ひぐらしのなく頃に 鬼隠し編
第十一回 6月24日(金)
竜騎士07 Illustration/ともひ
ゼロ年代の金字塔『ひぐらしのなく頃に』の小説が、驚愕のオールカラーイラストでついに星海社文庫化! ここに日本文学の“新たな名作”が誕生する!「鬼隠し編 (上)」を『最前線』にて全文公開!
6月24日(金)
これほどはっきりと意識が戻る目覚め方をしたのは初めてだった。
仕掛けた目覚ましが鳴る直前の五時五十九分。…自身の体内時計の正確さに驚く。
寝る前に登校の準備は全て済ませておいた。昨夜の就寝前から全ての準備は万端だったのだ。
手早く着替え、ひと気のない階下に降りていく。まだお袋も寝ているようだった。…朝食も弁当も用意がない。昨日、一方的に明日は早いと告げただけだから仕方ないのか。
食パンとジャムを並べ、あとインスタントのココアを付け、何とか朝食の体裁を整えた頃、もぞもぞとお袋が起き出して来た。
「…あら圭一、今日は早いのね。……学校の行事か何か?」
「別に。」
そっけなく返事をし、パンを二枚胃袋に収めると俺はカバンを摑み立ち上がった。
「もう行くの? お弁当は? もうちょっと待ってくれないとできないわよ。」
弁当ができるのを待っていると、いつもと変わらない時間になってしまう。そうすれば、途中でレナや魅音に出くわす率が高くなる…。
そう。今日からはひとりで登校するのだから。
「今日はいいよ。」
「じゃあお昼はどうするの?」
「抜け出して店で菓子パンでも買うよ。」
「そう? …じゃあこれお昼代ね。ちゃんとレシート持ってくるのよ。」
お袋から千円札をもらい、それを無造作にポケットにねじり込む。
「ずいぶん早いけど、レナちゃんたちもこんなに早いの…?」
「いや。俺だけ。」
「…レナちゃんには早く出るって伝えてあるの?」
……そんなことまでいちいち聞かれる筋合いはないだろ…? いちいち説明しにくい質問攻めに、俺はうんざりとした顔を返した。
「レナが来たら、俺は先に行ったって伝えてよ。」
「ちょ、ちょっと圭一!? 待ちなさい…!」
両親を信用しないわけじゃない。…だが頼りにもならないのも事実だ。
俺の助けにならないなら…せめて関わり合いにならないでいてくれ。その方が安全なんだから。
お袋の耳障りな声を、扉をぴしゃりと閉じて遮る。外はもうセミの声で満たされていて、今日という現実が再び始まったことをまざまざと教えてくれていた。
俺は転校してきてから初めて経験する、たったひとりの通学路に足を踏み出した。
今まではいつも同じ時間に同じ場所を歩いていた。だから、会う人もいつも同じところで会っていた。
だが今日は違う。会うはずの人に会わず、いるべきところにいるべき人がいない。
もちろん、いつもの待ち合わせ場所にレナはいなかったし、魅音との待ち合わせ場所にも誰もいなかった。
木々の影の長さも朝の空気も日差しの強さも、俺が良く知っている朝のそれとはまったく違う。
それは紛れもない違和感だった。
雛見沢という土地が用意したシナリオを俺が破ったため、俺を騙すために配置されている配役が間に合わなかった……、そんな印象を感じずにはいられなかった。
「…あぁら圭一くん。今朝は早いわねぇ。みんなで早朝から待ち合わせ?」
話しかけてきたのは、いつもあぜ道を散歩していてすれ違う人だった。……名前は…えぇと……忘れた。…もちろん、すれ違う場所もいつもと違う。
「今朝は早くに目が覚めちゃったので…気分転換なんです。あまり気にしないで下さい。」
適当にはぐらかすことにする。
「レナちゃんや魅音ちゃんはどうしたんだい? 今日はひとりなの?」
「えぇ、…まぁ。」
お袋にされたのと同じような問いかけをされる。だからお袋にしたように、曖昧に味気ない返事を返した。
…いちいち人に会うたびに、レナたちの同行を聞かれるのは面白くなかった。
もっとも、無理もないことなのかもしれない。…あれだけ長い時間、いつもいつも一緒に、仲良く過ごしていたのだから。
俺だって、気を許せば今でもみんなとは仲、……………………。
…よせ圭一。それ以上は考えるな。
そんな甘さがどれほど危険か、昨日一日ずーっと考えたじゃないか…。
パッパッパーーッ!!!
突然の車のクラクションに驚く。
いくら考え事をしていたにしても、そのクラクションはあまりに俺の至近距離だった。背後より高速で迫るその無機質な巨体の接近に、俺はあまりに無警戒だったのだ。
後ろを振り返ったときには、その大型のワゴン車の巨体はすぐそこにあった。
歩行者を避けるために逆の路肩に寄る車はいくらでも見かけるが、この車は逆だったのだ。
それはまるで、反対の路肩に誰かがいて、それを避けるためにこちら側にはみ出てきたような……そんな感じだった。
そんな平和ボケした思考の遅れはもっともっともっと大切なことに気付くのを遅れさせる。
眼前に迫ったその巨体。……俺は「轢かれる」ッ!?!?
瞬間的に頭の中に痛いくらい冷たい液体が満たされる…!! その瞬間、目の前の光景、いや、時間が凍り付いた。
その無音の凍った時間の中で、俺は避ける術もないくらい眼前に迫ったワゴン車と、後ろに振り返るために半身をねじった無様な姿を見比べた。
こんな体勢では飛びのいて回避するなんて芸当はできるわけがない…。
気を許せば、すぐにでも凍った時間は動き出し、この間抜けな姿のまま俺を弾き飛ばすだろう。
上体を路肩の田んぼに反らすんだ。…うまく反らせば、サイドミラーに殴られるだけで済むかもしれない…! そう思った瞬間、凍った時間が車の爆音で打ち砕かれた。
サイドミラーが俺の肩を殴り飛ばし、俺のねじれた体勢をそのままぐるぐると、コマのように回転させて弾き飛ばす…ッ!!
ドッパーン!!!
きりもみ状態で吹き飛ばされた俺は、路肩の泥田に叩き込まれていた。
全身泥まみれのびしょ濡れ…!! だが、あの瞬間に選べた選択の中では一番のものだったに違いない。
泥まみれだったが、車にはねられたことを思えば限りなく無傷に近い状態だった。
何しろ、田んぼから起き上がり停車しているワゴン車を睨み付けて馬鹿野郎と怒鳴りつけるだけの余裕があったのだから。
俺のその様子を見届けたのかどうなのか、ワゴン車は急発進し逃げ去っていった。
「待てよクソ!! これって……轢き逃げって言うんじゃねえのかよッ!?」
悪態をつかずにはいられない。身体的ダメージよりも全身泥だらけによる精神的ダメージの方がはるかに大きかったからだ。
俺は泥田の中をどっぷんどっぷんと歩き、道路に這い上がる。
「これって犯罪じゃねえのかよ畜生…!! くっそう!! 絶対に見つけて訴えてやるからな!! この狭い村の中で、ワゴン車なんて探せばきっと見つかるんだからな…!!」
今、俺がいた道は両側は田んぼで車一台がようやく通れるくらいの細いものだ。
歩行者を追い抜けるどころか、アクセル全開で走り抜けるような道では絶対にない。
しかも今の車は追い抜く時、ただでさえ狭いこの道で、さらに俺側に寄せて走ってきた…。
…悪態をつきながらも、心の奥で必死に黙殺していた黒い影がもやもやと湧きあがってくる。
……その影は、俺の怒りをじわじわと冷まし、…気付けばまったく違う気持ちが心の中に湧きあがっていた…。
今の、轢き逃げとかそういうのじゃなくて…、……俺を狙ってはねようとしてたんじゃないのか…?
思い出してみると…少し前から俺の後ろをずっと車が、徐行でついてきていたような気がする。
そう、さっき散歩中の人と別れたくらいから…ずっとのような気がした。
俺を追い抜きたいなら、いくらでもチャンスがあったはずだ。普段の俺なら不審に思って振り返っていただろう。
だが…考え事にうつつを抜かし、そんな気配に気付き損ねたことを悔やむ。
そして…道が細くなり、ひと気がなくなったのを見計らって……アクセルを…。
一瞬判断が遅れていたら…笑い事では済まなかったはずなのだ。
はねられたことによる興奮が完全に冷めてくると……俺はようやく今起こったことがどれほど恐ろしいことか…理解できてきた。
あの車は間違いない。俺をはねようとしてはっきりと狙ってきたのだ…。
冷たいどろりとした液体が俺の脳からこぼれ、つつーと俺の背中を伝って滴り落ちていく。
……ある種の錯乱状態に陥りそうな自分を、ぎゅっと自制する。
本当にただの偶然の事故の可能性だってある。……落ち着け圭一!! だけど甘えるな圭一!! あんな弛んだザマじゃ次には殺されてるぞ!!
常に警戒するんだ。隙を見せちゃいけない!! もしも敵に俺を殺すつもりがあるなら、次はもっともっと確実な方法で襲ってくるだろう。その時にも今のようなザマだったなら……!!
…俺はこの泥まみれを自らの甘さの代償として受け入れることにする。
泥まみれなだけでまったくの無傷。捻挫とかもしなかった。こればかりは不幸中の幸いと言えるだろう。
今度こそ用心深く、俺は歩き始める。もう微塵の油断もしない。
俺は今までレナたちだけを疑ってきた。…いや、レナたちを疑うことによって、レナたち以外に敵がいないと信じようとしてきた。
大石さんが言ってたじゃないか…。…犯人は村ぐるみの可能性があるって…!!
そんな状態に陥ってまで、俺は日常の生活をしなければならないのだろうか…? 自宅に閉じこもっているのが一番安全ではないのか…?
だが…俺が日常を放棄した途端に、周り中全ても日常を放棄してくるのではないだろうか…。
それは余りに恐ろしい想像だった。
大石さんがしてくれた雛見沢の、まだ鬼ヶ淵と呼ばれていた頃の昔話を思い出す。鬼たちは村中総出で獲物を追い回し、囲んで、食らい殺したという、恐ろしい話。
鬼の狩りは邪魔をしてはいけない。見て見ぬふりをしなくてはならない…。
敵は複数、村ぐるみ。…祟りを妄信する村人たちは俺を助けない。
急に強くなった日差しが俺に軽い眩暈を起こさせた。
………もう何が何だかわからないよ…。
人間の仕業を疑えばオヤシロさまの祟りの影がちらつき…、オヤシロさまの祟りを疑えば人間の影が見え隠れする。
何が偶然で何が恣意的なのか。…誰が敵で誰が傍観者なのか。
いやそんなことよりももっともっと知りたいのは……、なぜ自分が命を狙われるようになってしまったのかだ。
いつかきっと…俺にだってわかるような形で答えが出るに違いない…。
それがいつだって構わない。
……それまで…絶対に死んだりはしないからな……!
それだけが、俺の生き抜こうとする闘志だった。
金属バット
武器となる金属バットは確か体育倉庫の中で見かけたが、扉には南京錠がかかっていて入れなかった。
せめてみんなが登校してくる前に何でもいいから護身用の武器を確保したい…。少し焦りながら校舎の周りをぐるっと回った。
だが見つかるのは角材のようなものばかりで、とても教室に持ち込めるとは思えない。
なら…逆転の発想だ。…教室で探せばいい。教室の中にあるものなら問題ないわけだ。
昇降口の下駄箱には、全員の上靴が入っているのがわかった。早く来た甲斐があった。まだ誰も来ていない。
教室の中に…何があるだろう? バットのような強力な武器があるとは思えなかった。だが今は仕方がない。体育倉庫が開くまでの代用品が必要だ。
…これまでなら、学校にいる間は襲われないだろうというある種の甘えがあった。だが…そんな甘えた考えではもはや俺の身は守れないのだ。
ヤツらは少しずつ、俺の生活の不可侵だった部分に踏み込んできているように思う。
…やがては…自宅すらも安全ではなくなるかもしれない。……それはとても恐ろしい考えだ。…だが、最悪の事態から目を逸らすことの方が、かえって恐ろしいことのように思える…。
とにかく生き残るんだ。…生きてさえいれば、この理不尽の迷宮から抜け出すことがきっとできるのだ。………きっと。
教室の探索はすぐに行き詰まった。当たり前だ。教室に武器になるものが転がっているわけがない。
有事の際には自らの椅子を振り回すくらいしかないのだろうか…。
そんな俺の目に、みんなの私物入れと化したロッカーが映った。魅音が部活の備品と称してゲームを大量にしまい込んでいるロッカーもそのひとつだ。
クラス全員の分がずらーっと並んでいる。もちろん、俺のロッカーもある。
そうだ、俺のロッカーの中にはジャージがあったっけ。…この泥だらけの様子ではさすがに変だ。あとで着替えておこう…。
…その前に武器だ。誰かクラスメートが来てしまったらロッカーが漁りにくい。
手早く、端のロッカーから順に開けていく。
中身はほとんどが体操服等の着替えや教材、傘などだった。……傘か。…もしも何も見つからなかったら武器にしよう。
「………………お。」
ろくな物が見つからず諦めかけた時、開けたロッカーの中に望みの物があった。
それは紛れもなく金属バットだった。もっとも期待していたものだ。使い込んだものらしくだいぶ汚れてはいたが、実用には申し分なかった。
かび臭いロッカーの中には他にも野球チームのユニフォームも吊るしてあった。きっとこのロッカーの生徒は少年野球のチームか何かに所属しているのだろう。
……だとしたら、そいつに返せと言われてしまうだろうか。
その時、廊下をぞろぞろと騒ぎながら歩いてくる子供たちの声が聞こえてきた。その中に混じって、沙都子と梨花ちゃんの姿もあった。
「……みー? おはようございますです。」
「あらあらあら、今朝はお早いですわね圭一さん。」
握っているバットをさりげなく背中に隠す。
「な、何なんですのその身なりはー!? 泥だらけでしてよ!?」
「あ、あぁ、まぁちょっとあってな。すぐ着替えるから勘弁しろ。」
そう言って、さっそく脱ぎ始めると想像通り沙都子が赤面しだす。
「レ、レディーの前でお着替えなんて、躾がなってませんことよー!!」
「着替えをじーっと見てるレディーも躾がなってないと思うぞ。男子は更衣室がないんだから諦めろ。」
沙都子は呆れたふりをすると、赤面したまま廊下へ出て行った。
逆に梨花ちゃんは俺の着替えようとするところをじーっと見ている。
「…梨花ちゃんもレディーなら、着替えを見てるのはよくないと思うぞ。」
「ボクはレディーじゃないですからいいのです。」
わざと拗ねるような表情を浮かべて、俺を上目遣いにじっと見つめる。
「……じゃあ梨花ちゃんも今からレディーだ。」
「レディーなら仕方ありませんです。にぱー。」
梨花ちゃんは自分もレディーと認めてもらったことに満足すると、沙都子を追って廊下へ出て行った。
ほっと胸を撫で下ろした時、梨花ちゃんが足を止め、振り返った。
「……圭一は野球を始めますですか?」
梨花ちゃんが、背中に隠している金属バットに気付いたようだった。
「あぁ…ちょっとさ。…体がなまってさ。ちょっと素振りでも始めようかなってな…。」
「健康に気を遣うのはとても良いことだと思いますです。」
幼そうな見かけによらずババくさいことを言う。
それだけを言って出て行こうとする梨花ちゃんは足を止め、再び振り返った。
「そのバット、なくさないで下さいね、なのです。」
人のロッカーから拝借したものだということはバレているようだった。でもロッカーの扉には名前は貼ってなかった。
誰のバットだかわからないが、文句を言われるまでは拝借させてもらおう。体育倉庫が開くまでの短い間なのだから。
俺は手早くジャージに着替えると、時計を確認した。早く来ただけあり、まだ始業までには余裕がある。
俺はバットを片手に校庭へ出ることにした。もちろん素振りのためだ。
俺がいつもバットを肌身離さず、素振りをしている、という既成事実を作らなければならない。
いつの間にか日差しは強くなっていた。
登校してくるクラスメートたちを尻目に、俺は校舎脇の日陰を陣取る。
別に俺は文系じゃないが、かといって体育系でもない。
いきなり素振りなんか始めたら筋肉痛でも起こすかもしれないな。…一応、準備体操から始めるか。
…その様子はとても健康的でさわやかそうに見えるに違いない。…俺の内心とは裏腹に。
金属バットを握り締め、軽く振る。…手ごたえは決して軽くない。だがその分、いざという時に頼もしい武器となるだけの重みがあった。
もちろん、武器として使う時が訪れないことを祈るしかない。
…これを持つことによって、俺への何らかの攻撃が躊躇されるかもしれない。その効果に期待したかった。
「あれぇ!? 圭ちゃん!?!? あんた何やってんの!?」
素っ頓狂な声が浴びせられぎょっとした。登校してきた魅音とレナだった。
「わ、圭一くん、…野球部だよ? 野球部だよ??」
「先に行ったって言われて驚いたけど……圭ちゃん、あんた何やってるわけぇ?」
「見てわからないかよ。素振りだよ甲子園だよ。別にダイエットでもいいぞ。」
「…ダイエットって圭ちゃん、そんなに太ってたっけぇ?」
「あぁ知らなかったろ。実は三段腹なんだ。モチモチでタプタプなんだぞ。」
「…モ、モチモチでタプタプ……。」
「……レナ。変な想像しなくていいぞ。」
レナの下品な想像をかき乱すため、ぐしゃぐしゃと乱暴にその頭を撫でてやる。……その頭は、日光を受けてとても温かかった…。
「じゃあまぁ、頑張って県大会を目指してちょうだいよ。おじさん、応援してるわ。」
「…県立大島が強いらしいよ。左腕の亀田くんがすごいんだって。…頑張ってね!」
なんだかいつの間にか球児にされてしまったが、まぁいい……。
確かに俺が本当に出場したら甲子園なんてオチャノコサイサイだろう。
何しろ、ピッチャーもキャッチャーも俺ひとりなのだ。自分で投げて、投げたボールを追い抜いてキャッチャーに早変わりし、それをキャッチできるだけの超々瞬発力があるのなら。
その光景のあまりのマヌケさにしばし苦笑する…。
それから我に返り、俺は持っていたバットで地面を強打した。
「………くそッ!!! 何笑ってんだよ、俺ッ!!!」
何度も何度も地面を殴りつける。…その度にがつんがつんと伝わる振動が痛かった。
あんな風に微笑まれたら…俺は………俺は…ッ!! 何であいつらといつものように親しげに会話を交わしちまってるんだよ!?
誰にも気を許すなって、誰も信用できないって、そういくら自分に言い聞かせても……あんな風に微笑まれたら……俺はッ!! くそくそ、くそくそくそッ!!
やさしく微笑む仲間たちに魔性が潜んでいることを俺はよく知っているじゃないか!
……でも……やっぱり信じられないよ。
あんな二重人格みたいなことって本当にあるのか…!?
レナが医者で告白したように……オヤシロさまに取り憑かれてたんじゃないだろうか…?
つまり……オヤシロさまという超常存在が実在して、みんなに憑依して俺の命を狙っている…?
あぁ…そうだったらどんなにいいことだろう…。みんなは元からいい友人で、全てはオヤシロさまのせいなのだ…。
「前原圭一の馬鹿野郎ッ!!!!! だからッ!」
そう腹の底から力の限り叫び、思い切りバットを振り上げる。
「…甘えるんじゃねえぇえぇええぇッ!!!!」
渾身の叫びと共に、振り上げた金属バットで何度も大地を叩きのめす。
ひとつ殴る度に、自分の甘さを打ち消していく…。
殴る。忘れろ。殴る。甘えるな。殴る。敵を知れ。殴る。殺されてたまるか。
肩で息をしながらようやく冷静さを取り戻したころ、始業の振鈴が聞こえてきたのだった……。
どうして同じなの?
何かをずっと考え続けているようで、…そしてずっと緊張を強いられているようで。……それは、放送の終わった砂嵐しか映らないテレビを一晩中見せ続けられているような苦行にも似ていた。
それは途中から苦にならなくなり、……気付けば、時計の短針が、目で追えるほどにぐるぐると高速で回り始め…、聞きなれたカランカラーンという音が聞こえてくる。
はっと気付けば、…………それは終業のチャイムだった。
ついさっき、始業を知らせるチャイムを聞いたばかりのように思う。……でも、今日の全ての授業は終わり、いつの間にかカーテン越しに入ってくる日光も、朝日とは違う彩りを添えていた。
全身の緊張が解け、俺は深く息を吐く。
一日中、気を張り詰めているような、眠っているような、どっちともつかない灰色の時間だった。それから解放されたことが心地よくもあり、また学校という神聖な日常が侵されずに済んだという安堵にも感じられた。
だが、だからといってこれからも何も起こらないという保証はないし、明日の学校の安全も保証されているわけじゃない。
おはぎの警告を受けた。今朝は車で襲ってさえきた。……あれさえも警告なら、……さらにその次は何が訪れるというのか…? 俺はそれに、永遠に怯え続けていかなくてはならない…。
いつまでこんな気持ちで暮らさなければならないのだろう…。耐えるだけで、光明の見えない責め苦は、俺を少しずつ痛めつけている。
「圭一くん! やろやろ! 部活の時間なんだよ。だよ!」
突然のレナの声に俺は我に返った。
「ほらほら圭ちゃん、ぼーっとしない! 机を寄せて寄せて!」
みんなはまたいつものように、机を向かい合わせている。そう、楽しい楽しい部活の時間なのだ。
だが俺はそれに加わるつもりはない。部活に加われば帰りは遅くなり、…寂しい道をレナや魅音と帰らなければならなくなる。………そこで、……周りに誰もいなくなった時、どんなことを言われるのか、告げられるのか、警告されるのか、……それが恐ろしかった。
だから俺は机の中身を乱雑にカバンに詰め込み帰り支度を始める。
俺は先に帰るよ、という言葉を出すことができない、自分なりの女々しいジェスチャーだった。
「……なんだよ圭ちゃん。今日も直帰なわけぇ…?」
魅音の口調は露骨に不満げだった。
「…気分が乗らないんだ。しばらく放っといてくんないかな。」
俺の口から出た言葉は、魅音の不満げな様子に負けないくらい不満げな声色だった。
……空気が乾いた気がした。
沙都子が何か言おうとしたが、その空気を嫌ったのか、言葉を飲み込むと黙ってしまう。
誰も何も言わない。引き止めない。…だから俺は教室を出て行ってもいいはずだった。だが四人の眼差しはまるで昆虫標本の虫ピンのように、俺をこの場に縫い止めていた。
その乾いた空気を破ったのはレナだった。
「……………圭一くん、…やっぱり女の子と一緒に遊ぶのなんか、…嫌だったかな。……かな。」
胸の内に痛みの走る嫌な声色だった。
この痛みで俺が死ねるなら、痛みを感じてしまう甘えた自分をいっそ殺してほしかった。
俺は胸元を搔きむしり、俺を縫い止めている虫ピンを乱暴に引き抜く。
「そういうわけじゃねえよ…!」
それ以上はどんな言葉を続けても、自分も傷つけてしまいそうだったのでぐっと飲み込んだ。
そこで切り、俺は踵を返して教室を出て行く。
もう、その背中には何の言葉もかけられることはなかった。
学校から自宅までの短くない距離は、退屈なものだったが、俺は気を許すことはなかった。
ぎゅっと握り締めた金属バットの柄はすでに汗でぬめっている。それに気付き、俺はいざという時、汗で滑らないよう袖で拭い取った。
今朝の一件以来、俺は車の気配には敏感になっていた。
だから歩きながらもじっと耳を澄ませ、不穏な音・気配の接近を探っている…。
だからこそ気が付いた。
…………ひたひた、……ひたひた。
それは紛れもない足音だった。その足音は少し前から俺をぴったりつけていた。
気配から察するに…………それはひとりだった。…だが油断する気はない。
今朝の車のように、俺を襲うのに都合のいい場所にたどり着くまでつけてくる気だろうか…?
だとしたらこのまま歩き続けるのは得策ではない。
俺は歩みを止めると、後ろを振り返った。
木々でうっそうとした林道は、まるで初めから誰もいなかったかのように静まりかえっている…。
だが俺は騙されない。確かに足音がずっとつけてきていたのだ。
そして俺が立ち止まると同時にその足音も止んだ。…つまり、後続者は俺との距離を維持したいのだ。それは紛れもなく、俺を意識している証拠だった。
息を殺し、その気配が焦れて動き出すのを待つ…。
木々がそよ風にざわめく。ひぐらしも不愉快に合唱し、俺の集中力を乱そうとする。
五分は経ったのか。それとも三十分はこうしているのか…。
……窒息しそうなくらい息がつまり、焦れたのは俺の方だった。
その木陰で息を殺してこちらをうかがっているのは間違いないのだ。…なら…こっちから仕掛けてやる…!
俺はバットの柄を握り直す。…いつでも振り下ろせるよう、それを肩に担ぎ上げた。
「…おいッ!!! いるんだろ、そこにッ!!!」
力の限り精一杯、木陰でやり過ごそうとするそいつに怒鳴りつけた。
だが…その木陰の気配は微動だにしない。
俺が見つけるその瞬間まで、自ら正体を明かすつもりはないのか……。くそ…!
「わかってんだよッ!!! そこにいるのはよッ!!!!」
もう一度怒鳴ったが、それでもそいつは動かなかった。ならこっちから近付いてやる!!
慎重に警戒しながら、一歩一歩近付いてゆく…。木陰を大きく回りこむと…そこには人影があった。その人影は……小動物のように縮こまっていた。
「………レ、……レナ…!」
…レナは俺に見つかったことに気付くと観念した表情を浮かべた。
だが申し訳なさそうにするだけで、決して口を開くことはなかった。
「……何か俺に用かよッ…!」
沈黙を許さない俺は、間髪容れずに怒鳴りつける。
「べ、別に……その………えっと…、」
レナは目に涙を浮かべながら狼狽する。だが俺をつけていたことは明白だった。
「部活はどうしたんだよ。」
「………け……圭一くんがお休みしたから…レナもお休み……。」
「関係ないだろ! 俺なんか気にしないで遊んでろよ!」
「…だ、…だって……圭一くんのこと…心配で……。」
ここ最近の自分の振る舞いを思えば、変に見えても不思議はあるまい。……だからレナが気を遣って……、という流れは一見自然なように思えた。
……だが、俺は安易に気を許さないよう気をつける。もう、騙されたりはしない。だったらこんな尾行するような真似はしなくていいはずなのだ。…下校する俺に声をかけ、堂々とついてくればいい。
だがレナはそうしなかった。
常に俺と一定の距離を保ち、歩速を合わせていた。あまつさえ足音まで合わせ、その気配を巧みに隠そうとしていた。
そして俺が気配に気付いたことを気取ると今度は息を殺し、こっそりと隠れてやり過ごそうとしたのだ。
慈悲を請うような表情を弱々しく浮かべているが、レナがしていたことは間違いなく………尾行なのだ。
「もうついてくんなよ。」
「は、……はぅ…。」
俺はレナを睨み付けたまま、ゆっくり歩き出す。
少し歩いたところで、レナが俺の制止を無視して歩き出したので、もう一度怒鳴りつけた。
「ついてくるなって言ってるだろッ!!!」
「ひぅッ!! ………だ、だって! …レナの家も同じ方向……!」
「じゃあレナが先を歩けよ!! レナが見えなくなったら俺も歩く。」
バットを乱暴に振り、レナに前を歩くよう促した。
「レ、…レナは…圭一くんと一緒に……、帰りたい…な……。」
哀れみを誘うような表情を浮かべながら、俺の胸の痛いところを知り尽くした声色で、レナは細く鳴いた。
……それが無性に腹立たしかった。噓だからだ。一緒に帰りたいなら声をかければよかったのだ。今さらそんな出任せを…ッ!! 俺の心を搔き毟るような声色をわざわざ選んで!!
「ご、ごごごご、ごめんなさいごめんなさい…ッ!!!」
俺の煮えくり返るような腹の底が、そのまま表情に出ていたようだ。……俺が何も口に出さずとも、レナは勝手に謝り始める。
「わかったならほら、行けよ!」
バットを振り、先を歩くよう改めて促す。レナはバットと俺を何度か見比べてから、おずおずと歩き出そうとし、また歩みを止めた。
「…早く行けよ。早くッ!!」
「い、行くから! そのバットをやめてよ…!! こ、怖いの…ッ!!」
レナは自らを庇うようにしながら、俺とバットを交互に指し示した。このバットが野球に使うためのものでないことに気付いているのかもしれない。
俺はバットを下ろし、だけれど油断せず慎重に、レナに道を空ける。
「行けよ。…これなら文句ないだろ?」
「…………………………………。」
レナにはもはや抗う術はないようだった。…俺を刺激しないように、おどおどしながら脇を抜けていく。
そのままその後ろ姿を眺めていると、大して歩かない内にぴたりと立ち止まった。俺に背中を向けたままで。
「おい、立ち止まるなよ……!、」
その時、一際強い風がざぁっと吹き、砂粒が顔を激しく叩いた。
目にも砂粒が飛び込み、視界を涙でぐちゃぐちゃにしてしまう…!
俺は左手で目をごしごしとこすり、そのわずかな隙を補うため、右手では闇雲にバットを振り回した。
だが俺のわずかな隙に、レナが振り返って襲い掛かってくるということはなかった。
…いや、…襲い掛かってこないどころか、レナは身動きひとつしなかった。…それはまるで時間が凍ってしまったかのように錯覚すらさせる不思議な光景だった。……だが、通り過ぎた風の軌跡を、レナのスカートが優雅に描き、時間は決して止まっていないことを無言で教えてくれた…。
スカートの波がゆるりと落ち着き、静寂が戻る…。
その時、俺の中のもうひとりの俺が、何かの危機を鋭く警告した……。
……はっとする。…空気の匂いが……変わった…。
いつの間にか、どんな天変地異が起こっても不思議でないような、奇妙な空気で世界が満たされていた。
その空気はまるで透明なコンクリートで出来ていて、俺とレナの二人をこの空間に埋めて固めてしまったかのようだった。
微動だにしないレナ。……俺もその背中をじっと凝視し、動くことができない。しかし、だからといって時間が止まっているわけではない。…確かに時間は経過し、来るべき何かの瞬間までを埋めているだけなのだ。
その静寂を初めに破ったのはレナだった。
とっさに身構える。……目の前のレナが、レナによく似た別人に豹変したような気がしたからだ。
だが……その声は俺のよく知った声で、困惑に満ちた哀れなものだった。俺は不謹慎にも、その哀れな声に安堵する…。
「……あ、あの、そのごめんね! ……そのっ、聞いてもいい!?」
振り返るのすらためらって、レナは必死で声を絞り出していた。…震えながら。
「…なんだよ。」
「あ、…あのね、あのね! ど、どうしてバットなんか持ってるのかな。…かなッ!」
…レナの質問は決して逸脱したものではなかった。…昨日までの俺はこんなもの持ち歩いていないのだから。
「俺が何を持ってたっていいだろ。」
「でも、でも…昨日まで持ってなかったし…! ……ど、どうして突然…ッ!」
「別に突然でもいいだろ。…俺がバットを持ってるとおかしいかよ。」
「だ、だって圭一くん、…野球とかしない人だったでしょ!? おかしいよ…!」
…野球なんかしないのは事実だが、それでも、ここまでおかしいと断言されるほどとは思わなかった。
レナの聞きたいことが今ひとつ見えないが、事細かに説明するのは面倒くさかった。
「…突然、野球がしたくなったんだよ。それじゃおかしいか?」
「おかしいよ…!」
即答され、ちょっとむっとする。
「突然野球がしたくなった。素振りがしたくなったから、バットを持ち歩いてる。それのどこが変なんだよ。」
「変。おかしい。絶対。なんで圭一くんまで…。」
「ぶつくさとうるせえ奴だなぁ。…俺がスポーツに目覚めるのがそんなに変かよ!!」
話を終わらせようと乱暴に凄む。レナへの疑惑が晴れない以上、説明の義務はまったくないのだ。……いや、レナのせいでバットを持ち歩くはめになったとすら言い切れるのだから!
「………ご、ごめんねごめんね…! そんなに怒らないで…!!」
レナは振り返ることもできず、びくびくと謝罪の言葉を並べる。
「さ、最後に一個だけ!! 一個だけ教えて…!!」
「…これ以上、話す気も教える気もねぇよ。早く行けよ!!」
強く怒鳴りつけるとレナがびくっと弾かれたように震えだす。…そのあまりの痛々しい様子に胸がちりちりと痛む…。
怖がっているにもかかわらず、レナは強固に踏み止まっていた。
俺がもう一押し怒鳴りつけようとした矢先に、レナが最後の疑問を口にした。
「な、なんでバットまで同じなのッ!?!?」
「……お前、何言ってんだ…?」
レナの論点がよく見えない。
「だから…ッ、…なんでバットまで同じなのかなってッ!!!」
「何を言ってんだか全然わかんねえよ! もっとはっきり言えッ!!!」
それでもレナは振り返らない。背中を向けたまま、ぐっと息を飲み込んでから、叫んだ。
「だから………どうしてバットまで悟史くんと同じなのッ!?!?」
「悟史…って……………え…?」
思わぬ名前が出、一瞬ぽかんとしてしまった。
悟史ってのは…確か去年転校した生徒だ。………いや、違う。レナは転校したと言っていなかったか? しかし、大石さんははっきり失踪したと言った。
俺の席を去年まで使っていた生徒で、去年のオヤシロさまの祟りで「鬼隠し」にあったと思われる生徒だ。
失踪にいたる詳細は一切知らない。同居する叔母が綿流しの晩に麻薬常用者に殺され、そのしばらく後に忽然と失踪、行方不明になった………、
その悟史と俺が……何だって!?
俺は握り締めたバットに目線を移す。………ひょっとして…。
バットの柄の部分、はっきりと記されていた。
〝北条悟史〟
ぞっとする…。俺が自分の身を守る最後の砦と思って信頼して今日一日持ち歩いたバットが、……それすらも悟史のものだったなんて…。悟史の席に座り、悟史のバットを握り、………そして俺は、悟史と同じように「鬼隠し」にあって消されてしまうのか…?
「…ぁ、…ぁあ。これ、悟史のバットだったんだな。…誰も使ってなかったんでちょっと借りたんだよ。…いいだろそれくらい!」
「そ、…そんなことじゃないのッ!!!」
レナのその言い方はまるで、このバットが触れてはならないものであるかのような…そんな響きがあった。神棚へのお供え物とか、…死者の遺品だとか…、そんな感じの。
切り返せず戸惑うだけの俺を待たず、レナは続ける。
「…悟史くんの時と…どうして……どうしてそんなにまで同じなのッ!?」
レナが言っているのは、このバットが悟史の物だという以上の何かだ。
「…悟史くんもそうだった!! 野球チームには入ってたけど…本当は野球なんか好きじゃない人だったのに………!」
「それが俺とどう関係が……、」
「悟史くんも、…ある日突然バットを持ち歩き始めたのッ!!!! チームに入ってただけで…スポーツなんかしない人だったのに…!!」
それがどうした…! そう言おうとして口をつぐむ。…よ、よく聞け圭一! レナは何か重要なことを告げようとしている…。
「悟史くんもね、…ある日突然、ひとりで登校するようになったの。圭一くんみたいに!!! そしてね、ある日突然、素振りの練習を始めたの。圭一くんみたいに!!! そしてね、ある日突然、バットを持ち歩くようになったの。圭一くんみたいにッ!!!! そしてね、ある日突然…………ッ、」
そこでレナは言葉を飲み込んでしまう。……どうして!? その先が知りたいんだ!
「………そしてある日突然、…何だよ!? 何なんだよッ!? おいッ!!!」
俺がいくら問い掛けようとも、もうレナは沈黙を守るだけ。…その無言の背中が無性に薄気味悪かった。
俺が騒ぐのをやめると辺りに静寂が戻る。…そしてようやく、話の全容が飲み込めた。
俺の一連の行為が…悟史のそれとまったく同じだと言っているのだ。
それは…どういうことだ!? 俺は今の今まで悟史のことなんか忘れていた。
悟史を意識した覚えは一切ない。それどころか、悟史が何をしてたかなどまったく知らないのだ。
俺が今日取った一連の行動は、考えに考えた末に取った俺のオリジナルの行動のはずだ。………それが…悟史とまったく同じだと言うのか…???
じゃあ悟史は……、いや…そんなことよりも…!!
俺と悟史の経過が同じ以上、その先も同じになる可能性は極めて高い…??
「レナ、言えよッ!! …ある日突然、…悟史はどうしたんだよッ!?」
レナは知っているのだ…! 悟史がどうなったのかを。…いや、過去の男のことなんかはどうでもいい! レナは…これから俺がどうなるのかを…知っているッ!!!
「こ、答えろよレナ!! 悟史は…どうしたんだよッ!!!!」
そう言いながら、乱暴にレナの肩を摑み、無理やりこっちを向かせた。
強引にこちらを振り向かせた瞬間、俺の全身を電気が走り抜け、直前までの強気が電球が切れてしまうくらいあっさりと、引いて消えた…。
「言わなかったかな。圭一くん。」
それは、知らない誰かだった。少なくともたった今まで話していた竜宮レナでは断じてない。レナにそっくりなのに、レナじゃない、……そう、あの日に会った、あの、誰か……。
その声には、ほんの数秒前まで宿していた怯えや激情は一切ない。…俺は安易に振り向かせたことをこれ以上ないくらいに後悔する…。自分で、開いてはならない扉を開けてしまったのだ………!?
あの……冷たく針のように突き刺さる眼差しに、鋭利な刃物の切れ込みを思わせる笑みを浮かべた口元……。背筋が凍りつき、思考すらも霜の中に閉ざしていく。
レナの両の眼に貫かれ、俺は目線すら逸らせない。……そしてあの日の恐怖を思い出させるように、レナはその息がかかるくらい間近に顔を寄せた。
俺の視界の全てがレナで埋まる。……そして…切れ込んだ口元をさらに鋭利に、孤月のように切れ込ませ、にぃ…と笑った。
「言わなかったかな。圭一くん。」
ふた呼吸ほど置いて、レナがもう一度同じ言葉を繰り返す。
「悟史くんはね、…〝転校〟しちゃったの。」
「て、……転校って……なんだよ…。」
…俺の辞書の中に、レナの言うような意味の転校という単語はない…。レナの言う転校という言葉は、……俺が知るその言葉より、もっともっと不吉な何かを宿している…。
喉も唇もからからに乾き、相槌を打つこともできなかった。ただ、ごくりと唾を飲み込むことができるだけだ。……レナにはそれが頷いたように見えたようだった。
俺をその眼差しから解放し、すっと二、三歩下がった。
その途端、俺のひざがかくんと抜け、だらしなく両ひざを地面につける。
……感情のない笑みを浮かべたレナと、その前に呆然とひざまずく俺……。それはきっと異様な光景だったに違いない…。
レナはそんな無様な俺を、嘲笑いもしなければ手を差し伸べもしなかった。
だが、俺の眼をただ静かにじっと射貫き、立つことも逃げることも許さない。
金属バットは確かに俺の手にあった。
だが……、蛇に睨まれた蛙のような俺には何の役にも立たない。
脂汗が全身を伝い、ぽたぽたと零れ落ちるのがわかる…。
「…しないよね? 圭一くんは。」
…無限とも思える時間の檻から、ようやくレナは俺を解放する。だがその問いかけは主語を欠いた、とても抽象的なものだった。
ごくりともう一度唾を飲み込み、その問いの意味を尋ねる。
「……な、…何をだよ…。…お、……俺が、何をしないって………?」
「〝転校〟」
二重人格?
民放のバラエティ番組が不謹慎な事件を取り上げ、面白おかしく報道することは今も昔も変わらない。
「よく映画などに登場しますが、簡単に言うとどのようなものでしょうか。」
「複数の人格を持つことによる逃避と考えられています。」
「多重人格は逃避のひとつなのですか?」
「左様です。そのメカニズムは完全には解明されていませんが、精神を守るために脳が行なう防御作用のひとつではないかと考えられています。これはとても自然な現象で、健常者であっても日々無自覚に行なっているありふれたものなのです。」
「例えば、受験を間近に控えた学生が、受験をストレスに思うがあまりに受験を忘れて遊びながら過ごすという逃避は、わりとよくある、現実逃避のケースだと思うんですけど、これも多重人格に入るのですか?」
「そうですね。受験というストレスを持たないもう一人の自分を作り出しているわけです。例えば、家と職場で振る舞いの違う人っておられるでしょう。家では怖い奥さんの尻に敷かれて従順だけれど、職場では部下を怒鳴り散らす鬼上司で通っているという方です。これは逃避とは違いますが、環境に応じて自分にもっともストレスの少ない人格を作り出し、それらを使い分けているケースと言えるでしょう。多重人格は言葉だけが独り歩きしていますが、非常にありふれた脳の防御作用であることを誤解しないでいただきたいのです。」
「なるほど。それの常軌が逸してしまうと、世間一般で言われる多重人格というケースになるわけですね?」
「…うーん、一概には言えませんが。…そう提唱する説もありますし、否定する説もあります。諸説紛々です。多重人格は脳の防御作用であるとする説。それから脳や心の障害であるとする説。ある種の欲求行動ではないかとする説。たくさんあります。」
「では精神医学の世界ではまだ、多重人格というのは解明されていない現象なんですか?」
「残念ながらそうなります。今後の研究が期待されます。」
「でもでも〜、多重人格なんて何だかカッコイイですよね〜! どういう人が多重人格になれるんですかぁ?」
「なれると言いますか…、なりやすいと言いますか…。最近の研究では、遺伝と心因が複雑に絡み合い…。中でも幼少期の虐待が大きく作用するのではないかと言われています。」
「そう言えば、このA君も幼児虐待を受けてるんですよね〜。カワイソ〜…。」
「七つの人格を持つ青年A。ではVTRの続きをどうぞ。…ですがその前にコマーシャル!!」