ひぐらしのなく頃に 鬼隠し編

第十二回 6月24日(金)夕方

竜騎士07 Illustration/ともひ

ゼロ年代の金字塔『ひぐらしのなく頃に』の小説が、驚愕のオールカラーイラストでついに星海社文庫化! ここに日本文学の“新たな名作”が誕生する!「鬼隠し編 (上)」を『最前線』にて全文公開!

6月24日(金)夕方

俺と悟史が何だって?

俺が良かれと思ってしてきた今日一日の行為は、全て悟史の模倣もほうに過ぎなかったのだ。

ならつまり、悟史も俺と同じ境遇きょうぐうだったのだろうか

仲良く過ごしてきた仲間たちが豹変し何の理由もなく、いや、あるいは俺が気付いていないだけなのだろうか。とにかくとにかく! 身に覚えもなく、悟史もまた命を狙われるようになったのだろうか

そして俺と同じように悩みぬき、護身のためにバットを取り、素振りといつわって常に持ち歩いた

そしてある日、突然

〝転校しちゃったの。〟

全身の血流に冷たくてしびれるものが流れていく。それらは心臓から近い順に体内を巡り、頭のてっぺんから足のつま先まで満遍まんべんなく凍えさせた。

転校ってなんだよ。転校ってなんだよ。転校した先には悟史がいるのか? そいつだけは俺のことを理解してくれるのか? なんでこんなことになってしまったのかを全て教えてくれるのか? それより転校先ってどこだよ!? 転校ってなんだよ。転校ってなんだよ

いつの間にか、自宅の扉の前だった。

ひんやりとしたノブは重い。留守るす? それほど珍しいことでもないので、俺はポケットをまさぐり、オットセイのキーホルダーの付いたカギを取り出す。

玄関に入り、靴を脱ごうとしたその瞬間ッ、背筋が凍りついた。

な、なんだ、これ

俺の目の前にある光景に凍りついたんじゃない。俺の、背後の、それに凍りついたのだ。

口でうまく説明できない。だって、玄関の扉を、俺にぴったりくっついて入ってきたヤツがいるからだ

まるで学校のクラスメートがふざけてそうするかのように、そいつはぴったりと俺の背後にくっついて立っている

噓だろ? 絶対に気のせいだ

こんな密着の距離で、玄関に入るまで俺に気配を悟られずについてくるなんて真似、常識で考えてできるわけがない

だが、紛れもなく、後ろのそいつはそこにいた。

お、おいおい圭一。後ろにいるのに、何で「いる」ってわかるんだよ!?

だって髪が流れる音がした。

そんな音、するわけない。そんなのは気配だ。

だってまばたきをする音がした。

そんな音、するわけないだろ。前原圭一!

もっとも野性に近い全ての知覚が背後の気配を警告し、もっとも理性的な一般常識が、俺の背後の気配を気のせいだと否定する。

こんなのは気のせいだ、後ろには誰もいないと頭の中の不気味なイメージをかき乱す。

だが同時に、「いない」なら、今後ろに「いる」のは何なんだよという不気味さも背筋を昇ってくる。

むしろ誰かいてくれた方がいいんじゃないのか

もしも振り向いて誰もいなかったらお前はそれを受け入れられるのか

首を後ろに向けるだけで、俺の疑問は全て解決する。だが、それが簡単にできるほど俺は勇敢ゆうかんではなかった

そうだ声をかけてみよう。後ろの人が答えてくれるかもしれない

迷走した思考が、振り返らずに済むならなんでもいいと提案した方法はそれだった。冷静に考えればそれによって何の解決にもならないことに気付けるのに。でも、今の俺はそれ以外に背後の気配を確かめる方法が思いつかなかった

「ど、どなたですか?」

とても自分のものと思えないかすれた声が、喉の奥からかすかにこぼれる。

後ろのそいつは答えあぐねるかのように感じられた。

感じられた、なんてことがわかるわけない! 落ち着け圭一、これは気のせいなんだよ!! 後ろには誰もいない、だから誰も答えるわけなどッ!!!

その時、俺は確かに聞いた。

俺の問いかけに躊躇しながらも、答えようと。すぅ、と息を飲み込む音を確かに聞いた。聞いた。聞いた。はっきり聞いた。

女だった。若い女だった。

誰かは知らないけれど。とにかくとにかく

い、た。

俺の中の一粒の勇気、蛮勇が、俺に叫びをあげさせるというもっとも原始げんし的かつ、今のこの状況を解決するのに相応ふさわしい力を与えてくれた。

全身全霊の力を肺から、喉から解放し、脳内の全ての思考を切断する。

全ての思考と感情を殺し、俺は崩れ落ちるように倒れながら、だけれども体をひねりながら後ろを振り返った。

確かにいた。そこにはいた。誰かがいた。俺が振り返り、後方を視界で照らすまで確かにいた!

仰向けに倒れながら、虚空こくうに残る気配を目でなぞるまさかこいつは透明なヤツでいないように見えてまだここに立ち続けている???

叫びとともにせき止めていた感情の波が一気にあふれ出してくる。

だが俺はその感情というダムの決壊けっかいに極めて冷静だった。濁流だくりゅうのように押し寄せる感情の波を上手じょうずに誘導し攻撃性に転化する。今まさに眼前にある異常事態を打開するには絶対に必要な感情だった。俺は極めて冷静に、激情に身をゆだねる

金属バットは手に吸い付くように、ぴったりと右腕の中にあった。

「おおぉぉおおぉおおぉおッ!!!!!」

銀に輝く金属塊の残像が左から右へ玄関をぐ!!!!

バットは右の壁に激突し、すさまじい反発力で先端を跳ね返した。俺は極めて冷静にその跳ね返る力と方向を調整し、左方向への攻撃として切り返す。

靴箱の扉をぶち割った。今の二振りは空を切ったが、敵に与えた心理効果は大きいようだった。空間に焦りがれ出しているのが感じられたからだ。

必要なのは攻撃だけではなかったのだ。靴箱にめり込んだバットを引き抜き、そのまま体ごとの大回転を加え、咆哮ほうこうする。

「うッおおぉおおおおぉおおぉおおおぉッッ!!!!!」

叫びが空気を揺るがし、続けて繰り出される渾身の一撃にさらなる破壊力を上乗せする!!

ひしゃげ、砕ける壮絶そうぜつ禍々まがまがしき異音。

一打必殺の名に相応しい渾身の強打が、情け容赦ようしゃなしに靴箱の天板を叩き潰した時に放つ断末魔だんまつまの音だった。

いずれの攻撃も敵には当たらなかったが、俺の激情は確かにぶち当たったようだった。

俺が肩で息をし、全身を熱い汗でぬらす頃には、あの、いないけどいる見えない敵は霧散むさんしていた。

敵の退散たいさんを気配で確認すると、俺は玄関にカギを下ろしチェーンもかける。

まさか退散と見せかけて、すでに俺の家の中に踏み込んだのでは!?!?

再び攻撃性をむき出しにし、家の中の気配を探る。だがその気配はなかった。

撃退に、成功したのだ。

はは、ははははは!! はっははははは!! やったぞ、やった、撃退したッ!!

その途端、全身の力が抜け、大きなため息がこぼれ出た。

たった今まで制限を加えていた脳内分泌物がぐちゃぐちゃと混ざり合い、恐怖感やら達成感やら不信感やらを混ぜこぜにして、俺に流れ込んできた。

それらの感情をひとつひとつ相手にせず、疲労感という最強の感情でねじ伏せる。

この瞬間においても、俺は冷静だった。

家中の戸締とじまりを再確認した後、俺は二階の自分の部屋に戻りカーテンを引いた。

それから直立ちょくりつして、少し頭を後ろへそらし、雑念を全て消し去り、脳内をさらに冷静に冷却する

今の玄関の出来事は一体何なんだ

確かにいた。

こうして冷静になれば、実は錯乱状態の自分が見た幻だと思えるんじゃないかと思ったがやはりそうとは思えない。

落ち着け前原圭一。もっともっとクールに

だがいくら冷静に考えても、さっきの出来事は幻なんかじゃない。

さっきのは明らかに超常ちょうじょう現象で、間違いなく俺の背後に何かがいた。俺が錯乱したとか混乱したとか幻影げんえいを見たとか、そんなのじゃない!!

証拠? ひとつだけある。俺が「どなたですか?」と聞いたとき、後ろのそいつは答えようとして息を吸った。その「音」ははっきりと俺の耳に聞こえたのだ!!

あぁ、自分で自分にこうして言い聞かせなきゃ、今の出来事がまるで俺が錯乱したみたいに思えちまう!! 違うんだ、自分でわかってるだろ!? いたよ。いたんだよ!! 確かにいたじゃねぇか!! しかもそれはほんの数秒前の出来事だぞ!? それをもう俺自らが疑っちまうのかよ!? いたいた、確かにいたんだ!! そして、俺の攻撃は空を切ったけど、確かにその何ものかを追い払ったんだ!! くそ、くそくそくそ!!!

俺が今おかれている状況は依然いぜん不透明だ。

オヤシロさまの祟りという超常現象に取り込まれているか、それを妄信する、あるいは模倣する村人たちに仕組まれているのか。

いずれにしろ動機は不明。その遠回しなやり口も謎のままだ。

人間が犯人ならそれはレナたちが犯人であることを認めることになるのだが。とにかく、解決はまだ容易だ。大石さんたち警察は必ずや敵を検挙けんきょしてくれる。日本の警察は世界一の検挙率なんだ。絶対に全てを暴いて捕らえてくれる!

だが。

もしもオヤシロさまの祟りが実在するとしたらどうだろう。

大石さんは祟りなど実在しない、とはっきり明言した。

あの時はその言葉をとても頼もしく思ったが、今こうして、人間が犯人でない可能性が浮上ふじょうしてくると急に頼りなくなる。さっきのあれは間違いなく人間ではなかった。人間以外の人知を超えた何かだった!

大石さんに一言、これはオヤシロさまの祟りなんです、と伝えたらどうなる?

どういう反応を示すか想像できないが、大石さんとの距離が急激に開くのだけは間違いないだろう。

ただでさえ味方が少なく、また祟りか否かも断定できない今、そんな行為は何の得にもならない

ついさっき玄関であった「事実」は俺の胸だけにしまった方がいい。時計の裏に隠してあるメモにも今の出来事は書かない方がいい。

自分が、実は冷静だと思っているこの状態がすでに錯乱状態で、つい玄関で暴れてしまったという可能性だって、ほんのわずかに残されているのだから

そうだったらどんなにいいだろう。オヤシロさまの祟りを否定できる。

だがオヤシロさまの祟りを否定すれば、それはレナたちが犯人であることを認めることになる。

レナたちが犯人であることを否定すれば、それはオヤシロさまの祟りを認めることになり

両方とも否定すれば、それは自分が異常であることを認めることになる。

三つの選びようもない選択肢が三すくみになり、それらはドロドロと渦を描きながら交じり合って、俺の目をぐるぐると回していく

もう一度、俺は直立し、頭を後ろへ軽く反らして頭を冷却した。

落ち着け圭一。起こったことだけが真実なんだ。それ以上のことを考えるのはやめるんだ

だけど、考えずにはいられない。

実は俺は異常で、今までの出来事が幻だったとしたらどんなにいいだろう。

オヤシロさまの祟りは実在しないし、レナたちも相変わらず最高の友人で

いっそ、狂ってしまいたい。

生まれて初めて、俺はそれを望んだ。

ひとりぼっちの籠城

階下の電話がけたたましく鳴り出す。

基本的に俺にかかってくる電話はないから、俺が進んで電話を取ることは少なかった。

だが今は親は留守だから仕方がない。もそもそと寝床を抜け出し、階下へ降りていく。

もしもし、前原です。」

「圭一? お母さんだけど。」

直感的に嫌な予感がした。買い物を頼まれると思ったからだ。だから先に言ってやることにする。

「何? 別に俺、夕食はカップラーメンでもいいよ。まだ買い置きがいっぱいあったでしょ。」

先日、家族で買出しに行ったときカップラーメンを箱買いしてあるのだ。

本当はいろんな種類をいっぱい買いたかったが、高いからと断られ、好物のデカカップ豚骨とんこつショウガ味を一ダースだけ買った。

だが両親はこってり系は苦手らしく手を出さない。なのでたっぷり在庫があるのだ。

「だからさ、買い物に行く必要はないんじゃないの?」

「圭一、買い物のお願いじゃないの。お父さんとお母さんね、お仕事の関係で急遽きゅうきょ、東京に行かなくちゃならなくなったの。」

「えぇッ!? 今から!?」

それは本当に唐突とうとつだった。時計を見る。もう真っ暗の時間だった。

「うぅん、もう着いちゃってるの。お昼には出発してたからね。夕方に一度電話したんだけど、圭一、出なかったでしょ?」

帰ってきてすぐ布団に飛び込んだ。俺は電話の音にも気付かなかったのか。

しかし、東京は雛見沢からでは半端はんぱな距離じゃない。車で高速をぶっ飛ばしたって六時間。新幹線しんかんせんならもっと早いだろうが、とにかく、気軽に行けるような距離ではない。

「圭一もお父さんとお母さんの話を聞いてたからわかるかもしれないけど、お父さんのお仕事の契約がね、今ちょっとうまくいってないの。」

言われてみれば昨夜、両親が仕事の不景気ふけいきな話をずっとしていたのを思い出す。

「お父さんはそういうのに繊細な人だから、このままだとお仕事にも影響が出ちゃうの。」

親父は芸術家特有のガラスのアイデンティティ、秋の空のような変わり易い感情の持ちぬしだ。俺が見る分には態度のでかい親父だと思うのだが、お袋が言うにはとても打たれ弱い人なのだそうだ。

「でもそんなの電話でやり取りすればいいじゃないか! わざわざ東京に行かなくったって!」

「圭一、お父さんのお仕事なんだからもうちょっと応援してあげて、ね? とにかく電話よりも直接会って話した方が早いの。誤解もないし。」

仕事の話を持ち出されては、息子の俺に何も言えることはない。

「だから帰るのは明日の晩になっちゃうの。圭一、ひとりで大丈夫よね?」

「別に死にゃしないよ。」

圭一、死んじゃうなんて軽々かるがるしく言っちゃだめよ。心配ごとがあったら相談してね。母さん、きっと相談に乗れると思うから。」

昨夜の俺が急に「俺が死んだら」なんて言い出したから、一応親として心配してくれてるのだろうか。もっとも、相談したところで解決にならないとわかっているのが悲しかった。

だけど死ぬ気はない。少なくとも、何もわからない内には絶対に。

「死なないよ。俺は。足搔いてでも生きびる。」

「そう。じゃあね。明日の朝、ちゃんと起きるのよ。朝ごはんは食べてね。お風呂と歯磨はみがきも忘れないのよ。」

「へいへい。そんじゃ。」

電話はそれで終わった。

たまに両親が仕事の打ち合わせで上京することはある。だが何しろ東京は遠いのだ。普通は電話で済ませてしまうはず。

かりに行くとしてもそれは事前に決まっていることで、こんなにも突然のことはない。

その辺に違和感というか不自然な感覚がないとも言えなかった。

とにかく事実だけを認識するなら。今夜、この家は俺一人ということだ。

両親が仕事から帰ってきたら俺がいない、行方不明。蒸発。過去五年間の一連の、オヤシロさまの祟りを思い返すと、あってもおかしくない。

そう言えばそろそろ夜もけてきた。

明かりが二階の俺の部屋にしかともっていないのはまずいんじゃないだろうか? 敵に両親不在を、チャンスを教えてやってるようなものだ

それに気付くと、自分が今いるこの家が、今や安全地帯ではないかもしれないのに気付き始める

そうなのだ。この家が安全地帯なのは、両親と一緒にいるからという前提があるからだ。それが崩れれば、ここはただの袋小路ふくろこうじと同じじゃないか

まず居間へ走り、明かりとテレビをつける。ボリュームは心持ち大きめに。

次に親父の書斎しょさいに走り、同じように明かりと音楽をつける。

これで、外からは両親が在宅しているように見えるはずだ。もう一度、家中を見回り、戸締りと隙がないかを確認する

ベランダを見た時、洗濯物が出っ放しになっているのを見つけ青ざめた。これじゃバレバレだ! 早く取り込まないと!! 乱雑に洗濯物を取り込み、お袋が不在である証拠を消す。

もう大丈夫だろうかあ! ガレージだ!! 両親は車で東京へは行かないが、興宮の駅までは車で行くだろう。

ガレージのシャッターが開けっ放しで車がないことが見え見えなのはまずい!!

あわてて表へ駆け出し、普段は閉めることのないガレージのシャッターを下ろす。

これで大丈夫、あ、あとは新聞受けだ!! 新聞はいつもお袋が持ってきてる。昼に出発したということは夕刊が入りっ放しだ!!

予感的中。新聞受けの中身を洗いざらい取り出し、玄関にぶちまけた。

これで今度こそ大丈夫なはず

そう言えばさっき暴れて壊してしまった靴箱だがこのままはまずいだろうな。

滑って転んで、持っていたバットで叩いてしまったなんてことにしておくか

にしても、このままで放置というのはまずい。お袋に怒られる前に少しは片付けておいた方がいいだろう

納戸なんどにほうきとちりとりがあったのを思い出し、取りに行こうとしたところ、家の奥で再び電話が鳴った。

「もしもし、前原です。」

「あら、圭一くん? お母さまはいらっしゃいますかしら。」

「あ、あの、今ちょっといないんですけど、」

馬鹿か前原圭一!! 親の不在をわざわざ暴露ばくろするな!! まだフォローできる、落ち着いて対処たいしょするんだ

「あ、でも、すぐに戻ると思います!!」

この切り返しも良くない! これじゃあ、また電話しますとか、戻ったらお電話を下さるようお願いしますとか、そんな風に続けられてしまう!!

「なら結構です。大した話でもありませんから。では、失礼しますわね。」

俺が恐れるような形にはならず、ほっとする。不幸中の幸いだった。

今の人は誰だろう。雰囲気からすればお袋の友達か何かだろうか。だがもし、ここに両親がいなくて、俺がひとりで留守番をしていることを知る何者かが、それをさらに確かめるために電話してきたのかもしれないじゃないか

今の電話は多分、雰囲気的にそうではないだろうがいや、そんなの決め付けられない! 今の俺は、誰が敵かもわかってない状態なんだぞ!? 下手をすれば、村が丸ごと俺を狙っていることだってありえるのに!!

とにかく、今夜かかってくる両親への電話の対応もうまくやる必要がある。

今の電話はこれで済んだがこんな甘いアドリブでは通用するはずもない。今のうちに、両親は在宅しているけど電話には出られないという、上手な噓を考えておく必要があるだろう。

天ぷらをげているので手が離せない。ダメだな。病気で具合が悪く寝込んでいる。無難ぶなんか?

考えながら、部屋へ戻ろうとした時、電話がまたしても鳴り響いた。

それはまるで、俺がこれからつこうとする噓を知っていてかけてきているかのようだった

本当は電話に出たくない。だが出なければならない。不在を疑われる。

受話器が外れているのに気付かなかったということにして受話器を外しておけば良かった

だが、今鳴り響いているこの電話だけは出なければならない。

覚悟を決め、受話器を取る

「も、もしもし。」

前原と名乗るのもやめにする。素性すじょうの知れない相手に親切にする必要はない

だが、俺の無愛想ぶあいそうな声に釣り合わないくらい、電話の相手はマヌケに陽気な声だった。

「どうも夜分遅くに申し訳ありません。私、興宮書房の大石と申しますが、」

「お、大石さんですか!?」

「前原さんですか? こんばんは。お元気そうで何よりです。」

「ちょ、ちょっと待ってくださいね!」

俺は子機に持ち替えると二階の自室へ駆け戻った。家族が誰もいない以上、どこで話しても同じなのだが大石さんとの電話は少しでも安心なところでしたかった。

興宮書房より再び

「お、お待たせしました。」

「いかがですか、その後お変わりは。」

その後、っていつからのその後だよ。何となく白々しい言い方に少しかちんと来たのは間違いなかった。とにかく、色々なことがありすぎてぐちゃぐちゃで、何から話したらいいのかそれすらも整理がつかない。

大石さんと最後に話したのは一昨日おとといか。学校を休んだ日、病院の帰り道に大石さんと出会って昼食を取りに街へ行って、話をして

そしてその後、お見舞いに来たレナと魅音に詰問きつもんされた。

大石さんと話をすると必ず看破かんぱされている。それは初めて会った時からそうだったのかもしれない。なら、今日のこの電話もまた、彼女らに筒抜けなのだろうか

「もしもし? 聞こえてますか前原さん?」

「え? あ、すみません。その何て言いました?」

「その後、何か変わったことはありませんか、とお尋ねしたんです。お返事がないんで焦りましたよ?」

「え、と特には、」

そう言いかけて口をつぐむ。

変わったことは山ほどあった。どれも不可解なことばかりだった。

何て言って話せばいいか、わからないようなことばかりだが聞いてみよう。今、聞かなければもうチャンスはないかもしれないのだ。

両親不在という今夜を、無事に越えられる保証などないのだから。

「その、大石さん、やっぱり俺、命を狙われているみたいです。」

「それは本当ですか!?」

偶然の可能性もあるんですが先日、俺が病気で休んだ日、夕方にあの二人がお見舞いに来たんです。」

「あの二人とは?」

「レナと魅音です。そしてそこで、大石さんと一緒に昼飯を食ったことをただされました。」

ふむふむそれで?」

「お見舞いってことでおはぎを置いていったんですが、その中に針が入ってたんです。偶然、飲み込まずに済みましたが。これってやっぱり脅迫でしょうか。」

「なんと! それで、その針は!?」

えっと、よく見かけるような、普通の裁縫針のようでした。糸を通す穴が開いていて。」

「違いますよ前原さん、針です! 証拠になります。脅迫だと立証できるかもしれません。その針はありますか?」

そ、そうかそうだったッ!!」

俺は受話器を放り出し、階下へ駆け出していく!

あのおはぎを投げつけた時、恐怖心でつい目を逸らしてしまったがあの針は重要な証拠になったのだ!

確か針はおはぎと一緒に壁に投げつけた。あるとすればやはり居間のあの壁!

だが、居間の壁は几帳面なお袋によって綺麗に掃除され、おはぎを投げつけた痕跡こんせきは完璧になくなっていた。

壁と絨毯じゅうたんの隙間とかに落ちてないだろうか!? 乱暴に手の平で撫でて探すが手応えはない。

試しに机やソファーをどかし、絨毯を引っ張り出し、ばっさばっさと叩いてみる。だが針は見つからない

お袋が気付かずにおはぎごと片付けてしまったのだろうか!?

せいぜい一昨日のことだ。燃えるゴミの日がいつだかは知らないが、まだ台所のゴミ袋の中に入ってるかもしれない!!

そのまま台所に駆け込み、ゴミバケツのふたを開け、その中身を広げてみた。

だが一目見てこの複雑なゴミの山から針を見つけ出すのは至難しなんであることを知る。文字通り、砂漠さばくでビーズを探すような手間になるだろう

そうだ、手で叩いてみよう。ちょっと汚いが、探しているのは針だ。ちくりと手応えがあれば見つけられる! 乱暴な方法かもしれないが手っ取り早い!

ぐっと息を止めてから、俺はゴミバケツの中身を台所に撒き散らした。

そして、そこに四つん這いになりながら、両手でゴミの山をベタンベタンと叩く!

汚物が飛び散り、きたならしいことこの上ないが、今はそんなことを言ってる場合じゃないんだ!!

だが、しばらく繰り返しても手応えはなかった。

もっと丹念たんねんに調べたいが今はまだ電話中だ。大石さんをあまり待たせるのも良くない

後でお袋が帰ってきたら、針がなかったか聞かなければならないだろう。

冷蔵庫に磁石じしゃくで貼り付けてある覚書おぼえがきメモに赤ペンで乱暴に、〝針がなかった?〟と書きなぐっておく。

それから、待たせすぎた大石さんの電話に戻るべく、階段を駆け上がった。

「もしもし? どうでしたか?」

見つかりません。あの時はつい気が動転していて。」

そうですか。見つかればでいいんです。保管しておいて下さいね。」

そうだ、針の件だけじゃない。今朝の車の轢き逃げの件も話しておこう。

「あ、あと大石さん、それだけじゃないんです。実は今朝、」

あの車は絶対に俺を狙った。数々の状況証拠からそうだと断定できる。

「その車のナンバープレートは見ましたか? こちらでも探してみます。」

「ぅ、あ、!! あの時は怒りにまかせて怒鳴りつけただけでナンバーは見ませんでした。」

針にせよナンバーにせよ何たる失態しったい!! 俺は自分の身を守ることばかりに執心しゅうしんして、肝心かんじんなことを見落していた! 悔しさと不甲斐なさで、俺は枕を殴りつける。

「す、すみません白いワゴン車ってこと以上はわかりません。」

「仕方ないことですよ前原さん。轢かれかければ気も動転します。」

やっぱりこれらって偶然じゃないですよね。」

。」

大石さんは電話の向こうでうなり始めた。腕組みをしている様子が目に浮かぶ

「あとレナの様子もやっぱり怪しいです。」

ほぅ。それはどんな感じですか?」

今日の帰り、レナは俺に言った。どうしてそんなにも悟史くんと同じなの? と。

今ならはっきりと断言できる。レナは悟史がどうなったかを知っている。ただ単に失踪したという以上のことを知っている。

レナは知っています。去年の鬼隠しにあった悟史のことを何か知っています。」

「それは具体的にどういうことですか?」

レナが言うには俺は悟史とそっくりらしいんです。このまま行くと俺も悟史と同じ運命を辿たどる、とそんな感じのことを言うんです。」

「運命、ですか。具体的にどんな運命を辿るか言及げんきゅうしましたか?」

えっと〝転校〟と。」

「転校?」

「レナは、悟史は〝転校〟したって言ってるんです。で、俺もこのままだと〝転校〟しちゃうぞ、って。」

大石さんが一際いかついため息をつき、大きく唸った。

前原さん、それはおそらく何かの脅迫もしくは警告ですねぇ。」

「俺もそう思ってます。」

ここで俺は、もうひとつ思い出す。

今まで起こってきた出来事を人間の犯人の仕業と決めつけていいのかどうかだ。

レナたちが犯人であるという説の他に、オヤシロさまの祟りが実在する、という説も残されているのだ。あの玄関での奇怪な出来事が、錯乱する俺が見た幻覚でないなら

だが、そんなことは大石さんに話せない。話せば、大石さんは俺のことを頭がどうにかなってしまったのかと思うだろう。もう二度と相談になど乗ってはくれまい

だがレナが怪しいというのはどちらの説でも共通している。

オヤシロさまの祟りが実在するにせよ、村ぐるみの何らかの犯罪にせよ。レナは関わっているのだ。

レナは何を知っているんだろう。レナは怪しい。レナは何者? 過去の連続怪死事件との関わりだけは疑いようもない

大石さんは確か、レナのことを少し調べたと言っていた。

少し、と言ったのは多分、大石さんの遠回しな言い方だろう。つまり、実際にはかなり深く調べてるんじゃないだろうか。

レナのことを聞きたい。前の学校でのことや俺の知らないことを知りたい。

レナが疑わしき人間なのかどうか、いやそんなことじゃない。

俺は真実が知りたいのだ。

今夜、この広い家に俺ひとり。頼りにならないとはいえ、在宅している限り安全を保証してくれると思っていた両親がいない。

別にこの家は砦でもお城でもないのだ。悪意ある人間が、強硬きょうこう的手段に訴えれば、たやすく侵入しんにゅうを許すだろう。

前原家の周りには民家はない。どんな物音がしたって、誰にも聞こえない。

親父が芸術家気取りで、こんな辺鄙へんぴなところに家を建てたことを今ほどうらむことはなかった。

はたして明日の朝、俺はまだここにいるのだろうか

だから聞こう。今聞こう。次に聞けるチャンスが、訪れるかどうかもわからないから。

「あの、大石さん、聞きたいことがあるんです。隠さないで下さいね。」

「えぇ。何でも聞いてください。」

電話の向こうというこの上ないくらい遠くにいながら、これほど頼もしく感じることはなかった。

聞こう。レナのことを聞こう。前の学校で何があったのか

「実は、レナの、」

うん?

その音はさっきから聞こえていた。

電話に夢中で、初めは気のせいだと思っていたが、それはやがてチャイムだと気付く。

時間は七時を過ぎている。郵便屋が来るような時間じゃないし、ご近所が訪ねてくるような時間でもない。

居留守を決め込もうかと思ったが、それはまずい。せっかくの家族在宅の演出が台無しになってしまう。出なければならないのだ。

もしもし? 前原さん?」

「あ、すみません、誰か来たみたいですので、ちょっと玄関に行ってきます。」

「お客さんですか、すみませんすみません。今夜のお電話はこれくらいにしましょうか?」

それは困る! 本当に聞きたいことはこれからなのに

「あ、いえ、すぐ戻りますから! 電話はこのままでいいですか!?」

はいはい。構いませんよ。」

受話器を布団の上に投げ出し、玄関へ走っていく。うまいこと言いくるめて、追っ払ってしまわないと。

何となく、大石さんの電話の直前にかかってきた電話の女性のような気がした。ならお袋の友達かご近所さんだろう。

お袋は具合が悪いと言って今日は早めに寝てしまいましたこんな言い訳が無難か。まさか具合が悪くて早寝したのを起こせとは普通言うまい。

相変わらず、さっきから等間隔とうかんかくでチャイムが鳴り続けている。

これだけ鳴らしても出ないなら、普通は諦めて帰らないだろうか

チェーンを外さないまま、そうっと隙間を開け来客の様子をうかがう。

背筋にぞわりと悪寒が走り抜ける。

わかってる。心のどこかで覚悟してた。お袋の友人だろうと、一番無難な想像をして〝逃げていた〟。

こんばんは。」

「レ、レナ。」

豚骨ショウガ味

こんな時間にレナが来る様な用事はないはずだった。

そして何より、タイミングが気持ち悪かった。大石さんに、今まさにレナのことを聞こうとした矢先だったからだ。単なる偶然と片付けたい

だが、この玄関で先日、魅音に言われたあの薄気味悪い言葉が蘇る

さぁてね。おじさんにわからないことはないからね。〟

「レ、レナひとり?」

うん。」

魅音は一緒ではないようだった。だからといって何も事態は変わらない。

「な、何しに来たんだよ。」

ねぇ圭一くん、ちゃんとドアを開けてお話ししたいな。レナは玄関に入っちゃ、だめなのかな? かな?」

確かに、チェーン越しのやり取りはクラスメートへの対応ではない。だが、このチェーンがある限り、俺の安全はぎりぎり保証されているのだ

「うち、夜は必ずチェーンかけてるんだよ。気にすんなよ。」

なら、仕方ないかな。」

レナはとても悲しそうにうつむく。それでも、それを隠して笑顔をたもとうとする努力が痛々しかった。

だが、痛む胸を搔きむしりながらも、警戒は解かない。こうしている限り、心は痛んでも命だけはおびやかされないのだから。

俺が真に恐れるのは単にこのチェーンを外して、暴漢ぼうかんたちに踏み込まれ襲われることよりも、信用してチェーンを外したレナに襲われ、友情を裏切られることだった。

こうしてチェーンを外さない限り、心は痛んでも、レナに裏切られずに済む。

無言で責めても俺にチェーンを外す様子がないので、レナは玄関への侵入を諦めたようだった。

あのさ、圭一くん、ご飯食べた?」

いや、食べていない。お袋がいないから待っていても夕飯は出ない。

帰ってきてから横になり、電話で起こされ、ずーっと話をしていたのだから、食べる余裕なんてなかった。

どうせカップラーメンだ。食いたければいつでも食える。お湯をかしてすぐさ

いや、まだだよ。それがどうしたよ。」

「あ、あははは、じゃあ良かった☆ これ見て。お惣菜そうざいとか持ってきてあげたの。」

レナはそう言って、風呂敷ふろしきで包んだ重箱じゅうばこを差し出してみせた。

「ね、お台所とか貸してくれればお味噌汁も温めてあげられるよ☆」

「いいよ、そこまでしてくれなくても。」

「でもでも、お豆腐もお野菜もたっぷりなの! 圭一くん、そういうの嫌いかな? かな?」

嫌いなわけない。俺は具沢山ぐだくさんな味噌汁は大好きだ。大根、にんじん、ごぼうにジャガイモ、パワフルな食感とボリュームあぁその味噌汁、最高だよ

「ご飯も持ってきてあげたから、レンジで温めればすぐ食べられるし。」

もちろん、味噌汁にご飯は欠かせない。ご飯をばくばくと喉にかきこみ、合間に味噌汁をすする。あぁ、よくぞ日本人に生まれけり!!

「それからね、またお漬物つけものを作ってきたんだよ☆ 今度は山菜のお漬物なの!」

雛見沢に引っ越してくるまで、俺は山菜という山の幸を侮っていた。だが一度しょくしてその魅力のとりこになったのだ! 淡白な中にも深い味わい。これに比べたら、俗に言うスーパーの野菜などは大味でダメだ! あんなものは言ってみれば野菜初心者向け。俺くらいのエキスパートになって初めてわかるのが山菜というものなのだ。

さらに竜宮家直伝じきでんの漬物が素晴らしくうまいのは周知の事実! あぁどんな漬物だよ。さぞかしふかふかの白米によく合うことだろう!!

それからね、それからね!」

あぁ、まだ続くのかよ!! うまそうだ、実にうまそうだ!! カップラーメンでいいやなどと言っていた不健康な自分よさらば!

レナはとても上機嫌な様子で、実にうまそうな夕飯を提案してくれた。おなかが一気に緊張感をなくし、空腹を訴え始める。それと同時にレナに対して持っていた警戒心も急に薄れていった

レナひとりだと言ってるし入れてやってもいいんじゃないだろうか

毒でもられるかもしれないという疑念は確かに晴れないのだが

でも、このレナはレナだ。あの、レナに似たレナじゃない誰かじゃないはず

その時、俺の背中に再び、ぞわりとした悪寒が走った。

この瞬間の俺はなぜそのような感情が走ったのか理解できなかった。

だが心の中のもうひとりの俺が、ガンガンと警鐘を鳴らす。

レナの楽しそうな、魅力的な夕飯の話はあるひとつの前提ぜんていもとづいていたからだ。

それはうちに今夜の夕飯がない、つまり、作ってくれるお袋が不在である、という前提に基づいている。

普通の家なら七時頃は夕飯の最中さいちゅうだ。うちだってお袋がいればそのくらいの時間には夕飯にしている。

その時間帯に、夕食を持って訪れるということ自体がすでに異常なのだ。

知っている。

レナは両親が不在であることを知っている?

だがはったりの可能性だってある。両親が居るよう、部屋の明かり等でいろいろ偽装ぎそうしたのだ。レナ自身、両親が不在だという確証を持っていない可能性だってある

でもどうだろう。洗濯物やガレージ、夕刊。慌てて始末しまつした痕跡は多い。レナには両親の不在を疑えるチャンスがなかったとは言い難い

だがこちらからわざわざそれを白状することはないはずだ

ぎりぎりまでねばってみよう。第一、チェーンをかけているんだ。これを外さない限り、レナは俺に何をすることもできないのだ

「あ、ありがたいんだけどさ、もう少しで夕飯が出来るみたいなんだよ。」

「え? そうなのかな、かな?」

せっかくで申し訳ないんだけどさその、」

上手に断る言葉が思いつかず、語尾ごびが弱々しくなってしまう俺は元来がんらい、噓をつくのは下手な部類に入るのだろう。

「でもちょっとはおかずになると思うかな、かな。」

「悪いけど間に合ってるよ。うちのお袋ってさ、結構おかずをいっぱい作るんだよ。だから、」

「え? おかず、あるの?」

苦笑いしながら申し訳なさそうにレナをのらりくらりとかわす

だが無視することで忘れようとしている感覚が背筋をじわりじわりと昇ってくる。

レナを、騙せていない。

俺はお袋が夕飯を今まさに並べてくれているように話しているのだがレナと話がみ合わないのだ。

レナはある当たり前な前提を元に話をしている。そしてそれは俺も当然自覚していることを前提にしている。

「圭一くんもおかずとか作れるんだね。何を作ったのかな?」

い。いやその別に俺が。」

レナは、そのおかずは俺が作ったものと最初から決め付けてかかる。

いや俺が作った、というより、お袋は晩飯を作ってなどいない、と断言しているのだ。

本当に作ったの? おかず。圭一くんが?」

「だ、だから俺が作ったんじゃないよ。お袋が作ったいや、作ってるんだよ。今!」

。」

「だからさ悪いけど、レナの持ってきてくれたのは食べられないんだよ。」

そこでレナは口を閉ざす。

その時、瞳にすっ、と影が降りたような気がした。そのわずかな変化に、俺は気付いてしまう。ぞわりと背中の毛が逆立つのが自分でわかった。

かたつばを吞み込んだ時、レナはとても静かに言った。

圭一くんのお夕飯、当ててみようか。」

「な、なんだっていいじゃないか。」

いいから。当てるね? うーんと。」

会話は一見自然だが、主導権がすでにレナに移っている。しかも心なしか、俺が詰問されているかのような流れだ。

そのお夕飯、お湯だけで作れるんじゃないかな?」

「お、おいおい侮るなよ!? うちのお袋のスペシャルなディナーを見くびるなってんだ!! そりゃあもー満漢全席まんかんぜんせき状態ですごいのなんの、」

精一杯強がるが、奥歯が上手に嚙み合わない。かえって狼狽しているかのような印象を与えている。くそくそくそ

だがレナは、そんな茶化ちゃかしにも何の反応も示さなかった。

もう一度聞くよ? 圭一くん、本当にお母さん、ご飯作ってってくれたの?」

「いやだから、くれたんじゃなくて、今作ってるんだよ! もうすぐ晩飯に!」

レナはお袋が在宅していて今、晩飯を作ってくれているという俺の前提をことごとく無視する。俺が焦れば焦るほどレナが冷めていくのがわかる。

「ね、圭一くん。」

その時、扉の隙間からいやに冷え込んだ空気がみ込んできた

「お母さん、おうちにいるのかな? かな?」

もうとぼけようもない

レナは。両親が不在であることに絶対の確信をもって訪れているのだ。

だがそれを今さら認めることはできない。

とにかく両親は在宅していて晩飯はもうすぐ、そういうことになっているのだ!!

だから俺は答える。お袋はいると、答える。

「い、いるよ、もちろん!」

今度は空気までも乾いていくのがわかる。レナの瞳はますます冷え込み、俺をてついた視線で突き刺す

どうして?」

「え、なな、何のことかな?」

ちょっと茶化した態度のつもりだったがそんな薄皮の演技は、レナの瞳を見てしまった瞬間に吹き飛ぶ。

その眼差しは口を開くよりも早く、俺にレナの返事を教えてくれていた

どうしてさっきから、噓をつくのかな? かな。」

う、噓なんか、」

噓だよね?」

噓なんかじゃ、」

「噓だよッ!!!!」

鋭い氷のやいばのような言葉が、俺の全身を貫いた

チェーンに守られ、レナとの接点は扉の隙間のわずか十数センチ。にもかかわらず、俺は追い詰められていた。

このチェーンを、俺は最後の砦のように思っていたが、そんな頼もしさはもはやない。この家はすでに安全地帯ではなくなっている。俺を追い詰め閉じ込める袋小路に成り下がっている

圭一くんのお夕飯、当てるよ? えっとね。」

レナが今夜、両親が不在であることを知っていることはわかった。

だが、ここまで来るとまた変だ! 両親不在を何らかの方法で知ることができたとしても、俺が今夜食べようとしているものまでを当てることは絶対にできないはずだ!! でもレナは当てるという。どうして当てられる!? どうして俺がインスタントの、

「カップラーメン。当たりでしょ。」

は、ぁぁッ、」

心臓を握り潰された気がした。唾を自分の意志で飲み込むことすらできない

い、いや、落ち着け前原圭一家事かじのできない男が作れるメニューなんてどうせカップラーメンだ。そんなのは統計的に見て一番確率が高いに決まってる。当てた内には入らないさ!!! て、適当だ。当て推量が偶然当たっただけだ

ラーメンだけじゃきっとお腹すくと思うな。ご飯とかも一緒の方がきっと、腹持ちいいと思うよ。」

落ち着け落ち着け! 落ち着け前原圭一! このところ俺はレナをある種、特別視している。だからちょっとでも看破されると大きくうろたえてしまうのだ。

だが別にレナに俺の心が読まれているわけじゃない。もしも本当に読めたら、それは妖怪ようかいだ。妖怪とかじゃなくあるわけないのだ。そんなことは。

好きなの?」

「な、何がだよ?」

「うぅん、*******。」

レナはまず、俺の返事が角度違いであることを告げた。

その否定があまりにも短かったので、俺は続くレナの言葉の意味するところがしばらく理解できずにいた。

ご、ごめんレナ。今、なんて?」

「え? 何が?」

「今さ、何が好き? って聞いたんだよ?」

数瞬後、俺はあまりに無防備に先を促したことを後悔する。

あまりに呆気あっけない回答だからこそ、俺はその意味するところが理解できずにいたのだ。

好きなの? 豚骨ショウガ味。」

それは、我が家に唯一あるカップラーメンの種類で、それを俺はレナに話したことなど一度もない!!

頭の中の真っ白な空白が回復するまで、俺はどんな様子だっただろう。視界がぐにゃりと歪みながらゆっくりと反時計方向に渦を巻き平衡感覚を混乱させる

「んなッ、なんでそこまでわかるんだよッ?!!」

もう俺は否定しなかった。これは一種の逆上だ。どうしてレナはこんなことまでわかるんだッ!?

俺は扉に顔面を打ち付けるのも気にせず、レナに食ってかかる。だがレナはそんな俺の様子にもまったくおくさなかった。

「確かに買った。まとめて買った。俺が箱買いしたさ! それがどうしてわかるんだッ!? ええぇッ!?」

なんでかなぁ? 不思議だね。だね? うふふうふふふふふ!」

この期に及んでなぜはぐらかす!? 今や扉のチェーンは俺だけを守るものではなくなっていた。

「どうしてわかる!? なぜ知ってる!? 答えろッ!!!!」

買ったのはセブンスマート。だよね?」

背中をぞっとするものが込み上げる!! それまでも看破されているというのだ! それを俺はうわべだけの怒りで誤魔化す。

「だからなんでわかるんだよ!?!?」

圭一くんの後ろ、ずっとくっついてたから。」

「な、何を言ってんだよ!?」

くっつくという言葉の意味がわからない。

「だから。レナが。圭一くんの。後ろに。ずっとくっついてたの。うふふふ。」

あの晩のように? 俺が大石さんとの電話に夢中だった時、その気配も感じさせずずっと扉の向こう、俺の背後で立ち尽くしていたように!?!?

「圭一くんがいろんなラーメン選んでるとこ、後ろからずっと見てたの。いろんな種類を選んでたんだよね。それでお母さんに怒られたの。高いラーメンばっかり選ぶから一種類にしなさいって。それで圭一くん、大好きな大きいカップの豚骨ショウガ味を選んだんだよね☆ レナも好きだよ。豚骨ラーメン。でも、大きいカップは全部食べきれないけどね。うふふふ、うふふふふふふふふふふふ!」

脳みそがひりひりと痺れ、感覚を鈍らせていく。

それは恐怖を薄れさせ精神を守ろうという防衛本能なのかもしれない。恐怖を含めた一切の感情が薄れ、レナが今何を言っているのか。そしてそれが何を意味するのかを脳内から雲散霧消うんさんむしょうさせていく

だからといって恐怖心が消えるわけではない。それは言ってみればがけっぷちで、下を見ずに目をつぶっているだけのような、何の根本解決にもならない、そんな感じだ。

よろりと、後ろに一歩下がる。その下がった分、レナは入り込む。

だから圭一くん。ここを開けて? レナと一緒にご飯食べよ☆ きっとおいしいから、?」

レナの白すぎる細すぎる指が何本も、一本一本が生きているかのように、扉の隙間からするすると入り込み、チェーンをかちゃかちゃと言わせる

いっそチェーンを引き千切ちぎってくれれば、俺も恐怖という感情を素直に爆発させられたのかもしれない。だがレナはそうしない。あくまでも俺に、チェーンを開けさせようとするのだ。

俺の感情の中のしけった火薬に必死になってライターで火をつける。何度も試す。かちゃかちゃと! だがつかない。つかない

開けて? 圭一くん?」

「か帰ってくれ頼むから帰ってくれ!!」

どうしてそんな意地悪いじわるを言うのかな? かな?」

「帰ってくれ!! 帰れよぉッ!!! 帰れぇえぇええぇッ!!!!」

俺の中の火薬にようやく火がつく。それはくすぶらず、一気に爆発した。

扉に体当たりする。レナは扉越しの衝撃に少し体勢を崩したようだった。ここで躊躇してはならない!!

ドアノブを両手で摑み、両足で踏ん張って一気に引っ張る!! だがバタンという軽快な音はしなかった。ぎりぎりと嫌な手応えが伝わり、扉が閉じることをこばむのだ。

それはレナの指だった。

一本一本がうごめきながら、まるで食虫植物とかの触手しょくしゅのように扉の狭間はざまで揺らめく! 俺が扉を閉め切ってこの場を逃げ出そうとするのに食いついてくるかのように

痛い痛いよ圭一くん痛いぅ、」

それは悲鳴のような激しいものでなく、かみ殺したような、静かなうめきだった。

「帰れ帰れ帰れッ!!!」

俺はいよいよきつく扉を引き絞る!! 一度扉を緩めなければレナの指が抜けない、だから閉められない、なんてことは思いつかなかった。いやむしろ、扉で指を無理やり千切ってやるくらいの気持ちだった。

本当に痛いの圭一くん。悪ふざけが過ぎたなら謝るよぅぅ。」

謝罪の言葉なんかどうでもよかった。レナがいくら謝罪したって、レナがしてきたことは何も変わらない。何も変わらない! レナがどういう存在であるかは変わらない! 帰ってくれ、帰ってくれぇえええええぇ!!

痛いの痛いの、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。」

「帰れ帰れ!! 帰れぇええぇえぇええッ!!!!」

レナが帰りたくても帰れないのは、俺がレナの指を挟んでいるからなのに。レナの白い指先は真っ赤になり、もはや蠢きもしなかった。

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、」

「帰れ、帰れ、帰れ!!!」

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、」

レナの謝罪は、時に苦痛に歪みながら壊れたテープレコーダーのようにそれだけをただひたすらと繰り返した

帰れ帰れ帰れやめろやめろやめろ!!! 俺はさらに強く扉を引き絞る!!!

やがて、何かの拍子に一気にレナの指が扉のかせから外れた。その途端、扉は威勢良く閉まり、その向こうでレナがしりもちをついた音がした。

間髪容れずに俺はカギをかける。それは大きなガチャリという音を立て、レナに拒絶きょぜつを宣告した。

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、圭一くん、ごめんなさい、ここを開けて圭一くん。」

レナは扉にしなれかかって、ただひたすら謝罪の言葉を繰り返していた。

俺はレナと自分の空間を完全に遮断しゃだんできたことをゆっくりと確認しながらそろりそろりと扉から後退あとずさる。

扉の向こうから、レナの謝罪の言葉が、ごめんなさい、ごめんなさい、という哀れな言葉が、俺の許しを得られるまで永遠に繰り返されていた。

気の毒に思ったりはしなかった。だが、冷酷な感情でそう思ったのではない。ただ、レナから逃れることが出来たという、灰色の安堵感だけだった。

以前、俺はこの玄関で魅音に、知らないことは何もないと脅された。

そして今再び同じ場所で、レナにもそれを教えられた。

俺のささやかな両親不在の偽装は初めから何の役にも立たなかった。ならばいっそ居留守を決め込み、玄関を開けない方がましだった!

俺のささやかな策略なんて何の役にも立たない。ここ雛見沢でヤツらを出し抜くなんてできやしないのだ!!!

俺は扉越しとは言え、少しでもレナから離れたかった。

一歩、一歩、離れる度にすすり泣くようなレナの謝罪が遠ざかる

一気に階段を駆け上がり、部屋に飛び込む。さすがにもう、レナの無限に繰り返される謝罪は聞こえなかった。

布団に飛び込み、ごりっとした手応えにぎょっとする。布団の中に何かあるッ!?!?

受話器だった。

ようやく思い出す。大石さんとの電話中だったことを。

時計を見ると、玄関へ降りてから全然時間が経っていないことがわかる。俺の時計、電池が切れ掛かっているんじゃ?? あれだけレナと話をしてこれしか時間が経ってないわけがない!! だが時計の秒針は、さも当たり前なように、俺が一秒と思う時間を一秒ずつ刻みながら、動き続けていた。

まだ、自分のぬくもりがちょっと残った受話器を耳に当てなおすと、凍っていた時間がゆっくり解け出す。

もしもし、大石さん? お待たせしてすみませんでした。」

「いえいえ。大してお待ちしていませんよ。」

大石さんと俺とで、時間の経ち方が異なるのは明白だ。

電話の向こうから漏れ聞こえる、スポーツ番組か何かの賑やかな声が、大石さんと俺のいる場所の遠さを教えてくれた

い、今、レナが来ました。」

「こんな時間にですか?」

。」

大石さんに今の状況を的確てきかくに説明できる自信はなかった。

だが今の俺に必要なのはそれを説明することでなく、レナのことだ。

そう、レナの訪問によって話が中断されてしまったが、俺は大石さんにレナのことを聞こうとしていたのだ。

何が真実で何が偽りなのか何もわからない。ひとつわかるのは、レナは怪しい、というたったひとつの厳然げんぜんたる事実だ。

レナの正体を大石さんに聞くことで、何かわかることがあるかもしれない。

これまで俺は、知らなくていいことを無理に聞き、何度も後悔してきた。

だが、もうその意味では底の底まで落ちてきたと言っていい。これ以上の後悔などあるわけもない。

いやむしろ、これ以上があるなら今はそれを全て知りたい!

今や俺は、明日どころか今夜、何があってもおかしくない、そんな状況だ。

俺が知ることのできる全てを知りたい。知れる内に全て知りたい! 絶対にこのままでは死ねないのだ。こんな、何もわからないうちには絶対に

竜宮レナさんのことですか? 調べましたよ。えぇまぁ簡単には。」

大石さんの言い回しはわかっている。〝簡単には〟は、友人であるあなたには話しにくいくらい調べた、という意味だ。

「その簡単な全てを知りたいんです。」

あなたが聞いて面白いような話はありませんよ?」

「大石さん。」

俺は努めて冷静な声で、はぐらかし続ける大石さんに告げる。そして断じた。

「竜宮レナは怪しいと思っています。過去の事件がたとえオヤシロさまの祟りによるものだったにせよ、竜宮レナは関わっています。それは断言できます。絶対です!」

「レナさんが怪しいと思える、具体的な証拠があるのですか?」

大石さんの口調がぐっとシビアになる。証拠はあるのか。それは刑事としての言葉だった。

「状況証拠だけです。ですが間違いありません!!」

そうですか。」

大石さんの落胆らくたんする様子が受話器越しにわかる。

釣竿つりざおに反応があって竿を引いてみたら、俺というエサに何の変化もなかったので落胆してもう一度竿を振り上げるそんな感じだった。

大石さん。目に見える証拠がなければ動けないんですか?」

言葉の裏には、証拠がなければ俺を助けられないんですか? というトゲも含めた。

さすがに遠回しな言い方を好む大石さんは、俺の言いたいことが理解できたようだった。

「大丈夫ですよ前原さん。あなたは私が守ります。」

ちっとも頼もしく聞こえなかった。大石さんは俺を利用して捜査しているだけだ。

俺が殺されたって、その死体は貴重な捜査資料になるくらいにしか思っていまい。

「大石さんの捜査は俺の生死と無関係でしょうが、俺は死ねば終わりなんです!」

電話先の大石さんは沈黙する。直情的に言ってしまったが、構わない。大石さんに、自分がいかに危機的状況にいるか伝わればそれでいい。

「だから、話してください。レナのこと。俺は隠さずにレナが怪しいと話している! だから大石さんも、レナのことを隠さずに話してください!!」

。」

「悟史は〝転校〟しました。多分、俺もそれほど遠くない将来、レナの言う〝転校〟をするでしょう。ですが大石さんには俺の死体を見つけることもできないでしょうね。現に悟史の死体だってまだ見つけられてない!!」

「ま、前原さん、どうか落ち着いて。」

大石さんにさとされるまでもなく、俺は興奮を抑える。ここで警察に対する不信をわめいても何の解決にもならない。結局、身を守れるのは自分自身、そして悟史ののこした金属バットだけなのだ。

ならばせめて教えてほしい。レナに転校前、何があったのかを!

つまらない話になるのは覚悟の上ですね?」

俺の決意が揺るがないことを知った大石さんはついに折れる。

「今の俺にとって、つまらない話は何一つありません。お願いします。」

まずいくつかお断りすることがあります。」

「はい。」

他言無用たごんむようでお願いします。また、内容には一部憶測も含まれているかもしれません。全てが真実ではないかもしれないということです。よろしいですね?」

「真実ではないかもしれない? 言ってる意味がよくわかりません。」

「雛見沢の連続怪死事件は捜査本部がありません。毎年の事件は個々に扱われています。ですから竜宮レナが捜査線に浮上したことは一度もないのです。つまりですね、」

レナの調査は警察としてでなく、個人として行なった、ということですか?」

ご理解いただけて助かります。話のほとんどは電話、もしくは会って聞かせてもらったものばかりです。ですからウラが取れていません。鵜吞うのみにしないでほしい、ということなんですよ。ご理解いただけますね?」

大石さんの大人の都合などにいちいち興味はない。それに証拠なんかなくても充分だ。たとえ噂話うわさばなしだったとしても、火のないところにけむりは立たないのだから。

話して下さい。大石さん。」

「わかりました。」

大石さんは重い口をようやく開く。

レナは昔は雛見沢に住んでいたらしい。

それが小学校に上がる時に遠くの、茨城へ引っ越しした。

そしてやがて。雛見沢へ帰ってくる直前。校内のガラスを割ってまわるという凶行にいたる。

そしてカウンセリングでレナが告白するのだ。「オヤシロさまが、」と。

これだけが俺が知る全てだ。

私が知る話も前原さんと大きくは変わりません。」

「では、どこを詳しく調べたんですか?」

聞くまでもない。転校直前に引き起こした事件についてだ。

「レナが起こした事件と、その後の医者での告白、ですね?」

はい。」

「大石さんはその内容を知っているからこそ、レナたちを疑っているんですね?」

えぇ。疑っています。」

「やはりレナたちが犯人?」

「あ、いえ疑うとはそういう意味ではないんです。」

大石さんは割と自信たっぷりな言い方をする人だが、この言葉だけは非常に頼りなかった。

「じゃあ何を、疑ってるんですか?」

オヤシロさま、ですよ。」

「え?」

オヤシロさまという単語は、神さまの名前だったり祟りのことだったりするが、いずれにしろ非現実的なもののことで、警察という現実的な存在である大石さんが口にするとは非常に違和感があった

「いえね? オヤシロさまの祟りって、本当にあるのかななんて、まぁはっはっは! そんな風に思ったこともありましてねぇ。」

大石さんの笑いは乾いていて、とてもつられて笑い出せるようなものではなかった。

大石さんは少しずつ話し始めた。悟史の失踪の頃からの不審感。レナの過去を調べ始めるまでの経緯けいい

その時、遠雷えんらいと共に突然強い雨が降り出した。本当に突然、それも叩きつけるような激しい雨だった。

部屋の熱気を逃がすため、隙間を空けておいた窓から狂った風がおどりこみ、カーテンを騒がしくはためかせている。

「どうしました? うお、こりゃ急にすごいかみなりだ。」

「あ、こちらもです。すみません、どうぞ続けてください。窓を閉めます。」

電話を続けながら腰を上げ、窓に手をかける。大石さんは話を続けてくれた。

「初めに事件と申し上げましたが、学校側も被害者も告発こくはつしてないので、正式には事件ではないのです。で、ですね、この辺りがどうも関係者の皆さん、口が重いんですよ。被害者のひとりは片目に後遺症こういしょうを残すぐらい殴られてるのにもかかわらずです。学校側か、もしくは表沙汰おもてざたになるのを望まない何者かがいろいろ根回しをしたのかもしれませんね。またカウンセリングを担当した神経科医も職業倫理に厳格げんかくな方でもしもし? 前原さん? 聞こえてます?」

窓を閉めるため、俺は受話器を耳に当てたまま窓際に立っていた。そして、外のそれを見ていた。

門の郵便受けのところにある外灯に、ずっとひとりの人影が立ち尽くしているのが見えた。

この土砂降どしゃぶりの中、傘もさしていなかった。もちろん全身はずぶ濡れたきのような雨に、髪の毛からぼたぼたと水を滴らせているのがここからでもわかる

それは両手をだらりとさせ、ただ、立ち尽くしているという表現が似合っていた。

片手には風呂敷で包まれた重箱。そこからも、ぼたぼたと滝のように水滴を零している。その中身はすっかり雨にやられてしまったに違いない。

瞳に映るのは俺の部屋の灯り。そして、窓を閉めようとカーテンを開け放った俺の、姿。

口元はもごもごとずっと規則的に動き続けていた。まるで、何か嚙み切りにくいものを口いっぱいに頰張っているかのようだった。

あいつはあんなところで何を食っているんだ

どうしてこのときの俺は大石さんから明かされている衝撃的な内容よりもレナの姿に釘付けになってしまったのか

雨さえ降らなければ窓に近付くことはなかった。そうすればレナに気付くことも、レナの〝それ〟に気付くこともなかったのだ。

レナの口の動きが、ずっと同じ形で反復している。

それは食っているのではなく繰り返しているのだ。

何て? しゃべっている? 俺に? 何て

なぜ俺はガラスにびったり貼り付きそれに目をらしてしまうのだろう。

「もしもし? 前原さん? 聞こえてますか? もしもーし。」

「ごめんなさい。」

「え? 前原さん?」

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、」

「もしもし? 前原さん!? どうしましたか!?」

レナはこの土砂降りの中、まだ謝り続けているのだ

俺の中のもうひとりの自分が、右腕を素早く振り、カーテンで外界を遮った。

だがそんなことでは、レナの繰り返す謝罪の言葉が俺の耳を離れることはない。窓ガラスとカーテンを抜け、染み込んで、俺の耳にまで届くのだ。この突然の土砂降りの音ですらそれを搔き消せない。布団の中に逃げ込んでも、まだ追ってくるのだ

ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい

許してやったら、それを許してくれるのかよ!?

やめてくれ、やめてくれ、やめてくれ、やめてくれ

ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい

くそぉ!! 何で俺が許さなくちゃならないんだよ!! むしろ許してほしいのは俺の方だろ!? 俺の何が許されないんだよ!! 俺は絶対に殺されないからな!! 俺が許されないなら俺だって許さない。許さない、許さない、許さない、許さない、許さない、許さない、許さない、許さない!!

「前原さん? 聞こえてるなら返事をして下さい。もしもし、もしもーし!!」

セブンスマートにて

セブンスマートは市内にある酒類食料品の安売量販店だ。

綺麗なデパートやスーパー等とは違い、外見はバラック小屋の寄せ集めにしか見えないし、店内もお世辞せじにも綺麗とは言えない。倉庫でそのまま小売も始めたとでも言うようなお店だった。

でも、そういうところで経費をけずっているというのがアピールなのか、豊富な食料品や生活用品はどれも格安で、近隣の主婦たちに大好評だった。

品揃しなぞろえの中には、怪しげなコピー品、包装が汚れたドロップアウト品もたくさんあり、質の面では少々胡散臭うさんくささもあったが、安くたくさん買いたいという主婦たちにはそれはどうでもいいことのようだった。それに、そこいらのスーパーではちょっと見かけられないこの胡散臭さが、むしろ面白く感じられた。

「なぁに、圭一。こんなにたくさん! 全部違う種類にすることはないでしょ!?」

だから、カップラーメンの種類もとにかく豊富。有名どころから聞いたこともない物、ては日本語すら書かれていない海外の物までとにかく色々あるのだ。だからそれらをかたぱしから味わってみようと、色とりどりのカップ麵をどっさりとカートに載せたんだ。

「最近のカップ麵は凝ってて種類も多いんだよ。どれも一通りは食ってみたいし!」

半ばわがままだとはわかっていたが、一応はと思っての抗議だった。

「圭一。箱売りしてるのにしなさい。安いから。」

親父が渋る。まぁこういう展開は読めていたし、親父にダメだと言われたらどうしようもない

「それじゃ一種類しか食えないじゃん! 飽きちゃうって!」

形式だけの抵抗だ。心の中では早々に諦め、どのラーメンの箱を買うか迷っていた。

「決められないならお母さんが決めちゃうわよ。」

そう急かされても困る! 手早く目当てのラーメンの箱を探しに行く。そして選んだのがこれだった。

「豚骨ショウガ味、デカカップ? ねぇ圭一、もう少し普通のにしない? 醬油しょうゆ味とか塩味とか。」

「豚骨はうまいんだよ! 大盛りだけど大味ってわけじゃないし!! 母さんが選ぶとつまんない種類ばかりで面白くないんだよ!」

回想の世界の俺が、自らの選択したラーメンの正当性を主張している

この、すでにラミネートでパッキングされてしまった、終わってしまった時間の世界で後ろを振り返るなんてことができるわけがない

だから俺にできるのは、この時間の俺の視覚と聴覚、気配をさらに鋭敏えいびんにすることだけだった。

どんなに視界内を探しても店内にレナの姿は見つけられない。時間をさかのぼらせて探す。だがもちろん見つけられない。

では俺の視界外、死角から俺をうかがっていた? 聴覚や気配を遡り、探りなおす。

他の買い物客の気配。どれも雑多ざった好き勝手に動いている。じっとうかがう者もいなければ、俺の背後をつけ回す気配もない。

ない。ないはず。多分ない。いくら無警戒な当時の俺でもぴったり後ろをつけられれば絶対に気付くはず。多分という曖昧な表現を使いながら、絶対という矛盾した形容詞を使ってしまうことに苦笑する

その時、ぞくりとして時間の再生を止めた。

確かに後ろに影の気配があったからだ。

それは例えようもない恐怖だった。

本当の俺の後ろに現れた気配なら、振り返って確かめることもできる。だが、すでに終わってしまった時間の世界にいる俺には振り返ることはできない

そんな恐ろしい影を背負いながら俺は嬉々ききとして店内を走り回り、カップ麵の箱探しをしていた

お袋への悪態をつきながら、インスタントのコーナーを駆け回る俺

だがその背後には常に気配がぴったりと。影のように付きまとっていたのだ。

それを確かめようもない今になって自覚することがこれほど恐ろしく、おぞましいものなのか

終わった時間の世界を俺が嬉々として走り抜けている。

段ボールを抱えて。パタパタと。だが、その足音はよく聞きなおすとぺたぺたという、俺の足音以外の何かを確かに含んでいた。

パタパタパタ。ぺたぺたぺた。

パタパタ。ぺたぺた。

パタパタパタ。ぺたぺたぺた。

俺が走るのとまったく同じように、そのぺたぺたというまるで素足すあしのような足音が、俺の後ろをつけていた。

終わった時間の世界を俺が嬉々として走り抜けている。

だがそれは聞こえていないから。

いや。聞こえていたからこうして思い出せる。聞こえていたが気にしなかった。だから振り返らなかった。だから、俺は振り返られない!!!

終わった時間の世界を、俺はぺたぺたと付ける足音にずっと追われている。

もっと早く走って逃げることもできない。

終わった時間の俺は、すでに決められた速度でしか走れない。

振り返ることもできない。

終わった時間の俺は、一度も後ろなんか振り返らなかったから。

そして、両親のもとにたどり着き、会話を始めるのだ。影のような気配を背負ったまま。

俺が動かないから、影も動かない。だから音がしない。それだけのこと。

ぺたり。

その時、俺は一歩も歩かずに両親と会話をしていたはずだった。

立ち尽くしたままだった。間違いなく。

なのに、ぺた。と音がした。

そんなはずはない。俺が三歩駆けたら、三歩追う。それがルールのはずだろ

もうそれ以上は音はしなかった。

その時、世界中がブツンと停電になった。突然の真っ暗闇だった。

もう回想の旅は終わりだ。今日はもう眠い。やめにしたい。誰か明かりを点けてくれ。

だが体は動かない。終わった時間の世界に縫い止められたように。

ぺた。

全身の毛が逆立つ。

こんなバカな!? さっきからルール違反ばかりだ!! 俺は歩いてない! だからお前も歩いちゃだめなんだ!! 俺は動けない! だからお前も動けないんだぞ!! ルールを守れッ!!!

ぺた。

なのにもう一回、その音が暗闇に響き渡った。

後頭部の髪の毛がチリチリとざわめく。

髪の毛が触れるか触れないか、というくらいすぐ後ろに、来ているのだ。

後ろの気配が動けるのに、どうして俺は動けないんだ!?!?

すぐに気付いた。俺は動けるのだ。怖くて振り返れないだけなのだ。

振り向けるのは今しかない。終わった時間の世界では絶対に許されぬ行為。だが今、振り返らなければ!!

体中の全細胞ぜんさいぼうが、許されざる行為を止めようと、毛穴という毛穴に針を突き立てたような痛みで訴え始める

振り向いてやる! 振り向いてやる! 怖くなんかないぞ!! 振り向いてやる! 振り向いてやる! 怖くなんかないぞ!!!!

声に出せぬ、胸の中での雄叫おたけびだった。

ぉおぉおぉおおおおおぉおぉおおぉ!!!!

後ろを振り向いた。そこには、初めそれの意味はわからなかった。

え、え?」

これってえ?

自分の目の前の状況を、まるで人の口がリンゴをかじって汁をすすりその味を理解して初めてリンゴであることを知るように脳がリンゴを食べ始める。しゃりしゃりと咀嚼そしゃくし始める。汁を啜りリンゴであることを知る。目の前の光景を、理解する。

つまり俺の目の前のそれは、

ぎゃああああぁあぁあぁああああぁあぁああぁああぁあああぁあぁぁぁ