、キリスト教徒側ほどの野卑な戦闘力を持たなかった。その矢は、キリスト教徒の鎧を容易には貫けなかったのだ。
「まあ、ときの問題であるな」
エルシードは落ち着きはらって言った。
「戦闘力に多少の違いはあれ、ここまで恐慌に陥っては、もはや戦えまい」
かの女の判断は間違っていない。このまま包囲戦を続ければ、いずれ敵は降服するか壊滅するだろう。
だが――
「ちょっと、よくないですね」
遠い喚声の色合いに変化があった。ムスリム側のひとの流れとぶつかり合いには、よどみが見えた。
はじめてヴァレリーは眉をひそめて言った。こころに懸念が浮いた。
「何がよくないと言うのじゃ。明らかな勝勢ではないか」
「いえ、勝ちは勝ちなんですが……」
「何があると言うのか。はっきりものを申せ、苛立たしい」
「……敵が死兵になりつつあります」
「死兵……」
エルシードは敵の喊声に耳をやった。そしてその意味を悟った様子で、目をかすかに細くした。
「死を覚悟した者ほど、やっかいなものはない。確かに、うっとうしいことであるな」
敵は死兵だが、こちらは生兵である。どうしても及び腰になる。戦闘は長引き、損害が増えてゆくことだろう。
「じゃが、死を決めたと言うなら、その死をあたえてやればよい。かれらも、神の国に喜んで入れるではないか」
少女の皮肉を聞き流し、ヴァレリーはその場で騎乗した。
「差し出がましいかもしれませんが、タキ=アッディーンさまに献策してきます」
「なに」
エルシードの確認を得るより先に、ヴァレリーは馬を走らせた。あわてた様子で、少女は後を追ってきた。
あくまで、かれの行動を見張っているこころづもりであるらしかった。
右翼の指揮をとるタキ=アッディーンの周辺が、にわかにいろめきたった。若い西洋人がひとり、馬を走らせて駆け込んできたからだ。
護衛の兵士たちが、剣を手に取って身構えた。ヴァレリーは馬をおりて、抵抗の意志のないことをしめす。
周囲の護衛を制し、タキ=アッディーンが馬を寄せてきた。昨日の気さくな態度とは違い、戦いの中にある厳しい表情をしている。やはり良将だとヴァレリーは思った。
「何をしに来た。おとなしく見ていろと言ったはずだ」
「将軍。ひとつだけ進言させてください。お手間はとらせません」
ヴァレリーは強く願い出た。確信があったからだ。かれの目をしばらく見つめた後、タキ=アッディーンは頷いた。
「……よかろう。話せ」
「一旦、東側の封鎖を解いて敵を包囲の外に出してください」
「なに」
不審をあらわにして、タキ=アッディーンは目を細めた。しかし、ことばを発しない。一度聞くと言ったからには最後まで聞く。そういう態度だった。
「死兵を相手にしては、損害が増えるばかりです。のちのためにも、なるべく兵力を温存すべきです」
イェルサレム王国の背後には、イングランドやフランスなど、強国がいくつも控えている。消耗を度外視して勝利することを目指すべきではなかった。
「しかし、包囲を解いて逃がしてやるわけにはいかぬ」
「重装備のキリスト教徒軍は、自分たちがイスラム側よりも鈍重であることを熟知しています。逃げても追いつかれることを知るかれらは、いまもし東から包囲を脱出したならば、かならずヒッティーンの丘の西突端にのぼり、高地を占めて態勢を立て直そうとするでしょう」
「む……」
「しかし、あそこには水場がありません。丘にのぼったところを再包囲すれば、かれらはもはや渇きに耐えられないでしょう。しかもいちど死地を脱したかれらは、死兵ではなく生を知る兵となります。かならず降服するでしょう。双方とも死者を増やすことなく、決着をつけることができます」
タキ=アッディーンは押し黙った。反論することを考えている様子ではなかった。機智のひとだ。すでに、ヴァレリーのことばの妥当性を計算している。
そしてやはり、こたえを出すのも早かった。迷っていたのは、わずかのあいだだった。すぐに早馬をサラディン本陣に出し、ヴァレリーの策を伝えたのだ。
それに対するサラディンからの返答は、『諾』であった。
タキ=アッディーンの速さ。また、それに応じたサラディンの速さ。ヴァレリーは感嘆した。
即刻麾下の部隊を引かせ、タキ=アッディーンは封鎖を解いた。脱出口めがけて、イェルサレム王国軍の兵士たちが殺到する。その瞬間、かれらは死兵ではなくなった。
喧騒とさけび。行き交うする将兵の波が無秩序をもたらす。
これ以上はのぞめぬ速さでタキ=アッディーンは兵を動かしていたが、それでも一部の隊は敵の混乱に巻き込まれた。兵の流れをかわしつつ、散開していく。
ヴァレリーの周辺も、敵兵の突進に見舞われた。それはタキ=アッディーンがいかに前線に近い場所で指揮をとっていたかを証明するものでもあった。
かれは剣をとって戦わねばならなかった。まぎれこんでくる敵歩兵のすがたがあった。かれにとってはおなじキリスト教徒であり、かつての同胞だった。
――斬らねば……!
しかし、手が動かなかった。おなじくイエスを想う者を斬る。できるつもりだったが、からだがそれをこばんだ。
敵兵が迫った。
しかし、次の瞬間、その喉からふいに矢が生え、敵は砂の上に倒れた。はっとして振り向くと、エルシードが弓を手にして立っていた。
躊躇ったのを見られた。そう思った。
少女はどこか暗い目をして、ヴァレリーをじっと見つめていた。
イェルサレム王国軍がヒッティーン丘陵の西突端にのぼって反撃を試みようとしたとき、戦いの帰趨は完全に決まった。
万全を期したサラディンは、本隊の半数を下馬させて歩兵部隊とし、これを迂回させて東から敵を圧迫した。またそれと同時にタキ=アッディーン隊、義勇軍部隊と連携して北、西、南の三方から敵を封鎖したのだ。
完全な包囲網が完成した。
イェルサレム王国軍は丘の高地に閉じ込められた。士気や戦意の残っている状態であれば、かれらも最後の突撃を試みただろう。しかし、この包囲された状況に加え、酷暑と渇きがかれらから意志というものを奪っていた。
戦闘はその後もなおしばらく継続されたが、やがて軍旗の役割を担っていた『真の十字架』を奪われるに至って、かれらはついに降服した。
国王ギイ以下三万の兵は、武装解除されたのち、捕虜として捕らえられた。逃れることに成功したのは、トリポリ伯レイモンとイベリンのバリアンにつきしたがったわずかの部隊のみであったと記されている。
ヒッティーンの戦いはここに終了した。