ひぐらしのなく頃に 鬼隠し編

第十三回 6月25日(土)

竜騎士07 Illustration/ともひ

ゼロ年代の金字塔『ひぐらしのなく頃に』の小説が、驚愕のオールカラーイラストでついに星海社文庫化! ここに日本文学の“新たな名作”が誕生する!「鬼隠し編 (上)」を『最前線』にて全文公開!

6月25日(土)

一睡いっすいもしなかった、というのは噓になるのだろうか

一晩中ひとばんじゅう起きていたつもりだったが、記憶は明らかに何箇所なんかしょ欠落けつらくしていた。

何度も眠りに落ちては、その度にあわてて顔を上げるということをずっと繰り返していたに違いない

俺は結局一晩中、バリケードのように布団で部屋への入り口をふさぎ、その上で金属バットを抱きながら座り込んで、ただただじっと窓から来るかもしれない侵入者を見張り続けていた。

俺がここを立ち上がれば、扉からの侵入者は布団を跳ね飛ばして襲い掛かり、俺が窓を見張るのをおこたれば、窓からの侵入者はガラスを破って襲い掛かり

被害妄想に過ぎないと何度も自分をたしなめたが眠れはしなかった。

眠るという無防備状態がただひたすらに怖かった。

そんな怖い思いをしてまで眠る必要なんかない。それならずっと起きていた方がよっぽど気が楽だった。

そんな時間をずっと繰り返すうちに、いつの間にか表が明るくなった、それだけの事だ。

だからこれは朝というよりは、日が昇っただけの夜と言えるのかもしれない。俺にとっての昨夜は、まだ終わることなく続いているのだから。

カーテンの隙間からこっそりと家の前を見る。

すでにレナの姿はなくなっていた。周りをいくら見渡してもその姿は見つけられない。

そこで初めて、俺は深く息をつき、夜が終わったことを知ったのだった

レナの姿を夜中に何度も確かめようと思った。でも、レナも俺が顔を覗かせるのを待ち構えているかもしれない。そして、またあの鷹の目で射貫かれてしまうようなことがあったなら。だから怖くて、確かめられなかった。

眠くないと言えば噓になるが、寝直したいとは思わなかった。

まだ時間はある。だが朝食の準備は自分でしなくてはならないのだから、早めに起き出した方がいいだろう。

学校を休むという選択肢もあった。お袋がいない以上、ズル休みは簡単だ。

正直に言って迷う。

家を出ることに対するリスクは計り知れない。ここに籠城ろうじょうしているのがおそらく、一番安全だろう。

だが。このままいても何も解決しない。

大石さんは目に見える証拠がない限り、何も助けてはくれない。

でもそれは大石さんだけじゃない。両親だって同じことだ。

つまり目に見える何かが得られない限り、日が昇ろうとも、終わらない夜はずっと続くのだ。

いつもそうするように、ぐっと伸びをしてから頭を後ろへ反らし、目を閉じる。

息を落ち着ける冷静さを取り戻す。クールになれ前原圭一

登校しよう。

俺に対して何かが仕掛けられるのを待とう。

だがそれは手をこまねいているわけではない。その魔手を紙一重でかわし、逆に動かぬ証拠として押さえるのだ。

車が近付いてきたらナンバーをチェック。不審者は服装や顔などをチェック。

自分の身を守るというよりも、敵の攻撃を逆手に取る、反撃の心構えだ。

それはさむらいが刀を抜き合い互いに一撃必殺を狙い合う、そんな緊迫感に似ている。

俺だけに一方的に不利なんじゃない。俺にだって反撃のチャンスがあるんだ

胸の奥にようやく、ちょっぴりの勇気が戻ってくる。

よし。登校しよう。

悟史のバットを握り直す。俺の心強い唯一の相棒あいぼうだ。

悟史、どうか俺に力を貸してくれ。

そして、多分殺されたのだろう、お前の無念を俺にたくしてくれ。俺がきっとそれを晴らす。

決意を新たに時計を見上げる。まだ時間は早かった。

もちろん今日も一人で登校する。

レナや魅音と鉢合はちあわせしたくないなら、もう出ないとまずいだろう。

俺は入念に戸締りを確認し、家を出た。

制服は昨日泥だらけにしてしまったので、洗濯機に突っ込んだまま。だから今日はジャージでの登校だ。

昨日までの朝と違う服装が、今朝という朝が昨日までと確実に異なることを認識させた。

だから本能的に悟る。俺は今日、殺されるかもしれない。

気を許すな前原圭一。今日が最期の一日になるかどうかは他でもない、俺自身が決めることになるだろう

宣戦布告

今日も一番に登校し、朝を当然の日課であるかのように素振りで過ごす。

やがてレナも登校してきた。目が合ったが挨拶はしない。

レナは昨夜のことを何も言わなかった。まるで何事もなかったかのように。

だが、レナの十指じっしには昨夜の出来事が確かにあったことを示す傷がざっくりと刻まれている。

その絆創膏ばんそうこうだらけの両手を、台所で怪我けがをしたと沙都子たちに釈明しゃくめいしているのを、さっき聞いた。

もうまるで胸は痛まない。

昨夜、大石さんに聞いた、レナが転校直前に起こした事件がまざまざと脳裏に蘇る。それを知った今、レナが可愛らしい理想的な女の子だなどと夢にも思わない。

「圭ちゃーん、相変わらず甲子園一直線だねぇ。」

魅音が声を掛けてくる。その接近は少し前から察して身構えていたので、特には驚かない。

「魅音か。わかってるなら放っておいてくれよ。俺は甲子園で忙しいんだ。」

俺は茶化す様子もなく、なくそう返事をする。そしてさらに一際大きくスイングし、魅音の接近をささやかに牽制けんせいした。

「圭ちゃんさ、ちょっと休憩きゅうけいちょっと休憩。」

「ホームルームまであとちょっとだろ。もう一汗かかせてくれよ。」

魅音を拒絶する意味を込めてさらに力強くスイングする。

圭ちゃんって野球、好きだったっけ?」

「最近好きになった。」

「最近って、昨日から?」

わかってんなら聞くなよ。」

あれまぁ。スポーツマンにしてはさわやかじゃないお返事だことで。」

「気が散る。放っておいてくれ。」

魅音を無視し、俺は素振りを続ける。

普通、これだけ素っ気無くされれば、怒るか呆れるかして行ってしまうものだが。魅音は立ち去らず、俺が素振りをやめるのをじっと待っていた。

今さら俺に何の話だってんだ。レナに昨日の話を聞いて、その上で俺に何か「忠告」でもあるってのか

特に殺気も感じない。場所も見通しのいい校庭だ。突然襲い掛かってくるようなこともないだろう。甘いか?

だが少し疲れてもきた。一休みし、魅音の話を聞いてやってもいいかもしれない。

何だよ。」

素振りをやめると汗がどっとあふれてきた。肩で息をしている自分に気付く。普段の運動不足に呆れる。

これではいざと言うとき、自在に体が動かせるかどうか実に不安だ。素振りはバットを携行けいこうする理由作りだけでなく、体力作りの意味でも続けた方がいいだろう。

「用ってわけでもないけどさ。お疲れのようなら後にするけど?」

「今でいい。」

今の状況が安全だと判断したから付き合うだけだ。二人きりでひと気のないところで相談なんてのは危険だろう。

えっとさ。うーん、」

魅音にしては言葉を選んでいる。だが大石さんのするような、先を聞くことを躊躇させるような話題ではないようだ。

うまい言い方が思いつかず、悩みこんでいる魅音は、やがて行き詰まったのを打開するように豪快ごうかいに笑い出す。

「あっはっはっは! おじさんダメだわ、こーゆうの。ボキャ貧は辛いわぁ。」

何だよ突然。言いたいことがあるならはっきりと言えよ。」

「やめてよ。素振り。」

それはあまりに単刀直入だった。へらへらと笑った直後に、ここまで声色を変えられるものかと驚かずにはいられない。

だが、その、あまりの率直そっちょくさに、魅音の言っている意味がよくわからない。ちゃんと素振りをやめて話を聞いてるじゃないか。

ちゃんとやめてるだろ。」

「じゃなくて。今日で終わりにしてほしいの。悪いけど。」

言っている意味がわかるまでにしばらく時間がかかった。素振りをするのがなぜいけない!?

「なんでだよ。余計なお世話だよ! 別に誰にも迷惑かけてないだろ!?」

「かけてる。」

魅音はきっぱりと言い放った。何がなにやらわからず、とても不愉快だ。

「俺がいつ誰に迷惑をかけたよ!!」

えっとんー。」

言いよどむ魅音。だがやがて意を決して口を開く。でもその口調は歯切れが悪い。

「だ、だってさ圭ちゃん、それ、人のバットだしさ。無断借用は悪いしー。」

「転校した生徒の忘れ物だろ? 本人が取りに来るまで借りてるだけだよ。」

「え、あ! まぁね転校したし。」

魅音ががらにもなくうろたえる。転校が偽りであることがあまりに明白だ。

「でも変わってるよな。兄貴だけ転校なんだろ? 妹は転校しなかったんだろ?」

俺の揺さぶりに魅音は露骨に反応する。

け、圭ちゃん、知ってたの!?」

「北条悟史。沙都子の兄貴、だろ? 去年、鬼隠しにあって消えた。」

魅音は切り返せず沈黙してしまう。

「レナにも言われた。何で素振りを始めたのかってな。」

。」

「悟史もやってたんだってな。素振り。それも失踪の直前に。」

。」

「これってさ、オヤシロさまの祟りに遭う前兆ぜんちょうってわけなのか?」

「シーーーーー!!」

魅音が慌てて周りをきょろきょろうかがう。

頼むよ圭ちゃん。オヤシロさまの話は迂闊うかつにしないでよ! 私はそんなに信じてないからいいけどさ、他のみんなはすごく信じてる。レナなんかやばいくらいに!」

「やばいくらいに?」

「とにかく! みんな怖がってるんだよ!! もしもこれが悪ふざけならやめな! 悟史の真似は絶対にやめて!!」

怖がらされてるのは俺の方だ。誰のお陰で素振りをする羽目になったと思ってるんだ。

だが自分の行為が悟史と重なる点だけは今でもに落ちない。誰かにそそのかされたのならともかく、自らの意思で選択した行為のはずなのに

「先に言っとく。俺は悟史のことは何も知らない。みんなが隠してたからな。」

か、隠してたってわけじゃ。」

「毎年起こる事件のこと、隠してたろ?」

「あ、それは圭ちゃんを、ん。」

「怖がらせたくなかったってのか!? それが理由で俺だけけ者かよ!?」

「いや、そんなつもりじゃ、」

「魅音にじかに、ダム現場で事件がなかったかって聞いたよな。魅音はないって言ったじゃないか!!! バラバラ殺人があったのによ!!! 噓吐うそつき野郎ッ!!!」

「ご、ごめん!! 噓ってわけじゃ、」

「仲間ってのは隠し事なんかなしだろ? そうだろ!? じゃあお前らは仲間じゃない!!」

「け圭ちゃんそんなのって、」

魅音は頼りなさげにおろおろする。心なしか涙まで溜めている。いつもの魅音からはとても想像できない。

「あぁそれに、先日の見舞いのおはぎ、あれ、うまかったぜ。血が出るかと思った。やったのはどっちだ? お前か? レナか!?」

私。」

あまりにあっさり認める。そのあっさりさに驚かずにはいられない。

針だぞ、裁縫針だぞ!? そんなものを混ぜれば大変なことになるって誰だってわかるはずだ。それをさも、ちょっとしたいたずらを認めるような感じでこうもあっさり認めてしまえるなんて!!

「しッ、死ぬかもしれなかったんだぞ!! 仲間にあんな真似をするのかよ!?」

そ、そんなちょっとしたいたずらじゃん。」

狼狽しながらもどこか苦笑いのような笑みを浮かべる魅音に、今さらながら怒りがこみ上げてくる。いや、それは正しい表現ではないかもしれない。向こうが弱気なので、強気に出てもいいことがわかったから、というのが正しいかもしれない。

「あれがいたずらで済むかよッ、ええぇおい!?!?」

俺はその胸倉むなぐらを摑み、ねじりあげる!! 魅音はびくっとして小さくうつむいた。

「おはぎにタバスコ混ぜるとか、そんなのとはレベルが違うんだぞ! 針だぞ裁縫針!! 飲み込んで喉の奥とかに刺さったらどうなると思ってんだよ!?!?」

魅音は表情を強張こわばらせてかたかたと震えている。もうそれは、俺のよく知っている園崎魅音ではなくなっていた。

「とにかく。お前は仲間じゃない。仲間じゃないヤツの指図さしずを受けるいわれはない。俺のことは当分放っておいてもらうぜ。いいな!!」

もう魅音は何も言い返せなかった。

「俺を消そうとしても簡単にはいかないからな。お前らは最初から警察に疑われてんだ。悟史を消せたように、簡単に消せると思うなよ!!」

はっきりと言い切る。これは宣戦布告せんせんふこくだ。

「俺も過去の事件はお前らが怪しいと思ってる。ダムの反対運動の時、お前が警察の世話になってたこともよく知ってる! 隠しきれてると思うなよいいな!!」

「どどうしてそんなことまで。」

魅音は表情を失い、呆然と立ち尽くすのみだった。

その時、向こうから校長先生の振る振鈴の音が聞こえてくる。

朝のホームルームの時間だ。

行こうぜ。委員長がいないとまずいだろ。?」

その時、初めて、魅音が嗚咽おえつ混じりに涙をこぼしていることを知った。

ひどいよ圭ちゃん、」

魅、。」

思わずなぐさめようとしてしまうが、口を閉ざす。俺が罪の意識を感じる必要はないのだ。

俺、行くぜ。ホームルーム、遅れるなよ。」

俺は震える魅音を残し、昇降口へ向かうべく踵を返す。女に泣かれるのがこんなにも厄介だとは思わなかった。

その背後に、ぼそりと。本当にぼそりと、その独り言が聞こえた。

そっかぁ。」

「え?」

俺に言ったものではない。間違いなく魅音の独り言だ。

だが、嗚咽に混じりながらも、笑うような、のろうような声。思わず俺は足を止め、魅音に振り返る。

圭ちゃんに全部バラしたのあの野郎かぁ。」

両拳りょうけんをぐっと握り、ぽたぽたと涙を流しながら。地面の一点を睨みつけ恐ろしい顔ででも笑顔で呪っていた。

その鬼気迫る表情に、背筋が凍りつく。レナの豹変とはまた違う、魅音の豹変。

あの時、殺しとくんだったなぁ。今年で定年だからって容赦ようしゃしてやった恩も忘れやがってぇ。」

今年で定年って、大石さんのことか!?

「畜生畜生あのじじぃ絶対に殺してやるぅぅッ!!!」

大気がぐにゃりと歪んだ気がした。魅音を中心に、世界が搔き混ぜられたかのように歪む。たわむ。渦を巻く。

それは初めて知る、いや、体感する恐怖だった

「きりーつ! きょーつけーー!」

魅音はコンタクトがどうしたとか言って、真っ赤になった目をごまかしていた。

その後一日、レナも魅音も、俺に話しかけたりはしなかった。

沙都子も梨花ちゃんも、俺に目も合わせない。

不思議と胸は痛まなかった。元に戻っただけなのだ。

思えば、転校してきてからのこのひと月間が楽しすぎた。それだけのこと。

もともと、学校っていうのはこういうところだったじゃないか。

その感覚を、かつては嫌っていたはずなのに今日はなぜか心地よかった。

笑う鉈

緊張したような、ぼーっとしたような、灰色の授業時間の終わりを告げる振鈴が聞こえてきた。

部活に誘われるとまたいろいろと不愉快な思いをしそうだったので、彼女らには目を合わせないようにしてさっさと帰り支度をする。

机の中身をカバンに詰め込み、すっかり手に馴染なじんだ悟史のバットを持つと、昇降口へ向かった。

今日も何事もなくてよかったと思う気持ちと、何事もなかったなら明日も同じ一日を繰り返さなければならないのかという脱力感が交互に襲ってくる

だが体のずっと奥の奥。心の奥の奥の奥底が、うずいて教えてくれるのだ。

その繰り返しは今日で終わると。

その終わり方が、俺の望む終わり方なのか。望まない終わり方なのかそれはわからない。

だが今の俺にとって、どのような終わり方になるのかよりももっと重要なことがある。知りたいことがある。

なぜ俺が殺されなければならないのか。

どうして。なぜ。何のために。

あの平和で和やかだった雛見沢は、何でこんなにも歪んでしまったのか。

表の日差しは、まだ厳しい。太陽も熱気も、そして空気も。それを答えてはくれない。

それともセミたちの声を借りて、俺に何かを伝えようと必死に叫んでいるのだろうか

きっと、セミたちに混じり、富竹さんや悟史が必死に俺に訴えかけている

そして俺はそれにまだ気付けない

それに気付いた時、俺もこうしてセミたちに混じり、次の犠牲者にそれを伝えようと哀れな努力を繰り返すのかもしれない

ふと足元を見ると、セミがひっくり返り、弱々しく体を震わせている

ジジ、ジ

本当の夏もまだなのに、もう力尽きようとしているセミが最後の声を振り絞っていた。

いくら耳をそばだてても、何を言っているのかはわからない。

でも俺は努力しなくてはならない。何かを伝えようと必死になっているこの声を、聞こうとする努力をしなくてはならないのだ

その時セミたちが叫びをあげるのを一斉いっせいにやめた。

まるで自分たちを恐ろしい目に遭わせた当の本人の登場に、一斉に縮こまるかのように

間違いなかった。それは気配の接近。

足音は最小限だ。セミたちが鳴き止むことによって教えてくれなければ気付けなかった。

疲労感が一気に引き、代わりに五感をぎ澄ませる脳内物質が分泌され始める。

そしてそぅっと込み上げてくる恐怖心を静かに抑えつけた。そう長く抑えきれる感情ではないだろうが

研ぎ澄まされなければならないこの一瞬に冷静さがもたらされる。

今日は昨日のように怒鳴りつけたりしない。冷静に木陰に身を隠し、尾行者の影を待ち受ける。

やり過ごせるだろうか? いや、俺に足音が聞き取れたように、相手も俺の足音を聞き取っているだろう。俺が身を隠して息を潜めていることは見抜かれているかもしれない

尾行者はやはり昨日と同じに、レナだろうか?

レナだったら容赦しない。怒鳴りつけて昨日と同じように先を歩かせればいい。

レナでなかったら? 相手の出方次第、だな

誰であろうと油断しない。誰であろうと、誰であろうと

足音がひたひたと近付いてくる。

唾を飲み直し、汗ばんだ手をズボンのすそでぬぐってバットを握り直す。

一度は抑えた恐怖心が、ぶり返そうと俺の隙をうかがっているのがわかる

一体誰なんだ? 木陰から尾行者を覗き込む

それは想像を裏切らず、レナだった。

未知の相手でなかったことによる安堵感はあったが、それは一瞬で引いた。レナの様子が違ったからだ。

光を失った死者の瞳。なのに唇は弧を描いて切れ込み、そう、まるで薄く笑うかのように見えた。そして、その右腕にはなた」。

再び木陰に身を隠し、今見た信じられない光景を思い出す。

今のはなんだッ!? あまりにも露骨な恐怖の具現ぐげん!!

俺のバットにはまだ、野球とか素振りとかごまかしの利く大義名分たいぎめいぶんがある。だがあの鉈はなんだよッ!? ごまかしも何もない!!! そのまんまの鉈だッ!?!?

圭一くん。かくれんぼ、かな? かな?」

心臓が大きく跳ねる。呼吸が潰れるかと思うほどに。

かろうじて保っていた冷静さは粉々になって吹っ飛び、代わりに全身からす冷たい汗が、自分が今どんな感情に支配されているかを教えてくれる

だめだだめだ。隠れきれていない。バレている

レナを驚かせようとしたのかな? かな?」

レナにこれ以上の接近を許すくらいなら、間合いがあるうちに姿を現した方がましだと判断する。

もう一度バットを握りなおし、覚悟を決め、隠れていた木陰から姿を現した。

「あはははははははははは。圭一くん、見ーつけた。」

奇怪な笑い声をあげ、俺の姿を見つけたことを喜ぶレナ。顔こそは笑っているが、俺が姿を隠していたことを不快に思っていることを目が語っていた。

その目のあまりの深さに足がすくみ始める。あぁだめだ

お腹の底から熱くて冷たくて、どろどろとしたものが滲み出てくる。そのどろどろは俺が気を許した途端に血流に乗って、臓器ぞうきという臓器を麻痺まひさせてしまうに違いないのだ

だめだだめだ! このままレナに飲み込まれてはいけない! 切り返すんだ! 負けるな!! 声を搾り出せ

「な何の用だよッ!!」

虚勢きょせいを隠すために大きな声を張り上げる。だがレナはその程度で臆したりはしなかった。

圭一くんと同じ。帰り道だよ。」

「じゃあその鉈は何だよッ!?」

じゃあ圭一くんのそのバットは何なのかな?」

「お、俺は素振りで!!」

「じゃあレナは宝探しなの。」

「た、宝探しぃ!?」

「ダム現場跡の宝の山にね、また新しいかぁいいのを見つけたの。だからね、それを発掘するために、必要なの。」

「し、信じるかよそんなのッ!!!」

「信じないよね。あはははははははははははははははは。」

レナの今日の笑いは明らかにおかしかった。これまでにもレナの豹変は何度か見た。だが今日のは明らかに違う。思わせぶりな、とか、眼光が鋭い、とか。そんな遠回しなものじゃない。何と言えばいいのか露骨だ!!

待ってよ圭一くん。あはははははははははははははははははははははは。」

レナは奇怪に笑いながらも、決して足を止めたりはしない。

俺はそんなレナに追いつかれまいと、レナが近付く度に小走りに逃げては振り返る、を繰り返す。それはどう見ても、レナに追われて逃げているようにしか見えなかった。

「つついてくるなよッ!!!」

「それはできない相談だよ。レナの家もこっちだもん。あはははははははははははは。」

昨日、この道で出会ったレナは俺に怯え、震えながら指示に従った。

だが今日は違う。レナには何の怯えもない。いやむしろ怯えているのは俺の方なのだ!?

レナと帰宅路が同じというならいいさ、道を変えてやる! それでいいだろ!?

俺は曲がったこともない、よく知らない小道を入る。

だがレナは俺のその様子をけたけたと笑いながら、ついてくるのだ

どうして!? どうして!? レナは帰るんだろ!? じゃあいつも通りの道で帰ってくれよ!! どうしてこんな変な脇道わきみちにまで追って来るんだよ!?

そんな俺の、叫びのような思考はそのまま口からこぼれた。

ど、どど、どうして付いてくるんだよッ!?」

俺の声はすでに恐怖で染まりきっていた。

圭一くんとお話したいから。圭一くんもレナとお話したいんじゃないかな? かな?」

「お、俺は何も話したいことなんかない!!」

「噓だよね? 相談したいこと、きっとあるはずだよ?」

「ない! レナと話すことなんか何もないよ!!」

「噓だよね?」

「噓じゃないよ!」

「噓だッ!!!!!!!」

レナの叫びがこだまし、驚いた鳥たちが羽ばたいていく。俺はすくみあがり、歩みをさらに速めることしかできない。

「お話しようよ圭一くん。お話お話。あはははははははははははははは。」

何で俺はこんなひと気のない、知らない道を走っているんだろう!?

こんな、来た事もない林道を、なぜ鉈をひらめかす少女に追われてけているというのか!?

「圭一くんには悩んでることがあるんじゃないかな?」

「な、ないよ! 何にも悩んでない!!」

「噓だッ!!!! あははははははははははははは。」

俺は走ってるのに。レナは歩いてるのに。どうして距離が開かない!?

「わかるよわかる。レナはわかるよ。怖いんだよね圭一くん?」

「こ、怖くなんかない! 何も怖いことなんか、」

「噓だッ!!!! あははははははははははははは。」

俺の息は乱れ、足はもつれつつあった。だがレナの息は少しも乱れない。

「レナだけは相談に乗ってあげられるよ。今度こそ乗ってあげられる。」

レナが何の話をしているのか、何をしたいのかわからない

「今度こそ相談に乗ってあげられる。悟史くんのときとは違うもの!」

悟史の名が出、一瞬振り返る。だが、そうしている間にもレナは歩みを進めてくる。俺には立ち止まる余裕もない

「悟史くんも悩んでた。辛そうだった。でもレナは相談に乗ってあげられなかった。とても悲しかった。」

この道はどこに続いているんだろう!? 曲がりくねり、上ったり下ったり!

本当に自分の家に向かっているのかも怪しい。すでに方向感覚は失われていた。

「悟史くんが〝転校〟しちゃった時ね、本当に後悔したんだよ。レナが相談に乗ってあげれば悟史くんは〝転校〟せずに済んだかもしれないって。すごく後悔した。」

道はますます深く、俺を森の中に誘い込む。走れば走るほどに、俺は人里から遠ざかっているんじゃないだろうか!?

そう思えば思うほど、冷静さが失われていく。その冷静さが失われていくことを理解する、内なる自分だけがいやに冷静だった。

「だからね、ちかったの。もしも悟史くんみたいに、苦しんでいる人にもう一度会えたなら、レナが助けてあげようって! もう人が〝転校〟するところは見たくないの。あははははははははははははは。」

くっそぉおぉお!! 転校って何だよ!! 転校させられてたまるか!! 悟史と同じ目に遭ってたまるかよ!!!

「さぁ圭一くん、レナに話して。レナはきっと圭一くんを理解してあげられるよ。レナだけは圭一くんの味方。」

ぜえぜえと息が乱れる。肺は爆発しそうに熱くなり、心臓はこれ以上ないくらいにバクバク言っている。素振りよりランニングの方が必要だったのかもな。馬鹿な現実逃避に苦笑いする余裕もない

「悩みがなくなればきっと圭一くんも元通り。みんなとも仲良しに戻れて、また楽しく部活ができるよ。今度は一緒に組んで魅ぃちゃんをやっつけようね。あはははははははははははははははは。」

あぁそうだったらどんなに楽しいだろうな。この何日間か、どれほど時間を巻き戻したいと願ったか、レナには想像も付くまい

「レナともきっと仲良しに戻れるよ。また一緒に宝探しに行きたいね。今度はお弁当も作っていくよ。何なら今から宝探しでもいいよ。行こうよ一緒にダム現場跡。見つけたばかりのかぁいいの、圭一くんにも見せてあげるね。きっと圭一くんも気に入るよ。あははははははははははははは。」

俺の足ががくがくと揺れながら、ぺたぺたと情けない足音をたてる。必死で逃げているつもりだが、俺が少しでも気を抜いたらすぐにでも崩れてしまいそうなほど情けない足取りだった。それを追うレナの足音は鋭い。小枝をバリバリと踏み割りながらその音で俺を威圧いあつする。

もう俺は認めるしかない。俺はレナに追われ逃げているのだ!

捕まったら、終わる。本能がそう告げていた。何がどう終わるのかは具体的には思いつかない。だが捕まったら終わる。それだけはわかる。

だがどんな終わり方にせよまだ終われない。こんなわけもわからない内には絶対にッ!!!

そんな一瞬の心の隙だった。あろうことか、膝が笑うようにかくんと抜け、その場に崩れて転んでしまう

慌てて立ち上がろうと、バテて言うことを聞かない足をむち打つ!

バットをつえに何とか立ち上がる俺の眼前に、もうレナはいた。

疲労困憊こんぱいで息もえの俺に比べレナは凍えるくらいに冷え込んでいて、息が乱れないどころか、心臓の鼓動さえ感じられなかった。

「何がこわいのかな? 怯えるなんて圭一くんらしくないよ? あははははははははははははははははははははは。」

それは慈愛じあいの表情にも見えた。瞳に生気せいきの宿らない、仮面のような慈愛だった。

怯えるなと諭しながら、レナの両手はすぅーっと、頭上に差し上げられる。

その両手は幾重いくえもの残像を残しながらまるで千手観音せんじゅかんのんのような神々こうごうしさを見せた。

そして頭上で両手が組まれた時、そこには鉈が握られていた。

それを呆然と見ていることしか出来ない自分。

「ぉ教えてくれ。悟史はどうなったんだよッ!!!」

レナは鉈を振り上げたまま、おごそかに口を開いた。それはまるで、二度と会うことのない友人に告げる別れのようなそんな残酷さが宿っていた

「言ったよ。悟史くんは〝転校〟したの。」

「その〝転校〟ってのをやめろよッ!!!!」

。」

「鬼隠し、ってことなんだろ? そうだろ!?」

。」

「もう教えてくれたっていいだろ!? 悟史を消したのは誰だよ!? レナか!? 魅音か!? それとも村の誰かかッ!?!? 答えろよッ!!!!」

俺が必死になって叫べば叫ぶほど、レナは凍った笑顔を浮かべるだけだった。

圭一くんが何を言ってるか、わからないな。」

「じゃあわかるように言ってやる!! 連続怪死事件の犯人は誰だ!!!」

圭一くんは勘違いしてるよ。」

え。」

いつの間にか、狂ったような笑いは収まり、レナは冷たい表情になっていた。

ニンゲンの犯人なんかいない。全てはオヤシロさまが決めることだもの。」

「オヤシロさまの祟りなんて迷信めいしんだろッ!?!? レナは信じてるってのか!?」

「信じるとか信じないとかじゃない。オヤシロさまは〝いる〟の。」

レナの眼差しがさらに冷え込む。有無を言わせない、そんな威圧感がひしひしと伝わってきた

オヤシロさまなんて、そんなものいるわけが!」

「圭一くんは信じないの? オヤシロさま。」

し、信じられるはずないだろッ!? そんなのいるわけがない!!」

「〝いる〟よ。オヤシロさま。圭一くんだって身近に感じてるはずだよ?」

「そ、そんなもの感じたことないよ!!!」

圭一くんさ、誰かに謝られたことない? それもずっと、ずっと。」

世界から音が消え、レナの声だけがいやに大きく響いた。

誰かに、謝られたこと? それも、ずっと、ずっと

「それはね、許してもらえるまでずっとついてくるの。学校へも。お家へも。枕元へも。」

レナが何を言っているのか、わからない。

「レナのところへも、来たんだよ。オヤシロさま。だからレナは〝転校〟して雛見沢に帰って来たの。」

わからない。わからない。〝転校〟って何だよ。レナは何を言ってるんだよ

「圭一くんのところにもオヤシロさま、来てるんじゃない? きっと相談に乗れるのは私だけ。圭一くんを〝転校〟なんかさせないから。ね?」

あはははははははははははははははははははははははは。

レナの狂った笑い声が頭の中をがんがんとこだまする

レナのところへも、オヤシロさまが来たというのか

そうだ。昨夜、大石さんに聞いたレナの話でも出てきた

「他言無用でお願いします。また、内容には一部憶測も含まれているかもしれません。全てが真実ではないかもしれないということです。よろしいですね?」

大石さんは語り始める

「被害者も学校も告訴こくそしていないので、調書がないのです。つまり警察が関与してないわけなんですよ。ですから詳細は関係者からの聞き取りのみなのです。つまり信憑しんぴょう性が高くない。」

「被害者って言いましたか? レナはガラスを割っただけじゃないんですか?」

「いえ、男子生徒が三人ほど竜宮レナに殴られています。金属バットでです。二人はアザで済みましたが、一人は片目に後遺症を残すほどの大怪我をしたそうです。」

「そ、それって傷害事件じゃないんですか!? 警察は逮捕たいほとかしないんですか!?」

「どういうわけか、被害者が告発しないんですよ。警察に届出とどけでがないので。」

金属バットで殴られて大怪我したんだぞ!? 普通なら警察沙汰ざただ。それがなんで告発しない!?

「被害者の男子生徒三人にもそれぞれ話を聞こうとしましたが、全員、口が重いんです。こう言っては何ですが怯えてるんですよ。彼女が転校した今でも。」

大石さん。話を最初から整理して話してくれませんか?」

レナはガラスのついでに人も殴った? それとも人を殴って、それでも飽き足らずガラスを割って回った?? 似ていてその意味は大きく異なる

「その日、竜宮レナは親しい男子生徒三人と一緒にプール倉庫の辺りで話をしていました。」

その三人って何者ですか?」

「個人名は伏せますが、三人とも竜宮レナととても親しい、仲良しグループだったそうです。彼女は紅一点こういってんだったんですな。」

なら四人で一緒にいてもおかしくはないのか

「それで、どうなったんです?」

「理由はわかりません。竜宮レナはプール倉庫脇にあった野球部のバットを手に取り、三人を次々に殴り倒しました。」

「えぇッ!?」

目撃者はいない。以下は事件当時を記憶する人間たちからの情報を組み合わせて再現したものだ。

ある日の放課後。レナは男子生徒三人と一緒にプール倉庫脇で話をしていた。それは何かの相談でなく、いつもそうするようにたむろして、話に花をかせていただけらしい。

その時、レナに〝変化〟が起きた。

その変化はあまりに突然で、三人は何が起こったのか理解できなかったらしい。

そして金属バットを手に、仲間たちを次々に殴り倒した。

ひたいを割られ、血まみれになって倒れる仲間たちを残し、レナは校舎へ向かった。

そして教室の窓ガラスを次々に割っていったのだ。

何分もしないうちに教師たちがやってきてレナを取り押さえた。

「レナに起こった〝変化〟って、何ですか。」

「三人の証言で一致するのは突然人が変わった。豹変した、という点です。」

豹変。」

俺もレナの豹変には覚えがある。

いつものレナとはあまりに違う、レナによく似た別人としか思えない、そんなレナに変わる瞬間を何度か見ている。

その豹変って言うのは度々たびたびあったことなんですか?」

「いえ、そういうのはまったくなかったそうです。私も調べられる限り、彼女の過去や病歴等を追ってみましたが、見つけることはできませんでした。」

その、レナみたいに、突然人が変わる現象って結構あるんですか?」

「もちろんありますよ。精神的なものから性格的なものまでたくさんあります。」

「ではレナには潜在せんざい的に豹変する要素があったってことですか?」

断言はできません。ですが、竜宮レナをよく知る友人たちからの証言では、とても彼女にそういう要素があるようには思えません。」

やさしく親切で可愛らしい。きっと転校前の学校でも、今のレナと同様に誰からも好かれる理想的な女の子だったのだろう。

そんな子が、突如豹変して、金属バットで殴りかかってくるなんて誰が想像できる? 想像できるわけがない! 俺自身、今でもあのレナは見間違いではなかったかと思わずにはいられない時があるのだから

「そしてどうなったんですか?」

「学校の正面が病院でしたので、三人はすぐに病院に担ぎ込まれ手当てを受けました。」

「レナは? 警察は!? どうして警察沙汰にならなかったんですか!?」

「警察は呼ばれなければ関与できませんからねぇ。」

「ひとりは後遺症を残すくらい大怪我したんじゃないんですか!? どうして訴えないんです!?」

私もそこは引っ掛かりました。何かの圧力、もしくは脅迫があったのか。それとも訴えたくても訴えられない理由があったのか。」

「もちろん大石さんのことですから調べたんですよね?」

「えぇまぁ。ですが、初めに言いましたよね? 被害者たちの口がとにかく重いのです。触れたがらないと言うか、関わりたくないと言うか。」

口が重い。触れたくない。関わりたくない。それはどこか、この村の人々とオヤシロさまの祟りの関係に似ていた。

「学校の先生とかからは何も聞けなかったんですか?」

「学校は聖域せいいきなんですよ。隠蔽いんぺい体質とでも言いますか。私も捜査令状れいじょうを取ってませんから弱いんですよねぇ。」

「じゃあ学校側はノーコメント?」

「いえ。事件の存在自体を否定しました。」

。」

「ですが、その日。間違いなく病院に三人の男子生徒が打撲だぼくで担ぎ込まれたのは事実なんです。病院にその記録が残ってますので。」

被害者は語らず、学校は否定する。何もわからないじゃないですか!」

「えぇ。その事件があったという事実以上のことは何もわかりません。被害者たちもこの事件がおおやけになることを望んでいませんので私と前原さん、私たち二人が忘れれば、事件はそのまま闇に消えるでしょうな。」

しばらくの間、二人して沈黙する。

一見するとただの暴行事件だ。だが重要な何かが深く隠蔽されている。それはさらに幾重ものベールに包まれ、そっとまるで初めからなかったかのように、闇に溶け込もうとしているのだ

「その後、学校を謹慎で休学します。そしてその間、神経科医のカウンセリングを受けました。」

「その医者からは何か聞けたんですか?」

これがまた職業倫理のしっかりした尊敬すべき方でしてねぇ。口が堅いんですよ。も〜とにかく!」

「警察手帳を見せてもダメなんですか?」

「書面で申請しんせいしろと言われました。手帳自体に法的拘束こうそく力は何もありませんからねぇ。」

「じゃあ、大石さんはどうやってレナがオヤシロさまのことを告白したことを知ったんですか?」

「一部を聞いてた看護婦さんがいましてね。この方は手帳を見せただけで協力してくださいました。」

それでなんと?」

その看護婦も意識して会話を全て聞いていたわけではないらしい。漏れ聞こえてきたことを少し覚えていたというその程度らしい。

「看護婦さんが言うには、その時の竜宮レナはとても淡々としていて落ち着いていたそうです。」

それは、カウンセリングというよりは教会の懺悔ざんげのような感じだったという。

親と一緒にしばらく話していたが、途中からは退出してもらって、医師とレナの二人でのカウンセリングとなった。

「例の、オヤシロさまの話はどこで出てきたんですか?」

「途中です。その名前を、突然叫んだのです。だから看護婦さんもびっくりして聞き耳を立てたのです。」

オヤシロさまですッ!!!!!」

突然、レナはそう叫んだ。直前の会話はわからないので、どういう意味でそう言ったのかはわからない

医師は落ち着いた様子で、レナに着席を促したという。

「そのオヤシロさまというのは何ですか?」

やさしく、やさしく。カウンセリングの基本は聞きにてっすることだ。

「雛見沢を捨てた人は必ずオヤシロさまに追われるんです!! そしてとうとう私のところにも来たんです!!!」

「竜宮さんが今のお家に引っ越される前に住んでいたところですね?」

「私は引っ越したくなかったけどお母さんとお父さんの都合で仕方なく引っ越しました。でもオヤシロさまは許してくれなかったんです!!」

「竜宮さんはきっと雛見沢にもお友達がたくさんいたんでしょうね。今でもなつかしいんじゃないですか?」

帰りたい雛見沢に帰りたい。うぅん、帰りたいんじゃない、帰らなきゃいけない! 本当はもっと早くに帰らなきゃいけなかった!! でももうだめ!!! オヤシロさまが来てしまった!!!」

「オヤシロさまというのは、その雛見沢の神さまなんですね?」

「誰でも知ってる雛見沢の守り神さまなんです。それで、雛見沢を捨てて出て行こうとすると祟りがあるんです。」

「竜宮さんが引っ越しをされたのはもうずいぶん前ですよね? では今になってその神さまがやってきた、ということですか?」

信じないでしょうけどオヤシロさまはいるんです!」

看護婦はここで別の看護婦に用事を頼まれ退室。ここまでしか覚えていないらしい。

「オヤシロさまが。」

「確かに雛見沢にはそういう迷信があります。里を捨てて出て行くとオヤシロさまの祟りがある、という。この辺りは前原さんもすでにご存知ですよね?」

村にあだなす者に祟りがある、ってのはよく知ってる。

ダム建設を妨害ぼうがいするために、建設現場の監督を祟り殺した。そしてその翌年にはダムを誘致、推進した沙都子の両親を祟り殺した。

でも、村を捨てて出て行くと祟られるというのは初耳だ。

「初耳です。村の外敵が祟られるのはわかりますが、どうして出て行く村人まで? 普通、出て行く者は祟られないものじゃないんですか?」

踏み込む者を祟るのが、こう言っては変だが祟りのルールだと思う。触らぬ神に祟りなし。去る者を追わないのが祟りじゃないのか

大石さんは受話器の向こうで軽く、うーんとうなると、再び口を開いた。

「えー雛見沢が大昔、鬼ヶ淵村と呼ばれていたという話はしましたよね?」

そんな話も聞いたような

大昔、雛見沢は鬼が住まう里として恐れられながらも崇められていたという。

「ふもとの村人たちは鬼たちを崇めていました。で、鬼ヶ淵村は神聖な土地なので絶対に不可侵。むやみに立ち入るとオヤシロさまの祟りがある、とされてきたんです。」

鬼ヶ淵村、つまり雛見沢に土足で踏み込むやからを祟る。それは理解できる。

「それはわかります。でも、出て行くのまでだめってのは。」

「鬼たちもまたですね。俗世ぞくせに出て行かないよう、オヤシロさまに厳しく見張られていたんだとか。つまり、オヤシロさまってのは、俗世と鬼ヶ淵村の交流を禁じていたんでしょうなぁ。」

「つまりオヤシロさまってのは、守り神ってよりも監視者なんですね? この地を外界から隔離かくりしようとする。」

「そんな感じになるんでしょうなぁ。すみません、私も詳しくないんです。この辺りは婆さまの受け売りでして。」

そういう話なら少しはわかる。雛見沢に来るよそ者も祟るし、出て行こうとするものもまた祟る。つまり、村境を侵せば、それが入る者であっても出る者でも同じということなのだ。

レナは元は雛見沢に住んでいて、引っ越しで出て行ったのだから、祟られる条件は満たしているということなのか。

つまり、レナは望まない引っ越しをしたため、オヤシロさまの祟りに遭ったと、そう話しているわけですか?」

「要約するとそういう意味なんでしょうなぁ。実際、この後しばらくして雛見沢に引っ越していますから。」

雛見沢を捨てて出て行こうとする者を祟る。

だがどうしてレナだけ? 祟られるなら一緒に引っ越した両親だって同罪じゃないのか?

それにこの現代日本、人の出入りなんていくらでもあるはずだ。それらの人間を全員祟ってまわってたらとんでもないことになってるだろう。だが実際にはささやかなものだ。せいぜい、綿流しのお祭りの日に一人が死んで一人が消えるくらいだ。このせいぜいというのも実に嫌な言い方だが

まぁとにかく。わからないことだらけなんですよ。オヤシロさまの祟りがどうだったにせよ、クラスメートを金属バットで殴った理由にはなりませんし、被害者が訴えない理由にもなりません。まさか前原さんも、恐ろしい祟りが起こって、被害者たちがすくみあがったなんてこと、信じるわけないですよね?」

もちろん信じたくない。

だが俺はそれよりも今、あるひとつのことが気になっていた

それはレナもまた、「オヤシロさまの祟り」と「金属バット」という奇妙な共通点を持っていたことだ。

悟史はオヤシロさまの祟りに遭い、失踪した。失踪の直前、金属バットに執心していたことは俺も最近になって知った。

そしてレナも。自身がオヤシロさまの祟りに遭ったと医師に告白した。そして事件時に凶行に及んだ武器はやはり金属バットだった。

そして俺だ。

自身も様々な不可解な出来事を体験し、今こうして金属バットを握っている

悟史と同じことだったことを知った時にも衝撃を受けたがまさかレナも同じだったというのか!?

だがレナと悟史には決定的に違う点がひとつある。

それは、悟史は祟りに遭って失踪し、レナは現にこうして生活している点だ。二人は共にオヤシロさまの祟りに遭いながら違う結末を迎えた。

そして俺。

もう偶然だなどと言っていられない。レナ・悟史。そして俺なのだ。

やはり俺はオヤシロさまの祟りに取り込まれているのか!? いや、そんなことよりも俺はこれからどうなるんだ

悟史は鬼隠しに遭い失踪。レナは無事だった。無事?

そしてレナは変わった。レナでないレナを内に宿したとしか思えない。

そして今こうして俺を追い立てている!!!

「レナ教えてくれ。俺はどうなるんだよ!?」

レナは仁王立におうだちのまま、答えてはくれない。

「悟史は消えた。だけどレナは消えなかった。じゃあ俺はどうなるんだよ!?」

あははははははははははははははははははははは。」

これほど恐ろしい笑い声は聞いたことがなかった。それはまさに連続する威圧音。

大丈夫だよ。レナが助けてあげるから。」

レナは鉈を大きく振り上げたままさらに一歩踏み込んでくる。

さぁ。」

さらに一歩。レナの顔が俺の眼前いっぱいに広がる。

話して。」

さらに一歩。レナの鼻が俺の鼻にかするぐらい間近に迫る。

話したいことがあるんだよね? レナが聞いてあげる。助けてあげるからね? 話してね? 話してね?」

俺はぺたんとしりもちを付いてへたり込む。それは情けないことじゃない。少しでもレナから離れるための、精一杯の逃げだった

「あはははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは、」

その笑いを終わらせてはならないと直感する。その笑いが終わった時、!!

それを感じ取った瞬間に体が反射的に動いた。

自分でも信じられないくらいの素早さで跳ぶように起き上がり、レナを両手で弾き飛ばす!

レナはまるで羽で出来ているかのような軽さだった。不釣合ふつりあいな鉈の重さに大きく振られ、まるで風に乗るかのように軽々と飛ばされる。それを視界の隅に確認すると、あとは一目散いちもくさんだった。

脱兎だっとのごとくという言葉がこれ以上似合うことはないだろう。レナから離れよう。逃げよう。生き延びよう!!! それ以上のことは何も思いつかなかった。

走りながら、俺はずっとバットを握り締めていたことを思い出す。なんて役に立たない武器なんだ。肝心な時に武器であることすら忘れているなんて!!

曲がりくねった道をさらにさらに駆け抜ける!!

息苦しさも足の重さも一切感じなかった。俺の体も理解しているのだ。ここで走らなかったら命がないことにッ!!

後ろからあの、あははははははという笑い声を模したレナの威嚇いかくが聞こえてくる。

それは木々と俺の頭の中にこだまし、少しでも俺の正気を失わせようと作用していた。

木立こだちがまばらになり視界が一気に開ける。

ここは!? 知っていそうで覚えのない光景に一瞬混乱する

すぐに気付く。ダム現場跡だった。普段と違う側から来たので、戸惑ってしまったのだ。

あんなにめちゃくちゃに疾走しっそうして、このような場所にたどり着くこと自体、何だか誰かの筋書すじがきに従わされているような薄気味悪さがあった。

見通しはいいが、ひと気のまったくないところだ。逃げる者にはあまりに辛く、追う者にとってはこれほど都合のいい場所もない。

心臓はすでに爆発寸前だった。足の筋肉も悲鳴を上げている。だが構わなかった。

ここで休んだら、もう悲鳴をあげることさえできなくなってしまうかもしれないのだから。

それでも、一休みする口実が欲しくて後ろを振り返った。レナの姿はない。

かわりに、村人が二人ほど歩いてくるのが見えた。

レナでなく、かつ、第三者が登場したことに、ほっと胸を撫で下ろそうとする

だが、俺の中のもうひとりの俺が再び警鐘を鳴らした

村人が歩いていることに不審はない。だが、何かが気になった。

服装は二人ともラフ。手ぶらで、いかにも散歩のような感じ

だが時間帯と、大人が二人して意味もなく、というところに何か不審な印象を受けなくもなかった。

それよりも目だった。二人で談笑だんしょうしながら散歩ではなく、二人とも押し黙り、まっすぐこっちを見据みすえて歩いてくるのだ。

神経が高ぶっていて、ついついそう見えてしまうのか!?

走って逃げよう。多分最善の選択だ。

無関係な人間なら、走れば簡単に振り切れる。もしも俺を狙う連中なら同じように走って追って来るはず。

どちらにせよ、もたもたしていればレナが追いつく。

そうだ走ろうッ!!!

そう思い、踵を返そうとした瞬間、そんな俺の考えを見透みすかしたかのようにその二人が駆け出した!!

ど、どうしてッ!? 何で俺を追ってくるんだよ!?

俺は心のどこかでレナに怯えながらも、怖いのはレナひとりだと決め付けてきた。レナだけが怖いから、それ以外は怖くないとそう思い込もうとしてきた。

だが今こうして赤裸々せきららこれ以上ないくらい明白な形で思い知らされる!!

鬼たちは村総出で獲物を追い回した、という大石さんに聞かされた鬼ヶ淵村の昔話がふっと脳裏をよぎった

後ろを振り返らないでも、二人が俺に追いついてくるのが、その荒々あらあらしい足音でよくわかった。

レナのように、振り切れず追いつかれずの間合いで、真綿まわたに締められるように追われるのも恐ろしかったが、そんなのは比にならない。あまりにも暴力的に迫る、この直接的恐怖に勝るものなどあるわけもないッ!!!

追跡者の腕が、一度肩をかすった。荒々しい足音だけでなく、すでにその呼吸音まではっきりと聞こえる。いや、その吐息といきをうなじに直接感じるくらいに!! 俺のすぐ後ろまで迫ってきているッ!!!!

クールになれ前原圭一。

俺は全力疾走のまま、空中に静止するかのような、いや、時間が静止するかのような感覚を味わっていた。

その全てが凍りついた世界で俺は少しだけ後ろを振り返り追跡者がいかに俺の間近に迫っているかを改めて知った。

大人の足には勝てない。凍った時間が解け出せば、まばたきをふたつもしない内に俺は組み伏せられるだろう。組み伏せられてそれから

考えるな圭一。このままでは振り切れないことをまず認識しろ。逃げ切れないことが確定したならあとは俺が決断するだけでいい。次の右足でそれをやるか、それとも左足でやるか決めるだけでいい!!

左足で行こう。やるぞ、やるぞやるぞやるぞ、武器なら持ってるんだ!!

そう決心した瞬間、凍った時間が微塵に砕け散るッ!!!

右、左!!! 右腕のバットを大きく振り、その遠心力を使って、急停止、急旋回せんかい

二人は俺の突然の攻撃に明らかに驚いた。一瞬体勢を崩し、俺を組み伏せようとして繰り出した両の腕が空を切る!

もう一人の男が俺が反撃に転じたことに気付き、慌てて対応しようとするが、もう遅いッ!!!!

俺はバットを振る必要もなかった。ただ、遠心力のままにその軌道を延長するだけでいい!!

軽い当たりだったが、バランスを崩させ転倒させるだけの威力はあったようだ。だが転倒したくらいでひるむことはなかった。すぐに起き上がってくる!

二人は腰を低く落としたような姿勢で身構えると、絶対に逃がさないという強い意志を見せながら対峙たいじしてきた。

これにより、単なる散歩の二人連れでなく、俺を対象にした追跡者であることが確認される!!

レナよりも気楽だった。顔も知らない村人が、知らないがゆえにこれだけ気楽だとは夢にも思わなかった。心の中で苦笑する。あぁ、俺の命を狙っているヤツらが、どこの馬の骨ともわからぬヤツらならどれほど気楽なことか! 親しい仲間たちと同じ顔をしてないことがこれほどに気楽なのか!!

「俺に何か用かよッ!?!? 次は眉間みけんにお見舞いするぞこの野郎ッ!!!!」

強がりでもいい! 吠えることにより、自らの内に眠る起爆きばく力を呼び覚ます。

男たちはそれに答えたりはしなかった。信じられないくらい、冷静な表情で俺の左右に散る。一人はバットに組み付き、もう一人は俺を組み伏せる、そういう算段か! 一対二ではどうにもならない!! 体中から熱い汗がどっと吹き出る。

ならば先手必勝だ!! 先に踏み込み、一人を打ち崩すッ!!!

右の男にまとを絞り、渾身の踏み込みによる強打を振るう。素手の人間にとって、金属バットの渾身の一撃はどのような防ぎ方をしても、致命的なダメージになる!! 腕で防げば骨ごとへし折り、背中でかばえば内臓の奥にまでダメージを送り込むことが可能!!

相手もそれを理解しているようだった。俺の必殺の間合いのさらに内側に飛び込み、そのこぶしで俺の腹部を狙う!!! まずい、この間合い、この姿勢、この状態では回避する術は何もない!!

世界がでんぐり返り、自分の体がまるで木の葉のように軽々と吹っ飛んでいくのがわかった。

音もなく、やわらかに地面に打ち付けられ、顔面でがりがりとした砂利の感触を味わう。痛みはなかった。と思ったのもつかの間、すぐに皮膚ひふけるあの嫌な痛みと、胃の内容物がこみ上げてくる時にする、あの苦い感覚が口中を満たす。

そんな痛みを堪能たんのうする時間もないことを、今の俺はよく理解していた。

すぐに立ち上がるが、その時にはすでに次の男が眼前に迫ってきていた。回避できないと冷静に理解できることが、かえって悔しい。

もう一度、腹に渾身の一撃を入れると、そいつはぐるっと俺の背後にまわり、ぶっとい腕で俺の首をがっちりと絞め上げた。

ぐぅ、ぐえぇぇ、凄まじい腕力に、喉がつぶされるッ!!

窒息ちっそくするとか昏倒こんとうするとか、そんな理屈は思いつかなかった。ただ、視界が真っ暗になり、頭の奥でじーーんという音が聞こえるだけ。意識を途切れないように保つのだけが精一杯だった。

こうしてもがいてる間にも、もう一人の男は無防備になった俺の真正面に立っているに違いない。目を開けることはできなかったが、気配でそれを感じることができる。

俺になす術はない。腕も振りほどけず、逃げることも反撃することもできない。

絶体絶命という単語を、脳裏にぎらせる時間すらも、もう与えられてはいなかった。

フィナーレ

見慣れた天井だった。

まくらや布団の匂いもとても馴染んだもの。ここは俺の部屋だ?

普段なら俺以外がいることもないはずの室内に、俺以外の気配を感じたので、ばっと飛び起きる! その途端、全身に痛みが走った。

俺は、いつからここで横になってるんだ

大丈夫かな? 横になってた方がいいと思うよ。」

そこに、レナがいた。

なぜ俺がここにいてレナがここにいる!? 全身の血管と筋肉が収縮しゅうしゅくする!!!

だがレナの微笑みは俺のよく知るレナのものだった。気を許してはいけないと知りつつも、今のレナは大丈夫だ、と勝手に安心してしまう

俺はどうして。」

覚えてないの?」

意識がなくなってからのことは全然。」

体は自分で想像する以上に鈍重どんじゅうになっていた。あの一瞬で俺自身の持つ限界を出し切ったのだから、ガタが来ても当然かもしれない

せめて意識だけでも鮮明にしようと足搔くが、頭の中にもやがかかったような鈍さはなかなか抜けなかった。

「一応、お医者さんにも電話したから。もうすぐ来ると思うよ。それまで横になってた方がいいと思うな。」

医者を呼ばれるほど大袈裟な怪我じゃない。だが医者という公正な立場の人間に来てもらえるのは少し心強い

俺、どうしてここにいるんだ? 確かダム現場跡で。」

「それはレナが聞きたいな。何があったのかな? レナが来た時には圭一くん、倒れてて。」

だから聞きたいのは俺の方だよ。変な二人組に襲われて。」

口に出し、ようやく意識を失う直前の記憶が蘇ってくる。その記憶が、恐怖として蘇るにつれ、頭の中のもやも少しずつ晴れていった。

あの二人のことはともかく。レナが俺を介抱かいほうしてくれたのが意外だった。俺はレナに命を狙われていると思っていた。だったら、俺が意識を失っていたときは絶好のチャンスだったはずだ。

にもかかわらず、俺は殺されず、どころかこうして介抱されている

よく、俺を引きずってここまでこれたな。重かったろ。」

レナの華奢きゃしゃな体つきを見れば、俺を自宅の、それも二階まで引きずってきたのは尋常じんじょうじゃない。他に仲間がいるのか

圭一くん、本当に覚えてないの?」

レナはきょとんとしながらも笑顔で応える。

「いや、ごめん。全然覚えてない。」

レナは圭一くんに肩を貸しただけだよ? 大丈夫、自分で歩けるって圭一くんが本当に覚えてない?」

覚えていない。意識が途切れた後の記憶は不鮮明だ。

二人組はどうした?」

「え?」

レナが来た時、俺と一緒にあるいはすぐ近くに、二人組の男が、」

「いなかったよ。」

ぴしゃりと言い切られた。

その言い切り方はどこか不快な色があった。

この時の俺はあまりに弱気だったレナに詰め寄ることもできたかもしれない。だが、そうするときっと、やさしいレナは、俺の知らない怖いレナに変わってしまうかもしれない。それが怖くてそれ以上踏み込むことを避けた。

考えてみれば当然だ。もしもあの二人がいたら、いくらレナでもかなわないだろう。俺を連れて行くにはあの二人がいなかったと考えないと説明できない。

レナは笑顔のままだった。瞳の輝きも暖かだった。

なのに顔の影が少しずつ暗くなっていくような奇妙な錯覚を感じる

そのわずかな予兆に背筋がぞくりとした

まだレナがレナでいる内に連絡しなければ。大石さんに連絡しなければ。

俺が寝床を抜け出そうとすると、レナがそれを制した。傷に障るから寝ていろ、と言う。

トイレに行きたいんだけどな。」

あ、ごご、ごめん。」

それ以上はレナも何も言わなかった。

レナを部屋に残し、足早に階下へ降りて居間の電話機を目指す。

玄関の前にさしかかったとき、ピンポーンというチャイムの音がなった。

レナが呼んだ医者だろう。

患者自らが医者を迎えるというのも変な話だが大石さんが駆けつけるまでの数十分間、いてくれるだけでこれほど心強いことはない。

そう安直に思い、無警戒に玄関を開けたことを数瞬後に悔やむ。

「み、魅音!?」

「あれ、元気そうだね。倒れてたって言うから、様子見に来たんだけど?」

なんで俺が倒れてたって知ってるんだよ。」

「レナが電話してきたから。他に理由が必要?」

医者に電話するならわかる。だがどうして魅音にまで!?!?

俺の背後の階段をレナが降りてきた。

「レナ、圭ちゃん大丈夫そうだよ? ったく心配してそんしたー。」

「そうだね。レナも心配して損したかな? あははあははははははは。」

二人は勝手に笑い出す。陽気に笑っているように見えたがやはりどこか影のあるような感じは拭えない

「さー、ほら圭ちゃん。重病人なんだからちゃんと寝てないとだめだよ。さーさー、お布団に戻った戻った!」

二人に促され、階段を登らされる。大石さんに電話をかける隙は、ない。

俺は布団の中に押し込められてしまった。魅音は初めて入る俺の部屋を興味深そうに物色ぶっしょくしている。あれやこれやをいじっては、レナにたしなめられるそんな光景だった。

部屋を物色されることは落ち着かないが、会話は至って平凡、微笑ましいものだ。

そんな平凡な会話の中で、さも当たり前のことのように魅音が言った。

レナ。監督には電話した?」

「うん。魅ぃちゃんに電話した後、すぐにね。すぐ来るって言ってたよ。」

監督? 場違いな単語に違和感を覚えた。

レナは医者を呼ぶために電話をし、魅音を呼ぶために電話をし、そして監督に電話をした??

レナと魅音の会話があまりにも安穏あんのんとしているので、その違和感は些細ささいだ。だが、無視することができない。俺が怪我をしたら医者に電話をして、魅音に電話をして、さらに「監督」ってヤツにも電話しなくちゃならないのか??

二人とも何の話をしてるんだよ? 監督ってなんだよ。」

「あははは、圭ちゃん知んないの? 監督ってったら監督だよ。」

「映画の監督とか。工事現場の監督とか。あははははははははははははははははは。」

俺に関係のある監督という単語を全記憶の中から洗い出す。該当がいとうは一件しかない。

それはレナが最後に言った、「工事現場の監督」。

一番最初の事件、バラバラ殺人で被害者になった、ダム工事の現場監督?

でもおかしい。その監督は死んだはずだ。電話などできるはずもない。

お前らが何の話をしてるのかわからないよ。その監督が俺と何か関係あるのか? 来るって言ったけどうちに来るのか?」

当たり前な疑問を次々とぶつける。だが二人は至って涼しそうに笑い合うだけだ。

そんな二人の様子と、怪訝に思う俺の温度差には明らかに開きがあった。徐々に、不愉快さと焦りが湧き上がってくるレナと魅音が、何を言っているのか理解できない。

圭ちゃん、最近は野球に凝ってるんだよね? 監督、それ聞いたら喜ぶと思うなぁ。」

だから監督って誰だよ。」

「あはははは。監督は監督さんだよ。あははははははははははははははははは。」

だから、監督って誰だよッ!?」

「「あはははははははははははははははははははははははははははははははは。」」

レナと魅音は二人して顔を見合わせるとけたけたと笑い出す。それはこの上なく不快な嫌な笑いの合唱だった。

「「あははははははははははははははははははははははは、は。」」

気味が悪いくらいに長かった笑いは、その長さとは逆に、あっさりと途切れた。

あれほど気味が悪いと思ったのに、途切れたら、今度はそれはそれで不気味だった。何なんだ、一体

「そうだ。監督が来る前に済ませとくかな。圭ちゃん、覚えてるかい?」

魅音の表情からいつの間にか笑いが消えていた。

覚えてるって、何をだよ。」

「あはははははははははははははは。圭一くん、忘れちゃったのかな? 罰ゲームなんだよ。罰ゲームなんだよ!」

忘れちゃったのかなぁ? おはぎの宿題。どれがレナの作ったおはぎかを当てる宿題。あれ、確か宿題忘れだったよねぇ?」

そんな宿題も確かあった。

でも裁縫針が出てきたので残りのおはぎは全部を投げてしまった。だからどれがレナの作ったものかは回答していない。それの罰ゲームだって? なぜ今そんな話が出てくるんだ!?

「あははははははははははははははははははははははははははは。」

俺の疑問は表情に出ていたに違いない。その疑問に対する答えが、二人のこの乾いた笑いだった。

何が何やらわからなくなってくる。

今日一日、思えば初めから何かが狂っている! おかしい。理解できない!

レナに追われ、怪しい男たちに襲われ、魅音とレナがやってきて罰ゲーム。

「「あははははははははははははははははははははははははははは。」」

こいつらは何が可笑おかしいんだ!?

すでに異常な空間に引きずりこまれていることを気付くのに、そんなに時間はかからなかった。

そうだよ、こいつらは一体誰なんだ!?

レナや魅音によく似た誰なんだよッ!?!?

いつの間にかレナが俺の後ろにいた。なぜと思う間もなく、後ろから羽交はがめにされる!!

「な、何の真似だよッ!? は、放せッ!」

「動かないでね。罰ゲームだから。あはははははははははははははははは。」

自分の体が鈍重とは言え、レナの羽交い締めはがっちりとまり身動きができない。

そのあまりの力強さに俺もほんのちょっと本気になって抵抗したがそれでもびくともしないのだ。焦りが噴出し、冗談の領域を越えたことを悟る。

こんな尋常でない万力まんりきのような力を俺のよく知っているレナが出せるわけがない

じゃあ俺をがっちりと締め上げているこの細くて華奢そうな腕は誰の腕なんだよ!?!?

圭ちゃん、抵抗しちゃだめだよ〜。会則第何条でもいいや。罰ゲームに抵抗しちゃだめなんだからさ〜!」

魅音、いや、魅音によく似たそいつは、まるで魅音のように、俺に語りかける。

だが間違いなく、魅音じゃない。魅音じゃない何者かが魅音のフリをしているッ!!!

「くっくっく。監督が来る前に済まさないとねぇ。」

魅音がポケットをまさぐるとそこから奇妙な物を取り出した。それが何か、視覚的には理解できたが、なぜ魅音のポケットから出てくるのかを常識的に理解できなかった。

何だよそれ。」

それは小さな注射器だった。

とてもとてもシンプルな、誰もが注射器だと聞いた時、真っ先に想像するあの形状をまったく裏切らない、まさにそのものの注射器だった。そんなことはわかってる。わからないのは、なぜそれがここにあって、魅音のポケットから出てくるのかということだった

レナはさらに俺を強く押さえつける。そして耳元で、げてげてげて、ともはや笑い声にも聞こえないような声で大笑いした。

その奇怪な笑い声は絶対に、俺の知っているレナの喉から出せるものではない。レナのふりをするこいつの本当の笑い声なのだ!?

抵抗することもできない俺に魅音が注射器を構えながら迫ってくる!! そしてその針先を、俺の目の前で何度もちらつかせた。その閃く針の先端に、先端恐怖症でなくても目をそむけたくなってしまう恐ろしさがある

「大丈夫大丈夫。痛くないから痛くないから。くっくっくっく!!」

「な何をする気だよ。これは一体何の真似だよッ!?!?」

圭ちゃん、何言ってんだか。わかってんでしょ?」

「何が! 俺には何が何やらさっぱりわからねえよ!!」

知ってるくせにー。今さらカマトトぶられてもなぁ。」

「わけのわからないことを言って俺を煙に巻くのはやめろッ!!!」

富竹さんと同じ目に遭ってもらう。」

え、え!?」

富竹さんと同じ目!? よく意味がわからない。それとこの注射器にどんな関係があるんだ!?

圭一くん、とぼけてるね。薄々は気付いてたくせにぃ☆」

レナが耳元に口を寄せて、諭すように笑いかける。だがその口調にも、たとえようもないおぞましさが含まれていた。

とぼけてるって? 俺が? 何を!! 富竹さんと同じ目だって!?

富竹さんが遭わされた目

「みんな初めは轢き逃げされたものだと思っていました。ですが、意識を確かめるために近付いた警官はすぐに異状に気付きました。喉がね、引き裂かれていたんですよ。」

「ナ、ナイフとか!?」

「いいえ。爪でした。」

爪!? 爪って、指についてるこの爪!? それでガリガリと!?!?

そうだ。

富竹さんは自らの爪で喉を引き裂いての絶命だった。そんな死に方あるわけがない!! もしも考えられるとしたら!!!

「薬物を疑いましたが、そういう類のものは検出できませんでした。」

そうだよ。警察は富竹さんの遺体からは薬物は検出できなかったはず

「け、警察は富竹さんの遺体からは薬物は検出できなかったって言ったぞ!?」

「はぁ? げてげてげてげてげてげて!!!!!」

二人は笑い声ともつかない、奇怪な声で笑い合う

笑うのは当然だ。警察にわからなかったから、そんな薬物は存在しないなんて決め付けがいかにおろかしいことか

つまり富竹さんにあんな異常な死に方をげさせる薬物は実在するのだ!? このまま魅音に、それを注射されれば否応なくそれを実証することになるだろう

それはつまり富竹さんと同じ末路まつろ錯乱し、最後には自ら喉を引き裂いて死!

こんな奇怪な薬物が実在すること、そしてそれを魅音たちが所持していること、そしてそれが自分に注射されようとしていること。今この瞬間、それらを疑問に思う必要は、一切ない。自分の顔面目がけて飛んでくるボールをかわす時、飛んできた理由を考える阿呆あほうがどこにいる? あぁあぁ、そんなわけのわからないことを考えている間に、もう魅音はすぐ目の前に迫っていて、その注射器をッ!!

観念しなって。んじゃ、」

魅音の仕草があまりにも呆気なくて、それが恐ろしい。

死刑を執行しっこうする時のおごそかさなどなく。まるで日常風景のありふれた行為であるかのように、躊躇がなかったからだ。

だから、魅音がもう片方の手を伸ばし、俺の胸元を摑んだ瞬間。

後頭部に電気が走り、世界中が停電になったような錯覚を感じた。

立ちくらみ? それとも誰かに後頭部を思い切り殴られた?

平衡感覚が失われ、めまいに襲われる

床に吸い込まれるようにしゃがみ込み、朦朧もうろうとする頭に必死に血液を送り込もうとした。

そして、次第に頭の中のジーンとした痺れが取れ、ゆっくりと全身に血の通いが戻ってくるのがわかる。

俺はどの位の時間、ここにうずくまっていたのか? 何分? それとも何十分なのか

見上げた時計の針は、まるで俺が目を閉じていた間分だけ、きっちりと止まっていたのではないかと思うくらい、進んでいなかった。

本当に? 今、室内をおおう空気は、さっきまでの狂気に満ちたものでなく、灰色の静寂だけになっている。

羽交い締めにしていたはずのレナもいなかったし、今まさに注射しようと迫っていた魅音もいなかった。

まさか全部何かの幻?

部屋には俺以外の気配はまったくなくなっているのだ

かつてない異常な体験。俺は確かにレナと魅音に

自分の正気を一瞬疑うが、同時にある種の安堵感も感じていた。

ははは、やっぱりあの恐ろしい出来事は幻だったんだ。レナも魅音もあんな恐ろしいことをするわけがないんだ

なのに、目頭めがしら熱くなる。感情がこみ上げてくるのがわかった

どうして? それは涙がこみ上げる理由にではない。

どうして? それは悲しみだった。

どうして悲しくなるんだろう? わからない。わからない

男女とか、年齢とか分けへだてなく、親しくしてくれた。魅音。

その魅音は、窓際に不自然な格好で横たわっていた。

頭から胸元が血でべっとりと赤黒くなっている。壁一面に飛び散った真っ赤なものは魅音が撒き散らしたものに違いなかった。

いつも明るい笑顔を絶やさず、転校してきた初日から親切にしてくれた。レナ。

そのレナは俺の足元でうずくまり、魅音と同じように血溜ちだまりを作っていた。

何があったのか理解できない。誰かが俺を助けに来てくれたのか? そしてこの二人を打ち倒したのか? この、金属バットで

右腕の重さにようやく気付いた。

いつ握ったのか。それは悟史の金属バットだった。

べっとりと赤黒い血が貼り付き、二人を叩きのめした凶器であることを疑わせようともしなかった。

その、明らかに凶器の金属バットを俺が持っている。そして家の中には俺以外に誰もいない。

「え、俺、」

客観的に見て、俺がやった以外に考えられない

「俺がやったのか?」

そうだよ。前原圭一。俺がやったんじゃないか。俺はまるで自分自身を諭すようにやさしく告げた。

なぁ俺。無理に思い出さなくていいし、後悔する必要もない。やらなきゃやられてた。それはわかってるだろ

「でも血が、血が、こんなに!」

レナも魅音もぴくりとも動かなかった。

ひたいが割れて血が一筋なんて甘いものじゃない。辺り一面に真っ赤な飛沫が飛び散り、二度三度では済まない打撃が加えられたことを教えてくれた。

べっとりと血糊ちのりの化粧でおおわれた顔面はいびつに打ち砕かれ、手当てをすればどうにかなるという領域をすでに逸脱しているのは明白だった

し、死んじまったのか? 二人とも。」

心の奥底は冷静なのに、心の表層だけが焦り、動揺する。

落ち着け前原圭一。いつものクールな俺はどうしたんだ!? さぁほら。いつもやるみたいに、頭を後ろに反らして大きく深呼吸をするんだ。ほら。

一度。二度。大きく深呼吸する。

冷静になれ。冷静になれ。心の中で何度も唱え、気を落ち着ける

ようやく景色が色を取り戻し、空気にも匂いが戻った。それと一緒にあの空白の時間に何が起こったのかを思い出す

レナと魅音が襲ってきた。俺に「富竹さんと同じ症状を起こさせる」注射をしようとした。そしてその直前、俺は反撃したんだ

羽交い締めにするレナを全身をひねって投げ飛ばした。

そのままさらに回転し、かかとで思い切り魅音の腹部を蹴り抜いた。柔らかかった。

レナが俺にとびかかろうとしたので、思い切りの体当たりで、壁に打ちつけた。

二人が共に体勢を崩し、一瞬の隙が生じたことをその時の俺は見逃さない。

机の脇に無造作に置かれた悟史のバット。

ぷつん。と、ここで真っ暗になる。

俺というビデオが、ここから先を録画していないとでも言いたげだった。

いや違う。録画してないんじゃない。ちゃんと録画されている。

ただ俺の中のもう一人が見るなと言ってテレビを消しただけなのだ。

画面が真っ暗になって見えなくなっただけで俺の中のビデオテープには間違いなく録画されている。

テレビを切っただけでビデオの再生はまだ続いている。俺の中のビデオがカラカラと再生を続けている。真っ暗になったブラウン管の向こうで恐ろしい映像を流し続けている

そして、その過程を経たのが、この室内の惨状さんじょうだった。

敷かれた布団が踏み荒らされてぐちゃぐちゃになり、それらに混じって不自然な格好で倒れる二人。

部屋中の壁という壁に血が飛び散っていて、それらはさらに下に垂れておぞましい狂気の絵画を描いていた。そして、気付いてしまったら吐き気をもよおさずにはいられない、むせ返るような血の臭い

どんな経緯けいいがあったにせよ俺は、女の子を、仲間を、殴ってしまった。

殴ってしまった? 何という場違いな言葉なのか! 殴るじゃない。これは殺した、あるいは壊したとすら言える行為だ。彼女らの顔面と思われる部分は、おぞましく歪み破壊されていて、鼻は潰され、眼球は潰れ、歯茎はぐきは砕かれてた。

だがこうしなければ俺がやられていた! 過剰だったにせよ、これは正当防衛なんだ。

そうさ、ここには全てがある。倒れた二人と魅音の注射器。

魅音の注射器に詰まっている未知の薬物が、富竹さんの事件の謎を解き明かすだろう。そしてこの二人の関与の事実から、犯人たちをいもづる式に検挙できるだろう。

それでも俺は罪に問われるかもしれない。抵抗の度合いを超えているのは明白なのだから。だが、それでもいい。

とにかく、これでちゃんとした警察沙汰になる。レナの過去の事件のように、うやむやにはならない。とにかく警察が関与すればすべて決着がつくはずなのだ。

警察は過去の一連の事件を再び捜査するだろう。大石さんがきっと全てを暴いてくれる。

つまり俺の望み。死にたくない、全ての真相を知りたいは、最低限の形、あるいは最悪の形であってもたっせられるのだ。

そして、それはもうじきかなうだろう。

レナが呼んだという医者がじきにここにやってくる。全てを告白しよう。その前に大石さんにも連絡を

その時、思い出す。

ここには、医者の他に、「監督」という人物が呼ばれていることを。レナと魅音の会話から、事件に深く関与のある人物であることは想像に容易だ。

凄惨な出来事に心を痛める余裕すらも、急速に失われていく。

まだ終わっていない。ここはもはや安全ではなくなった。

クールになれ前原圭一。まだ終わっちゃいない。終わっちゃいない終わっちゃいない! 警察に事件の全てを伝えるまで俺は生き延びなければならない!!

その時、表から人の声が聞こえた気がした。

人の会話ということは、二人以上の人間がいるということだ。

カーテンをほんの少しずらし、表をうかがう。

それは異様な光景だった。四、五人の大人の男性たちが、門の前に群がっているのだ。

彼らの雰囲気は、今日、ダム現場跡で襲い掛かってきたあの二人の雰囲気にもよく似ていた。

いや、似ているどころか、あの男はまさに俺を追ってきたあいつじゃないのか! そうさ、俺はわずかの時間とは言え、対峙し戦っている! 顔を見間違えたりするもんか!!

その中のひとりは医者を思わせる白衣を着ていた。でもその雰囲気はとても医者には見えない。医者のふりをした変装だと直感する。

多分、あいつはチャイムを鳴らして、俺に玄関を開けさせる役なのだろう。

医者だと偽って扉を開けさせて他のやつらが一気に踏み込むつもりなのだ

その時、男たちの後ろに止まっていた車を見て、心臓が飛び出しそうになった。

白いワゴン車ッ!!!!!

間違いない。俺を轢こうとしたあの車だ!!!

白衣の男が門を入り玄関に近付いてくる。他の男たちはしげみの陰に隠れながら、それを息を殺してうかがっている

居留守を使っても恐らく無駄だ。ヤツらならあっさりと窓を破って侵入するに違いない! あれだけどうどうと襲い掛かってきた連中なのだから!

なんとかここを脱出。そして公衆電話で大石さんに連絡。どこかで落ち合おう。

まず必要なのは武器! あと靴ッ!!

だがその前にひとつだけやらなければならないことがある

俺に死ぬつもりはない。絶対に生き延びてこの理不尽な「オヤシロさまの呪い」の真相しんそうを究明する。

だがこれから起こることによっては、俺のそんな決意とは無関係に俺は終焉しゅうえんを迎えるかもしれない。だからこそ。今すぐここを逃げ出すよりも、大切なことがある。

壁掛け時計を素早く外し、裏に隠したメモを剝がす。

畜生! こんなにも丁寧にがっちりとセロハンテープで貼り付けやがって!!

多少破れてもいい。少し破き気味にメモを広げ、サインペンで新たな一文を書き加える。

俺が大石さんに伝えることが叶わなかったら。頼みになるのはこのメモだけ! これほど、破けた大学ノートの一ページが頼もしいことはなかった。

時間はない。今知りうる真実だけを。真相究明に役立てる、何かの情報を!!

〝レナと魅音は犯人の一味。〟

これは疑いようのない事実。今でも信じたくない。だが事実なのだ!

とにかく犯人の手掛かりになりそうな情報は全て残そう。

〝他にも大人が四〜五人以上。白いワゴン車を所有。〟

さっき窓から見た限りではそのくらいだった。もっといるのかもしれない。

そして「監督」という未知の存在。

そもそも監督なんてこの雛見沢に似つかわしくない単語だ。もしも過去の事件で唯一監督という単語が絡むとしたら一番初めのバラバラ殺人の被害者の現場監督だけ。

一連の連続事件の一番最初の被害者だ。リンチで殺され、遺体は六つに切り刻まれた。

見つかっていないのは右腕だけ。その死は警察が確認しているはずでは

でもレナと魅音は確かに、監督を呼んだと言った。監督と言った。

死んだ人間を呼べるわけがない。警察だって、死んだはずの人間が関わっているなどとは思うまい。

それが何かの盲点もうてんなのか?? わからない。だが俺にはわからなくても大石さんには重要なヒントになるかもしれない!

そう。一番最初の事件から洗うべきなのだ。

あれがただのバラバラ殺人でなく、その後に続く、連続怪死事件の始まりなら絶対に何かが隠されているはずなのだ!

〝バラバラ殺人の被害者をもう一度よく調べてください。生きています。〟

人の死ってのは検死とか経て、しっかりと調べられるはずだ。理屈ではそう思ってる。だが、本当にそうなのか? 警察を巧みにあざむ狡猾こうかつな仕掛けがあるのではないか?? 断定はできない。だが、生きているかもしれない

だが、それを想像するには、今はあまりに時間がない。

そうだ。それよりももっと書かねばならないことがある

〝富竹さんの死は未知の薬物によるもの。〟

そう。この注射器の中の薬物が唯一無二ゆいいつむにの証拠だ! これさえあれば全てを解明できるに違いない!!!

床に転がる、そんな重要な証拠をここに放置するわけにはいかない。

〝証拠の注射器はこれです。〟

そう書き、転がっている証拠の注射器をセロハンテープで時計の裏に厳重げんじゅうに貼り付ける。

絶対に転がり落ちたりしないように厳重に厳重に!! 俺が、命を危険にさらしてついに握った敵の証拠なのだから!

ピンポーン

チャイムが鳴った。来たッ!!!

もうこれ以上を書くことはできない。それでも! 俺は最後にこれを書かずにはいられなかった。

〝どうしてこんなことになったのか、私にはわかりません。〟

俺がこのメモに記した中で、一番の真実はこれだけかもしれない。

〝これをあなたが読んだなら、その時、私は死んでいるでしょう。死体があるか、ないかの違いはあるでしょうが。〟

これも全て筋書きなら。俺は祟りで死ぬのか。鬼隠しで消えるのか

〝これを読んだあなた。どうか真相を暴いてください。それだけが私の望みです。〟

これで俺の遺言ゆいごんはすべてだ。

別に俺が死ぬと決まったわけじゃない。だが万が一の時のための遺言だった。

メモを畳み、時計の裏に貼り付け、それを元の位置に戻す。

祈らずにはいられない。大石さん。俺にもしものことがあったら全部、頼むからな!!

それから、横たわるレナと魅音にもう一度だけ振り返った。

多分、これが今生こんじょうの別れだな。レナ。魅音。

「俺、みんなのこと本当に友達だと思ってたんだぜ。」

なのにどうしてこんなことになってしまったんだよ

前の学校では楽しいことなんか何もなかった。偏差値の上下に一喜一憂いっきいちゆうし、志望校が合格圏か安全圏かとかそんな話しかしなかった。灰色の生活だった。つまらなかった。

友達ってのはクラスの勉強のライバルのことで、内申書と校内偏差値をきそい合う敵だと思ってた。

それが、如何いかに馬鹿な勘違いなのかを教えてくれたのがみんなだった。

この一ヵ月間、本当に楽しかった。弁当で大騒ぎをし、部活で大騒ぎをし、お祭りで大騒ぎをし

目から熱いものがボタボタとあふれ出る。不覚ふかくにも涙だった。

こいつらのために涙を流す義理なんかないはずだ。でも止められない!!

たとえ命を狙われたとしても。殺されそうになったとしても。この一ヵ月間の思い出は忘れられないのだ

それともあの楽しかった日々は虚偽きょぎだったのだろうか

俺をたばかるために今日まで周到に続けられたわなだったのだろうか?

俺だけが一方的に仲間だと思い込んでいただけなのでは

そんなはずはないッ!!!!

レナも魅音も本当に俺の仲間だったッ!!!

あの楽しかった日々にわずかの曇りも虚偽もあるものか!!!

きっとレナたちは俺を殺すよう、何者かに強要されたに違いないのだ。あるいはオヤシロさまという超常存在が取り憑き、意識を乗っ取られていたに違いないのだ!

とにかくレナも魅音も最高の友人だった!! そして俺に襲い掛かってきたのは二人の意志とは異なるものに違いないのだッ!!!!!

だがどんな強要があったにせよ、仲間を売るような二人じゃなかった。

オヤシロさまなんてものに乗っ取られるような、非現実的なことがあるわけもなかった。

じゃあやっぱり本物のレナと魅音が襲い掛かってきたんだ!?!?

俺は何を考えてるんだろう。この期に及んで、滑稽こっけいな馬鹿な話だった。

レナと魅音を殴り殺しておきながら。あのレナは本物だったかとか偽者だったかとか、今頃論議しているのだ。

本物も偽者もあるわけがない。結果だけが真実なのだ。

足元にレナと魅音が横たわる、それだけが真実!!

仲間を殴リ殺シタ事実を都合よくじ曲げようとしているだけ!!

どう捻じ曲げたってレナと魅音が死ンデシマッタコトには何も変わりはないというのに!!!!

抑えていた異常な感情のダムに亀裂きれつが入るのを感じた。虚勢という、平常心が退しりぞき、その隙間に狂気が漏れ出してくるのをひしひしと感じる

俺が殺したんだ。俺が殺したんだ。レナを魅音を。殺したんだ!!

再びチャイムが鳴り響く。

その容赦ない響きが、俺にもう一度だけ冷静さを取り戻させてくれた。

もう一刻の猶予ゆうよもない! 早く逃げなければ!!!

とにかく死にたくなかった。それから全てを暴きたいと思った。俺をここまで追い込んだ何かの正体を!!!

もう何もない。何もかもが滅茶苦茶めちゃくちゃあんなにも楽しかった日々はもう完全に砕け散って粉々だ。だから、知りたい!! 何でこんなことになってしまったのかを知りたい!! 泥を啜ってでも、草をんででも!! 生き残る生き残る絶対に生き残る!!

そのためにレナを殺した! 魅音も殺した! そこまでして生き延びた!!

だから死ねない。俺が生き残るために殺されたレナと魅音のためにも絶対生き延びなければならないのだ!!

玄関へ走り、靴をわしづかみにした時、急かすように再びチャイムが鳴った。この一枚の扉の向こうにいるッ!!!

足音を殺しながら台所へ。勝手口へ向かう。昨夜、針を探すために撒き散らしたゴミはそのままで、小さい汚らしい羽虫が舞っていてとても不潔だった。だが今はそんなことはどうでもいい。あの、おはぎの中の針よりも、もっともっと直接的な証拠を手に入れた今、もうあの針の有無などどうでもいいことなのだから。

勝手口を開け放つ前に、耳を当て表の気配をうかがう。気配はない

靴を履き音をさせないようにゆっくりと扉を開く

うまく連中の裏をかけた。そう思った時、鋭い声に叫ばれた。

「いたぞ!! 裏口だ!!」

その声が体を突きぬけ戦慄せんりつが駆け抜けるッ!!!

走るしかない!!!!! 逃げろ圭一ッ!!!!!!!

頭から知性とか理性とか、そういうゆとりあるものが次々こぼれていった

そのまま俺は、家の裏の林の中へ飛び込んでいく。少しでも妙なところに逃げ込めば追っ手を撒けるのではないかと思う本能だった。

こずえで腕や頰に擦り傷が出来ても、何も痛みは感じない。ばくばくと機械的に収縮する心臓にも何の痛みも、疲労も感じなかった。

体中の全細胞が、ただ生きたいと。それ以外の何も望まなかったから。今さら何も不平ふへいを言わなかったに違いない。ここで足を止めれば、そもそも殺されてしまうのだから、疲れを感じるわけもない

ただただ走った。自分が前だと思う方向に、がむしゃらに走り続けた。

たとえ誰も俺を追っていなかったにせよ、俺は疾走をやめないに違いない

どこを目指して走っているかなど、もう頭にない。

振り向けば、すぐそこに気配がいる気がした。

その気配は間違いなくぴったりと、影のように俺を追い立てる。

一瞬でも足を違えれば食われる。そう思った。

だから振り返らなかった。止まらなかった。走り抜けた。全力で!!!

カナカナカナカナ

それは夕暮れを教えるひぐらしの鳴き声。

俺に何かを教えようとし、そしてついにかなわなかった犠牲者たちの、泣き声。

俺もそれに加わるのか。

カナカナカナカナカナ

ひぐらしだけが知っている。全部知ってる。きっと知ってる。

だから、たくさんひぐらしの鳴く声の聞こえる方へ走った。

だが鳴き声は走った分だけ遠のく。近づけない。

どうして逃げるんだよ、みんな!!!

俺が悪いのかよ。悪かったのかよ!? なら謝るさ!!

ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい

ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい

ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい

ひぐらしだけが、全てを知っている気がした。

遺言

喫煙きつえんスペースには紫煙しえんが立ち込めていた。

高額備品扱いの分煙機も、チリチリという何だか電気のはぜるみたいな音がうるさいだけで、ちっとも役に立っているようには見えない。

どうしてこんな日当たりの悪い廊下の奥に、我々愛煙家が押し込まれなければならないのか?

タバコの税収ってのは確か、自治体の税収の一割くらいはあるって聞いたことがあるような。私たちは地方自治体を支える高額納税者なんですから、もう少しいい待遇たいぐうにはならんもんですかねぇ

うーん、どうしてこれが五萬ごまん切りなんすか? 待ちが狭くなっちゃうっすよ?」

後輩の熊ちゃんが麻雀雑誌の「次の一手」のコーナーとにらめっこをしている。まだまだ初心者の彼に、勉強になる問題を見つけたので出題してやったのだ。

「んっふっふっふ! だって五萬切ってもテンパイ崩れませんから。」

「ハイテーにけるなら、両面リャンメンで受けた方がチャンスあるんじゃないすか?」

「熊ちゃん、河を見て下さい。五萬は全員切ってますから安牌あんパイなんですよ。終盤で形テンに走った誰かがダマで待ってたら嫌でしょ。」

熊ちゃんはうーんと唸りながら、タバコをねじり、もう一本を取り出す。

納得いかないっすねぇ。わざわざ自分で当たり牌減らすなんて。」

「ちなみに、ハイテーで当たり牌出てもロンしちゃダメですよ。」

「え!? どうしてっすか!?」

その時、廊下の向こうから声が聞こえてきた。

「大石さん、いますかー? 一般の方から外線でーす。」

「ありゃ、こりゃどうも。それじゃ、ちょいと失礼!」

「ど、どうしてロンしちゃダメなんすかぁ!? あ、待ってくださいよ大石さぁん!」

大石の向かいの席の男が受話器を振っている。

「外線です。公衆から。」

「あーどうもすみません! お待たせしました、大石です。もしもし?」

「お、大石さんですか!? もしもし!?」

「前原さんじゃありませんか。どうもどうもこんにちは!」

前原くんからこちらに電話をかけてくるのは初めて。そしてかけてきたのは公衆電話。そして明らかに落ち着きを失ったその口調から、大石は何かの緊急事態をすぐに悟った。

「落ち着いて下さい! 何がありました?」

「えっと、その、ぅおぇぇ。」

声は混乱し、ろれつも回っていないようだった。息もえで、まるで何者かから逃げ延びて、ようやく電話をしてきたような感じ

「何があったんです!? もしもし!?」

大石のその口調に、周りの刑事たちも緊急事態を悟る。皆、私語しごを止め、大石の電話を見守った。

「あぁぁあぁあのお、ぉぉ、」

落ち着いて前原さん! 今そこに近場の警官を行かせます。私もすぐそっちに行きますよ!」

あ、その多分無理です。間に合わ。」

声に怯えと達観たっかん

まさか、電話をかけながら、すでに何者かに囲まれている!?

「前原さんは今、公衆電話からかけてますよね? どこの公衆電話ですか!?」

前原くんの声以外の環境音がまったくない。電話ボックスからか。

メモに殴り書きをし、対面の同僚に突きつける。

(ヒナミザワ、デンワボックス!!)

同僚がすぐに事態を飲み込み、あわただしく内線を回す。

落ち着いて前原さん! 今はどういう状況なんです!?」

混乱した相手に余計あおるような言い方はよくないのだが、今回はそういうケースじゃない。

前原くんは危機に襲われ、逃げ切ってから電話をかけてるんじゃない。今この瞬間も何らかの危機にさらされている!?

だがこっちがまくしたてたって、前原くんは余計に焦るだけなのだ。

前原くんは助けを求めるためだけに電話をしてきたんじゃない。それ以上の何かを伝えたくて電話をしてきているのだ。

そしてその何かは、この電話の機会を逃すと、もう二度と伝えられないという確信に基づいている

同僚がメモを回してきた。

(雛見沢にボックスは二箇所。パトを向かわせました。五分で到着します。)

「掛かり過ぎです! 警邏けいらには何人乗ってます!?」

「二人です。」

「足りませんねぇ! もしも私の想像通りなら前原くんは多人数に囲まれている。それに五分じゃ遅すぎる! 雛見沢の駐在さんには電話しました!?」

「しましたが、定時巡回の時間です。家人は留守で連絡不能!」

「くそッ!! 熊ちゃん、車を回して下さい。私たちも出ますよ!!」

「了解っす!!!」

もしもし? 大石さん? ごほっごぼッ!!」

「もしもし! 大丈夫です。ちゃんと聞こえてますよ!」

前原くんの様子がおかしい。今の咳の音は普通じゃない。嘔吐? それともまさか血!? すでに襲われ負傷している!?

「前原さん、今そこに警官が向かってます。二、三分で到着しますから何とか持ちこたえて下さい! もしもし!? 聞こえてますか!? 前原さん!?」

受話器の向こうで咳き込むのが聞こえた。脳裏に最悪の予感が過ぎる。

「前原さん!! 犯人は誰です!? 敵は何人なんですッ!?」

お、俺も最初はニンゲンが犯人なんだと思いましげぼッ!!」

咳とも嘔吐ともつかない呻き。

「大丈夫ですか!! 前原さん!!」

「犯人はニンゲンなんだって、オヤシロさまの祟りなんかないんだって、そう思ってました。ついさっきまで。だけどやっぱり、げほげほッ!!」

激しい咳。それに続いて嘔吐。

でもやっぱりオヤシロさまってのはいるんだと思います。いや、います。今。」

「前原さん、どうか、どうか落ち着いて、」

「なんかさっきからおかしいと思ってたんです。ずーっとつけてくるんですよ!! 走っても走っても、走っても走っても!!! 影みたいにぴったりくっついて!! だけども少しずつ少しずつ。俺の背中ににじり寄ってくるんです。」

前原さん、そいつは今、ひょっとして前原さんの後ろに?」

後ろに。すぐ、後ろに。」

「お願いです前原さん。怖いのはわかります。ですがお願いです!! あなたの後ろに誰がいるんですッ!?!?」

「振り向けるわけないじゃないですか。振り向いたら、」

「怖いのはわかります!! でも教えて欲しい!! ちょっと振り返るだけでいいんです!! 前原さんの後ろに誰がいるんですッ!?!?」

直後に激しく嘔吐する音が聞こえる。それから何か嫌な音。それは、異音。きぬを搔くような耳障りな異音。

前原さん、あんたまさか、喉を引っ搔いてたりはしないでしょうね!?」

返事はない。ばりばりと搔きむしるような音。それはまさに、富竹ジロウの最期の再現なのか。

ガタンガシャン! とぶつかり合う音がした。前原くんが受話器を落としたのだろう。

電話の向こうからは唸りと嘔吐、そして繰り返される喉を搔き毟る異音。

「もしもし! もしもし!? 前原さん!? もしもーしッ!?!?」

離された受話器の声がどんなに遠いかよくわかってる。でも叫ばずにはいられないのだ。

その時、受話器の向こうからつぶやきが聞こえた。何を言っているのかはわからない。口調からして独り言? それともそこにいる誰かに言っているのか?

「もしもし? 前原さん?」

それはつぶやきというよりきょうみたいな、単調な何かの繰り返しだった。

その何かを聞き取ろうと神経を研ぎ澄ます

何を繰り返してるんだ彼は。一体何を!!!

ぶつん!

あまりに唐突に切れた。十円が切れたのか!? 公衆電話だったから!!

あ。」

唐突に切られたから。むしろ最後の一言は鮮明に脳裏に戻った。

「大石さん、車はOKっす!!! 大石さん!?」

ごめんなさい、だ。」

「大石さん??」

「前原さんはずっと繰り返してたんだ。ごめんなさい、って。」

その時、直感した。もう、そんなに急ぐ必要がないかもしれないことを。

前原圭一は、今、「オヤシロさまの祟り」に、飲み込まれたのである

その時、開け放たれた窓の向こうからひぐらしの声が聞こえてきた。

カナカナカナカナカナ

ずっと聞こえていたはずだった。特に気にも留めず。

どうして今になって急に気になったのか。

カナカナカナカナカナ

何か、伝えようとしている? 何を

でも、いくら耳を傾けようとも、その意味を理解することはできなかった

それでも、ひぐらしはなく。

カナカナカナカナ。カナカナカナカナ。

ひぐらしだけが知っている。そんな気がした。

祭りの終わり

昭和五十八年六月二十五日(土)

某県鹿骨市ししぼねしの寒村、雛見沢で女子生徒殺人事件が発生した。

容疑者は、前原圭一(十X歳)

容疑者は自宅にクラスメートの女子二名(竜宮礼奈れいな・園崎魅音)を呼び寄せ、金属バットで撲殺した疑い。

犯行現場は自宅二階の容疑者の自室だった。

室内は凄まじい血飛沫に染まり、被害者ともみ合った形跡が認められた。

また、犯行現場とは別に、玄関、居間、台所でも荒らされた形跡が認められた。

玄関では、靴箱と壁に激しい打撃の痕跡。

凶器のバットによるものと断定。痕跡に血液反応が出なかったことから、犯行以前に破壊したものと推定。被害者の逃走を阻止そしするため、容疑者が威圧行為を行なった可能性がある。

居間では絨毯が剝がされ、投げ捨てられていた。

これは被害者ともみ合った際のものとは考え難く、その真意は不明。

台所ではゴミ袋が破かれ、その中身が床にばらまかれていた。

さらに、そのゴミは容疑者が手の平で叩いて潰したとしか思えない痕跡が残されていた。その目的は不明。

また、冷蔵庫に貼り付けられていたメモには〝針がなかった?〟と記されていた。

これも意味不明。念のためゴミを徹底的に探すが、針のようなものは発見できなかった。

他に特筆すべきこととしては、引っ越し以来、開放したままになっているガレージのシャッターがわざわざ閉じられていた。

シャッターからは容疑者の指紋しもんを検出。目的は不明。

容疑者は犯行現場から逃走したが、警邏中の警察官(雛見沢駐在所)が村内の電話ボックス内で倒れているのを発見する。

発見時、容疑者は意識不明の重体。ただちに村内の診療所に搬送はんそうし手当てをしたが、意識は戻らず二十四時間後に死亡した。

検死の結果、直接の死因は出血性ショック死。自らの爪で喉を引き裂き、その結果の失血で死に至ったと断定した。

先週に発生した富竹ジロウ事件の異常な死に方との酷似こくじに、警察は関連性があるものとして捜査を行なっている。(ただし、地元からの強い要望により非公開捜査)

異常な死因に、富竹事件同様何らかの薬物の使用を疑うが、これまた一切の薬物反応が検出されてない。

当初はあまりの不可解さに、衝動的な突発的犯行と断定していた。

だが、容疑者の犯行直前までの奇行が次々と露呈ろていするに従い、捜査方針は変更されることとなる。

親しかったグループとの離別りべつ。孤立。意味不明の言動。犯行の数日前からは金属バットを持ち歩くようになっていた。

攻撃的な言動、独り言は学校でもしばしば見られ、クラスメートが実際にその一部を聞いている。

犯行の前々日には、両親に自らの死をほのめかす発言もしていた。

警察は、これらの状況から、この事件が突発的なものでなく、数日前から予定された計画的犯行の可能性があるとして捜査を開始する。

その後、容疑者の自室から直筆じきひつのメモが発見された。

メモはB5の大学ノートを半分に裂いたもの二枚で構成され、まるで隠蔽するかのように、壁時計の裏に貼りつけられていた。

メモの内容は別添べってんの通り。

その内容から警察は、容疑者が何らかの事件に巻き込まれていた可能性があるとして再び捜査方針を転換した。

だが、その後なんの手がかりも摑めず、メモそのものの内容の異常さから信憑しんぴょう性を疑われるようになる。

この事件は衝動的なものなのか、計画的なものなのか。

真相もわからず進展もなく、事件は文字通り迷宮入りの様相となった。

だが後年。

このメモにひとつの不審点が浮上した。

二枚のメモは、B5のページを半分にしたものが一枚ずつではなく

元はB5の一ページに書かれたものを何者かが、〝真ん中の数行を削除するために〟破り捨てたのではないかというのだ。

文字の大きさと、破かれた部分から推定して、削除されたのは二、三行。

削除した人物は容疑者以外である可能性が高い。

また、時計裏に付着ふちゃくしていた大量のセロハンテープ跡から、〝メモ以外にも何かが貼り付けられていたのではないか〟との憶測が出た。

第一発見者は、かねてから事件との関係を噂される疑惑の刑事。大石蔵人くらうど

任意で事情聴取をしたが、メモの破損はそんについては否定する

以下が、そのメモの内容である。

前原圭一の遺書(全文): 私、前原圭一は命を狙われています。/なぜ、誰に、命を狙われているのかはわかりません。/ただひとつわかる事は、オヤシロさまの祟りと関係が/あるということです。/レナと魅音は犯人の一味。他にも大人が四〜五人以上。白いワゴン車を所有。/(※ 二、三行分、破れていて読めない ※)/どうしてこんなことになったのか、わたしにはわかりません。/これをあなたが読んだなら、その時、私は死んでいるでしょう。/…死体があるかないかの違いはあるでしょうが。/これを読んだあなた、どうか真相を暴いてください。それだけが私の望みです。/前原圭一

〈ひぐらしのなく頃に 第一話〜鬼隠し編〜 了〉